この教えを受けるためにそれにふさわしい動機を培うことは非常に重要です。動機は何でもよいというわけにはいきません。カーラチァクラ・タントラは短い一生の間にブッダとして完全な解脱を得る手段なのですから、培われるべき動機はすべての魂に多大なる恩恵を与えるために速やかに解脱に到達しようという意図であり、それをもって教えを聴くことです。教えを単に言葉として受け取るのではなく自分自身の心をチェックし、この動機を実際に培うのです。
この教えを受け取るときは単に煉瓦とモルタルでできた普通の家にいるのではなくカーラチァクラの宮殿、宝石と光の素晴らしい宮殿の中に自分を生じさせるように想像します。同様に教えを説く師についてもその通常の外見を排さなければなりません。実際タントラの道の生成の段階を無効にする主なものがこの普通の外見と普通の理解(普通の観念化)なのです。
これを今の状況にあてはめて教師の通常の現われを取り去って彼をカーラチァクラの自然な顕現として生じさせるか、もしくはそういうものとして見なければなりません。同じように教えを受けるわたしたちも自分自身の通常の現われと自分自身という観念を捨て去り、二つの手を持ち華やかに飾りつけられたカーラチァクラのシンプルな形に自分たちを生起させます。
【1】教えにふさわしい器になるための方法
◆普通の道の訓練
修行を進めていくときの第一のポイントはその動機・態度です。偉大なる師ドラクパ・ギェルツェンの言葉を借りれば、
「この生に執着している者は霊的な人ではない。」
ということになります。人はこの人生の事柄に執着するのをやめ、この生を超越した生を見つめなければなりません。
第二のポイントは、存在のサイクルのすべてにおいて生じる快楽や恵みは、何であれ本質というものを持たない本来不安定なものであるということを認識することが大切です。わたしたちは心を快楽と幸運(富)に向けることをやめることによって現世からの離脱を生じさせるのです。
第三に、
「もし自分の個人的な幸福に執着するなら覚醒した心(Skt.ボーディチッタ)は現われない。」
といわれています。つまり自分自身が満足できる状態を求めることをやめて他者の幸福・安寧へと心を向けることが大切なのです。これは実際に実行に移さなければならないことです。
第四に、
「とらわれが起こったら見解(Skt.ドリシュティ)はない」
といわれます。ここでいう“捕らわれ”とは其の存在の観念化を指しています。わたしたちにはものが(わたしたちに対して)現われる、あるいはそれ自体の側から存在しているかのように見えるため、ものが生来的に存在するかのように思っているのですが、実際には真の存在などというものはありません。現象は現象自体の側から生来的に存在するのではなく、むしろ単に観念を負わせられたものとして存在しています。わたしたちが現象を真に存在するものとしてとらえ続けるならば、わたしたちは見解というもの、すなわち真実の見解、中道の見解を持たないことになります。
今わたしが引用した詩句は共通訓練と呼ばれるものの要約ですが、これはスートラ、タントラ両方に存在しているので「共通」と呼ばれています。これらの詩句の中に現証する心、つまり現世離脱(放棄)、菩提心の目覚めた心、そして真実の見解があらわされています。この三つがタントラの道に完全に参入するために必要なものなのです。
これが欠けていると、タントラの道は実を熟すことはありません。中でも目覚めた心は絶対必要なものです。もしこれが欠けていたら、たとえどれほどタントラを修行しても完全な解脱に至ることはないのです。五つの大乗の道の第一の道である大乗の蓄積の道にさえも導かれることはありません。
完全な解脱に至る道には二つあります。それはスートラヤーナの原因の道とヴァジラヤーナの結果の道です。この二つのうちではヴァジラヤーナの方がより秀れています。古代の偉大な聖者の間ではこの非常に深遠なタントラの道は太陽と月のようによく知られていました。
ヴァジラヤーナには四つの一般的タントラの道があります。
