TOPorLINK文書館Part2ナーローパの生涯と教え>ナーローパの生涯と教え 哲学

哲学

現存→実存

タントラとは何か?


 ナーローパが表した思想体系は、マントラヤーナ又はマントラヤーナと呼ばれる。それはマハーヤーナ仏教の1つの様相であり、言い伝えや記述ではなく、直接的に実体(リアリティ)を知ろうという飽くなき欲求に基づく、強烈な哲学的精神の産物である。それは理知的な哲学では十分に知り尽くすことは出来ず、そのような理知性よりもむしろ“内的光”に依っている。正にその名の通り、それはリアリティ、つまりブッダフッドの精神を表していると言える。しかしリアリティを直接的に経験することは、特別で特殊な状態であるので、それはまた“秘密”とも呼ばれている。マントラヤーナの哲学的定義は、“タントリズム”という名が、無責任にもそれに当てられたために、大変曖昧になっている。それは恐らく、西洋精神が犯した、最も曖昧で、間違った見解のひとつであろう。従って、今では一般的になったこの言葉を使う前に、タントラまたタントリズムとは何かと、検討することは、有意義であろう。
 多くの西洋人のサークル、または東洋人サークルの中でも、西洋哲学やキリスト教の影響を受けたものや、また西洋と東洋の教えの中に同一性を確立することによって、東洋を西洋に和合させようとしているものは、タントリズムとは一連の儀式、ヨーガ技法、または大体‘いかがわしい’ような、その他の実践であると考え、従って迷信や魔術の世界への退化であると、見做すことが、一般的になっている。理由は簡単である。仏教が西洋世界に知られるようになったのは、むしろ危機的な時代であって、当時人々は優れた道徳性や宗教的満足を促進するために科学的思想や理性的論議を期待していた。人々は、実践しようがしまいが、キリスト教的規範を道徳的行為の基準として受け入れ、キリスト教を救いの道と定め、その結果哲学を単にアカデミックな探究に限定させた。哲学そのものは行為の方針を提供するものであり、それは人生の方法、その意義の追求として、単に頭だけではなくて、人間全体を扱うものである、というそのような可能性は見落とされた。このような偏狭主義はピューリタニズムと異端抑制によって強化された。そしてそれらのパターンに合わない全てのものに反対する偏狭的思想が確かなものとして、宣言され、それは人間を西洋的性質と同一視する習慣を助長した。その結果、多様な含蓄に満ちたシンボルで表現する、‘タントラ’と呼ばれるものは、邪道なものとされていた。時代を経て仏教思想が発展するにつれ、タントリズムとはもっと後の産物であり、アプリオリー即ち先験的に想像、仮定される清純さから、ショッキングな程に逸脱したもの、と見做された。※1 このような考えには一理あるように思われるが、しかしそれらは、様々な信条や主張が結び付いた複合体である。それは経典を不正に判断し、独断的価値基準に基づいて、不適切に研究したものであり、そしてタントラが西洋に知られるようになった最後のテキストであったが故に、それらは仏教文献の展開の最後の様相に違いない、という根拠のない仮定に基づくでっち上げです。そこには、“創世紀”における人類堕落の物語に対する宗教的懐古があるようにさえ、思われる。
 タントリズムに関するこのような空想は、これも原典に基づくものではない。このような定説やより保守的学説に対して、最近批評がなされているが、‘タントラとは何であるか?’という問題は、答えられていない。タントラはひとつの文献であると取り扱われている。これはタントラのひとつの伝達的様相に過ぎない。ではタントラとは何を意味するのだろうか? 最も古い仏教タントラ文献のひとつである“グヤサマージャタントラ”は、次のようにこの言葉を定義している。
 ‘“タントラ”とは連続性である。そしてそれには三つの様相があり、それらは基盤、現存、譲渡不能である。
 “現存”とは内在因、“譲渡不能”とは結果。
 “基盤”とはプロセスである。’

 このなぞめいた格言に対して、ツォンカーパは次のように註解している。「“タントラ”という言葉の意味は連続性である。ナーローパによると、“現存”とは実験者つまり貴重な宝石にたとえられるそのような者としての個人、つまりorあるいは、内在因としての連続性であり;“基盤”とは2つのステージ(発達のステージと完成のステージ)による共有と悟りの4つのテクニック、つまり操作プロセスとしての連続性であり;そして“譲渡不能”とは1つの場所に限定されないニルヴァーナ、ヴァジラダーラ、同一性のパターンつまり結果としての連続性である。
 一見この註釈は、それ自体が意味不明な言葉を多く並べているだけで、大した啓発を与えていないように見える。現存とは、このように一つ一つの個体性であり、その特性を表わそうとしても、それであるところのものを、或いはその存在性そのもの、としか言いようがない。それが人の中で実現するとき、それはA.N.ホワイトヘッドが言うように特定の具体的な機会への、それ自身の独独な貢献である。つまり、ひとりの特定の人間である。それはそれ自身である限り同一であるが、その機会における実現の差によってそれぞれ異なる。
 人間個人が存在するが故に、実存には少しづつ変化があるのです。貴重な宝石のような個人とは、制約なく完全に実現された実存を示す。言いかえれば、それぞれの実際の機会は、その特性に関して、この‘実存’がどのように実現するかということによって定義される。しかし、この実現はそれが進んでいく時そのプロセス自体に本来備わっている原因によって決定されるので、“実存”を内在因と言うことも出来る。連続的ではあるが、伝統的な因果の連続のようにすべての出来事が先行する出来事と後から続く出来事に固くつながって変えられない直線的な点の連続ではない。ここで言う原因的状況とは寧ろ流動的なもので、その中には実現のための難しいパターンが瞬間的に潜在している。従って、この内在因の概念は、実現のプロセス自体の内に現存する動因、あるいは寧ろそのプロセスそのものを指している。
 このことから直ちに第2の特性、則ちプロセスとしての連続性が導かれる。それはいわば“基盤”であって、その連続性に基づいて我々はプロセスを進み、またそれによってプロセスは支えられている。この発達と完成のステージの瞑想テクニックによって要約される働きには原因がないというわけではないが、この原因性は直線上の時間の連続において形成されるものではない。それらは、原因的状況、全体の現存の性質に応じて作動する瞬間に、決定される。この点においてそれらは近付いたり失ったりするものではなく、存在の一方法である、自由の行使である。自由とは、強制の、反対で、原因による決定に属するものではない。従って、原因が結果を支配するとか決定するとかと言う場合、これは言葉の不正確であいまいな使い方であり、もっと明確記すべきです。支配、そしてそれと共に決定も存在するが、それは出来事の上ではなく、中で行使される。
 この考察は、第3の特性である、‘譲渡不能’則ち結果としての連続性へと導く。すでに見たように原因的状況において、原因とは、停止したものに働きかける外的動因ではなく、この状況そのものであれ、またコントロール又は統制機能は全体としての状況に本質的に備わっているものである。このことは、結果もまた外的なものではなく、寧ろそのようなプロセスの内側で生起するものであることを意味している。このような生起とは前方表示を意味するが、このプロセスを‘目的の追求’と言えば、それもまた誤ちとなり、これまで確定してきた全ての内容を矛盾することになる。さらにまだ到達されていない目的は状況全体の中では意味がない。ここで、‘原因’とか‘結果’とかいう言葉が使われてはいても、一番大切なことは、それが時間又は空間的順序ではないということが明らかになる。ここで関係する目的論とは寧ろ、次のように認識することである。則ち、原因的状況・・例えば個人としての人間存在・・及び、全ての指導プロセス・・例えば発達や完成のステージの主観的経験・・は、目的状態によって規定され制約された目的指向的特質を持っている。これは、目的状態に向けられ、又、実際に遂行されるものではあるが、それが制約されているのは、目的状態によるのではなく、現在存在するその目的へと向かう傾向によるものである。このような純粋な目的論は人間の活動や行為の中で非常に容易に認識されるものだが、それは、これが、である。deus ex machina(機械じかけの神)的な、外的動因による自然プロセスに基づく行動を仮定する、目的論的因果を意味するということではない。
 客観的に観ると、因果のプロセスの徐切れのない流動状態は、個々の出来事の直線的連続としての永遠の時空という観念の枠組の中に置かれているように思えるが、しかし主観的に観るとこの関連づけの枠組は、本質的に別なものである。ここにその観察に使われる分析的プロセスによっても損なわれない。完全なるものが残されている。この一元的性質は同一の様式と言われ、それはリアリティはひとつであり、不可分で、自己同一的である、という意味である。従って同じリアリティが原因と結果の中に見られる、というより、それはむしろ両者を合わせたものなのである。前、後ろ、内側、外側など、どこを見ても、いつも我々は同じリアリティを見つける。それは単に同様な種類ということだけではなく、全く同じ、すなわち両極端は同時に起こるということである。
 ‘タントラ’に関する、本質的には同じであるが、より詳細な解説がパドマドカルポによってなされている。彼はそれをより明確に人間の存在あるいは‘実存’と結び付けている。そして、実存についての正しい知識は、人の実際の状況を全く異なったものとする。彼の解釈の哲学的重要性を十分に理解するためには、いくつかの導入的説明が必要であろう。彼は‘being’(あること)という概念を明確にするために、解説している。‘存在’には‘存在そのもの’つまり人間の超越的全体性という意味と;‘自己の存在’つまり個人としての自意識の存在という意味の2つがある。前者の意味においては、それは実存主義者の言うexisteng(実存)と類似性がある。カール・ヤスパースと同様に、パドマ・ドカルポにとっても、‘存在そのもの’は対象として知ることも、諸現象の背後にある主観として捕らえることもできない。それは正にそれ自身のものであり、わたしに関する限りそれは正にわたしのセルフそのものである。それは何ら決定的なものではなく、従って様々な新しい可能性に向って無限に開かれている。それはどのようにも定義または特徴付けることが出来ない。この点で、パドマドカルポの解釈は、ヤスパースの言うexistengとdas Umgreifende(全てを包含する)を合わせもっている。それに対してヤスパースがDoseinと呼ぶような、“わたしのそこにあること”とでもいうものが在る。もっといい言い方は、‘これやあれやであること’である。なぜならそれは具体的な傾向な傾向や特徴を持ち、決定されるからである。これやそれやなのである。しかし、それ自身の中にあることはわたしの‘自分自身であること’及びこれやあれであること、の中にあり、つまりわたしとはこれら全てである、と言える。このような2重又は3重の特性を持つが故に、わたしは、わたしの‘これやあれやの存在’を優先させて、その欲求(サンサーラ)の中に没入することも、わたしの‘存在そのもの’かつ‘自己の存在’を優先させて、‘これやあれやの存在’の中に留まりながらも、ブッダ(ニルヴァーナ)となることも出来るのである。最後に、ヤスパース同様、パドマドゥルパもあらゆる存在論つまりあることの理論を否定している。仏教タントリズムと西洋の実存主義思想の間には可なりの類似性があるが、2つの思想体系を同一視できると、断定すべきではない。F.SC.ノースロプが指摘しているように、西洋の実存主義者にとっては、出口がないが仏教徒にとっては出口がある。パドマドカルポは次のように言っている。存在(あること)の具体的事実を我々は“存在そのもの”の連続性と呼ぶ。何故ならそれは、静かな空が見えようが見えまいが在るが如くに、存在し続け、そして衆生からブッダに至るまでの、全てのものを包含するからである。この“存在そのもの”は、経験的に始められた経験の可能性によって汚染されず、究極の内的光として存在しています。それは、“真如”“原因の笏を持つ者”“タターガタグルバー”などと様々に言われている。、もし光の特性を内在しなければ、ちょうど石炭は磨いても白くならないように、存在は決して透明にはならないであろう。マイトレーヤは次のように言っている。思いや感情の無常性は、衆生の本来あるものではない。原初より清浄な彼らの“存在”は彼ら自身の内に、常に保たれている。
(レ・ジン・ラン・チク・キェ・パ,スヴバーヴァサハジャ)
 それ(存在)は、その“存在そのもの”から決して離れずに、10も傾向と特性を持った動・不動のものの顕われとしての、諸々の新しい可能性へと、無限に開いている。故にそれは、精神的・肉体的構成要素、物質を作り出す力、相互に作用し合う諸々の場、不浄なサンサーラに属する他の諸現象のための原因的状況となる。しかし、それが以前の汚れから浄化されるとき、それはまた、ブッダの実存的、伝達的、精神的意味による無尽蔵な生命の型作りのための、原因的状況にもなる。この意味において、それは階級“全ての傾向”また“全ての統制”として言及されている。“ヘヴァジラタントララジャ”は次のように言う。

ブッダも衆生も決して存在論的ものではない。
また“ダルマダーツストトラ”によると
サンサーラの因となるものも、
浄化のプロセスで浄化されれば、
ニルヴァーナであり ダルマカーヤである。
 そして“ヴァジラシェカーラ・マハークヤヨガタントラ”によると
  “タントラ”とは連続性である。 
  サンサーラとはタントラと見做される。
 “後の”とは超越を意味する。
  ニルヴァーナとは後のタントラなり。
 “クラス”はナン・レ;“プラマーナヴァルッティカー”の著書によって、後自らのその註解書の中で、“類似性”と解釈されている。ことなったものの中にある類似性が“クラス”である、と彼は何度も述べている。一般の人々もよく、これかれはこれかれのクラスに属している、と言いますが、そのようにこれかれの中には類似性があり、彼はこのこれかれというクラスに“殻”又は“情”という名前を与えている。この“存在そのもの”はまたブッダフッドにおける原因的要素であるから、マハーシッダラヴァパパの“原因としての連続性は、ほとんど出会うことの出来ない人である。個人である”という言葉は、“存在そのもの”かつ、自己の存在”とは個人の微細な自分自身であると解釈されるべきである。そしてナーローパが貴重な宝石のような個人と言った場合、その意味は、そのような個人はクラスとしては偉大な哲学者となるように決定された人であると言えるので、その微細な自己は最初からクラスとしては決定されている、ということである。粗雑な個人は粗雑な自己であり、彼が自分の精神的・肉体的構成要素を見るとき、彼は知覚する自己というものを信じているので、“マダヤマカーヴァタートラ”の中で“いかなる自己も、精神的・肉体的構成要素を離れては、見出せない”と述べられている。精神的、肉体的構成要素から離れて、また知覚されることなく、自己(我、セルフ)として捕らえられるものは、何もない。そして、自己とそれらの構成要素が異なると判決するものも何もない。自己という観念は認知行為の中で現れるものである故に精神的・肉体的構成要素に依存する。同書はまた次のように述べている。
従ってシャキャムニは、自己(我)は6つの力に依存すると説かれた。
それらは則ち、凝固、結合、温度、動き、空間的広がり、及び認知であり; また視覚その他の感覚である6つの基盤にも依存する。
そして彼は、心と、心の出来事について説かれた。
 粗雑な我or自己は劣った者、微細な自己は偉大な者、と呼ばれる。微細な我という場合、これはヒンドゥ教で言うものと同じである、と判断すべきではない。確かにこの微細な我は“セルフ”として言及されているが、その直接経験はセルフに対する最強の反論の根拠である。アサンガは“マハーヤーナサングラハ”の中で、人は一般的者のレベルでは自己の根拠を見ることができず、ある精神レベルに達して始めて見ることができる、と言っている。従って、“セン・キョン・キ・シュク・パ”の中の、真実を見なければ、“知性的働き”を理解できない、という記述の意味はこうであろう:つまり、機械をうみ出す行為の出現という流れがある故に、諸々の新しい可能性への開放があることを、一般の人々は理解できない,何故なら、そのような開放は聖者のレベルに達した者の場だから。同様に“ヴァジラマーラー”は言っている。
  この三界に、わたしの存在の真髄となるようなものは、決して何ものも存在しな  い。出現という流れが、この三界を、夢の中のヴィジョンのように見せる。
 人は、成熟と解放という有益な経験によって、この純粋な“存在そのもの”へと入って行かなければならないので、道が言及される。そしてそれは準備的レベルからヴァジラのレベル(of.p118. note5)まで続くので、そこには段階があり、道の各ステージが言及される。道を行くことは、すべての魂が成長し、とどまる基盤があるが故に、基盤の連続性が言及される。それはまた解脱の達成の中で、同時に生じるものなので、操作のプロセスの連続性が言及される。“笏を持つ者”のレベルに達することは、全ての‘他のための存在’の始まりである。それは偽りの善の衝動に汚されてなく、原因的状況及びその特性又は結果のプロセスの外にある。また解脱は、空のように無限に衆生がいるかぎり、続くものであるから、出現のステージがある。これが、結果としての連続性に基づいて生じる結果のステージである。その絶対的な特徴は、“経験的に始められた経験の可能性”によって作られた障害は取り除かれ、どこかへ捨てられなければならない、と考える者や、“理知的働き”の流れが捨されているニルヴァーナへと入った者の場合と異なり、その“他のための存在”が衰えない、ということである。従って、それはまた“譲渡不能”としての連続性である。
 このような、‘依存そのもの’、その指導的、指向的プロセス、その出現の結果における連続性という‘タントラ’の定義は、タントリズムの修行を行う全ての者に認められている定義である。この定義は、タントラがリアリィティの究極的合一とその直接的な認知の肯定であることを示す。よってそれは神秘主義と共通する。特記すべき重要なポイントは、それは、2つの道が開かれた世界における、我々の存在を示していることである。一方の道は、自己の‘これやあれやの存在’の器の中にある“そこの存在”に(あること)自分自身を委ねることであり、これは自分自身に対して不誠実であることである。もうひとつは、‘自己の存在かつ存在そのもの’に委ねる道で、これによって自分自身に誠実となる。しかし、この特別な状態は、偶然にやって来るものでも、観念的体系を構成することによって達成されるものでもない。それは激しい修行、奮闘し自己を形成する道の結果であり、これもまた‘タントラ’である。そして、我々の‘これやあれの存在’であることの氷結が溶かされ、リアリティーの水平線がより広く実践者に現わされるためには、その修行に明確な計画が伴わなければならない。このような修行に完全に服従できる人は僅かである。しかし、人間の歴史の広大な流れの中には、“存在”へと進化し、また我々自身の“存在”へと我々を覚醒させてくれる者がいる。ナーローパはそのような者の一人である。しかも彼の場合、その修行の全ての歩みは、伝記の中に表わされ、我々が活用できるよう、伝えられている。


タントラ経典翻訳の問題点

 ナーローパの伝記や彼の教えのエキスなどもそのひとつでありますが、タントラ経典に関しては、その翻訳者の能力が最大限に問われます。東洋の哲学用語を西洋の言葉に訳す困難さは、ただ言語学上の複雑さに依るものではありません;勿論それらも重要ですが。しかしそれ以上に思想上の相異に依ります。言語学的専門家は一般にこのことに気付いていません。僅かな例外を除いては、彼ら哲学的又は心理学的訓練に欠けており、または軽べつさえしています。その結果彼らはその作業を、一般的な誤った定説によって始めます。ある言語(例えば英語やチベット語)を話す人々は、あるものを表わすためにある‘音’(例えばd●:gやkhyi)を使い、従ってその音をその言葉である、としています。同様に、辞書のページ上に見られるような、書かれた‘印’(dogなど)がその言葉であるとされ、従って一般に‘言葉の意味は辞書で調べよ’と言われています。しかし、このあたりまえの言い回しは、極めて不適格です。何故なら、意味とは何かを意味又は象徴する3つの組の関係の、どれか1つのみにくっ付いているわけではないからです。つまり、意味とは、(1)ある人によって、(2)あるものについて言及された、(3)音又は印と結び付いているのです。言語学的専門家は、この微妙な関係に気付かず、既に定まった一般的用法を持った用語を選ばざるを得ず、その用語は両者の言語間で同じ使われ方をしているかどうかを、前もって確かめようとしません。従って彼らの行なう翻訳は、実にしばしば、たとえ表現上はどんなに首尾一貫していても、哲学上は−−仮に誤ちではないとしても−−矛盾しているのです。例えば lus は辞書には‘身体’と表わされています。そして、‘身体’という言葉は習慣的に‘心’に対立するものとして使われていますが、それはこの lus には当てはまらず、この言葉は常に‘主体によって生かされている身体’つまり‘身体一心’として使用されるのです。この lus はまた sku とも異なります。 sku もまた辞書では‘身体’と表わされていますが、これを身体に関して使う場合、それは人の存在的意義、環境における人の存在、その存在の様式を含んでいます。これ以外にも、このような例は容易に示すことが出来ます。
 一方、哲学者は考え方の相異を知っているので、それらの翻訳の不適格性を直観的に感じ取りますが、彼らは一般に東洋の言葉を知らないので、それを指摘することが出来ません。その結果、彼らは、東洋の哲学者のことで頭を悩ませないようにするが;または単に言語学的専門家の翻訳書から得た情報をそのまま、予想し得る西洋の体系の中に、適合させるのです
 東洋の哲学と西洋の哲学の間には、注目すべき相異があります。勿論、哲学に関する理解において、全体的な一致などありませんが、西洋の一般的傾向として、哲学とはある著った体系の創造である、と捕らえています。デカルト、ヒューム、バークレイ、カント、ヘーゲル、ブラドリー、その他多くの者による体系がそうです。特にそこには、全ての知識は観念として表現し得る、という確信があります。西洋思想の軸は、ウィリアムS.ハースが指摘しているように、客体(対象)です。
 客体とは、物質的にいわんや物質主義的意味において、理解されるべきではありません。それは、心の形式を示すものです。心は、ある種のデータを客観的に処理し、思索の表現としての観念でそれらを決定しようとし、そして多様性の中の統一する原理によって存在の様々な様相を体系化しようとします。従って、物理的世界が視界から消えたとしても、西洋人の心は、非物理的世界の形成によって、自己を適切に表現し続けることが出来るでしょう。それは正に、神学が超越的世界を形成したときにそうでした。人はその世界に依存していましたが、それは決して人には依存していませんでした。同様なことは、西洋哲学の主要な計而上体系についても言え、絶対なるものとしても、決して後者には依存しません’
 この客体(対象)化の傾向は哲学についても当てはまり、西洋人は極く自然に‘哲学とは何か?’と問います。
 彼らは同様なものを東洋の中にも空しく求めますが、そこでは軸は、対象を伴う、決して絶対化も客体化もされない主体なのです。西洋哲学の理想は、客体化ある心自体の対象化であり、主体自体が客体化のプロセスを経ることでしょう。一方東洋においては、主体と客体とは対立せず、一方は他方に呑み込まれ、しかしそれは対置ではなく、主体でも客体でもない何かによって包み込まれます。主体の優越性の主張は本質的には、主体がその世界の実相を決定するということの認識です。ウィリアムS.ハースはこのことに関して指摘しています:‘決定とは創造を意味するものではありません。それは、主体のある本質的様式とそれらの世界の間に、厳密な相関性がある、ということです。’それはそうなのですが、主体とは、それが包み込む客体からかけ離れて存在する。絶対的、不変的な何ものかである、と思い込むべきではありません。この主体とは、いたる処で活動する何ものかであり、それは恐らく成長し、拡張し、縮小するでしょう。このような観点からは、哲学とは客体的な現象ではありません。それは主体の中、主体的状態や存在の働きの中に、組み込まれています。主体の存在に変化があると、それに応じて知識の質や量にも変化があるのです。“タントラ”という言葉を分析したときに論じた、異なったクラスのことを思い出してください。従って東洋人は‘哲学とは何ものか?’とは問わずに、‘哲学によってわたしは、リアリティを発言し、それと共に、その中に生きるよう努力する’と言うでしょう。
 このような、思考の相異は、また別な風にも説かれます。東洋は、自然物であれ内観される我であれ、事物の特質の中の、直接的に認知される要素によって、‘それ自体’を探求する傾向があります。一方西洋は、教義的に示された要素を重要視します。それぞれの表現方法の展開において、東洋は直観による概念を使用し、西洋は仮定(公理)による概念を使います。 F.S.C.ノースロプは次のような、重要な区別を表しています。従って直観による概念とは、その全体的な意味が直接的に認識できるような概念であり・一方公理による概念とは、全体的又は一部的な人又は自然の中にある、直接的に観察されたのではない要素を示すものです。そしてその意味は恐らく、ある演繹的に形成された理論によって仮説的に提示されるでしょう!しかし、例えば‘赤’という同一の言葉は、それが知覚上の色に言及される場合には直観による概念として使われ、それがある光の波長に言及される場合には公理(公式)による概念として使われています。我々はこのような体系的な両義性に直面しており、恐らくそれは、有害両義性となるでしょう。ノートロプが直観による概念と公理による概念の、もうひとつの重要な相異について指摘した時にも、この問題は解決されていません; ‘直観による概念とは、単に個々の事象に対する名に過ぎません。その場合、それが言及するものを直接的に認知又は経験しない限り、どのような統語学的説明も、その概念が示す内容を伝達しないことを意味しています・・一方公理による概念は普遍的です。この場合、否定的には、その示す内容は、個々の審美的直観や経験としては、見い出されないことを意味します。そして肯定的には、その内容は、演繹的に形成された理論上の公理に基づいて、それらの概念の意味内容の、論理学的・文法的相関関係によって、統語学的に示される、ことを意味しています。そのような公理は、全ての場合に当てはまる、全体的な公理です。しかしこのような区分は、概念の示す内容の経験的特質が強調される場合にのみ有効で、伝統的方法において普遍的実体と個々のものに目的論的立場が与えられている場合には無効です。直観的立場が与えられる場合には無効です。直観的でも公理的でも、概念は常に普遍的で、経験のみが特定的、個別的です。認知のいかなる機会においても、知られるものは、自らをひととのプロセスとして示す。実際の経験の機会です。A.N.ホワイトヘッドが指摘しているように、それ(経験の実際的機会)は、自らを示すとき、自らを他の多くの機会の中のひとつとして置きます。それらの機会なくして、それはそれ自体ではあり得ません。また、それは、その制限された方法で、境界のない永遠の対象の領域に焦点を定め、特定の個別的な達成として自らを定めます。つまり、ひとつの概念として、心の前に連れ出されることによって、その特定の経験は、普遍的なもの、多くのものを断定できるものとなる、という意味です。しかし我々の主要な関心は、西洋は、形成的・教義的に表現され、論理的に展開され、演繹的に形成された、科学的及び哲学的理論にいきつくのに概念を使用し、一方東洋は、概念を、それが抽出された処の経験を取りもどすための、ひとつの刺激として使う、ということです。
 このような、直接的経験の強調によって我々は、具体的状況についての熟考や、感情や情報の中に顕われる、実践的又は実存主義的意識と、理論的意識の重要な区分を見のがしてはなりません。
 何故かどちらも、西洋哲学によっては、十分に扱われませんでした。実際、前後は現代哲学において無視されて来たし、後者は単に抽象的・科学的理論に制限され、それが確かな知識の唯一の源であるかのように判定されています。一方、東洋は、実践的及び理論的意識を合わせ持って来ました。東洋は実践そのものが理論を必要とすることを確信しています。(このことは、西洋でも、技術的な(テクノロジーの)知識分野では認識されていますが、他の分野ではそうではありません。御存知のように、カント及び多くの実存主義的思想家は、実践的意識の理論的意識に対する優越性を主張しました。なぜなら、存在に関する最初の最も直接的な知識を得るのは、前者から、だからです。しかし、理論的意識によって明確化されなければ、全ての実践は漠然とし混乱します。何かをありのままに知ろうと思えば、我々は理論へと向かい、実践的関心や立場から離されなければなりません。これは見解と呼ばれるものの中で達成されます。多くの場合、実践的な前提というものは、その主観性や制限は減りますが、依然として残ります。理想としては、少なくとも行為の確かな指針が可能となるような、制約されない見方を得ることです。従ってタントラは、純粋理論の行為に対する先行を主張しながらも、それらの相互の補強を説きます。知(性)的事業全体の土台となる、制約されることなくものごとを正しく見る能力と認知の不確定性が常に強調されます。
 この思考の相異は、我々の全ての哲学用語を無効にします。それらの用語は、ある前提によって汚されています。何故ならそのどれもが、タントラ的哲学のスタート地点である、制約されない見解から生じたものではないからです。従って、東洋の哲学公理を理解するとき、我々は自分たちの哲学用語の固定された一般的用法によって東洋的表現の中に西洋的観念を読み込むまないように、極めて慎重かつ注意深くあらねばなりません。最も安全な方法は、最も普遍で洗練された全く新しい専門用語を作り出すことです。わたしはいくつかのそれを試みましたが、それによって言語学的専門家の怒りを招くかもしれないことは同じ位安全なもうひとつの方法は、複数の意義を採用するテクニックです。つまり使用する定義又は区別に対して、心の奥にそれに対抗する一組の定義を伴わせることです。これによって我々は、その瞬間によいと思えたひとつの解釈を、一方的に示すことから免れます。我々の論理体系は仮説に過ぎない、と認めるだけでは、十分な解決とはなりません。それ自体は伝説に再洗礼を施すだけです。新しい仮説は、拡大された古いドグマに過ぎません。異なった論理メカニズムによって、実際に絶えず、新しい定義を描き出さない限り、比較研究する者が要求するような解釈上の実験をする能力は得られないでしょう。実際には、これは東洋哲学のひとつの用語に多くの英語の定義を与えることになります。この利点は、東洋の哲学問題に関心のある誤者が、革命的な新しく、しばしば曖昧な概念によって当惑されず、また自己の慣習的思考の様式(理想主義、現実主義、実証主義、マルクスなど)は必ずしも正しくないということを心に溜めつつ、自己の想像力を十分に働かし得る、ということです。この点でわたしは、ガンポパの著書の研究から限りない利益を得ました。それは多重の定義に溢れています。従ってわたしは、註記の中で、常に彼の言葉に言及しています。ナーローパの教義も彼の教えに基くものです。同じ意味でパドマカルパも重要です。彼は、他の多くの書と共に、先覚者、特にナーローパの師ティローパの教えに対する深遠な註解書を著わしました。最後に、“ツァンパヘルカ”その他のチベット固有の(‘口頭伝授’的)テキストは、ナーローパのメッセージの複雑な意味を理解するのには、役立たないでしょう;勿論、わたしはそれらの深遠な内容を研究し、理解し尽くした、とは言いえませんが。


ナーローパの修行の理論的内容

 以下、ナーローパの伝記の本文で単に概要されたものを、更に詳細に説明しましょう。その多くは、ただ有能なグルから学ぶことのみが可能な修行に属するものですが、もし理論的背景がはあくされていないと、修行そのものが理解できず意味のないままになってしまいます。

1. 望みを叶える宝石

 これらの修行は今日も行なわれています。主要な修行は言うまでもなく、準備的段階も、リアリティとの直接的交流を得るための、非一般的かつ特別な方法に属します。しかし、第1の実践、つまりヴァジラサットヴァの瞑想とそのマントラをとなえることは、時に一般的方法に属すると見做されます。そして次に、帰依の態度、儀式的行為が来、これに慈愛、哀れみ、称賛、無頓着(平等心)という四無量心の瞑想が解脱加えられることもあります。ヴァジラサットヴァの瞑想は、どのカテゴリーに入れようとも、その内容は同じです。
 まず、3つのステップを含んだドルジェ・センパ(ヴァジラサットヴァ)を観想します。彼は白く、頭はひとつ、手は2本で、有益な方便と識別智を象徴する笏とベルを持っています。ヴァジラ・サナという座法を組み、足の裏を上に向けて座っています。ひざには配偶者のドルジェ・ニェンマを乗せています。彼女も白く、頭はひとつ、手は2本で、曲刀と甘露の入った人頭骨を持っています。それらは、彼女の無智を粉砕し、至福を与えるという働きを象徴しています。足をドルジェ・センパの胴体、手を彼の首に掛けています。彼らの額には白い AM字、喉には赤いah字、胸には青い hum字があります。これらの文字によって象徴され示されるそれぞれの箇所から、まばゆい光が放たれます。それらは全方向の輝き、全てのブッダとボーディサットヴァ方を、彼らの男性・女性の結合体の中に招きいれます。この段階で次の祈願文を唱えます。‘いく高き方々よ、わたしそして空ほど無限にいる全ての衆生たちは、基本的またその派生的形の“真の”存在に対して不誠実であるという誤ちを、始まりとてない輪廻転生の中で、身・口・意において犯して来ました。どうか我々全てを、このような誤ちの汚れから、解脱し浄めてください。’これらは全て‘外側のドルジェ・センパ’つまりひとつの「感情的に動く形」における広い枠組の経験です。それはまたカーヤヴァジラヨーガ(ク・ドージェ・ネー・ジョー)あるいはひとつの環境におけるに至るまで生きること」ともいわれています。
 次のステップでは、1 神々の心臓のところに、円盤状の月を観想します。2 その上には5種類の超越的意識(cf. p73, 註1)を象徴する hum(字)が立っています。この文字は、ドルジェ・セムスドゥパのマントラを形成する100の音節に囲まれています。これらは文字や音節ですが、それが生命と共に振動する力であると意識することが大切です。100音節のマントラを一日中、1ヵ月間唱えます。この段階は、‘内的ドルジェ・センパ’と呼ばれ、前の段階よりも更に深い経験で、そこではマントラは話された言葉や音節というよりも、寧ろ振動する感覚です。それはまたヴァーグヴァジラヨーガ(スン・ドージェ・ネー・ジョー)つまり、真の交流に至るまで生きること’とも呼ばれます。
 文字と音節が交わる処、また男女の神々が接する処から、高い意識の流れが自分の全身に浸透し、一種の純粋な感覚と意識である清澄感をもたらす様を感じます。
 この段階では‘外’とか‘内’とかといった思いはありません。比喩的に言えば、全ての悪は悪鬼の形を取って追い出され、すべての場所は至福の意識で、満たされています。これは‘神秘的ドルジェ・センパ’つまり全てのものが一度に与えられたと感じる全体的な経験です。専門的にはチッタヴァジラヨガ(トゥク・ドージェ・ネ・ジョー)つまり、状況を真に扱う能力に至るまで生きること’と呼ばれます。3つの場合における‘真の’という言葉は全て、一般的行為の中では普通は気付かない自己存在の安全性(豊かさ)に言及しています。
 勿論、これらの経験は絶対的な意味においては、別々ではなく、相互に融合しています。それは修行の最後の段階で明らかになります。ドルジェ・セムスドゥパのマントラを唱え、清浄な感覚が生じたならば、次のように祈願します:‘主よ、我がグル我が師として「無智と感情の不安定さによって誓った全てのものから落ち、それを破ってしまったわたしを守護してください。わたしはあなたに帰依します。笏を持つ主よ、大いなる慈悲(聖哀れみ)の権化’よ。わたしは、守ることの出来なかった大小の義務の全てについて、ザンゲし償います。これら全ての悪業を取り去り、わたしを清めてください」このように適切に唱えたならば、2人の神が言います:「あなたの全ての悪業は清められた」この時、天神とあなたは、言葉では表わせない光の経験の中に溶け込み、その完全なる寂静の状態に、好きなだけ長く留まります。これは‘究極のドルジェ・センパ’つまりリアリティそのものの経験と呼ばれます。それはまたジュニァーナヴァジラヨーガ<イェシェドージェネジョー>、つまり‘我々の責任全体の基盤としての超越的意識まで生きること’とも言われています。
 このような瞑想は、同様の目的を持った次の段階のための準備的ステージに過ぎません。それは、大体は当たり前でどうしようもないものと思われている、我々の限界以上のものへと、我々の眼を開いてくださいます。それは決して、凍結した絶対と静止した理想に思いを集中させることではなく、それ自体、全ての人間的経験を意図的に構成することを表わす、ひとつの生きたシンボルです。我々は何かを行うことなく行為できず、何かを知ることなく認知することは出来ません。従って客体には主体と同様な価値が与えられます。知るという行為は、知る主体の中に、不確定で相関的な形体として存在しています。一方対象は確定的で明らかにそれ自体の基盤を持っています。この二元性は、不確定であるが故に空である相関的な形体が対象によって絡らされたときに、克服されます。このように特別な相関的結合があり、それは哲学的には「知的同一性」と呼ばれています。ドルジェ・センパの経験は知的なものですが、これは全く非感情的である、ということではありません。それは高い意味において感情的です。それは正にこのような統合的意識の行為における至福であり、その喜悦(エクスタシー)はその認知能力に比例します。これら全てのことは、パドマドカルポのドルジェ・センパに関する定義の中で示されています。引用「人を形成している相関的構成の不可分性による至福がドルジェ(vajira)あるいは知的能力である。一方センパ(sattva)あるいは三界全体は末端の対象である。2つの結合の譲渡不能が、真意の直観的認知である」(Sphyd 21a)。現代哲学的に言うなら、最後のセンテンスは、連続的プロセスにおける差異は、その本来的統一性によって超越されているのであると言うことができる、となります。
 究極のリアリティの精神性(霊性)と合一するための前提条件の完成は、グル達の系統を通じて可能となり、それは2つの相を持ちます。第1の相は功徳の完成、第2は超越的意識の完成と呼ばれます。一般には、これらの完成の修行は、布施、持戒、忍辱その他のマントラヤーナ的完成を言いますが、我々は今瞑想修行に関わり、象徴の世界を旅しています。従って最初の修行は(自己の)グルをドルジェチェン(ヴァジラダーラ)のリアリティの権化(体現)であると思うことです。それは5つのブッダのクラスの主であり、リアリティの全構成要素が基本的にはひととであることの象徴です。彼は、恐れない心と全ての邪なるハンカーの征服を象徴する8匹のライオンによって支えられた、玉座に就いている、とイメージします。彼の座は蓮華と月と太陽によって形成され、それぞれは邪に汚されないこと、無明の闇の追放、超越的意識の穴の広がりを象徴しています。また、自分のグルは、濃いブルーで、それは不変なるリアリティを象徴すると観想します(この色は、熱帯地方の変わらないブルー・スカイ(青い空)に因んで、採用されました。彼は交差した手に笏とベルを持ち、それは空と慈悲の不可分性を象徴しています。空とは絶対的な否定ではなく、どんな対象によって終わらせられるかもしれない、認知するという行為の、不確定で、相関的な様相を意味します。どんなものとも合一するためには、空(虚)であり、どのような偏見にも影響されず、自由に働くことができなければなりません。象徴的形体としては、それはドルジェ・チェンの配偶者ドルジェ・ネージョーマ(ヴァジラヨーギニー)です。彼女の身体は赤で、全てを捨てて彼を抱えようとしています。それは最高の強いエクスタシーを表わしています。彼女は手に曲刀と人頭骨を持ち、これはそれぞれ我々の主体と客体の区別の捨断と、惜しみない至福の祝福を、表わしています。2人の神の付けている様々な装飾品は6つの完成と、大小の身体的因を象徴し、後者は全ての特質が彼らの内に現われている、ことを示しています。彼らの花輪は、そこから世界と、深遠または一般的仏教教義の言葉が形成されたという音を、象徴しています。彼らは、5種の超越的意識を有しながら、世界の全方面へと広がる5色の光に包まれています。更にまた、彼らの前には象に支えられた玉座があり、その蓮華と太陽の座の上には、カジュパ(カギュ派)の守護神コーロードンパ(チャクラサンヴァラ)が座っています。彼は大勢の他の神々に囲まれ、彼らの南にある馬に支えられた玉座の蓮華と月の座には、歴史上のブッダ(サーキャ・トゥパ・サキャ神賢)が、過去、現在、未来のブッダ方に囲まれて、座っています。
 また、西方のクジャクに支えられた玉座の同様な座には、識別理解意識の完成の体現である‘大いなる母’(ヤン・チェン・マ)が、仏教経典に囲まれて、座っています。北方のシャンシャン(鳥の頭を持つ、翼のはえた、伝説上の動物)に支えられた玉座には、アヴァロキテシュヴァラ(チェレシク)が、仏教の3つの生命の道の実践者(シュラーヴァカ,プラティカブッダボーディサットヴァ)に囲まれて、就いています。そして空間の開いているところ全てに、宗教の守護者たちや他の助けとなる力をイメージします。このように主要な目的は、極めて感動的な状況を創り出すことです。これらを為したならば、手を合わせて彼らを拝し、彼らに全世界を供養します(これは、指である因を作ることによって、なされます)。そして自分のなした悪所をザンゲし、他のなした善を喜びます。次にブッダ方にダルマを広めてくだされる懇願し、また衆生が彼らの導きを必要としている限り、ニルヴァーナに入らないで欲しいと、嘆願します。最後に、この儀式を行うことによって得た善業(功徳)を要求せず、それが解脱の助けとなるよう、回向します。このように功徳の実践は、ゴールへと向かうひととのステップであって、自己増大のための手段ではありません。
 この誓いを好きなだけ行った後、このヴィジョンを自分のグルの中へと溶け込ませグルのイメージと自分自身は、別の静寂感のうちに融合します。
 超越的意識の獲得は、この段階の修行の始めに唱える2つの詞章によって示されています。それらは、オーム 全てのもの(存在)は本来純粋であり、我藻相なり、フーム及びオーム 我は本来 空、超越的意識、そして不滅なり、フーム
 純粋に哲学的観点から言えば、第1の詞章は、我々の世界を形成している全てのものは‘純粋であり’汚れていない、何故ならそれらは単に現われであって、それ自体独立したものではないからである・・ということを表わしています。しかし、それらは非現実(非実体)ではありません。実際、現われとして我々が認知し得る現実(リアリティ)であって、全てのものは、‘現われ’となることによったその存在性を我々に認知させているのです。
 重要なポイントは、‘現われ’となる動的な様相とは、ある意味ではわたしそのものである心の、絶え間ない活動を意味する、ということです。別な言い方をすれば、心であるわたしは、わたしがわざわざ知ろうとする対象の世界を創っている、ということです。しかし世界を創っているとは、ex nihilo (無からの)創造というよりも、むしろ構成し顕すことです。それは、西洋の用語で‘唯心論’的唯我論と言われるものと、完全ではなくとも、ある程度の類似点があります。決定的ポイントは、この心の活動において、心の前に現われるものは、経典が‘五感の対象は真に存在している’と宣べているように、それらは真実である、と信じられていることです。西洋及び東洋のほとんどの唯心論(観念論)的体系は、このポイントに至っていません。特に西洋の唯心論的体系は、五感の対象を精神なものとして定義する傾向にありますが、ほとんどの仏教体系では、そのような結論は出さず、ただ五感の対象は存在し得る;経験は精神的な現象である;しかし経験されるものは精神的であるとは言えない、と主張するに留めています。
 しかし、更に分析が必要でしょう。それは第2の詞章によって為されます。その主張は、より詳しく検討すると、主観的相は、その対象への関与においてのみ意味を持ち、無意味である。何故なら、唯心論を主張する場合、主体は客体へと変えられてしまっているか、ということです。主体と対象と・・前者を後者に移すのでなく・・超越することによって、我々は主観でも客観でもない意識するという活動、意識するという活動そのもの、輝々しく明晰な活動そのもの、へと到達します。これが空(sunyata)であり、超越的意識(jnana)であり、不滅(vajra)であるという言葉と、五感の対象は幻であるという主張(cf. p267 註D, P41 註2)の意味である。
 しかし、これら全てのプロセスは単に理知的なものではなく、逆に理知的体系は、直接的経験の結果です。従って経験が言及されるやいなや新しい一連の象徴が使われます。この主体と客体を超えた経験は、nadaという言葉を使って、言及されています。この言葉は、その象徴的な特質故に、チベット語には訳されていません。その文字通りの意味は‘音’ですが、それを経験することは、我々の全存在が震動し、空と超越意識と不滅以外には何もない状態であるとしか、どうにかあえて表現する以外にできません(kylg 26)。それは、無比のブッダフッドの表現であるグルと合一するための土台となる空の経験です。このように全ての外的関与が沈まり純粋な意識に到達すると、人は自分自身をドルジェ・ネージョルマであると意識しなければなりません。彼女の形状はドルジェチェンの配偶者に似ていますが、いくつかの異なった特徴を持ち、また異なった体位を取っています。彼女の頭上の真上に、ドルジェチェンの形の自分自身のグルをイメージします。彼は豊かに飾られて玉座に就き、彼の上には、特定の派の伝統を象徴するグル達の系統をイメージします。カジュパ(派)の場合、現在その数は極めて多数です。この目的は、識別的かつ鼓舞する霊感を与える機能と合一することによって自分自身を超えて、それぞれのグルの中に現われている究極の実体に到達することです。それは、全ての修行者の異なった要求を満たすために、それぞれのグルの中に、それぞれ異なった様相で現われています。ここでも最後はすべての顕現された形が融合する光の経験です。
 この修行全体は、精神的昇華のプロセスです。それは人をその制約から解放し、彼の内に、神秘家の言うような神との親近感を目醒めさせます。より平易に表現するなら、自分自身を異なった次元、変化する肉体の次元よりも、より高い次元で観るようになります。彼は自分自身を、3次元的には定義できないような様式、、パターンで、意識するようになります。それは、sku, gsun, thugs, ye-ses という様式です。これらは最近身体、言葉、意識(精神)、知識と訳されているようですが、我々が一般にそう理解しているようなものとは、全く無関係です。3次元的レベルにギヤを入れられている日常の言葉は、より高いレベルの経験を表現するのには不適切です。ノエル・ジャカンは指摘しています:‘ある象徴を3次元的言葉で表わそうとする試みが繰り返しなされて来たが、それは単に全く誤った観念を生み出すだけであった。それらはしばしば、その象徴が表わす実際の内容とは全く関係のないものであった。’(ノエル・ジャカン“計而上学的影響力の理論”p29)。
 このような変化のプロセスは、同時により高いレベルへと昇り、より大いなる領域へと入るものですが、それは、究極的にはリアリティそのものである有能なグルの、確認を必要としています。それには4つの確認がありますが、このプロセスは数で理解できるものではありません。
 今まで述べて来たものは全て、変化の様式全体における、様々なステージを実践するための準備に過ぎず、従って成熟へと至る道、と言われます。発達のステージ、及び両者の究極的合一が、実際の解放の道です。解放とは、達成すべきゴールというよりも、むしろ存在の様式です。
 発達のステージとは、基本的には自分自身を神々として経験する方法ですが、それは自然や人の運命を支配する力を持つ者として崇拝されている、超人的な存在者、という意味ではなく、むしろそれ自体の輝きを持った幻のような者です。ガンポパは‘発達のステージ’という言葉を、形状、変貌、象徴を表わすものとして説いています(“ガンポパ”viii 8a)。第1の言葉によって彼は、そのような神々の形状は、全てを包む精神性の顕現であり、それは虹や幻のように触れることのできないもの、として理解しています。第2の言葉によって彼は、血と肉から成る身体に対する先入観が消滅した後、神々の身体は、光輝く特質を持つことを、強調しています。最後の言葉によって彼は、神々の姿は他の亡霊たちと同様にリアルであるが、それは何かものを表わすのではなく、単に名前であり、シンボル、日盲号又は慣習あり、それ自身は空(虚)である、という認識を説いています(“ガンポパ” viii 8a)。
 一方パドマドカルポは、‘発達のステージ’をプロセスかつ結果を表わす言葉として定義しています:’“発達”とは、他の衆生が生まれるように、神々を作り出すことを意味します。“ステージ”とは、このプロセスを徐々に浄化・完成させながら、神々を作り出すことを意味します。また作り出されたものは神々で、“ステージ”とはその周辺です。また“発達”とは、住民と住居(つまり神々とその宮殿)の真髄で、“ステージ”とはそれを自己の“あれやこれやの存在”の中に直観的に認知することです。従って発達のステージあるいは mandala が言及されます。 mandala とは真髄を意味し、la とはそれを受け入れることを意味するからです(Sphzq 75b)。
 この修行は、どの経験もプロセスも3つの様相から成り、それらは生起、現存、衰退で、より一般的には誕生、中間段階、死、と呼ばれています。中間段階は、それに対する見解の相異によって異なった解釈がありますが、基本的には人をその限界から解放し、宇宙的スケールのものと‘同調’させる方法です。従って、このように言われています:“身体かつ心”を低く評価するという汚れを克服するためには、それを神々の誕生と同調させなければなりません。何故なら、誕生とは、あるパターンつまり実存的様式の顕現だからです。現われ(つまり人の“これやあれやの存在”)を何か堅固なものと信じるという汚れを取り除くには、それを夢のイメージと同調させます。究極(つまり達成された目的として存在する)ことの顕現である死についての誤った考えによる、恐怖を取り除くためには、眠り(つまり意識的に目ざめてから気を失うこと)を全ての生命の源であり本質である、原初の輝かしい光と同調させます’(“ドチョブ”8a, “トスク”9a)。

