TOPorLINK文書館Part2カーラチァクラタントラ>第2章

 わたしたちはここにこうして集まりカーラチァクラの教えを受ける機会を持っことができる大きな幸運を認識したいものです。これは本当にダクチェン・リンポチェ師のご好意によって作られた非常に恵まれた状況です。リンポチェがここを作っていらっしゃらなければ我々は今ここにいることはなく、同じようなシチュエーションを得ることは困難だったのではないでしようか。
 また、あなた方はリンポチェと度々接しておられますが、これは非常に稀なことなのです。例えばチベットではサキャ派の高僧であるサキャ・ゴンマに、このように直接近づくということは不可能でないとしてもほとんどあり得ないことでした。ですからこういった機会が稀で貴重な状況であると認識することは大切なのです。
 西洋人にはこのような特権があるためダクチェン・リンポチェや法王のようなラマに近づくのは結構簡単だと思われるかもしれません。しかしチベットでは、ラマと個人的コンタクトを取るのは、はるかに近づくのが難しいものでした。もしダライ・ラマ法王が年に一度でも手で頭の上に祝福を与えてくださろうものなら、それだけでありがたい出来事だったのです。
 しかるに、今日ではダラムサラでは西洋人が法王と頻繁にコンタクトを取るのを見ることができます。彼らは個人的に謁見を申し込むことができ、そしてそれは、実際よくかなえられます。一方チベットでは、そういったラマを見つめることができるというだけで、ものすごいインパクトがありました。
 さらにあなた方は、カーラチァクラ・イニシエーションを受けるという素晴らしい機会に恵まれました。この希で素晴らしい出来事をそれと認めて喜ぶことは大切なことです。
【1】十四の根本的なタントラの転落

 もしタントラの道で向上を望むなら、誓願と誓約を守ることは欠くべからざることです。特に気をつけていなければならないもの、警戒しなければならないものは十四の根本的なタントラの転落です。根本的な転落を避けることは極めて重要です。完全な受戒僧の主要な四つの戒の一つと比べると、この戒を一つ破ることは極めて重大な違反となります。それは心に恐ろしい痕跡を残し非常に重いカルマ的結果を招くことになります。副次的なタントラの戒を破るだけでも僧の戒の最も重大なものを破る十八倍の重さがあります。
 根本的な転落を一つでも引き起こすのは極めて不健全で有害な行為で、ヴァジラ地獄に生まれる因となります。このため六部グルヨーガでいわているように「十四の根本的なタントラの転落はたとえ命と引き換えにしても回避されるべきもの」なのです。
 誓約と戒を守るため、あるいは一般的に道徳的な規律を守るためには転落に導く四つの扉を認識し守らなければなりません。転落を招く四つの扉とは、
1.無智の扉
2.不適切の扉
3.不注意の扉
4.心の屈折の扉
です。もしこの四つの扉を守らなければ毎日転落を犯すことになります。この四つの扉のうちの第一を守るためには何が誓約と戒なのかを知る必要があります。
 ダライ・ラマ法王はダラムサラでこの主題に関してお話しになられた折に、このように言われました。
 「どれほど多くの人が、気軽にタントラのエンパワーメントを受けに行って、すべての菩薩の戒とその一つ一つが大変守りにくい、主要な、そして副次的なタントラの誓約とすべての菩薩の戒とを受けているにもかわらず、出家者の誓願を受けることを勧められると、『ああそれは困る。難しすぎる。考えたくもない。わたしはタントラと菩薩の戒だけにしておこう。』などと考えていることだろう。それは実際ナンセンスである。」
 菩薩とタントラの戒というのは実際はるかに守りにくいものなのです。それに比べれば出家の戒は身体と言葉の活動に力点を置いたもので、はるかに守りやすいものです。