1.所作タントラ(Skt.クリヤータントラ)
2.行タントラ(Skt.チャリヤタントラ)
3.ヨーガ・タントラ(Skt.ヨーガ・タントラ)
4.無上ヨーガ・タントラ(Skt.アヌッタラ・ヨーガタントラ)
この四つの中でも無上ヨーガ・タントラは極めて深遠なもので、これによりわたしたちは一つの身体で一生の間に完壁な解脱に達する手段を得ることになります。
無上ヨーガ・タントラには男性タントラと女性タントラがあります。カーラチァクラ・タントラは女性タントラです。
男性タントラと女性タントラの一般的な違いは何でしょうか。女性タントラは特に智慧、すなわち空の相に重点を置きます。これはタントラの言葉ではクリアーライトにあたります。男性タントラは方法の相、特に幻影の身体に重きを置いています。
解脱に向かう道にまだ入ってない人たちと、一生で一つの身体を持ってして完全な解脱に達する能力が基本的にある人たちは子宮から生まれ、六つの要素を持っていなければなりません。これは本質的には魂がこの領域(ジャンブ州 Skt.ジャンブドゥヴィーパ)の人間でなければならないことを意味しています。六つの要素を説明する別の方法もいくつかあります。そのうちの一つによれば血液、肉、皮膚を母親から、そして骨、骨髄、白いボーディチッタを父親から受け取る、となっていますし、また別の提示では四大エレメント(地・水・火・風)とエネルギーの経路(Skt.ナーディーと滴(Skt.ビンドゥ)を使います。
この講義では多くの情報が与えられ、わたしたちは多くの言葉を耳にします。けれどもそれを放っておいて「さあ、この情報を得たぞ」というだけでは充分ではありません。大切なのはこの教えは瞑想されなけれればならないということです。修行は2、3日だけではなく何週間も何ヵ月も行なう必要があります。心はそうやって徐々に変えられていくのです。そしてこれと同じようにして現証した心(現世離脱)、覚醒した心(菩薩心)、そして真実の見解(中道の見解)を育てなければなりません。わたしたちはこのすべてを培うことのできる心を持っています。そしてこれらはわたしたち自身の心と同様、永久に続わない現象であり、正しい原因と条件を与えることによってこの三つの相を自己の連続体の中に生じさせることができるものです。
ですから、この教えを実行に移すことは非常に大切です。この指導を受けている方々は単に知的な知識を収集するためにここにいらっしゃるのではなく、エンパワーメントを受けてそれを実際に行なうために教えを受けようとしてここに来られたのですから、聞いたことを実行に移すことは極めて重要なことなのです。
教えを受けるには二つの非常に異なったやり方があります。その一つは現世的なやり方で、より素晴らしい知識、名誉、地位等を得るために 情報を集めることです。タントラにおいては、この種の態度や動機は全く妥当ではありません。ここでのポイントは自分自身の心の連続体をトランスフォームするために教えを受けることなのです。
カーラチァクラの修行をするには何よりもまずエンパワーメントを受けることが絶対に必要です。そしてエンパワーメントを授ける師はその資格を有していることを示す20の特質を備えた完全に適格なタントラの師でなければなりません。この20項中10項は外的特質であり、残り10項は内的特質です。
また、さらにエンパワーメントを受けるためには正確に正しい方法で作られた完全に正確なマンダラを持っている必要があります。では修行者には何が要求されるのでしょうか。弟子は(すでに提示された)普通の道においてよく訓練されていて、非常に確固とした信とタントラに対する情熱の両方を持っていなければなりません。
【2】エンパワーメントによって心を成熟させる
カーラチァクラには子供の成長過程にたとえられるような七つのエンパワーメントがあり、これは「子供のように入るエンパワーメント」と呼ばれています。わたしたちは生成の段階を瞑想するためにこの七つのエンパワーメントすべてを受ける必要があります。