 古代人の信仰によると、4つのタイプの誕生、つまり子宮、卵、熱と水分、そして自然発生的な誕生があります。それぞれのタイプはある方法を象徴しています(  3a)。最も複雑な方法は子宮による誕生で;中間的なものは、特にナーローパとミラレパによって開発された卵による誕生で、それには2つの様式があります。鳥の様式においては、鳥は後になって羽をはやし、いわばその中に住むように、まず神々自身が作り出され、後にその宮殿が作り出されます。もうひとつはカメの様式で、カメが卵を生むと同時に、そこにその外殻があるように、神々とその宮殿は同時に作り出されます("ドチゲシ"3b"スフェギグ"78b)これらは別に適用されるより簡潔な方法は、「三相のプロセス」と呼ばれます。それは土台、その上の種子、神の最後の形へのその変貌という3つのステージを示しています。土台とは、八花弁の蓮華で、その上にある文字の載った月の円盤があります。これはまた、人が瞑想し融合することを望む、神へと成長する種子です。
 熱と水分による誕生の様式においては、太陽の光線によって開かれた蓮華は熱を象徴し、一方種、つまり、月盤の上にある中間状態の知的能力を表わすことをシンボル文字、は水分を象徴します(cf. Sphzg 75b)。
 最も簡潔な修行法は、上述の修行で重要な役割をなしていたマントラ音節を使用しない自発的【or自然発生的な】観想、および経験です。
 これらの音節は、発達のステージにおいて何度も現われますが、それらはこのステージの主要な特徴ではなく、それらに心を奪われることは、その目的そのものを defeats います。ポイントは、意識をこれ以上ない明瞭さへと導くことです。それは、可能性としては発達のステージにすでに現存しているので、それを引き出すことは、このプロセスが成功したという確信を得ることです。その意識そのものが完成のステージです。前者から後者のステージへと移ることは、いわば力点が客体の極から主体の極へと移されるようなものです。しかし、この移行において、別なレベル【段階】や世界が現わされます。発達のステージは、知覚する人を固定した関係点として持った、一般的空の中で適応が行われるといえますが、;完成のステージにおいては、その認識および感情的構成要素は四次元的時空に属し、それに五次元としての同一性の関係が加えられています。この関係は、対象を単にその外観や観念ではなく、それそのものとして知り、またそれに対応してその影響を受けるのではなく、ただ知ることが可能であることを意味します。このように、論理学者が言う、知る主体と対象の同一性の形式は、経験的事実なのです。
 リアリティーのように広い様相への同調、および、このように識別領域を広げることには、いくつかの行動様式が伴います。経典では七つを数えています。先ずは当然、食べ物と飲み物が挙げられています。しかしそこには、食事の規定は全く示唆されていないことを知ることが大切です。共存する行為をそのように解釈することは、より高い次元の経験を三次元的に歪めるというわなに陥ることです。それは「場違いの具体化」です。洞察力を持つ達人は、外的関係によって制約されないリアリティーの領域から、先入観なく飲食を楽しみます。しかし平凡な者はそれらを夢の中でのように楽しみ、最も低い者は守護神に供養するかのように楽しむでしょう(cf."ドチョブ"29 b〜)。「このような経験的特徴は、他の行動様式にも伴いますが、この場合でも、神聖なるもの【神との】接触が保たれていなければなりません。」

2.一つの価値

 一つの価値における教えは、それまでに修行したすべてのものの特質と目的を要約しています。すでに述べたように「発達のステージ」および「完成のステージ」という言葉で言及されている修行は、意識の対象や内容に没頭することは意味しません。最初は、意識はそれらと結びついているように思われますが。またそれを一つの観念体系に形成しようという意図もありません。自分自身を神々や女神と思うということは、自分自身を時空の中の何か神々と呼べる対象として認知することではなく、時空の制約を容易に無視できるより広い文脈、より大きな領域に気づくことです。拡張し続ける思想形態を必要とする、我々の習慣的な客体化的思考と違って、これらの修行の目的は、純粋に透明で、明るく輝かしい状態に達することです。そこでは連続する諸現象は、いかなる観念にも歪められない、空の形体としてのみ現われます。このように、強調点は主体にあるように思われますが、この場合の主体とは、自らを超える活動の最初の点であり、場にすぎない、精神−肉体的な主体とは同じでありません。それは、後に対象と直面することによって、一般的にいう「主体」となるようないかなる主体も存在する前から存在しているもの、つまりリアリティーに言及しています。換言すれば、上記の修行の目的は、完全なる反客体化です。それは、西洋思想の“観念的思想を客体化することによって、、自己認識に達する主体”をも含めてです。そして、生命の瞬間瞬間に新しい発展への可能性を表わしている、構築されたプロセスを、直接的に経験することです。これはすべての個別の形体の中に見られ、それらの差異を融合させる統一のプロセスに気づくことと同じです。この反客体化は、常に増大する明るさと透明さとして表わされます。それは知識の進歩であり、また・・もし悟りとはリアリティーがより明白に現われ、リアリティーとよりいっそう合一することを意味するならば、・・それは悟りの増大です。大切な点は、リアリティーとは決して客観的な「絶対なるもの」ではないということです。このような悟りのプロセスは、「同調」という言葉で要約され、それはまたそのゴール、つまり同調した状態をも含みます。したがってそれは、他の多くの仏教哲学用語と同様に、「プロセスかつ産物」を表わす言葉です。このことは、次の定義から明らかです。:「同調」とは、
(1)一つの価値の教えによって、多くには一つの価値しかないことを経験することであり、(2)この経験を謙虚に強化することです。
 誤解を避けるために次のことを知るべきでしょう。どんな主体と客体にも優先するものに同調するとは、ある種の「服従」として考えられるかもしれません。特に抽象的哲学思想のみならず、人間の全生活に影響するようなことを扱っているのでなおさらでしょう。それが西洋で起こる場合には、たいてい「あなたのものは終わった」という表現が宗教から借りてこられます。
 ここで意味されているのは、このような服従ではないことは確かです。なぜならこのような服従は、個々の主体と、もっと良い表現を使うなら「正体」との間の分離を残しているからです。西洋神秘主義において、分離は unio mystica【ウーニオ・ミスティカ(神秘的な結合)】の困惑させる特質です。ウィリアム・S・ハースが指摘しているように、「西洋の体系がこの純粋意識の状態に近づくように見えるとき、そこには常に、その状態を「所有」として経験しようという、押さえ難い衝動があるようだ。主体はその状態の背後から現われて、その達成を核心しようとする。このような配置では、偉大なキリスト教の神秘主義者のエクスタシーの状態においてさえ、戻ってくる。彼らの神の体験がどのようなものであれ、最高の知識の行為においては、彼らが神を所有しているか、神が彼らを所有しているかのどちらかである。」
所有は、決して同調ではありません。
 同調は大変重要ではありますが、それも全体像の一側面にすぎません。それをもって何かがなされない限り、それは無価値であるとさえいえます。同調は、その表現を行為の中に見いださなければならず、それは経典が明示しているように、この教えの第二の側面です。一つの価値とは、このようにして静止した何かを意味するのではない、一般的な言葉になります。それはゴールに向かうプロセスであり、ゴールに鼓舞された行為です。その知覚作用に対する関係もまた、それらを通して得る情報は、ただ純粋意識や・・実を結ばない熟慮のためにだけ働くのではなく、これらはしばしばその副産物ではありますが、我々が行動するように作用することを示しています。
 同調は、様々な観点から記述されていますが、それは、
(1)経験するプロセス
(2)その内にある感情
(3)構成パターン、あるいは実存の規範(基準)に言及しているといえます。

 (1)第一の様相は、四つの「確認」と関係し、それぞれは異なった目的を持っていますが、それらは相互に関連し合っています。第一の確認の目的は、発達のステージにおいて、自己の意識の中に、神々または女神としてもともと内在している、明るさと透明さを悟ることです。これは、「壺の確認」として知られ、「肉体」の様式の浄化を象徴しています。銘記すべきことは、タントラ仏教において「身体」とは、生物学者の見るような対象としての実体ではなく、主体によってその中で生かされるような身体です。それは、「身心」の簡略表現で、一つの生の構造を表わします。物理的身体が水によって清められるように、コグヒルの言葉を使うならば、「精神有機体」が、神々の経験によって「純粋」になり、透明になります。
 この透明さの中では、心の構成概念である客体は解体されており、逆説的に言うならば、この破壊の中でより生き生きとした鮮明な構成や様式が明らかにされます。
 ランセロット・ロウ・ホワイトは、これについて「固有の発展と拡張の傾向、吸引性と排斥性、また予測できない可能性を持つ」と述べています。
 このような明るさが出現するや否や、神々や女神の色や様々な特徴的な印が見られますが、それらは触知できるような内容を持たない、単なる実存として感じられます。逆説的に思えるかもしれませんが、一般的に基準からはカラ【空】であるものを把握することが、「神秘の確認」です。このプロセスは、一種の逆言語化です。なぜなら、言葉とは常に具体的な内容や対策と結びついているからです。しかし、別なレベルやパターンが明らかにされると、それらの制約的観念や死んだ言葉からの解放は、行為・表現・伝達のような広い領域を確立してくれます。
 逆客体化によって始められたプロセスは、逆言語化を通って、明るさと空と不可分として経験される、一つの理解感へと至ります。この感情は、制限されず、区別されず、感情の塊の中に特定の変更を起こす痕跡を刺激するものも何もないゆえに、神秘家ブレイクが言うような「永遠の喜び」の一つです。それは精神機能のレベルと関連していますが、これは意識的思考ではなく、すべての意識的・情緒的・経験の母体のことです。一般に仏教タントラにおいて、意識的・情緒的経験と呼ばれるものは、明るさ、空、「永遠の喜び」の喪失であり、不透明さ、具体性、一時的な苦楽の感情への凍結です。そして原初の永遠なる喜びの状態に達することが、「識別−理解による超越的意識」と呼ばれる、第三の確認の目的です。ここで識別は、鑑賞力のある理解という極めて強い特色を持っています。それは、女性配偶者のカルマムドラーと関係し、彼女は、性交などの運動行為を象徴しています。また、超越的意識は、喜びの感情の増大、つまりそのような運動行為の感情的要素と関連しています。
 この経験のプロセスの様々な様相は、局所的活動の部分的様式ですが、この局所化の本質は、生物学者が「分析的器官」と呼ぶものとは全く違います。したがって、経験の段階の「場所」を、神経系の局部と同一視しようとすることは、無駄な試みです。またそうすることは、今までの修行で克服すべきであった客体化へと逆戻りすることです。しかし、これらの部分的様式に対して、その上に、統合、つまり全体的様式があることを知ることは非常に大切です。これら二つの様式は、人であれアメーバであれ、すべての行動体系の生来的、本質的要素です。これら二つの様式の相違にもかかわらず、それらは働きにおいて決して分離していません。統合がまず第一に重要となります。なぜなら、それぞれの部分的様式は、一種の独立(孤立)へと発展する傾向があり、それは部分と全体とのバランス関係の中に乱れを生じさせ、異常な行為として現われるかもしれないからでう。統合とは、明るさ、空、永遠の喜びよりなるバランス状態を堅固にするという、第四の確認の目的です。この状態は、原因的必然によって生じるものではありません。なぜなら、ここでは我々は、因果的必然性が秩序の主要な原理となっている、倫理的世界観の観念とは関っていないからです。また、それは異なった条件(期間)を持つどんな関係によって終わらされることはありません。なぜなら、この明るい空と平行な【or釣り合いの取れた】感情を限定する期間はないからです。また、この状態は創造主、変わらないものと常に変化するものとを結びつける鎖の役割を果たす発明でもありません。
 このように、全体としてみると発達のステージは付加的ではなく、統合的なプロセスであり:そこでは様々なレベルや様式がそれぞれの独立性を保ちながらも、相互的に関連し合い、一つの統合された全体としてまとまっています。それは、次の記述から明らかになります。:
「発達のステージの修行によって、四つの確認は一つのまとまりとして経験される。その最も低いものは「壺の確認」、最も高いものは、第四の確認、“神秘”および“第三”の確認は、両者を結ぶものである。」(Dchb 34a)
この一つにまとまった経験は、多くのタントラ経典の中で、「一つのものを知り、すべてに精通する」という言葉で惑わされています。この意味は、いかに突然変化が起ったとしても、ある段階から他の段階への間には、連結性があるという意味です。
 「確認」とはありのままがない状態から見られた経験のプロセスに言及していますが、「自由の道」への同調は、そのプロセスの内的生命を指し。したがって人は、経験が経験されている最中に、経験について語ろうとします。ヨーロッパ哲学において、普通“意志の自由”と呼ばれる自由の問題は、解答困難なもので、カントが因果的必然性に支配された世界内では自由は不可能であると理論的に納得がいくように証明して以来、もっと粗の傾向が強くなりました。(もっとものちに彼は、自由を実践的理由という公理【仮定】として、こっそり持ち込みましたが)。自由の問題は今日でも曖昧で、未解決なままです。その第一の原因は、必然性の反対概念は自由ではなく、偶然性であるということにだれも気づかなかったからです。:「……因果的必然性の反対は、単に必然性がないことではなくて、(それは誤って自由とかという概念と同一視されているようだが)それは偶然性である。そして偶然性とは経験と同じくらい明白で、実在する有形の思考内の前提である。したがってもし本能を除いた後も、存在するものがあるとするならば、それは自由であろう・しかしそれは、西洋哲学で必然性の反対とされているような、空しい自由の概念ではない。そのような偽りの自由は、自己決定などの正式の言葉によって救われなくてはならない。」
 もし自由が何か意味を持つとするなら、それは自らの独立の意義を証明しなくてはなりません。これは、仏教タントラにおいてなされており、そこでは自由は本物で、じかに接しており、生きており、決して理性の一カテゴリーではありません。この点において、実存主義と注目すべき類似性があります。ジュン・ワイルドは言っています。:
「自由とは、一種のもの、一種の変化、一種の可能性としてさえも、アプローチすることはできない。それは存在の様式である……」
 我々はいかなる内容よりも前に“心”について語るように、自由はそれについてのいかなる概念よりも前に存在し、“心”と同一です。このことは、「自由の道」という言葉の解釈に対して、重要な結果をもたらします。
 それは自由への道ではなく、我々の行動のただ一つの道としての自由を意味します。したがってこの自由とは、様々な“自由へ”という言葉の根本であり、それらと互いに連結しています。これは、次の説明から明らかです。:
「自分自身を神々として、経験するときに現われる明るさが、発達のステージの道です。このステージにおいては、意識は輝く形状のみに向けられるべきです。その形状の内容の空虚さが完成のステージです。そこでは、意識されるべきものは、すべての形あるものの空虚さ以外にありません。永遠の喜びと、非二元的明るさと空の経験が一致(知的同一性)の道です。この同じ一の中では、非二元の喜び以外何もありません。明るさ、空、永遠の喜びは不可分であり、現われることも滅することも(普通の光のようには)現存することもない、輝かしい光以外の何物もありません。これら四つの道は、発達のステージの実践を通して、同時に自らを表わし、また乗り越えられていきます。より低いレベルは発達のステージ、より高いレベルは、マハー・ムドラーで、完成と同時存在のステージは両者をつなぐものです。このように、一つのものを知ることによって、他のすべてのものを知ります。
 一般に我々は、ある経験を客観的現象として扱いがちで、そしてそれを分析して、そこに様々な様相を見つけます。これらの様相は、言語による投影によって、お互いを直線的に追いかけるように見えます。しかし、そうなることによって、我々は経験する主体というものを、容易に見失ってしまいます。しかしそれを含めるとき、それはいつも状況の中でそれ自身を見つけることに気づきます。日常生活の中で経験する主体としての我々は、一つの状況を概念的に解釈して解決しますが、結局また同じように解決を要求する別の状況の中にいるのがわかるだけです。このように解決とは一つの構築ですが、一方この修行においては、それは逆構築であり、解凍であり、そこでは自由が自らを主張し、指導権を取っています。また状況を観念的に解決しようとする場合、我々は自由から遠ざけるものへと自己を委ね結びつけてしまいますが、ここでは我々は自由の連続性を保障するもの、いわば自ら解決される状況へと自分自身を委ねます。この意味では、一つ一つの確認は、明るさ、空、永遠の喜びという最終的で統一的な経験へと収束する、部分的関わり合いであり、このようにしてそれは日常生活の中に自らを反響させる、一つの長い期間にわたる真剣な関わり合いとなるのです。
 意識そのものよりも、むしろ意識内容に関する一般的先入観によって、我々は意識内容がなければ意識は消滅していき、厳密な意味では我々には何ものも残らないだろう、と考えます。したがって、逆客体化は、基本的パターンや構成を輝き出させるという主張は、人々にはむしろ驚きであるようです。さらに、我々は二次元的思考様式のために、もう一つ別な未解決な疑問に直面しています。それは、人そのものが関係しているがゆえに、古典哲学や心理学の中に、身体・心の問題を作り出してきました。現代心理学や医学は、二つの別々なものとして(観念形態的)の肉体とkの区別をますます廃止する傾向にあり、“イデオロギー的リアリティと肉体的リアリティの(個別の)確立は、何の解決もなさず、将来の科学的研究へのドアを閉ざすものである”(ホワイト前書 P457)ことに気づき始めています。しかし、それらはまだまだ、“身体とは身体でも心でもなく、表面的現象としては身体・心である”というタントラ的主張からは程遠いものです。ここに、構造(構築)に関する考えを紹介することは有益でしょう。ランスロット・ロウ・ホワイトによると、「構造とはあらゆる状況における諸関係の、効果的な様式に対する名前」(同 P27)です。我々は人間として、自分自身が動き、話し、考えているのを観察します。そしてこの行為・言葉・思いの三つ組みは、諸関係の極めて効果的な様式です。そしてこの三つ組みの様式の中の、明白な行為の性質ゆえに、体の様式が語られます。身体(lus)とは、常に主体がその中に住むような身体を意味し、外科医が研究するような対象物ではないということは、何度も繰り返される必要があります。それは、身体の様式を我々が主として肉体的・物質的世界で見る生命様式のようなもの【と】するためです。しかし、肉体的【physical】が精神的【mental】の反対ではなく「有形の(物質の)【material】」が「形を与える【formative】」の反対ではない場合、肉体的とか有形のとかという言葉の有効さは、力尽きているので、そのような言葉は避けた方がよいでしょう。同様に、精神的という言葉もほとんど役に立たず、それが汎心主義やその結果としての無意味な理想主義を生じさせるのであれば、それはむしろ危険なものでしょう。どちらも何の根拠もない主義です。肉体(的)・物質的、また精神(的)・心理的な部分的な諸観念へと、不適切に客体化されている形成の(formative)プロセスも使わない方がよいものです。形成のプロセスについて検討するもう一つの利点は、物質と形の問題が無意味となり、それによってアリストテレス派から生じたもう一つの哲学的“つまずきの石”が取り除かれるということです。
 “構成”(構造)という概念の有効さ、また別なふうにも示されます。ホワイトは、
 「安定した構造は、プロセスの最後の状態であり、それらのプロセスの記録として働く。」
と述べ、また、
「安定した構造は状況を支配する。なぜなら不安定な構造は消えるからだ。」(同 P101)
と述べています。後半の言葉は、西洋思想の歴史によって実証されています。それは捨てられた概念の死骸を散らかされた歴史であり、それらはどれも一時は客観的であるふりをし、リアリティ全体を覆っているように見えました。それらが捨てられなければならなかったという事実は、それらが不安定な構造であったということを示しています。同じことは、生(生命)についてもいえます。その常に変化する様相は、不安定な構造がそこにあることを表わしています。実存主義者の言葉でいえば、それらの不安定な構造は、真のものではない“世界内存在”で、それらは彼の真の(本当の)存在を常に脅かしています。ナーローパに与えられた教えの中で概説されている様々な修行の目的は、安定した構造、つまり真の存在に達することです。安定さは逆構築に属するものすべてを落とし、死んだ、あるいは死に至らしめるような観念の迷宮を破壊し、そして生命とともに鼓動する広がりへと入り込むことによって、構成されます。その第一のステップは自分自身の世界内存在を、魔法の呪縛を持つ宮殿の中の神々や女神として経験することです。ポイントは魔法であって、呪力そのものやその内容でありません。プロセスの最後の状態、また不安定な構造の消滅としての安定した構造の、これらすべての特徴は、次のような言葉の中に認識されます。
 「魔法の呪力としての発達のステージを経て、空の形の明るさの増大も減少もない安定性に到達することは、“壺”の確認に達した結果であり、それはニルマーナカーヤである(Dchb 35a)。」
 ホワイトがさらに、「ある特定の構造の存在が、類似・補足、また同一の構造の形成を容易にする」、また、「複合的構造の固有性は、構造のパターンをなす各ユニットの個性よりも、パターン全体の特質による」(前書 P102)と述べたとき、それは次の言葉を理解する手掛かりとなります。
 「同様に形を持つ内容の空に応じた(に関する)安定性への到達は、“神秘”の確認の結果であり、それはサンボーガカーヤ(制限のない交流)である。永遠の喜びの安定さへの到達は、“識別・理解による超越意識”の確認の結果であり、それはダルマカーヤ(すべての意識的・感情的経験の母体)である。現われることも消え去ることもない、輝かしい光は、第四の確認の結果であり、それはスヴァーバーヴィカカーヤ(すべての構造パターンの統合)である。そして、透明な【明るさ】、空、永遠の喜びの経験という安定と、始まりと終わりと中間を持つ諸現象を超えたリアリティの超絶性が全体像を明らかにする。その中では、スヴァバーヴィカカーヤがその上限、ニルマーナカーヤが下限、サンボーガカーヤとダルマカーヤはそれらをつなぐものである。」(Dchb 35a)

(2)もともと備わった感情の特質は、四つの歓喜または喜びとして言及されています。それらが上昇≠キるか下降≠キるかは、まず第一にそれらの強さの度合いを示します。経験のプロセスの各相は、それぞれ特有の感情を伴いますが、それら個々の感情の区別的特質はどんどん失われ、ついには永遠の喜び≠フ感情へと達します。もっと正確に言うならば、下降≠ニいう意味は、客体化思考の逆構築(破壊)と固定化の溶解によって、経験された根本的感情と、生命の感受性が自ずからを主張することができるようになり、それが徐々に有機体全体へと広がり、それによって強度を増し、ついにはそのピース値に達することです。セックスを含まない修行もありますが、下降≠フ特質は究極的には人体の中で最も低い(卑しいという意味ではない)経験の焦点である。男性的性器の中に全感覚と感情を集中させることによって、徐々に形成されるオーガズムの経験にさかのぼります。様々な経典(注)がオーガズムについて詳しく研究し、またセックス行為の頂点としてのオーガズムとその余波であるけいれんや発作との区別をしています。
 キンゼイ氏とその協力者による発見は、それらの研究内容を裏づけています(cf.女性における性行為)。この区別は、上昇≠フ意味を理解するのに重要です。もしピーク値を保つことに成功すれば、それは徐々に上昇≠キる、つまり有機体全体へと浸透し、その結果自分自身や自己の環境が変わってしまったように感じるでしょう。恋人たちは、すべてをバラ色の光で見ることは、俗っぽい言葉ですが、それには一理あります。ゴール達成である四つの喜びは、ブッダフッドの超越した喜びの指標で、そこでは各々の部分的様相はそれ自体の価値を保ちつつ、すべてが一つの統一的経験の中に融合します。

(注1)例えば、『チャトルムドラー・ウパデーシャ』。この経典は、アドヴァヤヴァジラサムグラハ%烽フものとは同一ではない。後者の正確な名は、チャトルムドラー・ニシュチャヤ≠ナ、その著者はアドヴァヤヴァジラではなく、ナーガールジュナである。

(3)三つの構造パターン、あるいは実存の基準とはダルマカーヤ、サンボーガカーヤ、ニルマーナカーヤです。死のときに、それらに同調≠キるとは、我々が成就した目的として、つまりこの瞬間にまぶしい光と輝きとして現われるダルマカーヤを、実現しなくてはならないことを意味しています。ここで死とは、外側から見られるような肉体的な機能停止だけではなく、それは今この瞬間にも起こり得るような肉体経験です。もし、完全なる同調を妨げる経験的によって始まった経験の可能性≠フゆえに、このダルマカーヤの経験が不可能であるなら、少なくても真の交流の道、つまりサンボーガカーヤを実現するようにしなければなりません。もしそれも不可能ならば、ニルマーナカーヤ、つまり有意義な世界内存在≠ニ共にとどまります。客体化へのいかなる転落も、様々な生の形態に縛られる結果を招き、そのいくつかは、リアリティへの同調とその実現の道を妨げます。(注※)


(注※)より詳しい説明は、中間状態に関する論議のうちでなされる。(P12.P235〜)
 同様に、眠りもまた、これら三つの様式に結びつけられます。一般に眠りや夢は、覚醒状態と対比され、夢見状態と覚醒状態の類似性を知るには、精神分析術を必要としました。眠りは、特にその特別なタイプの夢を通して、ダルマカーヤやその他の構造パターンへと移行する可能性を潜めています。夢見状態は、教えの特別な主題であり、それはナーローパによって、実践的に開発されました。
 三つの基準への覚醒状態の同調は、前述の発達のステージの修行と関連しています。
 達成された目的としての存在の様式への死の同調、中間状態での真の交流への同調、誕生を真の世界内存在≠ヨと同調させること、これらは同じプロセスを意味していますが、これらがいわばより宇宙的なレベルで行なわれます。
 この経典で言及されている五つの同調には、特に注意が必要です。それらは他の経典では別の言葉で表現されているからです。一見すると感情要素が変化させられなくてはならないように思われます。それは正しいのですが、しかしこのことは、精神分析でいう昇華≠ニ同様なものを意味するのではありません。昇華≠ニは、性的衝動、またはそのエネルギーをそらして、それを何か非性的で社会的に認められる活動の中で表現される、無意識的プロセス(注1)です。この言葉は、すべてを性的なものとし、性そのものを罪とする、という、性に対する過大かつ過小評価をしています。そして実際的な療法として、それはたいてい回避を意味します。また社会的に認められる≠アとを測る基準がありません。あるレベルで認められる≠アとは、他では認められない≠ゥらです。しかし何よりも、社会的に認められる≠烽フはたいてい個人の傾向や欲求を無視しています。したがって昇華≠ニは、「比較的葛藤のない行動様式」(F.C.フリューゲル 同書P313)を保障するものではありません。なぜなら、そこにはまだあまりにも強い抑圧があるからです。

(注1)ジェームス・ドンヴァー『心理学辞典』参照。J.C.フリューゲル『人、モデル、社会』の中で同様なことを述べている。(P289)
 実情はノエル・ジャカンが正しく評価しています。:「何百という臨床例の検討や定期検査を含む観察から、わたしは性的抑圧は肉体レベルで分裂的影響力を持つことを確信している。性的抑圧感は、巧妙に与えられた昇華のプロセスにも潜んでいるし、また回避や解体のプロセスによっても隠されている。つまり人は、性的欲求に気づきながら、それを受け入れようとしても、それを正しく認知しようともしていない。彼は、それについて考えることを拒み、それを潜在意識の闇の中に押し戻すか、またはそれをカモフラージュする興味や欲求を作り出して、その存在から意識をそらしている。」(前書 P167)
 タントリズムにおいて開発されたすべての修行において、このような(口実)逃げ口上をつくるようなものは、全くありません。何度も繰り返しましたが、タントラの目的は逆客体(対象)化であり、真の自由による、束縛からの解放です。人は絶えず、自分に合わず、自分を分裂させるような体系を創造しています。彼はまた、もし制御されなければ、同じ様な結果をもたらすような感情を持っています。しかし生とは、一つの統一体であり、思考と感情はその末尾状態はいかに異なったものに見えても、本来別々なものではありません。したがって、同調の修行は、凍結した末尾状態よりも、むしろ感情的性質【配置;傾向】から入っていくのです。したがって、その五つの区分は次のことを示しています。
 (1)まずパッション(情熱)≠ニ呼ばれる性質は、様々に発展し得ますが、それはより熱い♀エ情と呼ばれるものの枠の中にとどまっているようです。それゆえに、それはまた様々に使われ得ます。一般的に激情はあれやこれに対する欲望≠ヨと発展し、したがってそれは・・他のものに絶えず影響されるという意味で・・煩わしい思い≠ヨと変わります。欲望は我々を自分自身から疎外し、他に対する貪りの思いへと飛び込ませ、これらのうちのいずれも安定を生じさせません。もし激情≠ェ愛≠ノ発展すれば別ですが、不幸なことに愛≠ニいう言葉はあまりにもしばしば誤用され、ほとんど欲望≠ニ同義になっています。しかし愛と欲望は区別されなくてはなりません。なぜなら前者は、たとえ瞬間的には見せかけの温かさ≠示したとしても、愛することの無能さそのものであるからです。愛とは積極的で人を豊かにする行為であり、人をその惨めな状態や自己制約的状態から引き上げることです。スピノザによる貴重な区分にしたがって、エリック・フロムは次のように言っています。:
「愛とは行為であり、人間の(能)力の実行であり、それは自由の中においてのみ実践され、決して強姦の結果ではない。愛とは活動であって、消極的な影響(効果)ではない。それはその中に立つ≠烽フであって、それに陥る≠烽フではない。」(『愛の技術』P22)すでに見たように、自由とは、人間にとって基本的なものです。しかしそれがそうなるためには、観念的思考、特に有害となる(生命の)本能の力に対する観念を脱ぎ捨てる必要があります。したがって、愛とは純粋意識と同時存在します。それは抽象概念ではなく、光り輝く温かさのうちに脈動する命です。このように激情≠内的神秘の熱≠ニいう経験へと同調させることは、愛の能力を開発させることです。それは(言葉の)真の意味で、温かさを全方向へ放つこととして感じ(取)られます。
 (2)「情熱」が引きつける事、融合(合体)、合一を表すのと丁度同じように、「反感(嫌悪)」は、分離、孤独、心配を表します。大抵の場合、この傾向は、対象に対する、確定的な敵意や嫌悪に発達し、その結果、主体と対象の間の溝を深くします。嫌悪は、愛によってのみ克服できる、とよく言われますが、もし、わたし達が、愛とは本当は何なのかということを知らず、愛を一過性の感情や欲情と混同してしまうと、この言葉は、無意味になります。付け加えると、本質的に必要なのは、他のもので「反感」を克服する事ではなく、「反感」を利用し、それを統合の手段に変える事です。わたしが、呪文(呪縛)または状況の魔法と呼んだものを経験し、それによって、経験自体と、その経験と多少とも無関係な内容とを区別すると、主体と客体の間の溝に橋が架けられます。状況の魔法においては、主体と客体(発達のステージでの神、あるいは、女神とその館)は、敵対するもの同士としてではなく、一緒にいるものとして与えられます。よって、どちらかを消去しようとする必要がありません。どちらかを消去しようとすると、失望感だけが生じ、今度はそれを、より強い敵意で、克服しようとします。しかし、主体と客体の分離は、「反感」からその刺(とげ)抜き取り、分離する能力として残しておく、並列に変わっています。
 (3)「当惑・過ち」は、わたし達の思考の迷路です。わたし達の思考は、まさに、(無からの創造ではないにしろ)「空」から出てきたので、原初の輝く光に至る逆客観化の過程によって、自分の一部である、この空に戻ることができます。それゆえ、当惑・過ちをこの光に同調させる事は、ギリシア哲学が、ネオシス・ネオセオス「思考の思考」と呼んでいるものとは違います。後者においては、思考は、思考自身の対象になってしまっています。これは、もちろん、達成する事のできない理想です。しかし、同調は達成できます。
 (4)「高慢」は、わたし達が自己を表現するまた、別の方法です。普通、これは、自己の内側にある自信の欠如を補うもので、自己主張をするときに明らかになります。この自信の欠如は、わたし達の、偽の、この世での存在(世界内存在)、即ち、わたし達はああである、こうであるという信念です。しかし、わたし達がその外観を破壊する事によって、自分自身に戻ると、わたし達は「真のもの」と同一であるという、わたし達の持っている高い地位に気付きます。わたし達の偽りの構造を破壊し、原初の光を輝かせるのは、究極の覚者の境地の、形作られた表現である神の経験を伴った、発達の段階です。
 (5)最後に、「嫉妬」を純粋な現れに同調させなければなりません。通常の生活での嫉妬は、所有物であれ、技能であれ、他人のものを切望する事や、成功だとか幸運といった、他人に訪れたものを切望する事を強調します。ここでも、嫉妬は、ある内容と結びついています。純粋な現れには、具体的な内容が無く、それに同調した嫉妬は、必ず、その切望している対象との絆を失うはずです。純粋な現れは、わたしや、あなただけのものだとは言えないので、切望する物がないのです。唯一可能な事は、嫉妬が、切望の対象とはなり得ない物に、他の人が一緒に参加しないという、残念な気持ちになる事です。
 様々な感情の傾向を、純粋な意識や、原初の光、と呼ばれるもの、あるいは、他の指標によって示されているものに、同調させる事に成功することは、愛したり、嫌ったり、他の普通の魂と同じように考ることができない、あるいは、自分は「非我」であり、いかなる感情からも空であると考える事が出来ない、という意味ではありません。もしも、このような人間になってしまうとしたら、その人は、化け物であって、賢者ではありません。同調された人(波長のあった人)は、嫌うことも、愛することも、同じように出来ますが、こうした感情が、通常の生活の次元とは、別の次元から生じるのです。同調とは、単なるひとつの相であり、行為で表現されなければならないものである、という事を決して忘れてはなりません。
 一つの価値の二つの側面としての、同調と行為の教えは、ウィリアム・アーネスト・ホッキングの言葉に要約されます。それは「あなた自身でありなさい。(直訳:あなたがあるところのものでありなさい。)つまり、リアリティでのあなたを(ほんとうのあなたを)、行為においても表しなさい。」