◆一般的な根本的なタントラの転落
1.自分の霊的指導者を誹誘したり軽蔑したりすること
 根本的な戒の第一はグルとの関係にかかわっています。この転落は自分の霊的指導者の悪口を言うことや軽蔑をすることによって引き起こされます。一度グルとの霊的・精神的関係を生じさせたなら、そのグルと正しい関係を持ち、自分のすべての霊的指導者に対して正しいやり方で献身しなければなりません。
2.修行を侮っておろそかにすること
 午後にはものを食べないといったような特定の戒をとってみましょう。もし、「ああ、これはどうでもいいんだ。」などと言ってこの戒を非常に侮って全く尊敬をせず放り投げるようなことをするとき、この根本的転落を引き超こすことになります。
3.ヴァジラの兄弟姉妹を軽んじたり欠点をあげつらったりすること
 この点には特に注意しましよう。ここにいる全員、そして同じグルからタントラのエンパワーメントを受けた他の多くの友人はヴァジラの兄弟姉妹です。この関係は大変貴重なものです。例えば普通の家族では同じ両親から生まれた子供は兄弟姉妹といわれますが、この同じ関係がタントラの修行においても起こるのです。
 エンパワーメントの中でただの人としてのラマではなく、カーラチァクラとして自分を現わしているヴァジラ・マスターの口の中に帰依者(献身者)が入っていくプロセスがあります。カーラチァクラの口の中に入り、心臓の中に入り、「トゥモの炎」とともにカーラチァクラの心臓のところでボーディチッタの中に溶け込み、ヴァジラへと降りていきます。そしてカーラチァクラのヴァジラを通ってコンソートの胎内に入っていき、そこで白いボーディチッタとブッダ方、菩薩方に祝福を受けます。それから胎内から現われ、かくしてカーラチァクラ(ヴァジラ・ベル)とコンソートの真に霊的な子供になるのです。
 これはエンパワーメントを受けるすべての人にいえることです。この非常に特別なヴァジラの兄弟姉妹の関係を認識し、彼らを軽く見たり悪口を言ったり、欠点をあげつらったりしないよう特別に注意を払わなければなりません。この根本的な転落を犯すならば、不運な存在の領域へと導かれることとなります。
 概してそれがだれであれ、決して他人の欠点を口にしないのがよいでしょう。
4.聖慈愛(Skt.マイトリー)を捨て去ること
 この転落はそれがいかなる生き物であっても、「この人が幸福から離されますように」と思うときに起こります。この戒には特に注意しなければなりません。すべての生き物が幸せを奪われますようにという願いを育むということはありそうもないことですが、それでも嫌いな人に対してそういう望みを抱きがちになるのは大いにあり得ることです。
 別の言い方をすれば、そのような転落を犯すには、生き物一般に対する聖慈愛を捨て去る必要はないということです。こういった侵犯に必要なことは、ただ一つの個別の魂を、とりわけ大変邪悪なものを選んで、その人を見ながら心の中で強固な確信に至ってこう思うことです。
 「他の人たちに恩恵を与え奉仕をしても、この人には恩恵を施すことも奉仕することもしないぞ。たとえこの人を喜ばせることになることがあっても、そんなことはしないぞ。」
 たった一つの魂を見捨てるだけで生き物への慈愛を捨て去る転落が成立するのです。これは偉大なる慈悲が確固とした中心となっている、一つの例外もなくすべての生命体を包み込んでいる大乗の法に行きわたっている心構え(雰囲気)を示しています。ですから、もし、
 「そのとおり、一般的にすべての生き物に対してであって、この人やあの人に対してではない。」
といって例外をつくるならば、そこにはもはやいかなる偉大な慈悲もありません。
 わたしたちは「慈愛」と「慈悲」(Skt.カルナー)が何を意味しているのかを明確に把握しなければなりません。すべての魂が幸福と[その因]を持つことができますように、と願う心が慈愛であり、すべての魂の苦しみと[その因]を打ち払いたいと願う心が慈悲です。この二つの言葉の意味を理解しないでただ「愛と慈悲」といってもあまり恩恵はありません。
5.憧れるボーディチッタと引きつけるボーディチッタを断念すること
 エンパワーメントを受ける際には、すべての魂のために完全なる解脱を得たいという強い発願を起こします。この決意、あるいは誓願を立てて、その後勇気をなくしたり修行に対する自信や熱意を失って「いったいどうやったらいいというんだ(できるわけがない)。」と思いその発願を捨ててしまうとこの根本的な転落が起こります。それゆえ絶えず修行に対して勇気と自信を持ち続けなければなりません。
 この五つ目の憧れるボーディチッタと引きつけるボーディチッタをあきらめるという転落は、
「ああ、すべての魂を利するために解脱を得ることなどできるはずがあるものか。」
 と考えてこの決心を拒むときに起こります。
6.スートラであれタントラであれ法を冒涜すること
 これは例えばマハーヤーナへの信ゆえにヒナーヤーナを悪く言ったり、あるいはヒナーヤーナへの信ゆえにマハーヤーナを悪く言ったりするときに起こります。それからスートラの道に信を持ってタントラを誹謗したり、タントラに信を持ってスートラを誹謗したりするときに起こります。このうちのどの場合の悪口もこの根本的転落を招きます。これらの教えはすべてサキャ神賢から来たものであり、そのどれもが解脱に達するための手段であることを理解するべきです。このようにどれについても悪く言うことは正しくありません。これらの伝統はどれも完全な解脱を得ることに向けられています。
「ああ、わたしのダルマは良く、あなたのダルマは良くない。」
と考えるシチュエーション(状況)においてわたしたちはこの転落を犯しているのです。
7.いまだ成熱していない者にタントラの秘密を漏らすこと
 「いまだ成熱していない」とは「エンパワーメントを受けることによって成熱する」ことを意味しています。カーラチァクラに関しては、カーラチァクラ・エンパワーメントを受けていない人々はカーラチァクラのマンダラやカーラチァクラ自身のイメージを見せられるべきではないということです。カーラチァクラの意味をこのエンパワーメントを受けていない人に話すべきではありません。そうしてしまうことによって、この根本的転落が形成されます。今は深く立ち入りませんが、ここには大きな危険があります。エンパワーメントが行なわれる間、参入者が宮殿に立っているとき、ヴァジラ・チャーリャがヴァジラを頭の上に乗せ、
「もしこの秘密が守られないなら頭と胸は焼けるだろう。」
と言いながら、帰依者をこのタントラに関する完全な秘密に結びつけます。これはエンパワーメントが行なわれている間に非常に明確にされます。エンパワーメントのその時点ではまたヴァジラ・チャーリャは水を一杯与えてこう言います。
「もし秘密を守るならこの水は甘露と変わり、神通力と悟りを生じさせることになる。しかし、失敗したなら地獄の溶けた鉄と化すだろう。」
これはタントラの秘密をそれを受けるにふさわしくない人々に明かすことの大きな危険を示しています。
Q.わたしは自分の部屋にカーラチァクラの絵を持っています。これに覆いをかけておいた方がよいでしようか。
A.そうですね。そういったイメージには自分のヴァジラや儀式のベルと同じく、また数珠にさえも覆いをかけておいた方がよいでしょう。チベットに最近出た偉大なラマ、パロ・ドルジェ・チャンの言によれば、こういうタントラの品々をだれでも見える所に置いておくのは薬草を太陽にさらすようなものなのです。薬草を長い間太陽にさらしておくと薬の力は滅少していき、ついには形骸だけが残ります。ですから薬草同様こういったタントラの法具は隠しておくべきなのです。実際これがタントラが最も頻繁に「秘密のマントラ」という意味の「サン・ガク」というチベット語で言い表わされるゆえんなのです。「秘密の」というのは、人がそういったものを隠しておくからなのです。
8.集合体(蘊)をけなすこと
 この本『カーラチァクラ・イニシエーション』(マジソン1981年・マジソン、ウィスコンシン:ディアパーク1981年76頁)の中では「あなたの身体」といわれていますが、実はそれは集合体のことです。
 極端な苦行や極限の断食などの修行は集合体の衰退を招きます。
 タントラの修行においては五つの集合体を浄化して五種のブッダの性質を持ったものに変えてしまいます。これがタントラで行なわれることなのです。ですからもし「この集合体はこういう瞑想には合わない。これは時間の無駄だ」と考え、自分自身の集合体を軽く見て倣慢な態度で身体を罰するとこの根本的な転落を招くことになります。
9.空を見捨てること
 現象には本来備わっている(生来的な)存在というものはない、または真の存在が欠如している、と信じないで、信じることを拒んで、結局空の見解を否定するとこの転落が起こります。
10.悪い友人に献身すること
 悪い友人とは大変邪悪な人々のことで、具体的には四つのケースが挙げられています。その四つとは、ブッダに害を与える人々、グルの身体を傷つける人々、すべての生き物を傷つけるように望む人々、またはすべての生き物に一般的な悪意を抱く人々、そして四番目にダルマの崩壊をもたらそうと望む人々のことです。こういった人々が特に「邪悪な友」にあたります。
 このような人たちと非常に親密になって自分の親密な友人として彼らに自己を捧げると、根本的な転落を招くことになります。これはなされるべきことではありません。
 しかしこの根本的転落を避けるとき、わたしたちはまたそういった魂に対する慈悲(Skt.カルナー)を拒むこともなんとしてでも避けなければなりません。慈悲を拒むと、また別の根本的転落を招くことになるからです。ですから、たとえそういう人たちと親しくなったり自己を捧げたりはしなくても、なお彼らに対す慈悲を失うことなく、それをひたすら持ち続けるのです。
 わたしたちはいたずらな子供たちにとって大変恐ろしく見え、非常に厳しい言葉を発する大変愛情深い親のようになることができるのです。言い方を変えると、外側の現わはかなり恐ろしいものに映りながら、その内側ではそれが一つの慈悲に動機づけられているということです。
 これはグルと弟子との関係においても起こります。グルが弟子の欠点を指摘するならば、それは最も良いことであると言われています。
 これはグルとしての義務の一つ、グルがなすべきことなのです。もしグルがグルの側から弟子に恩恵を施すためにそれをなし、弟子は弟子の側から自分の欠点を聞いてそれをチェックし、認識し、理解するならばこれは起こり得る最高のシチュエーションです。自分のラマに怒られるのはそれほど悪いことではありません。それは自分自身の修行を助けるものとして理解されなければならないのです。
11.見解を呼び起こさないこと
 タントラの修行における義務は、日中三回、夜間に三回自己の心を「見解」に向けることです。もし空の見解がプラーサンギカ体系に沿ったものであるなら、これをやらなければなりません。もしそれができないなら次に挙げる体系のうちのどれかに従って同一性のなさを熱考するのもよいでしよう。
 その体系はスパータントリカ・チッタマートラ、そしてサウラーンティカです。これはその人の知識、能カ、理解によって異なります。
 しかしいずれの場合にせよ、何ができるにせよ、午前に三回と夕方に三回行なうべきです。もしできなければ根本的なタントラの転落を招くことになります。
12.他者の信を打負かすこと
 これは、ここにタントラの修行に信を持つ別の人がいて、ある人がこの人に、「タントラの修行はそんなにいいものではないよ。酒も飲むし本当に淫らなものだよ。」
などと言うときに起こります。もしこの人がそれで信を失くしたり、その人のタントラの修行に対する信が減少したりするようなことになれば、これが根本的なタントラの転落を招きます。
13.タントラの誓約に自己を捧げないこと
 ガナチァクラの間に、肉(Skt.パラ)とアルコール(Skt.アムリタ)が与えられるとき(おそらくベジタリアンが)、「ああ、わたしはこれを口にするにはあまりにも清らかだ。わたしは肉には触らない!」
と言うとき、アルコールを取らないという戒を受けている僧が、
「わたしは非常に清らかな僧であるからこれには触らない。」
 と言うとき、このどちらの場合でもツォを拒むとこの根本的な転落を引き起こします。
 一般に現世捨断の戒を受けた僧にアルコールが厳格に禁じられているというのは真実です。サキャ神賢ご自身も、僧のコミュニティーのメンバーだけでなく主婦でさえも草の葉の露の滴ほどの量のアルコールでさえ取るべきではないとおっしゃいました。露の滴ほどさえも、です。ですから、アルコールは一般的にだれに対しても飲むことを思いとどまるように勧められ、僧に対してははっきりと禁じられています。
 にも関わらずタントラの修行であるガナチァクラの文脈の中ではこのバラとアムリタの供物は受け取られるべきものなのつす。タントラの修行のコンテクストにおいては肉はシッディや成就をもたらす鈎のようなものであり、アルコールは成就を照らし出すランプのようなものであるという特別な意味があることを認識しなければなりません。
 ガナチァクラで出される肉やアルコールには特別な重要性があるので
「わたしは純粋な僧である」とか「わたしはこれである、あれである」
というような観念から供物が疎んじられてはならないのです。実際のところは、戒を受けた人は一滴とほんのひと味、ごく小量にしておきあまりたくさん取るべきではありません。
 この根本的転落の別の例は、「ああ、わたしにはヴァジラやベルや手太鼓(Skt.ダマル)のような外的ムドラーや対象物はいらない。瞑想はみんな内側のことなんだから」と考えることです。「うさんくさい外的な儀式やものなどの類いのすべてのもの」を拒み、ただ「内側で瞑想する」--そういう態度と修行がこの根本的な転落を生じさせることになります。
 実際、明らかに内的な瞑想というものはあるわけですが、それでもなおヴァジラやベル、手太鼓などの外的な道具は重要なのです。それからムドラーもまた欠かすことのできないものです。アクション・タントラ(所作タントラ)を修行していてムドラーを行なうことに失敗するとしたらサーダナは不完全なものになるといわれています。
14.女性を軽蔑(誹謗)すること
 タントリックな文脈においては女性は智慧の性質を有しており、その女性を軽蔑することは根本的な転落です。特に、例えば女性は大変重い精神的な屈折があるとか、女性は踏み迷っているとか、心が安定していないとか言って、一般的に女性を誹謗するような場合がそうです。
 もしタントラの道に入るなら、こういったおしゃべりと一般的な誹謗は完全に避けられなければなりません。[なぜでしようか。それは女性というもの一般を誹謗することは、ダーキニー自身を誹謗することにもなるからです。わたしたちはむしろすべての女性をダーキニーと見るべきなのです。

