TOPorLINK文書館Part2カーラチァクラタントラ>第4章

◆無上ヨーガ・夕ントラの一般的根示
 例えば、ヘーヴァジラとウァジラ・ヨーギニーの修行に見られるような、無上ヨーガの一般的提示があります。タントラの修行、特に完成の段階の三つの主要なステップ、「幻影の身体の成就」「クリアーライトの成就」「合一」があるヘーヴァジラの修行を見てみましょう。
1.もしあなたが幻影の身体を得たならば、その生のうちに解脱するのは確実です。ヘーヴァジラに関する幻影の身体の成就というのは、この身体がヘーヴァジラになるということではなく、肉と骨からできている粗雑な身体とは別に様々な大小のサインがついたヘーヴァジラの身体を成就する、あるいは現実のものとするということなのです。これは十二の類比を使って理解することができます。自分から出てくる幻影の身体は、浄土など別の場所に行き、そこにいる生命体に布施をすることができます。しかし、ここにいる粗雑な生命体に直接奉仕するためには、粗雑な身体を持たなければなりません。(その動機を心に持って)幻影の身体を自己の粗雑な身体に持ち帰り溶けこませます。それによって法を教えるなり何なり好きなことができるのです。
Q.カーラチァクラの体系ではどうなんでしょうか? この(粗雑な)身体を完全に使い尽くした後、どうやって直接人々を助けるのですか?
A.それは簡単にお答えできます。解脱したら自分自身を何回でも好きなだけ現わして貢献すればいいのです。あなたはブッダであり、一瞬にしていたるところに自分を生じさせられるのですから。
2.幻影の身体の次はクリアーライトの成就で、これには二つあります。
それは主観的なクリアーライトと客観的なクリアーライトで、後者は空を理解する心です。
3.幻影の身体とクリアーライトの合一。これが完成の段階の本質です。
 もしあなたが「空の瞑想が完成の段階の瞑想なのか」と聞かれたら、こう答えなければなりません。
「いえ、それは違います。空の瞑想はスートラの修行にもありますから。」
そうしたら、さらにこう聞かれるかもしれません。
「エネルギーに集中した瞑想が完成の段階の修行なんですか?」
と。そしたらやはり「違います」と答えなければなりません。なぜでしょうか。それは、そのようなエネルギーの瞑想はタントラの修行の下位の三つのカテゴリーにもあるからなのです。こういったエネルギーの瞑想は、非仏教徒の修行にさえも見られます。神の瞑想も完成の段階の独占的な修行ではありません。なぜなら、まだ生成の段階の修行をしている人たちも、確かに神の瞑想を行なっているのですから。
 では生成の段階と完成の段階とは何でしょうか。生成の段階の定義はすでに行ないましたが、どなたか覚えてらっしゃいますか。
生徒:誕生と死とバルドーの浄化だと思います。
ゲシェ・ダルギェイ:それは完成の段階にもあてはまります。というよりもより完成の段階にあたります。死・バルドー・誕生の浄化を実際にもたらすのは完成の段階だからです。
 少なくとも二段階の道の定義を知り、その違いを理解しておかなければなりません。生成の段階の大まかな解釈をすると次のようになります。
 ・中央管にエネルギーを引き込まないで、死・バルドー・誕生のプロセスに対応するプロセスが生じる観想を行なう人為的あるいは組み立てられた瞑想。(P.170参照) そして完成の段階の大まかな定義は次のようになります。
 ・人為的でない瞑想という手段によって、中央管にエネルギーが入り、とどまり、溶解すること。より明確に言えばエネルギーを中央管に引き、入れるためにヴァジラの身体の生命点に集中すること。

◆カーラチァクラの修行による完全な解脱の成就
 ここ何週間かにわたって見てきました教えの大まかなアウトラインでは、まず土台の提示がありました。これに続いて誓願と誓約についての教えがありそれから生成の段階と、完成の段階からなる瞑想の道の提示がありました。今度は結果が現われる段階、すなわちカーラチァクラの修行における完全な解脱の成就を検討してみましょう。
 まず第一に、普通の道において現世捨断(放棄)・ボーディチッタ・真実の見方を培うことによって自分の心を鍛え、それからエンパワーメントを正しく受けることが必要です。その後生成の段階で訓練します。第一に粗雑な段階、次に微細な段階で行ないます。微細な段階の頂点に達すると、今説明したばかりのヨーガの六部門からなる完成の段階の修行に入ります。それを行ないながら、エネルギーセンターの六つの本質的な点、つまり生殖器、ヘソ等に集中します。この過程で白いボーディチッタを除々に集め、同時にこれらの連続するセンターへの赤いボーディチッタの下降を引き起こします。この過程の間中ボーディチッタは放出されることを許されず、その結果活動エネルギーと、身体の物質的な構成要素が除々に消滅します。そしてついには赤と白のボーディチッタそのものがなくなってしまいます。この修行の結果、虹色のような空の形の身体を得ることになります。