3 コミットメント(真剣なかかわりあい;誓い;約束)


 すべての修行は、逆客体化の過程で、純粋な意識を悟ることに向けられているということは、すでに説明した。またさらに、意識の一時的な内容は永遠のものではなく、移り変わるものであり、それゆえ行為の確実な土台をなさないということも、知られている。移り行くものを、不死の原理にまで高めるのは、智慧に欠けていることを示している。ものごとの不確定で、一時的な性質と、それから造られた原理に基づく行為の方向(道筋)は、どのようなものであれ、常軌を逸しており、滅びる運命にある。ここで、自分勝手前な興味のためのコミットメントは、結局、自滅的なものであるが、理想は別である、という反論が出るかもしれない。このような論議で見落とされているのは、どの理想もその決定的な性質のために、不可能であり、それゆえ崩れ落ちなければならないということである。しかし、あらゆる環境において、それに対して誠実でなければならないような種類の振る舞いというものはないのであろうか? あるのである。F.S.C.ノースロップが示しているように、「この絶えず有効である道徳的種類の行為は、その基盤を、人生の、特定され、決定的に区別された、行為の道筋に対して置くのではなく、不確定的な、すべてを包含する、未分化の、感覚的な(知力に対して)連続体と、すべての人に対する感情的な共感と、それが与えるすべてのものの共通の絆においている。これが、東洋の宗教に、慈愛(チャリティ)、心を開くこと、それ自身を他の注意に対して強いらないこと、(自分の意見を押しつけないこと)、そして、すべての人間に対してだけではなく、すべての、感覚的な自然の対象に対しても向けられる、仲間意識、を与えているもである。そしてこれはまた、西洋の宗教が、理論においても、実践においても、持っているとは主張できないものである。」
 テキスト自体は、コミットメントが、逆客体化の過程が終了した後、残されたものに向けられなければならない、ということをきわめて明確に示している。これは、コミットメントが、課された義務ではなく、真のもの(ザ・リアル)の流出であることを暗に示している。別の言い方をすれば、コミットメントというのは、真に(リアリティーにおいて)、自分であるものに対して忠実(あるいは真実)であること、を意味しているのである。
 ここで七つの用語を紹介しよう。このうちの幾つかは、次に続く教えの中で明らかにされるはずである。特別な説明を要するものは、「如意宝」「限界」「上の門」「下の門」であり、すべて、仏教のタントラ哲学に特徴的なものである。
 「如意宝」は、ある客観的な実体ではなく、直接の状況とリアリティに対する関係に対してつけられた名称である。「壷の確認」の経験をする、発展の段階に関係した「普通の如意宝」、次に続く確認の結果として起こる経験を示し、完成の段階、あるいは真実(ザ・リアル)との合一に関連している、「経験的に存在する如意宝」、そして最後に、すべての確認に適応されるもので、経験を生きたままに保ち、対象化する思考に、経験を陥らせないことに役立つ、「コミットメントの如意宝」である。
 「限界」は、「世界の中にあること(世界内存在)」につながっている、小さな点から始まって、宇宙的な次元に広がっていく、発展の段階で、神性を発展させる、独特の経験に対して付けられた名称である。しかし、この中に、人を大宇宙に吸収させる、あるいはそれと同一視させる、小宇宙であるという考えに、何か似たものを見てとるなら、それは重大な過ちである。人の世界内での存在、そして、人が豪華な館にいる神と女神に姿を変える、という事実は、客観的に限定された実体ではなく、その透明な明るさと、空性において、普通のサイズ、あるいは方程式では測ることのできない、形成的、発展的な過程なのである。
 「上の門」は、交流(コミュニケーション)に、またそれゆえ、象徴的な変化(マントラ)に、関連しており、女性の要素が単にひとつの観念として、入ってくる、純粋に瞑想的な過程につけられた名前である。交流は、主体同志の間でのみ可能で、最も親密な交流は、男女の交流で、これは内的経験のための象徴として役立つ。これにつけられた別の名前は、「自分自身の身−心が役にたつこと(助け;媒介;手段)」である。六つの解放の修行は、ここでは、対象からの感覚の離脱・熟考・調気・瞑想の内容の固定・その吟味・深い没頭である。
 「下の門」は、超越的な意識へと向かう手段として、セックスを使うことによる、永遠の喜びの経験を示すものである。それはカルマ・ムドラーに関連しているが、これは前に指摘されたように、実際の女性であることは別にして、運動行為と、それに固有の感情の調子をあらわす象徴である。この修行の別名は、「他者の(女性の)身−心による識別・理解の経験」である。本文で、「ダーカとの神秘的な関係」と呼ばれているものは、別の言葉では、「使者(メッセンジャー)の道」とも呼ばれる。これはパドマ・カルポによって、カルマ・ムドラーとのつながりで、次のように説明される:「ムドラーはム、すなわち「喜び」と、ラ、「受け取ること」である。つまり、口づけ、その他の、恋人の行う行為で、四つの喜びを受け取る(経験する)ため、カルマムドラー(行為による印)という用語を用いるのである。彼女によって、ちょうど使者が城に急ぐように、自分の望むゴールにすばやく着くために、彼女のことを、「使者の道」あるいは「直接的な方法」として言及るのである。そして、これは下(つまりセックスの部分)に位置している、精神身体の過程に関わっているので、この道を「下の門」とも呼ぶのである。」
 ここで定義しているコミットメントにおいては、罪の意識はない、ということを知るのは、心強いことである。人間は、ふさわしい尊厳を与えられている。決して理解できない何らかの暗い力の奴隷でもなければ、結局は、責任を持てない罪という重荷をしょっているわけでもない。故に、人間の自由の自然な表現としての、このコミットメントに関する教えは、罪が解決不可能なものとして現れる(そそり立つ;不気味に迫る)、現代実存主義思想の貴重な矯正手段となるのである。


4.神秘的な熱


 この教えによって、わたし達は、仏教タントラの修行と、その隠された哲学の中央に入る。
 タントリズム全体において、その直接の関心の対象は、人間であるので、まず、段階的なヒエラルキーによって、わたし達の存在の一種の「解剖」が呈示される。この存在の図式が、理解し難いのは、わたし達の客観化的思考、つまり、人間について、本質的に想像可能なものと、様々な科学によって与えられたものとの間に、対応関係を見つけようとするからである。さらに、わたし達は心と身体の二元性に慣れていて、その関係についての仮説、つまり、相互作用、平行関係などといったものを発達させたが、そのどれからも、克服できない困難が生じている。しかし、タントリズムは、仮説を展開する事には関心がない。タントリズムは悟りを目指し、それゆえ、この目的の役に立つ道具を、人間に与える。これは、わたし達は心と身体の逆客体化を目指さなければならない、という事である。しかし、これは身体を軽視する事とは無関係である。ガンポパ達が苦労して指摘してきたように、わたし達が住んでいる身体は、わたし達が持っているものの中で、最も貴重なものである。間違った見解を持つ禁欲主義によって、身体と闘うのではなく、身体を利用しなければならない。このように、わたし達の、心とイコールの身体が存在する、ということを指摘したからといって、その現実性や、非現実性、あるいは、考えられるその他のことについて、何かを言ったことにはならない。このわたし達がそこにいるということは、単純な事実である。そこに、実験室で好きなように繰り返すことのできる、「客観的な」発見を読み込もうとする、どのような試みも、この単純な事実を越える。ここに示すことは、それがどれほど突飛なものに思えようとも、ウィリアム S.ハアスの言葉を借りると、「人間の心の、最も大胆で、最も独創的なものの一つである。意識の中での、この偉大な冒険は、意識がそれ自身を扱い、しかもその唯一の目的が、その意識自身の本質−−純粋な意識−−に到達する事であるという点で、他の全ての冒険から、区別される。他の全ての冒険、特に西洋のものは、それが宗教的なものであれ、芸術的なものであれ、哲学的なものであれ、科学的なものであれ、限定された意識を扱い、具体的で確定的なものを成し遂げる。にもかかわらず、ヨーガの土台となっている根本的な仮定は、どのような種類の、宗教や哲学や芸術や科学の仮定よりも、より高度な証明を、確かに、主張し得る。」のである。
 仏教タントラにおける人間存在の概念は、まったく機能的な特徴から始まる、ということを念頭に置いておくと、このことを理解し易くなるだろう。わたし達は、行い、しゃべり、考える。そして、これは、大抵、秩序だったやり方で行われる。そして、望もうと望むまいと、意識の中の最も目立つ内容物は、わたし達の身体と心である。同時に、わたし達は、その心身が成長していく過程で、それが変化し、衰えるのを見、そして、そのようなものであるから、人間存在の最も人間的なもの−−自己超越−−の発達の、出発点とはなり得ない。この目的のためには、中央の通路と、その左右に二つある、三つの通路構造として略図に描かれる安定したパターンが、素晴らしく役に立つ。このパターンは、人間の内部と人間を越えたところの両方にあり、人間の個別性を保証するものであるが、同時に、人間を、より大きな背景の中に置く。「三つの通路は、この世にあるという実存と、伝達と、状況を指し示す。」(Rzd より引用)これを、小宇宙としての人間は、大宇宙の複製であるという意味に考えることは、大きな間違いである。そのような考えは、この全体像には入ってこない。それは、一つには、その関係がもっと密接だからであり、一つには、そのように決めつけることは、客観化しようとする事だからである。
 この三元の様相の性質の説明は、Padma dkar-poによって、より完全に述べられている。彼は「中央の通路の上端は、頭蓋骨に入り、それから、前方に曲がって、眉毛の間の空間に入る。ここに(ここで?)、空が入って、下降する。これはアクショーブヤの性質である。この端の別名は、ラーフ、時間、そして、純粋な意識である。へその下で、中央の通路は、真っ直ぐに会陰部へ進み、性器の部分で右に曲がる。ここでは、生殖能力(「精液」)と意識が活動している。この二つは、ヴァジラサットヴァの性質を持っている。精液が放出されるときに、この下端が痙攣運動をするので、またの名を、「全体で痙攣するもの」という。また、このように言う人もいる。男性の場合、それは、ジャスミンの花や、法螺貝の色に似ている液体で満たされているので、「法螺貝に似ているもの」と呼ばれる。女性の場合、中央の通路の下端は、(1)象の鼻の先端のように見える;(2)法螺貝の貝殻の捻れのように捻れている。(3)柔らかい粘液によって閉じられている。(4)蓮華の花のように、開いたり閉じたりする。それゆえ、「四つのタイプがある」と呼ばれる。経血の流れるときに、それは、男性に触れられてはならないので、(不可蝕民)不可触賎民の女性と同じである。それゆえ、「不可触賎民の女性」とか「ダーカの顔」と呼ばれる。これは、赤い液体で満たされている。」(Sphzgより引用)
 この記述は、触覚が、わたし達の存在のイメージを構成するのに役立っているということを、明確に示している。これは偶然ではない。このパターンを観想し、それを、心の中で、わたし達が持っている普通の身体の絵の中に組み込まなければならない。しかし、これは、この様式が、視覚に基づいて、発展する概念の場合のように、主体と客体を分離し、客観化する概念をさらに生じさせる役割を果たすという事ではない。本能とその本能の活動の領域に深く入り込み、分離感ではなく、一体感を生み出すのは、触覚である。性の衝動は、特に、触覚と関連がある。こういう事情であれば、個々の通路の特質と、生理現象を結び付けることは、容易な事であろう。しかし、わたし達を立ち止まらせるような定義か、他に沢山ある。まず、わたし達が、射精だとか粘液の分泌だと考えていることが、byan-sems(ボーディチッタ)と命名されている。これは文字通りには、「解脱−心」となる。この言葉が、心的−霊的(「解脱」)と、生理学的(「精液」、「粘液」)の両方の意味で使われ得るという事は、わたし達が、活動している世界は、おそらく物理的でも精神的でもなく、その両方を合わせ持っている(または、全く違った)ものであろうということを示している。それゆえ、(曖昧でないにしても)多義のボーディチッタという言葉を、中立である「創造性」という言葉で訳すことができよう。これは、物理的な意味では、わたし達が「生殖」という言葉で理解しているものを意味し、別の意味では、わたし達が「創造的な心」と言う言葉で理解しているものを表す。「創造性」という言葉は、それ自体の創造性において、それ自身を超越しており、よって、どちらかというと、並進的な(物理:ある物体のすべての点が平行移動すること)能力を持っており、エゴを越え、エゴを通じて、通常の三次元世界の生活に入っていく、超越意識によって創造を行う。最高の創造性でありながら、完全な「空」である、独特の瞬間は、物理的には、「忘我」となるオーガズムの瞬間に似ている。これは、一種の自己超越のように思えるからだ。しかし、わたしは、「似ている」という言葉を強調したい。なぜなら、大きいとは言わないまでも、微妙な違いがあるからだ。オーガズムの頂点で、(これは精液の放出と、あるいは適した状況であれば授精と切り放すことのできないものであるが)人は自分自身の作った対象に屈服する。これは、物理的次元において、オーガズムのように見えるものと一致する超越的意識を、達成する時もそうである。彼は自分自身を対象から解放しない。(注1)この様相は、ヴァジラサットヴァによって象徴される。(注2)
 超越する意識は、何度も指摘されてきたように、「空」であり、わたしたちの生命の中で、覚者アクショブヤによって象徴される知的行為の空性として存在する。覚者アクショブヤは、客体化する傾向のある意識と、客体化の最終段階としての生産的行為の中に失われる、純粋な超越との間を仲介してつなぐ輪である。これもまた、性的行為の評価を暗示するものではない。ここで言われていることは、中央通路は、脊髄その他のいかなる神経幹とも同一視することはできないし、またしてはいけないものだ、ということなのである。これはこの通路の四つの性質に関連して、もう一度強調される。それは封ろうのように赤く、オイル・ランプのように輝き、プランタン(バナナの一種)のようにまっすぐで、芦(あし)のように中空になっている。」(注3)ここで、「中空」という言葉に騙されて、中央通路が何かチューブのようなものだと考えてはいけない。(注)「芦のように中空」というのは、完全な空の隠喩である。なぜならそれを具体化させようとすると、それは手の中で壊れてしまうからである。最後に、ガンポパがこの点、つまり、身体のいかなる部分とも、一致させることを狙っていないことを、非常に明確にしている部分を引用しておこう。彼はこう言っている。「膨らんだ袋のような中空である身体の中に、上の端が頭蓋の中で、マントラ、ハムに入っている、中央の構造の道がある。その下端は性器の部分に見いだされるのであるが、実際はそこから4インチ(10.16センチ)離れたところに、性器の部分に触れないような形で存在すると、想像しなければならない。それは、もしそれが性器の部分に触れていると想像するなら、欲望が増大するからである。」(注1)
 中央通路の下端が、人を生物学的分野に関係づける一方、(これはテキストで明確に述べられているように、けっして「セックスのみ」の行為ではない)上端は、宇宙的な領域に人をつなぐ。アクショブヤだけが、それによって自己を超えて、純粋な超越である、空に到達することのできる意識の象徴なのではなく、上端を示す他の名前も、等しく同じものを指す。かくしてラーフは人を星の世界につなげる。それは、ラーフが占星術の用語だからであり、そのインド的概念によると、この要素はそれ自体の存在を持っておらず、別の言い方をするなら、「空」であるが、それ自身の影響を与えることができ、彼が占拠している他の宮の惑星の代理を勤めることができる。最後にそれは、「時」として、時の内容という意味においてではなく、時であるという意味で、人を時に結び付ける。これが何を意味しているかを理解するために、マルティン・ハイデッガーの時についての鋭い分析を参考にすると役に立つだろう。ジョン・ワイルドがこれを次のような言葉で要約している。「時は`人が世界の中にあること’を浸透させる、実存的構造である。人間は時の中にある物でも一連の出来事でもない。人間の存在は、ハイデッガーが時のエクスタシーと呼ぶ、未来・過去・現在に渡って広がっているものである。彼は、最初、ある瞬間に閉じこめられて、それから過去と未来に渡って広がるような何ものかではない。そもそもの初めから、人の存在は、自らの前にある可能性へと広がっている。そしてもし、彼が事実的な現在において存在する物と、共にいるものであるとするならば、彼が受け継がなければならない一つの過去へと広がっているのである。かくして、存在することにおいて、人は、真の、あるいは真ではないやりかたで、自分を時間的に位置づけるのである。しかしいずれにせよ、時の三つのエクスタシーは、彼の存在の統一性の中に統合される。彼は時の中に存在するのではなく、むしろ、彼が時なのであり、時を現存しているのである。」(注2)
 中央通路から別の二つの枝が出ている。それらに顕著な特徴は以下のようなである:「中央通路から、体温あるいは女性の創造的力の支配下に、「太陽」、あるいは「青白いもの」、あるいはロマ(ラサナー)と呼ばれる枝が出ている。これにそって、温かさ−温度が通う。それは客体の極(object-polarity)をあらわし、ラトナサンバヴァの性質を持っている。二つに分かれ、ひとつは性器の部分の上、もうひとつはその下にある。ひとつは排尿の管と運動性(及び運動の行為)の通路となり、もうひとつは血液の流れに関係する。両方ともアモガシッディの性質である。男性の安定させる力の支配下で、中央通路の左に「月」あるいは「お羊座(白羊宮)」あるいは「キャン・マ(ララナー)」と呼ばれるものがある。その上で、凝集(密着;結合)が働いている。それは主体の極を表しており、アミターバの性質を有している。そして、下でまた二つに分かれている。一方は糞便と凝固の行為、他方は生産力の行為(「白いボディチッタ」、ジャンセム・カルポ)である。両方とも、ヴァイローチャナの性質である。」(注:Sphzg より引用。これほど詳しくないが、内容的にほぼ同様の説明がガンポパの中にある。)
 この著述は続けて人が宇宙に関わる様子をつづっている。太陽と月は占星術の用語である:太陽は生命の豊かさ、生命が与えなければならない贈り物と、対象物のことであり、月は、主体として、その経験の対象を調和的に働かせる、人格の表現である。中央通路が静止した模型というよりは、動的な絵であるように、この二つの枝もまた、物質性を生みだす力と、その末端の形とのつながりが示唆するように、静止したパターンではない。これもまた、全体像の第二の相である運動性と、密接に結び付けられている。それゆえ、こう言われている。中央通路に沿って、意識の運動性が通り、一方、ロマ(ラサナー)に沿って、客体の極の確立で終わる、「太陽運動性」と呼ばれるばれるものが通り、また一方ではキャンマ(ララナー)に沿って、主体の極、あるいは「月の運動性」で終わるものが通る。客体の極は五つの力で成っており、それは、個体化・凝集・体温・動き・空間性である。主体の極は:意識・動機・感情・感覚・形成する相(formative phases)から成っている。二つの枝はまた、生物学的なレベルで、生活機能と関わってはいるが、医療科学が作りだした図式中に、これと対応するものを探しだそうとするのは、中央通路の場合とまったく同様、無益なことである。

 この、わたしたちの「身体」の、あるいは精神的有機体の図が、悟りを考えているいる心にとっての、すぐれた助けであることは疑いない。それは、人を最も崇高なものに結び付けるが、同時に排泄・排尿・出産という自然な機能を避けようとするわけでもない。人を醜い罪の衣装で覆うことはなく、様々な覚者の象徴によって、人が発展の段階の修行で、初めて経験するようになる覚者の性質(仏性)と、人の類似性、そして究極的な同一性を明らかにしてくれる。アルフレッド・ホワイト・ノースヘッドは、「人間の経験は、身体の中に位置する、焦点の部位の見地に限られた、自然全体を含む自分自身から起こる行為である...」と述べている。これらの言葉は、焦点という考え方に特に該当する。その中でも、「心臓の焦点」が特に重要なものである。(注2:Rzd 152bによれば、「頭」の焦点は当惑をあらわし、「喉」の焦点は熱情−渇望(ある情欲)を、「心臓」の焦点は嫌悪を、「へそ」の焦点は高慢を、「セックス」の焦点は嫉妬をあらわす。これらの焦点は、それぞれ、一定の色をした一定のマントラの音節によって特徴づけられる。)ここで再び、「心臓」は身体の器官に等しいとされるものではないということを、おもいだす必要がある。実際、「心臓の焦点」は、心臓に限られる必要はなく、胸のどこでもよいかもしれない。しかしながら、怒る時、恐れる時、痛む時、そしてなによりもセックスをする時に、動悸が増える経験が、心臓を最も、でなければ、より重要な、経験の焦点として選ぶ一因となったのである。タントリズムにおいては、「心臓」は、人の三組の構成、すなわち、外に現れた行為、つまり、行動する、しゃべる、考える有機体、そして、有機体の形成に寄与する力、そしてまた、現象の世界における彼の適応の結合した象徴である。「心臓の焦点」は、八つの花弁の蓮華の形で理解される。東に向かう花弁はスムコルマ(トライヴリター)と呼ばれ、個体化(地)を表す。南に向かう花弁はドマ(カーミニー)で凝集(結合、密着)(水)を表し、西に向かう花弁は、キマ(ゲハー)で、温度(火)を表し、北に向かう花弁は、トゥモ(チャンダーリ)で動き(風)を表す。南東には、スムコルマから始まって、形状と容姿、南西には、ドマから数えて、芳香、北西はキマから始まって風味、北東はトゥモから始めて触覚(注1)、そして八つの花弁のそれぞれには、状況性・交流・世界の中にあることという三つのセットがあり、始めのものは運動性から引き出され、あとの二つはそれぞれ「白」と「赤」の、物質性を生み出す力から引き出される(注2)。このようにして、心臓の焦点は、一種の会社間の役員兼務のように、分析的パターンを支配する、または、それに対抗する、統合的様式として働く。このようにして、それが24(8x3)の部分に分割され、それがまたさらに、ほとんど無限の数に分割されるにもかかわらず、全身もまた統一(調和)を形成するのである。この無限の数に分割されたものは、すべて、有機体全体の敏感な性質と触覚的要素の重要性を示している。この通路の分析をしていく間に、わたしたちは人間存在の図式の中の、もうひとつの重要な特徴、すなわち「あらゆるものを動かすもの」と定義される、運動性(ルン、ヴァーユ)に触れる機会があった(注3)。それは、通路に沿った、創造的な潜在力の乗り物として働く。ルン(ヴァーユ)という言葉の基本的な意味は、「風」であり、低い温度でのみ、息として知覚することができ、これにより、容易にそれが、目に見えるものと見えないものの間で瞑想するものの象徴として、使われることがわかる。とはいえ、呼吸はわたしたちの身体の働きのいたるところで観察でき、また、感じられる運動性のひとつの形に過ぎない。ここでもまた、テキストに書かれている様々な運動性の形を、循環・呼吸・消化・排泄・生殖・内分泌・神経・筋肉の各システムであると同一視するのは難しいことではない。テキスト自体、この、人の存在の図式と、医学の図式の間には、ある類似性があると明言している。しかし、これは解剖学的構造の問題というよりも、むしろ機能の問題であり、これと関連して、心の動能的(努力)面が強調されていることは、興味深い。タントリズムはかくして現代心理学の趨勢を先取りしているのである。
 通路が運動性を指し示したのと同じように、後者はそれ自体を超えて、創造的潜在力を示す。これは、すでに言及された、中央通路の上端の名前のひとつである純粋意識である。イド(マナ)は常に、意識に結晶する前の心を指しているということに注目するのは、大切である。ただし、これはこの後者の意味においてである。

 創造的潜在力に関連して、運動性はふたつの角度から見られる。すなわち、三つの反応の潜在力の乗り物として働く、意識の運動性と、80の反応のパターンの運び手である、行為の運動性である。通路の運動性と創造的潜在力の間の違いは、もちろん言語が示しているように思われるほど、厳密なものではない。実際この三つの用語は、様々な角度から見た、ひとつの同じ過程を指しているのである。それゆえまた、テキストが「心理−有機体と精神性(霊性)に共通の特徴」と呼び、微細な同一性と反応潜在性として定義し、進化の過程でそこから意識的な経験が発展するものは、有情の生命に特有な性格でり、有情の生命はそれ自身の意識の中で、一定のやり方にそって動くのである。タントラのテキストはここでもジュドソン・C・ヘリックが心理−生理学の土台の上で述べていることに先んじているようである。(彼は言う。)「はっきりと見える振る舞いは、ある種の動きである。動きは原初的であり、精神作用は、その中に、行為を生じさせるためではなく、行為を統制し、操り、その効力を向上させるために生じる。意識的で感情的な経験は、行動体系を、付加的な推進力で強め、そして知性が、その表現の中で取られる方角を示すにつれて、行為の効力は向上する。発生学的、系統発生的、両方の発達において、本質的に活性化された運動性は、外的な刺激への反応に先行する。身体はそれが反応する前に、行為する。胎児の発生において、筋組織から生じる動きは、神経組織から生じる活動に先行している。筋肉は、神経とつながりを持つ前に、行為し反応することができる。」(注2)これらの発見に照らし合わせて見ると、タントラにおける胎児発達の概念は、一定の通路に沿った様々な形と動きにおいて、内在的に運動性と結び付いているので、この言い方が表しているほど現実離れしたものではなくなる。(注3)
 ジュドソン・C・ヘリックは、タントラの思考を説明する助けになると思われる、重大な発言をしている。彼は言う:「心は非精神から生じる。そして今度はこれが身体の行為のみならず、その構造的組織をも支配するかもしれない。身体構造の乱れが心を乱しうることは、あらゆる人に認められている。逆もまた同じように明らかである。それは慢性的な不安や心配に関係した、胃潰瘍の流行によって、痛々しく説明される。身体組織の物理的構造と、その化学的な過程における、めざましい変化は、催眠術をかけた上での暗示によっても引き起こされた。潰瘍や暗示的に生じた水泡は、心と呼ばれる非物理的な実体によって生じたのではなく、他の生命機能と有機的に関連している心理−神経的な身体の過程によって、生じたものである。(注1)」タントラのテキストでは、「創造的潜在力(ティグ・レ)」と呼ばれるものは、確かにわたしたちが意味する心のことではない。これは長い進化の過程の最後の段階である。それはまた、普通身体と呼ばれる、物理的な組織体においてのみ、観察することができるものであるが、それが物理的なものだというわけでもない。それは構造、あるいは運動性、あるいは支配し構築する過程と、見なすことのできる、統一の原理である。(注2)逆をいえば、それは、経験の痕跡の持ち越しによってグループ・パターン化されたもの、あるいは C.D.ブロードがより正確に名付けたように、「経験的に始められた経験の潜在力」なのである。(注3)同じ著者は、タントリズムの基石である理論を注意深く進める。彼は言う:「それゆえわれわれは、ひとりひとりの経験が、多かれ少なかれ、自分の心でも頭脳でもない何物かにおいて、構造、あるいは過程の永遠の修正を始めるという可能性をまじめに考えなくてはならない。「わたしの」「あなたの」「彼の」などの、所有をあらわす形容詞が、心や生きた身体につけられるように、この実体にも、これらの形容詞をあてはめることができると、と仮定する理由は何もない。」(注4)そしてまた、彼はこう述べる。「わたしたちは経験的に始められた経験の潜在力の、内在する性質について何も知らないので、わたしたちが修正であると仮定した、この共通の実体の内在する性質について何も確かなことが言えない。そのような経験の潜在力は、経験それ自体である、またはありうると考える、いかなる理由も存在しないので、この実体は心である、と想定するいかなる理由もないのである。また一方、それは特定の身体であることは、まずありえない。それが、局部構造、あるいは内的動きの修正を受取り、保持することができる、一種の伸展し、浸透する媒体であるとすることは、不可能なことではないように思われる。」(注4)これによって「創造的」という言葉に、新たな解釈が与えられる。この文脈では、「創造的」という言葉は、「組み立てる行為」という意味ではない。なぜならそれが、完全に能動的でもなければ、完全に受動的でもないからである。それは「反応性」として、最もうまく表現される。
 通路が、人間と、人間より偉大なものを結び付けたのと同じように、運動性も、その限定された存在に制限されるのではなく、より幅広い状況関係を分かちあう。これは、黄道の宿または宮に関連した、呼吸の割合への言及によって示されていて、宿の始点に到達すると、身体の運動活動に関連して、作用する。別の言い方をすると、強い動能的(努力を意味する)な性格を持っている、わたし達の意識的な生は、決定(限定)を拒み、占星学の言葉で比喩的にのみ表現されたり、「認識の運動性」という高度な専門用語によって暗示されるものを、絶えず、とは言っても、大抵は気付かずに、取り入れている。
 構成し、制御する過程としての通路と運動性という視点から、または、人間にある、霊的なものの存在としての視点から等、様々な視点から、創造的潜在性を見る事が出来る。「霊的 spiritual」と「精神性 spirituality」という言葉を使っているからといって、いかなる種類の、いわゆる「唯心論」も意味しているわけではない。わたしは、これらの言葉を、単なる便利な概念、指標だと理解している。よって、ノエル・ジャカンの、この言葉の使い方に、極めて似ている。ノエル・ジャカンは「わたしは、ちなみに、いかなる宗教的、または神秘的な意味でも、『霊的 spiritual』という言葉を、使いたくない。より高次元の存在という観点から見た、物理的な人間存在の、指導性を持った対応物である、人間存在の部分を示すものとして、使いたい。わたしたちが、物理的構造とその活動を、連続して吟味する研究を行う時には、こうした、まだ探求されていない可能性を、十分に意識しなければならない。」(注1)
 タントラの経典に、通路と運動性として詳しく述べられているような、人間の物理的側面に関連した、潜在的創造性とは、起源に関して言うと、それぞれ、白と赤という色で象徴される、男性と女性の創造力の親和性の合体である原理である。(注2)この合体は、この経典が示すように、最も微細な相で、微細、または破壊される事がなく、分解する事の無い創造的(あるいは反応する)原理に結晶し、そこから、進化的発展を遂げるうちに、粗雑な形のエゴが生じる。(注3)[注3:Sphzg 28a; Sphkh 5aおよび、その他の個所。Dnz 48abによると、「心理有機体における最も微細な影響は、四つのタイプの空であり、特に、完璧な空である原初の輝く光の乗り物となった、運動性である」そして「精神性と心性における最も微細なものは、完璧な空である原初の輝く光の、現実性となった精神性である。最も微細であるが、運動性と精神性は別であり、そうでありながら、たった一つの現実性を形成する。覚者の境地が達成されようがされまいが、この二つは決して離れた事がなく、それゆえ、「一緒の発現(lhan-skyes)」「純粋性(gnyug-ma)」「破壊される事の無い可能性(mi-shigs-pa'i thig-le)」としても知られている。] 男性と女性のエネルギーの合体は、終わりでもあり、始まりでもある。それは、子供の成長の形での新たな進化の始まりの可能性という意味では、終わりである。このように、グループにパターン化された原理(これを経典では、経験的に始められた経験の可能性によって修正された原初の光」(注1)と言っている)は、運動性として、そして運動性によって、この合一の過程の間に進化した通路を通って、十分に発達した人間の存在に進んで行くので、それは、始まりである。創造的潜在性は、このように、過程の成果と成果の過程を表す言葉である。タントラの経典が、高度に専門的な言葉で記している事を、ノエル・ジャカンは、こう分析している。「授精の瞬間は、進化の前進において、その個人と、この特別な挿話との、最初の大きな同調であり、以前に獲得した類似性の、自動的な持ち越しが生じる。この大きな同調は、極めて自動的な過程で、二人の人間の性的な接近が、焦点を動かすか、あるいは生じさせる。わたし達は、これを、二つの周波数の具体化だと考えて良かろう。二つは、通常の人間の理解を越えた正確さで、調和したり調和しなかったりして、融合する。その時の、融合の焦点の構成の正確さが完成である。即ち、それは、関与している二人によって与えられる、均衡と変化の厳密な度合いを、その存在の期間においては、完璧で完全である相対的な力の度合いで、保持している。」(注2)彼はまたこう続けている。「その構成の中には焦点がある。これは「基本的な類似」と名づける事が出来、それ自体に特有のものであり、第三の存在の発端のための引きつける力、または「コールサイン」を構成する。このように、細胞と化学の次元で起こる、融合の物理的過程は、「コールされた(呼び込まれた)」実体が「定着」、即ち、コントロールする力を、得る事が出来るようにする物理的過程と平行関係にある。確かにこれは、「類は友を呼ぶ」という事だ。つまり、「コールされた(呼び込まれた)」実体は親和性という類似によって引きつけられる、即ち、自動的な同調になるという事である。AとBという親が、性交をすることによって、第三の存在、つまり、彼らの子供が生まれるのを可能にする物理的条件を作り出す。」(注1)しかし、わたし達は物理的なものに及ぶ、真に形而上学的な過程を扱わなければならないので、いかなる数字が示しているものも、比喩的にとる事しかできない。同様に、「平行」を、心理物理的平行論という正統的な意味で理解してはならない。他の点では、この説明は、新しい存在の開始という仏教タントラの概念と、完全に一致している。これは原始的な形で、仏典に既に存在している。(注:マジマニカーヤ)
 創造的潜在性は、方向を制御する力として、物理的なものの中に知覚する事が出来るようになるが、それは、「三つの反応の潜在性」の中に、心的霊的な対応物を持っている。この三つは、「意識的感情と行為の経験の中に入り、輪廻を作り出す。しかし、この作り出されたものは、焼き物師の作った壷とは違う。壷は、焼き物師がいなくなっても残るからだ。むしろ、壷に作り変えられている途中の、粘土のようなものである。」(注3)この三つ組は、意識的感情行為の先駆であり、その名前は明白な行為から取られている。よって、この三つは、「情熱・欲望」、「反感・嫌悪」、「当惑・過ち」という、誤解を招き易い名前を付けられた。それは、これらによって、具体的内容を連想するからである。どれかが他の二つより優位になることはあるが、三つの潜在性は、常に一緒にある。(注4)これが、わたし達が、実際、通常の生活で出会う、様々なタイプを産みだす。そして大胆に言うならば、各個人は、恣意的な外的力によってではなく、その人自身の同調によって、形而上学的に前もって定められている、と言えるかも知れない。これは、実践上の事なので、反応の潜在性に同調し、その潜在性を再分類する事によって、自分の運命を変える事が出来るようになるはずである。(注5)しかし、それが成し遂げられるか否かは、予言する事が出来ず、経験によってのみ示し得る。
 この三つ組は、あらゆる方向に輝く光の性格を持っている。(注6)しかし、それには等級がある。最も低いものは、澄んだ秋の空の月に例えられる単なる柔らかな光であり、反感・嫌悪の原型と関連がある。次は、まぶしい空の太陽のような強烈な光であり、情熱・欲望の原型と関係がある。三番目は、外から見ると、暗闇でしかない、隠された輝きで、当惑・過ちと関係がある。(p171注1)この描写は、もちろん、意識から全ての内容物を取り除いてそれを空にしようとする経験の幾分かを、同じゴールに到達しようとする人に理解できるような言葉で、伝えようとする試みに過ぎない。意識が空っぽになり、より透明度が増し、輝くようになる過程と経験は、さらに、「空」の様々な等級によって示される。よって、主体と客体の対極性が崩壊した後で、感知され感じられる単なる光は「空」呼ばれ、これに続く段階は、「強烈な空」、そして「大いなる空」と呼ばれる。しかし、わたし達が示す事の出来る全ての説明は、主体と客体の対極性の制約を受けているので、たとえ純粋な認識であろうと、意識も、いく分かこの対極性を共有しているものとして言及される。とは言っても、対極性は、普通の形で存在しているわけではないが。よって、太陽と月と完全な闇という象徴は、その光が意識の内容であるという事を意味しているのではなく、意識は、どこでも輝く太陽と月の光によって、最もよく表され得る輝きのような性質を持っている事を意味しているのである。同様に、この外的指示対象には、煙、蛍、入れ物に入ったランプで象徴される、内的な相対物がある。(注2)外側は全くの闇で、内側は、強烈な、自己を反射している光である、この最後の段階は、重要な瞬間である。ここから、原初の、言葉では表現できない光に入る事が出来るようになる。この光は、完璧に全ての内容物を空っぽにすること、「完璧な空」であり、外側は、いわば、全てがそれ自身の光で、くっきりと目立つ、日の出直前の奇妙な輝きに例えられ、内側は、雲の無い空に例えられる。この経験に入る事が出来なかったとしても、経験的に始められた経験の潜在性の投影する力が働きだし、それが、様々な経験を通じて、わたし達を、普通の出来事の世界へ連れ戻す。(注3)
 原初の輝く光の夜明け直前の完全な暗闇に関連して、十字架の聖ヨハネが「魂の暗い夜」と描写したようなものを見てみたい、という誘惑も大きい。このタントリズムの経験には、暗い夜から連想される、不安も苦悩もない。もしも、感情に例える事が許されるなら、揺らぐ事の無い、心の静けさと平和とほとんど区別できない、満足と自己充足の感情が、ここにはある。これは経典では永遠の喜びと言われている。結局、ここには、もはや主体も客体もなく、よって、伝える物が何もない。それゆえ、二つの物の見方(タントラ仏教とキリスト教)の違いは、とてつもなく大きい。ウィリアム・S・ハアスは、次のように述べて、この違いを見事に査定している。空の意識の過程には「全ての客体を破壊することによって、西洋の考えに必ず生じるような、荒廃的な(痛烈な)心理的効果は無い。というのは、西洋では、客体を根本的に除去してしまうと、主体の生命の流れそのものが、枯れてしまうからだ。絶対者という哲学概念や、客観的世界を科学的に構築することは、西洋の考え方の性に合っている。主体に対する、従属、合体、合一化、吸収などの概念の関係も、同様である。なぜなら、絶対者に関与するという事は、いかなる形であれ、客体化、即ち、リアリティを意味するからである。これとは反対に、東洋では、全ての客体から、理論的にそして行為において、身を引いた場合に、リアリティを発見する。即ち、他の全てのデータを取り除くことによって、自分自身のより本当の存在が意識である事を発見した場合に、リアリティを発見するのである。」(注1)仏教タントリズムは、さらに一歩進んで、いかなる存在論にも関与する事を拒否する。究極的なものとして「意識は存在する」という陳述を受け付けない。この点で、仏教タントリズムは、カール・ヤスパースの言葉を支持している。「存在論は、そのようなものとしての、そして、全体としての、存在そのものという学説を主張している。しかし、実際には、存在論は、不可避的に、存在内の特定の知識となってしまい、存在そのものの知識にはならない。」(p172 注2)
 反応の潜在性の三つ組は、その言葉の正しい意味で、実体と呼ぶ事は出来ない。完全に動的であり、絶えず流動しているので、究極的には運動性と結びつき、その運動性を通じて、80の自己充足した反応パターンに分裂する。その80の内、33は、反感・嫌悪の原型と関係があり、40は、情熱・欲望の原型と関係があり、残りの7つは、当惑・過ちと関係がある。「純粋意識の三つ組は、どこかにその土台を持っている実体ではないが、光を備えている。そして、運動性には、明確な形はないが、運動を生じる。この二つ(意識と運動性)は油と油のように混ざり合い、瞬きする間に、いたるところで輝く光となる。その光から、たちまち、(80の)反応パターンが生起し、いずれかが、束の間、優位となる。」(注1)この生起(進化)には、主体と客体の対極化への分割が含まれる。この有機体は、反応する前に活動するので、これらのパターンは、明白な振る舞いを決定する。この振る舞いは、「わたしとあなた」の領域ではなく、もっぱら「わたしとそれ」の領域で活動し、そして、活気の無い、この「客観性」−主体に対立するものとしての客体−の中で、善か悪のどちらかになる。(p173 注2)
 ここでもそうだが、よくあるように、注意を喚起する言葉が必要となる。反応パターンは前意識であり、それゆえ、カール・グスタフ・ユングのアルケタイプ(訳注:元型)とよく似ているようである。ユングの心理学への貢献は、はかり知れず、人間のプシケ(訳注:意識的無意識的精神生活の全体)の働きを明確にするのに、多くの事を為した。しかし、彼の言葉では、彼はプシケを自然科学の「客体」として認識している。(注3)そして、この点においてのみ、「アルケ」という言葉が、何らかの意味を持ち得る。この言葉は、本源のようなものを、特に、始まりを意味する。即ち、何かが進行する上での起点を示し、ユングが精通していたギリシア哲学では、この始まりは、驚きである。事実、ギリシア哲学全体は、驚きによって支えられ、驚きで充満している。(注4)しかし、驚きは、驚嘆している人間を、その驚嘆の対象から分離する。(注5)確かに、仏教タントリズムの反応パターンは、驚きや驚嘆とは、直接関係がない。それは、ひとつの全体状況の印であり、この中状況の中では、客体の極が、必ずしも、主体と対立しておらず、むしろ一体感がある。よって、反応パターンは、客体化する思考の客体ではなく、可能な経験の生きた媒体なのである。
 この人間存在の図式は、その多くの組織的配列にも関わらず、生き生きとした絵であり、それによって、人間を経験の領域にとどめておく事で、その目的を果たしている。そして、それが有効である限りにおいて、真実である。呼吸法に絡めて、この図を使う方法は、有能なグルに教わってのみ、身につける事が出来る。上に述べた事の多くは、この修行中に何が起こるのかという事を示すためである。しかし、様々な段階の光の経験は、注意の対象ではなくて、正しく行じられた修行の付随的な側面である。