 これで十四の一般的な根本的タントラの転落のプレゼンテーションを終わります。マディソンの本に見られるものが根本的転落の普通のプレゼンテーションであるのに対し、カーラチァクラのプレゼンテーションは幾分異なっています。わたしたちはカーラチァクラの十四の根本的なタントラの転落に特有の性質をいくつか知っておかなければなりません。

◆カーラチァクラの伝統による根本的なタントラの転落
1.タントラの師であるヴァジラ・チャーリャの心を乱すこと
2.ヴァジラ・マスターの命令や言葉に背くこと
3.ヴァジラの兄弟姉妹の過ちを口にすること(P.44 3参照)
4.生き物に対する慈愛を捨て去ること
「慈愛」が何を意味しているのかを明確に理解しましょう。慈愛とは命あるものが幸福と幸福の因を得ますょうにと願う心であり、慈悲とは命あるものの苦しみと苦しみの因を取り払いたいと願う心です。(P.46 4参照)
5.クンダのような白いボーディチッタが現われるのを許すこと
クンダとは花であり、白いボーディチッタとは精液のことです。カーラチァクラの修行においては、精液または白いボーディチッタを放出することは根本的な転落です。
6.スートラヤーナやパーラミターヤーナに現われる空とタントラヤーナに現われる空とを区別する、あるいは差別を設けること
 あるものに関してそれが他のものよりも良いというような区別をつけること(あたかもタントラで教えられる空がスートラの道で教えられる空よりも勝っているかのように)は根本的転藩を構成します。実際ある道で教えられている空と他の道で教えられている空の間にはどんな違いも存在しません。区別が起こるのは空を理解する心の中なのです。スートラの道の修行によって空を理解する心はタントラの道によってそれを理解する心に比べると比較的粗雑です。しかしリアリティーそのものについては二つの間には絶対にいかなる区別も存在しません。
7.まだ成熱していない人々にタントラの秘密を漏らすこと(P.50 7参照)
8.集合体(P.52 8参照)をけなすこと
9.空を見捨てる、あるいは拒むこと(P.54 9参照)
10.慈愛に関して心と口の間に矛盾(偽善)を持つこと
 言い方を換えると心と口の間の一致がない、つまり多くの慈愛をもって大変親しげな言葉を語りながら、心では敵意や悪いもくろみを培っている、そういう慈愛のことです。
11.十一番目の根本的な転落は、ヴァジラ・チャーリャと彼のコンソートが合一に入り白いボーディチッタを保持しつつ最高不変の至福を経験する環境に関係しています。
 ラマは帰依者にこの経験を説明します。そこや帰依者がこの類比を単に通常のセックスと取り、この経験の有効性を疑うと、その疑いがこの根本的転落を構成します。
12.本物で完全に資格のあるヨーギ、ヨーギニーの欠点(または過ち)をあげつらったり非難(あるいは軽蔑)したりすること
 例えば、もしそういったヨーギがコンソートを抱いたり、あるいは酒を飲んでいるのを知ったり見たりして、その人を非難したりすると、これが十二番目の転落を来します。
13.タントラの誓約に自己を捧げないこと(例えばガナチァクラまたはツォ(P.56 13参照)の間にバラとアムリタの供物を受けない)
14.女性を軽蔑すること(P.60 14参照)

