TOPorLINK文書館Part2ナーローパの生涯と教え>V.ナーローパはいかにして、偉大なる自己否定の行為を行なったか


V

ナーローパはいかにして、偉大なる自己否定の行為を行なったか


この部分は六章に分かれる:
(1)如意宝を浄化する。自分自身であるように、それ自体の中にいること。
 よい属性と悪い属性から
(2)象徴の理解によって、成熟へ至る道としての如意宝を明かす。
(3)自己否定の苦悩を経て、自由の道を歩く
(4)五つの(サイン、印)と八つの特質を理解する徳によって、成熟と自由に至る道を教えられる者たちを定める。
(5)今生でヴァジラカーヤ、精神化、あるいは霊化された(「虹の」)存在を得て、真実(リアリティー)そのものを表わす超越した意識を理解する。
(6)誉れある【ベネラブル】マルパに、口頭伝授と、その解説を手渡し、彼によってチベットに仏教の教義を広める。

(1)

 この章は三部からなる。
(a)熱烈な信と揺らぐことのない情熱を持ってグルを探しながら、十二の小さなヴィジョンを見る経験をする。
(b)自殺の試みと、次の章でグルに出会う決意。
(c)ティローパに出会い、弟子として受け入れられる。


(a)十二のマイナー(小さな)なヴィジョンの体験は、最高の悟りを得るために、そして教義本来のメッセージを広めるために、ティローパのもとへ行きなさいという rDo-rje rnal'-byor-ma(ヴァジラヨーギニー)の勧告で始まる。

 あるとき、'Jigs-med grags-pa(アバヤキールティ)が太陽に背を向けて文法やら認識論、精神的戒め、論理学に関する書物を熟読しているときに、それらの書物の上にぞっとするような人影が落ちた。振り向いたとき彼が背後に見たものは、三十七の醜い特徴を備えた一人の老女であった。

 老女の両目は、血走って落ちくぼみ、神はキツネ色でボサボサであった。額は広くて突き出していた。顔はしわくちゃですっかりしなびていた。両耳は長くてこぶがたくさんできていた。鼻はねじれて腫れ上がっていた。白髪混じりの黄色いあご髭を生やし、口は歪んで大きく開(あ)いていた。歯は内側に向いてボロボロであった。舌は租借するような動きを繰り返し、上下の唇を湿らせた。老女はすするような音を立てて唇をなめた。あくびをすると口笛を吹いてるかのようにヒューヒューいった。老女は泣き悲しみ、両頬を涙が伝わった。
 老女は身震いし、あえいで息をした。顔色は青黒く、皮膚は荒れて分厚かった。腰が曲がって体は前に傾き、首は湾曲し、(老女は)せむしであった。そしてびっこを引いていたので杖で体を支えていた。その老女がナーローパに「何をのぞきこんでいるのかね?」と尋ねた。

 「文法と認識論と精神論的戒めと論理学に関する書物を熟読しているのです」とナーローパは答えた。
 「あんたはそれをみんな理解しているのかい?」
 「もちろんです。」
 「あんたは言葉(字面?)を理解しているのかい、それとも意味かい?」
 「言葉です。」
 老女は大喜びし、興奮して笑い声も高らかに、杖を空中で振り回しながら小躍りし始めた。ナーローパは老女がもっと喜ぶかもしれないと思って言い足した。
 「わたしはまた意味も理解しています。」
 すると、逆に老女は体を震わせながら泣き出し、杖を振り降ろした。

 「わたしが言葉を理解していると言ったときには、あなたは喜んでいたのに、わたしが意味も理解していますと言い足したら、惨めな姿になってしまったのはどういうことですか?」

 「あたしは、あんたという偉大な学者がウソをつかないで、言葉しか理解していないと本音を言ってくれたんで、うれしく思ったんだ。けれど、あんたが理解してもいない意味を理解していると言ってウソをついたから悲しくなったんだ。」

 「ではだれが、意味を理解しているのですか?」
 「あたしの兄(弟)さ。」
 「どこにいらっしゃる方であっても、その人に引き合わせてください。」
 「自分で行きなさい。ご機嫌を伺い、意味を理解するためにやってきましたと乞いなさい。」
 それだけ言うと、老女は空にかかる虹の如く姿を消した。

 (尊敬すべき)ナーローパは、三十七の醜い特徴を備えた老女のヴィジョンを思い起こしてみた。そして、その一つ一つを綿密な調査の対象としてとらえてみて、次のことを悟った。
 客観的には、サムサーラは三十七種類の不満を含んでいるがゆえに惨めなのである。主観的には、三十七の道筋と、ものを創り出す三十七種類の潜在的可能性について熟考することによって、人は同時に現われる認識を理解するようになる、ということを悟った。
 そして、ナーローパは歌った。
「サムサーラとは他のものたちのあら探しをする傾向である。
耐え難い火の器
暗い地下牢
三毒に満ちた深い沼地
邪悪な生き物たちの恐ろしい波
それはクモの巣に捕らえられた状態。
あるいは、野鳥狩りのわなにかかった鳥。
マーラによって手から首まで縛られること。
あるいは、不潔な池に浸された状態である。
それはまるで、蜃気楼を追いかける鹿のようである。
それは運命のわな
蜜が吸う蜜蜂
命という牛の乳をしぼること。
老いと誕生の移ろう影の下で生きること。
ボサボサの毛をした死の神の犬どもに捕らえられた状態
わなにかかった鹿
残酷な狩人
束縛に絡まること。
危険な小道
落とし穴に捕らえられた野獣
それは二分化する遊びに満ちた草原
八つの付属する事態の
太鼓を叩く槍の先
鋭くとがった牙とともにある歓楽
それはか細い水生植物
触れることのできない、水に映った月影
困惑の泡
束の間の霧とさざ波を立てる水
接触と一瞥で敵を征服するヘビ
カミソリの歯の上で味わう蜜の味
それは有毒な葉をつけた木
かき乱された感情という毒矢を放ち
そして欠点にさいなまれている人々を害する。
それは風に揺らめく炎である
虚無、夢、困惑
老いと死の滝 (押し寄せる老いと死)
それはクレシャマーラ、偽りの案内人
わたしは本当にグルを探し出さねばならない。
 ここまで言うと、ナーローパは所持品と書物のすべてを放棄した。自らに意味を明かしてくれるであろうグルを探し出すという意志をナーローパが明らかにしたとき、ナーランダに会していた信者は考えた。
 「これまでの僧院長の中で、我らがナーローパほど造詣の深い学者はなかった。僧院長の宗務を務めるとき、ナーローパは他の人たちよりも神聖なやり方で教義を説いてくださった。方法論や論理学やスートラやタントラについて語るとき、ナーローパは超俗的な説明をなされた。解脱した態度を覚醒させる堅信の儀式や他のイニシエーションを執り行われるとき、優美さという点ではだれも彼をしのぐことはできなかった。
 瞑想の訓練をしている者たちに教えるとき、体験と悟りの説明においては特に才能を発揮された。もし、かような僧院長が他の地に行ってしまうようなことがあるならば、我々は間違いなく乾いた大地に放り出された魚になってしまうだろう。
 そして、彼らは一人残らず絶望の淵に落ち込んだ。そのとき、東の門に位置していた一行のリーダーが申し出た。
並ぶ者とてない、栄誉あるアバヤキールティよ、
会衆=信者の集まりは法則の根本となるものです。
彼らとの関係を断つことは法則に反します。
どうか我らと共におとどまりください、お願いいたします。
 しかし、ナーローパは辞退した。すると、南の門に位置していた一行のリーダーが言った。
法友こそが、法則の根本です。
友人たちに別れを告げるのは法則に反します。
我らと共におとどまりください。(お願いいたします)
 再びナーローパは断った。すると、西の門に位置していた一行のリーダーが彼に懇願した。
教義の根本は法則の訓練です。
それを放棄することは、法則に反する行為です。
我らとおとどまりください(お願いいたします)
 これもまた無役だった。するとナーランダの五百人の学者が、彼らの後援者である国王や大臣たちと共に、全員一致でナーローパにとどまってくれるよう請願した。
崇高な栄誉ある賢人、アバヤキールティよ、
我々は盲目や無知という病に対する医師、法則を体現する人を失っています。
それゆえ、聖者アバヤキールティよ、どうかおとどまりください。
そしてナーランダを哀れみを込めてお眺めください。
 栄誉あるアバヤキールティはただ次のように言った。
何であれ生じたものは必ず滅し、一緒になったものは必ず別れます。
単に(カルマを)積むだけのものの中で
自由と不滅の道を見つけることができましょうか?
まるで海のような経典全体をわたしは知っています。
わたしは文法、認識論を含む五つの学問の枝すべてをマスターしました。
 栄光に満ちたアバヤキールティはこう言っただけだった。
生まれたものは死に、一緒になったものは分かれる。
(カルマを)積むだけのものの中に、いかにして自由と不死の道を見いだそうか?
わたしは海のようなすべての経典を知っており、
教学の五つの部門を、文法と認識論とともに修めました。
しかし有能なグルなしにはわたしの欲望の火は絶えることがないでしょう。
もしわたしの焦がれる気持ちが、海のように広大なタントラの精髄の
甘露の流れのような、グルの慈悲によって静められることがなければ
わたしの数々の成就・徳・超感覚的な認識にもかかわらず
わたしは真実(リアリティー)を見ていないことになります。
それゆえ、わたしは、ギェパ・ドージェ(ヘヴァジラ)を頼みとし、
しっかりと真実のグルを探し求めるのです。
 「これをわたしの王への答えとさせてください。「こうでなくてはならないのです」という言葉が僧侶と学者へのわたしの答えです。わたしは教学の五つの部門に精通した学者です。しかし、わたしの心を自分の信念という勇気を持つ者たちの道からそらせようとするのは、時間のムダです。ですからわたしは(ご)立派な後援者の方々に、行かせてくれるよう請い求める次第です。」
 こう述べると、彼は僧衣をかつぎ、托鉢鉢の縁をつかんで、杖を取り、東へと向かって発った、次のように唱えながら。
わたしはギェパ・ドージェを頼みとして
真実のグルを探し求める空から声がした。
お前に覚者がグルとして現わされるだろう
もしお前がデチョク・コ(ル)ロ(チァクラサンヴァラ)に頼るなら。
 そしてナーローパは歓喜に満ちてこう言った。
今日から、デチョク・コ(ル)ロに頼るなら、
成し遂げられないものがあろうか?
 彼は、東に向かって礼をなし、深く心を動かされて、目に涙を浮かべ、ティローパに祈った。メトク・ナンブ霊園に着くと、彼は草の庵を建て、デチョクの七音節のマントラを七十万回繰り返し唱えた。地は震え、光と甘い香りが現われ、空から声がして、こう言った。
東には非二元の意識の素晴らしい至福を体現し、
肉体を持って生まれ変わり、すべての生命体の主であるティローパが住む。
グルである覚者(the Guru Buddha)の彼を探せ
 この声を信じて、彼は車で一ヵ月間グルを探した。グルが見つからなかったとき、彼は叫んだ。
ああ、わたしはグルであられる覚者を探したが、
見つからなかった。
マーラによってわたしは欺かれていたのだ。
 再び、空から声がした。
(お前が)あの怠惰という悪魔に敬意を払うことなく
探し求めるなら、お前はグルである覚者を見つけるだろう
 それから彼がグルを探してさらに東に向かっていると、彼の守護神である、コ(ル)ロ・ドンパ(チャクラサンヴァラ)が、彼を元気づけた。
栄光に輝くアバヤキールティよ、
わたしはお前が崇拝するティローパを見つけるように、
お前にわたしの恵み【慈悲】を与えた。
グルを見つけることなしに、どうやって覚者となるのだ?
東にティローパを探しに行け。
彼は覚者の生まれ変わり、お前の霊と精神を解き放つグルである。
だから、障害を気を止めて【にして】はならないのだ。
 これらの言葉を聞いて、ナーローパは歌った。
ティローパ、誉れあるグルよ。
あなたなしにわたしは覚者の境地を勝ち取ることはできません。
今日から、あなたを見つけようと見つけまいと、
わたしは生命も身体も気にかけません。
障害に阻まれることがなければ、
どうして約束されたグルが見つからないことがありましょう。
 そして彼は東の方角へ進み続けた。
 そして彼は次のようなヴィジョンを見た。
 彼が、岩(々)と川の間にある曲がりくねった狭い小道に来たとき、
 両手両足のないライ病の女が、道を塞いでいるのを見た。
 「道を塞ぐなよ、どいてくれ。」
 「動けないのさ。急いでないなら、あっちを回っとくれ。でも急いでいるのなら、わたしを飛び越していくことだ。」
 彼は哀れみでいっぱいになったが、胸が悪くなって鼻をつまみ、彼女を飛び越した。
 ライ病の女は、虹色の光の輪をまとい、空中高く上って、こう言った。
聞け、アバヤキールティよ。
すべてがその中で同じになる究極のものには
習慣となる思考と限界というものがない。
もしそれらのものにいまだに足かせをはめられているなら、
どうやってグルを見つける望みを持てるのだ?
 このとき、女と岩と道はすべて消え、ナーローパは、砂の台地の上に気を失って倒れた。・・意識を取り戻したとき、彼はこう思った。
「これがグルだとは思わなかった。これからは、出会ったものにはだれであっても教えを乞【請う】うぞ。」
そして彼は起き上がると祈りつつ道を進んだ。
 狭い道の上で、彼は虫がうようよとはっている、臭いあばずれ女にあった。彼は鼻をつまんでそのけだもののような人間を飛び越した。すると女は虹の光の輪をまとって空に現われて言った。
すべての生命体は、生来自己の両親である。
マハーマーヤの道で、
聖哀れみを培わずして
いかにグルを見つけるというのだ?
お前は誤った方向を探していたのか?
他人を見下げて、お前を受け入れてくれるグルをいかにして見つけるというのだ?
 これらの言葉を言い放った後、あばずれ女と岩は消え、ナーローパは再び砂の台地の上に気を失った。
 回復すると、彼は再び祈りと旅を始め、荷物を運んでいる男に出会った。
 「誉れあるティローパを見ませんでしたか?」
 「わたしは見なかったが、この山の向こうに、自分の両親をペテンにかけている男が見つかるだろうから、彼に聞いてみなさい。」
 彼が山を超えていくと、その男が見つかった。男は言った。
 「ティローパなら見たよ。でも教える前に、わたしの両親をだますのを手伝ってくれよ。」
 しかしアバヤキールティは思った。
「たとえ誉れあるティローパを見つけられなくても、悪党と関り合いになるわけにはいかないぞ。わたしは王子であり、僧侶であり、学者である。グルを探すのなら、法にのっとって、尊敬すべきやり方で行なおう。」
 あらゆることが、以前と同じように起こり、男は、虹の光の輪の中央に退いてこう言った。
この偉大なる聖哀れみの教義の中で、
純粋な非自我と無【空】の木槌で、
自己中心主義の頭蓋骨を打ち砕かないのなら、
どうやってグルを見つけるのだ?
 男は、虹のように消え去り、ナーローパは感覚を失って倒れた。
 起き上がるとそこには何も残っておらず、彼は以前のように、祈りながら歩き続けた。
 山をもう一つ越えると、彼は人間の死体から腸を引きはがして切り裂いている男を見た。ティローパを見たかと聞かれて、彼は答えた。
 「見たよ。だが、教える前にこの腐った死体の腸を切り分けるのを手伝ってくれないか。」
 ナーローパがそうしなかったので、男は虹色の光の中心に退いてこう言った。
帰属のない世界で
究極的なものの(生起することのなさ、【非生起】)によって、
サムサーラの束縛を断ち切らずに、
どうやってお前はグルを見つけるのだ?
 そして男は、虹のように消えてしまった。
 ナーローパが気絶から回復し、祈りながら道を進んでいくと、川の土手に、生きた人間の胃を開いて、それをお湯で洗っているならず者がいた。ナーローパが、彼に、誉れあるティローパを見なかったかと聞くと、彼は答えた。
 「ああ、見たよ。だが、教える前に、手伝ってくれないか。」
 再びナーローパが断ると、男は空に輝く光の中央に現われてこう言った。
本来自由であるが、習慣となる思考のけがれを表わすサムサーラを、
深遠な教えの水で洗わないなら、
どうやってグルを見つけるのだ?
 そして男は空に消えた。
 気絶から目覚めて、ナーローパは祈り、旅を続けた。そして偉大な王のいる町へやってきて、王に、ティローパを見なかったかと尋ねた。
 王は答えた。
 「わしは彼を見た。だが、教える前にわしの娘と結婚してもらおう。」
 娘を受け取ると、長い時が過ぎたように思われた。それから王は、彼を行かせることを望まず、娘と持参金を取り戻し、部屋を出た。ナーローパがこれを魔術と気づかず、デ・チョク・ツァ・ギュ(アビダーナ・ウッタラタントラ)の助けを借りて力を使わなければ、と考えていると、こう告げる声が聞こえた。
お前は、魔術劇でだまされているのではないのか?
欲望と嫌悪によって三悪趣に落ちるのなら、
どうやってグルを見つけるのだ?
 そして、王国は消え去った。
 我に返ると、ナーローパは、祈りながら旅を続け、そして猟犬の群れと弓と矢を持った、浅黒い男に出会った。
 「ティローパを見ませんでしたか?」
 「見たよ。」
 「会わせてください」
 「この弓と矢を取って、あの鹿を殺せ」
 ナーローパが拒むと、男は言った。
漁師であるわたしは、欲望から自由である。幻影の身体の矢を、
精髄である輝く光の弓で引いた。
はかないわたしはわたしというものを信じる身体という山の上で、
過ぎ去るあれとこれという鹿を殺す。
(逃げてゆく)あすは湖に魚を釣りに行こう。
 そう言って彼は消えた。
 ナーローパが我に返って祈りながらグル探しを続けていると、魚のいっぱいいる湖の岸辺にやって来た。そばに二人の老人がいて、野を耕し、畑のうね合いで見つけた、昆虫を殺して食べていた。
 「ティローパを見ませんでしたか?」
 「ここにいたよ。しかし彼に会わせる前に・・おい、かみさん、この坊さんに何か食べ物を持ってきてくれ。」
 老女は、自分の網から魚とカエルを何匹か取って、それを生きたままで料理した。老女が、ナーローパを食べるようにと招くと、ナーローパはこう言った。
 「わたしは僧侶ですから、(もう)夕飯は取りません。それに、わたしは肉は食べません。」
 彼はこう考えた。・・「老女に、生きたままの魚とカエルを料理して、食事に出されるとは、わたしは、サキャ神賢の教義に反したことをしたに違いない」。そして、惨めな気持ちでそこに座った。それから老人は、斧を肩にかついで、妻に聞いた。
 「坊さんに食べ物を出してさし上げたかい?」
 老女は答えた。
 「愚か者のようだよ。食べ物を作ったのに食べたくないだとさ。」
 老人は、鍋を火の中に投げ入れ、魚とカエルは、空に飛んでいった。
 そして老人は言った。
習慣となる思考に足かせをはめられていては、
グルを見つけることは難しい。
この習慣となる思考の魚を食べず、
(エゴの感覚を強める)快楽に憧れていて、
どうやってグルを見つけるのだ?
わたしは明日は、わたしの両親を殺そう。
 そして彼は消えた。
 回復すると、ナーローパは父親をくい(の上)に突き刺し、母親を地下牢に閉じ込め、二人を殺そうとし【しかけ】ている男に出会った。彼らは大声で泣き叫んでいた。
 「おお、息子よ、そんな残酷なことをしないでくれ。」
 ナーローパは、それを見て嫌悪の念を抱いたが、男にティローパを見なかったかと聞いた。返ってきた答えはこうであった。
 「わたしに災難をもたらした両親を殺すのを手伝ってくれ。そしたらティローパに会わせてやるよ。」
 しかし、ナーローパは、男の両親を哀れに思っていたので、この殺人者と親しくするのをやめた。すると声がした。
両親から引き出されるあれとこれという二分の三毒を殺さないで
グルを見つけるのは難しいと知るだろう。
明日、わたしは行って、乞い求めよう。
 男は消えた。
 ナーローパが、気絶から目を覚まし、祈りながら旅を続けていると、隠遁者の庵にやってきた。住人の一人が彼をアバヤキールティと認めて聞いた。
 「どうしておいでになったのです? わたしたちに会いにいらしたんですか?」
 「わたしはクスリパ(注※)すぎません。歓迎の必要はありません。」
 しかし隠者は、彼の言うことに耳を貸さず、しかるべき敬意を払って彼を迎え入れた。やってきたわけを尋ねられて、ナーローパはこう言った。
 「ティローパを探しています。見ませんでしたか?」
 「あなたの探索も終わりに来ましたね。ティローパと名のる乞食が中にいますよ。」
 ナーローパは、ティローパが中で火のそばに座って、生きた魚を揚げているのを見た。
 隠遁者たちはこれを見ると、怒って、乞食を殴り始めた。乞食は聞いた。
 「わしがやっていることが気に入らないのか?」
 「邪悪なことが隠遁の庵で行われているのに、どうやって気に入れというのだ。」
 乞食が指をパチンと弾き、「ロヒヴァガジャ」と言うと、魚は湖に変わった。ナーローパは、この男がティローパに違いないと悟って、手を組み合わせ教えを乞うた。グルは手にいっぱいのしらみを、ナーローパに渡して言った。
すべての生命体の究極的性質に至る限りなき道で、
習慣となる思考と深く染み込んだ傾向という不孝を
殺そうと(滅尽しようと)するなら
まず、(このしらみを)殺さねばならない。
 しかし、ナーローパはできなかった。男はこう言い残して、消え去った。
もし自ずから起こり自ずから壊れ去る
習慣となる思考というしらみ【傍点つき】を殺さないなら
グルを見つけるのは難しい。
明日わたしはバケモノショー【フリークショー、見世物小屋】を身に行こう。
 落胆したナーローパは、起き上がって探しつづけた。広い草原にやってくると、彼はたくさんの、片目の人々、目の見える盲目の人、耳の聞こえる耳のない人、言葉をしゃべる舌のない人、走り回るびっこの人、穏やかに自分を仰ぐ死体を見た。ナーローパが彼らに、ティローパを見たかと聞くと、彼らはこう言い放った。
我々は、彼も他のだれも見ていない。もし本当に彼を見つけたいなら、
これから言うとおりにすることだ。