5.現われ(幻)

 この教えは、より大きなプログラムの中で特別な設定となっている発達の段階と達成の段階の間に経験することと、密接に関係がある(注1:ガンポパ viii. 12a. Sphzg 164a. 「純粋な」現われの存在と「不純な」現われの存在のこれ以上の区別は、バルドーの章で論じる。)。これは、西洋世界において、今までほとんど触れられなかった経験的事実、あるいは、当たり前の規律によってさげすまれている経験的事実を扱っている。これは、鏡に映った映像をじっと見つめることから始まる、特別な技術を根本としている。まず第一に、それはその人自身が鏡に映った姿であり、その目的は、物質でできた対象物を唯一のリアリティーとして信じていることを超越するため、そして純粋な感覚に到達するためである。鏡に映ったイメージは、特異な状況を作り出すので、特にそれに適している。C.D.ブロードは次のように指摘している。「視覚的な知覚においては、(光を)発する(発散する)部分、投影の部分、(光が)広がった部分、広がっている色の濃淡を考慮に入れなければならない。広がった部分は、投影の部分の中にある事象、あるいはその周辺の事象によって直ちに確定される。これらの事象は、また、広がっている色と濃淡をも直ちに確定する。そしてこれらの事象それ自体は、光を発する部分にある、顕微鏡でしか見えないような微細な事象によって確定される。実際の生活の中で最も頻繁に起こるケースにおいては、広がった部分と発散する部分は、ほぼ一致する。しかし、鏡に映った姿、および、自分の周囲に同種の媒体がない場合の視覚的状況においては、広がった部分と発散している部分は、一致することをやめ、お互いに非常に離れた位置関係になることもある。さらに、広がった部分は物質的な事象を全く含まないこともある。また、そうであるとしても、きわめて関連のないものになるであろう(注1)。」C.D.ブロードは続ける。「もしわたしが、平らな鏡に、光の当たっている点の像を見たら、広がった部分は、わたしのいる立っている位置からは、ほぼ鏡の裏側になる。これは、わたしの立っている位置から、もし、直接に、鏡なしでみた場合には、光の当たっている箇所(点)が実際の外観を示すために占めなければならない場所である。そしてもちろん、鏡の後ろのこの場所では、物理的に関連のあることは何も起こっていない。(注2)。」このように、鏡に映った映像というものは、物理的対象物を信用しているわたしたちの考え方を土台から崩すものである。鏡の中に自分自身の像が現われた瞬間、その像は、それがその人を魅了したり、不快にさせたりすることがなくなるまで、褒めたり、けなしたりすることによって、批判的に査定される。この後、この像は「鏡と自分自身との間」に立っているものとして熟視(観察)されるが、これは外的関係においては、物理的対象物に対する信を生じさせ、より一層顕著な損失となる。そして最後に、自分自身と投影された像の相違は、純粋な感覚というひとつの活動の中で、撤廃される。同様の方法で、日々の生活の中でわたしたちが関心を持っている、残り6つの主題が取り扱われ、それらはわたしたちに対する支配力を失う。その6つとは、獲得と損失、名声と恥辱(恥)、快楽と苦痛である(注3)
 sgyu-lus(マーヤーカーヤ)という専門用語で表わされ、「現われ apparition 」と訳されているものは、より広範囲な分脈においてsgyu-ma(マーヤー)と称される特別な様相である(注4)。この言葉の基本的な意味は、わたしたちが「イルージョン(幻影)」と「ハルーシネーション(幻覚)」と呼んでいるものを包含する。この言葉はタントラ哲学において一つのキーワードになっており、ここで概説される実践は「道の車軸(車軸棒)」とさえ呼ばれている。また、それは、不当な結論を引き出す恐れがあるので、ある程度詳細な分析を加える必要がある。
 幻影(イルージョン)という言葉と幻覚(ハルーシネーション)という言葉は、両者の意味が重なる場合があるとしても、明確に区別されなければならない。幻影(イルージョン)とは、与えられた感覚データから誤った結論に飛躍するである。例えば、もし山地で地面を見て、あるものに気づき、それを一片の銀だと思った場合、それが単なる光沢のある雲母の破片だとしたら、これは幻影(イルージョン)のケースである。幻影(イルージョン)の特異な性質とは、銀が通常山地で発見されるがために、銀があるのではないかと期待したことで、誤った知覚行動を現実の(実在の;具体的な;実際の;有形の)土台の上に構築させてしまったことである。これは、人というものが小石や木の破片を見て、人間や家や、その他自分が期待したどんなものにも見えてしまうという事実によって明白に示されている。同じように、普通の人たちは、自分の期待をこめて世界を見ると言われている。
 この「幻影(イルージョン)」という言葉は、東洋思想を紹介する上で、非常に不幸な影響を及ぼしてきた。というのは、経典が、断定的に世界は幻影であると主張していると、一般に理解されてきたからである。このようにして、完璧に賢明な論旨が無意味な陳述にねじ曲げられ、疑わしい理想主義がこの不確かな基盤から成長したと推定された。世界それ自体には、幻影は何ら存在しない。世界が実際与えることができるものよりも多くのものを期待したときに、世界は幻影となる。そして、与えられたものを与えられた通りに理解することに失敗すると、期待のすべては無に帰する運命にあるので、結局苦しまなければならない。このようなケースにおける期待は、まさに全くの幻影である。しかし、期待の挫折は、世界自体が幻影であるという、きっぱりとした陳述を引き起こすわけではない。仏教、とりわけタントラの教えの目的は、現実に可能な範囲を超えて期待しないようにと諭すことであり、世界という幻影に幻影を抱くことを回避することである。ナーローパは、ヴァジラギーティのひとつでで、それについて次のように表現している。

   習慣を作る思考の悪魔に
   捕らえられた、この飲んだくれたちは
   石や木の中に黄金を見る−
   だがそれは黄金でも宝石でもない。
   この自分の思考の悪魔を追いかけて
   彼らは足かせをはめられる。
   ゆえに慈悲と識別する意識によって
   悪魔を征服すべく努めるのだ。(注1)

 一方、幻覚(ハルーシネーション)は知覚の過ちを意味しない。感覚データは実際そこに存在している。しかし、肉体の感覚器官はこの創造に何の関係もない。例えば、飲んだくれたちが見えると言い張るピンク色の象がそれである。彼らの状態は、アルコールのような有毒物質が血液中に含まれていることに起因するかも知れないが、例えば、現われの場合のような、本物の幻覚が存在するという事実は、この説明が不十分なものであることを示している。G.N.M.チレルは数段優れた説明をしている。彼はこう述べる。「現われは、物理的原因となる性質を欠いているので、肉体の知覚器官に影響を与えることはできない。しかし感覚データとしては、通常の知覚において生じるものとまさに同類のものが生じる。しかも、単に感覚データだけではない−これらの感覚データを土台として、視覚、聴覚、そして触覚による知覚という完全な行為が構築される。従って知覚は、明らかに、肉体の感覚器官の作用や、外界に存在する物理的プロセスのいかなるものにも依存する必要がない。『幻覚』は、いかなる場合にも、たとえ、それがある程度不完全であったとしても、原則として通常の知覚の水準には達しており、人格における心理学上の要因から生じると考えられる。これは重要な発見である。(注1)」この帰結は、感覚知覚の全プロセスが改められなければならないということである。それは、チレルがさらに指摘しているように、「2つの異なった方法で、操作するようにできる。(a)『下方』から(通常の物理的方法によって)、そして(b)『上方』から(支配的な考え方に答えて)である。」(注2)。この場合に、決定的役割を演じていると想定される物理的プロセスは、原因として働く力というよりもむしろ、導いたり調節したりする力に変形される。人間の構造に関してのタントラの概念から見れば、この理論は非常に魅力的である。構造上の道筋は、表面的には物理的な対応(一致)を持つが、原因として作用することは全くないということは、覚えておくべきである。
 sgyu-ma(マーヤー)と称されるものの幻覚の特徴は、シュラーヴァカ、プラティエカブッダ、ボーディサットヴァのケースにおいては、容易に認められる。彼らは、実際には何もない世界を見るが、普通の人々とは違って、誤った結論に飛躍することを回避する。魔術師とその見物人の例においては、部分的な幻覚がほとんどである。聴衆は面白いものを見ようと期待し、魔術師は、人や家やその他望ましい物といった考えを提案する。これは、幻影とテレパシー的な幻覚との共同の作用といってもよいであろう。
 全世界が一種の異常に大規模な幻覚であるという思いつきは、知覚状況の現実と錯覚を区別する唯一の基準であるとわたしたちが見なしている、物理的なものさえ、幻覚に変えてしまい、現実離れしているように見える。しかし、この明白な現実離れは、物質的なものを当然のこととして受け止めているわたしたちの先入観のためではないだろうか。そして、リアリティーの起源を物質的なもののみに帰することによって、単なる確信を絶対に間違いのない原則に押し上げるだけではなく、リアリティー全体としての非常に重要かつ意味深い側面を、正当に評価し損ねていることを、われわれが認知できないからではないだろうか。この問題はさらに別の角度から、アプローチすることができる。世界の幻覚的特徴とその住民の現われの特徴を、われわれが通例の物理的設定に対してするように、これらが同様に、描写することのできない何かに対する例外であると、見ることはできないのだろうか。原典は、明らかにこの見解に賛同している。それは、幻覚も幻影も存在しないという覚者のステージについての言及から明白である。この文脈においては、幻覚はもはや、何か異常なもの、あるいは超自然的なものではなく、リアリティーにアプローチする無類の手段(もちろん、絶対的なものとしてではないが)である。わたしたちは、このリアリティーから、自分たちを、部分的なリアリティーの中に隔離することを許し、そのために、ベルナール・ボサンケが忠告した過ち − つまり、ある物事を実際よりも高く評価してしまうという過ちに、陥ってきた。
 特筆すべきもうひとつの点は、世界の幻覚的性質は、必ずしもデミウルゴス(プラトン哲学における世界の形成者)のような者の仕業と考える必要はないということである。バークレイ学派的な表現をするなら、それは「神の御心の中の考え」である必要はない。むしろ、この幻覚は、相互依存(相互関係)によるものであり、すべての生き物が共同して作り上げたドラマである(注1:アビダルマコーシャ, 4. 1, は、世界がすべての有情の存在のカルマの産物であると述べる。集合性については、G.N.M.チレル, op. cit., p.109 その他の箇所によっても認められている。)。
 このドラマにおける、人間の人格が、段階分けされた階層制(ヒエラルキー)であるという考え方は、この背景の中でも出くわすことであり、非常に重要なことである。最も低いレベルにおいては、身−心の物質的相がある。これは構造プロセスの最後の相であるが、その産物によって枯渇することはない。それは、常に存在する潜在的可能性として残り、これは、低いレベルから見るなら自動性と心性のように見える。これは二つではなく、ひとつであるが、そのひとつでさえ数字として捉えることはできない。この潜在的要因は、ある程度までは、哲学用語で言うところの実存自我に対応する。しかしながら、これは不変の存在ではなく、過去の経験の痕跡によって集団パターン化されたものであり、この「洋服」から新しい経験を統御し、可能にする。この点において、これは、純粋な心性-運動性の潜在性とは異なるが、それはこれが、すでに活性化された潜在性であり、この潜在性は、情緒的な身の行ない・言葉・思考という、様々な慣れ親しんだ型に入れて作られものであり、この型は、最も低い物理的レベルにおいては、明確な内容に満ちている、という限りにおいてである。3つのレベルは、次の通りである。
(a)純粋な潜在的能力(潜在性)、単なる運動性-心性、あるいは、真の人格、
(b)後-潜在的しかし、前-物理的存在、それは「可能な身の行ない・言葉・思考パターンの特徴を身につけた3つの反応潜在的性であり、精神的な存在、あるいは非常に微細な人格である(注1)。」
(c)最初の、しかし短命な構造プロセスの所産である、最も低い、あるいは物理的な自己(エゴ)。
 現われの人格の土台は、運動性−心性の純粋な潜在的可能性である。それは現われに独特な一定の特徴、すなわち、光を発し、物理的な意味において触れることができないが(注2)、これらの特徴と全く同一視することはできない。わたしたちに知られている現われは、言ってみれば、あまりに個人的すぎる。現われる存在は、それが主体全体の公式の表現であるため、非人間的である。ここでの主体とは、通常「単なる主観」と言っているものとは、当然何の関係もない。
 現われ、および、現れの環境の特徴を生み出すテクニックは、呼吸のコントロールと関係している。呼吸のコントロールは、際立った形から始まり、次第に微細になってゆく。そのひとつは3つのマントラ音節によって象徴される。オームは粗雑な段階において息を吸い込むこと、フームは保持すること、アーは息を吐き出すことを表わす(注3)。これらの音節は呼吸の内容ではない。これらは、その外的な関係および、言葉との関連が次第に鎮まっていくことを意味している。ここで示されている呼吸の変化は、トリガント・バーロウが、仲間と行なった「コテンション」と「ディテンション」の実験に基づいて述べているものと非常に類似している。バーロウによれば、「ディテンション」とは「普通の注意における、感情要素、あるいは、偏見の侵入を示すために使われる用語」である。特にこの言葉は、「『わたし』というペルソナ(仮面:ユング心理学の用語)」あるいは「人の現レベルでの『正常』な感覚・思考の根底に潜んでいる、前もって組み立てられた感情・偏見の人工的体系(注2)」と彼が呼ぶものと関わっている。一方、「コテンション」とは、「大脳-交換神経系内に、本来、分化しない状態で存在している、環境に対する有機体の神経力学的関係を言う。コテンションは、有機体を最初に筋感覚によって外界と結びつける、内的な緊張とストレスのバランスを表わす。それは、系統(種族)-有機体の基本的な緊張の配置、あるいは、環境に対する関係における感覚の全母体である。この緊張の様相は、本質的に人間の有機体と外的世界を仲介する、未分化な形態の動因を表わす(注3)。」この全形態は心のイメージの排斥によって特徴づけられており、それ自体、言語的プロセスではない(注4)。これはまさにタントラの原典が明らかにしていることである。
 トリガント・バーロウの実験は、呼吸の現象に関して殊に興味深い。かくして、「ディテンションと比較すると、コテンションにおける呼吸の割合は、際立って、しかも一貫性を持って遅くなり、この割合の減少は、呼吸において腹部および胸部の動きの大きさが増すことを伴う(注5)。」これは、呼吸が徐々に平坦になって、腹部の動きが止まると主張する原典では、容易に見つかることである。
 T・バーロウの実験のもう一つの興味深い特徴は、「コテンションにおける眼球運動の回数の減少である。コテンションの間に観察されるこの減少は、両目を閉じているとき、あるいは、まっすぐ前を見て、特に何の特別な作業や刺激も目に課されていないときだけでなく、広く様々な刺激をもたらす条件下においても起こる(注5)。」これは、あらゆるタントラの原典の中で言及されている一つの特徴、ティローパを始めとするヨーギたちのじっと見つめる視線を連想させる。両方の眼球を固定させることは、最も重要な必要条件の一つである。呼吸が困難な状態と、絶え間ない眼球運動が、(その人間が「正常」であれノイローゼであれ、また、このような人間の分類は単に統計上のものであって本質的なものではないが)、情緒性を帯びた人間の思考や感覚と、密接に関連しているということは、よく知られた事実である。よって、呼吸と眼球運動が一番の注目を集めても何の不思議もない。多大な重要性を持っているが、この文脈においては当面関係のない、コテンションにおける他の現象も、バーロウによって挙げられている(注1)
 呼吸と眼球運動は生理的なものであるが、コテンションの心理学と経験については何も語らない。これらは原典において、2つのタイプの瞑想によって示される。その一つ、「融解」は、運動性ー心性から生じる、純粋な覚者の形の視覚的経験であると述べられている。それは、表現を要求する一つの価値の悟りであり、故に、霊的な覚者アクショブヤの白い形に変化する。アクショブヤの心臓の中で、フームの文字は純粋な白い光に輝き、それは、形成されたすべての相を徐々にその輝きの中に溶かし、ついにはそれ自体消滅してしまう。このプロセスは、徐々に雪が融けて最後に水滴だけになるまでの状態にたとえられる。第二の瞑想の体験、「蒸発」は、同じフームの文字から光を発散することであり、全世界そして世界の中の生き物をその輝きの中に溶かす。このプロセスはは、鏡にかかった息が消えるのにたとえられる(注2)
 この記述は意識の内容に言及しているが、一方、この名称に値する内容はほとんど存在していない。これに伴う感情色相は、経験感情パターンに言及することによって示されているが、そのうちのあるものは、紛れもなくセックスに関係している。これは、タントリズムにおいては、性は承認された方法であり、それゆえ、性の立場から魂に言及することが可能であり、逆もまた可能という事実によるものである。タントラの実践は、様々な先入観に基づいて「より高尚」と思われている、人間の一部の面ではなく、人間全体に関わっている。
 この実践の目的は、自分自身に対する態度、そして自己の全環境に対する態度の変化を達成することにある。それは、我々の経験すべての一元の性質に対する意識を達成することである。同時存在(合致;一致;同時発生;coincidence) とは、通例究極の真理と称されているものと、相対の真理とを単に並列することではなく、それらの根源的な主体性(アイデンティティー)意味する。不幸にも、アイデンティティーという言葉はたくさんの意味を持ち、誤解を招く恐れがある言葉である。ここで意味されているのは、理想主義の論法家が、2つの別個の存在物の間に成立するどんな関係にも、必然的に、より高い統一性、あるいは、主体性(アイデンティティー)が含まれている、と言明するときに使うアイデンティティーではない。ここで言うアイデンティティーの認識関係としての同時存在(一致)の意味は、もしある人があるものをあるがままに知ることが可能であるとするなら、その人はそれ(つまり対象物)を知ることができなければならないし、それを知ることができるはずだ、ということである。それを知るということの意味は、単なるうわべや、それに関する考え方の模倣ではなく、その対象そのものを知ることである。そして、それを知るということの意味は、単に対象や、その対象の作用を受けている存在に対して応じたり、反応するのではなく、ただ知ることである。しかも、同時存在とはこれ以上のことを意味する。それは、事実の世界にフィードバックしてくる価値の世界に足を踏み入れることである。なぜならば、人が生きることのできる世界は、裸の事実の物理的輪郭を満たしうる価値に依存しており、従って、物理的限界に優り、より満足のゆく世界だからである。これはサンボガカーヤの7つの特徴によって示される。サンボガカーヤとは実体ではなく、自由な意志伝達の象徴であり、生のより深い重要性と、より満足のゆく感覚色相の象徴に気づいていることである。これら7つの特徴は以下の通りである。
(1)他の何物にも分解し得ないという意味で究極と表現される、究極の真理と、それが分割的・部分的な真理になる前の究極の真理に支えられた、相対の真理との一体化による、価値の豊かさ
(2)この一元の性質の至福を楽しむこと
(3)条件付きの喜びではないので、この至福が無類であること
(4)それが、主体と客体の仮定の欺まん的性質に影響されていないので、それ自身の中で排他的に存在を主張する可能性のある、いかなるものもないこと
(5)主体(自)と客体(他)という構成概念は成り立っていないが、「他のために、そして他と共にあること」の中に顕現するので、並はずれて慈悲深いこと(すなわち、限りのない慈悲とは、人に対して向けられた感傷的な行為ではなく、すべての生命を包含し、ゆえに、世界の空虚さと幻覚に手を差し伸べるもののことである)
(6)その継続性、無限の事実と価値の果てしない展開
そして最後に、(7)すべての変化を超越して留まるので、それが不滅であること(注1)である。
pp.174-182にある下記以外の(注)は省略。

6.夢

 夢は、人の目的である解脱を達成する上での積極的手段である、と言われているという事は、どちらかと言えば、驚きに感じられるだろう。これは、夢をそのように考える事が出来ず、目覚めている状態から夢を常に判断する、現代の理論のせいである。夢を見ている人は、自分がイメージの流れのおもちゃになっている事に気付かないのだが、夢は、そのイメージの流れに受動的に降伏する事ではないし、また、夢は、目覚めている状態を補足するものであるとか、補償するものであると判断する事もできない、ということがここで与えられる教えによって、大いに明らかになる。これによって、フロイトとユングの夢の理論が捨て去られる。(注1)覚醒と夢の間にはハッキリした区切りはない。厳密に現象学的な調査に基づいて、メダルド・ボスは「しかし、これまでのところ、我々は、夢の生活の本質を、全体として、目覚めている生活から区別する基準を決定できずにいる。」と言っている。(注2)さらに彼は「覚醒も夢も、独立した経験や概念の相互連結として適切に表現する事は出来ない。起きていても夢を見ていても、人は常に同じ存在を満たしている。」と言っている。(注3)夢は覚醒状態と同じく、直接的現実であり、そして、環境や、物事や人、いわゆる神聖な物との我々の関係は、目覚めている生活でのものと同じく、我々の注意を奪うものである。目覚めている状態でよりも、夢でこの世をよりハッキリと見る事すら可能である。夢の中に、目覚めた状態が現実である可能性が、潜在的に存在するのと同じように、目覚めた状態の中に、夢が現実である可能性が潜在的に存在する。よって、「現れ(幻)」と「夢」の修行は、同じ平面にある。なぜなら、二つとも、エゴという柔軟性の無い、低レベルの態度と概念を「浄化」する働きをするからだ。(注4)
 夢が生じる「場所」は、全人格、実在する自己、または、経典が一致して述べているように、「原初の輝く光の中での一連の運動性」である。これは特に意味深長で、夢が心理起因性の物ではない、という事を示している。プシケは、物理的連続体と相互作用をしている別の実体だと考えられているからだ。同様に、夢の唯物論的な概念では、感覚上の刺激と感覚の印象は、最も重要だと考えられているが、それも決して原因ではなく、心理・精神的なもの(注1)が、加工され、極度に凍結した製品にされるときの型枠なのである。(注1:この言葉は、その性格付けをしているのではなく、単なる指標として使われている。)またしても、我々は、目覚めた生活が凍結の状態であるという言及に気付き、「通路間の柔軟性の無い相互連結をゆるめるために」、この状態を「解凍」する必要がある事に気付く。よって、例えば、sKye-med bde-chen はこう言っている。
「無記憶の領域が、常に変化している記憶によって揺り動かされると、その領域は、固定化されて、解釈的心の構築になる。冬の冷たい嵐に揺り動かされた水が、氷になるように、解釈的心の構造が、そうではない構造の中に入ると、それは成長して輪廻になる。それゆえ、サラハは『水が揺り動かされたのは、水がその中に飛び込んだからだ。』と言っている。
 「しかし、風が水に飛び込まないと、水は穏やかなままで、苦しまない。が、動揺の条件である、冷たい風が飛び込むと、水は石のような氷になる。また、解釈的心の構造が、記憶のために、無記憶に進入しなければ感情反応の苦しみは無い。そして、違った特徴の構造がないので、その穏やかさは保持される。しかし、無記憶から記憶が生じ、その記憶が永遠に存在する実体だと考えるてしまうと、感情反応はどんどん強くなり、解釈的心の構造が消滅する事はなかろう。よって、サラハは続けて、『穏やかな水でさえ、岩の形と手触りを持つ。』と言っている。
 「さらに、記憶は、始めの段階では、無記憶から生じ、中間の段階では、無記憶に根付き、終わりの段階では、無記憶に溶けるという事を知っていれば、記憶として生じたものは全て、湖に降り注いだ雪のようなものである。しかし、それをそういう風に理解しない人が、記憶を、永続し、永遠の、独立した実体だと捉えなら、記憶は氷河に降り注いだ雪のようである。このようにして、解釈的心の構造がどんどん明白になりながら、リアリティに気付かない個人が、記憶によって非記憶を揺り動かすので、その人は輪廻しか生じさせない。それゆえ、サラハは「ああ、解釈的な心の構造、『パターン化されていないもの」によって揺り動かされた、愚かなお前達よ . . .』と声を大にして言っている。
 「さらに、通路を究極のリアリティだと理解してしまうと、神秘的な音、創造的潜在性、内的神秘的な熱、(望んでいる)空の寂静の状態などの題目は、単なる想像の産物でしかないのに、そうした構成概念にどんどん巻き込れてしまい、この行為は鎮まるとは思えない。それゆえ、サラハは『非常に硬く固定的になる』と結論を述べている。」(注1)
 解凍の過程として、大いなる至福に近づく事について、サラハはこう言っている。

「最初、現れは空だと感じられる。
これは、氷を水と認識するのに似ている。
すると、現れが消えないのに、
空は至福と区別できなくなる。
これは、氷が水になるのに似ている。
記憶が非記憶に溶け、非記憶が起源の無いものに溶けるとき、
全ての物が、最高の至福の中で、区別する事が出来ないほど一体となったとき、
これは氷が水に溶けるのに似ている。」(注2)

 多くの場合、夢の中では、その日に望んだ事が再現されるだけであるが、夢を見るという事は、こうした経験だけにとどまらない。が、その多くは、夢と目覚めている状態の厳密な境界線はないという事を、せいぜい、強調するだけである。もっと大きな背景の中では、夢の状態は、眠りに落ちてから起きるまでの間の出来事として、死と再生の間の中間状態にハッキリと例える事が出来る。眠りに落ちる事は一種の死であり、古い形状が壊れて初めて、個人は、より新しく成熟した構造に作り替えられる。その可能性が、いわば、夢の中で思い描かれ、起きているときに、現実に形をとる。古いパターンが壊れてから、どのようにして夢が誕生するのかについては、本文に示されている。しかし、それは、Padma dkar-poによって、より綿密に述べられている。「心身の構成要素のヴァイブレーション、即ち、形成する力(物質化する力)とその相互作用の場が、潜在意識に印象づけるものとなり、「心臓」に集まると、眠りに落ちるという様々な現象(これは、柔らかな輝きから光の広がり、そしてそれを越えるという、瞑想の進歩に似ている。)は、いわゆる、光の広がりに溶け、それが今度は、眠りの土台である、内側に輝きのある暗闇に溶ける。なぜなら、暗闇に負けた心は、この内側に輝きのある暗闇に似ているからだ。次いで、この暗闇から、原初の輝く光が突然輝き出す。この光は、全ての迷妄と全ての心の概念形成が絶対に無い、瞬間の意識である。この光から、夢を見るという様々な現象が生じる。夢にはそれ自身の独立した存在が無いのだが、「それ自身であるもの」であるように見える、そして、その性質に従って、様々な機能を果たす事が出来る。よって、夢は実在するリアリティの全体と共にあるのだ。それゆえ、夢を利用して、(輝く光に)似ている神聖なパターンとして、実在するリアリティ全体を、個々人が経験し把握する事が出来る。」(注1)
 この文章中で、「瞬間の意識」という言葉には、特に注意する必要がある。なぜなら、哲学的に最も重要だからである。これは、常に時間の「内部の」出来事である、瞬間の出来事を意味しているのではなく、通常の身体と心の限界を超えた高揚を、そのような瞬間にのみ、享受できるという事を意味している。なぜなら、その高揚は時間の継続と無関係だからである。別の言い方をすると、「瞬間の意識」と呼ばれるものは、その時間的面から見ると、有情の生命の根本にある、時間なのである。ここから、我々は、連続した出来事に、自分達の経験を時間的に位置づける。その認識的な面では、空はいかなる内容物によっても、満たされる事はありえない。よって、その定義は次のようになる。
「一つの瞬間から他の瞬間へと先行する事がなく、その以前と以後の存在と変わらずに留まっている」(注2)、そして、「瞬間の」は、ここでは、特定の壊れてしまう実体(注3)として理解してはならない。この概念において、タントラ哲学は、現代実存主義の思想で、「実存の瞬間」と呼ばれているものの先駆けとなっている。この「実存の瞬間」は、ゼーレン・キルケゴールとカール・ヤスパースによって、非常に明確に論じられている。(注1)
 夢の原因は輝く光ではなく、その光の中で揺れ動く運動性であるという事に気付く事は、大切な事である。この運動性は、それから、経験的に始められた経験の可能性を通じて、夢と目覚めている生活の両方になる。これは、またしても、目覚めている状態と夢は、全てを包含する光の中にある同じ性質に属しているという事を示している。
 「喉の」焦点に言及する事によって、夢を見る事と瞑想の過程に関係がある事が分かる。「喉」は言葉の場所であり、そこを通じて、我々は、身振りを使うよりも容易に、他の人達との関係を確立する。そればかりではなく、「喉」は、それを越えて、関係を広げる事に本来備わった価値を示し、真の伝達を示す。同様に、「心臓の」焦点は、人間の自分自身である事を示す。この人間の自分自身である事は、それ自身の投影を、伝達、そして、真の「この世の存在(世界内存在)」の中に見い出さなくてはならない。それゆえ、自己の潜在性を実現する手段としての夢は、自分自身が、サマヤサットヴァ(コミットメント存在)だと観想し、その「喉」にジュニャーナサットヴァ(意識存在)、そして、その「心臓」にサマーディサットヴァ(没入存在)がいると観想する事によっても誘発される。(注2)この三重の階層構造(ヒエラルキー)は、またしても、精神 (spirit ) の無い「この世の存在」から、精神性(spirituality)に満ちた自分自身である事への上昇を強調している。
 この教えのもう一つのポイントは、夢を見ている間に、夢を見ている事に気付く事を学ぶ事である。これは、「ありがたい、これはただの夢なんだ」というほっとするような確信を持つためではなく、我々の毎日の「客体」の経験を超越する理解に到達するためである。この目的に達する技法の中には、夢の内容を、同じ種類の多くの内容にしたり、ある内容をその正反対に変えたりするものがある。しかし、ここで気をつけなくてはならないことは、目覚めている生活においては、抑圧に基づいた一種の逃避主義や、浅薄な楽観主義であると考えなくてはならない夢の経験の中に、何かを読み込もうとしないようにすることである。抑圧に頼る事ほど致命的な事はない。なぜなら、そうするためにどの様な事をやってみても、それは単に、自分がそこから解放されたいと望んでいる、その絆を強めるだけである。Padma dkar-poは、火とそれを消す水、または、火によって蒸発する水の夢において、その目的は、一方でもう一方の効力を消して、その結果に満足する事ではなく、「薬で病気に対処する場合のように、一方でもう一方を打ち返す無限の方法に気付く事。正しい手段を識別する事。そして、対立する物どうしが不可分であるという謎に気づく事によって、当惑・過ちの状態を明確にし、非当惑の状態を達成する事である。」(注2)と極めて明快に述べている。当惑とは、本質的には、生きているリアリティを死んだ公式にするために、「説明」しようとする事である。存在する全ての事柄の謎の背景についての考えを、際限なく組み立てる事である。しかし、非当惑とは、それぞれの現れに、そのリアリティ全体を与えること、つまり、個人の理解に照らして明らかにされた「真のもの」の直接の現れを与えることである。

7 輝く光

 輝く光に関する教えは、パーリ教典で、すでに見られる、「輝く心」の概念にさかのぼる。この考え方は様々に解釈されてきた。輝く心を、その光の偶有的な覆いの後ろで、変わらずに存在する実体である、と信じた学派もいたが、その一般的な主流は、それを単に役に立つ概念と取ることであった。(注3)同様に、他の、例えば輝く宝石、燃えるランプ、等の、輝く光に関するすべての用語は、資格ではなく、わたしたちがありがたく受取りながら、それを具体化する時には、注意深くなければならない指標、暗示なのである。注意すべきもうひとつの点は、タントリズムにおいては、普通の現れの世界は実在しないものではなく、限られた、特定のやり方における究極的なものであり、そしてそれゆえ、それをこの世的なもの以上の美と価値で完全にし、高めるという、人間にとっての挑戦なのである。仏教タントリズムは、(もちろん例外もあるが)概して、ウィリアム・ペッペレル・モンタギューが「肯定的神秘主義」と呼ぶもので、それは次のように説明される。「肯定的神秘主義者というのは、目に見えないもの、超越的なものの啓示が、目に見える存在の実際の(具体的な)細部や、義務に対してその人を盲目にするように働くのではなく、地上の生活を照らし出し、強めるように働く、そういう人のことである。彼の世界観には、幻想説、ペシミズム、禁欲主義、神秘主義(オカルティズム)は存在しない。この種のより高い神秘主義者にとって、自然はよりリアルでないというよりも、よりリアルなものであり、醜いというよりも美しいものなのである。そして、彼らの生命を、生きることの否定と、この世的な存在とその義務の拒絶に捧げるのではなく、彼らの内側の光を、常識と科学という外側の光を補うために使い、天の王国をこの世界に現出することに力を尽くすのである。」(注1)
 リアリティーの統一(unity)の考えは、土台、ゴール、ゴールへの道の間の関係において、あるいはわたしたちのすべての経験の輝く性質、普通の感覚の土台あるいは光、究極、原初の輝き、そしてこの言葉の狭い意味でのわたしたちの毎日の生活の、実際の経験である、類似した光、との関わりで表現される。これは専門的には、究極的な真実と相対的な真実との一致として知られている。(注2)ゴールは決して土台、あるいは出発点と違うものではなく、そしてそれ故に、道もまた極端から極端へと導く、なんらかの独立した実体ではないのである。この背景となっている考え、ひと目で非凡であるとわかる概念は、しばしば次の言葉で表現される。

「結果は原因によって印を押されるが、
後者もまた前者によって印を押される」(注3)

これは、循環する因果関係の原理である。それは、誘導ミサイルを、音波や光線や、その他ターゲットから出されているものによって、動くターゲットに向かわせる装置によって最もうまく説明される。
ゴールからは、ある種の「フィードバック」がある。確かに、目的は手段をコントロールするのである。しかし、到達すべきゴールは、まだ決定されない未来にあり、行為は今、ここにある。それ故パドマ・カルポは次のように言うのである。「土台あるいは出発点に関して言えば、究極的なものは純粋であり、究極的なものに相伴うものは、純粋かつ究極的なものから、離すことができない。それゆえこの二つの間の関係は、水とその波紋のようなものである。」(注1)道は、本質的に、硬くなった先入観や意見という普通の状態を「解凍し」、最も小さき者に、言語に絶する美しさと価値を持つ、超越した輝きの中で脈動する生命を、与える試みである。これは現れの修行で明らかにされた逆客体化のプロセスによって起こる。それゆえ、パドマ・カルポはこう続ける。「道とは、自分の現れとしての存在を、輝く光に同調させる経験である。」(注1)ゴールとは、一元としてのリアリティの実現、あるいは、人間の生からの逃避ではなく、それへの肯定的な貢献として、普通の振る舞いの中で、生きた、超越した意識とひとつになる、この領域の外の生としての、リアリティーの実現である。パドマ・カルポがはこれを、次のように表現している。「ゴールとは、自然発生的な(学ぶことのできない)合致(coincidence)、真の世界内存在と知的存在との不可分性の実現である。」(注1)
 普通の人のヴィジョンは浅く、明るさは偏見で曇っているのだが、神秘主義者においては、深さと明るさは、最も特徴的な性質であり、彼はそれを、価値という服で包んでいる、この世の生活を、照らすために使う。(注2)深さと明るさ(注3)は、神秘主義者の、一元な経験の特質で、これは繰り返す。「深さと明晰さは水と氷のように、離すことのできないものであるため、それは合致する、あるいは非二元的な超越する意識である。」(注4)神秘主義者を通常の意識の浅薄さの上に引き上げ、そしてそれによって、「究極的真理」の考え方を生じさせるのは、神秘主義者のヴィジョンの深さなのである。