 以上がカーラチァクラの伝統に従って与えられる十四の根本的なタントラの転落のプレゼンテーションです。わたしたちはこれを極めて明確に理解しなければなりません。それはタントラの修行に必要不可欠なものです。この十四の根本的なタントラの転落を理解した上で、それを犯すことを避けるように努めましょう。
 根本的なタントラの転落が起こるには、タントラの戒を受けていなけばなりません。もし戒を受けていなければ、こういった転落は起こらないのです。根本的転落を招く第二の条件は心が正しい状態にあることです。精神的に乱れてこういった行為の一つが起こってしまったらそれは根本的転落ととはなりません。
 憧れる(切望する)ボーディチッタと引きつけるボーディチッタ(第五番目の転落)は別にして、その他の十三の一般的な根本的転落全部が完全なかたちで起こるためには、四つの拘束する要素がそこになければなりません。十三の戒を破るとき、もし四つの拘束する要素がそこになければ、根本的な転落は起こらないということです。その代わりに起こるのが二次的転落です。ですから、ボ一ディチッタを特に注意して保つようにし、自分自身で保つことを拒まないようにしなければならないということになります。

◆四つの拘束する要素
1.転落を不利なものあるいは誤りと見なさないこと
2.将来そういう行為を避けるという態度を持たないこと
 第二の拘束する要素の例は、自分のヴァジラの兄弟の欠点(誤り)を口にするという転落を犯しながら、「ここには誤りはない……わたしはこれからも同じようにやっていけばいいんだ」と考えることです。
3.その行為において「あれは本当に素晴らしかった」と考えて喜ぶこと
4.恥じるという感覚が全くなく、他者のことを思いやることもなくその行為を行なうこと
 「恥じる」という感覚と「他を思いやる」という二つの表現を理解してみましょう。恥知らずな態度は自分自身を根拠とし、不健全な行為を避けることに失敗する因となります。自分自身の自尊心に関していえば羞恥心というのはプライベートな、あるいは個人的なことです。
 「この行動はとらない。これはわたしがやるようなことではないから」というふうに考えることです(その反対は恥知らずです)。
 これは「他の思いやりの欠如」である二番目を理解すればもっとはっきりとわかるかもしれません。わたしたちはこの態度をとることによって他を根拠としてしまい、不健全な行為を避けることに失敗します。例えばブッダや菩薩や周りの人々のことを思って、
 「彼らが何を考えようと問題ではないさ。彼らのことは全然気にする必要はない。どっちみちわたしはそれをやるんだから。」
 と言う場合がそうです。ですから、一方では自分自身にかかわっており、他方は他者にかかわっているのです。羞恥心を持たず相手を思いやらないで転落にかかわることが第四番目の拘束する要素です。
 もし十三の根本的な転落の一つにこれら四つの拘束のすべてが存在していれば完全なる転落が起こります。
 次に来る説明では八つの副次的な転落へと進みます。これを理解するのは非常に大切なことです。この戒に従いその転落を避けることは我々が行なうべき大変実際的な修行のかたちです。

◆八つの副次的なタントラの転落
1.二次的転落の第一番目は、次に挙げる三つの不可欠な特性を持たないコンソートと共に修行をすることです。
(1)彼女はエンパワーメントを受けていなければならない
(2)彼女は誓約と戒を完全に守っていなければならない
(3)彼女は自分自身タントラの修行をしていなければならない
 どんなタイプでもよいから単にコンソートを持てばよいというのは正しくありません。
2.三つの態度を持たずに合一を修行する
(1)自己の身体を神とみなす
(2)自己の言葉を神のマントラとみなす
(3)自己の心を法、ダルマとみなす(ダルマカーヤに関して)
3.エンパワーメントを受けていない人々やエンパワーメントは受けていてもタントラの修行に信を持たない人々に対してタントラの神々(ヘーヴァジラ、カーラチァクラ、ヴァジラ・ヨーギニー等)のイメージ(画像)やタントラの論文やタントラそのもの、それから自分のヴァジラやベルをも含めた法具をあらわにしたり見せたりすること。またそういう人々に対してムドラーやいろいろなタントラ的なダンスの動きを見せたりするべきではありません。今挙げたうちのいずれにせよ見せてしまったら副次的な破滅を招きます。
4.ツォの間に喧嘩をすること
 ツォを供養する完全な集いは男女の両方から成っているものです。
 男性しかいなければ一部の、つまり男性だけの集まりと見られ、女性しかいなければ一部の、つまり女性だけの集まりと見なされます。完全なものであっても部分的なものであってもこの三つの集いのいずれかが持たれているときに口争いをするような言葉を吐いたり、他の人を叩いたりすると副次的な転落を招きます。
 ツォの間は全くしゃべらない方がいいですが、もししゃべるなら法を語った方がよいといわれています。法に捧げた会話をしないのであればただ沈黙していた方がよいのです。
 ツォを執り行なうことは膨大な恩恵があります。これがもし正しく行なわれれば大変素晴らしい恩恵が得られますが、一方、もし適切に行なわれないとしたら大きな損害となるでしょう。
5.信を持つ人を惑わしたり欺いたりすること
 これはある人がダルマとその修行について非常に熱心に質問してきたときに、自分は正しい答えを知っているのに誤った答えでその人をだますような場合に起こります。しかし、もし単に知らないで無智から間違った答えを出したとしたらそれはまた別問題です。
6.多学の修行者(Skt.シュラーヴァカ)の家に七日間とどまる
 これは特にタントラやタントラの修行を蔑視してそれを時間の無駄、価値のないものと見なしている多学の修行者のことを指しています。
 目的があり、そういう人の住まいに滞在することが本当に必要であるなら副次的転落を招くことはありません。
7.次の二次的転落はタントラの修行をほんの少し、例えば初歩のリトリートや生成と完成の段階の修行をほんのわずかばかりやった人が、自分は超能力や優れた洞察を得た偉大なるヨーギまたはヨーギニーであると考え、これを他の人にも言うことです。
8.信のない人々に法を教えること
 これはより明確にいえば、信のない人々にタントラの教えや訓練を与えるということです。タントラの文脈においては簡単に漏らしてはならない多くの秘密の点があります。これをすることによって八番目の副次的な転落を引き起こします。

 以上が副次的転落の八段階のグループですが、この副次的転落の特定のプレゼンテーションに含まれていないものも他にいくつかあります。
 その補足的な副次的転落のうちの一つは、初歩的なリトリートも締めくくりの火の供養も一度もやったことがなく、この準備段階を完成しないで、
(1)他人にイニシエーションを与える、すなわち自分の弟子をマンダラに導くこと
(2)セルフ・イニシエーションを行なうこと
(3)聖職授与、聖別を執り行なうこと
です。もしもまだ初歩的なリトリートと火の供養を終えていなければ、この三つの行為は禁じられています。もし準備段階の修行を終えないでこの三つのどれかを行なうならば、この副次的転落を犯すことになります。これは非常に重要なものですから、それが起こらないように誓戒しなくてはなりません。
 また、別の副次的転落は特別な理由なくして個人的解放(Skt.プラティモクシャ)の誓願や菩薩の戒に背くことです。
 これで根本的な転落と極めて重い副次的な転落の説明を終わります。
 副次的転落は根本的な転落よりも軽いというのは其実ですが、それでもやはり副次的な転落も重大なものです。