自信と献身と確かさによって、
信念から来る勇気を持った弟子、ふさわしい器となれ。
宗教的囲い(集団)の中で、師の宗教性(精神性・霊性)にすがり、
見解として直感的理解というカミソリを巧みに使い、
注意力【集中】の手段として至福と光輝の馬に乗り、
行為の方法として、あれとこれのきずなから自分を解き放て。
そうすれば、自己の栄光の太陽が輝き出て、こう理解する。
 片目は多くの性質
 盲目はものを見ないで、見ること。
 つんぼはものを聞かずに聞くこと。
 おしはしゃべらないでしゃべること。
 びっこは、急がないで動くこと。
 死が動かないことは、生起しないものの風(うちわで仰がれた空気のように)
 このようにして、マハー・ムドラーの象徴が示され、その後すべてが消えた。


(注※)これは一般的なチベット語の形であるが、Rzd93b によれば誤りで、“クサリ”となる。著者はこう述べている:「クスルは正しくない。チベットではこれは、三つの思考を持った人、という意味である。つまり、飲食/排尿排便/睡眠の三つについて考えることは別にして、他のすべての仕事をやめ、瞑想的集中に没入するのである。このような人は、今日では、“クスルパ”として知られている。しかしインドでは、より優れた者と劣った者の二つのタイプがある。チベットでは、死から蘇った人を、“クスルパ”ちおう。クスルパの意味は、実はすべての仕事をやめ、頻繁に山に篭ってリトリートを行なう人、である。

(b)


 ナーローパは、今や、来世でグルに会うことに望みをかけて、自殺を思い立った。彼はこう考えた。「わたしは、誉れあるティローパの様々な顕現(マニフェステーション)に会ったが、彼に面と向かって見える運がない。わたしは探し出すのに失敗したのだ。帰るのも恥じなことだ。わたしは過去の行ないの結果であるこの身体に妨げられてきたのだから、いつか後の生でグルに会う決心をして、この身体を捨ててしまおう。」
 意気消沈して、彼は次の詩を作った。
ダーカの予言を追って、
わたしは、教義の根であるサンガを捨て、
法でよく鍛えられた友を去った。
わたしは、忠告を与えてくれた人々の言葉を聞かず、
苦難に耐えたにかかわらず、
グルを見つけることができなかった。
この邪魔な身体を捨て、
別の生で、グルを探し続けよう。
 そして彼がカミソリで静脈を切ろうとしたとき、・・

(c)


 空から声が聞こえてきた。
もしお前が見つけていないなら、サキャ神賢【The Buddha,覚者】を殺して
どうやってグルを見つけるのだ?
お前の邪悪な思考が望んだのは、わたしではないのか?
 そして、木綿のズボンをはいた、色の黒い男が現われた。男の髪は、束ねられており、目は突き出て血走っていた。ナーローパは、感情的になって泣き崩れ、手を組み合わせてこう言った。
不確かで、雲のように過ぎ去るものの中に、真理を探し求めて、
いったいどうやって真理が見つかるというのでしょうか。
悲しいかな、これまであなたは、聖哀れみを見せてくださらなかった。
これからはわたしを聖哀れみで受け入れてください。
 ティローパは言った。
 「お前がライ病の女の姿をしたわたしに出会ってから、わたしたちは離れ離れになったことはない。身体と影のように。お前の見た様々なヴィジョンは、お前の邪悪な振る舞いのけがれである。だからお前はわたしを認識できなかったのだ。」
 そして彼は、こう付け加えた。
お前は、グヒャマントラ、如意宝、ダーキニーの秘密の家の教えを
受ける価値のある、非の打ちどころのない、まばゆく輝く器である。
如意宝を、真実の霊性と精神性を、ダーキニーの秘密の家をつかめよ。
 それから彼は、ナーローパに四つの伝播のグルにいかに頼るかということと、ユーギャン(スワット)のイェシェ・カグロ(ジュニャーナダーカ)のメッセージを完璧に教え、彼を弟子として受け入れ、彼の精神をよみがえらせたのである。

(2)


如意宝を発見する


 象徴を理解することを通じて、成熟への道としての如意宝を発見する方法は、二つある。
(a)その象徴を見せられた瞬間に、その象徴を理解することによって。これは、瞬間的な解脱が出来る者のための方法である。そして、
(b)その象徴と、その説明と、それによって、どのようにして、真の精神性が光輝くのかということによって示される、四つの成熟を促すconfirmationsの意味を理解することによって。これは、徐々に解脱に至る者のための方法である。

(a)


 かつて、ティローパが、ヴァイローチャナ・サンボーディタントラに説かれている座法で座っているとき、アバヤキールティは、彼に近づいて、彼の周りを、手を組んで歩き、マンダラ(注1)を捧げ、膝をついて「グルよ、わたしに教えを垂れて下さい。」と祈った。
[注1:マンダラは、グルに捧げる、建物と全宇宙の秩序を象徴している、手の込んだ製作品と、ある種の手の組み方の両方を意味する。マンダラを建てるということは、空であるものとしてのマンダラが、それ自体で、「知識の獲得」であると理解するために、「功徳を積むこと」である。]
 答として、ティローパは、彼に、十三日間にわたって、十三の象徴を見せた。ティローパは「教えを受けるには、confirmationsを持つ必要がある。だから、火のついている燃えさしと、絹の布をもって来なさい。」と言った。ナーローパがそうすると、ティローパは地面に布を平らに広げ、釘で四隅をとめた。ナーローパに、一方の端を持つように言うと、ティローパは反対側に火をつけた。灰は、完全に燃えてしまった布の、縦糸と横糸の形状をとどめていた。模様はそこにあるのだが、それはもはや、布の役を果たすことができなかった。ティローパは「ナーローパよ、これが何を意味するのか分かるか。」と尋ねた。ナーローパは「グルの明らかにする理解と教えというのは、火と同じように、弟子の、絹の布のような感情の不安定を燃やすということが分かりました。それによって、外的な物は確実な実体だ、ということに対する信念が破壊され、そして、実在に関するこの種の信念が、もはや有効ではないので、現世的なものに再び戻ることは無いと理解しました。」と答えた。そして、彼は、自分の理解したことについて、次の歌を作った。
火である、わたしのイニシエーションの意味と目的は、
絹の布である、わたしの習慣を形成する考えを、焼き尽くした。
灰に模様は残ってはいるが、
布はもはや使うことはできない。
このように、現れたときに、触れることの出来ない
現れの身体と共に、それはある。
 ティローパは何も言わなかった。ナーローパが、手を組んで彼の周りを歩いて回り、教えを乞うと、ティローパは、ナーローパに、単に、透明な水晶を見せただけだった。ナーローパは、弟子の精神性(それ自体での存在)は、純粋に関わることによって(純粋な誓約にとどまることによって)、誤謬と虚偽に影響されないという意味だと理解した、と言った。
 次に、ティローパはナーローパに、絡まった紐の球を持ってきて、それをほどくようにと言った。これが終わると、ティローパは、あっさりと、その紐を投げ捨てて、出て行った。ナーローパは「心(注1)を輪廻の中に捕らえている網、八つの現世の悪徳(注2)に関わることを、投げ捨て、それ本来の場所、すなわち、本当の心の中に置いたままにしておかなくてはならないことだと、理解しました。」と言った。
[注1:ran-semsまたは、ran-gi semsについては、言語学の専門家が、ran-giという属格をそのように訳し、言葉全体を、「人の」を一つの実体、そして、「心」をもう一つの実体として捉え、「人の心」と訳す過ちを犯す可能性が、非常に大きい。しかし、ranの使い方は、わたし達西洋人の考え方には、非常に曖昧である。さらに、この単語は、それ自身も指すので、ran-gi semsは、「心自体を指している心」、「心そのもの」、「そのようなものとしての心」といったような言い方で、訳すことが出来よう。おまけに、semsはわたし達が「心」だと理解しているものと、全く同じわけではない。それは、反応しようとする準備であり、ある意味では、わたしの準備ということができよう。なぜなら、それがわたしの存在の根本にあるからだ。「人の心」という訳語は、わたし達が普段しているように、その実体があるという意味で「心」というものを理解しない場合にのみ、正しいといえるだろう。その言葉の普通の意味での実在物ではないので、semsは唯我論の学説を含まない。注2:***頁の注1を見よ。]
 ティローパは、次に、稀な宝石を頭の上に置いた。
 「輪廻と煩悩破壊(サムサーラとニルヴァーナ)を作り出す、貴重な宝石はグルであり、グルを自分自身の頭頂と分離することはできないものである、と考えなければならないと、理解しました。」
 すると、ティローパは、その宝石を見た。「今生の究極的なものを見るということは、マハームドラーという最高の悟りを得たという事であり、また、逸れることのない献身的な一瞥を持って、グルの行動と行為は、最高の功徳であると考えなければならない、と理解しました。」
 ティローパは、次に、冷たい真水で容器を満たし、ナーローパにそれを飲むように言った。
 「わたし自身と他の人にある、感情の不安定さという熱は、精神的、霊的な教えという冷たい水で、軽減されると理解しました。」
 ティローパは、今度は、いくつかの容器を水で満たし、一つの容器にその水を移して、それらの容器を空にし、それから、一つの容器から、多くの容器を再び水で満たした。
 「この満たして、再び満たすという事は、一つの価値が多くの(形状)で現れ、その多くのものは、一つの価値しか持っていないという事であると理解しました。」(注2)
[注3:ro-gcig、エーカラサ。この言葉は、よく、「一つの味を持っている」と訳され、確かにそれは可能だが、大抵の場合は、間違いである。ro-gcigは、味ではなく、価値を意味する、倫理学の文脈で使われる事が、抜群に多い。この言葉が、瞑想的観想に関して使われる場合でさえ、それは、むしろ、観想から行動への移行を意味する。]
 次に、ティローパは、全ての物の起源として、三角形を見せた。
 「それは、三つの解放の門(注1)を実在させる役割を果たす、実相全体には起源がないという象徴であると、理解しました。
[注1:空(シューンヤター)と偏見の無い事(アプラニヒタ)と表象の無い事(アニミッタ)]
 次に、ティローパは、一つの点(注2)の絵を描いた。

[注2:thig-le、ティラカ、ビンドゥ。詳しい説明は、以下の***頁以降にある。]
「ダルマカーヤの創造力のある潜在性から、全てのものは導き出されたという象徴であると理解しました。
 ティローパは、自分の胸に触れて、首を縦に振った。
 「それは、ダルマカーヤの創造力のある潜在性は、ただの潜在性であるという象徴であると理解しました。」
 ティローパはとぐろを巻いている蛇を指さした。
 「それは、輪廻は、それ自体を通じて自由になるという象徴である、と理解しました。」
 ティローパは唖の振りをした。
 「直感的な、物事を明らかにする理解の経験は、言葉では言い表せないと理解しました。」
 最後に、ティローパは、ナーローパに果物を見せた。
 「個人の中で、果物が熟すると、自己充足と、他のための存在が完成するという事だと理解しました。わたしは、個々の象徴を、このように理解しました。」
 この十三の象徴(注2)がナーローパに示されると、ナーローパは、自分の理解の確認をしてくれるよう頼んだ。すると、ティローパは、物事を明らかにする、直感的な理解について、この偉大な歌を唄った。ここには、精神の成熟に至る道としての、象徴の解答が含まれている。
[注3:この十三の象徴は、Dchilsp 47b以降で、同じように説明されている。]
わたし、ティローパは、微笑んで言う:
聴きなさい。
立派で、汚れの無い、光輝く器であるお前よ、
教えは、燃えている石炭のように、
木綿の布である、感情の不安定さを燃やす。
人の真の精神性は、水晶のように純粋である。
悪徳の八重の結び目を解き、
逸れることのない(不動の)真と愛を持って、
グルという宝石を見なさい:
教えという純粋な水を飲みなさい。
というのは、全ての器の水は同じだからだ。
生起とは、生起のない状態であり、
ダルマカーヤは、創造力のようにそれ自身で、留まる。
指は、指さす、というのは、それが指の性質だからだ。
蛇がとぐろを解くように、輪廻(サンサーラ)はそれ自身を解放する。
沈黙とは、経験が言葉で表現できないことであり、
果物は、自分自身と他の人の、真理の成熟を象徴する。
お前は、この十三の象徴を解いたのだから、
その全てを知っているという事だ。
未成熟のものを成熟させる、この確信(confirmation)を持って、
ダーキニーの隠れ家である、
グヒャマントラの、如意宝の中で、
心の鏡を見て、成熟しなさい。

(b)


 グヒャマントラの一般的順序に従うと、徐々に解脱に至る者たちにとって、象徴を解くことによって生まれる真の精神性・霊性てとは、成熟する確認【立証】(the maturing confirmation)という恵みを与える。そこで、ティローパは言う。
 「壺(jar)の confirmation によって、現われるすべてのものが、神と心であることを理解せよ。そうすれば、現われは、魔法であることがわかる。「謎」(mystery)の conf.によって、心は、知性【or理性】的な働きであって、それ自体は空であることがわかる。
 「識別−評価の確信を通した超越的意識(awareulrs)によって、この空は、至福であることを理解せよ。「第四の」確認【conf.】によって、この至福が消散することのないものであることを理解した後、(が一つであることを)、すべての統合を探し求めよ。」
 ナーローパが聞いた。
わたしは自分の暗い無智によって
目を覆われているなら、
どうやって見ることができましょう?
 誉れあるティローパは答えた。
待ち構えることなく見守り、目に見てないものだから、
(お前が)実体としてつかむことのできないものを見なさい。
見てしかも何も見ないこと、これがお前自身のうちの、お前自身による自由なのだ。
 そこで、ナーローパは confs を、何かを待ち構えることなしに見守り、それを何ものかとして見ることなしに見た。そして、瞬間的に、自由にされる必要のない状態になって自由になった。彼はこう祈った。
かけがえのない心の宝石、グルという船に頼れば、
サムサーラの大海から自由になることは確実だ。
この修行は、成熟に至る道が至福であると教えてくれる。
 しかしティローパは答えた。
お前はまだ、現実(リアリティー)を至福と理解するグルの教えに引かれているようだ。
現実(リアリティー)の深遠な意味を、至福に満ちた至福として把握するグルの教えに、憧れているから、お前の情緒はまだ不安定に見えるのだ。
これにもこの反対にも憧れぬことだ。

(3)

十二の自己否定の行為


 この章では、厳しい精神的霊的訓練を受けた結果起った、自由への道におけるナーローパの経験を扱っており、四部に分かれている。

(a)完全な教えを受けて、心をグルの精神と霊に合せるための、彼の十二の偉大な自己否定の行為。
(b)言葉を思考で表わすことのできない、行ないによって行動するよう、ティローパによって勧告される。
(c)「偶然」の意味を彼が理解したこと。あうりはサムサーラにもニルヴァーナにも発展する、意識の究極的同一性【究極的な意識の同一性】の教え。
(d)瞑想によってそれを計ろうとする試みすべてを超える、慈悲の生を生きることによって、有情の生命体【魂】に恩恵を与えるために働くよう諭され、自分の使命を受諾したこと。


(a)

I. 普通の如意宝


 ティローパは、あたかも動く力を失ったかのように、棒のように動かず、硬くなったまま、一年間座った。彼は、言葉を奪われた者のように沈黙し、そしてあたかも心が機敏さを失ったかのように習慣となる思考が入ってこない状態にとどまった。ナーローパは、適切な身振りをして手を合わせ、祈りながら、円を描いて回った。
 ときどき、ティローパが振り向いて、ナーローパを凝視すると、ナーローパは、教えを乞うのであった。
 「教えが欲しいなら、ついてきなさい。」
 という言葉とともに、ティローパは三重になった中国式の屋根のオタントラの寺の屋根に登り、飾りについている【の】鳥の一つの翼にまたがって、こう言った。
 「もしわたしに弟子というものがあったなら、そいつはここから飛び降りただろう。」
 これらの言葉が、自分に向けられたものだと考え、ナーローパは躊躇することなく飛び降りて、地面に打ちつけられ、我慢できない痛みに打ち負かされて、死体のように横たわった。ティローパは聞いた。
 「どうした?」
 ナーローパは答えた。
以前の行ないによって形作られたこの身体の塊は、
アシのように壊れ、死んだも同然です。
 ティローパは言った。
ナーローパ、「わたし」というものを信じている、
身体であるお前の泥でできた水差しは、壊れるにふさわしい。
如意宝、過去・現在・未来の覚者方、ダーキニーの、神秘の家を思え。
 ティローパが手でさすると、ナーローパの身体はもとの状態に戻った。それからティローパは、ナーローパに、彼がウルギャン(スワット)でイエシェ・カ・ドから個人的に受けた、普通の如意宝を彼に教えた。・・これは変わることのない、常に存在するリアリティーを象徴する「王」、執行部である「三人の大臣」、修行する機会を象徴する『臣下」を含む、母レンチクキェマーを実現する方法に関する教えである。

(A)これらの教えの準備段階は、執行部【行政官】である「三人お大臣」で、これは、
 (1)邪悪さによるけがれの浄化。あるいは、ド(ル)ジェ・センパ(ヴァジラサットヴァ)についての瞑想と、彼のマントラを唱えること。
 (2)必要条件を満たすことと、グル(たち)と一つになること。
 (3)(精神的)霊的成熟、あるいは生起のサマディor生起(maditatine absorption )の能力の獲得。
(B)本体は、変わることのないリアリティーとしての「王」である。これは「普通の如意宝」と呼ばれる、発展の段階によるアプローチである。
 (a)「発展の段階」は、四つの創造的行為を使った三つの存在の現象に関する四つの起源(起因)の様式の、浄化の修行にあてられた名前である。これらは次の四つのものの浄化である。
  (1)五つの直感的認識による体内への誕生
  (2)ある一定の唱え方による、卵への誕生
  (3)三重の方法を使う、熱と湿気の誕生
  (4)瞬間的で完全な検査の方法による、自動的な誕生
 発展の段階の目的は、死と(再)生の間の生・死・中間状態という三つの存在の現象を浄化することである。それゆえ熟練した者は、自分自身を、六十二の神々と女神たちの主、ヘールカ神の形をしたダムツィク・センパ(サマヤサットヴァ)と考える。彼は濃い深い青色で、四つの頭と十六の腕を持ち、彼の配偶者に抱かれている。彼の右足は伸び、(そして左足は、わずかに曲がっている)。
 彼は、媚態【なまめかしさ】など、九つのムードを表わしている。彼は火葬が行われる地面(the cremation ground)の八つの紋章【印】(emblems)をつけ、様々な飾りがつけられている。彼は、蓮華と太陽でつくられた玉座に立ち、バイラヴァとカーラ・ラトリを踏みつけている。
 この蓮華と太陽の玉座は、四つのアーチが他の門のついた正方形の宮殿の素晴らしい至福のセンターの中央にあり、紋章で豪華に飾りつけられている。その内側には、「信お存在」(authertic existence)の焦点があり、炎と火葬が行われる地面で囲まれている。
 「誕生」は、(男女の)神々が、それぞれの衣装を着け、一般的なやり方で、熟練者が、真の存在によって恵みを与えられたと感じるとき、浄化される。
 「中間序歌」は、イエシェ・センパ(ジニャーナ・サットヴァ)を召喚し、印をつけ(sealing)、礼拝し、賛美し、男女の神々の「心の」マントラ(ハート・マントラ)をつぶやくことによって、浄化される。
 光が自分の心臓から放射されることによって、器としての世界と、その中身としての有情の生命体【魂】、居住者とその住居が集まり、自分の中に溶け、そして最後に『音」(ナーダ)でさえも、放射する光の中に溶け込んでいくとき、長い間この状態にとどまることによって「死」が浄化される。
 放射する光から出る神々の現われとなった状態で、自分自身の中に空であるという確固たる誇りが、発展の段階の経験の真のサインであるといわれている。
 (b)完了の段階を修行する人によって行われる、誕生・死・中間状態という、三つの生存の現象に関して必要不可欠な浄化の修行は、次のとおりである:構造あるいは通路;運動性(or自動性 motility)の動き(ムーブメント)あるいは活動性、潜在力としての創造性または解脱。これらのものが、輝き始める。
 「それから、誕生が、内側の神秘的な火を燃やすことによって浄化され、そして運動性(or自動性)が、ヴァジラマントラ(オーム・ア・フーム)のつぶやきとなり、知性的行為が意図、その他の知的働きによってそれ自身を表わすとき、より高い意識が広げられる。
 瞑想によって、運動性が空の放射する光だけではなく、構造の中央通路の中にも退き、とどまり、その中に溶けるときに起こる。四つのヴィジョンを実体として取る分散がないとき、死が浄化される。(or〜実体として取り、分散がない?)
 中間状態は、放射する光である精神作用と運動性の不可分性が、以前の精神身体の構成要素から分かれるとき、浄化される。この瞬間が、完璧に輝く属性をすべて備えた神々が住居の中の居住者という枠組みの中に生じるときである。
 内側の神秘的な熱が燃え、続いて高次元の意識が広がる直接的でヴィヴィッドな体験が完了の段階の真の本質であるといわれる。
 誕生・死・中間状態という三つの、存在現象を浄化する、発展の段階と完了の段顔を通して、父および母の霊感(inspiration)が完全に明らかになる。これには、簡潔あるいは詳細のいずれかの方法がある。
 (c)四種類の修行を行なっている場合は、食べること、服を着ること、入浴すること、供養すること、つぶやくこと(orマントラを唱える?)、振る舞い、睡眠という7つの規則を守ることは最も重要である。

2.一つの価値であること(注1)