2 ガンポパ xi.2a によれば、この用語(zab)は、異なって使われる。アティーシャはそれによって、わたしたち自身を含む、わたしたちの世界の永続性のない性格へ目を向けることを理解した。他の人たちはそれによって、自分の守護神についての瞑想を示し、ミラレパはそれによって、神秘的な熱(トゥモ)の修行と、マハー・ムドラー、あるいはこの経験を引き起こしうるあらゆる修行を理解した。

3 ガンポパ 4.8a によれば、この用語(セー)は、関連した(あるいは適切な)経験の直感的性質を表している。Sphzg 129bで、パドマ・カルポが「深さと明るさの同時出現」について言及している。
 とはいえ、究極的真実はこれである、あれである、と断言するのは仏教的タントリズムの精神に反するものであることは、心にとめておかなければならない。「究極的真実」は実体ではなく、指標にすぎない。「慣習的真実」もまた、うまく定義された実体ではない。それは、どこでも輝くことができ、それ自体どのようなやり方によっても制限されず、どんな内容によってでも終わらせることのできるものである。二重の真実という考え方は、このように、1270年頃、ブラバントのシゲルによって、理由と啓示として明確な公式化がなされた、西洋世界におけるものとは、本質的に異なっているのである。司教ステファン・テンピエによって、1276年から7年にかけて、これに対して、教会による有罪判決が下されたが、その後も生き続け、フランシス・ベーコン(1561ー1626年)によって認められた。そして、それに含まれた意味を、やはり始めて見て取ったカントによって、科学と信仰の二重の真実として、再び言い直された。彼の調停の試みは、今は一般的に、失敗したと考えられており、彼の後継者である、ヘーゲル、ブラッドリー、ボウズンケット、ロイス、ステイスのいづれも成功しなかった。葛藤は今なお続き、そしてほとんどの人が、病理学的重要さを帯びた、一種の「精神分裂」(注1)の中で生きているのである。
 究極的真理と相対的真理は一致しなければならず、そしてある意味では、この2つは、心によって分裂させられる前は、一致していた、というタントリズムの主張は、新しいものではなく、言うならば、認識範囲と同じだけ感情範囲を持つ、新しい領域である。それは経験の内容としてではなく、経験の過程そのものとして経験されうるものである。究極的真理と慣習的真理、あるいは深さと明るさの間の一致、及び、それ故の同一性はパドマ・カルポによって次のように示されている。「輝く光の実存は、深さあるいは究極的真実であると言われている。なぜならば、それは、すべての有情の生命体の中の精神性の究極として、それ自身の存在において、純粋であるからである。そして、(この光が)自然発生的に、あらゆるところに輝き出て、妨げられることがないことが、明るさ、あるいは慣習的真理と呼ばれるのである。この二つは、その絶対的に特有な性質が、個別にしか経験されないので、二つを(別々の実体として)区別することは、不可能であり、この不可能性が合致である。そして、それ自体以外のいかなる方法によっても、理解することができない、「かくあるもの在」(シー)として宣言される。」(注2)究極的真理と慣習的真理の合一と、そして究極的な同一性のみが、「かくあるもの」と名付けられる、ということに注目することは重要である。ここでもまた、この用語は単なる役立つ観念であって、絶対的な真理の断言ではない。わたしたちは、誤った何かの反対として真実であると決めることのできない何かを扱っている。わたしたちは現実を我慢しなければならないので、確固たる根拠なしに現実を弾劾し、過ちとして扱うことはできないのである。このリアリティーの観念は、次の言葉に要約される。「かくあるもの」(シー)には、究極的には真理がない。しかしその透明で明るい現れ(ダン)として、それは慣習的に過ちがない。そしてこの測り得ないものと測ることのできるものの合致の特殊性こそが、まさに同時出現の事実なのである。(注1)このように、ザ・リアル(真実)は初まりであり、終わりである。その完全な経験に達するには、たゆまぬ努力が必要であるが、それはわたしたちが動くところではどこにでも、類似、あるいは指標として現れる。わたしたちが住む世界を、真実(ザ・リアル)のひとつの類似と呼ぶことは、超越的なヴィジョンによって、所与(与えられたもの)を豊かにする、肯定的神秘主義と調和している。肯定的神秘主義者にとって、悪と過ちの問題は、所与を、高め、完成することを、失敗することによって、起こるのである。
 努力そのものは、「これであり、あれであること」における、わたしたちの「自分自身であること」としての輝く光から分けることができない。その領域の外に生きるために、この光を直接に意識することは、「直感」と名付けられる。西洋において、この言葉は、無差別に使われて、たいへん手荒い扱いを受けてきた。タントラ仏教では、「直感」は、それほど、「見ること」「ある見方で見ること」ではなく、アンリ・ベルグソンによって使われた意味での「本能」ではもちろんない。この言葉はむしろ、内側と外側の完璧な調和が達成され、そしてそれによって、ヴィジョンの範囲が広げられるだけではなく、明確にもされる、平和と落ち着きの状態の達成に成功することを示している。それは常に、「思考の経験よりも親密で直接的であり、自己とその対象がもはやそこにない、純粋な感覚と感情に、よりはっきりと類似している経験」を指している。(注2)直感に伴う確かさは、それ自体、客観的真実の判断基準にはならない。真実は、タントラの修行者(タントリクス)にとっては、(一定の実存主義思想家たちにとって、そうであるように)主観的なものなのである。確かさとは単に、大部分が感覚上のものであり、外的なものである普通の生活の、平安を乱す部分的リアリティーを超え、知覚からは引き出すことのできない、直接的な価値の領域に近づいたことに成功したことの表現にすぎない。モンタギューが指摘するように、「神秘主義者とは、これらの内的な経験が、生きたリアルなものとして訴えるような人のことである。彼は世界を彼らの観点から描き、そしてその絵はそれが人間の精神の隠された深みを、客観的な形で具体的に表現し、目にみえるものにしている、ということにおいて、貴重なものである。通常の知覚と論理的思考でさえ、その大部分が、潜在意識に貯蔵された記憶と本能をベースにしている。それらは、わたしたちの感覚を覆っている意味と、わたしたちの論理的思考を動かす動機を与える。哲学的あるいは宗教的神秘主義者の宇宙的啓示において表現されている創造的イマジネーションの直感、また優れた詩人の、一般性の少ないヴィジョンにおいてさえ、表現されているような、創造的イマジネーションの直感は、その威光と独自性を、彼らにおいては、潜在意識の機能が自動的に、より統一された全体として、緊密に動く、という事実に負っている。通常の経験において、直感は特定の外的な状況の召使いであり、その状況に合う潜在意識の部分のみが、そこに呼び出されるが、真の神秘主義的直感においては、内的な自己は、その全体を支配する要素なのである。」(注1)この最後の意味において、タントラの教典もまた、リアリティー全体を取り入れる「偉大な直感」について言及している。(注2)
 「光輝」と「非光輝」は、内的な光の理解の過程で起こる経験に与えられた名称である。前者は、過程の完了と、健全で有益な目的に変えられた、幸福に満ちたヴィジョンであり、一方後者は、神秘主義者が幸福に満ちたヴィジョンへと上がるか、通常の感覚的経験の世界へ再び陥るかの決定的瞬間である。ティローパはこれを次の言葉で言い表している。
水差しの中の光は外を照らさないが、
水差しが壊されたら、光が広がるように、
わたしたちの生命という水差しと、灯という輝く光がある。
グルの教えによってその水差しが壊された時
覚者の超越的意識が輝き出る。(注1)
 光に向かって進むことは、集中の過程の段階と密接に関連している。この段階は、それぞれの経験の安定の性質に従って、四つあり、これはさらに三つに分かれる。この細分は、ガンポパの弟子である、パクモ・トゥパによるもので、カギュ・パにおいて、権威あるものとされている。教典はこれらの細分をそれぞれ低級、中級、上級の名前で言い表しており、初めのものは瞑想的、集中的段階、二番目のものは、わずかな安定、そして最後のものは完全な安定を示している。(注2)もうひとつの同じように権威ある細別は、16の相に分けるもので、これは様々な段階が互いに浸透しあっているという事実によって、それぞれが四つに分かれている。第一段階は「一元の経験」、第二段階は「非拡散」、第三は「ひとつの価値)」、第四は、頂点として、言葉を超えた、「瞑想できないもの」であるため、教典では言及されていない。はじめの二つは、より普通の性質を持ち、「寂静」と「正観」という古い言葉に対応し、後の二つは、これらを超えたものである。(注3)これらの集中的段階はそれぞれ、いわば、わたしたちの言語を使って言い表すのは難しい、内と外の関連を持っている。それが難しいのは、言葉で言い表すためには、瞑想そのものが「非客体化」の過程でありながら、客体化しなければならないからである。わたしが「内の関連」と呼んでいるものは、「一元の経験」と名付けられる、それ自体において空である、至福の感覚と関連している。これが空であるのは、経験の痕跡の生起による、一般的な感情の集積における特定の修正によって、決定されないからである。「一元の経験」は、わたしたちが「純粋な感覚」と呼ぶもの、すなわち一定の感覚与件(感覚に直接与えられたもの)が直感的に理解されるが、外的関連がない状況に、ほぼ等しい。それゆえこれはまた「至福と空が行き渡っている没入」とも呼ばれる。外的には、この経験は、純粋な唯心論(心理主義;メンタリズム)の教義の中で表現されているが、主体・客体の分離を超えているために、西洋の主観主義と、その絶対的自己の仮定のシステムと、直ちに同じものとして、取り扱うことはできない。この経験は次の様に描写される。「分裂がない。知的能力は意識と明るさである。そして感覚の色相は、至福のそれである。至福・明るさ・非分割がひとつの単位をなす。」(注1)
 同じように、「非拡散」も、それ自身空である、増加する明るさによって特徴づけられている。前の段階によって、主体と客体の極に裂かれる状態がとり除かれ、そして、深い平安が実現され、そしてこの平安が、存在と非存在、永遠と絶滅、単一と複数といったような、対立である、前もった判断に基づかない、より広い見解に、堅固な基盤を与える。これは専門的には「中道」として知られている。平安と落ち着きによって、可能となったより広い見解は、最高の明るさと輝きのうちのひとつで、「非拡散」と名付けらる。それは、「拡散」が集中の逆であり、「否定的であること、無為、落ち着いた態度を妨げる思考の抑制されない流れに負けること」だからである。(注2)
(注2:テレーズ・ボス「人間進化の生物学的要員としての利他心と創造性」より。
 「ひとつの価値」とは、空として現れるあらゆるものの経験のことであるが、これは現象としてあらわれたものは単なる幻影に過ぎず、わたしたちが人生で出会うものはすべて幻影に過ぎないのだから、まじめに行為する必要はない、という意味で言っているのではない。逆に、価値がひとつであることは、人生において人が出会う、いくつかの特定の状況における、自発的な興味なのである。この興味は、集中する過程において、前の段階によって、すべての習慣的に確立した興味から浄化されているため、より有益な活動に向いている。とはいえ、この段階はまだ最終的な悟りではないので、他の道を取る必要はないが、まだ、合致の論理的関係の、意味と適用を学ばねばならない。「ひとつの価値の段階で、実践のためにまだ学ばなければならない合致の直感的理解が、完成される。価値は、ひとつの直感的理解の中で、同じにとどまる。それは、サムサーラとニルヴァーナという表題のもとに包含される、理解することのできるすべてのものには、除外されるものも、要求されるものも、拒まれるものも、受け入れられるものも、減らされるものも、増大されるものもないという、理解である。」(注3) A.N.ホワイトヘッドの言葉を使えば、「事実の世界と価値の世界」の合一の最終的な認識が生まれるのは、この状態からであり、それは、この経験を持つ人を、この世界の恐れと、別の世界への希望から解放し、そしてそれ自体は実体として注意を払われるような何物でもないのである。サハラは詩的な言葉を使ってこう言っている。
わたしたちの夢のなかの喜びも悲しみも
起きた時にはすべて存在していないのなら
否定する、あるいは肯定する、いかなる思考を持つことができようか?
それが希望と恐怖の思考から生じたのなら。

サムサーラとニルヴァーナのすべてのものが
究極を見た時、何ものでもなくなるのなら
それを受け入れる、拒むために、いかなる努力をなすべきだろう?
希望と恐怖を持った、特殊化する心が動くのをやめた時。(注1)
 道としての光の実際の修行は、あらゆる内容から意識を空(から)にしていくことである。外的にはこれは死の過程であり、内的には光の増加、収集で、気づかない非光輝の状態をとおって、いかなる方法によっても断定できない輝く光の中に入っていくことであり、それ故に、「完全な空」として言及される。ただし、これはこの過程の様々な相を完全に知っている場合である。これらは、以前に説明されたのと同じである。(注2)夜の道と昼の道の分離は、ひとつには、ふつうの生活のあらゆる経験は、それが感覚が充分に目覚めた状態であろうと、眠りと夢の状態であろうと、完全な存在を達成するためのジャンプ台として、使われ得るということを示している。これがゴールの達成として、そして、わたしたちの努力の結果は光として、虹の象徴で示される、人の変化をもたらす。他方では、昼と夜の道は、過程の方向を示す名前でもある。(注3)従って、昼の道は、輝く光から、内なる光の外の闇と、広がる強烈な光をとおって、やわらかな光へと入っていくことである。ここから意識的な世界が湧き出る。そして夜の道は、順序が逆になった、同じプロセスである。とはいえ、人は価値なくして生きることはできないので、価値の世界へのアプローチ、夜の道は、自然な順序に従ったプロセスであるとみなされつ。一方、価値がどんどん失われていく事実の世界に巻き込まれることは、不自然な順序のプロセスである。この区別は、良い悪いの評価をすることをほのめかし、どちらかを拒むことを強要しているのではない。人は光の領域の内と外で生きているが、その生はむしろ、昼と夜、誕生と死の現象によって象徴される、リズムのようなものである。さらに、リアリティーはたったひとつでしかありえないので、人の生がその間を揺れる極の関係は、循環する因果の関係である。ティローパとパドマ・カルポが説明するように、ひとつの例においては、やわらかな光、強烈な光、内側の光という三つの組が、輝く光の原因となり、他方においては、後者が前者三つの原因となるのである。(注1)
 目的の達成は、通常の意識の生よりも、大きく、より力強く、神の霊感を受けた生の領域への接近である。それはわたしたちを幸せにするだけではなく、その光はわたしたちを通じて、他者に振りまかれ、彼らを目覚めさせ、さらに彼らが道に従う因となるかもしれないのである。
[注2:夢の修行には四つの段階がある。一番目は夢を捉える事、次は、それが夢である事を認識し、それを発展させる事。それから、夢の状況で感じるかも知れないいかなる恐怖にも打ち勝とうとする事が続く。最後は、夢の現れの性格は、基本的には実体ではない自分独自の心性であるから、いついかなる時にも存在するようになったとはいえない、という悟りに到達しなければならない。夢と人間の全人生はこの性質を分け持っている。なぜなら、その人の夢は、全ての定式化に先立つものの単なる定式化だからである。以下略]

8.ポア

 これはイニシエーションを受けた全ての人が知っている技法である。これを限られた期間で修行し、そして、死の瞬間に思い出す。それ故、瞑想なしに覚者の境地または解脱に到る技法とも呼ばれる。死は達成としての出口を意味しているので、この技法の目的は、死に備え、その準備によって転生の好ましくない状況を避けるという事である。
 本文の教えの最後の部分には、「口頭伝授」の経典が一語一句載っており、それは次のように説明される。
 「ポアの詳細な説明は二つの部分からなる。(1)ポアの時期(これは死の印が現れるときである)と、(2)ポアの方法である。後者には三つの段階がある。(a)準備段階で、熟練した弓の射手のように準備をする事;(b)実際の手続き、知的能力という矢を、望む的に向けて射る事;(c)要約、的に当てる事、である。
 「(a)準備段階は二つの部分からなる。(1)平凡な、と(2)非凡な、である。
 「(1)前者は二つの部分からなる。(ia)これから生まれ変わる世界の特質を知り、それに対する憧れを大きくすること;(ib)今生の喜びの欠点に気づき、それに対する憧れを捨てる事、である。
 「(2)非凡な段階は三つの部分からなる。(ia)身体と心の本質に対する神秘的な見方(注1)によって、この世の道への門を閉じること;強力なレバー(注2:即ち、創造的潜在性)によって寂静tranquilityへの門を開く事;(ic)企ての代理人designing agencyとして、自己の祈りの使者 messenger を上に送ること、である。
[注1:ナーローパの教えに言及しているPadma dkar-poによると、これは認識能力が泉門の開口のみを通過する事を許し、身体の他の開口を通る事を許さない事を意味する。Sphzg 191a ガンポパ, xv. 16b によると、へそ、眉毛の間の空間、そして頭頂が、ポアが行われる事のできる最高の門である。花と耳と目は、中間の質であるが、口、肛門、尿道は最悪の門である。]
 「実際の手続きは四つの部分からなる。(a)弾を込める事(注3:即ち、純粋な運動性に溶け込む「フーム」という音節が作られる);(b)好ましくない条件という障害を克服する事(注4:即ち、「クシャ」というマントラをつぶやく事)(c)好ましい条件の道のアウトラインを引く事(注5:即ち、あるマントラの音節を唱えて、他の可能性のある全ての出口を閉じる事によって、泉門の開口を通る知的能力の出口を準備する事);(d)矢のように、知的能力を射ることである。
 「要約は三つの部分からなる。(a)優れたタイプは、真の存在をそのようなものとして認識する;(b)中程度のタイプは、真の伝達(注6:ここでは、実存の規範としてのサンボーガカーヤの意味である事は明かである。)をそのようなものとして認識する;劣ったタイプは、真のこの世の存在(世界内存在)をそのようなものとして認識する。

 実際には、同じ過程がガンポパ等によって述べられている。ガンポパはポアの三つの等級を区別する。最高のものは、自己を輝く光の世界へ移し変える事、中間のものは、現れの存在へのポア、そして、最も低いものは、発達の段階の修行である。この点で、ポアは、客体を超え、主体を超えたリアリティに到達する仏教瞑想の一般的な傾向と、密接なつながりがある。この関係で、マントラの音節の違いに注意する事は、特に大切である。「フーム」は、発達と完成の過程中の、現れの性質の経験と関係がある。「ヒク」は、肉体の死の準備の為の技法として取って置かれる。これは「強制的方法」として知られている。今日、多く行われていこの技法は、以下の通りである。
 マハーヤーナの帰依の詞章を唱え、それについて考えることによって、そして、全ての生き物のために「解脱した態度」を発達させ、それを修行しようという断固たる決意をなす事によって、ふさわしい心の傾向を作った後で、自分が、その全ての象徴を備えたヴァジラヴァーラーヒー、または、ヴァジラヨーギニーという女神だと考える。その女神の上には、ヴァジラダラがいる。同じように豊かに飾られてはいるが、自分のグルの明確な特徴を持っている。この修行の目的は明かである。これは、主観のレベルを超越し、究極的なものとの直接の接触を確立するための準備である。究極的なものとは、当分の間、彼ら自身を超えたものを指している個々の形状(グル)で観想される。これは、長い系統を次々と継承しているグル達によって、よりいっそう強調される。そして、その各々は、その時代の哲学上の探求の総計を表す。この背景にある考えは、カール・ヤスパースの言う「哲学的信仰」であり、彼は、それをこういう言葉で述べている。「既成の真理など、どこにもない。それは、哲学全体の歴史から流れ出て、中国から西洋へ流れる尽きることのない流れであるが、その主要な(原始の)源が、現在の中で新しい認識の為に捕らえられた時にのみ流れる。」このように、究極的なものの流れは、ティローパ、ナーローパ、ミラレパ、シャキャシュリー、そして、最後に自分のグルという、伝統における偉大な哲学者たちの間を流れている。そして、こうした伝統における偉大な哲学者たちの祈りを、任意に繰り返した後、次のステップは、純粋な感覚の段階に到達する事である。この段階では、それが「客体」の極であれ「主体」の極であれ、客観的な指示対象は、全て消去される。この瞬間、わたしが「構造の次元」と呼ぶ、新たな展望が開ける。ここにおいて、一元の経験を形成するものとして、通路と運動性と創造的潜在性の意味が明らかにされる。これは、現代心理生物学が示したように、運動性は心と精神作用の揺りかごであるという意味において、または、ジャドスン・C・ヘリックが「動きは原初的なものであり、精神機能はその中に生じる。それは、行為を起こさせるためではなく、行為を規制し、その方向を定め、その有効性を高めるためである。」と言った意味においてである。運動性と心性は分ける事が出来ないという事は、仏教タントリズムに繰り返し出てくる主題で、パンチャクラマで詳細に(しかし複雑に)論じられており、ガンポパによって非常に明快に論じられている。ガンポパは
Phag-mo gru-paの、運動性と心性は、二つの実体か、それとも一つの現象かという質問に、「運動性と心性は一つである。運動性が揺れると、心性は、心の様々な内容になる。この二つを互いに異なったものとして語る事は出来ない。心性・精神性が理解されると、運動性はそれ自体、純粋になり、そして、これが非二元の認識性と空の一緒の現れである。」(注2:省略)
 創造的力でありながら、非創造の状態において−−よって、その潜在的状態の事を言っている−−分割する事の出来ない運動性と心性は、心臓の焦点の部位にあると考えられている。この焦点は、空間的なものを考えるべきではないという事に、注意すべきである。ここで我々は、言葉の難しさに直面する。言葉の上では、時間と空間内に独立して存在している実体という印象を与えるが、実際には、我々は、時空内にあるのではなく、時空的である領域を扱っているのだ。別の言い方をすると、我々は、二つの世界の間に入るのである。二つの世界とは、個別の世界と、個別性と一般性の世界に対立しているのではなく、そういう世界を包含している究極の世界である。今しなければならない事は、個別のレベルから、全てを包含している究極的なレベルへの移動をする事である。この移動のための推進力は、「ヒク」というマントラの音節で、実際の修行では、21回唱えられる。この修行は死の準備であるので、その目的は、本質的には、死がやってきたときに、死を容易にする事である。それゆえ、当面の間は、「カ」というマントラによって、個別のレベルに戻る。このマントラも21回唱える。ガンポパは競走馬の調教によって、この修行を説明している。競走馬を競争用コースに慣れさせるために、その競走コースをギャロップで何度も走らせる。
 「ヒク」と「カ」というマントラを21回唱えると、その日の修行はそこで終え、翌日に再開し、泉門の開口にリンパ液と血液が現れるまで続ける。そうしたら、その修行を完全に終え、肉体の死のまさにその瞬間に、一度だけ繰り返す。泉門に血液とリンパ液がにじみ出て来る事は、この修行を行った者全てによって立証されているが、まだ医学によっては説明されていない。もう一つの独特な現象は、有能なグルが弟子に、この教えを与えると、泉門の開口が触覚に対して非常に敏感になり、しばらくの間、それが続くということである。さらに、伝授の後で、この部位を、究極的なものへの通路が開いたことを表す象徴である、クシャ草で触れると、上から下まで突き通されるような、ハッキリした感覚が生じる。言うまでもなく、この修行には危険が無くは無い。頭蓋骨や脊髄が変形しているなら、どのような状況にあっても、これを行ってはならない。

9.復活

 正確に言うと、復活とは、死体に生命を与える事を意味する。この意味では、復活は、マルパの時代まで流行していたと言われている。そして、マルパの息子のmDo-sde-paが、この儀式を行った最後の人だと言われている。このようなものは、少なくとも、公式なものである。非公式には、この儀式は、まだ時々行われている。ガンポパは、黒魔術と全く同じその儀式の、詳しい説明をしている。これが、、ガンポパから始まったとは言え、後に、黒魔術とのいかなる関係も拒絶され、復活が、完全に正当な瞑想修行としてポアと同一視されるようになったのだろう。ナーローパ自身は、まだ復活を別個の技法だと見なしていたようである。なぜなら、復活は彼の「六つの主題」の一つだからである。しかし、他の点では、「カギュ派のグル達は、ポアと復活を一つの主題だと考え、ナーローパの六つの主題を補うために、中間状態を加えた」と明白に述べられている。この言葉を疑う理由は我々にはない。そして、この言葉は、ナーローパ自身は、まだ黒魔術に手を出していたが、カギュ派を歴史的にまとめたガンポパが、特に強調したように、仏教タントリズムの精神的な面を強調する事によって、黒魔術に対するいかなる言及も禁止され、よって、タントリズムは再び肯定的な訓練になった、という事を示唆しているようである。

10.永遠の喜び

 ある意味で、この主題の教えは、次のマハー・ムドラーについての主題の前置きになっている。これらの教えは、肉体的な性衝動を精神的なものに昇華させる試みであると見なされるかも知れない。精神分析学の影響によって、「昇華」という言葉は周知の文句となったが、それを額面通りに受け取ることには、注意を払わなければならない。この点に関しては、ハヴロック・エリスの発言が適切である。「性心理学の分野における『昇華』とは、肉体的衝動、あるいは狭い意味でのリビドーを、ある次元の高い精神活動衝動へと変換させることが可能である、つまり、それが、肉体的欲求として急を要する状態であることをやめるようにすることができる、という意味であると理解される。この概念は、大衆的な心理学においては、現在幅広く流布している。しかし、この概念を取り入れている人々は、この「昇華」のプロセスが、その最初の表象においてさえも多くの力の消耗を含むプロセスであるということ、および、その象徴的・霊的な形においては、実際にそれを達成することよりも、語ることの方が数段易しいということを、必ずしもはっきりと理解しているわけではない。これは、この概念が肉体的衝動の真に精神的な変換を表わしているということ、この変換によって、粗雑な肉体的欲求が、肉体的なものではあるが、我々がより『精神的』であると呼ぶ欲求を満足させることによって、その激しさがなくなるレベルまで引き上げられるという意味である。しかし、そのような変換は、たとえ可能であったとしも容易にはいかないし、即座に達成することもできない。ともかく、おそらくは、平均的な神経構造よりもさらに微細な気質の人間にのみ可能であろう。」秘伝のマハー・ムドラーの哲学を信奉する者たちの言い分は、自分たちは性を抑圧するのではなく、性を人間性解明の最高の機会として認識するがゆえに、リアリティーにより忠実であるということである。
 技術的には性の関係はカルマムドラー、「行為による印」、として知られている。この意味は、思考ではなく行為から始めるということである。行為には明白は(隠されていない)、象徴的な、隠されたがある。明白な行為とは、他の人や他の事物とのおよそ直接的な接触における肉体と関わっている。象徴的な行為は、意志伝達の領域と関連しており、意志伝達とは、主として言葉によるもので、隠されていない行為の準備段階となるものである。これら二つとの関係において、有機体内での活動、あるいは、隠された思考や態度や価値の世界の活動も存在している。3つの段階はすべて調和して作用しなければならない。
 さて、明白な行為は、個人と個人の間で成立するが、個人とは男性であり女性である存在である。人はこの世界を動く。人は、子宮内の初期、未発達の状態では両方の性の性器官が存在するという意味において、男性でもあり、女性でもある。それは、男性と女性の属性が付与される、無性の細胞核が存在するということではなく、ほかの点では、よく整った構造をした組織であるが、両面価値の可能性がある組織であるという意味である。この二元の性質は、その両方が人の内側に存在し、また、その人の環境を構成しているわけだが、その人が成長し発達してゆく過程において、一層重要さと重大さを増してゆく。
 一歩進んで、言葉が期待感や発端の反応を引き起こす意志伝達の段階では、2つの性の構成員の間で行為が生じる。最終的に、隠された行為の段階では、思考は、内面での公開討論の場といった性質を帯び、この討論の場で、象徴的な形をとった社会的行為が、より明白な行為と同じ方法で、操作される。このように、人間の活動範囲内のどこでが活動が存在しようとも、大まかに言えば、それは2つの性の構成員の間で生じる。人とその環境がこのような両性的性質を有しているために、自然に性は、人間本質の中で奪うことのできない部分として、常に決定的ではないにしても、重要な役割を果たすことになる。精神分析学者が繰り返し観察してきたように、性は、様々な段階において「その醜い頭をもたげる」のではなく、いつでも、人がその統合への困難な道を前進してゆく手助けをしてくれるのである。
 この点において、関わる人間の年齢が重要となる。それは12歳から25歳の間(別の資料では11歳から24歳の間)である。特定の異性に対して愛情という感情の目覚めを示す思春期、そして青春期、そして肉体的に成熟した有機体として充分に発達した時期は、人の道が容易となり、幸福となるか、バランスを失うかという、決定的な瞬間である。性とは、その言葉の最も狭い意味においてさえ、決して、孤立した自己充足的な刺激ではない。それは衝動であり、特定の愛情という感情とともに、人間の情緒的、および、知的生活全体に浸透している維持する力、あるいは動機である。そしてそれは、社会的な相互作用を促進するだけでなく、非常に積極的に、様々な種類の学習プロセスを助ける。厳格主義者は、実際には楽しく性に関わっているにもかかわらず、性に不信を持ち、反感を公言するが、これは基本的に、一見幸福そうな幼稚症の時代を脱却し、成熟することを強いられるのではないかという恐怖心の表われである。
 恐怖は行為を著しく抑制し、回避、ひいては嫌悪につながる。恐怖に捕らわれると、必要な活動さえできなくなる。そして、恐怖から来る抑圧ほど致命的なものはない。なぜならば、抑圧された内容のエネルギーの蓄えが、自動的に抑圧要素のエネルギーに付加されるからである。抑圧要素のエネルギー作用は限界を超えて刺激され、抑圧された内容の性質に応じて、よく知られた「清らかな」狂信者(ほとんどが偽善者)と性的狂信者(ほとんどが欲求不満)の典型の原因となる。しかし、性が、軽蔑されることも誇張されることもなく、人間の奪うことのできない部分として認められるなら、男女間の結合の意味と目的は違った性質を帯びることになる。それは、種の存続という生物学の領域においてのみならず、精神の成熟に向かっての発達、および、それに付随する幸福に満たされたときの感覚においても見いだされべきものである。このどちらも、ほとんどの人の場合、その欠如故に、顕著であるということは、容易に認められれるであろう。
 性行為を粗暴で動物のような行為と見なし、そこに悪魔の働きや悪の根源を見ることは、完全にその本質を誤解している。それを罰することは感情的に苦痛であり、深刻な心の乱れとなる。実際それは、思いもかけなかった人間性の豊かさ、生の完成と充足に通じうるものであるし、また、しばしばそうなっている。
 性に対する否定的な見解の根本的誤りは、愛(これは非常に曖昧な言葉である)、つまり肉体的な情熱という、愛のひとつの様相だけを選び出し、それを精神的な情熱と対比していることにある。それは精神的な情熱を、具体的、物質的、そして狭い意味で性的なつながりから、自由にしておこうと懸命になっている。その結果は、一種の分裂症的心の状態である。しかし、愛は決してそのような怪物ではない。それは、決して一方のみ、あるいは他方のみということではない。愛は非常に広大で、包み込むようで、大いに光り輝いているので、劣った人々は強い明るさに驚き、その輝きの前に目を覆い、そこから逃げ出し、冷静であるという主張のもとに、安全保護室に逃げ込もうとしてきた。その冷静さは、結局すべてに対する嫌悪であることが判明し、多くの悲惨な結果がそこから生じた。また、他の人たちは、愛の本質を理解することができず、それを単なる性的楽しみと見なし、無智によって自己の「愛」の対象を利己的な目的のために誤って使った。
 真の愛は、あらかじめ判断を仮定することがなく、感傷的な行為でもない。その大きなの特徴は、いつも誰かのための愛であることである。それは、現実(リアリティー)として、その人に向けられていることである。では、現実、リアリティーとは何であろうか? 確かにそれは他の人の肉体的魅力である。しかし同時に、他の人の心的-精神的特性であり、また、これらを越えて、常に理解できない何かが残る。これこそが真実の愛の対象である。その対象に向かって進んでゆく時、愛は、すべての価値あるものが、その最高の価値を達成できるようにする。その価値とは、理論的には、そうなることが運命づけられているものである。そして、このようにして、愛は他者の価値の中で輝くものを引き出す。愛は引き上げる。けっして引き下げることはない。その絶頂では、それは、自分から離れた何かに対する愛ではなく、離すことのできない何かとしてそれに参加することである。厳密に言うなら、この時点で愛は、関係状況を越えるのである。この三つの分割が、ナーローパの教義であるということを指摘することは重要である。第一の相、あるいは真のカルマムドラーは、実際の女性であり、第二の相は精神的霊的過程、そして第三は頂点、あるいはマハー・ムドラーである。別の言い方をすれば、愛は実際の人間から、測ることができず、具体的なものの中に共存するか、具体的なものと同時出現するものへと進んで行くので、「肉体の魅力」は、超越する機能(Uberleitungsfunktion)としての「識別と理解の中で、あるいはそれを通して、超越的意識」となる。この関連で、デーヴァチャンドラの、愛を憎む者たちの議論への答は、ここに紹介する価値のあるものである。
 「(論敵):『情熱とそれに似た感情が、なぜわたしたちがサムサーラで長い間邪悪な生命の形でさまよわなければならないかということの理由である。長い間、欲望と期待に負けて、有情の生命体は、誕生に関して当惑して生まれ(無知な状態で生まれ)、悲惨さの中で苦しむ。避けられるべきであった不健全な行為を行うことによって、彼らは、動物、霊、地獄の住人のような邪悪な生命形で、膨大な苦痛を経験する。情熱とその他の感情を称えることは、毒を盛られた人にミルクを飲ませるように、毒を広げることであることが、あなたには理解できないのでしょうか?』 「(デーヴァチャンドラ):『それは正しい。ただし、それは、法友(精神的な友人)あるいは助言者がいない人たちに関してのみ、真実である。彼らは、情熱その他の感情的なほとばしりにふけって、確かに苦しむ。この意味において、多くのことが、多学と独覚の生き方の信奉者たちによって言われてきた。しかし、愛がまったくない者は、それよりはるかに苦しむことになる。なぜなら、彼は愛を憎むからだ。愛情(passion-love)が教えられたのは、そのような人々のためである。次のように言われるように。
情熱を持たないものたちを慕ってはならない。
彼らは情熱を捨てたが、
愛のないことをも捨てるのは
まだ躊躇しているからだ。

「『そして崇高な者は言った:
三界に、愛なしでいることよりもおおきな罪はない。
それゆえ、あなたはけっして愛なしでいてはいけない。

「『愛なしではない者には、真の愛(偉大なる愛)が教えられる。それゆえこのように述べられた:
ある者はものごとを情熱的に楽しむ。
ある者は愛のなさから、それを捨てる。
汚れなき心を持つヨーギは
自分のものにしていないものを捨てない。