◆五つのブッダの家族に関連した十九の誓約の義務
 前に挙げた転落に加えて、わたしたちが受けたようなエンパワーメントを受けるときは五つのブッダの家族に関連した十九の誓約も受けるとになります。
1.ブッダ・ヴァイローチャナに関連した六つの誓約
 最初の三つは三種類の道徳あるいは道徳的規律に従うことです。
(1)僧院のものであろうと菩薩のものであろうと、自分が受けたいかなる戒であろうともそれに従う道徳的規律
(2)菩提心の動機を持って健全で高潔な行為を行なうこと
(3)助けが必要な魂に奉仕すること
最後の三つは
(4)ブッダに帰依をすること
(5)法に帰依をすること
(6)サンガに帰依をすること
2.ブッダ・アクショブヤに関連した四つの誓約
(1)「金剛の心(ヴァジラ・マインド)」の誓約。この誓約は手にヴァジラを取って誓願します。ヴァジラは実際のヴァジラ・マインドの外的な象徴で不可視の至福と空の智慧である内的なヴァジラ・マインドを心にもたらします。簡単に言えば心に象徴と内的ヴァジラ・マインドの両方をもたらすのです。
(2)「鈴の言葉(ベル・スピーチ)」の誓約は儀式に使うベルを手に取り空を理解する智慧を思い起こすことによって守られます。
(3)「ムドラーの身体」の誓約は自分自身を神として、この場合ならカーラチァクラとして発生させ、そしてその神に同一化することによって守られます。
(4)自分のヴァジラ・チャーリャ、ヴァジラ・マスターに一日六回供物を捧げる誓約
3.ブッダ・ラトナサンバヴァに関連した四つの誓約
 布施(寛容さ)には四つあります。これを説明する前に、実際の布施(寛容さ)の修行というのは、お金でも他のどんなものでも、施す物品そのもののことではないということを明確に心にとめておかなければなりません。物品は布施の物質的実体あるいは対象物であって、実際の布施は心、施そうとする態度や意図なのです。次に挙げるものは四種類の布施に関連したブッダ・ラトナサンバヴァの四つの誓約です。
(1)物質的布施は食物、衣類、金銭等の物質的なものをあげるという意図。
(2)守護を与えること、実際には恐れないこと。これは生命体を危険な状態から解き放つことに関係しています。例を二、三挙げてみましょう。
・人を牢屋から連れ出すことができること
・道の上に昆虫を見つけて踏みそうだったらそこから取り除けること
・太陽にさらされている虫を見つけて乾燥してしまうかもしれないと知ったら道から取り除けて湿った場所に置くこと
 こういった布施の行為がこの修行に関連したものです。
(3)法を分け与えること、法の贈り物をすること。特に菩提心、偉大なる慈悲という動機からそれを行なうならば素晴らしい恩恵があります。これはヴァスパンドゥが自分のテキスト『現象学の宝、アビダルマ・コーシャ』の中で述べています。彼はまた、法の贈り物はプライドや嫉妬等の正しくない動機からなされるべきではないと暗に述べています。またスートラには純粋な動機をもって法を教えることによって得られる二十の恩恵があると述べられています。これは法の玉座に座っている間にだけしかできないというものではありません。法は公園を歩き回りながらでも他の人といっしょに散歩しながら分かち合うこともできます。純粋な動機から行なえば大変素晴らしい恩恵が得られるでしょう!
(4)慈愛を与えること。これは慈愛、すべての生命体が幸福であり(幸福の因を持ち)ますようにという願いを繰り返し培うことによって行なわれます。
4.ブッダ・アミターバに関連した三つの誓約
(1)「外側」を保持すること
 これは外的なタントラ、すなわちタントラの分類の最初の二つにあたるアクション(所作)タントラとパフォーマンス(行)タントラを保持することです。
(2)「秘密」を保持すること
 これはさらに高度な部類の二つのタントラであるヨーガ・タントラと無上ヨーガ・タントラのことです。
(3)「三乗」を保持すること
 これは多聞、独覚、そして菩薩の乗です。この三乗を保持することが一つの誓約の中に含まれています。
 こういった法の様々な面が一日六回心にに呼び起こされなければなりません。

◆四種類の供養をすること
1.外側の供養
 外側の供養というのは、バター、ランプ、食物、お香など物質の供養を指しています。こういった外側の供養はなおざりにすべきものではありませんが今の自分の分相応に僕養をするべきでしよう。カダンパ・ゲシェ、プチュンパの人生を見てみましょう。物質的状況が許さなかったため、彼は初めは最もわずかな供養しかできませんでした。
 しかし序々に豊かになっていき、ついには毎日金を二十一個ずつ供養できるようにまでになったのです。
 これはわたしたちも自分自身にてはめることができる、大変実際的なものです。朝、一日をスタートする良い方法は、祭壇に供物を捧げることです。例えば七つの供養の椀で(七つでなければただ一つの椀で)行ないます。もし供養の椀を持っていなければご飯茶碗のような普通の椀を使い、その中に水を入れて供養するとよいでしょう。とにかく何でもよいら今供養できるものを供養しましょう。徐々に、供養する能力は増していくでしよう。
 供養は物質的なものだけでなく、創造力を使っても行なうことができます。あらゆる種類の美しいものを観想して構いません。例えばフルーツなど物質的に供養することができるもので、それに似たものを実際よりもはるかに多い量で想像してみます。観想の力をフルに使いましょう。自分の周りで見るものを心で供養してもよいのです。美しい夜の街灯りでもよいし、公園を歩いているときは公園を供養してもよいでしよう。そうすることによってこういった対象を実際に供養する恩恵が得られるのです。
 また、わたしたちは絶えず飲食の習慣の中にあります。そしてこの大変強い習慣ゆえにこれをさらにやり続けなければならないという事実がありますのでわたしたちが食べたり飲んだりする物は何でも帰依の対象に供養することができます。こういうやり方で何年か経って食べたり飲んだりするにしたがって、同時にもっともっと徳を積むことができるようになるのです。
2.内側の供養
 外側の供養と比べて内側の供養は自分自身の意識によってなされるもので、すなわちその供物は自分自身の存在の一部なのです。内側の供物は自分自身の意識が持つ自分自身の存在の甘露(ネクター)である五つの肉と五つのアンプロシア(神々の食物、美味の物)です。今挙げた物を供養する完全な行為には次の三重のプロセスがあります。
(1)物体(実質)の浄化
(2)それをアンプロシアとして認識し、そのようなものと見なすこと
(3)それらの増加
 この三つのプロセスを経た後にのみ供養をします。内側の供養は特に大切なものです。実際、エンパワーメントを与えるときラマは内側の供養をすべきこと、そしてそれがすべての供養の中でも最高のものであることを説いてその重要性を強調します。
3.秘密の供養
 これは三つのタイプのコンソートかダーキニーを、ラマ・イーダムに心で供養することです。ラマ・イーダムはコンソート(ダーキニー)と合一して不可分の至福と空の智慧を経験します。これが秘密の供養の過程のすべてです。
4.真如(空の絶対性、本質)の供養
 これは供養のプロセスの三要素を見るときに行なわれます。
(1)供養の対象(帰依の対象、ラマとイーダム)
(2)供養者としての自分自身、そして
(3)供物そのもの
 単に観念を負わせられたもの、単なるラベルとして、単なるサインとして存在し、生来的ないかなる存在もありません。真如(空の絶対性、本質)の供養は「見解の飾り」と呼ばれる理解とともに供養することになります。ラマでさえも真のあるいは生来的な存在を欠いているものであるということを知らなければなりません。わたしたちは非常に自然に(そしてたやすく)ラマとイーダム(あるいは瞑想の神)は、真に、または生来的に存在すると考えてしまいます。特にそういった存在を非常に素晴らしいものと見なして、「これは非常に素晴らしいラマだ。だから彼は本当に存在しているに違いない」と「これは卓越したイーダムだ……彼(彼女)は真に存在しているに違いない」と考える場合がそうです。しかしこれは間違っています。ガンポパが中央チベットに行こうとしていたとき、ミラレパは彼にこう言いました。
 「お前のグルでさえ幻影のようなものと見なしなさい。」
つまり、グルを単なる観念を負わされたもの、言葉を負わされたものとして見、生来的あるいは真に存在していると見るべきではないということです。
 ミラレパは現象の生来的な存在の欠如に関する自分の見解を雄弁に語ってこう述べています。
 「瞑想者というものはいない。瞑想の対象というものはない。しかしながら聖者(サキャ神賢)は『これらは単に非存在なのではなく、むしろ約束として存在している』という。」
 これはミラレパのこの点における深遠な理解を示しています。もし言葉だけを字面どおりに取るなら、それを理解することなくこう結論するかもしれません----「瞑想者はいない。瞑想の対象はいない。そして瞑想する心もない。」
 しかし、ここで語られているのは、この三つは生来的にあるいは真実には存在していないということなのです。「この、そして他のすべての現象」はサキャ神賢が述べたとおり、「単に観念的に負わせられたもの(観念的告発)として存在している」のです。