◆「子供のように入る」七つのエンパワーメント
1.第一エンパワーメント:水のエンパワーメント
ちょうど産後すぐに子供を水で洗うように師もまず参入者(イニシエーションを受ける者)の三つの扉、つまり身体、言葉、心を浄化するために水のエンパワーメントを授けます。
2.第二エンパワーメント:頭飾りのエンパワーメント
ここでの類比は子供の頭の上に髪の毛がただ残ることです。このエンパワーメントはブッダになるときウシュニーシャ(ブッダの頭頂の突起)を実際に得る因として働きます。このようなエンパワーメントを受けることができるのは大変幸運なことです。
3.第三エンパワーメント:王位の旗のエンパワーメント
これは五つのブッダの家族を表わし、イアリングのような飾りを子供につけることになぞらえられます。
4.第四エンパワーメント:ヴァジラとベルのエンパワーメント
この類比で特に大切なのは子供の笑い声に対応するベルです。このエンパワーメントのヴァジラとベルは特にブッダの心とブッダの言葉を表わしています。このエンパワーメントを受けることによって自己の連続体にそういう結果を生む痕跡を施すことになります。
5.第五エンパワーメント:親指ヴァジラのエンパワーメント
これは子供の親指に飾りをつけることにたとえています。
6.第六エンパワーメント:名前のエンパワーメント
これは幼児に命名することになぞらえています。
7.第七エンパワーメント:イニシエーション
このエンパワーメントのチベット名は「ジェ・ナン」で、「イニシエーション」とか「許可・パーミション」と訳されます。これは子供を教える父親や母親にたとえられています。
ここで肝要なことは七つのエンパワーメントを受けることにより生成の段階が修行できる力を得るということです。「子供のように入る」最初の七つのエンパワーメントは次に挙げる最初の七つの菩薩の土台を得ることを可能にし、あるいはその因となります。
(1)水のエンパワーメントは最初の土台「大変喜ばしい」状態(Skt.プラムディター)に導き、それを引き起こします。
(2)頭飾りのエンパワーメントは第二の土台、「汚れなきもの」(Skt.ヴィマラー)を生じさせます。
(3)冠の旗のエンパワーメントは第三の土台、「光り輝く者」(Skt.プラバーカリー)を生み出します。
(4)ヴァジラとベルのエンパワーメントは第四の土台、「光を放つ者」の状態(Skt.アーチ・シュマテー)を生じさせます。
(5)親指ヴァジラのエンパワーメントは第五の土台、「征服し難い者」の状態(Skt.スドゥル・ジャヤー)を生じさせます。
(6)名前のエンパワーメントは第六の土台、「顕現する者」(Skt.アブミキーランガマー)を生み出します。
(7)許可のエンパワーメントやイニシエーションは第七の土台、「彼方へ行った者」(Skt.ドゥーランガマー)を生み出します。
◆四つの高度なエンパワーメント
1.第一のエンパワーメント:壷のエンパワーメント
このエンパワーメントのポイントは訓練を受ける人の心を成熟させることです:まずはじめに十二歳から二十歳くらいの少女をヴァジラ・マスターに供養すると想像します。これとともにヴァジラ・マスターにマンダラと祈りを捧げてエンパワーメントを懇願します。
壷のエンパワーメントは想像上の女の子が修行者のところへ帰ってきてから笑ったり女の子の胸をもてあそんだりして彼女の存在を楽しむときに実際に与えられます。女の子の胸を触るとき「至福」(Skt.スカ)が起こりますが、これは空と不可分のものとして経験されます。実際に壷のエンパワーメントを受け取るのはこの不可分の空と至福を経験するときです。壷もポットも実際のエンパワーメントには使われません。「ポット」とは少女の胸のことで、これは「白を保持する壷」と呼ばれます。少女の胸に触るとそれが壷のようなので壷のエンパワーメントと呼ばれるのです。
壷のエンパワーメントは「不動」(Skt.アカラー)と呼ばれる八つ目の菩薩の土台の達成へと導きます。
