TOPorLINK文書館Part2ナーローパの生涯と教え>II.ナーローパはこの世に嫌気がさし、宗教生活を始める


II

ナーローパはこの世に嫌気がさし、宗教生活を始める


 この部分は四つの章からなる。

(1) 在家の弟子としての戒を得、五つの教えの枝1を習得する
(2) 両親を喜ばせるために、Dri-med-ma(ヴィマラー)と結婚する
(3) 再び出家し、完全な(僧としての)戒を受け、勝利者の教えを太陽のように輝かせる
(4) ヴァジラの座から仏教を広め、外道を打ち破る
[注1:五つとは、技法、医学、文法、認識論、修辞学である。]
(1)

 ナーローパは覚醒した者の一族2に属しているので、彼にとっては、法で無いものが有るとは思えなかった。[前出の***頁の注を見よ。]八才の時に、自然とこの世に嫌気がさし、この世が無常であるということを悟った。3
[注3:わたし達は、普通は、自分の目を、全ての無常性に開いてくれた霊的な友人が常であると信じたいと望む。これが、この世を超越する第一段階である。わたしの「解放の宝石の飾り」41頁以降を参照のこと。]
 彼は、高貴な教えのことを、常に気に懸けていて、感動して、涙を流すこともしばしばあった。従者を見かけると、必ず、その従者に、全ては死なねばならず、永遠に続くものではない、と教えた。このように、自分が、法に従えと説得した者には、大いなる敬意を表した。ある人が善を為しているのを見かけたら、その人には必ず報いたが、ある人が悪を為しているのを見かけたら、悲しくなって、心臓が縮んだ。心は法にだけ向けられていたので、両親に、「法のためにカシミールに行って、勉強しなければなりません。」と言った。そして、こう歌った。
神聖な三宝に礼拝いたします。
三宝に触発されて、父よ、あなたに、わたしの言葉を聴いて頂くようお願いいたします。
全ての行為は惨めさの根です、
もしもそれが、法に叶っていないなら。
 「ですから、わたしはここに留まらずに、法のためにカシミールに行きます。」
 母親が彼を胸に押し抱き、行かせまいとすると、彼はこう歌った。
神聖な三宝に礼拝いたします。
母よ、息子を手元に置かず、法にお渡し下さい。
母よ、両親が偉大な恩恵を施す人であろうとも、
その行いが、法に合致していなければ、世界は永遠に続きます。
もしも、息子を本当に愛しているなら、
法に従って、息子のために全力を尽くして下さい。
 すると、母親は泣き出したが、愛する気持ちから、「わたしの愛しい息子よ、あなたが幸福になるように、しばらくの間、あなたに法をあげましょう。でも、あなたの両親も幸福になるように、すぐに戻ってきて下さい。」と言った。こうして、彼女は、息子に行く許可を与えた。十一才の時に、彼はカシミールに着いた。
 そこで、僧侶のNam-mkha'i gras-pa(ガガナキールティ)の在家の弟子として戒を受け、Nam-mkha'i snin-po(ガガナガルバ)という名前になった。そして、次のようにして、技法、医学、文法、認識論、修辞学を学んだ。
 Dus-'khor(カーラチャクラ・タントラ)とsDom-'byn(サンヴァローダヤ・タントラ)とSha-ri-bus zus-pa'i mdo の技法を学んで習得した;'Bumとその解説書であるTshans-pa-la gsuns-paとlHa'i dban-po-la gsuns-pa と Phyi-nan-gi dran-sron-la sguns-paで医学を修めた。文法では、彼は、Kun-tu bzan-poと、カラーパと、チャンドラパと、四つの基本言語(注1)を学んだ。
[注1:四つとは、プラークリット、アパブランシャ、パイシャーチー、サンスクリットである。例えば、ツォンカパ、4. Iaを見よ。]