 再びティローパは微動だにせず黙ったまま一年間座った。そしてナーローパが教えを求めると、ティローパは不意に起き上がり立ち去った。ナーローパはあとを追いかけ、白檀の燃え盛る炎のわきに座しているティローパを見つけた。ナーローパが教えを乞うとティローパは言った。「もしも、教えを欲する弟子がわたしにいたなら、その弟子はこの炎に飛び込んだであろう。」ナーローパは躊躇することなくその言葉に従った。そして体全体が焼け、耐え難い苦痛が彼を打ち負かしたとき、ティローパは単にこうたずねた。「ナーローパよ、どうかしたのか。」ナーローパは答えた。
 過去の行ないによって作り上げられた、この肉体という丸太が
 炎に焼き尽くされ、それゆえわたしは苦しんでいます。
 ティローパは言った。
 我というものの存在を信じている、お前のこの肉体という丸太は
 焼き尽くされるにふさわしい、ナーローパよ。お前の心の中にある
 鏡をのぞいてみなさい。
 (そして心の中に存在しているのは)同等の価値(等しいこと)、
 神秘に満ちたダーキニーの家。
 ティローパが片手でナーローパに触れると、ナーローパは癒された。ここでティローパは、一つの価値あることについての教えをナーローパに施した。
 その教えは、(1)適合(調和)および、(2)一つの価値であること、という2つの部分から成り立っている。
 (1)前者は16の要素から成る。すなわち、4つの確認confirmationに適合すること(注2)、4つの自由の道に適合すること(注2)、つながりを持ち続けなければならない4つの確認commitmentに適合すること(注4)、最高の結果として4つの存在規範に適合すること(注5)である。
 あるいはそれは12の要素から成る。すなわち、「下降する」方法で4つの喜びに適合すること、「上昇する」方法で4つの安定した喜びに適合すること、目的の達成として、4つの喜びに適合することである(注6)
 あるいはそれは9つの要素から成る。すなわち、死んだり眠ったり目を覚ましたりしている限りは、3つの存在形態、あるいは、存在規範に適合することである(注8)。
 あるいはそれは5つの要素から成る。すなわち、熱情を内側の秘密の熱に適合すること、嫌悪を霊的な身体に適合すること、困惑して間違いやすい傾向を輝きわたる光に適合すること、高慢さを発達の途上の段階に適合すること、羨望を純粋な現れ(外観)に適合することである。
 あるいはそれは3つの要素から成る。すなわち、死を、達成された目的として生存の方法に適合すること、(死と再生の間の)中間状態を、確実なコミュニケーションの方法に適合すること、誕生を世界の中に存在する方法に確実に適合することである。
 適合を経験することの核心は、これとあれとであることにおける、それ自身における存在の、これとそれであることを(注9)、理解することであり、本来は偏見を持たないこの認識を保つことであり、それを本来の状態から逸脱させないことである。
 (2)一つの価値であることとは、行ないにつけられた一つの名称である。善と悪のような異なる物事を混ぜ合わせた後の混乱の結果として生じた状態ではない。しかし、これとあれとであることにおける、それ自身における存在の、これとそれであることを理解することは、適合すること、あるいは、一つの価値であることであり、この これとそれであることを理解することは、適合される(同調される)ことである。
 その適用は目に見える現象によって説明できる。ある者が何らかの対象物を目にした場合、快くも不快にも作用し反作用する、主観的な対応物が存在する(つまり、情緒的な調子を帯びた何ものかの経験)。しかしながら、より綿密に調査してみると、何も存在していないのに、何ものかの現れ(外観)が存在している。この現象をさらに深く分析してみると、以下のことに気づく。外的な対象物は外観があることと、空であることの両方である。認識するようになる内的プロセスは(対象物から厳しく区別され、対象物と相反する)主体ではない。そして、それを持って正式な同一化(アイデンティティー)が達成される、はっきりした満足感(別個の内容)という結果に終わる知的関係が、超越(越えること)である。(対象物と主体と知的関係という)依存し合う3つの要因は、外観(現れ)において同時に存在する(注10)。同じことが、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、精神機能(推理と思考の過程)などの他の感覚に対して当てはまる。これは、6つの要素から成り立っている、一つの価値であることである。これらの6つの形態を同時に経験することは、この生に対する没頭を失わせ、死に対して心を配らせる。それは6種の有情(魂)の存在の苦悩を思わせる。それは世間の雑踏を捨てさせ、そして、すべての行為が申し分のないグルに献身させることによって、心と魂の休息をもたらす。
 この状態を邪魔されずに保つこと――この状態においては、何ら外的な関係は存在しない――が適合することの真の実践である。

(注1)より詳細な解説については第2編を参照のこと。
(注2)上述参照、pp.41およびnn.1−3。
(注3)これらは確証的な経験の範囲内における認識である。また第2編の脚注も参照のこと。
(注4)それらはまた、生きた経験の鮮明さを保ち、その経験を形骸化した概念に変えないようにするために、confirmationとも関連づけられる。
(注5)それらは、確実に世界の中に存在すること(sprul-sku,ニルマーナカーヤ)、確実に他と共に、そして他のために存在すること(lons-sku,サンボガカーヤ)、確実に色々な状況に対処すること(chos-sku,ダルマカーヤ)、これらの存在についての規範の統合と保全(no-bo-nid-kyi sku,スヴァーバーヴィカカーヤ)である。
(注6)この種の適合はカルマムドラーの経験に密接に関係しており、第2編で解説するつもりである。
(注7)これは特に、中間状態(バルドー、アンタラーバヴァ)の経験に言及している。第2編参照。
(注8)原典は gnas-lugs と yin-lugs の間に重要な区別をつけている。前者は Being-in-itself という哲学用語に対応しているが、この Being-in-itself は観念的な考えによって把握されることはできず、また、本来実体のないもの(?)である。最大限言えることは、それが生存するという「そっけない事実」に名前をつけたということである。yin-lugs とは being-there そこにあることで、常に これかあれで (yin-pa)であり、わたしたちが生存(yod-pa)と非生存(med-pa)の仮定を適用している、自分自身を含めた経験的リアリティーの全体。前者のすべての行為が後者の中にはっきり示されているので、Being-in-itself それ自身の中にある、もっと正確に言えば、存在するという事実は、それが being-there の中にある限りは、わたしたちの経験的リアリティーである。一方で生存と非生存の仮定は、以下のような相違は伴うが、Karl Jaspers,Die geistige Situation der Zeit, p.37 が‘Dasein ohne Existenz’(being-there without being-in-itself それ自身の中に存在しないで、そこにあること)と呼んだものを形作る。その相違とは、彼の哲学においては Dasein (being-there) は人間に限定されているが、タントラの教義においては、それは世界全体に関わっていることである。yin-lugs と名付けられたものは、Being-in-itself によって広められた being-there である。このことは、わたしたちが Being-in-itself に従って生きることを可能にし、わたしたち自身をその可能性に適合すること、さらにまた波長を合わせた状態(適合された状態)から、経験的リアリティーの束の間の性質に確実に対処することを可能にする。この問題は sGam-po-pa, v.21a sqq. によって取り扱われている。
(注9)so-ma. sGam-po-pa, vi.10a および xxvi.4b によれば、それは3つの要素から成る。すなわち、身における行為は偏見のない全体的な見方という骨格の中においてなされ、言葉は強制されない自発的なヴァイブレーションとなり、心は概念という足場なしに作用することである。
(注10)sGam-po-pa, 4. 4a; vi. 3b; x. 28a 以降; xxiii. 6bその他で指摘されているように、「現れ」(snan-ba)は、「数学的時空に存在する、誰が見ても分かる、無色で、無臭の物質が、一つの用語、そして、感じとられた時空関係に存在する、審美的な、感じとられたデータが、二番目の用語で、個々の観察者が、三番目の用語」(F.S.C.ノースロップ、「東と西の出会い」78頁)というように、三つの用語で定義される関係ではなく、場の性質を持っている。この場の一つの構成要素は、未決定、または、ガンポパの言う「至福、輝き、不可分性」である。これは変わることの無い、第一の要因である。なぜなら、どのような区別であっても、それは常に、その区別が存在するのに必要な未決定な連続体の区別だからである。これは、「現れの確実な要因」(snan-ba-la nes-pa)と呼ばれる。二番目の構成要素は、主体と、客体と、その二つの間の認識関係との偶然性である。これは、「現れの偶発的要因」(snan-ba-la ma-nes-pa)と呼ばれる。よく知られているように、ヒュームと現代西洋の実証哲学者達は、第一の変わることの無い要因を無視し、偶発的な、移ろい易い区別に注意を集中した。仏教タントラの現れの分析によって、即座に把握できる事実の全体は、一時的な区別の単なる集合という事で説明がつくという、現代西洋の仮説の誤謬が明らかになった。痛烈な批判については、F.S.C.ノースロップ、前掲書、395頁以降、および、彼の「科学と人文学の論理」95頁以降を参照のこと。

3.Commitment(注1)

[注1:より完全な議論は、第二部を見よ。]
 ティローパは、一年間、密生した森で過ごした。布施として、食べ物を与えて貰いたいと、常に望んでいた。ある日、葬儀用の記念碑(ストゥーパ)の浄化のために、近くの町で、祭が行われた。ナーローパは、たまたまそこへ行った。そして、自分の托鉢鉢が一杯になると、その食べ物をティローパに供養した。音をたてて食べながら、ティローパは「ナーローパ、これはおいしいよ。」と言った。ナーローパは「以前は口をきいたことがなかったのに。今日は機嫌が良いようだ。」と考えた。そこで、ティローパに、もっと食べ物を持ってこようかと尋ねた。ティローパは「ああ、そうしてくれ。」と答えた。そして、水の一杯入った水差しと、木刀を渡して、「もしも、すすんで渡してくれなかったら、食べ物に水をかけるんだ。もしも、お前を追いかけてきたら、砂埃に水の象徴を描くんだ。それで、もし連中が戻らなければ、木刀を振り回せ。」と、付け加えた。
 この国では、二度目に家に来ても、布施をもう一度受ける事は出来ないというのが、習慣であった。それゆえ、人々が「前に貰ったではないか。」と言って、もう一度布施を施そうとはしなかったので、ナーローパは食べ物に、水をかけた。「こいつは、米に水をかけた。」という叫びを聴いて、何人かがナーローパを追いかけてきた。あわや捕まるというところで、ナーローパが砂埃に水の象徴を描くと、追跡者が渡れない湖が現れた。すると、ある老女が、「湖の水を、はかせるんだ。」と助言した。彼らは、穴を掘り始めた。やがて、彼らはナーローパを追いかけられるようになった。すると、ナーローパは刀を振り回した。その刀は鉄小屋になり、ナーローパは、気付いてみるとその中に座っていた。老女は、男達に「炭とふいごを持ってきて、火を起こすんだ。」と言った。男達は、その通りにした。熱さのために、もはや中にいられなくなると、ナーローパは、表に飛び出し、逃げた。もう少しでティローパの所に着くというところで、ナーローパは捕まり、棒と石で打たれて、半殺しの目にあった。ティローパが近づいてきて、「ナーローパ、どうしたんだ。」と尋ねた。ナーローパは、こう答えた。
米のように突かれ、胡麻のように押し潰され、
わたしの頭は裂け、苦しんでいるのです。
すると、ティローパはこう言った。
輪廻という、このねじれた銅のやかんは
潰されるにふさわしいのだ、ナーローパよ。
ダーキニーの謎の家という、commitmentである、
お前の心の鏡を見てみろ。
 ティローパは、ナーローパの手に触れて、ナーローパを治した。そして、ナーローパにCommitmentという、望みを叶える宝石についての教えを垂れた。
 この教えは二つの部分より成る。即ち、(1)信用と(2)遵守obsevationである。
 (1)一般的に言って、たとえそれが、帰依をすることの儀式をただ行うだけの事であっても、自分でやると引き受けた事に、逆らう行為をしない場合に、commitmentが存在する。しかし、「壷」のconfirmationを得た後で、世界を神聖な館であると考え、そこの衆生を神と女神であると考えるというcommitmentに失敗しない場合に、commitmentはマントラを教える上で、特に、最高の訓練discipline において、とりわけ機能を果たす。
 ここで、本当に世界にいるというcommitmentの基礎であり、「広がり」と呼ばれる、「壷」のconfirmationの経験は、普通の望みを叶える宝石である。
 本当の伝達のcommitmentの土台であり、「非二元性」と呼ばれる、「謎」のconfirmationの経験は、「上の門」(注1)という名で知られている、六つの解放の修行の中に、見いだされる。
[注1:Tshk 3bも見よ。]
 諸状況を本当に取り扱うcommitmentの基礎であり、「深遠」と呼ばれる、「判別と理解を通じての超越した認識」のcommitmentの経験は、永遠の喜び(注1)(の認識を超越している)ダーカとの神秘的な連想であり、「下の門」として知られている。
 本当の存在の様々な側面の不可分性のcommitmentであり、「完全な深淵」と名付けられた、「四番目」のconfirmationの経験は、マハームドラーの認識(注2)の解明である。これを利用するには、この一元の経験が、粉々にならないようにして、奉仕と注意から引き離されないようにして、この精神的な栄養を摂るようにして、その神秘的な性格をとどめるようにして、この本当の存在を守るようにして、生きようとしなければならない。
[注2:同書、4a。より完全な説明は、同書、7b-8b。また、第二部も見よ。]
 「広がり」という名のcommitmentは、三つある。(a)(自分の存在の)土台への生起のサマディ、または、同時に生じる認識(注1)を通じて、本当の状況性を保存する事。(b)その経験としての大いなる至福への生起のサマディ、または、直感的な理解を通じて、本当の伝達を保存する事。(c)近親感への生起のサマディ、または、(全ての魂のこの心の本質に)気付く事を通じて、本当のこの世の存在を保存する事。
[注1:この言葉については、***頁の注3を見よ。]
 「非二元」という名のcommitmentも三つある。(a)(自分の存在の)本質に気付くこと。(b)道を渡ることを経験すること。(c)目標に到達しなかったことを懺悔すること。
 (a)認識上の行為の非二元性としての心と、空は、いかなるものによっても把握できないが、まさにこの心の歓楽としての現れが、絶えず存在する。それゆえ、現れは心なのである。心は究極的なものであり、これはダルマカーヤから独立したものではないので、それは何かであり、どこかにある、というように考えることは出来ない。
 (b)心の中身が行ったり来たりしている間に、commitmentという願いを叶える宝石を保存する必要が有るということに気付くということは、それを経験したということである。
 (c)グルである本当の存在へのcommitmentに失敗すると、大きな罪を犯した事になるので、次のやり方で、懺悔しなければならない。自分のグルが生きているなら、ヴァジラサットヴァの瞑想を、この瞑想の特殊な特徴が現実のものとなるまで、修行した後で、グルにconfirmationを頼まなければならない。グルがもはや生きていない場合は、そのグルの精神的な系統にいる人に、七回、または三回、または、その場合に応じて必要な回数だけ、confirmationを頼まなければならない。
 同様に、法友に対して怒ったことによって、罪を犯したなら、祭壇の前で懺悔しなければならない。
 しかし、悪行を行ったり、戒を破ったりして、罪を犯したなら、懺悔を細かく行い、始めからやり直さなければならない。
 グル自身である本当の存在へのcommitmentに失敗しないように注意をすれば、全てのcommitmentは維持される。グルと、父と母の形状をした守護神が不可分である、という技法を使うことによって、グルはこの神となって現れ、母はヴァジラヨーギニーとなる。三宝も、グルという本当の存在と一致する。即ち、グルのこの世の存在は聖なる集合であり、ダーカと、教えを守る者達と、法友は、聖なる集合なので、この三つはグルのこの世の存在を形成するのだ。伝達は高貴な教えであり、自分の状況の本当の解決は覚者の境地である。
 (2)遵守とは、本当の存在、即ちグルへのcommitmentを、一つのcommitmentが次のcommitmentを産みだし、それと融合する安定の状態内で守ることである。 手短に言うと、それは、自己非難の感覚と罪悪感が入り込まない、周りを喜ばせる確信である。なぜなら、善は、その因がどれほど小さなものであれ、善を知ることによって現実化し、悪は、その因がどれほど小さなものであれ、悪を知ることによって現実化するから。


4.神秘的な熱(注1)

[注1:この主題の細かな分析は、第二部にある。]
 ティローパは、再び、一年間、座ったまま動かなくなり、口もきかなくなった。ナーローパが、ふさわしい身振りをし、手を組んで、ティローパの回りを歩いて、教えを乞うと、ティローパは「ついて来い。」と言って、その場を去った。そして、暗く深く、蛭のたくさんいる淵の側に座ると、ナーローパに「この淵に橋を架けるような弟子がいればなあ。」と言った。この言葉を文字通りに取って、ナーローパは橋を作り始めた。水に腰までつかると、足を滑らせ、水に潜ってしまった。水がかき乱されたので、蛭や、その他の害虫が群れを為してやって来て、ナーローパの身体に食って入った。血がなくなったために、溶けていくような感覚を覚え、この空になった個所に水が流れ込んできたので、凍りつくような感じがした。ティローパは「ナーローパ、どうした。」と尋ねた。すると、ナーローパは、こう答えた。
蛭に噛まれて、わたしは溶ける、わたしは凍る、
わたしは自分の身体の主人ではない、だからわたしは苦しむ。
ティローパは、こう言った。
以前の行為によって作られた、おお前の身体というこの淵は
氷に変えられるにふさわしいのだ、ナーローパよ。
神秘的な熱である、お前の心の鏡を見つめるのだ。
ダーキニーの謎の家を。
 手で触れて、ナーローパを治すと、ティローパはナーローパに、永遠の喜びと温かさがそれ自身で輝いている、神秘的な熱についての教えを垂れた。
 この教えは、(A)生き生きと観想することによって、この熱を経験するという可能性を、どのようにして信じるか、そして、(B)それを手段として、どのようにして使うのか、という二つの部分からなる。
 (A)は、三つの部分からなる。(a)(神秘的な熱は)心身(または、自分自身であること)を通じて、霊性を通じて、そして、この両方に共通であることを通じて、手の届く、それ自体で存在するもの(として観想しなければならない。(b)この神秘的な熱を経験する方法は、道であり、(その道が通じているのが)(c)永遠の喜びと空である真の存在の目的、または認識である。
 この区分について、偉大な学者ナーローパは、こう言った。

存在と道
そして、目的を実現する場合の諸段階(注1)
[注1:lHa'i btsun-pa Rin-chen rnam-rgyalは、この詩をナーローパの作としているが、実際には、ティローパ自身に遡る。ティローパは自著の「アーハプラマーナ・サムヤク・ナーマ・ダーキニー・ウパデーシャ」1aに、この詩行を記している。カギュ派の権威あるチベット語の経典では、テンギュルに残されているものと、内容の並べ方が違う。ここの翻訳では、存在Being (dnos-po'i gnas-lugs)という言葉は、より正確ではあるが、より長い「それ自体の存在が可能であるものとしての、そこにある存在being-there as possible Being- in-itself」の短縮形である。]
 最初のセクション(a)には、三つの区分がある。(1)精神的有機体として、(2) 霊性として、(3)両方に共通なものとして見なされることである。(注2)
[注2:この分類は、ティローパの分類と違う。thun-mon「共通の」、「一般の」という言葉は、自分自身であること、その人自身であることを通じて、それ自体の存在や、真理の超越した全体を認識している、自己を意識している個人を意味する。このように、この言葉は、全てを包含している精神性(sems)というよりは、精神的有機体に属している。Padma dkar-po は、自著Sphzg 12aで、そのようなものとして解説している。]
 最初の区分の(1)には、さらに、三つの下位区分がある。《1》通路(注2)、または、静的なもの、《2》運動性(注4)、または、動的なもの、《3》解脱の潜在能力、または、創造的なもの、である。ナーローパがこのように述べている。
[注3:この言葉の訳語については、**頁の注1を見よ。;注4:この訳語については、ノートF、***頁以降を見よ。]
 通路は静的で、運動性は動的で、
 解脱は創造的である。