◆ブッダ・アモガシッディの第二の誓約は前述の五仏の戒のすべてを守る一般的誓約である
 これでブッダの五族に関する十九の誓約の短い説明を終わります。

◆夕ントラの誓約と戒に関係した三つの方法
 ブッダ・ヴァジラダーラは大いなる慈悲によって誓約と戒についてのこれらの教えに関連した三つの方法を示されました。
1.まだ誓約と戒を受けていない人々のための、それを受ける、または習得する方法
2.すでに受けた誓約を破ることを防ぐ方法
3.破られた誓約と戒を回復させる方法

 この方法はわたしたちのような心の屈折のひどい者や、精神的苦悩から転落を犯した者、そして転落を犯した者や誓約を破った者のためのものです。堕落し破られた戒と誓約を回復するための方法には三つのやり方があります。
(1)そういった回復のための最初の手段は自分の霊的指導者、自分のヴァジラ・マスターのところへ行き、もう一度エンパワーメントを受け直すことです。
(2)エンパワーメントを受けられない場合の督約と戒を回復する第二の方法は、締めくくりの火の供養とともに、基礎のリトリートを行なうことです。それをなせば転落、つまり戒と誓約の堕落を浄化するセルフ・イニシエーションを行なうことが可能になります。
(3)もし今推薦されたうちのどれも適用することができなければ、三番目の選択はヴァジラ・サットヴァの浄化のための百音節のマントラを10万回暗唱することです。それによって誓約と戒は浄化されます。これはかなりの期間かかるし簡単なものではありませんがこれもテクニックのうちの一つです。
 わたしたちは全員エンパワーメントを受けたのですから、受けた誓約と戒を守るよう最善を尽くすべきでしょう。もし転落が起こったら浄化のための三つの方法を心に留めておき、それに従うよう努力すべきです。
 日々の修行においては、朝起きたとき自分の住居を神(この場合はカーラチァクラ)のマンダラとして生成させ、着物を着て食事を取る間に衣類、食物、飲物をマントラ、オーム・アー・フームで祝福するならば転落の多くの可能性を防ぐことができます。
 これをもってこのタントラの修行の短い脱明の終わりとします。

◆振る舞いあるいは規律の二十五の様式
 最初の五つは五つの不徳あるいは悪を避けることです。
1.殺生
2.与えられてないものを盗むまたは取ること
3.姦通・不義
4.嘘をつくこと
5.酒を飲むこと

 次の五セットは五つの「すぐ次の」あるいは「副次的な不徳・悪業」を避けることです。
6.サイコロやカードを使ったギャンブル
 これは避けなければなりません。もしこれについて真剣に考えしっかりとカーラチァクラの規律・戒・誓約に従うなら、わたしたちの人生には偉大な尊厳が備わるでしょう。
7.特に自分自身が食べるために動物が殺されるのを見たり聞いたりそれが推測されたりする三つの場合には肉を食べないようにすべきです。
8.くだらないゴシップや口がしゃべるに任せておくこと
 いわゆる十悪の中ではくだらないゴシップというのは最も重くなく最もシリアスでないものです。ところが始めたばかりの修行者にとっては意味のないコシップのために、あまりにも簡単にあまりにも多くの時間、人生の多くをあきらめてしまうため、これは最悪ということになります。
 噂話をしている間に二、三時間は楽々過ぎ、その過ぎた時間はどこへ行ってしまったのか知る由もありません。瞑想のために一時間座ると身体も心も共に苦痛を受けることになるかもしれませんが、一方意味のないうわさ話をするのはあまりにも簡単で、それだけで一生を無駄にしてしまうこともできるのです。例えばサータナを唱える間には眠りに落ちてしまう傾向を見いだすかもしれませんが、無駄な噂話をしているときにその危険は決してありません。
9.両親に対する誤った追善供養(記念祈祷)
 これは死んだ両親に血と肉を供養する毎年行なわれる追善供養のことです。このような誤った追善供養や自分の両親を思い出す間違った方法は避けるべきです。
10.動物を生けにえとして供養すること
 これは古代の慣習であっただけでなく、今日でも(訳注:1982年)存在しており、例えばネパールやインドの一部では依然として動物を生けにえとして殺し、その血と肉を供養しています。これは避けなければなりません。
・五種の殺生を避けること
11.牛を殺すこと
12.子供を殺すこと
13.女を殺すこと
14.男を殺すこと
15.解脱した身体、言葉、心を表わしているものを破壊すること
 心を表わしているものの例としてはストゥーパがありますし、言葉を表わすもののたとえとしてはカンジュール(経典)、そしてブッダの身体を表わすもののたとえとして絵、仏像等がありますが、このうちのどれを壊してもこの戒に触れることになります。
・五つの怒りを捨てること
16.ブッダと法に対する信を拒絶すること
17.自分の仲間に対して怒りを持つこと
18.自分の主または師(マスター)に対して怒りを持つこと
19.サンガに対して怒りを持つこと
20.自分に信頼や信を置いている人を欺き誤った方向へ導くこと
・五種の執着を捨てることは、次に挙げるものへの執着を捨て去ることで、これは簡単に説明されます。
21.視覚的な形
22.音
23.匂い
24.味
25.触覚の対象

 これが能力にしたがって、(つまりできる限り)守られるべき二十五の規律の簡単な提示ですが、心の屈折の強い力が働くため、また良心の欠如や自覚(覚醒)が欠けているせいで、多くの誤りに陥ります。誤りを犯してしまったら、それをなおざりにしたり無視したりせず、非を認めてザンゲをし、可能ならカーラチァクラの修行をさらに進めていくに適した自分をつくる初歩的なリトリートを行なうべきです。これを行なえば、というよりもこれを行なった場合にのみ、セルフ・エンパワーメントを行なうことができ、そしてそのセルフ・エンパワーメントによって、そういった違反をしたために生じた有害な刻印を清めることができるのです。