 ヴァジラダーラはその生命体への深い思いやりから、この非常に深遠なタントラの修行を表わされました。それは銅や他の非金属を金に変えることのできる練金の秘薬のようなものです。このタントラの修行によって、わたしたちは現在粗雑な物質の性質を持ち、それゆえに苦と病にさらされている身体を、その物質的要素を消耗させることによって変えることができますし、また原初的な心と原初的な身体を、神とコンソートの性質に変えることもできます。この物質的な身体の中には怒り、執着などの心の屈折を引き起こす活動エネルギーがあります。(変質の)プロセスの中でこの活動エネルギーは消滅されます。
 ここで「原初的な心」と「原初的な身体」と翻訳されているものが何なのかを理解することが大切です。
 原初的な心(または意識の流れ)とは、絶えずわたしたちとともにあった非常に微細な心です。
 原初的な身体とは、原初的な心に伴う非常に微細な、生命を支えるエネルギーであり、やはり絶えずわたしたちとともにあったものです。意識とエネルギーだけからなる身体を持つ神の性質にトランスフォームされるものは、これなのです。
 これを理解するために、これまでいつもシアトルに住んでいた人たちがいると、考えてみてください。その人たちを最初の住人、シアトルの原住民のようなものだといってもよいでしょう。今来たばかりの短期滞在者のような人たちは、シアトルの外来の住人だと考えられます。それと同様に、わたしたち一人一人がそれを絶えず持っていたという意味で、原初的な意識と生命を支えるエネルギーの両方を授けられています。わたしたちの存在の構成要素の大部分、つまり感覚的知覚、心の意識の要素の大部分、粗雑な身体などは、単にわたしたちが短期間有している一次的な集合体なのです。しかし前にもご説明しましたように、これらは死の過程で脱ぎ捨てられ、様々な感覚的知覚は潜在的になります。死の過程での暗閣あるいは暗黒の期間の後、大変微細な原初的な心と原初的な身体(または生命を維持するエネルギー)が現われます。一つの生から次の生へと持ち運ばれるのはこれであり、他の集合体(蘊)は持ち越されません。
 このタントラの道の頂点とともに、神とコンソートの空の形の身体が具現化され、同時に直にすべての現象を経験し、そしてそれ自体偉大なる不変の至福の性質を有する意識に達するのです。これを成就したとき完全に解脱したブッダとなり、そして「七つの部門の合一」あるいは文字どおりには神とコンソートの合一を意昧する「七つの部門のキス」を成就したことになります。さらに、ブッダの四重の身体、すなわち発散する身体、智慧の真実の身体、自然の真実の身体(P.30参照)を得ます。そしてブッダとなったあなたは、今や生命体のために測り知れず役に立てるようになります。
 まだ解脱をしていない現在の状態では、あなた方は生命体の必要に応じて役立つだけの能力はそれほどありません。素晴らしく効果的というわけにはいかないということです。しかし解脱をすることによってこの能力を実現し、すべての生命体が解脱に達するまでこの完成された能力を(外の力によらない内在する力として)自然に、かつ継続的に持つことになるのです。
 前にもご説明しましたように、タントラの修行には、仏性に達するために二通りの方法があります。グヤサマージャの修行では、例えば粗雑な身体とは別に、幻影の身体を具現化させて、それによって完全な解脱を得ます。それと対象的にカーラチァクラの体系においては、この物質を実際に消滅させて、神とコンソートの身体を現わします。このやり方は両方とも完全に信頼が置け、完壁な効果を持っています。
 これらのタントラの修行には異なる複数の教えがあるという事実、あるいは、ヨーギやヨーギニーを導くいろいろな方法があるという事実だけではその教えは実際に相反しているとかそれそれ違った成就に導くということにはなりません。教えはそれそれ異なっていますが、矛盾はしていません。どれも全く同じ完全な解脱へと導きます。これはいろいろなドアのある一つの部屋を所有しているようなものです。ドアは同じでしょうか。違います。にも関わらずそのドアのどれを通っても部屋に入り、そしてその部屋は同じなのです。完全な解脱に導くタントラの修行にはいくつかの異なる方法がありますが、その完全な解脱の状態は同じなのです。