 それから彼は、Tshad-ma kun-las btus-pa(プラマーナサングラハ)と、七つの補助的な教科書を学んだ。この内の三つは経典の本体を説明し、四つはその四肢を説明するものである。kLu-sgrub(ナーガールジュナ)のTshad-ma snan-ba、'Phags-pa lha(アールヤデーヴァ)のmNon-sum rjes-dpagそして、他の多くの作品。かれは、kLu-sgrub(ナーガールジュナ)父子のsNyan-nag don-rgyan-kyi mdo, Mu-tig 'phren-ba、詩人の中の宝石、教師dPa'-bo(ヴィールヤ=アシュヴァゴーシャ)(注1)によって作られたsNyan-nag me-lon(カーヴヤーダルシャ)、その他の多くの作品を学び、習得した。
[注1:カーヴヤーダルシャはダンディンによって書かれた。この著者は様々な重要な著者を混同している。]
 彼はカシミールに三年留まり、五つの学問の枝で、傑出した学者となった。そして、十三人の学者を連れて、家に帰った。Ye-shes snyin-po(ジュニャーナガルバ)、シャーキャ・bshesgnyen (シャーキャミトラ)、Legs-ldan 'byed(バヴヤ)、Zla-ba grags-pa (チャンドラキールティ)、Shes-rab 'byun-gnas、Nag-po-pa(クリシュナーチャールヤ)、Kun-dga' snyin-po(アーナンダガルバ)、Yan-lag med-pa'i rdo-rje(アナンガヴァジラ)、Ye-shes zabs(ジュニャーナパーダ)、チャンドラハリ、sPrin-gyi shugs-can(メーガヴェーギン)、mNon-shes-can (アビジュニャ)(注2)である。
[注2:ここで名前の挙げられた学者は、仏教思想史上、重要である。しかし、当分の間、彼らがナーローパと同時代の人かどうかは、結論を出さずにしておこう。よくあることだが、精神的に密接な関係があるという理由で、様々な時代の人が、ひとまとまりにされる。]
 三年間、彼は講堂で、スートラとマントラを学んだ。スートラでは、彼は「秘密の意味をより深く理解する」派閥に従い、そして、mNon-par rtogs-pa'i rgyan(アビサマヤーランカーラ)、rGyud bla-ma(ウッタラタントラ)、mDo-sde rgyan(マハーヤーナ・スートラーランカーラ)、dbU-mtha' rnam-'byed(マドゥヤーンタヴィバンガ)、Chos-nyid rnam-'byed(ダルマ・ダルマター・ヴィバンガ)を習得した。仏教の教えの本質である、「空の教え」の派閥については、rTsa-she(プラジュニャー=ムーラマドゥヤマカカーリカー)、sTon-nyid bdun-cu(シューンヤターサプタティカーリカー)、Rigs-pa drug-cu(ユクティシャシュティカー)、Zib-mo rnam-dag(ヴァイダルヤスートラ)、rTsod zlog(ヴィグラハヴヤーヴァルタニー)、Rin-chen 'phren-ba(ラトナーヴァリー)、即ち中観派の六つの作品を習得した。
 マントラの文献では、クリヤー・タントラから、bSam-gtan phyi-ma(ドゥヤーノーッタラ・パタラクラマ)を、チャルヤー・タントラからは、rNam-snan mnon-byan(ヴァイローチャナービサンボーディタントラ)を、ヨーガタントラからは、sByon-skyil bcu-gnyis (サルヴァドゥルガティパリショーダナテージョーラージャスヤ・タターガタスヤ・アルハト・サンヤクサンブッダスヤ・カルパイカデーシャ)、その他の経典を学んで、習得した。アヌッタラヨーガ・マザー・タントラから、五十万の詩句のある完全なKye-rdi-rje(ヘーヴァジラ)のdGyes-pa rdo-rje(ヘーヴァジラタントララージャ)、そして、brTag-gnyis(ヘーヴァジラタントラ)の凝縮版タントラを習得した。bShad-rgyud(タントラについての解説的な作品群)からは、Gur(ヴァジラパンジャラ)、そして サンプティカーを習得した。彼はまた、bDe-mchog(アビダーナー・ウッタラタントラ)の五十章からなる基礎的な作品とsDom-pa 'byun-ba(サンヴァラ・ウドヴァラ)も学んで、習得した。