第九番目の菩薩の土台は「優れた知性」(Skt.サードゥマティ)と呼ばれます。
第十番目の菩薩の土台は「法の雲」(Skt.ダルマ・メーガー)と呼ばれ、最高の菩薩の土台です。
ここから上はブッダになることそのものしか進むべきところはありません。そこに着くころにはあなた方は本当に素晴らしいところにいることでしょう。
2.第二のエンパワーメント:秘密のエンパワーメント
四つの高度なエンパワーメントの二番目は秘密のエンパワーメントです。エンパワーメントの間、修行者はウァジラ・マスターの秘密ヴァジラが自分の口の中に置かれ、ヴァジラ・マスターの白いボーディチッタを味わう、と想像します。この白いボーディチッタは帰依者の胸のチァクラまで降りていき、そこで素晴らしい至福が生じます。この至福は空の悟りとともに経験されますが、これは絶対必要です。この至福と空の合一する体験をもって秘密のエンパワーメントを受けたことになります。
このエンパワーメントと修行の性質上、訓練を受ける者はタントラに完壁な信を持っていることが不可欠であるということが繰り返して強調されなければなりません。これが秘密のエンパワーメントと呼ばれるのはヴァジラ・マスターの秘密の物質を経験するからなのです。
3.第三のエンパワーメント:智慧のエンパワーメント
高度なエンパワーメントの三番目は智慧のエンパワーメントと呼ばれるものです。これは次のようなやり方で受けることになります:観想されたコンソート(相手、パートナー、配偶者)、もしくはダーキニー・コンソートが修行者に与えられ、性的合一に入ります。
この合一によって白いボーディチッタが頭頂から降りてきます。それが喉のチァクラに達すると「喜び」(Skt.アーナンダ)が生じます。胸のチァクラに降りてくると「最高の喜び」(Skt.パラマ・アーナンダ)が生まれます。へそのチァクラに降りてくると「途方もない喜び」(Skt.ヴィラマ・アーナンダ)が生まれます。そしてそれが生殖器のチァクラにまで降りてくると、「自然にわきあがる喜び」という、この四つのうちで最高のものが生じます。
この四つ目の喜びは、それが空の性質を持っていることを確かめながら経験され、この至福と空の悟りとが合一する体験をもって智慧のエンパワーメントを受けたことになります。
このエンパワーメントがこのように呼ばれるのはダーキニー・コンソート自身が智慧の性質を有しているのでプラジュニャーあるいは智慧と呼ばれているためです。また、白と赤のボーディチッタのことを語る場合には白いボーディ・チッタを持っているのは男性だけではなく、赤いボーディチッタを持っているのも女性だけではなく、どちらも両方持っているのだということを指摘すべきでしょう。これは単にどちらが優勢かという問題なのです。
このエンパワーメントを受けてコンソートと合一するときでさえ、修行者が女性であればカーラチァクラの姿に自分を生じさせたままの状態でイニシエーションを受けるのですから、そういった意味で矛盾はないのです。
もう一つだけヴァジラ・ヨーギニーを例にとってみると、修行者が男性の場合、このエンパワーメントを受けてヴァジラ・ヨーギニーの女性の相に自分を変えて修行を行ないます。
4.第四のエンパワーメント:言葉のエンパワーメント
白いボーディチッタが漏れるのを許さず保持すると「最高不変の至福」を経験します。この至福の経験をもって言葉のエンパワーメントを受けたことになります。白いボーディチッタが漏れるのを許してしまうのは根本的なタントラの転落です。これは絶対に避けなければなりません。
◆四つのさらに高度なエンパワーメント
最後に来るのがさらに高度なエンパワーメントです。名前は前の四つと同じで順序も同じ、つまり壷・秘密・智慧・言葉です。四つの高度なエンパワーメントとさらに高度なエンパワーメントの違いはそこで実際に起こっていることにあります。