 これらの《1》の最初のものには、三つのセクションがある。(1)粗雑なもの、(2)微細なもの、(3)非常に微細なもの、である。
 (1)破壊されることの無い、精神的有機体(これは、ストゥーパのようなもである)の真ん中に、この体系の軸である、中央の通路がある。これは、上にある泉門から入って、下にある、会陰部で終わり、四つの特質を持っている。(注1)右側に、白と赤(白が優位)のラサナーが、へその下4インチの所から派生し、右の鼻孔に続いている。同じ点の左から、白と赤(赤が優位)のララナーが派生し、左の鼻孔に続いている。この二つには多くの枝がある。次いで、二つの太い枝が、眉毛の間の点で、中央の通路に入り、頭の白い部分を形成している。他の多くのものが、ここから枝分かれし、二つの太い枝が、両目と両鼻孔に入り、そこで機能している。二つの大枝以外は、細かく分かれている。
 [注1:四つとは、赤さ、光沢、まっすぐさ、空っぽであることである。]
 中央の通路の、頭の部分に、永遠の喜びの「頭の」焦点があり、32の花弁のある蓮華に似ている。それには、様々な色が付いているか、または、白である、結合力を表し、少し下を向いている。喉の部分には、伝達の「喉の」焦点があり、16花弁の蓮華である。色は赤で、温度を表し、上を向いている。胸の間、または、心臓に、状況を取り扱う「心臓の」焦点があり、8花弁の蓮華である。色は黒で、動きを表し、下を向いている。へその所には、構造の「へその」焦点があり、64花弁の蓮華である。色は黄色で、力を堅固にすることを表し、上を向いている。これらの粗雑な構造の道の総計は、120である。
(2)「心臓の」焦点の8つの花弁の、各先端は、三つの通路に枝分かれしている。これらは、その有機体の24の部分を結び付けている。この後者の各部分には、三つの枝がある。その結果、72の蓮華に座られた道がある事になる。これらは、総計が72、000になるまで、枝分かれを繰り返す。
 (3)身体の毛と同じ数だけの、非常に微細な通路がある。
 《2》運動性、または、動性は、二つの部分からなる。(1)現実性、そして、(2)区別である。
 (1)心によって身体に活力を吹き込ませ、全ての活動の土台の役を果たし、身体を広げ、動かすものは、ここでは、運動性の現実性だと考えられている。
 (2)区別は、通路に沿って、ヴァイブレーションになっていく、五種類の運動性に基づいている。
 (a)「下に動いているもの」は、動きのヴァイブレーションである、アモーガシッディである。色は緑で、秘部にある。これは大小便を除去したり、とどめたりする働きをする。
 (b)「火のようなもの」は、凝固のヴァイブレーションである、ラトナサンバヴァである。色は黄色で、へその所にあり、消化を司っている。
 (c)「生命を保持するもの」は、結合のヴァイブレーションである、アクショーブヤである。色は青で、心臓の所にあり、呼吸を司っている。
 (d)「上に動いているもの」は、温度のヴァイブレーションである、アミターバである。色は赤で、喉の部分にあり、唾液や他の液体の流れを司っている。
 (e)「包含するもの」は、広がりのヴァイブレーションである、ヴァイローチャナである。色は白で、頭と四肢にあり、身体の動きと体位を司っている。
 この五つの主要な型の、二次的な形態に従った、別の区分がある。
 (a)「火のようなもの」の一つの枝は、「動いているもの」と呼ばれる。これは、目にあり、満開の胡麻の花のような形をしていて、視力を司っている。
 (b)「生命を保持するもの」の一つの枝は、「本当に動いているもの」である。これは、耳にある溝で、聴覚を司っている。
 (c)「上に動いているもの」の一つの枝は、「明らかに動いているもの」である。これは、花にある銅の針に似ていて、嗅覚を司っている。
 (d)「下に動いているもの」の一つの枝は、「素早く動いているもの」である。これは、舌にあり、半月形をしていて、味覚を司っている。
 (e)「包含するもの」の一つの枝は、「非常に素早く動いているもの」である。これは、鳥の羽に似ていて、身体中にある。特に、皮膚と性器にあり、感覚を司っている。
 別の区分は、機能によるものである。これは二つの部分からなる。(1)行為の運動性、そして、(2)認識の運動性、である。(注1)
[注1:ノートF、***頁以降を見よ。]
 さらに、瞑想中の感覚に従った区分もある。三つの部分からなり、(a)男性、(b)女性、(c)中性、と呼ばれる。(注2)これらの各々は、三つの相に下位区分する事が出来る(男性−男性、男性−女性、男性−中性;女性−男性、女性−女性、女性−中性;中性−男性、中性−女性、中性−中性)。
 最後に、振動率による区分がある。健康で、安静状態(とは言っても疲労から安静にしているのではない)の成人男子の場合、呼気と吸気と、その二つの中間の状態を1単位と考えた、呼吸の割合は、丸1昼夜(24時間)で、21、600回である。この割合は、中央の通路に属する。同様に、昼と夜を均等に二分すると、各々10、800回となる。この割合は、右と左の通路に属する。この期間を、さらに、四つの「thun-chen」(各360分)に分割すると、その割合は5、400回となる。これは、性欲の焦点に属する。さらに、八つの「thun-phran」に分けると、2、700の割合になる。これは、「心臓の」焦点に属する。次に、16の「pho-ba」(各90分)に分割すると、1、350の割合になる。これは、「喉の」焦点に属する。さらに、32の「chu-tshod」(各45分)に分割すると、675の割合になる。これは、永遠の喜びの「頭の」焦点に属する。最後に64の「dbyug-gu」(各22分半)に分割すると、3371/2の割合になる。これは「へその」焦点に属する。
[注2:この区分はティローパ、前掲書、2bに見られる。「男性」は、通常の運動行為を、「女性」は、感覚上の運動行為の、外的指示対象からの初期の分離を、「中性」は連続的な分離を指す。Sphzg 96a; Sphkh 16b以降も見よ。]
 横道十二宮に関して言うと、呼吸の割合は、各1、800である。この割合は、四つの焦点に属する。さらに、性器にある、変化する喜びの焦点の12花弁の蓮華では、横道十二宮に関して言うと、呼吸の割合は、各1、800である。この割合は、四つの焦点に属する。さらに、性器にある、変化する喜びの焦点の12花弁の蓮華では、横道十二宮の呼吸の割合は、各1、800である。各々の花弁は五つの先端に枝分かれし、全部で60となり、そこでの割合は、各360である。(子午線)通過中には、呼吸数が、認識の運動性(注2)から中央の通路に入る。それは、11と4分の1である。12花弁の宿(しゅく)では、割合は、56と4分の1である。中央の通路からの、認識の運動性の呼吸数は、一昼夜の期間で、総計675である。このヴァイブレーションは、まず知覚できない。
 五つの感覚器官の運動行為としての、運動性は、粗雑である。80の自己充足している反応様式(注1)としては、それは、微細である。三つの反応の潜在性(注2)で働いている認識の運動性としては、それは、非常に微細である。
[注1:反応様式は、反応の可能性と潜在性から発展する。反応様式は表だった振る舞いを決定するが、その反応様式自体は、前意識である。33の様式の根は、反感への潜在性にあり、40の様式の根は、情熱・欲望への潜在性にあり、7つの様式の根は、当惑の潜在性にある。これらの様式は、意識的な経験において、確定した内容で満たされる、中身の無い形状に、より近い。

注2:三つとは、「反感」と「情熱・欲望」と「当惑・過ち」である。しかし、これらの名前は、少し誤解を招き易い。これらは、確定的な感情ではなく、前に述べた反応様式を通じて、または、その反応様式の範囲内で、具体的な感情の経験に徐々に発展していく、潜在性である。本当の事から逸れていることを示すために、滅多に使われない「過ちerrancy」を使った。]
 《3》解脱の潜在性、あるいは、創造的なものは3つからなる。(a)粗雑なものは A−Ham(すなわち I わたし)と呼ばれる。(b)それ自身の存在が可能なものとしてのそれ自身であること。不滅で、常に新しい可能性に対してオープンである。心臓を通してわたしのそこにあることの中にへと手を伸ばす。(注2)(c)非常に微細なものは、始まりのない存在の中の、物質【有形;形あるもの】を作り出す力の親戚(好み;類似)で、白と赤で象徴される。(注4)
(2)霊性(精神性)として見られることには、3つある。(a)五感の知覚としては、粗雑(b)80の自己充足的反応としては、微細(c)3つの反応潜在力としては、非常に微細。
(3)精神有機体と霊性両方に共通であるとは、微細な側面における自動性と、反作用の潜在的可能性に応じた霊性−(精神性)が、水の中に注がれた水のように、大昔から不可分なものであることを意味しており、それゆえ、いわゆるサムサーラとニルヴァーナを充分に果たす。そのように rDo-rje 'phren-ba(ヴァジラマーラー)の中で述べられている。
(注3)これは原文の mi-sigs-pa'i thig-le の翻訳というよりむしろ言い替えである。限定詞の mi-sigs-pa は「不滅」を意味し、まさにわたしの本性を Being-in-itself とも being-oneself とも名付けたものである。
 thig-le は「創造的潜在能力」を意味し、それゆえ Being は明確に定義された実体ではなく、無限の可能性に対して開かれた何かであることを示している。同じ考え方が Zmnd 34a sqq. において詳細に解説されている。
(注4) Rzd 153a もまた同様である。この考え方の分析についてはp.65脚注も参照のこと。
(注5)つまり、80の反作用のパターン。原典は現代の言葉に言い替えることができる。自動性と mentation の不可分な性質は、意識的な情緒的行動の発祥地である。

(B)神秘的な熱を成就という目的に至る道として経験するやり方は、次のようなものである。

 (a)トゥモという言葉の意味。「トゥ」(激しい、荒々しい)という音節は、解脱に役立たないすべてのもの、すなわち、あきらめなければならないすべてのものを直接的に克服することを意味し、「モ」(母親)という音節は、徳の中のすべてのよきもの、すなわち、得られなければならないすべてのものを自然に産み出す。母性というものを示している。
 (b)その実際性は、自ら光り出す輝きの広がりによって起こる、永遠の喜びと無の意識である。
 (c)分化(あるいは差異:differenciation)は、外側・内側の、神秘的、究極的な熱として起こる。
 (d)その比較は、外側のものは火のようであり、内側のものは(医)薬のようなものであり、神秘的なものはライオンのようなもの、そして究極的なものは、鏡のようなものである。
 (e)その機能は以下のとおりである。
 ・外側のものは、八万の障害を克服し、感覚のある有機体の中に、温かさのの感覚を生み出す。
 ・神秘的なものは、八万四千の本能的な力を克服し、永遠の喜びと空の意識を、感覚のある有機体の中に生み出す。
 ・究極的なものは、言葉の真の意味における、トゥモである。それがトゥであるのは、無意識の暗闇を追い払うからであり、それがモであるのは、知性的行為としての(子供である)意識を生む母親だからである。
 (f)その効果。外側のものは、身体構造を、朱のような光でほてらせる(あるいは燃やす)。・・内側のものは、放射【or熱】を、弓の張りつめた糸のように真っすぐ広げる。
 神秘的なものは運動性を、熟練した射手が弓矢を放つように、力強く発展させる。そして究極的なものは、強風の中で光を守るようにひたむきに精神と霊性(spirituality)を守る。
 (g)燃え方。上向きには、自ずから存在する意識(self-existing awareness)の中に燃え上がって「上の門」に至る通路を照らしだす。下向きには、定義できない永遠の喜びの中に放射して、「下の門」の本体(エッセンス)を照らしだす。中間には、サムサーラの連続性の中で燃えながら、通路と、それとともにある運動性の限界を見せる。
 (h)効果。外側のものは、たとえヴァイブレーションのコントロールに関する技術が弱いことがあっても、身体の温かさが失われるないということ。内側のものは、病の起こる機会がないということ。神秘的なものは、雑念と人の自分自身からの分離が、超越的で一元的な意識に変わるということ。
 (i)その十のサイン【印】。
  (1)物質性を生み出す力のコントロールに関連した一般的な五つのサイン【印】
  (2)完全に確立されたコントロールに関連した、五つの特別なサイン、である。
 (1)前者は次の通りである。凝固させるヴァイブレーションが支配下に入ると、煙を見るという経験をする。結合のヴァイブレーションのときには、眼前に光輝くものが現れる。温度のヴァイブレーションのときには、土蛍のような微光が存在する。動きのヴァイブレーションのときには、炎の光が存在する。広がりのヴァイブレーションのときには、雲一つない空という感覚的なヴィジョンを持つ。従ってティローパはこう言った。「5つの物質性を生み出す力のヴァイブレーションが支配下に入ると、煙のヴィジョン、眼前の輝くもの、土蛍、炎、雲一つない空を生じる。」
 (2)凝固のヴァイブレーションの支配が充分に確立され、このヴァイブレーションが安定して留まったときに、肉体−心は固定した感覚を持ち、その者は太陽光線のヴィジョンを見る。同じことが結合に関して生じたとき、肉体は発汗して寒くなり、月の光線のヴィジョンが存在する。温度のときには、肉体は非常に熱くなり雷光が存在する。動きのときには、肉体は非常に力に満ちて敏捷に動き、虹のヴィジョンが存在する。広がりのときには、肉体は、肉体が存在しているという認識がないにもかかわらず、広々として歓喜に満たされた感覚を持ち、その者は太陽と月が互いに融合するというヴィジョンを見る。ステージの高い者は、あたかも実在の世界で起こったかのように、この経験を行なう。並みのステージの者は、それとなく起こったような気持ちの中で、起こったかのように、この経験を行なう。ステージの低い者は、あたかも夢の中で起こったかのように、この経験を行なう。ゆえにティローパはこう言った。「直接目にすることができる安定の5つの徴候とは、太陽光線、月の光線、稲光、虹、太陽と月の融合である。」
 (j)8つの特性。これは(1)4つの一般的な引きつける特性、および(2)4つの崇高な特性である。
 (1)前者の4つは、道筋によって富を、自動性によって人々を、創造的潜在能力によって確実性を、そして3つのすべての要因(注1)が、等しく完全に存在することによって、3つの世界における生と美を獲得することを意味している。

(注1)狭い意味での生きた構造を示す通路、そして、広い意味での人の真の存在は、このように生きることの豊かさを象徴する。人のこの世界での存在は、もはやみすぼらしい(苦しい)ものではない。同様に、最も便利な伝達の手段としての、運動行動と、話すことへと発達する運動性は、人が、力、あるいは破壊する衝動の対象としてではなく、個人として他の人々とコミュニケートすることを可能にする。そして、無限の可能性に対してオープンであることによって、特異性、客観性という融通のきかない陳腐さに固定化されない。

 (2)他の4つは、「下向きに動くもの」と「上向きに動くもの」に対する支配を獲得することによって、世界の終末の時に始まり、無数の太陽と月を破壊する、すべてを焼き尽くす炎に、危害を加えられる可能性がなくなる、ということである。「生命を保つ(持つ)もの」を支配することによって、力強い流れを上向きに流れさせることができ、「取り囲むもの Encompasser」を支配することによって、空中で歩いたり座ったり、空中を飛ぶことができる。


APPARITION

5.あらわれ(幻)


 ティローパは、さらに一年間動かないで黙ったまま座った。ナーローパはその場にふさわしい仕草で、手を組み合わせてティローパの周りを回り、ティローパが彼に一瞥を投げると、教えを乞うた。ティローパは言った。
 「教えが欲しいなら、火とアシと脂肪を持ってきなさい。」
 ナーローパがそれを運んでくると、ティローパは、アシを割ってナイフで削った。そしてその端を火で熱しておいた脂肪に付け、それをナーローパの身体に当てた。痛みに耐えられなくなったとき、ティローパはこう聞いただけだった。
 「ナーローパ、どうかしたのか?」
 ナーローパは答えた。
中に覚者の本質(or仏性の本質)がある
輪縄がわたしを責め苛んでいます。
わたしは苦しいのです。
 ティローパは言った。
この「わたし」というものを信じているお前の身体という輪縄は、
切られるにふさわしいのだ、ナーローパよ。
幻身(ファントム・ボディー)が生起するお前の心の鏡を見よ。
ダーキニーの謎の家を。
 ティローパは手で触れて彼を癒し、それ自体において八つの俗事から解放されている現われについての教えを授けた。
 この教えは二部からなっている。
 (1)すべての思想学派によって認められている幻影
 (2)ヴァジラヤーナで教えられ、修行されているような、魔法としての現われの経験

 (1)魔法使いは、石や木片に呪文を唱えて、男・女・馬・雄牛・ロバ・ラバ・部屋・家・その他たくさんの幻影の現われを、実際には存在していないにもかかわらず、あたかも存在しているかのように創り出す。魔法使いのパフォーマンス【わざ】で目くらましをかけられた人々は、それから自分が見たものを真実ととり、これらのものに憧れるのである。しかし、魔法使いは、家や雄牛等々に見えるものに惹かれることはない。この魔法の雰囲気に影響を受けない人は、家や雄牛の誤ったヴィジョンのようなものを見ることはない。彼にとって、それは石と木片にすぎないのだ。同じように、普通の人にはすべての現象が、真実のものとして映り、それに憧れることによって、カルマを積み、その結果に苦しまなければならないのである。空を直観的に把握する独覚や到達真智運命魂は、同じ現象を真実と見るが、それに憧れたりすることはない。覚者にとってのみ、狼狽させる現象は存在せず、また、それに憧れたりすることもないのである。:そこにあるのは純粋な現われのみである。現象性(? Phenomenality)は、ナーローパの十二の明喩(ひゆ)によって説明される。
  魔法・夢・目の前のきらめき。
  影(or反射)、稲妻、こだま、虹。
  水に映る月、夢の国(or不思議の国)、目の前のほの暗さ、
  もやと幻。
  これらが現象の十二の明喩(ひゆ)である。
 簡単にいうと、サムサーラが矛盾する場であると知って、死が不確かなものであると認識し、あらゆるものを、それが感覚に現われるままにしておく。・・そして絶えず、自分自身にすべては夢であり、魔法であると言い聞かせ、思考の中で自分自身を、その半透明な状態で、ゆうべの夢に合わせる。つまり、絶えず魔法を検査することによって、よりよい魔法の理解を得ようと努力するのである。
 特に、これは神秘的な現われの身体を扱う。つまり、あらゆる普通の生命体の精神的有機体は、二重になっている。(twofold)
 (a)束の間のものと、(b)本当のもの、の二つである。

 (a)前者は、物質性を生み出す力によって作られた有機体で、経験的に始められた経験の潜在力の衣をまとい、生命の六つの形のうちのいずれにも生まれる。
 (b)本当のものは、単なる運動性と(精神性)・霊性である。本当のものは、束の間のものを去ったり、またそれから離れたりすることはない。
 たとえ粗雑な身体が捨てられても、これは、生命体がもはや束の間の身体も持っていないということではない。死と再生の間の中間状態ですべての感覚器官を与えられている、「心の身体」(mind body)が、束の間の身体なのである。
 しかし、この「心の身体」は、本当の身体ではない。その性質は、むしろ、水と、その温かさのようなものである。単に運動性と精神性、霊性(mentality-spirituality)でなっている真実の身体は、その性質に関して、水とその湿気(moistness)に比べてもよいがもしれない。物質化【有形化】する力によって、その製品(product)として形成された粗雑な身体がある限り、束の間の身体は、ゲストハウス【客間】のようなものであり、本当の身体は、その中にいる客のようなものである。それゆえ、微細な身体と本当の身体、、つまり、運動性と精神性・霊性は、それ自体の中にいることによって、偏在しているそこにあるものとしての、(現)幻のような存在(apparitional existence)を得る土台である。

 (2)経験の段階の本質。神秘的な身体・図において、上・下、および中央に向かって動くと、想像される深呼吸によって、あるいは神秘的で内的な熱が燃え上がることによる、刺激と知覚によって、土台がつくられる。その後、別の種類の呼吸、つまり三音節(オーム・ア・フーム)のヴァイブレーションがリードをとる。それから、二つの瞑想過程、溶解(dissolution)とevaporation(蒸気、気化、消散)によって、Absorption が、そして、中央の通り道がいかにしてパートナーのヴァイブレーションの栄光によって照らし出されるかを感じるとき、集中の力によって、行動・運動性の動きが止まり、そしてすべてのヴァイブレーションが中央の通り道に入り、とどまり、消えるのである。
 中央の通り道にヴァイブレーションが入ったというサインは、一様な(むらのない)動きで、それがそこにとどまるサインは、腹部が動かないこと、そしてそれが消えていくサインは、(密着)結合した堅さが溶解していくことに関連した四つのサインであり、後のものは、温度において、これはヴァイブレーションにおいて、これは(あるいは知的)能力においてで、それぞれ、目の前のきらめき、煙、輝き(orほてり、etc. glow)そしてランプの光である。この四つのサインが過ぎ去り、そしてハム極から心臓の所に甘露が流れ落ちることによる(月のような)柔らかい光としての意識と、A極から心臓のところに赤い火が燃え上がることによる、太陽のような、光の広がりとしての意識と、太陽と次が消滅して起こる暗闇とが過ぎ去り、完全な空(nothingner)である輝く光、ダルマカーヤが、すべてむき出しで輝く。それから、運動性がこの完全な空の光の中で動き始め、逆の順序で暗闇が始まると、この運動性と精神性−霊性の不可分性、原初の(or四十七の)輝く光の乗り物が、その以前の精神身体(サイコ・ソマティック)の要素から離れ、そして最高の完全さですべての大小の幸運の印に飾られ、五つの同じような特徴と五つの特別なfeature に加わり、この運動性が、身体・顔・他の四肢というはっきりした造作(feature)を持つ。そのものの中にいる存在によって、充満した「そこにいること」の中で輝く白い光の現われとなる。これははじめは一つの考えにすぎないが、後に、実存する事実となる。この後 現れは、常に、基本的な知性の能力の現れである故に、至福と空である意識になり、「そのものの中にあること」によって充満した「そこにあること」という魔法として現前する。確固として、いかなる二元の感覚も持つことも無しに、それと一つであると感じることが、この経験の本質である。この、環境背景の中での、真の神の姿は、(発展の段階で)イェシェ・センパ(ジュニャーナサットヴァ、意識の存在 awareness being)がダムツィック・センパ(サマヤサットヴァ、誓約の存在)あるいは昔の精神身体の要素へと消えていくのと同じようにして、自分のセルフの中に退いて行き、そしてこの過程の中で、ヴィジョンによる印が、逆の順序で現れる。目の前の輝きのところまで来ると、すべてが空として認識され、そしてこれが永遠の喜び、神々と女神たちの歓楽なのである。
 (3)結果、あるいは、一致(同時発生)の認識:このような現れ(幻)は、神話の山、メール山の原子の数と同じくらい多くの、経験の相手と合一することができる。そして、それが、汚れなき原初の輝く光の中に繰り返し入る力によって、内的に、意識があらゆる汚れから清められ、そしてすべてが可能であると気付くようになるのである。外的には、今や知識の限界がないので、最も微細なものを知る意識が、広くかなたにまで、広がる。確定していない知性的行為の相関形と、空の形を終わらせる対象の間の正式な同一性において、道とゴールとしての輝く光が、一つの構成単位を形成する。これが、七つの特徴によって特徴づけられた、完璧なコミュニケーションの実現、サンボガカーヤである。
64頁 注1)
テン・ダン・テンパル・カーパ。Sphzg 7bによればテンは、ル、つまり「身体−心」と、テンパはセム、つまりスピリチュアリティ(精神性・霊性)と同義語である。Sphkh 4b では「スピリチュアリティ(精神性・霊性)」は「行為−生まれる」(action-born:タプジュン)であると言われる。これは、スピリチュアリティ(精神性・霊性)が、努力をしていく内に進化することを意味している。それはとるに足らない副産物ではない。それゆえタントラの概念は、付帯現象説と同等に扱われてはならないし、この言説はいかなる因果的理論をも暗示していない。「身体−心」あるいは「そこにいること」と「自分自身であること」からの、スピリチュアリティ(精神性・霊性)あるいは「そのものの中にあること」への「前進表示」があるが、しかし、これは目的論的因果関係の形而上的原理とは何の関係もないものであり、むしろここにあるのは、人の成長における、価値の向上的な高まりと一致する、一種の自然な目的論なのである。Sphzg 14a では、テンパ=セム=セム・ノ・ポイ・ネ・ルクは、「価値」(ヨンタン)と定義されている。