bShad-rgyud: Heruka snon-'byun (ヘールカ・アビウダヤ)Phag-mo snon-'byun(ダーキニー・サルヴァチッタードゥヴァヤーチントヤ・ジュニャーナヴァジラヴァーラーヒアビバヴァタントラ)Kun-spyod bla-ma、mNon-spyod bla-ma、Kha'-'gro-ma dra-ba'i rgyud、 mKha'-'gro rgya-mtsho(シュリー・ダーカールナヴァマハーヨーギニータントララージャ)、そして、その他の経典を学び、習得した。
 その後、教師達と弟子達は、教育を受けるべき人を精神的に成熟させるために、法の車輪を回した。即ち、衆生の三つの階級の、心の許容量と精神的な興味に応じて、シュラーヴァカヤーナとボーディサットヴァヤーナとマントラ・ヴァジラヤーナを教えた。この三つのヤーナの福音が常に聞こえた。さらに、丸三年間、文法、認識論、その他の学問の枝から成る法が教えられたので、国全体が法で満たされた。
 ある日、十分に勉強をしたと考えて、ナーローパの父は、こう言った。
どのような高貴な教えが、親の言葉に背くだろうか。
だから、身を落ち着けて、家に住みなさい。
 王が、息子のすることが気に入らず、このように息子を非難すると、優れたガガナガルバが招いた学者は全て、多くの素晴らしい贈り物を与えられて、解雇された。しかし、学者である王子は、両親に対して思いやりがあり、微笑んで、こう言った。
神聖な三宝に礼拝いたします。
三宝に促されて、わたしは、あなた方両親に、
わたしの言うことを聴いて下さるよう、お願いいたします。
高貴な教えを信仰していないなら、
その信仰は何の役に立ちましょうか。
息子が喜んでいないのに、なぜ息子をかわいがるのでしょう。
無常と死を心に留めずに、
どのようにして法を実践することが出来るでしょうか。
お父さん、お母さん、わたしのしていることが気に入らないなら、
わたしを、学者と一緒にカシミールに戻らせて下さい。
 両親は、「聴きなさい、お前は立派で聖なる人間だ。わたし達に法を教えてくれた。しかし、他の学者には帰ってもらいなさい。」と答えた。彼は、これに同意した。しかし、学者達が立ち去った後で、彼が法について考えていると、両親は、「愛しい息子よ、もう十分に法を説き、実践したではないか。わたし達の高貴な家系を絶えさせないために、もう妻を見つけてもいい時期だ。」と言った。
 息子は、「ああ、お父さん、お母さん、聴いて下さい。わたしが結婚したら、法はどうなるのでしょう。現世の要素が増えて、どうして解脱することができましょう。昔、サキャ神賢は、結婚生活を放棄し、真理の追求者となり、それによって、彼の父と母が彼にしたことに報いたのです。わたしも同じ事をします。どうかわたしに許可をお与え下さい。」と答えた。
 両親は、「お前がそうするなら、わたし達両親から、呼吸している生命そのものを奪うようなものだ。」と答え、怒って、後には引かないという決意を表した。すると、崇高なガナガルバは「わたしが結婚しなければ、わたしの両親の生命が危険にさらされる。しかし、結婚すれば、恐ろしいものの中に飛び込み、もはや法の道をたどることは出来ないであろう。法に背けば、学問の五つの枝の学者であるとはいえ、わたしはほとんど意味の無い人間になるに違いない。」と考えた。そして、声に出して、「わたしは法に背かないような結婚生活を送ります。」と言った。両親は喜び、彼の手を取って、こう言った。
本当によくぞ言った、最も高貴な息子よ。
お前は両親を喜ばせた。わたし達は大いに喜んでいる。
 そして、二人は彼に何度も何度も、お辞儀をした。

(2)


 王子は「わたしが法に反さない結婚生活を送るとするなら、どのような女性もわたしにふさわしくありません。よって、わたしが結婚しなければならないとするならば、相手はこのような人でなければなりません。」と言って、次のように歌った。
神聖な三宝に礼拝いたします。