この二つの間の違いの一つは、高度なエンパワーメントが慣例的な真実(Skt.サムヴリティサティヤ)に関して与えられるのに対して、さらに高度な四つのエンパワーメントは実際の意味とこの世を超越したものに関して、つまり実際のこの世を超越した様相あるいはアプローチに関て与えられることです。
四つのさらに高度なエンパワーメントはこのサイクルにおける究極のエンパワーメントです。この四つのさらに高度なエンパワーメントは、エンパワーメントを与えること、タントラを説明することの両方を行なうヴァジラチャーリャまたはヴァジラ・マスターの活動を行なう力を与えたりする許可を与えます。
1.第一のエンパワーメント:壷のエンパワーメント
壷のエンパワーメントの間に白いボーディチッタが頭頂のチァクラから眉毛の間の点に向かって中央管を降りていくと「喜び」(Skt.アーナンダ)を経験します。この喜びの徒験をもって、実際のイニシエーションを受けたことになります。
2.第二のエンパワーメント:秘密のエンパワーメント
秘密のエンパワーメントはコンソートやダーキニーと修行者が合一するエンパワーメントです。白いボーディチッタが(眉間から)胸のチァクラに降りるとき、「最高の喜び」を経験します。この経験をすることが秘密エンパワーメントを受け取ることとなります。
3.第三のエンパワーメント:智慧のエンパワーメント
智慧のエンパワーメントの間に修行者とコンソートは一つとなり白いボーディチッタが(胸のチァクラから)生殖器のチァクラに降りてきます。そのとき「特別な」または「途方もない喜び」を経験します。
智慧のエンパワーメントを実際に受けるのは、白いボーディチッタが生殖器の先端に届いて「自然にわきあがる喜び」を鑑験したときです。大変高い悟りを得ている人にとっては白いボーディチッタが放出されることは決してありません。「風」あるいは「エネルギー」(Skt.プラーナ)の力によってそれが保持されるのです。
4.第四のエンパワーメント:言葉のエンパワーメント
繰り返し瞑想修行に打ち込むことによって「生成(創造すること、生み出すこと、発生させること」(Skt.ウトパッティ・クラマ)の段階と「完成」(Skt.サンパンナ・クラマ)の段階を徐々に進めていくとついには完壁な解脱の状態が訪れます。このときカーラチァクラの身体(ルン・セム)が得られます。これは肉や骨で作られた、今のわたしたちの身体のような普通の粗雑な身体ではなく、エネルギーと意識から創り出された身体です。これがタントラの頂点となります。
言葉のエンパワーメントはタントラの道がこのようにして頂点を極めるという理解が得られたとき受け取られることになります。別の言い方をすれば、タントラの道の頂点は「素晴らしい(偉大な)合一」という性質を持っていることを理解したとき、ということになります。
もし修行者が僧(Skt.ビクシュ)であるとすると、あるいは在家の修行者であっても独身の誓願を守っているとするならばこのエンパワーメントを受けるときも実際のコンソートは伴うことはなく、今説明したようなやり方でエンパワーメントを受けることはありません。
完全な出家修行者だけではなく、独身を保つ誓願を含めた前進の請願を守っている人は、だれでも実際のコンソートなしにこのエンパワーメントを受けることになります。そしてこの場合はイニシエーションの間中コンソートとプロセスのすべてを心に観想することになります。
また、この実際のコンソートを伴ったエンパワーメントは、もはや紅白のボーディチッタを有していないお年を召した方々に対しても行なわれることはなく、観想が使われます。しかし非常に高い悟りを得た人であれば今の説明どおりコンソートを伴ってエンパワーメントを受けることが可能です。その場合、当事者は非常に高度な悟りを得ている必要があります。単に普通の僧であってはいけません。このことはコンソートに二種類あることを示しています。
「所作のムドラー」(Skt.カルマ・ムドラー)とは、実際のコンソート、現実の人です。繰り返し申し上げておきますが、普通の僧がエンパワーメントを受けるとき伴うのは、このタイプのコンソートではありません。