 同じことをチベットの四つの精神的伝統にも見ることができます。その一つ一つが、それそれの理由でそれそれの名前を持っています。ニンマはタントラの古い翻訳にしたがってその名がつけられておりますし、サキャは地方の、特にその地方の地形にちなんでつけられ、カギュは四つの口頭伝授の系統を有していることから命名され、ゲールクはある僧院の名前にちなんでつけられたものです。ですからこれは単に名前の違いの問題なのです。この異なる伝統のラマの習慣、強調する点、伝統にはごくわずかにヴァリエーションがありますが、本質的には皆ブッダの教えへと帰るものであり、それそれが完全な解脱を達成する真正なる手段を提供しています。ですから、教えが異なっているというだけでそれが矛盾したり、あるものが正しく他のものは間違っているに違いない、ということにはならないということを理解する必要があります。
 もしシャープな能力を持たず、それほど知的でもないとしたら、道において向上するのは難しい、とナーガールジュナは言いました。それはなぜでしょうか? ダルマの教えでは、ブッダが現象は本釆存在していると言うこともあれば、本来存在していないものであると言うこともあります。そうすれば当然あまり頭の良くない人は、ブッダはあのときこう言ったのに今度はこう言っているのは矛盾しているようだと考えてただ混乱とともに取り残されてしまうかもしれません。あるいはすべてをごちゃ混ぜにしてしまうかもしれません。逆に鋭い頭脳を持っている人は、この一見矛盾した表現を見抜いて、実際の意味を見つけ出します。
 このように、様々な伝統や弟子を導く様々な手段を鋭い頭脳と明晰な知性を持って見るならば、その理解はどんどん優れたものになっていくのです。
 ブッダの教えは特定の病人に与えられる薬のようなものだと理解してください。ちょうど薬が病人によって違うように、教えも弟子によって違うのです。例えば、非常にひどい熱の乱れを患っている人を例に取ってみましょう。熱が強く出ている間は、正規の医師が肉やアルコールを決して取らないように、と告げます。しかし、この熱の乱れは治まったけれども、風あるいはエネルギーの乱れが生じたと考えてみましょう。
 今度はこの同じ医師が、同じ患者に言うかもしれません。「肉とアルコールを取らなければならない」と。ここには実際矛盾は何もありません。
 かつては有害であった物質も、時が変われば恩恵を与えるものとなるのです。
 同様にサキャ神賢はヴィナヤ・スートラ、出家した弟子に関する経典の中で、僧は決してアルコールを取るべきではなく、またいかなる性的交わりも女性との関係も持つべきではない、と非常に頻繁に述べています。実際、同じ部屋に女性と二人きりでいるべきでさえないのです。これは大変強調され、繰り返し述べられています。非常に厳格なものなのです。これはいまだそのような行為の結果、低い領域への転生に服している生命体のためのものです。しかし、修行がかなり進み、ボーディチッタ、空の理解のみならずタントラの修行に関しても非常に高度な理解(悟り)の状態を得た僧は、サキャ神賢に女性との性的交わりと飲酒を許されます。その理由は修行が十分に進んである段階に達すると、同じ行為がわたしたちを完全な解脱の成就へとさらに押し進めるものとなるためです。
 そうすると必然的に、ここには実際どんな矛盾も起こることはありません。これを本当に知性を持って調べてみるなら、混乱ではなくむしろ信がさらに大きくなるのを感じることでしょう。
 毒を食べることができる孔雀の例を取ってみましょう。毒は孔雀を潤すので、羽根はよりいっそう鮮やかに輝いて色とりどりになるのです。しかしもしカラスが孔雀のやっていることを見て同じ毒を飲んだとしたら、カラスは卒倒して死んでしまうでしょう。同じようにわたしたちのような初心者が、非常に高度な修行をいくつかやってみようとすれば、恩恵があるどころか、有害なものとなってしまうでしょう。五つのアンプロシア(神肴:不老不死になるという神々の食物・飲物)は実際には排出物(糞便)、尿などの物質です。高い悟りを得たヨーギはこれを変化させて、実際に素晴らしい至福を経験することができます。もしこういう物質を変えることのできるステージに達したら、何をやることも自由に許されるのです。
 これでカーラチァクラに関する教えを終わります。最後の二、三の説法は、完成の段階に関するものでした。わたしたちは今この段階をしかるべく瞑想して悟りを得ることはできません。わたしたちにできる最善のことは、いつかはこういう修行を行なう資格ができるように祈りを捧げることです。さしあたっては、ただ心の流れに恩恵を与える痕跡を付けるために、ほんのわずかばかりこの修行をしてもよいでしょう。現在のわたしたちの修行でまず第一に強調されるべきことは、タントラの誓約と戒を守ることです。と言いますのも、もし十六生にわたってタントラの転落のどれにも陥らなければ、たとえ瞑想修行を行なわなくてもただひたすら純粋に戒を守ることによって、十六生のうちに完全な解脱に達するからです。