三宝に促されて、わたしは歌います。
全てのものが自分の両親であると気付く者はいません。
しかし、偏見を持っていない、清潔で、ヒンドゥーの生まれで、
Dri-med-ma(ヴィマラー)という名前で、
精神的にマハーヤーナの一族である女の子を探して下さい。
その子を見つけたら、教えて下さい。
 そして、そのような女の子を見つけてくれたら、敢えて逆らうことはしないと、付け加えた。そして、妻となるべき人に備えていて欲しい特質を書き出して、そのリストを、父親に渡した。父親は、「本当に、これは結婚をしないための唯一の手段だ。どこにこんな女の子がいるんだ。」と思い、その夜は悲嘆の部屋に入った。
 翌日、首相のYe-shes spyan-ldan(ジュニャーナチャクシュマント)が、王に、「陛下、わたしは、お気に障るようなことを致しましたか。」と言った。
 「いや。でも、わたしには一人息子がいて、家系が途絶えるといけないから、結婚してくれと頼んだところ、結婚したくない、もしも無理にでもと言うなら、ヒンドゥー教徒の家系で、偏見がなく、清潔で、解脱した心を持っていて、愛と聖哀れみを実践しており、十六才で、Dri-med-ma(ヴィマラー)という名前の子なら良かろうと答えたのだ。どこにそのような女の子がいると言うのだ。そういう理由で、悲嘆に暮れていたのだ。」
 「陛下、ご心配にはおよびません。陛下のご子息は、功徳を積んだ優れた魂です(そして、そういう理由ですから、全てはきちんとうまく行くでしょう)。そういう女の子が見つかるかどうか考えて、お悩みにならないで下さい。」
 「絶対に見つからないと思うが、いずれにせよ、頑張ってくれ。」
 首相は、もう一人仲間を選び、その者に、王との会話の内容を打ち明けた。一年の捜索の後、彼らは、ある晩、東インドのベンガルにある、'Dam-bu-kaというヒンドゥー教徒の村にやって来た。彼らは歩き疲れて、井戸の側に、腰を下ろした。バラモンの女の子が近づいてきた。彼女は、神聖な紐を身につけ、髪の毛を結び、目を大きく見開いて、辺りを見回していた。水を汲む人がいなかったので、彼女は、ためらわずに、自分で汲んだ。すると、首相は「喉が渇いているので、水を下さい。」と言った。その子が喜んで水をくれ(これは、その子が、聖哀れみのマハーヤーナの一族に属しているとしか考えられない)、水飲み用のお椀を完璧にすすいでいる(よって、その子の清潔感覚を示している)のを見ると、首相はその子に「あなたのお父さんとお母さんは、何と言いますか。あなたのお名前は、幾つですか、どのカーストに属していますか。」と尋ねた。
 その女の子は、首相をしばらくの間、見つめた。首相が、疲れていて、心配そうにしていて、声が嗄れていて、真っ青で、疲れきっているのを見ると、聖哀れみでいっぱいになり、目に涙を浮かべて、「わたしの父はバラモンのsKar-rgyal(ティシュヤ)、母はバラモンのNi-gu、兄はバラモンのNa-guと言います。わたし自身は、Dri-med-sgron-ma(ヴィマラディーピー)という名前です。十六才で、カーストはバラモン、宗教はヒンドゥー教です。」と答えた。彼女は心配そうに見えた。首相は、彼女の名前、カースト、振る舞いが、あらゆる点で、王が詳細に述べた特質に一致していると考え、彼女が王子と、喜んで結婚する気があるかどうかを探るために、「偉大な学者であり、シャーンティヴァルマン王の息子である、サマンタバドラのことを聴いたことがありますか。」と尋ねた。
 「聴いたことがあります。」
 「彼の妻になりたいと思いますか。」
 「わたしの父に尋ねに行って下さい。父がその気なら、わたしは参ります。わたしも父に尋ねてみます。でも、父が許してくれなければ、わたしはその言葉に、敢えて逆らうことはできません。」
 首相が、娘の父親について尋ねると、娘は「明日の夜明け前、父は秘密のバラモンの捧げ物をするために出てきます。父には、びっこを引いて、杖を持って、髪の毛を結んでいるバラモンが一人付いています。この人に聴かれないように、父に尋ねて下さい。」