注2)
運動性と精神性から、三つの顔と六つの手を持った、白い形に作られた、覚者の実存は、まずまずの通信機関である。しかしこれは、有情の生命体のためには働かないので、三つの顔と六つの手を持ち、白い色をした覚者アクショブヤに変わらなければならない。彼の心臓にはフーム字がある。その光は頭から足まで全身を溶かし、それをフームの中に吸収する。それから、フーム字は下から次第にその上にかかっている半月、その上の点、同様に空の中に消えて行くことを許されている音の中に、溶けていく。あるいは、ちょうど雪の結晶が水になるように、この現象もどんどん小さくなっていき、しまいに溶けてしまう。これが溶解である。Sphzg 179a。

注3)
「これは、アクショブヤの心臓の部分にフームを観想することに似ている。このフーム字から、光が輝きでて、すべての世界と、そこにいるすべての有情の生命体を光のなかへ溶かす。その後、この光は、息が鏡の上で消えるように、空の中に消えることを許される。」(同書)

65p注
1 チャク・ギャ;ムドラー。この用語はレ・キ チャク・ギャ;カルマムドラーあるいはイェ・シェ・キ チク・ギャ;ジュニャーナムドラーと訳される可能性もあるので、曖昧である。前者は本当の女性で、彼女を通じて説明されたような経験に到る。後者は女性として象徴される内的経験あるいは意識のことを指している。

2 わたしたちの通常の「わたし」(アハム)の硬さ、つまり父母の受胎させる力によって造られた、緊張したパターン、の原因となっている有形化する力は、はじめの合一の後、極に分かれる。父から引き出されたものは、頭の部分に昇り、ハムの中で止まる。それは白いものとして考えられ、生理学的には身体の光沢をつくる。もう一方の母から引き出されたものは、へその部分、あるいはその下の部分に降りて行き、アの中に終わる。これは赤い色をしており、生物の温かさを生じさせる。神秘的な内熱を燃やす修行によって、二極の緊張が溶ける。普通の生命が土台としている、「わたし」という分裂は徐々に治癒され、人は自分を見つけるのである。これをもっと哲学的な言葉で言えば、「そこにいること」と「自分であること」から、「そのものの中にあること」への移行が目的とされるということになる。ツォンカパvi.3,23b sq 参照。

3 Rdz 153 a sqq 参照

66p注

1 五つの類似した特徴が、通常五つの精神身体の要素と呼ばれるもので、それは、形・感情(feeling)・知覚(sensation)・動機・意識である。五つの特別な特徴とは、天国の領域アカニシタでの生、ドルジェ・チャンとして現れること、十の精神的霊的段階の、男女の到達真智運命魂の一団、汚れなき原初の輝く光の光輝、時(時の中で起こる出来事というよりも「時」)

2。。。
3 これは言語上の訳が訳されないままになっている、用語である。ガンポパx31bで「サムサーラとニルヴァーナのすべての実体の絶対的に明確な特徴」としてはっきりと説明されている。同じ場所で、彼は、イェ・シェを「そもそもの始まりから、それ自体で純粋で、輝いているスピリチュアリティ(精神性・霊性)」と訳している。。。。

67p注

1。。。

P.69
6.夢


 ティローパは、また一年じっと座り続けた。ナーローパは適切な身ぶりをし、手を合わせて、彼のまわりを回り、祈りを唱えた。そして、ティローパが彼をちらりと見ると、教えを乞うた。ティローパは「教えが欲しいなら、ついて来い」と言うと、立ち去った。広い野原の真ん中に、荷物を持った一人の男が現れた時、ティローパが言った。「彼を追いかけろ!」ナーローパは、そうしたが、男は蜃気楼のように、彼方に消え続けたので、捕まえることができなかった。男のヴィジョンを追い続けたナーローパが、疲れ果てて、動けなくなった時、ティローパがやって来て言った。「ナーローパ、どうしたのだ?」そこでナーローパは答えた。
蜃気楼を追いかける鹿のように
誤ったものが現れて、消えました。
ゆえに、わたしは苦しんでいます。
ティローパが言った。
ナーローパよ、この3つの世界のロープ、サムサーラは
断ち切られなくてはならない。
夢の場所である、おまえの心の鏡を見なさい。
ダーキニーの神秘の家を。
 ティローパは、手でふれて彼を治すと、夢、あるいは当惑の自己放棄に関する教えを与えた。
 この教えは2つの部分からなる。
(1) それがやってくるのを待つことによって夢を掴む方法と、
(2) ヴァブレーションに注意を向けるこのよって、夢を掴む方法である。

 (1) スートラの経典も、マントラの経典も、実在するリアリティのすべては、夢のようなものであると主張している。これに心を向けることによって、純粋なエゴという誤った考えの土台がくずされる。さらに、夢のない眠りの中で、人は死の道を歩く。(死の道を踏みつぶす。)夢の中で、人は、死と再生の中間の世界を通る。そして、目覚めると、実在の世界にいる。故に、昼間現れることの独占的なリアリティへの信仰の土台を崩すためには、われわれの世界の幻影的、幻覚的な性質を表す、12の比喩の内で、夢が最も優れた指標なのである。(注1)
 この修行は次のように行う。この世への関心を放棄し、現れの存在のヴィジョンを一定に保つことのできる者が、夜、あるいは、いつでも、眠りに落ちると、彼の注意と感覚はすべて、喉の焦点の中央に集中し、眠りのサインが現れ、小さく、素早く動く、柔らかい光が、喉の焦点で強くなる。しかし、これは、さんぜんと輝く光ではなく、つかまえるのが難しい。(そこから)、運動性が、原始の輝く光の中で動くとすぐに、夢が喉の焦点に現れるので、これがなんであれ、できるだけ長く、これを五感に対する知覚的な見せ物として保持する。これに成功したら、次は、この知覚的な内容を、何倍にもし、この明かされているドラマを縁起の良いものに替え、恐れに対抗するのに使う。この夢の素晴らしい創造性を修習するなら、覚者の世界などが現れることもあり、目覚めている時、昼間に現れるものを真実であるととることによって起こる当惑は、死滅する。
 (2) 内の熱を起こすこと、そして、高められた生命力(注2)の感覚を広げること、及び、3つの神秘的な音節(オーム・アー・フーム)のヴァイブレーションに注意を向けることに熟達したヨーギは、夜寝る時、あるいは、いつでも、同じ修行を行う。しかし、夢が現れる時、彼の夢の生活は特に至福に満ちたもので、ヨーギは、神々しい背景の中で、できるだけ長く、自分をヘルカとして観想し続ける。これが終わると、このヴィジョンの範囲を10倍かそれ以上にし、現れるドラマを、覚者の浄土等に変え、様々な高揚させる状況を作り出す。ある場合には、6つの命の形で積まれた以前のカルマを浄化し、また、ある場合には、様々な生起のサマディに入り、とどまり、そこから現れる。また、様々な世界で、覚者の法を聞くこともある。この夢の状態を修行することによって、目覚めた生活において、外的対象として現れるものが真実であるとする、当惑が死滅し、内的には、固い通路の連結が分解する。

7. 輝く光


 ティローパは再び動く事なく、1年間座り続けた。ナーローパは適切な身ぶりをし、手を合わせて、彼のまわりを回り、祈りを唱えた。そして、ティローパが彼をちらりと見ると、教えを乞うた。ティローパは「教えが欲しいなら、ついて来い」と言うと、立ち去った。花嫁を象に乗せて家に連れて帰っている一人の大臣に会うと、ティローパは言った。「彼らを引き下ろして、引きずり回す弟子がいたらなあ。」ナーローパは言われたとおりにした。しかし、大臣とその従者が彼を叩きのめし、彼が痛みで動けなくなっていると、ティローパがやって来て言った。「ナーローパ、どうしたんだ?」ナーローパは答えた。
この腕の立つ大臣とふざけることはできません。
彼は笑いながら、わたしを粉々にしました。
それで苦しんでいるのです。
ティローパは言った。
ナーローパよ、
わたしというものを信じている、お前の身体であるこの岩は
粉々に挽かれなくてはならないのだ。
お前の心の鏡の中の、輝く光を見なさい。
ダーキニーの神秘的な家を。
 彼はナーローパに触れて治すと、輝く光、知らない事の闇の非存在についての教えを与えた。
 この教えは3つの部分からなる。
(1)土台、あるいは、輝く光の同義語によって表されるそれ自身おける存在。
(2) 道、あるいは、それに従って行くことによる経験、または、類似した光における段階を通しての経験。
(3) ゴール、あるいは、究極的な真実の光の認識(実現)。

 (1)その同義語とは、(a) 基本的光 (b)究極の真実の光(c)類似した光(d)直感的な光(e)さんぜんと輝く光(f)さんぜんと輝かない光(g)経験的な光である。
 (a) これは、現在ニルヴァーナとサムサーラ(注2)の至福と不幸を経験している、知的行為の輝きと不滅である。
 (b) これは、人の存在において、高い階級の、一つの価値であること(注4)を悟った後に、訪れる、つまり、この悟りの上にある、至福と空が一つになった超越的意識につけられた名前である。
 (c) これは、低い階級の一つの価値であることの、高い階級の一元の経験(注5)をすることによって広がる落ちつき、という超越的意識の名前である。
 (d) これは、低い階級の事物の非具体化(実体化)の後、あるいは、非拡散が人の存在の中で活発になる時に訪れる、落ちつきの超越的意識であると認識される。
 (e) これは、高い階級の事物の非具体化(注6)の経験に続く、解放の意識である。
 (f) これは、中程度の事物の非具体化の、一元的経験から広がる生起のサマディであると言われている。
 (g) これは一般的に、低級、中級、高級の一元的経験の瞑想的没入であると言われている。

 (2) この道を歩く者は、昼間の瞑想集中によって、あるいは、夜、眠りをコントロールすることによって、輝く光を輝き出させる。この分脈において意図されているのは、後者のテクニックである。
 6つの形を与える力によって作られている一つの個体が、この世界における人間の場合のように、眠ると、4つの有形機能(注7)がそれぞれの中に溶け、その後で、精神性が心臓の焦点にとどまると、さんぜんと輝かない光が輝く。人が深遠な教えの助けによって、この特別な時を認識すると、目覚めた生活に現れることの当惑は、瞑想的集中的没入に変わる。これが、心臓の焦点の通路のもつれをほどく精髄である。4つの確認を持ち、真剣なかかわり合いを保ち、発達と完了のステージを経験し、不幸の本質を知り、逸れることなく対象物を吟味する、このようなヨーギは4種類の食べ物を得ること(注8)を避け、孤独の中で、生物学的な機能(注9)にのみ注意を払い、6ヶ月の間、自分自身の実存的なセルフに没頭しなくてはならない。
 (3) 昼も夜も、有形化、非有形化、全き非有形化(注10)のパターンを観察し、氷を溶かす火のように、通路をほどき、まっすぐにし、中央の通路に入れる。行為の運動性は完全に止まり、本能的な力は(注11)超越的な意識になる。赤と白の、有形性創造力は、一元の創造的潜在力になる。肉体的には、有機体は、変貌した(神々しい)身体になり、精神的、霊的に輝く光、至福、空、ダルマカーヤになる。
(注)

(注1)ガンポパ全集より。「夢から目覚めた時には、このように考えるべきである。『昨晩の夢と、今現れているものの差は何だろう?』差はないのである。

(注2)ツモ;バー・ザク:これは原典に次のように説明されている。頭の領域に向かって熱が上がって行くことによって、白いボーディチッタが下に降りる。もっと非象徴的な言葉で言うと、これは、暖かい感覚を表すことによって、冷たいエゴの硬さが溶け、その孤立から解放される。ガンポパ全集には、また、「燃える神秘の内的熱」(バーパイ・ツモ)とも書かれている。

(注3)サムサーラとニルバーナは解釈であり、実在ではない。現実的、意図的な論理の基盤の上に、独立した地位を与えることは可能であるが、西洋的な範疇を適用することには、気をつけなければならない。

(注4)この言葉の現在の訳語「心の一点集中」は、スートラとアビダルマでは、正しい。これらでは、内容が強調されている。タントラにおいては、経験的性質が強調される。「心」という言葉を、非具体的な意味で使うと、それは「領域特徴」を持つ。つまり、部分的には、不確定で、第1義的で、継続的で、部分的には、確定的に変化することになる。ツェ・チクと呼ばれる経験においては、「領域特徴」は認識され、変化するものと、変化しないものの間の溝は埋められる。

(注5)これは、すべての概念と言葉による形成を越えた状態である。認識論的に言えば、主体ー客体という二元は沈んでいる。しかし、ニヒリズムではない。現れるものはすべて、一度はあるがままに認識される。そしてこの経験において、当惑、すなわち、すべてを概念やラベルにしてしまう傾向は、克服され、当惑と自由の間の溝は埋められている。

(注6)凝固(強化)、結合、温度、動き、知的能力、空間性。

(注7)凝固(強化)、結合、温度、動き。

(注8)死者へのご馳走、生きている者へのご馳走、盗み。強盗。

(注9)プ・シュ・ク:食べる、飲む、眠る、排便、排尿。

(注10)最初の2つは、カルマムドラーの経験を指す。最後は、ジュニャーナムドラーの経験を指す。

(注11)ニョ・モン;クレシャ:これらはその顕現から名前をつけられた3つの反応の潜在性で、それぞれ「熱情」「嫌悪」「当惑」と呼ばれる。これは人の「正常な」感情的不安定を表す、80の反応パターンの母体である。
8.ポワ


 ティローパは、再び、一年間、座ったまま、沈黙して、動かずにいた。ナーローパが、前と同じように、マンダラを作り、祈りの言葉を唱えると、ティローパは「教えが欲しいなら、ついてこい。」と言って、その場を去った。二人が、女王と従者を連れた、ある王に会うと、ティローパは「もしわたしに弟子がいれば、その弟子は、女王を投げ下ろして、引きずり回しただろう。」と言った。ナーローパは、その通りにした。王とその従者が、息の根が絶えそうになるまで、ナーローパを打のめした。ナーローパが苦しんでいると、ティローパがやって来て、「ナーローパ、どうした。」と尋ねた。すると、ナーローパは、こう答えた。
弓の名手である、その王の幸福は、
矢のように飛び去り、それゆえ、わたしは苦しんでいる。
 ティローパは、こう言った。
「わたし」というものを信じている、お前の身体という、この傾向は
取り除かれねばならない、ナーローパよ。
ポワである、お前の心の鏡を見つめるのだ。
ダーキニーの謎の家を。
 手で触れて彼を治すと、ティローパは、ナーローパに、ポワについての教えを授けた。
 この教えには、実存する自己の土台として、そのポワの能力の認識が含まれ、道として、ポワの経験の諸段階が含まれ、目的として、ポワの限界の実現が含まれる。
 (1)ポワは、全てのスートラとマントラの経典で認識されている。しかし、三つの下位のタントラ(注2)とスートラでは、低いものだと考えられている現在の生から、「HIK」という神秘的な音節を使って、泉門(泉の門)から、自己の精神性・心的傾向を送りだした事によって、純粋な世界に生まれ変わった後の、自己の状態に対応する、行動であると、言われている。
[注2:クリヤ・タントラ、チャルヤー・タントラ、ヨーガ・タントラである。]
 最高タントラ(注2)の一部である、発達の段階を修行する者は、(自分が瞑想している)神の館と一緒に、神の輝きを、「心臓の」焦点の輝く光と合一させ、運動性(ルン)の力を借りて、超越した認識(注1)の五つの型を表す(そして、自己の認識能力を象徴する)、神秘的な「HUM」という字を、泉門の開口から送り出す。超越童子天か、U-rgyan(Swat)に生まれ変わった後で、その修行者は、マントラの信奉者にふさわしい生活を送る、と言われている。

[注3:グヒャサマージャ・タントラ、ヘーヴァジラ・タントラ、カーラチャクラ・タントラのような、アヌッタラ・ヨーガ・タントラ]

[注1:五つとは、(1)ダルマ・ダートゥ・ジュニャーナ、(2)プラティ・アヴェークシャナ・ジュニャーナ、(3)クリティアーヌスターナ・ジュニャーナ、(4)アーダルシャ・ジュニャーナ、(5)サマター・ジュニャーナである。これらは、仏教の様々な学派で、様々に説明されている。ガンポパ、viii, 13b 以降には、ダルマ・ダートゥ・ジュニャーナの代わりに、tha-mal-gyi shes-pa(原初の認識)を使い、次のように説明している。「主体と客体の区別の無い、直感的な認識が、即座の把握(プラティ・アヴェークシャナ・ジュニャーナ)である。五つの通路を移動せず、様々な段階の精神性を通過せずに、瞬間的に全てを成就する事が、達成の認識(クリティアーヌスターナ・ジュニャーナ)である。常識的なリアリティの実体は、鏡に映った像のようようなものであるという理解が、鏡のような認識(アーダルシャ・ジュニャーナ)である。認識的な行為の、言葉の上での内容としてのサムサーラとニルヴァーナは同じであるという事実が、同一性の認識(サマター・ジュニャーナ)である。Zmnd 193 bは次のように説明している。「知られ得るものと、知る主体が、公平な観点から、把握された後での、原因と結果の関係が、即座の把握の認識である。空自身が、鏡のような認識である。奇跡的な理解unfoldingが達成の認識である。全ての実在が同じであるという直感が、同一性の認識である。これらの認識の形態は、認識の究極的な本質から、一度も離れた事がないという事実が、究極の認識である。」]
 成就の段階を修行していて、知性の高い人は、その生で「虹の身体」(真の存在)を実現し、(霊的に)不死になる。中程度の知性の人は、死の瞬間に、輝く光を認識し、それにしっかりと付き、死と再生の間の中間状態の経験を経る事はない。成就の段階を修行している者の内で、最も劣った者は、次のように、この中間状態を経験する。もしも知性があれば、中間状態の光が輝き始めた直後に、二種類の集中によって、その光を、輝く光の中で、吸収し、神として現れるか、または、最初の一週間の間の「小さな死」の時に、輝く光に気付き、真の存在を達成する。様々な形状で転生する可能性が生じ始めている段階に達しており、未来の両親が性交をしているのを見て、父親に対して憎しみを感じ、母親に愛を感じる時には(これは、その人が男性の場合で、女性の場合は逆になる)、母親の子宮を、自分の館にいる(いわゆる)サマヤサットヴァに変えて、自分自身は、そこに、父親の口から、鼻から、または、身体の他の部分から、入る。人間の身体は、マントラの行為に、特にふさわしい土台であると考えて、転生した後で、真の存在を達成する。
 もしも、知性が低ければ、未来の両親が同棲しているのを見て、子宮に留まるという考えに恐れをなして、自己を超越童子天、または、U-rgyan ウ・ゲェ(ウルギャン?)(Swat)に移し換え、そこで、マントラの信奉者の行為に従う。(注1)
[注1:高い知性を有する、または、肯定的な神秘主義者は、現世で生きる事を恐れない。恐れを為して、逃げようとするのは、否定的な神秘主義者である。天国とか楽園というのは、現実逃避者の概念である。]
 自分自身である事における、それ自身の中にあることの自分自身であることが理解できない者にとっては、当惑があり、サムサーラがあり、知らないこと(無知)がある。そういう人に関して、四つのconfirmationと、発達と成就の段階と、その他の技法によって、自分自身である事を説明する教えが、「ポワ」と呼ばれる。さらに、自分自身である事における、それ自身の中にあることの自分自身であることが理解できる者は、真の存在へポワされる地位を持っている。悪が捨てられ、以前には無かった善が、新しいものとして達成されたと宣言したり、悪が善に変えられたと宣言する事は、存在の存在とは何の関係もなく、そうする事は、存在の存在を理解しそこなう事になる。
 (2)経験とは、要するに、こういう事である。即座に悟りを開ける人が、長期間グルに奉仕し、それから、悟りを開くためだけの目的で、心を動揺させる全ての要素から遠く離れて、一人になる。そうすると、現れてくるものは、どんなものであれ、それに動揺せずに、ありのままに見ることが出来る。現れるものは、どんなものであれ、ポワの深遠な本質であると考える。
 徐々に悟りに到達する者は、最初に、熟練した弓の射手がするように、準備をして、それから、自分の認識能力という強力な矢を、望みの的に向かって放ち、最後に、的に当ててから、三つの存在の規範と融合する。


9.復活(注:省略)


 ティローパは、また、何も言わず、動かずに、一年間座った。前と同じように、ナーローパは、マンダラを作り、手を合わせてグルに敬意を表した。ティローパの一瞥がナーローパに落ちると、ナーローパはティローパに教えを乞うた。「教えが欲しいなら、ついてこい。」と言って、ティローパはその場を去った。二人は、軍隊に囲まれて、二輪戦車に乗っている、宝石でふんだんに身を飾り、沐浴したばかりの、ある王子に出会った。ティローパは「もしわたしに弟子がいれば、その弟子はこの王子を戦車から引きずり出して、こずき回した事だろう。」と言った。ナーローパは、その通りにした。しかし、軍隊が、矢と槍と剣と石で、ナーローパを瀕死の状態にした。軍隊が去ると、ティローパがやって来て、「ナーローパ、どうした。」と尋ねた。そこで、ナーローパは、こう答えた。
隠れ家の無い鹿のように
わたしは、避難場所もなく、苦しみ、わたしの喜びは飛び去ってしまう。
ティローパは、こう言った。
「わたし」というものを信じている、お前の身体という、この鹿は、
殺されるにふさわしいのだ、ナーローパよ。
復活である、お前の心の鏡を見つめるのだ。
ダーキニーの神秘の家を。
 ティローパが、手でナーローパを治すと、ティローパは彼に、復活についての教えを垂れた。
 復活に関する教えには、二つの型がある。(1)普通の復活と、(2)優れた復活である。
 (1)前者は、さらに、二つの部分からなる。(a)ある種の物を使うものと、(b)強力なマントラを使うもの、である。
 (a)これは、インドでは、そのやり方を知っている人が、全員行っている。死体にある種の油を塗るか、ある種の薬物をとるかである。両方の場合において、望みの結果を得るために、浄化された水が使われる。
 (b)これは、真理に反する邪悪な呪文を使う事をも含む。
 (2)優れた型とは、瞑想を使うもので、(a)発展の段階と、(b)成就の段階、に応じて、さらに細かく区分される。
 (a)(自分が観想した神の)触覚的、視覚的な特徴を、ある程度達成した後で、発展の段階を修行する者は、悪い部分を浄化し、成就の段階の、特殊な直感的な理解を達成する手段である、深いサマディabsorptionの力によって、(その神として)復活させられる。
 (b)成就の段階を修行する者は、中央の通路に、全てのヴァイブレーションを入れ、とどめ、分解させる事が出来、この過程に関連した、四つの印が現れると、自分の運動性と、精神力の力で、他の利益のために、復活させられる。
 このように、多くの型の復活があるのだが、この文脈では、「深遠な」道である、発達の段階と成就の段階によって、他の利益のための、復活(より正確には、ポワ)の経験のみが、示されている。
 この経験は、(1)瞬間的なものか、(2)漸次的なものである。
 (1)これは、神の館に、神の形状で現れるという、最高に深遠な技法である。グルに対する、たゆまぬ献身と敬意を持って、内側の神秘的な熱の、照り輝きと流れを経験する事によって、真の存在(「虹の身体」)を理解し、実現する人は、昼の間は、幻の実在に携わり、夜の間は、夢の生活に携わる。
 (2)漸次的な経験が関係するのは、時間、(復活が行われる)対象、次の存在に復活が行われる時間に関する資料、この新しい生命をを保つ能力に関する資料、そして、この新しい生命を意識的に経験する事との関連である。