【2】十八の根本的な菩薩の転落

 空間にあまねく存在するすべての生命体に恩恵をもたらすために、最高の、至上の解脱に達しようと発願して正しい動機を培うことから始めましょう。この動機を持って、この教えを実行に移し、完全な解脱をなし遂げたら、すべての生命体をその同じ状態に導こうという意図を持って聞きましよう。
 前にも強調しましたが、わたしたちが受けた様々な誓約と戒を知り、守ることは、それがタントラの修行に、特に生成の段階と完成の段階に必要不可欠であるがゆえに極めて重要なものです。これは家を建てることにもなぞらえられます。家を建てるためにはまず適当な場所がなければなりません。家を建てる場所や土地は、戒や誓約をきちんと守ることになぞらえられます。わたしたちはこの土台の上に生成と完成のステージの修行を建てるのです。タントラの転落と誓約の説明はすでに終わりましたが、どうかそれを忘れないようにしてください。エンパワーメントを受けたわたしたち全員、これらの転落を避ける誓願をしたのですから。
 優れた通訳者であり、タントラの修行者であったワロ・ドルジェ・ラックの言葉にこういうものがあります。
「戒と誓約を守らずしてシッディを得ることはできない。瞑想をしても純粋な道徳的規律を守らない人は修行の生命の源泉をなすもの、中心点というものを知らない。」
繰り返しますが、戒と誓約を守ることを忘れないで何度も何度も心に呼び起こしていただきたいと思います。
1.献身と名声を望んで他者の評判を落とす(あるいは軽んじる)こと
 もしこれが起こったら最初の根本的な転落が起こり、菩薩の戒が損なわれます。
2.法と富を与えないこと
 この根本的な転落は一定の法の知識と(あるいは)与えることのできる物質的なものを持っていながら物惜しみする気持ちから、請われても与えないという状況のもとで起こります。
3.謝っているのに聞き入れない
 これはだれかが何か自分に背くようなことをしてその後後悔して謝りに来て、
「わたしが間違っていました。どうか許してください。謝ります。」
と言うとき、謝罪に耳を貸さず、受け入れず、逆によけい怒ってこれに対応すること。これがこの根本的転落を犯すことです。
 この様々な転落について聞くとき、他者を自分自身よりも大切にするという態度に動機づけられている菩薩の生き方の一般的文脈を心に留めておくのは大切なことです。この文脈においては一つ一つの戒を理解しなければなりません。
 また、菩薩は他の人が怒りや執着や嫉妬といったような心の屈折を自分自身に向けないようにと祈りを捧げていることを知らなければなりません。これは菩薩が非常に頻繁に行なう祈りです。ここでこれがどう転落に関係するのかがわかります。もし謝罪を受け入れることを拒むなら、おそらく怒りや何らかの心の屈折をもって対応することになるでしょう。これはその本人にとって大変有害です。これはわたしたちも捧げるべき祈りです。他の人々がそういう心の屈折をわたしたち自身に向けませんように、と。これらの祈りは特に完全な解脱に近づくと実を結びます。
4.大乗を捨て去ること
 これは大乗を侮辱したり軽んじたりすることによって起こります。
5.三宝の所有物を盗むこと。
 これにはブッダ、ダルマ、サンガに属するものを盗むという非常にオープンなあるいは直接的なやり方、あるいはトリックやペテンという巧妙な方法が使われます。
6.法を捨て去ること。
 これは特に大乗の教えを捨て去るという態度に関連しています。『マハーヤーナ・トリピタカ』はブッダの真の教えであるということを否定するとこの転落を招きます。
7.サフランの僧衣を盗むこと。
 これには次のものが含まれます。
(1)僧を、彼が道徳的規律において清らかかどうかに関わりなく罰として叩くこと。
(2)僧の僧衣を盗む、または実際に僧から僧衣を取り去ること。
(3)聖職拝受(受戒)を僧から取り去る、あるいは盗むこと。
この三つのどの場合でも根本的な転落が生じます。
8.五つの忌まわしい犯罪のいずれかを犯すこと。
(1)自分の母親(この生での母親)を殺すこと。
(2)自分の父親を殺すこと。
(3)アラハン(解脱者)を殺すこと。
(4)悪意を持ってブッダの血を流すこと(医療のためのサンプルを取るようにしてではなく、傷つけることを望んで)。
(5)サンガに分裂をもたらすこと。これはサンガの中に意図的に分離や不調和を作り出すときに起こります。この転落を犯したらその人が住む場所は草までも乾ききってしまうといわれています。この最後のものは大変重大で不健全な行為です。
 この五つの忌まわしい犯罪の一つでも犯してしまったら、たとえ十二年間瞑想を試みてもいかなる種類の三昧も起こらないでしょう。その犯罪を犯したことは精神的成長に途方もない妨げとして働くことになるでしょう。
9.謬見解を抱くこと。
 これはカルマ(行為とその結果)の作用と前生と来生の関わり合いを否定する見解を抱くことです。
10.村や町を破壊すること。
 これは人が超常的な力を現わしてくると、それを使って全市を破壊することもできるので問題になってきます。そういった超常的な力を持っていて、それをその効果を狙って使うならばこの転落を招きます。
11.訓練されてない心を持つ人に空を教えること。
12.完全な解脱に背を向けること。
 これはすべての生命体のために解脱を得ると決意して菩薩の発願や戒を受け、そして六つの完成(六波羅蜜)をある程度まで修行したときに起こります。それからしばらくして修行に対して自信を失い、「ああ、わたしが解脱するなんてことはありそうもないなあ。いったいどうしたらそんなことができるっていうんだ。」と考えるのです。大望に背を向けシュラーヴァカ(多聞)やプラティエーカ・アラハット(独覚)の成就を目指して転向してしまうことによって、この根本的な転落を犯します。
 菩薩の戒を受けたら勇気と不屈の精神を保ち続けて、苦しむ生命体を助けるために奉仕しようという強い発願を持ち続けなければなりません。
13.個人的解放の戒(プラーティモークシャの戒)を捨て去ること。
 法を理解しない人々や若い人たちの中にはこのプラーティモークシャの誓願は多聞や独覚になろうとしている人たちだけのためのものであって大乗の道を行く者のためのものではないと考える人たちがいるかもしれません。
 その人たちはこれらの戒を不必要なもの、あるいは無益なものと考えるかもしれません。でも実際は個人的解放の戒は大乗の道全体にとって極めて重要な土台(基礎)であり、単に別の追のためのものだと考えるのは大きな間違いなのです。この個人的解放の誓願は根本カーラチァクラ・タントラにおいて非常に高く称賛されています。
14.多聞や独覚の道の修行によって執着のような心の屈折を完全に根絶することは不可能だという考えを持つこと。
 これは様々な誤った観念が生じ得ることを示しています。このように考えても、多聞や独覚の道によってこういった心の屈折が完全に根絶され得ることはサーリプッタやモッガッラーナのような偉大な阿羅漢によって過去に数限りなく証明され確かめられています。
15.誤ったスピーチをすること。
 これが実際に指しているのは、空の理解を得ていないにもかかわらず、あたかもそれを得ているかのように振る舞い、人々に「空について非常にうまく瞑想しなければならない。うまくやればわたしのようにダイレクトな理解を得るだろう。」
と言うような場合です。こういう言葉を発し他者を欺き、言葉が理解されると同時にこの根本的転落が生じます。
 またこの転落は他者の献身、尊敬、素晴らしい名声を自分のために望んで人々に法を説き、経典を暗唱するようなときに起こります。この偽りを認めないで自分の動機を純粋なものとして持ち続けながら他者を指し
「あそこにいるあの人は、献身と尊敬と大いなる名声欲しさに教えているのだ。」
などと言って転落を招きます。これが転落であることははっきりとさせておかなければなりませんが、これは十八の根本的な菩薩の転落の中には数えられていません。十八の根本的な善薩の転落の第一番目----自分自身を称賛して他者を悪く言う----の中に暗に含まれています。
16.権力を有する地位にいる王や大臣のような人がサンガからその所有物を盗むという状況。
 これは寺の中にあるサンガが食べるための供物、サンガが有している食物、そして経典などのサンガの所有物や寺のものである金銭等が挙げられます。想像してみてください。王やある大臣がサンガからこういったものを盗んだとして、それをだれか他の人に、例えば菩薩に供養するとしましょう。菩薩がもしこの供物を王から受け取ったら菩薩がこの根本的転落を犯すことになるのです。
17.想像してみてください。ここに大変まじめに瞑想修行、とりわけ心の安定を得ることに専念している人と、この瞑想者に供物を供養することを望んでいる後援者、そして実際に供物を配達するメッセンジャーとして動く第三者がいるとしましょう。次に、このディアーナを修行している人に好意を持っていないこのメッセンジャーが、その修行者への贈り物を受け取りながらその当人に渡さないで、卑に経典を暗唱し口頭で唱えることをやっている別の人にあげてしまったとします。もしこのようなことをすれば根本的転落を引き起こすことになります。
18.菩提心を捨て去ること。