 こう言うと、その女の子は家に帰った。
 翌朝、彼女が言った通りのことが起こった。二人の大臣は、バラモンのティシュヤに近づいて、「あなたは、娘のヴィマラディーピーを、シャーンティヴァルマン王の息子である、サマンタバドラ王子の妻として、与えるべきです。」と言った。ティシュヤは「あなた方の王は、確かに、優れた家系に属してはいるが、わたし達はバラモンという高いカーストであり、仏教徒ではない。あなた方は仏教徒だから、娘をあげることはできない。」と反論した。そして、家の中に入って行った。
 二人の大臣は「あなたが娘さんを与えなければ、わたし達は、あなたの家の前で自殺をします。」と叫び、階段に横になり、何日もそこで過ごした。すると、人々は「なぜこういうことをしているのですか。」と尋ねだした。
 「わたし達は、ヴィマラーにサマンタバドラ王子と結婚して貰いたいのです。しかし、このバラモンのティシュヤが、娘さんを結婚させることに耳をかさず、わたし達が命を失うことも気に留めないのです。」
 人々は二人を気の毒に思い、バラモンのティシュヤをののしり、「ヴィマラーが結婚することを許せ。」と強要した。このようにして、そのバラモンが無理矢理同意させられると、二人の大臣は、大喜びで国に帰った。二人が、シャーンティヴァルマン王に、自分達の任務について話すと、王は喜んで、バラモンのティシュヤに、高価な贈り物を送った。王は、そのバラモンの少女を招くために、二人の大臣に多くの従者を付けて、送り返した。彼らがティシュヤの家に着くと、ティシュヤは喜んで娘を彼らに託し、その息子も喜んだ。その少女は、感動して、婚約者のサマンタバドラ王子に対して、深い信頼と尊敬と献身を寄せた。二人の大臣は、高貴なヴィマラディーピー王女をともなって戻り、王子は、十七才の時に、彼女と結婚した。
 しかし、ナーローパは「こんな子は見つかるまいと思って、ある特色を備えた女の子を望んだ。この世で不可能なことはないということを忘れてはいけない。」と考えた。そして、両親に笑顔を向けた。
 それから、優れたガガナガルバは、妻にマハーヤーナの教えを教えた。ヴィマラーは、熱心な信念を持って、耳を傾け、決して(この教えの福音を)忘れなかった。夫の弟子になって、彼女は全ての事で、夫に仕えた。

(3)


 サンサーラ以外の何物でもない家庭生活に嫌気がさし、優れたガガナガルバは現世を捨てたくなった。そこで、彼はヴィマラーに「わたし達は八年間、一緒に住んだが、このような生活が大嫌いだ。子供の時ですら、わたしはいつでも家を出たいと思っていた。しかし、いつでも難しい問題が生じた。それは両親に逆らうことを意味していた。しかし、今や、わたしは、家を出ようと思う。君は法に従ってもいいし、好きな人と結婚してもいいよ。」
 妻は、「わたしが仏教徒でないという理由で、非難して、捨てることはできません。死がいつやって来るかわからないということを考えると、どこにも安全はありません。わたしは、あなたが宝を実践する邪魔をせず、お役にたてることは何でもしますから、妻に欠点があると言って、現世を捨ててください。」と言った。
 優れたガガナガルバは、両親に「女性は狡猾さに満ちていて、ヴィマラーにももちろん、数え切れないほどの欠点があります。これ以上彼女と一緒に住むことはできません。」告げた。シャンティヴァルマン王は、バラモンのティシャを招いて、このことについて話し合った。そして、二人とも、ガガナガルバに、ヴィマラーと一緒に住み続けてくれるように頼んだ。彼はこう答えた。
 女性の欠点は数限りない。
 わたしの大きな心は、狡猾さの毒の沼に落ちてしまった。
 故に、わたしは、現世を捨てなくてはならない。
 2人の親はヴィマラーに対して、何か言う事はないかとたずねた。彼女は、「確かにわたしには、数多くの欠点があります。一つも美点がないので、わたしは、単に彼をだましただけです。ですから、わたしたちは別れなくてはなりません。」と言った。