10.永遠の喜び


 ティローパは再び一年間、以前と同じ行ないをした。ナーローパが、手を組んで、マンダラを作ってから、教えを乞うと、ティローパは「女を手に入れろ。」と言った。ナーローパは、健康で非常に忠実な女の子としばらく付き合うと、とても満足を感じたが、後になるとその女の子の言うことを聞かず、女の子の方もナーローパの言う事を聞かなかった。ナーローパは痩せこけて、肌は荒れて、そして鍛冶屋のところに働きに出た。慣れない変化に苦しんでいるとき、ティローパがやって来て尋ねた。「ナーローパ、お前は幸せか。」ナーローパが答えた。
 自己分裂の状態で、明らかな二元の世界に
 絶えず携わるがために、わたしは苦しむ
 ティローパは言った。
 ナーローパよ、お前は懸命に試みなければならぬ
 サムサーラとニルヴァーナの統一を求めて。
 永遠の喜びである、お前の心の鏡を見つめるのだ。
 ダーキニーの神秘謎の家を。
 さらにティローパは、永遠の喜びに関しての教え、「より低い門」をナーローパに授けた。それは最も卓越したヴァジラヤーナの修行法である。
 この教えは、(1)出発点と目される女性のコンソートの自然のままの姿、(2)4つのタイプの喜びを道として経験する順序、そして(3)その結果として永遠の喜びを悟ること、という3つの要素から成る。
 (1)女性には4タイプある。パドミミー(padma)、ハスティニー(glan-po)、ムルギニー(ri-dvags)、そしてチトリニー(sna-tshogs-can)である(注1)。その中で最高の女性はブラフミン階級の出身であり、知られた面、隠された面、秘密の面において3つの行動の段階の適切なしるしが賦与されており、パドマ族の4つの欠点(生殖器官)が存在しない(注2)。すなわち、月1回の月経がなく、不快な臭いはせず、病気にはかからず、そして、性的欲求に酔わされたときには、ヨーガの配偶者に対して何の恥じらいも自制も抱かない。女性の年齢は16歳から25歳の範囲内でなければならない。
 (2)無比のマントラヤーナにおいて魂を向上させる2つの方法の一方である、完成(成就)のステージを実践する者は、中央の道における、すべてのヴァイブレーションが徐々に消えてゆくのに伴って表われるしるしを認識したとき、一生涯のうちに本物の存在(「虹の身体」)を悟りたいと切望する。

 そのような者は、自分自身の存在の意味、あるいは配偶者の存在の意味を経験によって知ろうと努力する。最初の意味は、性的な力と活力を刺激し、減少させないようにすることによって経験される。二番目の意味は、配偶者のそれに相当するものを吸収し、その結果、絶えず至福と空の感覚を生じることによって経験される(注2)
 この経験の真髄は、4つのテクニックに精通するよう習うことである。
 (a)「下向きの動き」は、鍛冶屋が金属の鏡を鎚で打つかのように、4種類の喜び(注4)を、頭部から性器の部分まで、亀のごとくゆっくりと下降させ、その結果、自然の秩序において彼らに悟らせる。
 (b)「保持」同時に現れる喜びのリアリティーを、常に内的なヴィジョンの中に、嵐のときのランプのように保つこと(注2)
 (c)「逆向きの動き」象が水を飲むときのように、4つの喜びを(頭部まで)上昇させ、その喜びを安定して保つこと。
 (d)「浸透」農夫が作物に水をくれるときのように、慎重に葉っぱの気孔すべてにしみこませて、仕上げとして喜びを経験する。
 (3)これは、リアリティー全体が、6種類の知覚に対して差し出されたものとして、汚れのない永遠の喜びの連続状態の中で発生する場合に、何ら外的な関係なしに、本物の身体(「虹の身体」)を実現することである
(注5)
 数日が過ぎ、ティローパがやって来て言った。「ナーローパよ、覚者の教えに従って世間を捨てたお前が、ビクでありながら、女の子と暮らしているとはどういうつもりだ。これはよからぬことだ。自ら罰しなさい。」
 ナーローパは
「これはわたしの過失ではありません。こいつのせいだ。」と言って、勃起している自分のペニスを石で打った。あまりの痛みに危うく死にかけたところに、ティローパが来て、たずねた。「ナーローパ、どこか具合が悪いのか。」ナーローパがそれに答えた。
 邪悪の根源である欲望の報復として
 自らのペニスを打ったがために、わたしは苦しんでいる。
 ティローパが言った。
 わたしの言葉を聴きなさい、いいか、ヴィマラ(プラバ)よ。
 お前は自分自身を打たねばならなかったのだ、ナーローパよ、
 苦痛と快楽が同一であることを悟るために。
 そこでは価値が一致している、お前の心の鏡を見つめるのだ。
 ダーキニーの神秘の家を。

 さらにティローパがナーローパに片手で触れると、少なくともまた小便が足せるようになった。そしてティローパはナーローパという名前を与え、6つの部分から成る価値の同一性について教えを授けた。
 この教えは、現れの世界の実体のすべては、本来の認識の運動に過ぎない、というものである。しかし、それらが、同時に現れる至福と空の創造的な働きに留まっても、内的には、この、それ自体の曖昧にする力によって汚された認識は、同時に現れる無智となる。そして外的には、あらわれの世界の二元性を仮定するこの無智は(主体と客体、この二元性を最終のものと受け取ることによって、原因と結果を取り違えた無智になる。

 この結果として、人は、自己の以前の傾向の結果である、幽霊として(原初の光から)生じ、動機などといった、独立した起因の法則(プラティーティヤサムトパーダ)の12の表題に従って、説明される。すると、三つの毒(注2)の結果として、六種類の魂と同じ、当惑・過ちの状態で、惨めさに悩まされる。
と結果について思い違いをした無智となる。
(注1)女性の典型化あるいはタイプの名称に関して、何ら共通見解はない。
 ティローパ, op. cit. 4a では padma-can, dun-can-ma(シャンキニー),ri-mo-can, ri-dags-can という用語を使用している。Padma dkar-po は Sphzg 149a においてティローパの名称に従っており、glan-po-can は ri-dags-can の別名であると述べている。Ras-chun-pa は自らの Dchog 3a の中で padma-can, ri-mo-can, dun-can-ma だけを認めている。
(注2)Ras-chun-pa, op. cit. 4a によれば、4つの欠点とは、無味乾燥なこと、感傷的なこと、閉鎖的なこと、冷淡なことである。

(注3)省略
(注4)四つとは、「喜びの興奮」(アーナンダ)
        「絶頂の喜び」(パラマーナンダ)
        「興奮の不在」(ヴィラクシャナ)
        「一緒に生じる喜び」(サハジャーナンダ)
 最初の三つは確定した特徴である。しかし、最後の一つは不確定な特徴で、たとえ気付いていなくとも、常に共にある他の特徴を包含している。これは、また、「場の性格」の概念を強調している。この問題は、Padma dkar-poが彼のSphzg 156b-157aで、非常に明快に論じている。
(注5)これは、全てが至福の本質を持っている、ということを認める、認識的な行為に対する名前である。
(注6)六つの知覚とは、五感と「心」である。
 この結果として、人は、自己の以前の傾向の結果である、幽霊として(原初の光から)生じ、動機などといった、独立した起因の法則(プラティーティヤサムトパーダ)の12の表題に従って、説明される。すると、三つの毒(注2)の結果として、六種類の魂と同じ、当惑・過ちの状態で、惨めさに悩まされる。有能なグルからの口頭での教えによってのみ、この当惑が、ある種の形態の生命の因となるのだという事が理解できる。
[注1:これは、いわば、それ自身の存在から、三つの反応の潜在性を構成している自我である、自分自身である事への移り変わりであり、全ての意識的な行為の基礎となっている、反応パターンに発達する。Sphyd 49a.、ガンポパ viii. 13a.を見よ。]

[注2:これは、三つの反応の潜在性である。即ち、「情熱・欲望」、「反感」、「当惑」である。]
 どのようにして、認識行為である、超越した認識が、再び自己の生命の中に入って来るのかを、理解する事によって、そして、(その認識を、そうではないものと考えることによって)その認識から離れる事がないように、それを保持する事によって、六つの形態の知覚力に現れる全てのものである、実相は、同時に現れる喜びの動きのままでいる。要するに、風に漂う羽と丁度同じように、人は、物の間を、それにとらわれる事無く、徘徊するのだ。微細な、粗雑な、不透明な種類の、三つの(生存のための)条件(注1)を、同じ価値を持っているものとして、経験するという事が、この教えの、深遠な要点である。
[注1:三つとは、第一の条件としての、運動性・心の態度、有機的な条件としての、父親と母親両者の肥沃にする力、付随する条件としての、物質性の発達する過程である。]


11.マハー・ムドラー


 再びティローパは、1年間以前のようにふるまった。ナーローパがマンダラを作り、手を合わせて彼を礼拝すると、ティローパは一度だけ、ナーローパをちらりと見た。ナーローパは祈り、教えを乞うた。「教えが欲しいなら、恋人をわたしによこしなさい!」ナーローパがそうすると、少女はティローパに背を向けナーローパを見、ほほえんで、横目で彼を見た。ティローパは彼女を打って言った。「わたしのことが好きではないんだな。ナーローパのことだけが好きなんだな。」ナーローパはグルの行動の正しさに対して、信を失うことはなかった。そして、恋人を失っても幸せそうに座っていると、ティローパが彼にたずねた。「ナーローパよ、幸せか?」ナーローパは答えた。
至福とは、覚者そのものであるグルに
ためらうことなく、ムドラーを、お礼として
差し出すことです。
 ティローパが言った。
ナーローパよ、無限のリアリティの道において
おまえは永遠の至福にふさわしい。
マハームドラーである、お前の心の鏡を見なさい。
ダーキニーの神秘の家を。
 そして彼は、意識を越えて、明るく照らすマハームドラーの教えを授けた。
 この教えは、3つからなっている。
(1)神秘の啓示(照明、解明、光源)を通して、非生起を規定する、あるいは、土台(それ自身の存在)のマハームドラー。
(2) それに続く表象的な知識(智慧)を通して、不滅を認識する、あるいは、マハームドラーの道。
(3) 一致(同時発生)の関係を通して、言葉で表現できないものを認識すること、あるいは、ゴールのマハームドラー。

 (1) 純粋で、並外れた、元来の知識は、それ自身においては空である。しかし、条件によっては、何かになり得る。それ自身において、究極的には、真理を越え、慣習的な働きにおいては、偽りではない。存在という極端として生起せず、非存在という極端にも消えることはない。また、識別の中にもとどまらない。8つの可能な極端(注2)から解放され、当惑ー偽りの3つの落とし穴(注2)を越え、空であるが、すべての原因的な特質を持ち、それ自身において霊性をあるがままに認識する、神秘の照明の中で直接に悟られる。
 (2) 絶えることなく存在する空の中で、純粋な感覚が生起する。不滅の純粋な感覚としての顕現の中で、感情によって影響を受けたそれぞれの心は、内側を見ながら、エゴにしがみつき、五感を通して外側を見ながら、特殊化する。このニルヴァーナ、サムサーラと呼ばれる、主体、客体の二元の現れの当惑は、真の現れとして現れたことは一度もなく、夢の中の当惑にあてはまる比喩によってのみ、指摘される。この表象的な知識は、その中身が幻のように現れる時には、あるがままに、そうでない時は、中身のない空として悟られる。
 (3) 言葉で表そうとしても表すことのできない、この純粋な感覚は、輝き、しかも空であり、3つの有形化の条件がなく、(注4)4つの喜びを越え、輝く光よりも、素晴らしく、全く並外れており、空として起き上がり、魂のための慈悲という本質的な特質を持つ。大いなる一つの価値、あるいは、同時一致のステージに達した時に悟られる。
 その経験の仕方は、休んでいるときには、休んでいるものを面と向かって見るというようである。それは、それ自身では空である、輝く感覚である。明るいそらの広がりのように、すべての言葉と思考がなく、すべての言葉と思考を越える。五感の対象として現れる時には、人は現れるものを面と向かって見る。それは永遠の喜びである。それは幻のように、それ自身空であり、現れるすべてのもの、及び、絶対に真実であるとされている、それ以外のもの一つの価値の中で空である。動いているときには、人は動いているものを、面と向かって見る。この神秘の照明を通した直感的な理解の光、明確な対象とはかかわっていないけれども、当惑した魂の利益のための聖哀れみである光は、瞑想するものは何もないという悟りである、低いステージのあとで、認識される。これが、休み、動くものを面と向かって見る、深遠な方法である。
 なにも瞑想するものがない状態は、常に神秘の啓示のためのものであるが、聖哀れみとして、あるいは、この世界を越える道としての、表象的な知識の顕現と矛盾するものではない。アーリャ・プラジュナーパーラーミターサンチャヤガーターには、次のように書かれている。
 (解脱の生を生きる到達真智運命魂は)(注5)
すべてが空であり、無始の時から生じたことはないと知っている。
 彼は、今だ神秘の光源を達成していない者たちに対して、
 聖哀れみを持っている。
 よって、覚者の教えと離れる事はない。
(注2)これは、生起、滅尽、永遠主義、ニヒリズム、単一性、複数性、行くこと、帰ること、である。

(注3)これは、3つの反応の潜在性である。この節は再び、領域特質を示している。そのうちの1要素、あるいは1部分は、すべての限定を越えており、もう一方は、明確にできる、あるいは、本文が述べているように「すべての原因的特質を持つ」。

(注4)これは、現れ、象徴(身ぶりと言葉)、経験の可能性である。

(注5)原文にはこの1行が抜けていたので、これがもともとあったと言われている経典から訳した。

12.中間状態(注3:省略)


 またしても、ティローパは、一年間、前と同じ事をした。ナーローパがマンダラを作り、手を合わせて、ティローパに敬意を表し、祈りの文句を唱えると、ティローパは「教えを受けたければ、ついてこい。」と言った。ティローパは、大きな砂漠に入って行った。ティローパはのんびり進んでいるのに、ナーローパは、どれだけ急いでも、追いつくことができず、疲労困憊して、座り込んでしまった。ナーローパはティローパに、苦労した結果、今や、自分が究極的なものの意味を悟った、という事を示すような事を明かしてはくれまいか、と頼んだ。すると、ティローパは、「教えを受けたければ、マンダラを作れ。」と言った。穀物を持っていなかったので、砂でマンダラを作った。あちこち探したが、撒くための水が見つからないと言うと、ティローパは「お前には血がないのか。」と尋ねた。ナーローパは、動脈から、血をほとばしりだした。ナーローパあちこち見ても、花を見つけることができないので、ティローパは「お前には、手足がないのか。頭を切りとって、マンダラの真ん中に置け。手足を取って、その周りに置くんだ。」と言って、叱責した。ナーローパがその通りにし、このマンダラを、グルに捧げると、血が無くなったために、気を失った。ナーローパが意識を取り戻すと、ティローパは「ナーローパ、幸せか。」と尋ねた。すると、ナーローパは、こう答えた。
自分自身の血と肉のマンダラを
グルに捧げる事は幸せな事である。
 すると、ティローパは、こう言った。
ナーローパ、汚れた快楽を持つこの肉体には、実体がない。
しかし、それは永遠の喜びの源であるべきである。
中間状態である、お前の心の鏡を見つめるのだ。
ダーキニーの謎の家を。、
 それから、ティローパは、手でナーローパに触れて、ナーローパを治し、中間状態に関する教えを授けた。
 この教えは五つの部分からなる。(1)浄化されなければならないもの、または、自己の肉体(的存在)の中間状態の認識、(2)浄化の過程が為されるための土台、そして、この過程によってどこへ行くのか。中間状態には、究極的なものの特徴、または、「母親」としての輝く光のリアリティを指し示す特徴がある。(3)浄化されなければならないもの、または究極的なものの中間状態と、その不純な顕現、(4)浄化の過程、または、調和させる事についての教えか、道によって、「子供」としての輝く光を、輝かせる手段、(v)目的の実現、である。
 (1)誕生と死の間の中間状態は、(以前の行為の)結果として、血と肉からなる、このわたし達の身体である。(睡眠と覚醒の間の中間状態、rmi-lam bar-doとしての)夢の状態は、分けることの出来ない、運動性と心的状態から成る、微細な身体である。(死と再生の間の)可能性の中間状態は、ガンダルヴァと呼ばれる「心身」である。
 (2)人間界の人が死ぬと、その人の四つの有形機能が、徐々に、一つ一つ衰えていく。柔らかな光と、強烈な光の広がりと、内側の輝きが、輝くのをやめた後で、完璧な空である輝く光が、秋の朝の澄み渡った空のように、全ての衆生のために、突然現れる。
 (3)確定的な顕現を持っているものとしての、究極的なものの中間状態は、静的なものと、動いているものである。当惑・過ちの汚れを持っている、静的なものは、動物の生の因である。情熱と反感の汚れを持っている、動くものは、それぞれ、霊と地獄の生の因である。三つの毒に分割されているこの汚れは、浄化しなければならない。
 (4)道の修行をしている個人において、全てのヴァイブレーションが中央の通路に、収束し、どどまり、分解し、それによって、三つの型の空(注1:省略)の四つの印が現れ、最終的に、完璧な空である輝く光が、輝くと、この光は「子供」と呼ばれる。そして、それを、生、死、中間状態という生存様式に調和させなければならない。
 (v)成就の段階の修行をしている人の場合には、感覚の鋭い人と、感覚の鈍い人を区別しなければならない。前者は、例えば、四の印と三つの型の空が現れて、過ぎ去り、輝く光の領域で、運動性が再び活発になった直後に、この分けることの出来ない、運動性と心的状態が、覚者のレベル(注2)の、五つの特定な特徴と同じ、五つの特徴を持っている様式となるような人である。この人は、それから、サンボーガカーヤの状態から、覚者の境地へ目覚める。
[注2:五つとは、覚者、その領域、その聴衆、その講話の時、その教えである。]
 感覚の鈍い人は、運動性が、輝く光の中で動き出した直後に、六つの確定した特徴と未確定な特徴(注2)を持っている、中間状態を経験する。七つの特質(注1:省略)によって特徴づけられる、この状態から、繰り返し繰り返し、輝く光に入れる能力によって、死後二週間目の輝く光の中で、運動性が動くときに、この人は、真の存在(「虹の身体」)を獲得する。この状況から、この人は、覚者の境地に目覚める。もし、こうする事が出来ないなら、人間界の魂として、性交をしている未来の両親を見て、彼らが特にふさわしい時に行為をしていると考えて、母親の子宮に入る。ここから、真の存在を実現する。
[注3:これらは、Bargd 21 ab で述べられている。六つの確定した特徴とは、「彼は、以前は、壁と他の硬い物に邪魔されていたが、今はそうではない」、「以前は、他の人が、彼の言う事に耳を傾けたのに、今はそうではない」、「彼は、以前は、太陽や月や、他の星を見ることができたのに、今はそれが出来ない」、「彼は、以前は、影を落としていたのに、今はそうではない」、「彼は、以前は、非常に敏感な認識作用を持っていなかったのに、今は持っている」であり、未確定な特徴とは、「彼の滞在は不確実で、いつどこに行くか分からない」、「彼の食べ物は不確実である」、「何が現れても不思議ではないので、彼の服は不確実である」、「彼は誰とでも付き合う可能性があるので、彼の友人は不確実である」、「何をすべきで、何をすべきでないという、様々な洞察を持ち得るので、彼の行いは不確実である」、「彼の心の状態の構成は不確実である。なぜなら、それは、あれこれの指示対象を持ち得るし、風の中の羽のように、翻弄されるからだ。]
 ナーローパは、この教えを、全て完全に受けると、シュリー・カマラ寺院にやって来た。そこで、自分達の教えを説いている学者達を、打負かした。ティローパは不機嫌になって「ナーローパ、本に書いてあるのは、単なる言葉であって、それは、お前が市場で買う不純な乳と同じぐらいひどいものだ。」と言った。しかし、ナーローパが、精神的な栄養の力によって、このように汚れのない状態になった利点を疑って、東部の、カーマルーパ(アッサム)の火葬場で瞑想すべきかと、ティローパに尋ねると、ティローパはナーローパに、汚くて臭い物で縁まで一杯になった骸骨を渡して、「これを食え。」と言った。意気消沈したものの、どうすることもできないので、その中身を飲み込むと、その食べることができないような物は、おいしかった。すると、ナーローパは「精神的な栄養があると、これには、八つの種類の風味(注2)があるが、精神的な栄養がないと、実にまずいと感じる。同じように、もし瞑想しないと、感情はサンサーラの因となるが、もし瞑想すれば、感情はニルヴァーナの至福だ。だから、(わたしのグルは)わたしは自分自身と全ての他のために、瞑想すべきだと言いたかったのだ。」と考えた。ティローパは「お前の考えた通りだ。」と言った。そして、ナーローパに、一般的な障害を取り除くことを教え、様々な行動様式を、究極的に有効な規範(注1)に変えるための教えを授けた。かくして、ティローパとナーローパは、心において一つになった。
[注2:通常、六種類の風味だけが挙げられる。アビダルマコーシャ、i. 10を見よ。ここでは、煩悩破壊を連想させる八つの風味が暗示されているようである。それは、永久不変、平和、不老、不死、純粋、超越、平静、至福である。注1:障害の除去と、究極的に本当の規範を実践する事は、本質的には、客観化する思考に陥らない事にある。とりわけ、この除去は、好ましくない誕生形態を避ける技法に関係している。Tshk 9b以降を見よ。]
(b)