「智慧のムドラー」(Skt.ジュニャーナ・ムドラー)。これは観想されたコンソートのことです。普通の僧あるいは他の独身の誓願を守っている人たちがこのエンパワーメントを受ける場合に伴うのは、この後者のタイプです。
◆ブッダの四つの身体に関わる四種類の喜び
この四つのタイプの喜びはその一つ一つがそれぞれに呼応した四つのブッダの身体(Skt.カーヤ)を生じさせます。
1.第一の喜びは「喜び」(Skt.アーナンダ)と呼ばれる発散(放射)する身体(Skt.ニルマーナカーヤ)を得ることへと導きます。
2.第二の書びは「最高の喜び」(Skt.パラマ・アーナンダ)で、喜び(楽しみ)の身体(Skt.サムボーガカーヤ)を得ることへと導きます。
3.第三の喜びは「途方もない喜び」(Skt.ヴィラマ・アーナンダ)で、ブッダの智慧の真実の身体(ジュニヤーナ・ダルマ・カーヤ)を生み出します。
4.第四の喜びは「自然にわきあがる喜び」(Skt.サハジャ・アーナンダ)で、ブッダの自然な其実の身体(Skt.スヴァバーヴィカ・カーヤ)を生み出します。
ミラレーパは詞章の中で自分のグル、偉大なるマルパを讃えてこう言っています。
「わたしは偉大なるタントラ(マントラ)の系譜から起こり四種の喜びを体現しているマルパの足元に礼拝いたします。」
このエンパワーメントを受けるにあたっては誓約と誓願を守ることが必要不可欠です。教典から引用すると、
「たとえタントラの瞑想をやらなくても根本的な転落を引き起こすことなく誓約・誓願を守り続けるならば、十六生のうちには確実に完全な解脱に達する。」
のです。偉大な翻訳者ラロ・ドルジェ・ラクはこう言っています。
「タントラの誓約と戒を守ることなくして最高の解脱に達するとはサキャ神賢は言っていない。最高の解脱に達しないというだけではなく修行をしても超能力(パワーや恩恵)を得ることさえない。」
修行は誓約と戒を守ることなしにはその効力を発揮しないのです。
このシアトルの大都市にはたくさんの人がいます。けれどもその中で実際に法の教えを受けに行く人の数は大変少ないようです。たとえ家族で両親が子供を寺院に連れていって、礼拝と供養のしかたを見せたとしても子供に徳がなく痕跡もなければ、教えるのは大変難しく、信も起こらないかもしれません。誓約と戒を守ることは難しそうに見えるし、実際難しいことですが、それを守って、まずそれを受けることのできる幸運を意識しましょう。この教えを受けることができるということは、すでに膨大な功徳が積まれているということなのです。
また、ブッダの法に信を持つということも、すでに前生からの素晴らしい功徳の蓄積があることを表わしています。この功徳なくして信が起きるということはありません。エンパワーメントを受けてこの修行ができることの幸運をよくかみしめてください。
また、勇気を出してカーラチァクラの修行に励みましょう。複雑なやり方で、あるいは骨を折ってやる必要はありません。むしろ一つの顔と二つの腕を持ち、青い色をしたシンプルなカーラチァクラの姿に自分自身を生じさせるのです。カーラチァクラの右手にはヴァジラ、左手にはベルがあり、コンソートと合一しています。コンソートは右手に大包丁、左手には頭蓋骨でできたお椀を持っています。
これは二つの機能を同時に果たすので、特に優れた修行です。一方ではこれはタントラの生成の段階の最高点に導くタントラの修行であり、また他方では寂静の達成を促し、それに導きます。こうやって修行をしていくことによって寂静(Skt.シャマタ)を別の修行で培う必要がなくなります。生成の段階の最高点によって自然にそれを得るのです。
あなたはコンソートを伴ったカーラチァクラ神に自分を生じさせますが、自分の前の空間に創り出すのではなく、実際に自分自身をその姿に生じさせるのです。このとき神の現われと神になれることのプライドを培います。