 しかるべき熟考の末、二人の親は、離婚させることに決めた。ヴィマラー王女は、法における仲間となり、優れたガガナガルバは、(アーナンダーラマ)の僧院に行った。この時25才であった。
 僧院長の(ブッダシャラナ)と教師の(ジュニアーナプラバ)は、彼にシュラマネーラ(見習い僧)の戒を与え、(ブッダジュナーナ)と改名させた。彼は彼らの元に3年間とどまった。そして、(ヴィナラヴァストゥ)(ラソタヴィスタラ)(カルマシャタカ)(スムリティウパスターナ)(ジャータカマーラー)そして(ヴィナヤスートラ)を学び、習得した。また、自分が以前に招いたような、有識者を多く訪ね、彼らの元で、25,000行の基礎的なタントラと、父親のタントラ群に属する(グヒャサマージャタントラ)の1,800行のある18章からなる、凝縮版タントラと、(チャトルデーヴィパリプリチャー)(サンディヴィヤーカラナ・タントラ)(ヴァジラーヴァリーナーママンダラサーダナ)(シュリージュニャーナヴァジラサムッチャヤ)そして、ハーイ・ベン・ポ・シュ・パーイ・ギュを学び、取得した。また、マー・ナク・ジク・スム・ギ、特に、第3節と第7節も学んだ。
 彼は見習い僧ではあったが、ビクシュ(僧)ではなかった。僧の戒を受けなければ、自分の修行は不完全であろうと考えて、彼は、喉が乾いていて、水を手にいれようと決心した人のように、カシミールのプナへ行った。そのとき、二十八歳であった。僧院長の chos-kyi bla-ma(ダルマグル)、教師のchos-kyi ye-ses(ダルマジュニアーナ)、そして秘密の教えの教師の chos-kyi byan-chub(ダルマボーディ)に率いられた、多くのビクシュに囲まれて、彼はビクシュの戒を受けた。名前は chos-kyi rgyal-mtshan(ダルマドゥヴァジャ)となった。彼はカシミールに三年とどまった。
 僧院長と他の教師の指導の下、Dus-'khor(カーラチァクラ・タントラ)の解説書と、Dri-med 'od-gsal(ヴィマラプラバー)、そして、また、マハーマヤと gDan-bzi(シュリー・チャトゥフピータマハーヨーギニータントララジャ)を学んだ。
 それから、彼はプッラハリへ行った。自分の説明と悟りによって、彼は仏教の教えを遠く広く伝えた。彼の周りには、すでに様々な特質をすべて発達させた、数えきれないほどのビクシュが集まった。非常に感動的な経験をする者や、実相を直観的に理解する者もいれば、超感覚的な認識を発達させ、奇跡的な力を獲得する者もいた。さらに、学問の五つの枝に非常に秀でるようになった者もいた。このようにして、彼の名声と栄光は、ありとあらゆる所に広まった。人々は、
「サキャ神賢の教えを完全に理解している人がここにいる。」
と話し始め、彼は長老 bsTan-pa 'dzin-pa【テンパ・ジンパ】(ジャーサナダラ)という名前で非常に有名になった。プッラハリで六年過ごし、gSan-pa 'dus-pa(グヤサマージャ・タントラ)についての作品を、いくつか書き、rGyud phyi-ma'i 'grel-pa【ギュ チー・マーイ・レー・パ】と gSan-bai sgron-ma【セン・パーイ・ロン・マ】と Rim-lna bsdus-pa gsal-ba【リム・ナ ドゥ・パ セ・パ】を作った。(bDe-mchog rtsa-rgyud)
 そして(アビダーナ・ウッタラタントラ)の解説書である Mu-tig-'phren-ba とsDom-'byun(サンバラ・ウドバラ)を書いた。また、Kye-rdo-rje(ヘーヴァジラ・タントラ)の解説書である brGyan-gyi 'phren-ba【ギャン・ギー・テン・パ】やスートラとマントラについての作品を多く作った。