「『そしてサラハは宣言した:
ものごとを捨てることによって
束縛される者たちがいる。
この同じことによって
このうえない解脱を得る者たちもいる。

「『それゆえ、情熱的な人に冷静になるよう説いて聞かせるために、愛のない人に仲介者としての愛情を教えるために、仲介者としての愛情を持っている人を真の愛に至らせるために、この「識別と理解の中で、あるいはそれを通しての超越的意識」という無類の、非常に深遠な教えが、高度に発達した存在に与えられる(注1)。』」
(注1)
(プラジュニァージュニァーナプラカーシャ, 84a sqq. チベット語の'dod-chagsという語は、サンスクリット語のラーガの訳語であるが、わたしたちが「性」「肉欲」「情熱」「愛」と名付けているものすべてを包含する。愛を嫌う者たちが、この言葉を「肉欲」や「情熱」というふうにしか理解しようとせず、悪や罪とのつながりによっていつも心を暗くしているのに対して、生を肯定し愛を恐れない者たちは、その積極的な意義を主張する。愛は、有情の存在に関与することによって、それらにあまねく行き渡る。そして、この関与が(受動的な感傷的行為としてではなく、能動的な感情としての)慈悲である。アナンガヴァジラはプラジュニョーパーヤヴィニシュチァヤシッディ, i.15の中で次のように述べている。
     「すべてを、そしてあらゆるものを苦悩の大海から
     そしてその原因から解き放つもの
     それが慈悲である。魂に手を差し伸べることよって
     それは愛と賞賛される。」
 この詩はPhgdz 4b,でも引用されており、その翻訳はチベット版に基づいている。)
 従ってカルマムドラーあるいは「行為による印」は、まず、行為の3つの段階のいずれにおいても関係を確立することのできる、具体的な人間である。しかし、この3つの段階はすべては相互に関係しているので、カルマムドラーは単なる性的魅力のある女性ではない。彼女は同様に精神的要因である。
 パドミニー、シャンキニー、チトリニー、ムリギニー(ハスティニー)という4つのタイプに従ったカルマムドラーの記述は、その特徴を、動物や植物にたとえることによって、肌の感触、生殖器官の大きさ、足取りや動作等を定義し、性愛の科学の長い伝統を継続させている(注3)
(注3)
 (これらの名前はカーマシャーストラ文学によってよく知られている。どの4つのタイプを認めるかは、著者の傾向と好みに左右されているようだ。例えば、bDe-ba'i ado-je の記述、dNos-po'i gnas-lugs bsgom-pa,206b は、Padma dkar-po による記述と一致する。一方、アモーガヴァジラのカルマムドラー-パリークサー-ウパデーシャ 123ab における分類は、Ssrdz 40ab の記述に似ている。女性をこの実践に合わせて、階級に結びついた品行と顔色(rigs)、性器の大きさと形(bhaga)、完全な経験の可能性と性質(rtsa)によって分類したアモーガヴァジラは語る。「 このように、階級、性器、性的経験が優れたもの、凡庸なもの、劣ったものという3つのタイプの中で、優れたタイプと凡庸なタイプは頼りにされても(足繁く通われても)構わないが、劣ったタイプは常に避けられなければならない。劣ったタイプによって、人の健康は衰え、そのために快楽は減少し、高尚な統合は消え失せる。よって、賢い者は劣ったタイプを避けるのである。」)
 だがこれまでは、知覚され、表現された属性、及び性質を持つその対象を、単に空間と時間の中に位置づけていたに過ぎない。故に、それはたいへん表示的である。しかし、カルマムドラーは、客観的意味と、内的あるいは主観的意味の両方を持っている。この二元の意味を、その副産物(派生物)すべてに関して把握することが一番重要なことである。これに失敗するならば、わたしたちの性の中でカルマムドラーが果たしている役割を、完全に誤解する結果となるであろう。
 対象の意味とは、わたしたちの感覚的-情緒的な色相に加えて、それに対するわたしたちの最初の反応であることがよく知られている。例えば、対象の輪郭を目で追いかけ、その感触を手で探るとき、自分の体と関連づけてその対象を知覚し、次に、空間に存在する他の対象と関連づけてその対象を知覚する。このすべては外的事物の関係の認識として知られている。しかしわたしたちはこれをある特定の心の状態において行うため、即物的な目的のために、それが感覚の知覚から切り離されてしまう可能性がある。同様に、音は元々、ある特定の状況に対する反応の集合全体(観念複合全体)の一部である。そのため音もまた、外側、つまりその対象と状況、および内側、つまりその感覚、情緒、動機づけ、態度と関連性を持つ。(注1)
(注1)
 言葉は、論証的な言語のみを意味するものと限定されるべきではない。わたしたちの経験には、表現の文法上の仕組みにかなっていないけれども、言葉として表現されるようになっているものがたくさんある。ある象徴主義者の比喩によって、あるいは、論証的な文法規則や言葉以外のものによって、表現される必要のあるものが、不運にも、たまたま正規の言語と一致してしまう場合が少なくない。これは我々にとって、全く都合のわるいことである。例をあげるならば、ある男性が恋人に向かって「マイ・ラブ(愛しい人;お前)」と言った最初の瞬間には、この言葉で表現したものは意味と感情に満ちている。ルドルフ・カーナップ「哲学と論理的シンタックス」p.28、および、バートランド・ラッセル、ルドヴィクス・ヴィットゲンシュタイン共著(Ludwig Wittgenstein)の初期の作品、その他の著作は、確かに、この表現を単なる感情のみに変えようとしたのではない。しかし、その男性が、たとえ愛が冷めて離婚裁判に行く途上にあっても、絶えず妻に「マイ・ラブ」と呼びかけるならば、この同じ表現は意味のない雑音となる。狭い視野に立った言語の批評に関しては、スザンヌ・K・ランガー,Philosophy in a New Key, 論証的および表象的な形態の章を参照。
 最後に、有機生命の進歩に、そして明白な反応と象徴的な反応の方向づけに作用する、意味の世界、すなわち、内側の予期のプロセスが存在する。従って、異性に対するわたしたちの反応は、自己充足した主体として自らを孤立させたり、等しく自己充足した客体として彼女を孤立させることにはならず、「わたし」と「彼女」が単なる用語でしかない関係、ということになる。重要なことはその関係、つまり、共同出現あるいは共同存在であるということである。しかしkLu-sgrub anin-po(注2)が指摘するように、この共同存在とは単なる「影のような」ものである。
(注2)
 チァツルムドラーニシュチァヤ。本テキストのサンスクリット語の原文は、アドゥヴァヤヴァジラサングラハ,pp.32sq.に見られる。序文 p.x の中で編集者Haraprasad Shastriは、「それはチベット語の翻訳があり、その翻訳の中でその作品はアドゥヴァヤヴァジラの作とされている。」と述べている。これは正しくない。アドゥヴァヤヴァジラの作品、チァツルムドラー-ウパデーシャは全く別のものである。その中で、4つの印に関するkLu-sgrub snin-poの論文に言及している。
 なぜならば、それは、最初に主体-客体の二分性に関わり、この二元性が、単なるひとつの用語でしかないことを認識しそこなうからである。その用語とは、共同出現のより広い関係を表すもので、共同出現とは、わたしたちが習慣的に超越性と現れとに分けているものを包含しているからである。
 強調されているのは常に関係であって、その言葉ではないが、この言葉が非常に顕著に目立ってしまうため、わたしたちは関係を把握しそこなうのである。確かに、交わることは楽しいことであるし、<注1)性的快楽には一種の魔法のような魅力がある。
(注1)
 アドゥヴァヤヴァジラは、そのチァツルムドラー-ウパデーシャの中で次のように述べている。214aでは「カルマムドラーは喜びである」、そして213bでは「キス、抱擁、その他の愛撫は変化に富んで喜びである。」
 しかし、男女間の関係は本質的には一つの認識である。そしてその認識においては、「客観的」性質と「主観的」反応の理解が大きな役割を果たしている。恋愛遊戯が、瞬間瞬間、新しい変化に富んだ経験を示してくれる。しかし、全体的な喜びの感覚は「主観的」なものを示しているだけではない。それは「客観的」には、取り入れられた様々なテクニックにおける喜びである。わたしたちは、複雑な状況から一つの側面、あるいは他の側面を選び出すことができるので、主観的関係のために感覚の色相を蓄えておくことが可能であり、客観的関係、あるいは状況を、それとは切り離して記述することが可能である。このことは、関係におけるすべての局面に一定の感覚の色相と、特別な「瞬間」が存在するという事実の理由を示している。ここでの瞬間とは、一つの時間の単位というより、むしろ束の間であろう状況の全体を意味する。というのは、セックスにおける瞬間ほど、貴重な時はどこにも存在しないからである。喜びの経験の多様さはとても魅惑的で、わたしたちは普通、行為を引き延ばそうとしたり、最高に次ぐ瞬間に、その喜びを取り戻そうと試みる。そのために、その喜びは、真の男女関係の唯一無二の性質に成熟することができないのである。カルマムドラーは、期待と挫折、予期と反応の段階に留まっている。この段階では、男性と女性の結合は破れる運命にある。そしてこの別れは、関与したおのおのを引き離すので、なおさら苦悩させる。主体-客体の二分性に焦点を合わせるならば、それはこのような二分性のみしか受け入れないので、故に、「見かけ」を究極と取り違えるのである。
 言うならば、性から精神性へ、部分反応から全体反応への変わり目において、特筆すべき点が幾つかある。まず第一に、性的反応、及び性関係は、心理的刺激と同じくらい触覚に依存している。触覚的刺激は、心理的刺激によって引き起こされた心の状態が、性的反応に影響するのと同程度に、状況の心的状態に影響を及ぼす。この意味における性的とは、単なる生殖反応にとどまらず、より広範囲な意味を持ち、男女関係の経過の中で生じる精神的、および肉体的な現象全体と関わっている。しかし問題は、心理的刺激と触覚的刺激の間に一対一の対応をつけることにあるのではない。また、その中で、ある種の経験が最高の激しさと機能的重要性を持つように見える、4つの経験の焦点(頭頂、喉、心臓、腹部)を、生理学において知られている4つの神経系の区分(頚部、胸部、腰部、仙骨)と同一視することにあるのでもない。これは、タントラの目的を誤解し、誤って伝えている者にとって、非常に興味をそそられる数字上の偶然の一致ではあるが...問題は、性関係が与える可能性を認識し、より均衡のとれた、より健全な視点を得る為にそれを利用することにある。男性が女性(カルマムドラー)と持つ関係は、単に生物学的なもの、また、緊張を解放し、局部的に制限された衝動を和らげるだけではない。それは、より大きな全体に達するための可能な方法をうきぼりにする、はるかに「投影的」なものである。これらの点は、何度繰り返しても、繰り返しすぎることはない。しかし、緊張の解放が、より大きな全体の達成と一致するからといって、それは結局、生物学的安全弁「以外の何物でもない」という早すぎる結論を出す資格を与えられた訳ではない。
 どんな源からきたものであろうと、刺激は、個人を人間からの撤退から引き離し、自己充足、自己満足した単一の個体としての人間に対する、ナイーブな信仰を打ち砕き、真実への道を見つけさせる最良の手段である。人が自分の孤立から出てくればくるほど、他者とのコミュニケーションの親密さが増すに応じて、エゴの感覚が縮まることに気付くのである。特に、人間の中の崇高さの基本的な具体化としての愛、そして、それなしでは愛のない俗世のなかに自分を失ってしまう、官能的な超越への動きとしての愛というリアリティがある時には、エゴは即座に人に対する支配を失い、それに応じて孤立した実体としての他者という観念も消えていくのである。愛の運動は、初めは、主体も客体もなく、興奮が相互依存の状態へと変わり、消えていく、平衡へのアプローチである。しかし、男性の激しさが、女性に属し、女性の理解し、霊感を与える識別が男性に属す時にのみ、すべてを焼き尽くす愛の炎の中で、男らしさと女らしさという宝が互いの内に映し出される時にのみ、その調和が、瞬間の魅力に基づいた、すべてが至福でありながら空である、関係が打ち立てられ、実現すれるのである。タントラの象徴的な言語においては、主客の分離の段階的な消滅と、感情と同じくらいに知識である、非分離からくる満足の実現は、「解脱」の下降、あるいは下向きの動きとして語られる。解脱は純粋な潜在能力であり、それ自体を多くの段階と様式に顕現し、すべての認識と意識の根底であり、その可能な期間の範囲を制限する決定的な基盤を持たない。(注1)

(注1:これは、Sphyd 57b に明白に述べられている。「それ自体の中にとどまることの土台となり、有情の生命体の主客の分離の当惑として生じないことから、これは中央通路(ブマ)である。何か他のものが減少することなしに、生じる、という見解から、それは非分離的運動性(ルン)であり、一瞬の輝きとしてのみ、見つけられるので、それは潜在力であり(ティグレ)、反応の潜在力の不可分性ゆえに、それは分解されない能力(ミシクパイ・ティグレ)である。」)
 この「解脱」の下向きの動きは、もちろん文字どおりの意味での下降ではなく、人間存在の限界の最大の拡張であり、その拡張を、決定的な構造、すなわち、その重要な(触知的;有形の)表現を性行為の中に見いだす、男女関係の構造で満たすことを許す。(注2)
(注2:これもまた、この過程を説明するために使われる言語に映し出されている。それ自体の構造を持たない、純粋な能力が話題となる限り、ティグレ(ティラカ)あるいはヤンセム(ボディチッタ)という言葉が使われるが、この能力が精液の放出として感じられる性的行為の顕現した形においては、クワ(シュクラ)という用語が使われ、また、胎児の形成の因となっているのは経血であるという原始的な信心から、女性に対応する部分に、ラクタという言葉が使われる。)
 パドマ・カルポは、明確な言葉でこの過程を次のように述べている。「解脱が頭頂から喉に広がる時、心身は幾分心地よく感じる。粗雑な主体、客体分離の段階的な消滅は、「上からの喜ばしい安定」として知られる嬉しい興奮である。これは様々な官能的行為で作用しているので、状況も様々なものである。その後、解脱は心臓に広がる。心身の全体が心地よく感じる。自己という粗雑な観念の消滅は「恍惚的な喜び」と呼ばれる。喜びを生み出す努力はほとんどないが、強烈な心地よさがあるので、状況は成熟したものである。その後、解脱はへそへ広がる。心地よさが心身全体に広がる。相手という観念の消滅は「興奮の不在」または「特別な喜び」と呼ばれる。主体と客体がひとつとなった、この心地よさは、関係(二人のパートナー)の発酵作用であり、状況は発酵したものである。解脱はそれから性器の部分の先端に広がり、ここで識別・理解という対応する力と会うことになる。(注1)
(注1: この過程において、重要なことは単に生物学的な面だけではないということは、ブメ(ストリー)(女)という言葉のかわりに、シェラ(ブ)(プラジュニャー)(識別・判断・霊感)という用語が使われていることで、明確にされる。このように、言語は対象から意識の相関的働きへの移行を表現する。)

 すべての存在する現れは、心地よさという性質を帯び、三種類の喜ばしい興奮という観念は消え去る。愛情と情熱のなさに関する限り、価値の平等という性質を持ち、男らしさの同時出現から喜びを伴って起こるこれは、「同時出現の喜び」、すなわち、至福と空の非二元性の直感的理解であり、これは、そのようなものとしての知的行為である、個人の意識と通して達成される。」この後者の喜びを保持し、それを自分の存在にあまねく行き渡らせることが、セックスの修行の目的である。
 純粋な潜在力としての「解脱」が、カルマムドラーにおける確定determinationが達成されると、後者は満たされ、あふれるという事は、非常に明かである。現在存在している意識は、「入れ物」である心の中にある、何らかの新しいものから作られたものではない。なぜなら、意識は、決して入れ物の中にはなく、形式的な同一化が達成されるものに対して、常に関係しているものだからである。この点で、カルマムドラーは「現れ」と「超越」の両方である。それを経験する時にのみ、超越が突然輝き出すが、安定したものにはならずに消えてしまう。カルマムドラーという名前のもの、あるいは、「識別と理解の中の、または、識別と理解を通じての超越した意識」に属する認識様式も、それを「物である」カルマムドラーとを区別する。「物である」カルマムドラーは、わたし達の欲望と意図の対象で、わたし達の普通の客観思考において非常に優位である。そして、この客観思考が、カルマムドラーの意味の混同の原因であり、それゆえ、我々が解脱に達成できない原因でもある。この広く行き渡っている混同は、ナーローパと同時代のアドヴァラヴァジラによって、体系的に示されている。彼は、「識別と理解の中の、または、識別と理解を通じての超越した意識」は三つの違った方法で解釈できると述べている。二つの解釈は、超越の指標としての男女関係のイニシエーションの目的を理解する事が出来ず、「客体」に集中する。この二つの解釈の内、一方を説く人は、自己の衝動と刺激に支配され、完璧に肉欲に巻き込まれ、愛と相互利益という微細な感情がないため、融合する事よりも支配する事を求める。もう一方を説く人は、関係が重要である事に気づかず、末端の対象に集中するので、自己の受けたイニシエーションを誤解してしまっている。両方のタイプにおいて、自然な意味での性行為が最も興味あるものであるが、各々のタイプはそれぞれ、その経過については別の考えを持っている。よって、この分類は、むしろ、性の立場についての個人の感情・意識と理解を示している。よって、アドヴァヤヴァジラは「官能主義者はキスと抱擁に始まる愛の行為は楽しい興奮であり、多様である。交接の行為は成熟であり、忘我の喜びである。オーガズムの経験には明確な特徴がなく、興奮の後退である。射精は発酵で、一緒に生じる喜びであると宣言する。」と述べている。
 大抵の人は、オーガズムの瞬間とその直後に、どのように振る舞うのかを観察する事が出来ず、それゆえ、大した情報源にはならないが、上記の一般的傾向は明かである。返答してくれる個人が、性行為の頂点に近づくと、オーガズムの瞬間、一時的に意識を失い、その状況の性格と、感情色相、つまり、少なくとも、興奮から忘我の喜びへと至る漸進的な高まりとは、違うという感じに関する情報を提供する事が出来ない。緊張から解放された結果として、個人が投げ込まれる状態は、普通性の経験から生じる満足感を与える。(注1)この状態を「一緒に生じる」喜びと規定する事は、多くの男性の、根の深い感情に基づいているように思われる。十分な性の喜びは、女性の反応と密接に関係しているという事を知っていながら、女性の性衝動と性の喜びを知らないために、男性は、女性に取って十分な性の喜びは、タイミングの問題だと、素朴に信じている。実際は、この喜び、は全体的な状況に依存している。その全体的な状況は、女性とその恋人の個別性が無くなり、その結果、個別性が、女性とその恋人が一つになった融合体になる。官能主義者はセックスがどういうものかを知らないという、アドヤヴァジラの非難は、それゆえ、完全に正当化された。
[注1:本文では、性行為の頂点としてのオーガズムと余波としての振動と痙攣が区別されている。A.C.キンゼイその他も、前掲書627頁で同じ区別をしている。]
 性行為の経過に関する限り、自己の受けたイニシエーションを誤解している人の方が官能主義者に優っている。とはいっても、その人も非常に重要な点で過ちを犯している。このタイプの人は次のように特徴づけられる。「キスと抱擁を伴った愛の行為は多様であり、楽しい興奮である。交接の行為は成熟であり、忘我の喜びである。オーガズムの経験には明確な特徴がなく、興奮の後退である。射精は発酵で、一緒に生じる喜びである。」次いで、アドヤヴァジラはこうつけ加える。「しかし、このタイプの人と、他の普通の人の間には違いはない。その理由は、主観的なオーガズムの経験が究極的なものだと思っているからだ。」
 この最後の言葉は非常に重要である。なぜなら、カルマムドラーではないものと、カルマムドラーが意味していないものとを示しているからだ。確かに、カルマムドラーは、計量的方法で量ることができるような生理学的な障害を和らげる事でもないし、ある種の快楽主義でもない。そして、明らかに、この二つを合わせたものでもない。よって、ある種の全客体主義における単なる客体としてのカルマムドラーに集中する官能主義者と、交わりを純粋に主観的な状態にしようとするために、自己の受けたイニシエーションを誤解している人によって与えられる、二つのタイプの解釈は、次の事を見逃している。つまり、カルマムドラーは複合的な指示構造で、その中では、主体と客体の両方の極が常に一緒になっていて、それゆえ、このようにあまりにも単純化する事が出来ないということである。
 どちらか一方の極を優遇したり、どちらかを否定したりする理由は絶対にない。全ての偏見がなくなり、内側で歪める事無く、ありのままにリアリティ実相を捉える事が出きる程度に自分自身を取り除いたときにのみ、カルマムドラーを正しく理解する事が出来る。これは、つまり、この言葉の仏教的意味である瞑想によって、そして、その瞑想の中で、為される。その厳しい修行によって、主体の極が純粋な不確定である空に接近し、その結果、その主体の極は、末端の同一化によって一体になる「客体」、あるいは現れに、より完全に身を委ねる事が出来る。ここでは、所有権を獲得したり、客体を単なる客体であると理解する事によって客体を規定し、それによって、その客体を完全に誤解するような試みは為されない。何が起こるのかというと、主体と客体の両方から成る意図的構成の中にある客体が、意識の純粋な潜在性を決定するということである。全ての認識と感情の企ての中にあるこの純粋な潜在性を、その企てに取って基本的な事だと気づき、この潜在性には限界がなく、全てはこの潜在性の「末端の客体」となることができるという事に気づく事が、カルマムドラーの真の問題である。それゆえ、アドヴァヤヴァジラは、自己の受けた男女関係のイニシエーションを正しく理解している人について、その人はセックスを次のように理解しているといっている。
 「(キスに始まり)交接の動きに終わる外的な行為は、多様性であり、喜びの興奮である。オーガズムの経験は成熟であり、忘我の喜びである。個々のパートナーの四重の潜在性が−−崇高なお方が既にそれを四重のと呼んでいる−−男性の器官(ヴァジラ)と女性の器官(パドマ)にとどまる瞬間に、確定的な特徴と一緒に生じる喜びが無くなる。この二つが女性の器官で混ざると、発酵と興奮の後退が生じる。」アドヴァヤヴァジラは、カルマムドラーと、男女関係のイニシエーションを理解する三つの仕方についての議論を要約して、このように述べている。「このように、官能主義者と女性の関係には、アクショーブヤの印が欠けている。自己の受けたイニシエーションを誤解している人には、ヴァジラサットヴァの印とヴァジラダラの呼吸が欠けている。しかし、それを理解している人には、ヴァジラサットヴァによって印を押されたアクショーブヤがある。これが真ん中の道である。」
 カルマムドラーの理解の仕方に関連して、ここで述べられている印によって、他のどんな言葉を使うよりも、カルマムドラーの修行をする三つのタイプの人の、哲学的態度が分かる。「アクショーブヤの印が欠けている」が意味している事は、官能主義者は、客体は常に主体と結びついており−−主体が無ければ客体も無い−−という事に気づかず、自己の知覚と思考の状態の認識論的客体は、その認識論的客体に正確に対応する、物理的客体が存在するという事を保証しない、という事に気づかないという事である。物理的客体という概念は決して主要なものではなく、推論によって到達した概念とは言わないが、仮定によって作られている。一方、「ヴァジラサットヴァの印が欠けている」が意味している事は、自己の受けたイニシエーションを誤解している人は、物理的客体が存在している、ということに対する確信を定義している仮定は置いておいて、物理的客体が存在しているという事を信じる、という過ちは犯してはいないものの、自己の主体的知覚を、リアリティの問題に対する究極の答だと考えるという過ちを犯している。この人のなした事は、客体の極を主体の極に従属させただけである。両方の極は経験の中に存在している。しかし、客体が無ければ主体も無いので、この人の立場は、官能主義者の見解と同様、擁護できない。より哲学的な言葉を使うと、観念論(唯心論)は、実在論と同じく、間違った哲学である。知識の獲得の基礎である知性の空性を再び獲得し、我々の全ての認識と全ての行為が、この空によって、印を押された時にのみ、我々自身の構成という牢獄から我々を連れ出してくれる、真ん中の道を進む事が出来る。これが、ヴァジラサットヴァの印である。(注2:前略。ヴァジラサットヴァは実存主義者の「意図的構造」とよく似ている。後略。)
 パドマ・カルポは、性行為の様々な側面は準備の道、応用の道、見る事の道、集中的な集中の道と関係があると指摘している。その結果として、カルマムドラーの枠組みの中での、物理的なものと精神的なものの混ざり合いは、呼吸との関連からも明かである。性的興奮の間は、呼吸は浅く、速くなり、ある程度止まる事さえあるという事はよく認識されている。同じ現象が、強い集中の時に起こる。しかし、詳しく調べてみると、通常の呼吸が、その深さが違い、どんどん深くなりながら、心地よさと平和という、より高い感じを与える別の呼吸に取って替わられたのだという事が分かる。(注1:瞑想に近いものにおける呼吸の変化は、トリガント・バロウ、前掲書487頁以降で調べられている。)これによって、再び、カルマムドラーを緊張を取るのに適切なものだと考える事は、カルマムドラーを誤解し、その品位を落とす事ですらあるという事が示された。セックスは間違いなく関わっているが、これは、その他にも多くのものを含んでいるものの一部としてである。
 人間の他の全ての経験と同じように、カルマムドラーをその意図的構造を考慮に入れずに理解する事は出来ない。我々の努力の結果が、相互の創造になるか相互の破壊になるかは、究極的にはそれに左右されるからだ。このような予知を含む意図的客体として、カルマムドラーは物のように扱われる客体というよりは、存在なのである。そして、この存在は、物理的存在が存在していないとしても、現実のものである。これは、カルマムドラーを扱うには、我々自身の存在からも始めなければならない、という言葉によって、示されている。
 自己と自己に関わる全ての事を理解しようとする人間にとって、カルマムドラーは、その知性の企てに不可欠の部分である。また、確かに、人間の知性の企てのための無類の機会である。しかし、このような理解は、究極的には、決して観点とは言えない観点からのみ出ててくるものである。なぜなら、もし確定しているならば、偏っている事になるからだ。この企てが、人間の視点からのみ、カルマムドラーを通じて、語る限り、それは必ず達成されないままである。男女の愛の交わりにおいては、ガブリエル・マルセルの言葉を使うと、「相互主観性」が、見事に達成されているのだが、それは不完全な達成である。なぜなら、この不完全な達成には、全体という面が欠如しており、よって、これはその全体の、誤解された指標であるからだ。この欠如はサラハとその解説者であるニ・メ・アヴァドゥーティによって示されている。サラハの言葉は次の通りである。
自己の全体の存在を知らない人は、
交接の中に「大いなる至福」があると信じている。
蜃気楼を追いかける喉の渇いた人のように
その者は、死ぬ前に天空という水に到達するのだろうか。
パドマとヴァジラの快楽−−
それはどのようなより高い至福の楽しみなのだろうか。
前者の土台には力がないのだから
どのようにして三つの世界に対する願望が叶えられようか。
 ニーメ アヴァドゥーティの方はこう言っている。「大抵の人は始まりが無く、全ての衆生を包含しているものがサンボーガカーヤである事を知らないので、サラハは『自己の全体の存在を知らない者』と言っている。これは、その人がマハー・ムドラーの維持させる力を知らないからである。男女関係のイニシエーションの時に(注1)その人が感じる至福は大いなる至福では無いので、サラハはその人の無知さを詳しく述べ、『交接の中に「大いなる至福」があると信じている』と続けている。
[注1:文字通りには、識別・理解の確認を通じての超越意識の時に]
 精神機能のレベルにあるカルマムドラーの経験は、マハー・ムドラーの経験そのものではないので、サラハはそれに対して『蜃気楼を追いかける喉の渇いた人のように』という言葉で言及している。そのような人は、水でないものを水だと思う事で、喉の渇きを癒す事はない。同様に、マハー・ムドラーは、多様な考え全てを超越しており、天空のように無限であり、雑念は近づく事が出来ないという事を知らない人は、雑念、そして習慣を構成する記憶が、究極的に真実であって欲しいと望んでいるものを追いかける。それゆえサラハは『その者は、死ぬ前に天空という水に到達するのだろうか。』と問いかけている。男性と女性の器官(ヴァジラとパドマ)は両方とも束の間のものであり、その中にある『解脱』の現れは、この『心』(注2)の束の間の動きである。
[注2:sems,チッタ。これは、我々の意味での心ではないという事は、文脈から明かである。とはいえ、その発達の過程で我々の意味での心になるかも知れないし、それと同時に生命力という感覚になるかも知れないが。身体的なものと心的なものは分ける事が出来ないので、ここで述べられている事は束の間の事である。それは、確定した場の性格に属し、よって、それ自身が確定したものなので、それ自身を超えたものを指す。]
 そして、その状態の時期は、この動きと異なるものではないので、時間も束の間のものでしかない。四重の創造性(注3)が男性と女性の中を降りると、情熱・欲望が鎮まる。その四重の創造性が(二人の間で)均衡を保つようになると、情熱・欲望は無くなる事はなく、それは単に一方は男性の器官の端にとどまり、もう一方は女性の器官の端にとどまる事しか意味しない。
(注3:前略。「二つが降りて、消え、二つが均衡を保つようになる」という言葉は、四重の潜在性の四つの側面のいかなるものにも言及していない。自己の中で相手を対象だと思う考えが消えている、そういう二人のパートナーの経験と、これは関係がある。この考えが完璧に消える事が、二つの均衡と呼ばれている。これもまた、カルマムドラーは、一方的な事態ではなく、相互主観の交わりだと言う事を強調している。後略)
 この状況をサラハは『パドマとヴァジラの快楽』と言っている。この快楽は真の一緒に生じる喜びの類似でしかない。それが究極的な真理だと信じて、それを求めるから、サラハは『それはどのようなより高い至福の楽しみなのだろうか。』と問いかけているのだ。もしも、なぜこれが真の至福ではないのかと尋ねられたら、その答は、次のようでなくてはならない。マハー・ムドラーの至福は、天空のように無限であり、いかなる支えも必要ではなく、存在するもの全ての土台であるのだが、専門的に『二つの下降と二つの均衡』と呼ばれる至福は、その土台(性器の部位)に力がないため、束の間のものであるからだ。(注1:物理的存在は、表層の現象と違い、固定的な土台の役を果たす事は出来ない。)よって、サラハは『前者の土台には力がないのだから』と言っている。マハー・ムドラーの至福は、決して思考のレベルには無く、その全てを包含する性質によって、三つの世界の全てに対する願望を叶えるが、性欲の世界に関する限り、二つの潜在性の下降と均衡で感じられる快感は、歪んでいる。それゆえ、サラハは、『どのようにして三つの世界に対する願望が叶えられようか。』と結んでいる。」
 相互主観性の達成であるカルマムドラーの歓喜において、主体と客体ではなく、主体と主体の関係、主体と客体の、そして外的なものと内的なものの一般的な相違は、超越されている。人はもはや、せいぜい実用的な価値しかない物質の世界にはおらず、相互の認識と尊敬の役に立ち、よって、わくわくする生き方に満ちている世界にいる。カルマムドラーとの交わりによって、支配欲もないし、他からの影響が耐えられないと思うこともない。実際、この影響は求められ、感謝される。これは、人は他の存在を吸収するという言葉で示されている。我々は反感を持つ物事の世界に、自己充足した主体として、投げ入れられた、という根深い確信ゆえに、関与できなかった。そういう意味で我々を惨めにしてきた全てのものは、この新たに獲得された関与においては、消滅した。サラハのより詩的な言葉を使うと、カルマムドラーとの交わりにおいて、相互関係というものを知らず、我々と他の間の相違をよりハッキリと目立たせることしかしない、残忍な荒野の太陽が昇った。いわば、黄昏の時があり、そこでは、主体と客体(これは、我々がそれと知ったり気づいたりしていなくても、常に主体だったのかも知れない)の限度と限界が、すがすがしい陰りの中で、ぼやけ、混ざり合う。しかし、人は、この世での人から人にしか及ばない関係の喜びに満足する事は出来ない。人は自己のこの世での生を、超越と結び付けなくてはならない。しかし、カルマムドラーの相互主観性においては、これはまだ為されていない。それゆえ、サラハは、月はまだ昇っていないと言っている。月が昇ると、しかも、星と一緒に昇ると、我々は、無限の潜在性を理解し始め、それを受け入れ始める。この潜在性を通じて、人は生きるのだ。よって、サラハはこう言っている。
痛い程に焼け付く太陽が沈むと
星の主(統治者)と惑星が一緒に昇る。
究極的なものにとどまっているにもかかわらず、不思議な顕現が、現れる。
それは究極的に真の神秘の輪である。
 そして、ニ・メ アヴァドゥーティは、こう説明している。
 「熱に苦しんでいる人は、自分の目で太陽を見る事に耐えられない。同様に、ある人は、目と同じくらい敏感な自己の物理的存在を通じて、恐怖でしかないこの世の太陽を見る事によって、この太陽が沈むときの事を考える。太陽が沈むと、星の統治者の涼しい光が昇り、その光で空全体を満たす。そして、その統治者と共に星と惑星が昇る。修行者も、痛い程に焼け付く太陽と同じ、この世の因である、習慣を構成する記憶が消えるときの事だけを考える。それゆえ、サラハは、『痛い程に焼け付く太陽が沈むと』と唄っている。これはこういう事である。満月の時に太陽が沈むと、月と惑星が一緒に昇る。修行者の中で、習慣を構成する記憶が、全てを包含する非記憶を鎮めると、形状の無い、非生起(始められた事がない事)と、変わる事の無い超越が一緒に生じる。しかもこれは、グルの教えの直後に起こる。だから、サラハは『星の統治者と惑星が一緒に昇る』と続けている。しかし、非記憶と、形状の無い非生起と、超越の領域にとどまっているので、ここから、溢れんばかりの不思議な顕現が現れる。サラハが『究極的なものにとどまっているにもかかわらず、不思議な顕現が、現れる』と言うように。ニルマーナカーヤの神秘の輪としての非記憶、なぜなら、これから様々な現れが生じるからだ。サンボーガカーヤの神秘の輪としての非生起、なぜなら、前者は後者の領域にとどまっていると理解され感じられているからだ。ダルマカーヤの神秘の輪としての超越、なぜなら、超越しているので、瞑想・想像の過程によって(人工的に)それを作る事が出来ないからだ。−−これらが、三つの究極的に真に真理の輪である。だからサラハは『これらは究極的に真の神秘の輪である』とまとめている。」
 人生の充実の意味と達成を求めようという唯一の刺激として、カルマムドラーは非常に重要な意味がある。

カルマムドラーが無ければ
マハー・ムドラーは無い。

これに続く、知覚の全ての形態における価値の等しさの教えは、ウィリアム・アーネスト・ホッキングが次のように述べている神秘哲学の本質の解説である。「実在論は、客体と認識我を分ける。観念論は、全ての客体はある認識我に属していると考える。神秘主義は、全ての客体と認識我は互いに属し合っている−−同じ実在で、一つである−−と考える。」この一つである事は、完全に動的なものであり、変形して、実在の部分的側面としての主体と客体という実在になる。実体ではないので、この一つである事は、観念論者の一つの心を超えている。本文で述べられている変形は、Padma-dkra-poの述べているものと同じである。

11.マハー・ムドラー

 マハー・ムドラー(phyag-rgya-chen-po,phyag-rgya-chen-mo)は、仏教タントラの核心をなし、その統合的な原則である。それはあらゆる物事の手がかりであり、前提条件である。それは、そこから人間のすべての努力が、そして道が始まる根拠あるいは土台となっている、一つの価値体系であると言うこともできる。それはまた、この努力が成功するために進んでいかなくてはならない道であり、また、人間存在の問題に対する解決策として、知られるためには経験されなければならない道である。
 マハー・ムドラーの単語の意味を簡単に分析すると以下のようになる。

phyag(チャク):非二元的知識の獲得
rgya(ギャ):サムサーラのもつれた糸がほぐされたが故の至福
chen-po(チェンポ):真の存在(ダルマカーヤ)、本質的に自由 であり、一致(合致)という輝く明かりである(注1)
[注1:カルナタントラヴァジラパダ,304a。この経典はTshkと同じではない。これは「口頭伝授」の経典で、写本でしか存在していない。]
 さらに詳細な定義は、アドゥヴァヤヴァジラによって述べられているが、ここでは、哲学的に興味深い幾つかの点が紹介されている。(注2:省略)
 「マハー・ムドラーとは、すべての存在は非生起に合致するという事実。主体と客体の推論に基づくカテゴリーは、それ自体では成り立ってはいないという事実。感情の不安定な性質、および、リアリティーについての未発達な信仰はそのベールを引き剥がされ、(あらゆるものの)絶対的に明確な特徴が、あるがままの姿(注3)で知られているという事実である。よって、マハー・ムドラーは汚れなき結果(効果)と言われている。
[注3:スヴァラクシャナ。これは仏教哲学において重要な役割を果たし、異なった思想の学派によって、様々に解釈されてきた。カントをもって哲学を終わらせる学者は、これをカントの、扱いにくい「ものそれ自体」と同じものだとしている。「もの自体」とは、我々の感覚の原因であるが、知る事の出来ないものであると言われている。仏教では、自己顕示によって直接これを知る事が出来る。スヴァータントリカとプラーサンギカの行ったこの問題の分析は、バートランド・ラッセルの描写の理論と同じである。その理論によると、「『これは法螺貝である。』は適切なこれに関しては正しい。」しかし、我々は「これ」が「存在する」と言う事は出来ない。バートランド・ラッセルの『西洋哲学の歴史』参照のこと。]
 その実存とは、(1)初めと中間と終わりがある他のすべての明確な存在が備えているような、色も形も持たず、(2)すべてを包み込み、(3)不変であり、そして(4)それは、時間全体に広がる。それゆえ、マハー・ムドラーは覚者の境地の瞬間的な覚醒であり、これは、4つの時の状況と4つの喜びの強さは崩壊されないことを意味している(注1)。」
[注1:これは以前に述べたのと同じである。構造的に示すと以下のようになる。
多様さ     楽しい興奮
成熟    忘我の喜び
明確な性格の不在   一緒に生じる喜び
発酵          興奮の後退] 
 歴史的見地から見るならば、この定義はサラハからほとんどそのまま言葉通りにとったものである。彼は、最も偉大な権威と見なされているが、マハー・ムドラーを中心的思想とするカギュ派の精神的教師の系列には現れない。サラハはこう言っている。
形も色もなく、全てを包含し、
変わる事無く、時間全体に広がる、
ロープが蛇に見える時のように真の意味を持たず、
ダルマカーヤ、サンボーガカーヤ、ニルマーナカーヤと分ける事が出来ないので、
その現実性は知性の範囲を超越している。
覚者の境地の瞬間的な経験であるマハー・ムドラーは
全ての衆生を利するためにサンボーガカーヤとニルマーナカーヤに現れる。
 アドゥヴァヤヴァジラの定義の後半と、サラハの定義の最初で述べられている、四つの特質は特に興味深い。全てを包含しているので、マハー・ムドラーは、主体・客体の二分化における、知る事の出来るものの限界を超越しており、それ自身が知られる事も知られない事もないので、全てのものが生まれて来た源であり、それゆえ、全てのものへの道でもある。キェ・メ・デ・チェンは、この言葉を次のように定義している。「『全てを包含している』は、全てのありとあらゆるものの基礎である事を意味している。輪廻と煩悩破壊、原因と結果、現れと空、その他の全てのものを包含している。」ガンポパは、その意味を示すのに比喩を使ってこう言っている。「全てを包含しているとは、天空のようであることだ。その非生起において、外側の器として世界を包含し、その器に含まれている本質として、衆生を包含している。」
 この基礎には、色も形もない。実体的な概念の内容と、その確定した対象と、我々のために存在する全てのものの顕著な性格には、ある形があり、そのため、一つのものと別のものを区別する、ある特色がある。しかし、この全てが、その生命をその基礎から得ている限りにおいては、その基礎の一部である。そして、全てを包含せず、単なる時間上の出来事であるなら、この基礎は、起源を持っているとは言えない。よって、sKye-med bde-chenはこう言っている。『色も形もなく』とは、互いの関係において、そしてある条件下で、精神身体の構成要素と、他の構成要素と、完全に確定した実体の現れがあるのだが、これには実体的なものは何もなく、そのようなものとしての非生起がある。
 全てを包含し、確定できないマハー・ムドラーは、変化もしない。確定的なものだけが変化しする。これは、変化しないものの中で、変化する全てのものの、変化性を目立たせるという背景として起こる。
 しかし、特に重要なのは、マハー・ムドラーは時間全体に広がるという定義である。マハー・ムドラーは、時間の中の出来事ではない。それどころか、貴重な現在に限定されるのではなく、過去、そして、普通は非存在だと考えれられている未来を含んでいる時間なのである。これは、仏教タントラの信奉者が犯さなかったとされるべき大きな間違いであるが、一方、西洋においては、哲学者が、時間を今の連続だと考えるという間違いに気づくには、実存主義が必要であった。時間は、我々が生きているという基本的な構造である。それは、目標という形で、我々の前の未来として、また、我々が既にいたが、まだ一緒に動いている過去として、そして、危険に満ちた行為のある進路をたどるという点で関わっている現在として、自分自身を時間的に位置づける。別の言い方をすると、未来から我々は過去を解釈し、それで、現在の行為の方向を決める。また、タントリズムの言葉を使うと、目標を考えて、我々は、その目標に到る途中に存在するための土台を据える。このように、時間の三つの相−−ハイデッガーなら時間の三つの恍惚と呼ぶであろう−−が、統合した結合に溶け込む。過去は、かつて在ったものではなく、今切り取られ行ってしまったものであり、未来は、その時まで何でもない単なる「まだ今ではない」ものではない。この実存主義者の時間の概念は、まさにsKye-med bde-chenの考えである。彼はこう言っている。「『時間全体に広がる』とは、マハー・ムドラーは切り取られたものでもないし、ウサギの角や石女(うまずめ)の子供のように非存在ではない。マハー・ムドラーは、時間全体の間、分ける事の出来ない空と慈悲であり続ける。」この引用の最後の部分は、我々が、道案内の指針として、マハー・ムドラーの意味と目的を理解する上で、特に役に立つ。過去、現在、未来は別個のに存在するものではなく、現在を絶対的に優先させる説得力のある理由もないのだが、我々の前にある可能性を捉えるのか、過去の可能性を維持するのか、繰り返すのかを選ぶ機会を与えてくれるのは、現在である。もし、我々が、我々の前に広がる可能性を捉え、その可能性を、慈悲の感情の中に表現し、慈悲の感情によって維持される決定的な行為に導く事を選ぶなら、我々は、普通の、とは言え間違っている、視点から見ると、そのようなものとしてはゼロであるが、まさにゼロであるからこそ、我々の心を怪しげな考えや理想で満たさずに済む、可能性の領域外で生きることになる。このように、完全に開けているので、我々は、我々の前にある将来の、終わっていない可能性と、過去から持ち越した終わっていない可能性を、意味のある完全状態の中で、結び付ける。一方、もし我々が、過去の可能性を維持しするか、繰り返す可能性を選ぶなら、その結びつきを提供することが出来ず、構造全体が崩壊してしまう。意味の代わりに、当惑・誤りがある。確かに、我々は、過去も未来も現在も見る事は出来ない。確かに、我々は時間自体を見る事は出来ない。我々は、空間次元のレベルの時間内での出来事しか見る事は出来ないが、内部から主観的に実際的に時間を知ることは出来る。ガンポパがこう言って強調したのは、意味のある完全状態である。「マハー・ムドラーには、四つの性格がある。全てを包含し、色も形もない。なぜなら、マハー・ムドラーは、超越している意識の実存であり、時間全体に広がっており、来る事も行く事もない。マハー・ムドラーが人の中に存在していると、その人は、輪廻を捨て去るべきものだとは考えない。それゆえ、解脱に導かないと言われているものを避ける事はない。煩悩破壊を、安らぎを与えるものだと考える事もない。それゆえ、現世的なものに逆らうと言われているものに頼らない。だから、甘い夢も見ないし、その結果について絶望的な考えも持たない。」) マハー・ムドラーは、時間の中にあるのではなく、時間そのものなので、その過程が完全である限りにおいては、マハー・ムドラーを真であるとして識別することもできるし、当惑がある限りにおいては、真でないとして識別することもできる。この後者も、時間の中には無いが、時間である。その差は、後者の中では、時間が、出来事と物事の連続に分解するということである。これは、「無智」とか「知らない事」という名で知られている、我々の全客体的傾向の為である。真である、あるいは、真でないマハー・ムドラーは、Padma dkar-poによって、このように言及されている。「変わらないものとして在る事は、純粋それ自体の因である。その創造性と顕現は、純粋なものと不純なものの基礎と源泉である。なぜなら、それは、全てのものに、どんなものにも変わる事が出来るからだ。この可変性の力で、無智の条件の中では、不純になる。それゆえ、ギャルパ・ヤンゴン・パ は、真のマハー・ムドラーと、当惑、(真でない)マハー・ムドラーを区別した。前者は、当惑の無い立場であり、後者は、時間性、または、当惑である。なぜなら当惑は時間性に変わるからだ。」
 ガンポパも同じ区別をしている。ガンポパは、真であることを「清浄なマハー・ムドラー」と、そして、真でないことを「汚れたマハー・ムドラー」と名づけた。ガンポパはこう言っている。「汚れたとは、マハー・ムドラーを表面的にしか知らず、その直接の経験がない事を意味する。これは、願望的思考と具体的なものについての絶望という枷(かせ)がまだ緩んでいない事を意味する。清浄とは、雲一つ無い空の日の出のようなものである事を意味している。願望的思考も絶望もなく、あらかじめ考える事もなく、言葉を超えていて、確定したものに作り変える事は出来ない、という事を意味している。それは目的完成である。
 ガンポパとその他のチベット仏教の哲学者たちが、主に気を配ったのは、真であることについてであった。というのは、タントリズムは、一定の観念形態を据えることに満足せず、分かりやすいヴィジョンで現される価値で、あるいは、その価値について、何かをすることができ、そしてそれによって、行為においても、それが最高の満足の質を生み出すようなやり方で、人を教育することをねらっているからだ。そしてそのために、それは、世界中に常に存在する哲学である神秘主義が、人になすよう求めていることを要求するのである。ホッキングはこう言う。「神秘主義の道徳律のすべての原理は、このシンプルな形に表すことができる。『自分自身であれ。(直訳:自分があるところのものであれ; Be what you are )』すなわち、行為において、自分がリアリティにおいてそうであるものであれ、ということである。」それゆえガンポパは、マハー・ムドラーが、人生を導く原理であるとして、次ぎのように言うのである。
 「マハー・ムドラーは汚れており、また汚れがない。ここでは汚れのない形を論じる。それは三つからなり、a) 汚れなき土台、b)汚れなき道、c)汚れなき目的、である。第一 a) は、リアリティーはそれ自体において絶対的に純粋なものである、ということを意味しており;第二 b) は、同時に現れる精神的あるいは霊的意識を道として取ることを意味し;第三 c) は、究極と意識の不可分性の完全状態から阻害されないことを意味している。
 「道を汚れのない、まっすぐなものにするために、わたしはこの「蓮華」の教えを授ける。ここで「汚れのない」という言葉は、心の不浄さ、あるいは独立して存在している主体と客体というものを信じることから解放されることを意味している。そして、教えは、道をまっすぐにすることを意味し、蓮華の花のようなものである。なぜなら、汚れなきものを、哲学的洞察によって土台として取り決め、そしてそれを(それにそって進むための)道とすることによって、汚れなき目的に到達する。こういう比喩がある:蓮華は沼から生えるが、その茎と葉と花は沼によって汚されることはない。同様に、人は初めに汚れなきものを、土台と決め、それからそれが直接的な経験になる時、その意味に注意することによって、汚れなきもの、輝く光を道として取る。そして、目的が見えてくると、これが目的としての汚れなきもの、ダルマカーヤ、真のものを、達成する手段となる。この「蓮華」の教えは四つの主題からなる。