ナーローパは、言葉や思考を超えて行動するように

ティローパより忠告を受ける


 かつてティローパはナーローパに向かって言った。
 盲目の人は手間取ることによって(?)見ることはなく
 耳の聞こえない人は聞かない、
 口のきけない人は意味を理解せず
 びっこの人は歩かない。
 樹木は根を張らず
 そして、マハームドラーは理解されない。
 ナーローパは、この言葉の暗示するところは、利益が生じるように行動しなさいということだと考えた。ナーローパは綿のズボンをはき、頭蓋骨を手に持って、「vaidurya」の言葉を呟きながら、托鉢僧として出発した。この言葉は、食べたものは何でも消化することができることの象徴である。ナーローパが何人かの子供に出会ったとき、そのうちの一人がその象徴を知っていて、かみそりを差し出し、ナーローパに食べてほしいと頼んだ。ナーローパはその柄を持って、かみそりの刃を自分の口に運んだ。その刃がバターのように溶けたときには、全員が大いに驚いた。やがてこの宴の噂が国王の耳に入った。何をなすべきか、妥当な結論を得ることができないまま、国王は自分の軍隊の象を一匹、その牙に剣を結び付けさせてナーローパを襲わせた。ナーローパがその象を凝視すると、象は死んでしまった。死骸の臭いが街を汚染するのではないかと恐れた住民たちは、悲嘆に追い込まれた。国王もまた、自分の象が死んだことを深く悲しみ、大臣たちに文句を言った。「これはお前たちの落ち度だ。必ず別の象を調達しなさい。」大臣たちは責任をなすりつけ合い、最終的に(ナーローパにかみそりを差し出した)例の子供の両親のところに回ってきた。この人たちが悲しみに瀕したとき、ひとりの老婦がやって来て告げた。「そのヨーギ本人に頼むがよい。」彼らは手を組んでヨーギを崇拝し、言われた通りにした。
 ヨーギは精神集中の力によって象の死骸を移動させ、住民たちの苦しみを取り除いた。さらにヨーギは、魂を維持する力によって象を生き返らせ、元の状態に戻した。国王と例の子供の両親は苦悩から解放された。国王はナーローパに対して非常に献身的になった。宮殿に招いて大変な敬意を示し、娘の イェシェドンマ(ジュニャーナディーピー)王女をコンソートとしてナーローパに与えた。王女がイニシエーションと教えを授けられた後は、その教師(ナーローパ)は人々に猟犬の群れを連れて、鹿狩りをする男女の相として見られた。彼らはショックを受けた。ことに、王のおかかえの司祭たちと、廷臣たちがすべてを王に話して、こう言った。「この邪悪なことをなす者を解雇なさることです。わたしどもの忠言をお聞き入れにならなければ、あの者は王室を潰してしまいましょう。」王は起こっていることを、自分自身の目で見ると教師に相談し、忠告してこう言った。「あのようなことをしないで下さい。」ナーローパが猟を続けると、廷臣たちはこう宣言した。「陛下、この悪党を消しておしまいにならなければわたしどもが陛下の元を去ります。」王は考えた。「この者たちを行かせてしまえば、わたしは祖先の宗教の伝統を守らなかったと、悪く言われることになろう。彼がここにいるうちに、殺してしまうのが良い考えではないだろうか?」
 王は直ちに、多学たちに相談し、ナーローパを呼びつけた。王と従臣たちとその他の廷臣たちは、彼とコンソートが連れて行かれる時、彼に向かって叫んだ。「なされなければならないことをなせ。おまえはサキャ神賢の宗教を壊しているぞ。」彼らはナーローパをきつく縛り、棍棒と刀で彼を打ち、最後にビャクダンの木の燃え盛る火の中で、彼を火あぶりにした。
 次の日、一人の廷臣と王の従臣の一人が、灰を川の中に捨てようとして、処刑の場所に近づいていった。すると教師は男女の相で、まだ燃えていた火の真ん中で踊り、まばゆい光の中に立っていた。恐れおののいた彼らは、帰って、事件を王に告げた。人々はこぞって、「信じられない」といい、自分の目で確かめに行った。何もかもが、報告されたとおりだった。王が「処刑された後、教師は死んだのではなかったのか?」と言うと、ナーローパは答えた。
厳しい言葉と虐待と剣は
忍辱の盾を立てるのに役立った
苦悩を引き起こすカルマの鎖は
三毒からわたしを解き放つのに役立った(注1)
このビャクダンの木の炎は
エゴを信じる切り株を燃やすのに役だった
鋭い剣は、サムサーラの絆を切るのに役だった
支配者の裁きの棍棒は
エゴを信じる悪鬼を潰すのに役だった
他者を前もって熟慮することなしに殺すこと(注2)
三つの規律を犯すことなく(注2)
それゆえ悪趣に落ちることなく
わたしナーローパが正しく振る舞うのに役だった



(注1) 熱情・渇望、嫌悪、当惑
(注2)「他人を殺すこと」はものごとの具体的な存在を、無邪気に信じることを克服する隠喩的な言葉。これはわたしたちが知覚するあらゆるものの幻のような性格を経験することに関連している。Lzzl 40b。
(注3) 。。。
(それからこうつけ加えた)
わたしに動機を尋ねることなく
あなたは、わたし、ナーローパ、男と女を
火あぶりにさせた。
あなたの廷臣たちの嫉妬のせいで。
わたしを燃やすことは、本当に燃やすことではない。
原因と結果のあるカルマを避けずして
悪趣の生に生まれ変わった時、
あなたはどうやってやってゆくのだろう
わたしを正しく評価すべきだった。
 それから王と王に従う者たちは、悲しみにうちひしがれ、夢の中で地が開き、アショカラージャスートラに述べてあるように、何カルパも地獄で自分たちが苦しんでいるのを見た。目覚めた時、彼らは心から深く罪を悔い、全員で祈った。
ナーロー、あなたの動機を尋ねずに
熱情と怒りに駆られてわたしたちはカルマを積んだ。
この結果、わたしたちは地獄に生まれ変わるのを見た。
悔悟して、わたしたちは謝罪を申し出る。
わたしたちが積んだカルマに堪えて下さい!
八つの世俗的な関心の弓から(注1)
グルの言葉のような矢が放たれて、的に当たった。
わたしたちは三悪趣に生まれ変わる夢を見た。
わたしたちの過ちを許して下さい。
炎の中で何カルパも、誤った教えを焼き
そしてあれこれわたしたちが信じていることを焼くことによって
アショカラージャスートラに従って
わたしたちが犯したくなかった悪をお許しください。
 ナーローパは言った。「陛下、あなたと他のひとたちが本当に償いたいと思っているのなら、言葉だけではだめです。よく聞きなさい。
聞きなさい、王たちよ、後援者たちよ、
八つの世俗的な関心の結び目はゆるんだ。
サムサーラの沼の三毒は乾いた。
無智という暗闇の武器は追い払われた。
悔悟という最高の意識の偉大な炎がつけられた
初まりなき者の領域で、
懺悔せよ(注2)
 王と後援者たちは自らの悪から清められ、再び受け入れられた。ヒナヤーナがマハーヤーナになった時、すべての後援者が解放を得た。
 それからナーローパは別の国に行った。彼は、小さな子供のようにふるまい、遊び、笑い、そして小さな子供のように泣いた。(注2)


(注1) 。。。
(注2) 人がすべての状況において、真実であらねばならない、絶えず有効な種類の道徳的な振る舞いは、人間の性質の不確定の分野の要素に根付いている。行為の確定的な線をつける道徳律はうつろいやすいもので、それらをすべての状況で守ることを期待されることは決してない。この問題は、F.S.C. Northrop,op.cit.,pp.344sqによってはっきりと指摘されている。

(注3) 振る舞いに対して使われる、子供の象徴は、タントラの文献の中で頻繁に出会うものである。それは、自然さ、開いた心、自分を他の人々を気にすることを強いることを嫌がること、を示し、すべての生き物に対する直感的な仲間意識を育てることを暗示している。もちろんこの象徴は、それを問題のある子供に結び付けない限りにおいて、正しいのである。
(c)


ナーローパ、同時発生(一致)の意味を理解する


ナーローパが、同時発生、または、一つの価値の関係の直感的な理解を悟った方法は、五つからなる。

 (1)心によって作り出された、全てのものによって騙されるという事に関する陳述
 (2)当惑が超越を浸食するのではないか、という恐れを取り除く為の依頼
 (3)悪、または、善としての、輪廻と煩悩破壊の現れに対する執着を拒否する事に関する陳述
 (4)執着を捨て去る事によって、全ての帰属を切り捨てる事ができるようにという依頼
 (5)それ自身によって、それ自身を指している超越に関する陳述

《1》



 かつて、ティローパは、精神の英雄と精神の力の一群に取り囲まれて、空に現れると、こう唄った。
ああ、ナーローパよ、
ダーカであるグルの許可無くして、
内的な経験と直感的な理解無くして、
そして、まだ、無意識的な執着がある間は
行いを為すな、ナーローパよ。
 ナーローパは「これは、わたしは法を聞かねばならないという事なのだろうか。」と考えた。答として、この言葉がやって来た。
法を聞くという事は、塩水を飲むのに似ている。
お前はまだ渇望している(ということを意味している)のだ、ナーローパよ。
 ナーローパは「わたしは偉大な学者だから、わたしは教えなければならないという意味なのか」と考えた。またしても、その答は、
言葉の限界を広げる事によって、
その意味を理解する事は出来ない、ナーローパよ。

「では、わたしは瞑想すべきだという事か。」

無意識的な渇望が、それ自体で自由になるのに、
この経験について瞑想してはいけない、ナーローパよ。

「では、わたしは行為を為すべきだという事か。」

主体−客体の領域が超越されたところでは、
行為は不可能だ、ナーローパよ。

「それ自体の存在の中に、自分自身であることを見るべきだという事か。」

超越というのは心の内容ではないので、
存在を見る事は出来ない、ナーローパよ。

「結果、目的には、それ自身で到達できるという事か。」

もはや切望している考えも絶望もない所では、
いかなる結果も生じる必要はない、ナーローパよ。

「為される事がなければ、何かをしたいという望みは、当惑に違いない。わたしの疑いを解くために、グルに尋ねよう。

《2》

ナーローパは聞いた。
もし、無数の形が
始まりなきものの中に存在するなら、
行為は可能である。
そうでなければ、この行為することへの望みは何なのだろう?

輝き、自己を意識する、思考の能力が、
ゼロである真空(Voidness)の中で得ることができるものなら
欲望は可能である。
そうでなければ、どうしてそれを望むことがあろうか?

スピリチュアリティ(精神性・霊性)、光、空は
肯定的でも否定的でもない。
実体が経験されることのできるものなら、
そうでなければ、この経験は何なのだろう?

それ自体で満ち足りている
偉大なる至福の中に
長所と欠点があるなら、
幸福と悲惨は可能である。
しかしもし、すべてのものが平等であるなら
良いことをすること、悪を避けることの意味は何だろう?

《3》


ティローパは答えた。
聞け、偉大な賢者(パンディット)ナーローパよ。
現れは、その互いに依存している要素のために
一度も生じたことはない:
おまえがこれを理解するまでは
馬車の両輪のような
功徳と知識を積むことをおこたってはならない

始まりなきものを指し示す教師に向かって
紅白に立ち昇る現れと、考える能力を
船を飛び立つカラスのように飛ばせるのだ(注1)
地の産物を楽しめ、ナーローパよ。

自己に気付き、輝いている霊と精神は
現れの自動的な生起と同じものであると
お前がわかるまで、
執着によってそれを経験することによって
自分自身を束縛せよ、ナーローパよ。

初めから外にあり内にあるすべてのものは
けっして思考と言葉であったことはなく、
それを超えたものでありながら
覚えている経験は偶然に過ぎない、真実でないものであると知って
自分の思うままに行為せよ、ナーローパよ。

サムサーラへの再生を引き起こす
あれこれについての様々な考えを、
それが生じた時に断ち切るのだ、ナーローパよ。
直感的な理解という鋭い刀によって。

形と音を持った地の産物に執着が生まれる時
それは蜂蜜に執着する蜂のようなものだ。
よって、この執着を捨てよ、ナーローパよ。
(注1) これはサハラの直喩をほのめかしている。彼は、自著「ドーハーコーシャ・ナーマ・マハームドラー・ウパデーシャ123a でこう述べている:

水先案内カラスが、
船を飛び立ち、すべての方角をさまよったあげく
船に帰って、降り立つように
原初の心も
たとえ欲望に満ちた心によって
見せられた道に従っていたとしても
元の状態へと帰るのだ。

わずかにヴァリエーションは異なるが、この詞章はサハラのドーハコーシャ、詞章72の中に見つかる。そのあとにつけた解説、ニ・メ、でアヴァドゥーティが言っている:「大海を渡ろうとする商人が水先案内カラスを船に乗せるように、存在の大海を渡ろうとするヨーギは記憶という水先案内カラスを飛ばせる(行為としてではなく、力として;タンパ、スムリティ)。サハラが、「船を飛び立つ水先案内カラスのように ...」と言うのと同様に、水先案内カラスが着陸する土地を見つけられず、再び船に降り立つように、記憶のカラスは、非記憶(タンメ、ヴィスマラナ)、初まりなきもの(キェ・メ、アジャータ、アヌットパーダ)、超越(ロレーデーパ、マティヤティータ)の中に降り立つ。それは、サハラが「さまよったあげく再び船に降り立つ」という表現でほのめかしているように、いかなる対象も見いだせないからである。(ドーハコーシャハリダヤ・アルタギーティ・ティカー、90b)ここで詞章が意図しているのは、現れはその主体と客体という極の中での現れは、究極的に、不確定な分野の要素を示す(refer back to)ということである。地の良きものは、行為の堅固な土台ではないが、侮蔑されるべきものではなく、完全な離脱の状態で楽しむべきものである。
《4》


ナーローパは言った。
習慣になる思考が
月のしみのように広がり、
そして執着によって、
蜂蜜に執着する蜂のようにまとわりつき、
欲望が(対象という)雨によって新たにされ、
サムサーラの沼である三毒(注1)はさらに深くなり
カルマの絆は遮られることなく強められ
そして無智は暗闇の中でさらに厚くなる
それゆえ真実の経験は亀の毛のように、少なく、
直感的理解は、天の花のように存在しない。
この盲目の中で、わたしはいかにして欲望を捨てよう?

《5》


ティローパはこの、最高の目的・悟りが凝縮されている、彼の口頭の教えの歌を歌った。
ナーローパ、お前は価値ある器である。
プラハリのラマ寺で
光輝く、言語に絶する広々とした天空に
超越という小鳥が、同時存在の羽によって、高く舞い上がった。
エゴを信じる渇望を捨て去れ。

二元性のない超越した意識というラマ寺で、
幻の身体の供養の穴(offering pit)の中で
至福と神秘的な温かさの熱から引き出された意識の炎によって
身・口・意の普通の形の、邪悪な傾向の燃料は尽きた。
夢の傾向の燃料は燃え尽きた。
あれ、これ、という二元性への渇望を捨て去れ。

言語に絶するラマ寺の中で
マハームドラーの偉大なる至福の、
直感的理解というするどい刀が
中間状態の嫉妬の綱を断ち切った。
すべての執着を生じさせる渇望を捨て去れ。

変わることなき天の木の領域に導く
如意宝の隠された道を歩け。
唖の舌をほどけ。
エゴを信じるサムサーラの流れを止めるのだ。
母がその子を知るように、
自分自身の性質を知れ。

これがそれ自身で認識する、
言葉の道を超えた、無思考の対象である、
超越した意識である。

わたし、ティローパは
指し示すべき何ものも持たない。
これを、それ自体において、それ自体を指し示すものであると知れ。

想像し、考え、熟慮してはならない。
瞑想し、行為せよ。しかし、静止して。(注1)
対象にかかずらわってはならない。
それ自体で存在し、輝き、心を乱す記憶のない霊性は、
ものとはいえない。
 それからナーローパは、すべての偏見から免れている行為が、完全に理解された、と言った。
 ナーローパは、ティローパの心という、宝の家に見いだされるすべての特質を吸収した。彼は霊的精神的段階の、12段階目(注2)を実現し、彼の直感的理解を次のように言葉で表した。
人は自分がいつ実際性、
言語に絶する、あらわな、すべての思考を超えた心を
見たかと問う必要はない。
汚れなき、自ら生じる、このヨーガは、
それ自体において自由である。
グルの慈悲によって、最高の悟りが勝ち取られ、
自分自身、及びと他の利益は満たされた。このようである.


(注1) 有名なティローパの六つの論題がある。それらは、カンポパ xxxi. 2a,5bで、Sphzg 61b でパドマ・カルポによって解説されている。

(注2) 普通の概念は、10の精神的霊的段階である。Sphzg 29a sqq.,によれば、15段階まである。12番目の段階の特徴は、覚者の活動の完成と、経験的に始められた、経験の潜在力が活性化されうる領域を超えた段階であるということである。(32a)それは、笏を持つ者(ドルジェ・ズィン)(33a)のレベルである。
(d)


ナーローパ、行動を起こすよう強く勧められる


 慈悲をもって他の利益のために行動しなさいという助言は、あれこれ考えるべき感傷的なことではなく、次の通りである。
 ティローパが言った。
 プラハリのラマ教の僧院にて
 永遠に自由な、至高の意識という太陽の光で
 マティの無智の闇を追い払え。
 その光を彼に浴びさせるのだ。
 このようにマルパについて触れた後、ティローパはgTsug-gi nor-bu(シローマニ)の修道院に行った。
 偉大な学者ナーローパは、最初の3つの自己否定の行為によって、自分が世界の中に存在することの汚点を取り除き、また、壷のconfirmationの結果として、一つの価値の低い階級、および霊的ステージの第6段階目の特性−−ニルマーナカーヤ(確実に世界の中に存在すること)――を悟った。
 次の3つの自己否定の行為によって、ナーローパは、自分が他と共に存在することの汚点を取り除き、また、神秘のconfirmationの結果として、一つの価値の中間の階級、および霊的ステージの第8段階目の特性−−サンボガカーヤ(確実に他と共に存在すること)――を悟った。
 これに続く3つの自己否定の行為によって、ナーローパは、自分が色々な状況に対処することにまとわりついている汚点を取り除き、また、識別−評価の確認によって得られる超越的意識の結果として、一つの価値の優れた階級、および霊的ステージの第10段階目の特性−−ダルマカーヤ(authentic situationality)――を悟った。
 最後の3つの自己否定の行為によって、ナーローパは3つの形態の汚点を合わせて取り除き、また、第4のconfirmationの結果として、非瞑想の低級、中級の両階級、および霊的ステージの第12段階目の特性−−スヴァーバーヴィカカーヤ(確実にそれとして存在すること)――を悟ったのである。
 このような難問のすべての解決がついたとき、ナーローパは、すべての偏見から離れて行動しながら、まだ安定していないある国(つまり、非仏教徒の国)へ行った。
 そのときリリパとカソーリパがsTsug-gi nor-bu(ツキ・ノルブ)の修道院を訪れ、両手を合わせてティローパに挨拶し、ティローパを礼拝した。彼らはそこでナーローパを見つけることができなかったので、どこに消えたのかと尋ねた。ティローパが答えて言った。「ナーローパは、最高の悟りであるマハームドラーを成就し、わたしとrDo-rje-'chanのどちらがそこにいるのか、に関して問うべきことは何ものも残っていないと言って、見知らぬ国へ行った。わたしはナーローパにこう忠告した。霊的闇の土地、チベットには、マルパ・マティという崇高な教義の明かりを灯す力のある者が住んでいる。彼の無智の闇を焼き払え。そして超越した意識の光が、その土地の衆生を照らすとき、思考を超えた領域へ進むのだ、と。今ナーローパがどこにいるのか、わたしには何の情報もない。」リリパとカソーリパの二人ともが言った。「我々三人は魂の兄弟でした。ですが、ナーローパは第二の覚者となり、並ぶ者はいません。ナーローパは有情の生き物たちの利益のために行動する力を持っているのですから、この目的を達成するよう強く勧められなければなりません。」ティローパが、二人にナーローパを呼び寄せたらどうかと提案すると、二人は「もしナーローパが、我々が頼んでも来なかったらどうしたらよいのでしょうか。」と質問した。ティローパが言った。「わたしが来なさいと言っていたと伝えなさい。」
 二人は出発した。長い間あらゆる地方を捜し回ったが、ナーローパを見つけ出すことはできなかった。落胆して、二人が祈りの言葉を口にすると、間もなく、谷間に座しているナーローパが見つかった。二人は両手を合わせて、ナーローパのまわりを回り、どうしているのかと尋ねた。「最高に尊敬すべきナーローパよ、あなたは第二の覚者のようであり、並ぶ者がいないのだから、有情の生き物たちのために行動せず、思考を超えた領域に留まっているのは、絶対に間違っている。ティローパは、あなたが行動を起こさねばならないと言っています。」二人が来てくださいと頼むと、ナーローパが言った。「師ティローパが行きなさいと言うのなら、わたしは本当に行かねばならない。」三人は出発した。そして、ティローパのもとに来ると、ティローパが言った。「あなたたち三人はすぐにやって来た。非常によいことだ。」さらにティローパは、ナーローパに言った。「ナーローパよ、わたしはお前に教えのすべてを授けてあるのだから、有情の生き物たちのために行動しなさい。」最後にティローパは教えに対する指示を与えて、締めくくった。
 この指示に耳を傾けなさい、偉大な賢者ナーローパよ。
 ある種の心の満足としては生じるべきでない、
 それ自身で光り輝いている、自己意識という空に浮かんだ
 崇高な教義の雲から降る雨によって
 教え導かれるべき人々という作物を熟させなさい。
 そのときリリパが懇願した。
 多学と独覚の態度は捨ててください
 彼らの持っている平和と幸福だけを心に留めてください。
 そして法則の明かりによって
 魂たちの闇を追い払ってください、ナーローパよ。
 そしてカソーリパも。
 ナーローよ、法則の医師として
 崇高な教義という薬を使い、
 魂たちに襲いかかる病の
 情緒的であることから来る苦しみを和らげてください。
 ナーローパは両手を合わせて言った。
 グルである覚者の指示に従って
 魂の兄弟たちの祈りに従って
 わたしはきっとスートラとタントラの真髄を得る
 まだ安定していない土地で名声を得て。
 ナーローパがそう言うと、ティローパの姿は見えなくなった。