この裏にある理論的根拠は何でしょうか。これはある世俗的な、例えばイーシュヴァラのような神が自分をブッダだと考えるようなものではありません。イーシュヴァラが自分をブッダだと考え、歩き回ったとしてもブッダになることはありません。これが意味しているのは、自分がなっていくブッダに自分を同化させ、ブッダであることのプライドを確立しながらブッダを取り入れていくこと、そしてそれを現在において行なうということなのです。
「カーラチァクラの姿でこれから自分がなっていくブッダとしてのプライドを持つ」ようにと言われるとき、それが意味しているのは、カーラチァクラは事実上ブッダの顕現であるということなのです。
これはカーラチァクラの教えの起源とどう関係しているのでしょうか。サキャ神賢はギッジャクータ山でプラジュニャー・パーラミター(智慧の完成)を教えられていたとき、同時に南インドのある所にご自身を現わされてカーラチァクラの姿でカーラチァクラの教えを授けられました。『カーラチァクラ・イニシエーション』(マジソン;1981年)という本の初めのイラストは、シャンバラの王であったダワ・ザンポ(文字どおりには「素晴らしい月」)ですが、サキャ神賢にカーラチァクラの教えを請い、その主な後援者となったのはこの人です。その後サキャ神賢はカーラチァクラとして出現なさり、教えを授けられたのです。
カーラチァクラの修行に専念すると、タントラが非常に栄え、広く行きわたっているシャンバラに生まれ変わることになります。この教えを実践に移すと、完全な解脱に道が開かれるのです。カンサー・ドルジェ・チャンは最近出た大変優れたラマですが、ダライ・ラマ法王の家庭教師であるキャプジェ・リン・ドルジェ・チャンとキャプジェ・ティチャン・ドルジェ・チャンお二人の根本グルの一人です。法王の先任の家庭教師であったキャプジェ・リン・ドルジェ・チャン側たしたちが今ここで受けている系譜(伝承)を受けたのはこの人からなのです。カンサー・ドルジェ・チャンはシャンバラを村や町のある現実の場所であるラサにつなげました。シャンバラは本当に喜びに満ちた所で、そこでは完全な解脱を得ることができるのです。
繰り返しますが、生成の段階を訓練する主な狙いは普通の現われと普通の観念(とらわれ)を排除することです。その一つのやり方は、どんな形をしたものを見るときでも、例えば雪山を見るときでさえも(視覚の)対象をカーラチァクラの身体として見、聞こえてくるどんな音でもそれをカーラチァクラの言葉として理解することです。そして心に考えが浮かんだときはそれがよいものであっても悪いものであっても常にカーラチァクラの心だと思うのです。これはいつでも、たとえ高速道路を走っているときであっても訓練すべきことです。これは昔通の現われと観念を駆逐するのに大変有用な方法となります。
いくつかの特別なタントラの形の違いを知っておくことは大変重要です。その特異性とは何なのでしょうか。チァクラサンヴァラやグヤサマージャなどでこれらの異なる観想上の神々の個々の際立った要素を認識し、それによりイシュヴァラのような普通の神といかに違うかを理解することが重要です。こうやってタントラの深遠さを理解すれば、その中に信が生まれます。タントラの修行をしていく過程においてわたしたちは執着を手段として執着を排する方法を学びます。これはちょうど木材から生まれた昆虫が木材を出て、それから向きを変えて木材を食べるようなものです。
【注】
1.本からの引用の英語訳と昔の師の方々の口頭陳述は厳密な翻訳ではなく、言葉を変えて説明されたものと考えられなければならない。
2.他のいくつかのタントラのマンダラの土台には、三大元素の連続したマンダラがある。すなわち、風またはエネルギーマンダラ、水マンダラ、地マンダラである。火マンダラは明白な形で示されていない。それは風と水と地の結合によって起こるのでその存在は暗に示されるにとどまっている。一方カーラチァクラにおいてはマンダラのベースに火・水・地のマンダラがある。このように火は明白に存在している。これがこのタントラの体系に独自に見られる他の多くのものとの違いの一つである。
3.白はこの文脈ではミルクを指している。