 (1)哲学的洞察による、汚れなき、まっすぐなものへのマハー・ムドラーの決定
「実存の全体は、同時に現れる意識の現れである。これは三つから成っており、(a) 外がわに同時に現れること (b) 内側に同時に現れること (c) 神秘的に同時に現れること、である。
 (a) 第一は、現れ(appearance) 全体、すなわち外側にある六種類の知覚の対象は、究極的なリアリティーあるいは空とともに現れ、究極的なリアリティーあるいは空は現れと共に現れる、ということである。二つは別々の時に現れることはなく、また良い実体、悪い実体に区別されることもなく、ただ同時に生まれるのである。それゆえサラハは、またこうも言う。「現れを教師として理解せよ。多くのものが、たったひとつだけの価値を持っていることを理解せよ。実体が同時に現れることを理解せよ。」かくして、同時に現れることが理解されない限り、独立して存在する外側の対象への信仰がある。同時に現れることが理解されるならば、それはその実存故に、「同時に現れる意識」と呼ばれる。そして、その対象関係とその対象関係を持つものの中で働く、知的能力故に、それは「リアリティーを、それが現れるように見る意識」と呼ばれる。
 (b) エゴへの信を生み出す知的能力は、輝く光あるいは空と同時に現れる。そして精神性(霊性)、輝く光あるいは空は、エゴへの信を生む、知的能力と同時に現れる。二つは別々の時に現れることはなく、また良い実体、悪い実体に区別されることもなく、ただ同時に生まれるのである。これが理解されない限り、エゴへの信がある。しかしもしこれが理解されるならば、それはその実存故に「同時に現れる意識」と呼ばれる。そしてその対象関係、及び対象関係を持つ者の能力における働きに故に、それは「リアリティーを、それが現れるように見る意識」と呼ばれる。故にサハラまたこう宣言する。「二分は最高の意識である。五つの毒は、それら自体の薬である。主体、客体の極はドルジェ・チャン(ヴァジラダラ)である。」
 (c) 肯定的、否定的、すべての帰属を破壊する知的能力は究極的なものと同時に現れる。それが理解されない限り、帰属がある。しかし、もし理解されたら、究極である意識に支えられて、感覚の二分は純粋になる。この究極的なものと意識の不可分性は「リアリティーをありのままに見る意識」あるいは「非二分の意識」と呼ばれる。しかし、実際には、それは意識ではない(つまり、存在論的なものは何もない)。それゆえ、サハラはこう述べる。「道はない。意識はない。」
 「しかし、同時に現れることを哲学的洞察によって決定するだけでは、充分ではない。自分が見たものと、それを深く考慮することに注意しなくてはならない。それゆえ

 (2) 見たものに注意すること、あるいは輝く光を方法として取ることとは、「現実の全体は、そもそものはじめから、輝く光、空、初まりなきもの、ダルマカーヤであった。いちばん初めから、それは純粋で、すべての言葉と思考の限界を超えていた。それはスートラに述べられているように、「深く、平安で、思考を超え、輝き、創造されないもの」であった。かくして、リアリティー全体を非生起として、そしてそれ自体の領域において瞑想と非瞑想、存在と非存在、その他の対立するものの間を区別する、二分する心がないこととして、基本原理として理解し、(主体と客体の世界の後ろに)主体がないというやりかたで、心から解放された領域におかれるべきものなのである。それゆえ、偉大なるブラフマン(サハラ)は、「思考を超えた知的能力を、思考を超えた究極的なものの中にとどまらせよ。」そして、「真の知的能力を子供のようにふるまわせよ。」と言ったのである。

 (3) 行為:方法として、現れるものはなんでも、それ自体において、最終的で自由なものとして取ること。
 「自分が目で見るものは、大きくても小さくても、美しくても醜くても、あるいは何であってもーー耳で聞くものは何でも、あるいは六種類の知覚の領域に属するものは何でも、前のように哲学的洞察によって決め、同時に現れる意識によって、それに注意を向ける。それから、知覚したものへの注意の力によって、それに続く表象的知識の段階で、現れとして出会うものは何でも同時に現れる意識として理解され、六種類の知覚の対象はかくして干渉されない。(それ自身のままに放っておかれる)。それは以前知っていた人を認識するようなものである。それゆえ偉大なるブラフマン、サラハはこうも言っている。
現れるものの
マハー・ムドラーとしての直感は
それが現れる時
同時に現れるものとして
認識される
 (4) 目的は、それ自身で真のものであることを証明し、希望や絶望を超えているという確信にいたること。
 「ここで「目的」とはダルマカーヤのことであり、「それ自体で真のものであることを証明する」とは、「現実の全体は決してはじまりを持たず、ダルマカーヤであることを理解することと、直感的にサムサーラとニルヴァーナの非二元性を理解することである。
(注:もし誰かが、このようにして哲学的洞察によって識別され、瞑想的集中によって注意を払われ、行為において実践されたものを深く考慮することによって、どういう目的が達成されるのだと聞くなら、次のような答が適当であろう。):希望も絶望もない。サムサーラはニルヴァーナであり、サムサーラを別にした、ニルヴァーナの達成についての希望的観測は存在しえず、そしてニルヴァーナはサムサーラであると理解することによって、邪悪なものとしてのサムサーラに落ちる絶望も存在しえない。それ故偉大なるブラフマン、サラハはこう宣言する。

三界は常に覚者の境地(仏性)であった。
それゆえサムサーラはニルヴァーナであった。

 「この確信にいたる、とは、すべての帰属が内側から壊され、自己の存在の深みから真であるものに対する確信が生まれるということを意味している。それゆえ、それがゴマつぶほどであっても、サムサーラとニルヴァーナについて、希望も絶望もない。」
 ここでも目的の達成が語られているが、それが時のうちにあると考えてはならない。マハー・ムドラーはけっして時の中にある事象ではなく、もし、けっして思考の対象になりえないものを対象化しようとする試みがなされるならば、崩壊してしまう、時それ自体なのである。それゆえマハー・ムドラーはプロセスにおけるひとつ、あるいは別の段階に限られるものではなく、統合された合一におけるすべての段階なのである。これは、マハー・ムドラーが、指標であるとわたしたちが見た、パスカルとヤスパースの用語を使えば暗号、であるカルマムドラーに内在している、ということである。同様に、プロセスを進めるものであり、またカルマムドラーとの関連で論じられた、感情の強さは、句読点で切られた量(分量)が一続きになったものではなく、ひとつの全体構造を形づくるものである。これはまたアドヴァヤヴァジラが、前に引用した彼の言葉において、意味しているものである。すなわち、四つの「時の状況」と四つの「喜びの強さ」は妨げられず、覚者の境地の経験は、瞬間的な経験である。しかし、この経験は、わたしたちが一定の時に、始まり終わる、と誤って信じている過程の全体に渡って広がるものであり、よって、時の中にないものを、時の中の何かへと換える、という意味において瞬間的なのである。ついでに言えば、この過ちが起こるのは、記述的目的のために、過程を別々の段階に分けることは可能であるが、この緻密な構成全体を部分に分ける過程において、プロセスの一元的な性格を見過ごし、当惑の過ちへと導かれ、またそれを強めてしまいがちだからである。
 統一プロセスとして、マハー・ムドラーは、達成というよりも、課業である。課業の成果が真であるものの性質を持っているかぎりにおいてのみ、達成といえるのであり、それはまた再び、永遠に続く仕事となる。なぜなら、そうでなければ、それは時の中で起こる事象となり、すでに見たように、マハー・ムドラーは時の中にはないからである。マハー・ムドラーが課業であることは、瞑想によって注意を向けられ、行為において実践されなければならないという事実からだけではなく、その「偉大なる印」という名前からも明かになる。この名前は、パドマ・カルポによって、次のように分析されている。
 「ムドラーという言葉には、「印を押す」という意味と、「超えて行かない(それより先に行かない)」という二重の意味がある。はじめの意味は、マイトリパによって与えられたもので、彼はこう言っている。
 「『五つの精神身体の構成要素は、五つのタターガタ(真理勝者)である。(注2)

2 五つの精神身体の構成要素と五つのタターガタ
肉体性(有体性): ヴァイローチャナ
感情     : ラトナサンバヴァ
感覚     : アミターバ
動機     : アモガシッディ
意識     : アクショブヤ

 その四つが単なる意識として理解されるために、それらはアクショブヤによって印を押される。このやり方で、外的な事物(つまり特定の知覚的状況の認識論的対象に呼応する存在論的対象)は存在しない、ということが確立されるので、なぜなら、一定の外的関係を持つ、知覚的状況の客観的構成要素は心のみであるので、意味を把握する主体もまた、空なのである。(つまり、内省的な状況の客観的構成要素に対応する、あるいはそのものである、純粋自我は存在しない。)しかし、主体でも客体でもない(しかし両者の共通の土台である)何ものかを認知することによって、我々には、純粋な感覚(あるいはウィリアム・ジェイムスの用語における純粋経験)が残る。この何ものかを、雲ひとつなく澄み渡った秋の空のように未分化のものとして語る、この派の唯心論者は、それを基本的意識と呼んでいる。」(注1)

1 このヴィジュニャーナヴァーダの教義の部門とウィリアム・ジェイムスの哲学との類似は注目に値する。後者によれば、一定の「内的な二重性がない」経験の分割されていない部分は、ある文脈においては知る者であり、別の文脈においては、知られるものである。

「さらにこう言われている。

物事への信を生み出す習慣を形成する思考のない知識は、アクショーブヤの印である。
これが、今度は、ヴァジラサットヴァによって印を押されるので、
これは具体的な独立したものではない。
純粋な経験のみが、我々がヴァジラサットヴァについて話す事を許さない。
始まりとて無い時から、いかなる物も場所を持ったことはない。
想像されるものはすべて空に変わり得る。

 「このように、ある存在する物というつまずきとなる障害が取り除かれ、マードヤミカ派の原理が正しい事が再び証明された。この原理とは、それ自身の本質によって、どこにも位置づけられず、それ自体真であり、同時に存在し、非二元である存在は、それ自体が知性(理性から生じる)行為であるということである。(注2)
[注2:この言葉のタントラ的な分析によると、これは、それ自体による理性行為を意味する。マードヤミカ派はこれを、客体としてのそれ自身に向けられた理性行為を意味するものとして分析している。この解釈が正しいかどうか、マードヤミカの信奉者が意図的にヴィジュニャーヴァーダの概念を誤解し、誤って伝えなかったのかどうかは、依然として疑わしい。]
 どこで「印」について語られたとしても、この言葉の意味論的な意味は、ある存在論的な地位が与えられ得る実体と関係があるのではなく、印を押すという行為に関係がある、と言われることだろう。これは、哲学は、課業であり、暇なときに取り上げてもてあそぶ様な数学体系ではない事を強調しているばかりではなく、関係は、まるで異なった言葉と言葉の間にある連結棒だと考える哲学的原子論を廃止するという事をも強調している。それゆえ、「印を押す」ということは、関係が、その根本的な源からその到達点まで広がっているという事を意味する。この意味で、アクショーブヤの印は、純粋な感覚の視点から全てを見るという課業であり、ヴァジラサットヴァの印は、完璧な精神的意識を達成し、単一音声の抽象概念(抽象化)に常につきものの局部性がないという課業になる。これらの課業の達成とは、ある意味では、我々がそこから成長した源泉であり、我々が、空理空論的な主張と、他の未成熟な意見のもつれの下に消えさせてしまった源泉を再発見する事である。同時に、我々の前にあるこれらの課業を達成しようとする全ての試みは、統合への一歩である。この統合とは、全体が、一つの物として機能するように、人間性の様々な特徴が、整った全体に作り上げられる事を意味する。
 知的能力もまた一つの傾向であることに注目するのは、重要なことである。なぜならば、あらゆる知的行為は、認識の側面が感覚的色相の側面に一致するというように、ある一定の傾向を伴っているからである。さらに、知的能力は、世界内存在、意志伝達、状況性という形態に関係する。これらは、個人の行為・言葉・思考の範囲が広げられたものであり、リアリティーの究極の世界においては不可分な完全体を形成している。一方、欲望、形状、非形状(あるいは、可能な形状)の状態という3つの世界は、人間の限界、とりわけ身体的行為、言葉、意図的な思考の広がりの中に現われた人間的特質である(注2)
(注2)
 身体、言葉、心のプロセスのそれぞれは容易に区別をつけられるが、それらを別個の作用とみなすのは危険であろう。そのような考えは単に完璧な分裂(非統合?disintegration)を促すだけである。これを避け、統合を達成するためには、分離した状態についてその記述的な分析に恩恵をこうむっている別々のプロセスが、一つの統一体の中で生じていることを理解することが必要である。しかし、この統一体は単なる付加によっては達成されない。それは、すべてを包み込み、区別されない「場の要因?field factor」である。共同出現は常にこの特質に関わっている。
 広げられた限界は、わたしたちが作り出したものではなが故に、測り知れないが、有限な人間の性質の中に入り、その超越的リアリティーを認識することによって、自己の有限性を乗り越えるよう人を促す。わたしたちの有限な存在を、超越したものに関連づけることに成功するにつれて、生の意味は深まってゆき、悟りにおいて、それが単なる束の間の瞬間の連続ではなく、不変の統一されたものであることが明らかにされる。意味を見つけるという、この課業の達成が、単に人間の有限性を飲み込んでしまう絶対的な魂という、ヘーゲル哲学の幻影に行き着くことは決してない。この作業は、顕著にそして紛れもなく人間的な活動として留まる。それは個人に向けられているのであって、ひとつの抽象概念に向けられているのではない。意識は、仏教タントラによれば、人間の本質の核心をなすものであるが、それは常に、言葉(a term)と一体化し言葉によって満たされようとしている。もしこの潜在力が現実のものとなれば、わたしたちが身体、言葉、心を通じて、世界の中で他と互いに影響を及ぼし合うとき、わたしたちの関係的存在の意図的な相や限界を認識するようになる。そして、すべての意識は啓発的であり、顕現するものであるので、わたしたちは自らの有限性と無限の潜在的可能性の両方に気づく。
 ここまでは「印」の意味を「印を押すこと」として、特に至福と空によって論じてきた。「印」は、人が世界の中で混乱の状態に至ることなく生きられるように、そして自己のすべての制約の中で自由を見いだせるように、満足と知識を手に入れることを可能にする。この意味において「印」は、基本形態あるいは、統一テーマと呼ぶことのできるものに対応する。これは、精神的成熟に導く発達のプロセスに関連した、広範囲に渡る具体的活動を統合するための焦点として働くものである。統合は、本質的に心性と行為の統一を意味しており、発達の一つの特徴であるが、発達はそれ自体、統合を保証していない。従って、統合あるいは精神的成熟を達成するためには、わたしたちの存在や生活様式に意味をもたらしてくれる目的に、到達しようと望む際に、その手立てとなる価値や原則の範囲を超えないことが不可欠となる。これは「印」の第二の意味、すなわち、「超えてはならない」ということである。この特質は次の陳述の中にはっきりと反映されている(注1)
 「『印』とは、印を押す(封印をする)こと。そして、その範囲を超えないこと、という意味を表わす。それは、共同出現によって身体、言葉、心の形態を封印するという意味。その現れる過程で命を終えるすべての存在を、非生起によって封印するという意味。(注2)非精神機能によって経験を封印するという意味、決意と慈悲によって志向性を封印するという意味を持つ。そして、至福-空と知的潜在力の合一を越えないという意味である。」
     あるいは、ミラレパが言うように、
「チャク:至福と空の不可分性、
 それを超えてはならないこと:ギャ(注3)。」

 この後者の面こそが、ガンポパによって非常に明晰に詳説されたものである。彼はマハー・ムドラーという語(phyag-rgya-chen-po)を次のように説明する。「phyagは、出現し可能であるすべてのもの、サンサーラとニルヴァーナが、生じることのない究極の領域を超えることはないと直観的に理解することである。rgya は、あるものとして出現したり、あるものになり得るすべてのものが、純粋であるただ唯一のものを越えないという意味である。chen-po は、これは、究極はそれ自身で自由であるという直観的な理解のゆえに、起こるという意味である(注1)。」
 哲学的に言えば、マハー・ムドラーはリアリティーの絶対的な単一性を説いている。しかし、もしリアリティーが一つであるなら、わたしたちはリアリティーと合一したときにのみ、それを知る事ができる。分離し、そして、リアリティーが提供するものを超えて進むことをやめ、それによって、リアリティーとのあらゆる接触を失い、自らを衰えさせることをやめるときにのみ、それを知ることができる。マハー・ムドラーの教えは、実際的側面においては、疑念や希望や恐怖によって攻撃されることのない、内側の免疫を守ることをねらったものである。そしてガンポパは、自らの作品の随所で、このことがポーズではなく、特徴として真の事実でなくてはならないと言明している。

               12.中間状態

 中間状態は、タントラ仏教における最も重要な主題の一つです。一般的にいうなら、人の生とは誕生から死まで、もっと小さくいえば、目覚めから眠り(夢見)までの間です。しかし、中間状態を、過去と未来を隔てる今としてとらえることは、誤りでしょう。前の章で、マハー・ムドラーとは、時間の中での事象ではなく、むしろ時間そのものであり、それを経験あるとき、人は時間が自己の内的存在に密接していることを感じることを指摘しました。この実存の「時間性」を、前面に連れ出すことが、過去をその未達成の可能性とともに受け継ぎ、それを未来へと連続させるという、ユニークな方法としての、中間状態に関する教えの、目的です。この場合未来とは、始めから終わりまで保たれる統合された構造の中で、自分を導いてくれる様相を示しています。このように、自分自身は時間の中のあるものではなくて、一時性である、と知るとき、人は、実存主義者が言うように、真か真でないのかの選択に迫られます。仏教的にいうならば、真でないとは、統一的リアリティが、サンサーラとニルヴァーナ・・の諸事象の中へ分裂されることです。(無意味な流れの中で、サンサーラとニルヴァーナは一方がもう一方に続いています。)人の過去と未来を一緒に、全体性と統一の秩序の中に保つのは、決断の瞬間です。ここでも、今までのように、実存主義者による用語や、人間存在に対する分析に、大いに役立ちます。この決断をすることが、ミラレパが女性の弟子タシチェリンマに与えた助言であり、それによって彼は、中間状態に関する自分の教えを示しました。:

    サンサーラ−ニルヴァーナの中間状態において、
    “存在”、つまりマハー・ムドラーに到達するためには、
    哲学的洞察によって、土台としてのそれに(心を)決めよ。

 ミラレパは七つのタイプの中間状態について論じましたが、そのうちの三つが極めて重要です。それらは、この経典の本文でも言及されています。誕生と死の間の中間状態、つまり本経典によれば(誕生、生まれて)から死ぬ前までの期間は、「肉と血から成る」人間の身体によって支配されています。経典はこのことを強調していますが、ここでの「身体・心」の短縮形で、それは我々が「心」と呼ぶものを含み、強いていうなら、すべてを含むリアリティとしての「精神性」(注)に対応するものです。また現存の「身体・心」は、過去の達成されなかった可能性を持ち越しています。それは全体的な意味での「道」であり、つまりもはやない過去とまだない未来の間の鎖ではなくて、人の「一時性」の開現という意味です。したがって、本経典で言及した、または後に説明する他の二つの中間状態も、孤立した事象ではなくて、この一時性の様相なのです。

(注)しかし「精神性」とは、絶対的様式においては、「身体・心」から離れ、またそれと対立するものではありません。それは後者の中に入り、また理性によって接近し得るものです。したがって、この言葉は、我々が「心」と呼んでいるものと近いものとしても使い得ます。このように、もの【傍点つき】的思考を取り除き、場【傍点つき】的考えを開発するなら、解決不能に思えた多くの対立が消滅します。
 すべての教えの目的は、人間自身の努力による、ゴールの達成でした。したがって、中間状態も既成【or既製】の何かではなく、一つの努力です。解決の第一歩は、全体としてのリアリティを輝く光の本質を持った存在として悟ることです。それは土台、道、ゴール(特に強調点は道にある)・・としてのマハー・ムドラーという哲学的洞察と同等とされます。その努力とは、一種の瞑想活動としての“洞察”で、そこでは瞑想は、論理的なものと考えられるべきではありません。我々は、肉体的存在、つまり血と肉から成る身体の中にあって、情熱・欲望・貪りによって少なからず支配されています。そしてこの破壊的力は、完全なる反客体化の後に来る、統一的至福へと、同調また昇華されなければなりません。これら二つの明らかに対立する特徴が連結される瞬間が“第三の確認”(識別・理解による、超越意識)であり、それは“けがされない至福”をもたらします。また、対象としての他者という考えが完全に消滅したとき、それはカルマ・ムドラー(cf.P212〜)との関係において感じ取られます。またセックスも決して単なる感覚の満足ではなく、リアリティを認識するための特殊な方法です。識別・理解も超越的機能として、自己の存在の源泉である超越意識に、人を気づかせ、直接経験させ、そしてその中で生かすものです。ガンポパは言っています。:
 「識別・理解による超越意識は、具体的なものではなく、輝くものであり、非概念的であり、至福であり、それは真にリアルであるリアリティである【or真に真実である真実である】。」(“ガンポパ”xxvii 9a)
 この同調のプロセスにおいて、発達と完成のプロセスは特に重要です。前者によって、人は自己の“この現実”の状態を捨て、価値ある世界へと自己を開きます。そして自己の環境全体を無限の美しさを持った神聖なる宮殿として、またすべての男女を神々や女神として見るようになります。しかしこの修行には、もう一つの目的があります。それは人に、自己の悟りへの可能性を気づかせることです。生が、誕生のときに形を採り限られた存在の中で続き、死の中でその境界を突破し、全体として、まるで現前に展開するかのように思われます。したがって自分自身を自己の全存在の中で(死すべき身体の中の神聖な魂としてではなく)神、あるいは女神として考えることによって、誤った考え・・つまり、創造の奇跡、アルフレッド・ノース・ホワイトヘッドの言葉を使うなら“諸々の事実の世界への入り口”としての誕生を、何か蔑むべきものとする誤った考え・・が取り除かれる、といわれています。この場合、人の身体に付与された重要性によって人の身体は究極の高みに舞い上がることも含めてすべての段階の創造活動を集中させるということが明らかになります。また、全体としての身体、経験の器官・手段としての身体が本質的な価値を持つという考え方は、精神性とは・・“聖者”の苦行の習慣に示されるように、身体を軽蔑することであるという考え方を、効果的に破壊します。
 人の発達のステージを実践する能力が異なるように、それによって得る経験の価値も異なってきます。いずれにしても、一般的“対象物”への執着は滅されます。ガンポパは、この修行の働きについて次のように語っています。
「発達のステージによって、(精神性と物質性、超越性と現われの)合致についての直観的理解が得られます。このステージを実践する劣った者および普通のタイプの者は、一般的欲求から離れます。そして優れたタイプの者は、自分自身を神(々)として、つまり、五つのブッダ、四つの女神(注1)、十六のボーディサットヴァ(注2)の本質的存在として見ます。また普通のタイプの者は、自己の現実の幻影性について確信し、劣ったタイプの者はより高いものへの関心をますでしょう。」(vi 5a)
(注1)四つの女神(ローチャナー、マーマキー、パーンダラヴァーシニー、ターラー)
は、凝固、結合、温度、動きという四つの物質的機能を象徴する。
(注2)彼らは感覚的認知の、相互作用的なそれぞれの場を象徴し、そのうち十二は一般的意識の世界、四つは瞑想経験に属する。
 しかし、それは発達のステージと完成のステージが全く別である、ということではありません。それらは相互に関連し合い、前者は客観的なプロセスのイメージという要素が強く、後者はその生来的な理解です。したがって、ガンポパは言っています。
「瞑想により自分自身を神々として観ることが発達のステージである。そのような神々は、水面に映る月影のようなもの、また虹や幻のようなものと知ることが、完成のステージである。」(vii 13b)
 このことは個人的にのみ理解することができ、したがって、“輝く光、つまり空の直観”(xi 9a)というような表現は、不完全な言語化または単なる指標であると知るべきです。
 完成のステージは、比喩およびその意味として二重に説かれています。ガンポパは述べています。
「チベットには、ウ州とツァン州を結ぶ街道があります。この街道の右側には、野生のイノシシが、左側にはヘビが住み、道の中央にはゾウが歩き回っています。これら三つの動物は、街道を通ろうとする人を殺して食べます。彼らゆえに人はそこを通って旅をすることができません。しかし三つの動物は敵同士で、ゾウが歩き出すとヘビがやってきてそれを殺し、ヘビが動き出すとイノシシがそれを殺し、イノシシが動き出すとゾウがそれを殺します。互いの恐怖から、三つの動物は動くことができず、そして七日後には餓死しします。この比喩の意味は、人の精神性は街道のようで、覚者の境地、つまり非二元的超越意識に含まれているということです。ヘーヴァジラタントラの第一章にうたわれています。
    至高なる超越意識は身体の中にある。
    それは身体にとどまっていても、身体のものではない。

 このように、道の右側・左側・真ん中には三つの生命力があります。三つの動物が人に旅をできなくしているように、人の精神性の中のこれらは三つの力・・つまりゾウのような情熱・欲望、ヘビのような嫌悪、イノシシのような迷妄・・は、またその中にある超越意識の誕生を妨げています。三つの動物が餓死するように、もしグルの教えについて七日間瞑想するならば、これらの三毒は“非二分”(注)的となります。(xxxii 11ab)
(注)“非二分”(ニルヴィカルパ)とは、一般に西洋の学者が理解しているように、単に認識論的なものではありません。それはむしろ、人がもはや自分自身に対して分離していないような状態を表わします。“二分”(ヴィカルパ)は克服されるべきものですが、決して悪いものとは思われていません。人を一つの解決へとせき立てる一種の対立のようなものと理解するのが一番近いでしょう。タントラは、心を不毛にする(殺す)すべての試みと全く対立しています。逆にそれは、心を真の生命へと至らせることを目指します。カール・ヤスパースは言っています。
「主体と対象に対峙され、心は観念の中に生きる。実存は超越と関連して立つ。しかし環境も観念も超越も、図式や記号による客体化を通した意識を通してのみ認識の対象となる。したがって、わたしの知るものとは、常に対象的意識であり、よって制約されている。しかしそれは有限であっても、超越へと向かうジャンプ台へとなり得る。」(前書 P29-30)。
 ガンポパも同様な考え方を展開していますが、彼は知識のジャンプ台的性質を強調しています。
「我々がすべてを一様に扱うときに、二分、非二分が問題になる。しかし二分そのものはダルマカーヤである。」(x 34a,xxxi23a)。
 二分そのものがダルマカーヤであるという言葉は、リアリティの場的特性という観点からも理解されます。ガンポパはさらに続けます。
「二分を恩人として認識することによって、人はそれを道とする。」(xxvi 15a)
 ここで「それを道とする」とは、明らかにヤスパースの言う“ジャンプ台”を指しています。したがって、二分をジャンプ台として利用せず、それを絶対的で最終的なもののように思って、そこにとどまる者だけが、それにどうしようもなく巻き込まれ、その苦しみを受けます。ガンポパが言うように、
「その見解を哲学的努力によって変えることのできない者には、二分がある。二分を利用する者は、サンサーラに対して絶望しない。」(xi 9b, x45a)
 自分自身を、亡霊のようにとらえどころがなく、恐怖させるような、神々や女神として認知することは、ある意味では、第二の中間状態、つまり夢見の中間状態に至るための準備的ステップです。前に指摘したように、夢とはイメージの流れへの消極的服従ではありません。それは覚醒時と同じほどにリアリティであり、また、対象をより明確に定義する、より大きな可能性さえ持っています。したがって、夢の“身体”とは、肉と血の身体ではなく、潜在性の身体であり、C.D.ブロードの言葉でいえば、それは「実際の経験の比較的永続的な後あと効果であり、また「それに続く経験を創造し、修正する比較的永続的な“原因・要因”である。つまり「経験的に始められた経験の潜在性」(“哲学と肉体的研究”)なのです。
 ほとんどの夢は、目覚めの直前と、経典では夢見に先行するといわれている、深い睡眠期間のあとの間に起こることは、よく知られている事実です。それゆえに、夢の中間状態は、夢のイメージの幻惑的遊戯が始まってから、眠りから目覚めるまでの、さらに短い期間に限定されます。誕生と死の間の中間状態で使うテクニックが、人の眼をより広い領域へと開き、その客体化する傾向を取り去るように運命づけられているように、これは人がもの【傍点つき】対象物ではないからですが、夢のテクニックもまた、人に自己の可能性と潜在性を悟らせるためのものです。したがって、ガンポパは言っています。
「今日何か見世物を見たなら、その夜競馬場をレースする馬や、吹き鳴らされるホラ貝や、風になびく旗などの夢を見るでしょう。それと同様に、眠る前にそうしようと固く決意するなら、その力によって、夢見のとき、その夢は夢であると認識できるでしょう。そして犬や女性やその他の出来事を夢に見るとき、それらは夢の犬であり、夢の女性であり、夢の出来事であると考えるでしょう。」(xxyii 13b)
 このような経験によって、人は「経験的に始められた、経験への潜在性」のある世界について、知るようになります。もちろん、そのような潜在性がどこかにある、というのは、比喩的表現です。せいぜいいえるとしても、“原因・要因”としての潜在性は、「当惑」という表現の中に包含され、また人が自分自身から分離され、敵対する力の世界の中にいることに対し、主要な責任があるということぐらいでしょう。しかし、情熱・欲望が克服され、至福感へと“同調”されるように“当惑”、つまり自己分離も、“非二分”との同調によって克服されることができ、またそうされなくてはなりません。夢見状態は、この点で特に有益なように思われます。なぜなら、夢の中では、覚醒状態での制約が大部分取り除かれており、それは自己の存在を実現するのを容易にするからです。このことは、次のことを考慮すると、よりよく理解できるでしょう。(夢と幻の魔法は、同じレベルのものとしてよく言及されますが、)
現前に現われるすべてのものを夢、または魔法として経験することによって、人はお互いの交わりによって喜びを得ている、自己の現存を、何か究極的で確かに信頼し得るものと考えるという、習慣から解放されます。それはまた、自己の現存や“世界内存在”を当然なものと思うという、自己欺瞞からも解放させます。そして人は、この魔法が生じるところを探ろうとします。それを究極的なものと思うことは、アルフレッド・ノース・ホワイトヘッドが“置き換えられた現実性の誤謬”と呼ぶものと衝突することを意味します。
 最後に、人が深い眠りの中で、単に仮定された空の中へ消滅するのではなく、自己がその力を得て生きる源である、原初の輝かしい光への入り口を見るとき、彼は死への恐怖をなくします。これは彼自身の究極的本質が輝き出たものです。なぜなら、彼はもはや死に対するどんな概念も持たないからです。死とは決して外から観察されるような、単なる生物学的停止ではありません。それは、可能性の中間状態に関するあとの説明が示すように、また西洋の実存主義者たちが適切に指摘しているように、哲学的分析や表現のみに開かれている、よりはるかに内面的な現象なのです。死のとき、我々は自らが課しているかせ【傍点つき】、“世界内創造”の真ではない構造から解放されます。ゆえにタントラ的意味において努力し哲学的に思索しようとした瞬間に、我々は死ぬのです。死によって、我々は純粋超越の生命を得ます。このような意味においても、ニルマーナカーヤ、サンボーガカーヤ、ダルマカーヤは三つの神秘的なもの【傍点つき】ではなく、むしろそれらは存在の様式であるといえます。そのような様式は、ジョン・ワイルドが言うように、決定的な特性や属性ではなく、実存的様相、活動的で動的な存在の様式であり、生全体を通じて保持されるべきものです。また、これらの様式は、人によって創造されたものでも構築されたものでもありません。それらは、人間存在そのものと、その必要な形態や限界に基づくものです。この存在は、それが本当にそれ自身であるときには真であり、それが歪められ、または疎外されているときには、真ではありません。ワイルドは続けます。
「また、これらの様式のそれぞれは、実践的要素とともに理論的要素を、行為の道とともに理解の道をも含んでいることは、注目に値します。」(前書 P262)
 したがって、これはわたしがよりよく理解すればするほど、わたしの行動は人間らしくなることを意味します。なぜならば最も人間らしい形は慈愛と哀れみだからです。ガンポパは言っています。
 「輝かしい光への集中がダルマカーヤ、単なる現われとしての神であることへの集中がサンボーガカーヤ、慈愛と哀れみ、解脱への集中、そしてしん悔いにおける利他的行ないが、ニルマーナカーヤである。」(xiy 5b)
 存在の実現としての夢見は、個人の覚醒状態と密接に関連しているのみならず、眠りの重要なパートをなしています。実際、両者は互いに独立したものとして、はっきり分けることはできません。眠りはしばしば“死の弟”と呼ばれ、二つの類似性はガンポパによっても指摘されています。このことは、重要な考えを導きます。つまり、夢や眠りが存在様式であるならば、死もまた存在現象になるということです。存在様式としての死は、第三の中間状態、つまり、可能性と潜在性の中間状態と関連しています。ここでは人間が存在するための形状は“心・身体”と一般に呼ばれています。この翻訳語は哲学的には正しいかもしれませんが、ほとんどの同様な翻訳語同様、その意味を全く正しく伝えてはいません。yid(manas)とは多くの定義が可能な仮定というよりはむしろ直観による概念であって、統語学的に示される一般概念ではなく、暗示的に示される特殊概念です。F.S.Cノースロプが言うように、“人が、ある概念が言及する内容を直接的に悟り、経験しない限り、どのような統語(論理)学的説明もその意味を正しく伝えない”のです。(前書 P448)しかし、それを明確にするための一応の試みは必要でしょう。パドマ・ガルパは、ティローパが“人間の中で最も微細なもの”と言う、その概念(manas)を次のように説いています。
 「それは、二分、情緒性、活動の性質を持った三種の光であり、サンサーラを創造する。ここでの創造物とは、陶器職人によって作られた後に、独立的に存在する陶器のようなものではなく、むしろ陶器に変わり得る粘土のようなものである。」(Sphzg 10b)
 そして彼は、それら三種の光が身・口・意の行動パターンに発達しようとするとき、それらの状態に対して、yid-kyilus(マノーマヤカーヤ)という用語が適応されると説いています。これはどのような意味においても“心”とは呼べないでしょう。したがって、わたしはそれを、人間のすべての活動の土台であるという意味で、「人間定数【?】」と呼ぶことを提案しています。しかしまた、この“定数”とは変わらないものではありません。ある意味でそれは、過去の経験を持ち込み、また三種の光の強さの変化に応じて、多様に変化するものです。したがって、パドマ・ガルパは言っています。
「もし三種の光のいずれかが優勢になれば、残りの二つはその従者となる。」(同 15b)
 これは実際の生活における気性の違いを説明します。パドマ・ガルパは、また別な非常に重要な発言を説明します。パドマ・ガルパは、また別な非常に重要な発言をしています。つまり彼は、この人間定数は、「精神性の実存、つまり輝かしい光と、経験的に始められた経験の潜在性の混合である」(同 10b)と述べています。もっとはっきり言うならば、人は二つの要素から構成されているということです。一つは、決定的な場としての要素で、それはやがて一つの個から別の個を区別します。もう一つは非決定的ですべてを包含する場です。哲学的に言えば、人間定数とは、所与と実存の中に同時に現存することを通しての超越です。人間定数の、まさにこのような場的特性のゆえに、人は、超越的であり、輝かしい光であり、覚者の境地の実現(悟り)へと導く、非決定的ですべてを包含する場に眼を向けることも、また決定的な場に眼を向けることもできるのです。役者の持つ様々な相違は、時間の中の無常なる事象であって、それは我々をやがて苦悩へと導き、多種多様の世界の中に巻き込みます。このように人間定数の経験は、解脱を得るための無類の機会です。ガンポパはこれらの実存的諸現象の目的は、学者の境地の覚醒である、と強調しています。
 さて、すべての相違は、誕生のときには異ならないものから現われ、死の中へとまた消えていきます。したがって、異ならない要素は、すべての相違に先行するのみならず、異なる要素はその存在のために異ならない要素を必要としています。ガンポパも、死の瞬間に現われる、輝かしい光は、人間定数の実存的諸現象に先行すると言ってこのことを認めています。しかしこの先行性は独立した存在として与えられるのではなく、人間定数の必要不可欠な一部分であると理解しなければなりません。先、後の区別をすることは、個人の側がその全体的な特質をとらえ理解しないことに責任があり、それは統合されたものを分裂させることです。
 人間存在の統一性を取り戻すことが、この中間状態の主要な働きです。誕生と死の間の中間状態においては、情熱。欲望が至福へと同調され、対象やそれらへの空しい所有の試みからほどかれました。夢見の中間状態においては、当惑−過ちが非二元へと同調されなければなりませんでした。また、両者とも特定の修行によってその同調は容易になりました。同様に、この第三の中間状態においては、反感−嫌悪が透明な明るさへと同調されなければなりません。ここで、どの仏教徒にも馴染み深い、情熱−欲望、反感−嫌悪、当惑−過ちという言葉が何を意味するかを、正しく理解することが、極めて重要です。ほとんどの学生は、これらの感情を乱す力は、人間の本性に固有なものであり、人間とはつまるところ、貪り、嫌悪し、惑わされるものであると考えるでしょう。彼らは、これらの力は、ちょうど飢えのように、いかなる状況においても、それぞれの内的プロセスによって、自己を主張する、本能または根本欲求であると考えるかもしれません。しかしタントリズムは、そのような見解を認めません。タントラは、これらをほとんど避け難い環境によって呼び起こされた潜在性である、と考えます。それらは、全く環境的刺激に依存しています。このことは、理論と実践の両方において大きな差を生み出します。これは理論上は、熱情−欲望、当惑−誤り、反感−嫌悪は全く呼び起こされる必要はなく、よって真正なる存在はずっと保存されることができたということを意味しています。しかし実践的には、これら三つの力は、本当の意味で純化として昇華され得ることを意味しています。しかし、多くの精神分析家が“昇華”として理解しているものは、どう考えても、そう呼ぶにふさわしくありません。避けられない憎悪や暴力を社会的に無害な目的へとそらすことは、決して昇華ではありません。(注)