(4)ナーローパ、成熟と自由の道で教えられる者を定める


 ナーローパはその栄光の内に、インドの西でしばらく過ごした後、「花飾りの谷」の近くにある、プラハリの「黄金の山僧院」に向かい、そこで仏教を教えた。ある日、彼の守護神であるコーロ・デ・チョン(チャクラサンヴァラ・マハースクハ)がその顔をナーローパの前に現して、彼を讃えた。
グルによる教えの、純粋な流れから生まれた言葉の甘露で、
感情の不安定さの汚れを洗う
これはふつうの言葉ではない。
楽園の木のようにナーローパは語る。
しかし、普通の言葉を持ってではない。

超越的な意識という太陽で
魂の霊的闇を追い払う
雲の消えた空の光のように
ナーローパは、この非二元の霊性を楽しむ。
 ある朝、彼は、輝く光の領域(球)の中で、自分の霊的息子の内で最高の者、翻訳者マルパが、インドにやって来て、出家して間もないプラジュニャーシンハの元にとどまっているヴィジョンを見た。そこで彼は、ひとりの教師にメッセージをもたせて、そこへ送った。「チベットからやって来た Bhante があなたのところにいるはずです。その者をわたしのところへよこしなさい。」マルパとその新しい出家者は、一緒にプラハリへやって来た。新しい出家者は紹介をし、マルパは、ナーローパに会うと、手を合わせて何度も何度もおじぎをし、高価な金の贈り物をした。ナーローパは言った。
わたしのグルによって予言された
わたしの息子、立派なマルパ・ロロよ。
あなたが、かなたの雪の国からやって来たのはよいことです。
霊の王国を征服するために。
 そして、ナーローパは非常に喜んだ。
 マルパは3度インドにやって来た。一番目の時、彼は、ナーローパにヘヴァジュラのイニシエーションを受け、教え、説明、解放のすべてを聞き、さらに、この予言されたグルの元で学んだ後、グヒャサマージャ、シュリー・チャトゥピータ・マハーヨーギニー・タントララージャのような偉大な経典、そしてそのすべての精髄であるマハームドラーを持って、チベットに帰った。しかし、マルパは川で経典を失ってしまったので、インドに戻り、様々なグルにたくさんの金を供養して、彼らの親切を受けた。特に、ナーローパの元には、12年半とどまった。マルパは、比類のないグヒャサマージャに属するすべてを聞き、許しを得ると、チベットに戻って法を広めた。
 ナーローパには7人の、スートラとタントラの説明において、彼のように名の知られた弟子がいた。マイトリパ、シュリー・シャンティバドラ、マハーシッダ・ドンビパ、偉大な賢者シャンティパ、ネパールから来たピ・テー・タ、新しいプラジュナーシンハ、カシミールから来たアーカラシッディであった。また、彼には何百人という、仏教徒、及び非仏教とのパンデット(賢者)の弟子がいた。偉大なる賢者スムリティ、シャンティヴァルマン、ジュニャナーカーラ、スマティキールティ、デヴァチャンドラ、ナーガキールティ等である。さらに、彼には800人の、仏教徒、非仏教徒のシッダの弟子がいた。パム・ティパ等である。また、ベンダパ(ネパール出身のパインダパーティカ)のように特定の戒を守っている54人のヨーギもいた。さらに、なんらかの成就の印を持つ100人のヨーギニーたちもいた。ナーローパは彼らすべてに、霊的な成熟をもたらした。チベットでは、有名な父のタントラの系統が、彼から発している。[注:父の系統に属する最も重要なタントラは、グヒャサマージャである。これは、ツォンカパのお気に入りのタントラであった。ナーローパの弟子に関しては、George Roerich を参照のこと。]


(5)ナーローパの死


 彼のこの世界での存在の効果、他とコミュニケートすること、そして解決に達した状況は、想像もできないような活動において表現された。そして物理的存在の4つの構成要素によって課された限界を、奇跡的に克服することによって、彼は、目に見えるもの、目に見えないものも含めて、数え切れない魂を成熟させ、解放した。完成のステージの自分の生を、プラハリの素晴らしい独居で終えるために、彼は鉄の雄龍の年(AD1100年)の最初の月の8日目に、85才でなくなった。汚れのない目を持っている者には、彼の、5つの色で輝き、最高に完成された、大小すべての印を持つ真の(虹の)ヴァジラカーヤが、音楽と香水に包まれて、どんどん微細になり、究極の成就であり、非生起であり、不滅の音A、輝く光であり、そして空であるダルマカーヤへと、完成していくのが見えたはずである。

[注:ア字(Aの文字)は、不滅であり、すべての発達の確定的様相へのスタート地点である、このようであることと、自分自身であることの混合の象徴である。]

 様々なリアリティのヴィジョンを見た者にとっては、彼は永遠の命を得、水泡のようなものから行ったように、あるいは、真のヴァジラカーヤを得、それに存在し続けているように見えたはずである。まだカルマの浄化されていない者には、そして、これから生まれてくる魂にとっては、帰依と礼拝の対象として、彼はニルヴァーナに入り、その肉体が後に残されたように、見えたはずである。遺体が火葬された時には、数え切れないほどの遺骨が見つかったと言われている。


(6) マルパ師口頭伝授を得て、チベットに教義を広める


 マルパが、再びインドに赴くべく、旅のためのお金も集まった時、天女の衣を着た3人の娘が、彼のヴィジョンに(文字通りには、眠りと光が交わるところに)あらわれた。彼の旅の始めをよいものにし、ナーローパの意思を成就させるために、彼らは言った。
空の花、不妊の雌ロバの子どもに乗ったダーカ
口頭伝授は、口に出すべきではないものである、亀の毛を散らし、
ウサギの角の棒、つまり、生じないもので、ティローパを
究極のリアリティに目覚めさせた。
 無言(唖)のティローパ、すべての伝達に抵抗する、言語で表現しない者を通して、
盲のナーローパは、見ることではない真理を見て自由になった。
 びっこのマティ(マルパ)は、行くことも、来ることもない、輝く光の中を走る。
 太陽と月とゲェ・パ・ドルジェ
 これらの踊りは、多くの中の一つの価値

ほら貝がその名声をすべての方角に宣言した。
教えの器にふさわしい、精力的な者の名を呼んだ。
焦点、チャクラサンヴァラ、世界は口頭伝授の輪である。
いとしい子どもよ、執着することなく、それを回せよ。

[注:これは、チベットの象徴的言語の典型的な例である。有能なグルなしでは理解不可能である。この詩において、太陽と月は、ゲェ・パ・ドルジェによって言及されている、中央通路の右と左の構造的通路である。通路を通る震動は、究極的には空である故に、すべての段階において、同じ価値を持つ。可能な経験の焦点である、チャクラは、チャクラサンヴァラによって、一つに保たれている。これらの焦点は全世界を集め、口頭伝授の世界を通して、解釈されると同時に、意味のあるものとなる。それが、法輪を回すことである。]

 この言葉を言うと、彼らは虹のように消えた。このヴィジョンを見たマルパは、ロトルンに行き、まだ数日あったので、ダーカはミラレパの元に現れて言った。「長い瞑想によって、お前はマハームドラー、覚者の境地の覚醒、そして6つの教義を達成した。しかし、お前には、短い瞑想によって、覚者の境地の覚醒を得る、ポワと復活の教えがない。」[注:ここでは、力強い方法が示唆されている。p199参照]ミラレパはマルパのところへ行って、復活について教えてくれるようにと頼んだ。マルパは、そのような方法は存在するが、学んだ覚えがないと言った。二人は経典全部をあった。すると、ポワに関する記述は数多くあったが、復活に関するものは一つもなかった。マルパは言った。「お前のヴィジョンは、このためだったのだ。急いで立たなければならない。」
インドに着くと、彼は新弟子のプラジュニャーシンハに会った。プラジュニャーシンハは言った。「遅すぎました。昨年の新月、ナーローパはなくなりました。[注:瞑想はしばしば死に例えられる。明かに、正しい瞑想においては、人は『世界に対して死んでいる。』]先生は、あなたのことをずいぶんと褒めていました。そして、あなたが来ることを確信して、ヴァジラとベル、そしてこの絵つきの巻物を残しました。ヴァジラとベルは盗まれてしまいましたが、ナーローパはまだ生きています。」こう言うと、彼はヘーヴァジラの絵巻物を彼に渡した。マルパは、この目に見えるしるしを受け取ったものの、グルへの思慕から、悲しみの涙をたくさん流した。グルに会うことを拒否された者のように、あるいは、功徳が満たなくてグルに会えない者のように、マルパは新弟子に、口頭伝授を受けていないかと、だずねた。弟子は答えた。「口頭伝授という言葉は、聞いたことがありません。しかし、あなたの帰依は、法の目で見る尊師の慈悲にも匹敵しますから、きっと尊師に会えるでしょう。しかし、持っている金をすべて、供養しなくてはなりません。」そこでマルパは、毎月、マイトリパ、シュリー・シャンティバドラ、ダーキニー・ル・パイ・ギャン・チェ(カンカリー・ブーシャナ)、新弟子のプラジュニャーシンハ、そして同窓生であったリリパとカソリパのいるところで、布施をした。彼の受け取った最初の予言は次のようであった。
若い踊り子が横目で鏡を見る時
その宝石が王の旗の上に置かれる。
1羽の鳥が飛び上がり、王の旗の上にとまる。
船長が舟の舵をとる。
この夢はナーローパに会えるという意味。

2番目の夢:
崇敬されるナーローパが
象のような視線で、
目からチベットに光を広げる
太陽と月
これが、ナーローパに会えるという夢。

3番目の夢:
3つの山に鳴る法螺が、
低い谷から魂を導く。
ランプの光が
人間の世界全体を照らす。
これがナーローパに会えるという夢。

4番目:
めくらが「わたし」という不幸の砂漠から導かれる。
無智の目が開いて、心の鏡が見えるようにと。
これがナーローパに会えるという夢。

5番目:
霊的なダルマラージャによって
善の力に満たされた、祈りの成就。
これがナーローパに会えるという夢。

第6番目:
満月の盤のように不動のプラハリで
ナーローパが、霊性である、ダルマカーヤの鏡を見せる
 この約束に大喜びしたマルパは、グルを探して、ジャングルや町々を旅して歩いたが、数え切れないほどの困難に出会った。。例えば、暴君によって3ヶ月牢屋に入れられるといった具合だった。牢屋から出た彼は、また8ヶ月旅を続けた。最初の月に声がした。
太陽と月の上で
ライオンに乗って、歌い、踊る
二人の女がおまえを捕まえる、
当惑させるような夢に、欺かれているのではないか?

2月目にまた声がした。
絶えることのない信で、馬に拍車をかけ、
奮闘努力の鞭で帰依しなければ
わなにはまった鹿のように
二元のサンサーラをさまようのではないか?

3ヶ月目には
この道は、空を飛ぶ鳥の痕跡を
みつけるよりも難しいと知らなければ
鳥の影に飛びかかる犬のように
底知れない愚かさに陥るのではないか?

4番目の月には
ありもしないものを使うなら
疑いという蛇のとぐろは、決してゆるむことはない。
究極のリアリティである、霊的なダルマカーヤの中で
お前の努力は、2つ目の針ほども役に立たないだろう。

5ヶ月目、彼がグルのヴィジョンを見た時、次のような声がした。

欲望のない彼の存在は、
虹のように微細であると知らないなら
サーカスに行っためくらのように
どうやってその意味を知るのだ?

6ヶ月目に、再びグルに会い、金のマンダラを供養するヴィジョンを見た時には、次のような声がした。

すべてあるものは、始めから純粋なのだから
究極的なリアリティのマンダラを供養しない限り
欲望で供養された高価なマンダラは
世俗的な興味すべてと友情で結ばれるのではないのか?

7ヶ月目、彼はグルが谷に座って、死んだ男の脳みそを食べているヴィジョンを見た。マルパが、吐き気をもよおして、骨のひしゃくから自分の分を食べる事を拒否すると、声が言った。

大いなる至福の器の中では
大いなる至福の喜びは、一つの価値しか持たない。
大いなる至福として、これを食べないなら
おおいなる至福は決して楽しめない。

8ヶ月目、グルのヴィジョンを空しく、追い求めることに疲れ果てて座っていると、声がした。
もし、非行為の馬、輝く光、究極のものが
競争せず、行くことも、帰ることもしないなら
感覚(意識)のない砂漠で
なぜ、蜃気楼を追いかける鹿のように、走るのか?

 絶望的な気持ちで祈りを捧げ、偉大な学者ナーローパのことを思い出しては悲しくなりながら、ナーローパを探して、マルパはRi-mun-bcanのジャングルにやって来た。羊飼いに金を与えて、ナーローパのことを尋ねた。石英の塊に付いている足跡を見せられると、これから尊い人に会えるのだ、という限りない喜びに満たされた。熱心に祈って、「ようやく父と息子が出会える。」と言った。マルパがグルに出会うと、マルパは、初めて最初の精神レベル(注1)に達した時と同じぐらい嬉しくなって、支離滅裂なことを言い出した。[注1:最初の精神レベルは、「喜ばしいもの」(プラムディター)という名である。]マルパはグルの足を頭に乗せ、グルを抱擁し、気を失った。意識を取り戻すと、自分の金を全て使ってマンダラを作り、それをナーローパに捧げた。ナーローパは「いらない。」と言ったが、マルパは、それをグルに押しつけた。ナーローパが、あわや、それをジャングルの中に投げ入れようとすると、悲しくなって「それが、グルという真の宝石への供養となりますように。」と言った。しかし、ナーローパは、その金を返して「わたしはいらない。ここにあるのものは、すべて金なのだ。」と言った。そして、足の親指で地面に触れて、地面を全て金にした。
 マルパが、復活についての教えと、「口頭伝授」を教えてくれるようにと頼むと、ナーローパは「ティローパの恩恵によって、お前はここに連れてこられたのだ。この約束された教えは、プッラハリにある。」と言った。予言について問われると、こう答えた。
プッラハリのラマ寺で、
最高の意識という日光で
マティの無知の闇を永遠に取り払え。
彼に、その日光浴をさせるのだ。
 そして、ナーローパは「来い。」と言って(二人はその場を去った)。
 マルパは、自分のグルが、その内に去ってしまうのではないか、と考え、恐ろしくなり、自分達が会った事に対するティローパの怒りが恐くて、ナーローパの回りを歩いて、ナーローパの加護を乞うた。ナーローパは、こう祈った。
グルよ、あなたによって、わたしに約束された
息子、立派なマルパ・blo-grosを、苦しめるために、
マーラの娘達によって遣わされた
全ての障害を、どうかお払い下さい。
この祈りに答えて、ティローパは、様々な恐ろしい武器を持つ、怒りの神々の一群と共に、全ての障害を取り除いた。ダーカ達は、恐ろしくなって、手を会わせてこう言った。
わたし達は、恐ろしい武器で武装した
恐ろしい偉大な軍勢に帰依いたします、
恐ろしい言葉を持っている、その軍勢に、
わたし達は害を加えません。

月が、完全な輝きに満ちて、二度昇ったら、
彼に、偉大な馬車の馬に乗ってもらおう。
尊いナーローパよ、予言が成就したので、
霊的な魂達の中で生きて下さい。
こう言うと、彼らは皆消えた。この時、マルパ自身は、雲にティローパの半身を見たと言われている。
 それから、ナーローパとマルパは、プッラハリへ行った。マルパが「口頭伝授」を、特に、ポアと復活の教えを頼むと、ナーローパは「復活の教えを乞う事を思いだしたのか、それとも、啓示を受けたのか」と尋ねた。マルパは「わたしは啓示を受けた事はありませんし、思いだしたわけでもありません。わたしには、Thos-pa dga' という名前の弟子がいます。(注1)彼はダーカから啓示を受けました。」と答えた。[注1:Thos-pa dga'はミラレパのファースト・ネームだった。]すると、ナーローパは「素晴らしい事だ。チベットという暗黒の国に、雪の上に昇った太陽のような、輝く魂がいる。」と言った。それから、合わせた手を頭上に上げ、
北の恐ろしい暗闇の
雪の上に昇った、太陽のような、
Thos-pa dga'
という魂に礼拝いたします、
 と言って、目を閉じ、チベットの方に向かって、三回うなずいた。プッラハリの山や木もチベットの方に向かって三回頷き、その方向に傾いたと言われている。
 2ヶ月近く後、マルパが、象徴的なイニシエーションと「口頭伝授」の教えを受けると、ナーローパが、八人の女神(注2)を連れた、ヘーヴァジラ神の形で空に現れ、マルパに、「わたしに敬意を表しているのか、守護神に敬意を表しているのか」と尋ねた。マルパは「守護神にです。」と答えた。ナーローパはこう言った。[注2:ガウリマー、チャウリマー、ガスマリー、プッカスィー、シャバリー、チャンダーリー、ドーンビニー]

グルのいない所では、覚者の名前すら聞かれない。
千のカルパの覚者方が現れるのは、グル次第である。

「実は、覚者方は、グルの顕現なのだ。」すると、守護神はグル、ナーローパの中に消えた。ナーローパは「このお前の解釈のために、お前の人間の血統は長く続かないだろう。しかし、それは、魂に取っては、幸運な性質なのだ。仏教の教えが続く限り、法の系統は続くのだから、喜べ。」と言った。感謝の儀式で、ナーローパは、手をマルパの頭に置いて、この教えを明かす歌を唄った。
五人の覚者方(注2)の鳥は、
究極的なものの広大さの中に現れ、
全世界の王の宝石を持っている。
人間の血統は、花のように萎み、
法は川のようになる。
欲望の目も眩むような画像である、
輪廻の波そのものは、消え去ってしまった。
[注3:ヴァイローチャナ、ラトナサンバヴァ、アミターバ、アモーガスィッディ、アクショーブヤ]
これを理解すると、マルパはナーローパに敬意を表した。ナーローパは、即座に、ダーカによって、霊的な領域に引き込まれた。
 マルパは急いでチベットに戻ると、「口頭伝授」の教えを禁戒(禁止、指示)、と共に、霊的息子であるミラレパに伝えた。ミラレパはRas-chun-paとNan-rdzon-paに教えと成熟させる確認を与え、Dags-po rin-po-che(ガンポパ)にナーローパの六つの主題として知られている、「解放の道」を与えた。このようにして、マルパは、チベットという雪国に、仏教の教えの灯明を灯した。

これが、二人目の覚者である、ナーローパの不思議な生涯であった。
以前の決意の力によって、ナーローパは、存在の最高の形態を達成し、
現世を捨て、解放の道の三つの修行を体現した。
スートラとタントラの経典を説明し、検討し、書いた、卓越した学者であった。
プッラハリで、最初のピタカ(ヴィナヤ)の教えを広め、
ナーランダで、敵を破った後で、僧院長として務めてくれと頼まれた。
多くのティールティカを打ち倒した後で、スートラとアビダルマを教え、
ダーカの予言の、12の小さなヴィジョンに刺激され、グルを捜し求め、
ティローパに出会って、自己否定の12の行為を通じて、彼に従い、
「口頭伝授」と復活と他の修行の4つの確認を経験して、
最高の悟りと、経験と、調和の直感的理解を達成した。
全ては、シッダの王の伝承に従って、忠実に記録され、
容易に理解できるように、教えの意味と目的の要点を含む
口頭の教えが付け加えられている。
黄金時代に、何千もの覚者が現れた、他に勝るものの無い、ジャンブ州で、
この堕落した時代に、スートラとタントラが広く教えられている(チベットと いう)雪国で、
尊いミラレパによって、中央の通路の障害が取り除かれた、Brag-dkaraで、
ここは、精神の英雄達とダーカ達が出会い、瞑想が栄えている場所、
ガルダという鳥の、少なくとも1マイルにはなる、広げた羽のように、
過去と未来の高貴な聖者方によって、清められている。
アヴァローキテーシュヴァラがよく訪れた、rDzon-dkarという場所の近であり、
アティーシャが留まった場所であり、mNa-ris bskor-gsumの一部である。
この場所で、わたし、lHa'i btusn-pa Rin-(chen) rnam-(rgyal)、は、このナーローパの物語を、それが起こった通りに書いた。

確かに、
わたしがこの本を書こうという気持ちの中にある、善の力によって、
KhuとdbOn父子(注1)が、かつて住んだ土地に、繁栄と平和がありますように。
そして、母親として、お互いに関係がある、全ての魂が肉体を持ち、
グヒャマントラの教えに触れますように、
そして、彼らが、シッダのグル達によって受け入れられますように。
外側と内側の条件に浸透する事から、引き出されたれ力を通じて、
通路と、運動性と、それ自体破壊されることの無い、創造の潜在力によって、無始の時からある三つの規範に、彼らが気付きますように。

また、この本を通じて、スートラとタントラに含まれている、
教えの精髄が、広まり、繁栄し、長く続きますように。
善が増大しますように。

[注1:Khu-ston brTson-'grus g'yun-drun (A.D. 1011-75)とdbOn-po 'byun-gnas rgyal-mtshan。前者が死ぬと、後者が僧院長になった。よって、「父と子」の関係である。]