 彼は、それから、学者たちがサキャ神賢の福音を広めているナーランダ大学に入った。彼らは、経と律と論と神秘的な図を、同じぐらい完全に知っていた。ナーランダには五百人の学者がおり、そのうち、八十四人が非常に有名で、このうち四人が特に際立っていた。東の門では、Ses-rab 'byun-gnas【セ・ラプ,ジュン・ネ】が、実相の深遠で光り輝く本質を即座に直観的に理解することで一番であった。南の門では、Nag-po-pa(クリシュナーチャールヤ)が、戒律 discipline で;西の門では、ラトナーカラシャーンティが文法、認識論、精神的な戒、そして論理学で;北の門では、Dze-tari(ジェータリ)が、すべての障害を克服すると、拒絶と達成は同じであるという、彼の悟りで、一番であった。
 この最後の学部長が死に、彼の地位を埋める学者がいなかったので、五百人の学者は、
「長老 bStan-pa 'dzin-pa【テンパ シン・パ】以上に立派な者はいない。」
と決定した。満場一致で、彼らは、彼にその地位を受け入れてくれと頼んだ。彼は、最初拒んだ。しかし、彼らは、
「北の門の学部を統括していたわたしたちの長老が、別の世界へ行きました。世界中のどこにも彼に代わる人はいません。あなただけが、そのような広い知識をお持ちです。ですから、どうかその地位を受け入れてください。」
と言った。すべてのビクシュが、九日間、受け入れてくれと、手を組んで頼んだので、彼は喜んで受け入れた。そして、彼らは、彼を北の門に就任させた。
 インドの慣習によると、新しい学者が就任すると、仏教学者と他の哲学体系の学者との間で、討論するのが決まりであった。討論が二週間行われるという通達がなされ、どんなものであれ公言された教義はすべて木っ端みじんにするために、すべての学者が集まった。ナーランダ大学の中央広場に、集会を取り仕切る国王の座が据えられた。王の右と左に仏教とヒンドゥー教の学者が座った。最初に、長老 bsTan-pa 'dzin-pa【テンパ ジンパ】が仏教徒たちと半月間討論したが、だれも彼を打ち負かすことができなかった。次に、ヒンドゥー教徒たちが、もう二週間費やして、文法、認識論、精神的な戒、そして論理学について討論した。すべての種類の霊的な力と奇跡的な能力と対決した結果、長老は対戦相手に完勝した。 Phyogs-kyi go-cha(ディグヴァルマン)王は、集まった人に、「わたしは、両陣営の公平な後援者である。しかし、真理を立証するこの大会で、だれも長老 bStan-pa 'dzin-pa【テンパ シン・パ】に勝つことはできなかった。そして、勝利者(サキャ神賢)の解放する力に対する、稀な信仰がいたるところに生じた。」
と語った。

(4)

 そのとき、ナーランダの教官たちは、長老 bStan-pa 'dzin-pa【テンパ シン・パ】に、彼らの僧院長になるよう要請し、彼にジグ・メ・ラク・パ(アバヤキールティ)のなを授与した。アバヤキールティ(venerable)は、非仏教徒の学者をすべて打ち負かし、次のような詞章を作った。
文法の鉄の鉤・知識・論理を、宗教的戒によって、
わたし、長老アバヤキールティは
敵対するものをスズメの群れのように追い散らした。
文法の斧・知識・論理と、宗教的戒によって、
わたしは敵対者の木を切り倒した。
論理と戒の確かさの明かりによって、
わたしは敵の無智の暗闇を焼き焦がした。
三つの鍛練という聖なる宝石によって、
わたしは罪の汚れを取り除いた。
教えの波城【はじょう】つちによって
わたしは、当惑という悪徳の町を征服した。
ナーランダで、王の御前にて
わたしは、たえず揺れ動く木を打ち倒した。
サキャ神賢の教義のかみそりで、
わたしは、敵の異教徒の髪の毛をそり、
そしてサキャ神賢の教義の旗を揚げた。
 そのとき百人の学識あるヒンドゥー教の教師が頭をそり、仏教に改宗し、その三日後、さらに六百人が改宗した。ナーランダ大学の者たちは大きな旗を揚げ、大きな太鼓を打ち、ダルマのほら貝を吹き鳴らし、大いに喜び、幸せに満たされた。偉大なる王、ディグヴァルマンは、誉れあるベネラブルアバヤキールティに信と尊敬を示し、何度も礼拝した。そして、自らの頭を彼の足につけてこう言った。
「あなたの後援者であることを幸せに思います。」
 異教徒の教義を打ち負かした後、この偉大な学者は、サキャ神賢のメッセージを八年間にわたって広めた。