(注)イアン・D・サッティーの“愛と憎しみの起源”の中の、フロイド的概念への批判を参照(P16へ)。

 情熱−欲望を昇華する機会は、発達のステージの修行であり、当惑−誤りの場合は、夢見でした。前者において、それらは至福へと同調・融合され、後者においてそれらは非分離へと同調・融合されました。反感−嫌悪が、原初的な輝く光あるいは人間定数の非確定の場の性質へと昇華、同調・融合される唯一の機会は、人が自らを形ある人間存在の中へと一時的に入る瞬間です。つまり、物理的にいうならば、子宮内に宿ろうとする瞬間、仏教タントラの経典でいえば、“中間的存在(ガンダルヴァ)”が性交中の将来の両親を見るときです。この瞬間に、子宮に宿る者は、もし男性になるのであれば、母への執着、父への嫌悪を持ちます。女性になる場合は、その逆です。この場合、第三の中間状態で働く“反感−嫌悪”とは、すべての反応様式を含む、より広い意味として理解すべきですが、敵対心的要素が優勢です。しかし、この中間状態は、人間の存在実現の一部分ですから、精密生物科学がいうように、懐胎の瞬間はいまだ神秘の中に覆われていると考える必要はありません。我々は、この性的敵対心としての“嫌悪”を日々の生活、特にカルマ・ムドラーと接するときに見出します。しかし、嫌悪や敵意は人間の統一存在を分裂させるものです。ゆえに、ガンポパは我々に警告しています。
 「人はカルマ・ムドラーに対する敵意や嫉妬を示すべきではない。人は実体の幻としてのすべてのものに対して関心を持つべきである。また、人は遭遇するどの対象にも執着すべきではない。」(yvii 45)
 このように、死と生、夢見、可能性と潜在性という三つの中間状態は、別々なものではないことは明らかです。それらはすべて、同じ一つの存在のそれぞれの様相です。それらを一つの統一として見ることができなければ、我々はそれらを独立的なものと考え、真ではない状態に陥ります。真の存在を取り戻すのに、不可欠な働きは、それぞれの中間状態を互いに同調させることです。したがって、ガンポパは言っています。
「生と死の中間状態は夢見の中間状態に同調され、また後者は前者に同調されなければならない。そして両者は潜在性の中間状態に同調されなければならない。」(xvii 4b)
 換言すれば、各中間状態は人の全存在の一つの様相であり、各相はそれぞれのレベルにのみ適応される法則によって支配されているように見えますが、どれ一つとして他から独立したものと見なされるべきではないということです。
 我々の見てきたように、人間定数は場的特質を持ち、それは超越的様相においては、日の出直前の雲一つない空の輝かしい光のようであり、確定的な様相においては、情熱−欲望、反感−嫌悪、当惑−過ちという反動潜在力より成っています。これらの潜在力は不安定な特質を持っています。それらはもし制御されずに発達すれば、ある生の形態の原因・要因となります。情熱は不幸な霊の状態を生みます。彼らは飽くことなき欲求を持ちながら、その達成は常に挫折させられます。嫌悪は地獄の状態、苦悩の生、苦を与えることを生みます。当惑は獣や動物の状態に導きます。これら三つのうちで、幻惑はより継続的で情熱と嫌悪は比較的一過性です。人は比較的少ない努力で、苦悩や欲求不満から回復できるかもしれませんが、当惑の闇を打ち破り、無智の状態から超越的な輝かしい光へと入るには、ほとんど超人的な強さが必要です。パドマカルポが言うように、後者は、グルの教えを受け、この仕事を一生の奮闘課題とした真の哲学者のみに可能でしょう。
 これらの潜在力は、たとえ昇華されたとしてもある落とし穴となります。情熱は感覚の世界の神々、嫌悪は純粋な形状の神々、当惑は無形状の神々の状態をつくります。いずれも消極的にしろ積極的にしろ、壊れ去るものであり、また存在の統一性に対する否定です。別な言い方をすれば、自分自身を例えば動物か神々として経験することは、自己全体の本質における超越を無視することです。至福、輝き、非二元という言葉が何か意味を持ち、人が実現する存在基準となり得るのは、超越において、また超越を通してのみです。これらの考察は次のガンポパの短い要約を理解する助けとなるでしょう。
 我々の存在の中に、情熱、嫌悪、当惑が見出される。情熱によって霊、嫌悪によって地獄の住民、そして当惑によって獣や動物となる。これらの三つの毒によって、我々はサンサーラの中に縛られ、永遠に輪廻しているが、ナーローパの教えにしたがって、それらを道とすれば、我々がサンサーラに生まれることはない。情熱は至福へ、嫌悪は輝きへ、当惑は非分化へと昇華されなければならない。しかし至福に執着することによって(つまり、それを一つの指針と見ずに、何か究極的なものと思うことによって)我々は感覚世界の神々となり、輝きへの執着によって形状界の神々、非分化への執着によって非形状界の神々になる。このことをグルによって理解することにより、我々はこれやあれの経験は自分自身の精神性(の一様相)であると悟る。そして自己の精神性は始まりのないものであると理解することにより、(常に始まりがあり、したがって終わりのある)ある特定な経験を願望しなくなる。そして我々は至福の自らの現存をサンボーガカーヤ、輝きをニルマーナカーヤ、そして非分化をダルマカーヤとして語るだろう。これら三つの様式あるいは存在の規範の不可分性が“大いなる至福”である。」(xxxii 30a)
 中間状態を扱うすべての経典の中で、死は空への道としてよりも、むしろ視点の変化、移行として詳しく述べられています。それは、疎遠と放浪の期間の後の、一種の帰郷です。タントラの象徴表現によると、それは「母と子の出会い」と呼ばれています。“母”とは死の瞬間に輝く、すべてを含む輝く光です。いわば彼女は、人間定数の反動潜在力にその起源を持つ確定的反応の歪みとそれから解放された光たちを、受け入れようとして待っています。後者の光も、望ましい条件下においては自分が融合する光と全く異ならないものですが、それは“子供”と呼ばれます。この象徴には深遠な意味があります。それは“人間の本性の中の感情的要素”として不適切に表現されているものに、直接言及しています。覚者の境地、つまり輝かしき光は“大いなる慈悲”として特徴づけられ単に感情的な一般的な哀れみとは区別されています。それは打算的なものではなく、無制限に自発的に広がるものです。“子供”がほとんどそれに気づかなくても、“母”は彼の内でもまた生き続けます。それゆえにこそ、人つまり“子供”は慈悲深くなり得、そしてニルマーナカーヤと呼ばれる存在基準を実現するチャンスを与えられるのです。そして、残りの規範にも関心が向けられたとき初めて“完成”が可能となります。(注)
(注)もしあらゆる示唆にもかかわらず、覚者の境地へと目覚めることができず、煩悩性の中へ陥るようなときには、不幸な誕生の形態を避けるためにのいくつかの示唆が与えられる。これらの事実は、W.Y.エヴァンス−ウェンヅの『チベット死者の書』によって知られるようになった。

                  付録


 以下のページでは、Bのみに含まれている、12の教えの完全なテキストが掲載されている。一方、注K、pp273 sqqでは、テキストAの3つの実例、つまり、 グリュンヴェーデルが、彼の編集と翻訳のために使ったものの装飾書体の版、及びテキストBの装飾書体の版で、その完全な翻訳はこの本に収められている。これらが、比較のために掲載された。
 チベットの装飾書体は、綴字の過ちに満ちている。さらに言えば、アルファベットのnの上点とdは、印刷でも、容易にお互いをとり違えてしまう。これは、これが起こるところはどこでも、そこに異文(異文間で相違している文句)があるということではない。この主題を扱っているものになじんでいる者なら誰でも、正しい綴を知っている。こういう理由から、テキストの、A.グリュンヴェーデルの音訳の間違いは、それほどあげられていない。しかしながら、彼の翻訳の二つの例は、実際の、あるいは意図的な誤読のために、彼はこのテキストを理解していなかったということ、また他の理由から、彼の翻訳はまったくの幻想と見なされなくてはならないという、過酷な判断の実証として取り上げられた。。
 テキストBの木版は、ところどころその判読が難しい、ということは別にしても、綴字の矛盾に満ちている。原則として、わたしはこれらの矛盾が、テキストで起こるまま取り上げたが、専門用語は、他の綴字の正しいテキストを基にして、次のように直した。



注A
三つのカーヤ、ダルマカーヤ,サンボガカーヤ,ニルマナカーヤは、ダルマカーヤとルーパカーヤに包含することができ、両者はひとつの統一体を形作る。ダルマカーヤは、ジュニャーナ・ダルマカーヤの短縮型で、すべての先入観と前提をはぎ取られた時、人の中にある 知的様式(あるいは純粋知性様式)を意味する。この認識様式は、常にそれ自体を、「他者とのコミュニケーション」(サンボガカーヤ)として、また意義深い、「世界の中にあること」(ニルマナカーヤ)として現す操作様式(ルーパカーヤ)とひとつである。ある意味で、操作様式は認識様式を前提としている。他方では、認識様式はそれ自体を表現するために、操作様式を必要とする。象徴表現においては、ダルマカーヤはドルジェ・チャンとなり、サンボガカーヤは、五つのいわゆるディアーニブッダ(ギェワ・リクナ)となる。ダルマカーヤとサンボガカーヤの親密な関係のため、ドルジェ・チャンは、ディアーニブッダとは別の、何らかの神格ではなく、primus inter pares プリムス・インテル・パレス(同僚中で首位に立つ者)にすぎない。これは、dban (バン)という言葉で表されるが、これは、ダクポ・ギュルパを短くした言い方で、「(他者の中で)主人となったこと」という意味を持つ。それぞれのサンボガカーヤは、知性的なるもの(the noetic 理性的なるもの;純粋思惟;認識)と 伝達するもの(the communicative)の統合された単一体を表す。これは、ドルジェ・ネ・ジョル(ヴァジラヨーガ)という言葉によって示される。仏教においては、ヨーガが、ひとつの絶対的なもの(an Absolute)に飲み込まれることを意味することはけっしてなく、絶えずthe noetic (プラジュニャー)と、the communicative(ウパーヤ)の合一を示し、かくして身・口・意の調和を強調する。この調和はヴァジラと呼ばれる。なぜならこの言葉による伝達の界には、独断的な視点ではなく、偏見のない視点(トゥク)、空しいおしゃべりではなく、本物のコミュニケーション、そして、大衆社会を構成する無名の人間ではなく、意義ある「世界内存在」(ク)があるからである。意義のある「世界内存在」はいかなる限定された形にも制限されない。ナーローパの場合、それは彼がその中に、やはりプラジュニャーバドラーとして知られた、彼の師、ティローパを見た、様々な形のことを指している。ナーローパとティローパの関係は、弁証法的に理解されるべきものである。ナーローパの活動として現れるものは、ティローパと、ティローパを通じたヴァジラダラのものであり、逆もまた真である。空間とダルマカーヤを等しいものとすることはカギュパの作品で頻繁に見られることである。ゲルークパは次のような理由から、これに反対する。すなわち、リアリティーは、真実であり、存在するものと、真実であるが存在しないものとからなる。ダルマカーヤは、真実であり存在するもの、故に一時的なものとして分類されなくてはならない、一方空間は、真実であるが、存在しないもの、それゆえ永遠である、として、分類されなければならない、というのが、その理由である。

注B Nothingness
シューンヤターと名付けられるものは、わたしたちが考え、感じ、執着するものすべてから、あまりにもかけ離れているので、比較すると、単なる「nothing 無」となるのである。一方、わたしたちの「empty 空」と「void から、何もない」という言葉は、その中に何もなく、そして、感覚が知ることができる限りにおいて、絶対的にから (empty)なのである。現在では、シューンヤターは、その中に何もない何か、ということを意味することはほとんどなく、考慮されているそのものの存在を、否定する。サンサーラとニルヴァーナが、シューンヤであると言われる時、これはそれらが、空っぽの容器のようなものであることを意味しているのではない。サンサーラとニルヴァーナは、経験の解釈として、存在し、それ自身における物として存在するのではない。次のような区別がを心に銘記しておくべきである。すがりつくものが、何もなく、あらゆるものがわたしたちから退き、そして自分自身がまったく空虚さ(emptiness)の中に没入してしまった、という、不快な感じを持つことがある。そしてそのような経験が過ぎてしまうと、わたしたちは、「ああ、あれは何でもなかった。(it was nothing)」というのである。しかし、ここで使われる、nothing は、慰めになるものとはほど遠いもので、後で考えて、恐怖の対象となるものであり、「emptiness」と、「void」という言葉の方がずっと適切である。実存主義者たちが、特別な注意を向けたのは、この種の何もなさ nothingnesss である。マルティン・ハイデッガーが、自著「存在と時」の187ページで、この「恐ろしさによってあらわにされた nothing」を「完全な nothingness」への道と宣言する時、仏教のシューンヤターについて何かを見抜いたように見える。スーンヤターは、否定的にしか示されることのできない、肯定的な要素である。つまり、これではない、あれではない、ものではない、nothing というふうにである。言語学の専門家の、「void」あるいは「emptiness」を使った、シューンヤターの無差別な訳は、ラン・トンとシャン・トンと呼ばれるものの間の哲学的区別を不明瞭にしてしまう。後者は、究極的な真実(リアリティ)は、すべての相対的なものの空「void」という考えを表現している。それが空っぽにされた後、何かが残る。ここでの「void」という訳は、許される。ラン・トンというのは、究極的な現実はそれ自体から空「void」であり。それ自体において nothing であるという意味である。これが、ナーガールジュナとマードヤミカの見解である。自著「三つの要点」103pと、久松真一郎著、「東洋の無の特徴」65p sqq. 参照。

注C Sutras and Mantras
タン・ジュー(デルゲ版)にはナーローパの次のような著作が収められている。
(サンスクリットの中黒は、次に続くことを示す)


シュリーヘーヴァジラサーダナ 「ペ・ギェパ・ドルジェイ・ルプ・タプ」
ラトナプラバー 「リンポチェイ・オ」
パラマールタサングラハ  「バン・ドル・タンパイ・レセ・ドンダンパナーマ・ドゥパ」
セーコーデーシャティーカー
エカヴィーラヘールカサーダナ 「パーヲ・チクペ・ヘルカイ・ルプ・タプ」
シュリーグヒャラトナチンターマニ「ペ・サンワ・リンポチェイ・イ・シン・ノルウ」
ヴァジラヨギニーサーダナ 「ドルジェ・ネジョルマーイ・ルプ・タプ」
ダルマービシェーカ・ 「バンチョ・テンレー・ロドク」
マールガサンタティ
シュリデーヴィーカーリーサーダナ「ペー・ラハモ・ネクモイ・ルプ・タプ」
ヴァジラギーティ 「ドルジェイ・ル」
(二つの詩に同じ名前がついている)
パンチャクラマサングラハプ・ 「リンパ・ナ・ドゥパ・セーワ」
ラカーシャ
シュリーチャクラサンヴァロ・ 「ペー・コルロ・ドンパイ・マンナ(ク)」
パデーシャムカ・カルナパラム・ 「シェーネ・スニャン・ドゥ・ギュッパイ・
パラーチンターマニ イシン・ノルブ」
カルナタントラ・ヴァジラパダ 「ネムギュ・ドルジェ・シク・カン」
シャタークサラバッターラ・ 「ジェツン・イゲ・ギャパイ・セムパ・
カサットヴァ スンギ・ゴンパイ・タブ」
トラヤバーヴァナ
(サンスクリットの題なし) 「ナーロ・パンディタイ・ル」

<注釈D> Confirmation
 エンパワーメントとしての役割も果たしている、4つすべての確認についての論議は、全体としてはここに述べたものと一致するが、以下の箇所で見いだされる。Dchlsp 41a sq.;Sphzg 68b sqq.;ガンポパ x.18a;xvii.3b sq.;xxvii.9a;xxviii.3b。ガンポパは、彼の哲学に特徴的な dban ベン(アビシェカ)の説明を述べているが、わたしはそれを他の箇所では見つけていない。xxxi.27bで、彼はdban ベンを「支配下に入り、リアリティーに支配力を行使させる、人間の自分に対する分化」と定義している。これはまさしく、dbanと名付けられたもの、「確認」、「エンパワーメント」が狙いとするものである。
 「壷」の確認の名称は、入浴のとき、壷から自分自身に水を注ぐ東洋の習慣から取ったものである。このようにすると、よごれは全部洗い流されて、その後は別人になったような感覚を覚える。それと全く同じように、Padma dkar-poは、「確認」を説明するときに、2つの現象を結びつけている。loc.cit.68bでこう述べている。「abhisinc アビシニュクは洗い落とすという意味であり、身体・言葉・心のよごれ、そして、人間を悟りに適さなくする意識のよごれを、洗い流すことである。アビシェカ abhiseka は基礎を与えるという意味であり、人間が悟りに適するように、汚れた身体・言葉・心、そして意識を純化する力である。」
 その目的は、人間を高めること、単なる物体でしかないという感覚から人間を解放すること、人間に本来備わっている神の特質を悟らせることである。実存主義の哲学の言葉で表わせば、人間は、世界の中の不確実な存在という地位から、世界の中の確実な存在という地位に変えられる。このとき人間は自己を、邪悪な悪魔の言いなりになっている惨めな生き物としてではなく、神として見る(lha、デーヴァ)。そして、自分を取り巻く世界を、嘆きの谷としてではなく、神の住居として見る(gzal-yas-khan、ヴィマーナ)。自分自身や他の人たちを神々として見るとは、神格化するという意味ではない。それは、変貌の感覚を示している。
 この確認および態度の変化に関係した特異な哲学的見解は、Padma dkar-po,前掲書70aによれば、感覚単位が事実と一致する唯心論的な命題である(sems-tsam rnam bden)。

<注釈E> Discrimination - appreciation Confirmation
 ガンポパ,xxvii.9aによれば、この確認とは、カルマムドラー(ses-rab、プラジュニャー)との結合を通して超越的な意識(ye-ses、ジュニャーナ)を悟ることである。同様に、Padma dkar-po,前掲書69a sqq.で述べている。「識別力のある-正当に評価する力のある認識(ses-rab、プラジュニャー)がカルマムドラーである。彼女と一体化し、二つの器官(男性と女性)の接触によって、個人主義的な態度(文字どおりには、物質性を生み出す力(khams、ダーツ))が分解され、みなぎる活力の感覚が全身を駆け抜けるのが経験されるとき、16種類の喜びが感じられる。この喜びが超越的な意識(ye-ses)の真髄である。このプロセスの統一性は、識別力-理解に加えて、その力によって得られた、この超越的な認識である(ses-rab ye-ses)。」
 ナーローパによれば、カルマムドラーは実際の女性である。このことはPadma dkar-poによってはっきりとPhgdz 20bに述べられている。これは、男性が女性との間に持つ関係が、単なる生物学的なもの、緊張の解放、局部的に抑制された衝動をやわらげることであるという意味を含むと理解されてはならない。これは、ずっと「投影的」であり、より広い世界に対して可能な方法を浮かび上がらせる。その関係は単に生殖によるものではない。個人全体、身体および心と関わっている。「識別力-理解」としてカルマムドラーを決定することは(ses-rab、プラジュニャー)で、人の彼女との関係における認知の様相を強調し、物としてのカルマムドラーからそれを区分する。物としてのカルマムドラーは、わたしたちの欲望と意図の対象であり、通常の対象の思考において非常に優位になるので、わたしたちは、男性と女性の間に保たれる関係の適切な理解によって、それから解放されなければならない。カルマムドラーが肉体的緊張の解放以上ものであると、明確に明らかにしている、もう一つの名称は、「使者」(pho-na)である。この心理学的現象は西洋心理学において承認され、C・G・ユングによって「アニマ」として記述されている。「使者」という語は、純粋に心理学的な文脈において使用され、一種の感化を与える力である。これは、ここで論じられている確認がねらっていたものを示している。人はいつも、解決しようと努力しているある事態の中に、自分が置かれていることに気づく。これは、実存主義の思想家によってはっきり承認されている。わたしたちが様々な状況にうまく応じることができるのは識別の力によるものであるが、しかし、彼らは、タントラの賢人と違い、その識別の力を考慮しない。先に述べた2つの確認が、真の世界内存在と、、他の人たちとコミュニケーションを図ることをねらっていたように、確認の一つは、いわば、(常に身体-心である)身体(lus)に関与しており、別の確認は(最も手軽な意志伝達の手段として)言葉(nag)に関与し、第三の確認は「心」(yid)、人が感覚および実際的理性を認知する力を扱う。従って、この確認は実存主義の思想家の脱落を修正し、ジョン・ワイルドが実存主義思想の批評「実存主義の挑戦」p.218の中で、非常に適切に記述しているものをすべて包含する。その記述は次の通りである。「人間は常にある状況の中に存在し、自分を取り巻く人と力の連結のただ中で自分の傾向を満たそうと奮闘している。そしてその傾向は、心持ちや感覚によって、少なくとも混乱した状態で明らかになる。彼は与えられた状況に応じるための賢い計画を練るが、一つが解決する間もなく、次の状況の中にいる自分に気づく。他のすべての究極的限界のように、人間存在のこの状況性は、異質の破壊的力にあるがままに取り巻かれた人間の本質の、有限さともろさを露呈する。しかしこれに加えて、個人が、他のすべての存在の本質に沿って流れる束の間の連続と同じ流れの中で、要求や欠如を満たそうと常に努力しながら、不完全な偏向的方法で生きていることを、その状況性は表わしている。またそれは、自らの存在と、周囲の他の作用の存在の明示を可能にする感覚および実際的理性を認知する力を、彼が生まれつき所有していることを表す。実存主義者の説明から主に抜け落ちているものは、理論的洞察の力に対する、あらゆる明快な言及である。彼ら自身が実証しているように、その力によってわたしたちは、これらの状況が生じたときに、それを記述し分類し解明することができる。そして、もしその力を本気で受け取ることができるならば、わたしたちは、それによって自らを確実な行為へと導くこともできるであろう。」

注F. Motility
現在行われているように、この専門用語を「生命の風」や「生命の息」と訳す事は不適当である。Sphzg 38aでは、これは、「全ての実相を動かす事」(g'yo-bar byed-pa)と定義されており、この意味は、ルンという言葉がどこで使われていても、存在している。これは理論的に重要なので−−タントラ仏教には、二つの面がある。形而上学と生き方、そして、理論と実践である−−わたしはこれを「運動性」と訳す。この言葉は、実際の運動に関係なく、動く能力を意味するからだ。ある意味では、運動性は、「輝く光」(プラバースヴァラ)とか「超越した認識」(ジュニャーナ)とか「精神性」(チッタ・エーヴァ)とか言う言葉で呼ばれる究極的なものの一面である。(中略)理解して頂きたいが、これらの言葉は、実体の名前ではなく、単なる指標、働きを表す転用語である。これはガンポパxxi. 3aによって極めて明らかにされている。運動性として見られた究極的なものは、「非二分化の運動性」(rnam-par rtog-pa med-pa'i rlun)という言葉でも呼ばれ、そのようなものとして、それは、表に現れる反応を前意識的に決定する、三つの反応の可能性(snan-ba gsum)の媒体である。三つとは、情熱(ラーガ)、反感(ドゥヴェーシャ)、当惑(モーハ)であるが、その明確な形をとっておらず、拡散したパターンとして在る。この非二分化の運動性は、どんどん特殊化し、その特殊化した状態では、「二分化の運動性」(rnam-par rtog-pa'i rlun)として知られ、拡散したパターンによって告げられた、表に現れる行動における明確な反応の媒体である。現代の言い方では、これは、意識的な行動は、運動活動中に進化するという事を意味する。
 もう一つの区別すべきものは、人間の存在の中心にあり、創造的な配置活動の時に、中央の通路(アヴァドゥーティ)を動く「超越した認識」である。この機能において、これは、「認識の運動性」(ジュニャーナヴァーユ)として知られ、人間の領域と、それがsGra-can(ラーフ:インド占星学の用語)として知られている宇宙のレベルの両方で働く。同様に、非二分化の運動性が二分化の運動性になると、認識の運動性が、右と左の通路(ララナーとラサナー)に広がり、この運動中に「活動の運動性」(カルマヴァーユ)として知られるようになる。この活動を通じて、主体と客体への分裂が生じる。右の通路(ro-ma)を通過すると、それは、客体の極を立てる。この活動において、それは、「客体を作り出す運動性」(gzun bskyed-kyi rlun)として知られており、象徴的に、太陽とも呼ばれる。左の通路(rkayn-ma)を通過すると、それは、主体の極を立て、象徴的に月と呼ばれる。「主体の運動性」とも名づけられている。この、ラーフ、太陽、月という三つの面から、五つの主要な形の運動活動が生じ、調和し維持する生理学的な体系を形成する。その五つとは、プラーナ、または、生命力一般、排出と生殖の体系と対応しているアパーナ、T.バロウが「科学と人間の行為」407頁で、「記号学の体系」(言葉と伝達を容易にする)と呼んでいるものを形成するウダーナ、消化の体系と対応しているサマーナ、空間での動きを可能にしている筋肉の体系であるヴィヤーピンである。この五つの体系から、運動の活動としての、五つの感覚の知覚対象が導き出される。以上がpadma dkar-poがSphzg 38a以降と、Zmnd 71a以降,95aその他、で長々と論じている事の要約である。仏教の概念は、精神生物学の発見と大いに一致しているという事に注目してみると興味深い。感覚による認識は運動の器官equipmentを通じて可能であるし、また、ジャドスン・C・ヘリックが、「人間性の進化」340頁で述べた、の言葉を借りると、「感性と運動性は、知覚過程に同じくらい必要不可欠な構成要素である。個人が獲得できる知覚知識の量と質は、利用できる感覚と運動の器官による」のだ。「意識は行為の中に生じ、運動性は、心の苗床である。」(262頁)また、チャールズ・シェリントン卿の「本質における人間」を引用すると、「心、認識可能な心は、運動行為と関連して生じるように思われる。運動の統合が進歩し、運動行為が漸進的に発達するところでは、心も漸進的にに発達する。」(213頁)、「能動的なものとしての運動活動が、幼児の心を最も早い時期に養う。」(193頁)、「運動行為は認識可能な心の揺りかごであるように思われる。」(324頁)とある。他に注目すべき事は、ルン(ヴァーユ)が、呼吸法に関連して使われるときには、実際の呼吸を表さず、身体の現実の、または、想像上の部分の感覚の、知覚と興奮を表すということである。(ガンポパ, xiii. 6a; xvii. 2a)

注F. Mudra
 本文では、shes-rab,プラジュニャーである。その説明は「物理的」世界と「精神的」世界を行ったり来たりする。ここでの、超越した機能(Uberleitungsfunktion)としてのshes-rabの意味は、非常に明快である。この重要な言葉は、現在、「智慧」と訳されているが、これは、仏教心理学の枠組みの中における、その位置を極度に無視している。知性(shes-pa)は二つの特質を示す。一つは、より高い段階の行為(ran-rig)と呼ぶことができるもの。もう一つは、それの意図性である。意図性とは、主体の極からある種の客体(gzan-rig)に到る全ての認識は、意図的なもの、または関係を示すものであるという事を意味する。知性の後者の側面は、進んで反応しようとする事(sems)と、様々な方法で、進んで反応しようとする事を決定する心理的過程から成る。心理的過程に多大な注意が払われてきた。そのような過程を、合計で46述べたものもいれば、51挙げたものもいるし、71挙げたものもいた。この数字のリストを出すという傾向を嘲笑する理由はない。なぜなら、西洋心理学では、本能の数字のリストは決してこれに劣らずバカげたものだからだ。進んで反応しようとする事を決定する心理学的過程の中で、常に存在しているものは五つあり、心的状態、想像する事、動機、調和、散漫さという機能を果たす。他の五つは、客体に決定されるもので、その最後のものは、shes-rab、プラジュニャーである。心理学的な機能は小さいのだが、shes-rab は、二つの準拠枠の仲介をする。W.T.ステイスの「宗教と現代の心」274頁によると、この二つの準拠枠は、自然または時間の秩序と、永遠の秩序を指すと言ってもいいかも知れない。shes-rabは、区別をし、評価を下すのだから、二つの秩序から選択し、輪廻に巻き込まれるか、それとも、煩悩破壊の中にそして煩悩破壊を超えて解放される事が出来る。仏教の知性の構造については、SrphとSggを見よ。

注H. Mahamudra
同じ陳述がTshk 7b以降に見られる。しかし、そこでの分析は、ここに挙げる分析と違う。その項目は以下の通りである。

「I.神秘の啓蒙を通じて、非生起のまたは土台(存在)のマハー・ムドラーを決定する事。その手段は、
(1)感覚の緊張のパターンをリラックスさせて
(2)精神性・心性が哲学的洞察の基礎だと認識して
(3)純粋な感覚に到達する事によって
(4)自身を持つ事によって
(5)それによって、常に存在している現実性にある「土台」を、以下のものと  して決定する事によって
   (a)創造されない
   (b)変わらない
   (c)始まりも終わり(誕生も死)もない

「II.これに続く表象的な知識を通じて、以下の事を理解する事によって、マハー・ムドラーという、終わる事の無いもの、または、道に気づく事
 (1)外側の客体の世界の全ての実体は、現れと空の両方であり、それゆえ、 「心」である。よって、
   (a)それは関係のある性格を持っている、そして
   (b)肯定も否定も無しでそれを使う事が出来る
 (2)精神性・心性は、三つのカーヤ(実存の規範)の自己真性であり、よって、次の事をに気づく事
   (a)始まりの無い精神性の存在の現実性は、ダルマカーヤ(そのようなものとしての真の存在)である
   (b)輝きの中における現れの絶える事の無い変化は、ニルマーナカーヤ (真のこの世の存在)である
   (c)場所を定められていない(相対性と絶対性の)同時生起は、サンボーガカーヤ(真の他と一緒の存在)であり、これが意味する事は、
    (1)永遠に分ける事の出来ない輪廻と煩悩破壊は「土台」(存在)であり、これがphyagの意味である
    (2)これを主体と客体の二分化にする事は出来ないという事を知る事によって、輪廻、または、道からの自由があり、これがrgyaの意味である
    (3)現れと空は同時に生起するという事を知る事によって、無智に対する勝利、または、目標があり、これがchen-poの意味である
    (4)人は、これら全ては条件的な存在とそのようなものとしての自由を超えているという事を理解する

「III.同時生起を通じて、マハー・ムドラーという言葉で表現する事が出来ないもの、または、目標を達成する事(これが意味する事は)
(1)捨てなければならないと通常言われているものは、究極的には、純粋である
(2)特殊化する心とその構成概念に勝ったという事
(3)達成しなければならないと通常言われている全ての功徳は、精神性の全ての完成の中に、存在しており、よって、これが自ら生じた覚者の境地を構 成している。」
感覚の緊張のパターンをリラックスさせる事に関しては、関連資料が、トリガント・バロウ、前掲書、見出し語の下にある。

注I.
最終構造の発達については、Dnz 47b以降で論じられている。「知性能力が父親と母親の生成する力と合一した後で、有機体が発達し始めると、潜在性の存在(thig-le)の真ん中で、中央構造の通路が、最初に発達する。これから、二つの通路(ro-maとrkyan-ma)が枝分かれする。これらの構造的通路から、四つの花弁のある網状組織が生じる。このうち、トライヴリッターと呼ばれる通路は、東へ伸び、カーミニーは南に、ゲハーは西に、最後に、チャンダーリは北に伸びる。各々の通路は二つに分裂し、その結果は心臓の八つの花弁のある網状組織として知られている。これらの各々は、rdul(これは客体の極を形成する)、snyin-stobs(これは主体の極を形成する)、mun(二つの極を一緒に保つ)という三つの通路に分かれる。このようにして、24の通路となる。これらの各々は分裂して、この世に存在する可能性(sku)、他と情報交換をする可能性(gsun)、状況を扱う可能性(thugs)になる。その結果、72の通路になる。これらの各々が、1.000の通路に分かれ、その結果、合計72,000の構造的通路となる。これらから、350万のより微細な通路が生じる。二つの主要な枝(ro-maとrkyan-ma)が出会うところではどこでも、中央の通路に焦点がある。頭にあるものには、32の花弁があり、喉にあるものには16、心臓にあるものには8、へその所にあるものには64の花弁がある。これらは、経験の焦点の四つの(主要な)ものである。それから、まだ、性の部位に32の花弁を持つものがあり、亀頭に8つの花弁を持つものがある。その結果、合わせて六つの焦点がある。心臓において、、白と赤の流れによって象徴される(白は男性、赤は女性)物質性を生み出す力の中で、運動性(ルン)と心性(sems)が単一体unitを構成し、通路の網状組織によって、一緒に保持される。ここから、白い流れは上に進み、大抵は頭の中にある。これは精液と骨と骨髄を作り出す。赤い流れは下に進み、大抵はへそにある。これは肉と血と皮を作り出す。このようにして、有機体全体が徐々に完成する。」
 主体と客体の極が有機体全体に浸透しているという言葉に、特別な注意を向けなければならない。これによって、主体・客体の二分化は心に限られるものではなく、カント的な意味みおいても、他のいかなる意味においても、我々は、「純粋理性」の世界に住んでいるのではない、という事が分かる。同様に、skuとgsunとthugsは、身体も言葉も心も無いうちから、働いているという事によって、これらの言葉を、身体、言葉、心とする現在の訳語は、全く不適当である。これらも有機体全体に浸透しているということから、C.ジャドスン、前掲書92頁の言葉を借りると、「それらは、「場」の機能であり、特定の機能のために高度には分化しておらず、必須の可塑性または柔軟性を持っている組織であれば、どのような組織でも、それらの役に立つ事が出来る。」という事が分かる。

注J. Fourfold Creativity (10. Eternal Delight)
 「四組の能力」は、創造的潜在力が、それ自体を表すやり方を、記述する言葉である。しばらくの間、再びこの潜在力を、ひとつは不確定な、もうひとつは確定的あるいは確定的になりつつある、という領域を持った言葉としておきたい。不確定的な領域の要素は、哲学的な言葉では、純粋な超越である。原典では、それは、「超越」(ロレ・デパ、マティヤティータ)、「輝く光」(オセ、プラヴァースバラ)、「完全なnothing」(タンチェ・トンパ、サルヴァシューニャ)といった言葉で示されている。一番はじめの言葉は、サラハによって発展した、思想の傾向に属し、後のものは、ガンポパ、パドマ・カルポその他によるものに、属しており、これらが、それ以前の学術用語にとって変わったのである。確定を明らかにする、あるいは、確定的になる過程は、純粋な超越において、いわば、前に言及された、思考の二つの文による、「the unoriginated」、「that which
has no origin」(キェメ、アヌトパーダ)、あるいは「大いなるnothingness」(トンパ・チェンポ、マハーシューニャ)と呼ばれる段階が働き始めることである。(原文参照のこと!)その輝く性質のために、それは「内なる輝き」(ネル・トブ、ウパラブダ)と呼ばれ、純粋に心理学的な枠組みの中では、「知らないこと」(あるいは普通に訳されるように、「無智」)(マリクパ、アヴィデャー)と呼ばれる。これが差異化する過程、発展していく領域の要素、の開始である。次の段階は、「非記憶」(タンメ、ヴィスマラナ)、あるいは「強度のnothigness」(シントゥ・トンパ、アティシューニャ)、あるいは「強烈に広がる光」(チェパ、アーロカーバーサ)と呼ばれる。最終段階は、常に行為ではなく、力(パワー)と見なされる「記憶」(タンパ、スムリティ)、あるいは「光」(ネワ、アーロカ)である。これを図に表すと、次のようになる。


ロレ・デパ   オセ       タンチェ・トンパ   超越
キェメ     ネール・トプ トンパ・チェンポ   知らないこと
タンメ     チェ・パ     シントゥ・トンパ   経験的にイニシ エートされた経験の潜在力
タンパ     ナンワ      トンパ        上記の潜在力の実現化の状態


 全過程は、前意識であることに注意することは重要である。また、わたしたちは、「差異化は、差異化されない何かから来る」、と言いたいが、「から」というのは、容器から、来るという意味ではない。四つの面がひとつの単位となる。それゆえ、確定的なあらゆるものは、不確定的な香を持っている。これは、「同時に現れること」と呼ばれる(ラハン・チック・キェ・パ、サハジャ)。

注K
テキストAの例、A.グルンヴェーデルによって使用された装飾書体のコピーと、テキストBの装飾書体のコピー、この本に収められたものの完全な翻訳。