 以上が十八の根本的な菩薩の転落です。この十八のうちの十六が起こるためには、タントラの戒について以前説明したのと同じ四つの拘束する要素(P.66参照)と結びつかなければなりません。この十八のうちで四つの拘束する要素がその成立に必要のないものである残りの二つは、
(1)謬見解を持つこと(P.98 9参照)と、
(2)菩提心を捨て去ること。
 もしこの二つのうちのどちらかが起こったら、四つの拘束する要素なしで根本的な菩薩の転落が起こります。
 十六の根本的転落は拘束する要素四つすべてがなければ起こりません。といっても四つの拘束する要素がなければ過ちは全くない、という間違った観念を持つべきではありません。実際非常に大きな過ちは起こるのですが、ただそれが完全な根本的転落ではないというにすぎません。それでもその過ちは心に極めて不健全な刻印をつけることになるのです。
 これは他の状況になぞらえられます。例えばだれかを殺そうという非常に強い意図を持ち、そしてその意図を持ち続けるのですが、何らかの理由によって実際のアクションがとれない、という場合です。この場合人間を殺害するという完結した行為は起こりませんが、それでもなお、その動機を持つことは当人の安寧にとって極めて有害に働きます。この菩薩を受けて大乗の法の修行に取り組んでいるわたしたち全員、この十八の根本的な菩薩の転落を心にしかと留めて、これを犯さないよう守らなければなりません。
 また、四十六の副次的菩薩の過ちというものがあります。今そこに言及する時間はありませんが、その教えを受けて、それを知ることは非常に大切なことです。そういう機会が自然に巡ってきたら、あるいは自分でそのチャンスを作ったら、その折にはこの教えを受けるようにするとよいでしよう。

◆菩薩の戒に関する三つの方法
1.まだ戒を受けてない人のための戒を受ける方法
 菩薩の戒はその資格を持ち、十の特性を備え菩薩の戒を遵守している大乗の霊的・精神的指導者から受けなければなりません。
(1)そういった師の心は道徳的戒律(Skt.シーラ)の修行によって静まっていなければなりません。
(2)師の心はサマディ(Skt.サマーディ)によって平安を得ていなければなりません。
(3)師の心は智慧(Skt.プラジュニャー)を埼うことによっていっそう平安にならなければなりません。
 この十の資質のうち最初の三つは、師の「三つのより高度な訓練」を培っていくことに関わっています。霊的な師というものはこのようなものでなければなりません。
(4)師は弟子よりも偉大な成就をしていなければなりません。
(5)師は熱意をもって困っている人を助ける人でなければなりません。
(6)師は経典の知識を豊富に持っていなければなりません。これは師が法の教えをたくさん受けていなければならないということを意味しています。
(7)次の資質は真如(空の絶対性、本質、そのようなもの)すなわち空の理解に関わっています。教えが正しく伝授されるためにはできれば実際の悟りが、あるいは少なくとも正しい観念的理解がそこになければなりません。
(8)霊的・精神的指導者は話をすることに長けていなければなりません。これは法を教えることを指しており、これで霊的指導者が弟子を指導する効率に非常に大きな違いが生じます。
(9)師は慈悲を持った人、特に弟子に対して慈悲を持った人でなければなりません。
(10)師は意気消沈したり勇気を失ったりする態度を捨てなければなりません。これは特に教えに関していえることですが、もっと明確に言えば、同じことを何度も何度も繰り返して教えなければならないような非常に鈍い弟子を教えるときにこうでなければなりません。師は同じことを何度も何度も繰り返して教えなければならなくても、憂鬱になったり勇気をなくしたりすることがあってはならないのです。
 以上が人が戒を受けるべきである、完壁な資格を持った大乗の師の資質です。

2.すでに受けた菩薩の戒が損なわれることを防ぐ方法
 ここで「四つの黒い行為(ブラック・アクション)」と「四つの白い行為(ホワイトアクション)」についての簡単な説明をしましょう。四つの黒い行為を避け、四つの白い行為に従うことによって未来際において菩提心から引き離されてしまうことから守られます。この発願を一生一生保ち続けていくことは大変重要です。この終わりにあたって目覚めた心がたゆまず培われていくことを願い、祈りを捧げることは非常に大切なことです。

◆四つの黒い行為
1.自分の霊的・精神的指導者に嘘をついたり欺いたりする。
2.徳の修行をしている人のやる気をなくさせる。
 これは人が法を修行しているのを見て、「こんなことをしている暇があったら外に出てお金を稼いで実際に成功をつかむことができるのに何をしているんだ?」
と言う場合に起こります。もし人がこういうふうにしゃべったら、それが黒い行為です。これは避けなければなりません。
3.怒りから生じた不快できつい言葉を菩薩に向けて語る。
4.より優れた意図(菩提心にすぐ先行する動機)以外の動機から生命体をだます。

◆四つの白い行為
1.たとえ冗談でも嘘をつかない。つまり笑いをもたらすという目的で嘘をつかない。
2.修行において喜びをもって人に教え込むだけでなく、小乗より大乗の道に導く。
3.すべての魂を教師として見る。
4.より優った意図を持って、非常に直接的に(あるいは正直に)生き物を扱う。
 この四つの点を、すでに受けた菩薩の戒が損なわれることを防ぐように考えられた方法として明確に理解しましょう。

3.損なわれた菩薩の戒を回復する方法
損なわれた菩薩の戒を回復するために様々な方法が考えられてきました。
(I)その一つのやり方は自分の霊的指導者のところに行って菩薩の戒を再び受けることです。実際のところ少なくとも四十六の副次的過ちのいくつかはかなり頻繁に起こるものです。
(2)もしこれができなければただ自分の前の空間にブッダと菩薩を観想し、彼らの前で菩薩の戒を受けることです。
(3)三つ目の方法は戒の回復のための特別な菩薩の祈りを行なうことです。