TOPorLINK文書館Part2カーラチァクラタントラ>第3章

 心というものはその働きによって完全なる解脱に至りもすれば、動物・地獄の存在者がいる低い領域にも達するがゆえに、最も重要なものです。すべての魂に恩恵があるよう、カーラチァクラの形で完全なる解脱が得られるように、という動機を持ってこの教えに耳を傾け、学びたいものです。そうすればたとえ五分でも聞くことによって大変大きな恩恵があるのです。
 誓約と戒はできる限り、最善を尽くして守るべきです。すでに説明された戒と誓約の中でも自分が今守れるものを認識して、それを守るようにしましょう。今守れないものに対しては「こんなのは守れない!」と考えてただ放り投げてしまうのではなく、今の自分にその能力がないことを認め、将来心がもっと成熱することによってどの戒も完全に守ることができるようになりますように、という祈りを捧げましょう。こうやって戒を心に留めてできる限りきちんと守っていくことが大切なのです。
 最終的にはすべての戒を守ることができるようになるという長期的見解に立つ限り、心は確実にこの能力を有しています。インドの菩薩、シャーンティデーヴァは彼の優れたテキストである『菩薩の生き方ガイド』の中で、「教えが真実であり欺きや策略のないサキャ神賢は、たとえ昆虫でも仏性を有しており、完全な解脱に達する能力(アビリティー)がある」と説明しています。もしこれが昆虫において真実であるなら、不健全なものを認識してこれを避け、健全なものを伸ばしていく能力を授けられている人間が完全な解脱に達する能力を有しているのは言うまでもないことです。熱意があり、努力があれば完全な解脱が可能となるのです。
 タントラの修行をすることは、非常に特別なことであり、素晴らしい、そしてめったにない機会です。ブッダ・マイトレーヤが現われるとき、人間の寿命は八万歳になっているでしょう。ブッダ・マイトレーヤご自身はこの世に六万年留まられるでしょう。
 この期間、ブッダ・マイトレーヤの弟子の中にはサキャ神賢のときをはるかに上回る極めて大量の多聞のアラハットが出現するでしょう。しかしブッダ・マイトレーヤは、それほど長く留まられ、それほど多くの弟子が出るにもかかわらずタントラの教えを説くことはなさいません。それはそのときの存在における楽と幸福の度合いがあまりにも大きいために、彼らが決してタントラの教えを聞く気にもならないからであり、またそれを受けるにふさわしくもないからなのです。人間の存在の性質はそのとき大変界なったものとなっているでしょう。
 一方現在のお弟子さん方は大変優秀でタントラの修行に適しています。自分の修行において頂点を極めるためにはコンスタントに絶えず法の修行を発展させていく必要があります。例えば、自分が楽しんでいるときや幸福に満たされているときは、気分が良いので法はなくても大丈夫、と考える人たちのように振る舞うことを避けるべきです。彼らは楽天的なり行きまかせで不注意であり、快楽を追っているだけで精神的な修行には決して時間を削くことをしません。このような態度をとるのではなく、幸福というのは自分の以前の健全で高潔な行為の結果だということを認識しなければなりません。この認識は自分をさらに精神的修行へと促すはずです。
 また同様に運・例えば貧困、病、苦痛に見舞われているとき、「ああ、今は法は実践できない。状況が悪すぎる」と感じる人がいます。この人たちはがもうあまりにも意気消沈しており修行することができないのです。これも問題です。
 こういう場合はその悲惨な状態が自分の以前の不徳の行為から起きた結果であることを認識識し、そしてこれからはそういった不徳の行ないをなすことがないよう、この認識ををもって自分を促すべきなのです。
 ですから、状況はそれがいかなるものであろうとも自分の霊的・精神的修行の助けとして使うべきであり、このようにして修行はその頂点を極めるのです。本物のタントラの修行に関わっていくためにはサキャ・パンディタのような偉大な師の方々によって過去繰り返し説明されてきたように、普通の道を修行する必要があります。これは次のようにして行なわれます。
 まず、初めに現世捨断(放棄)に集中します。これに続いて菩提心を起こしてから真実の見解、そして生成の段階を粗雑と微細の両面において極め、最後に完成の段階が来ます。これが実際の悟りを得るために修行が行なわれるべきやり方です。まず初めに現世捨断、菩提心、そして真実の見解を培うことが法の修行には必要不可欠であると認識することが肝要です。
 この点の重要性はマイトレーヤの化身であった非常に偉大なチベットのラマ、プルチョク・ジャンパ・リンポチェの話に表わされています。
 あるとき、彼は、ラサの中央寺院であるジョウォ・カンでグヤサマージャとチァクラサンヴァラとヴァジラパイラーヴァのエンパワーメントを行なっていました。そのとき、また別のチベットの大変博識なラマ、チャンキャ・ロルペ・ドルジェが自分の弟子に取り巻かれながらエンパワーメントを受けにきました。その弟子たちの多くは博学なゲシェで、みんなエンパワーメントを受けにそこに集まったのです。
 伝授が始まると、プルチョク・ジャムパ・リンポチェは非常に広範にわたる教えであるラム・リン、すなわち、現世捨断、菩提心、真実の見解を培う基礎訓練を与えることから始めました。チャンキャ・ロルベ・ドルジェのゲシェの弟子の一人が、(脇で)こうコメントしました。
 「タントラを教えるべきだったのにそうしないで、代わりにもっと基礎的な指導をしたということは、プルチョク・ジャンパ・リンポチェはタントラをあまり知らないように思われる。」
 ところが、チャンキャ・ロルベ・ドルジェは手を合わせてこう言いました。
 「偉大なるプルチョク・ジャンパ・リンポチェは、博識と直接的な洞察の資質を結び付けて、法のまさに本質的な意味に対する彼の深遠な悟りを表現する師である。彼がこの三つの法則をあのように強く強調するのは、それが必要欠くべからざるものだからである。」
 三つの要素があまりにも重要であり不可欠なものであるため、カダンパ・ゲシェの多くはこのように述べています。「もしこの三つの面が欠けたままで、例えば保息して壷のような瞑想を行ったとしても、それは火を起こすのに使われるふいご以上の意味はない。そして、たとえ生成の段階の非常に念入りな修行に取り組んだとしても、それは寺院を歩き回ってすべての絵を見ること以上の意義はない。」
 これをさらに説明すると、生成の段階と完成の段階はその全体がヒンドゥー・タントラなどのような非仏教徒の修行に見いだされます。しかしこれらの非仏教徒には仏教タントラに見られるような現世捨断・菩提心・真実の見解が欠けています。道の三原則のないタントラはバターのないテュのようなもので、全くまとまりに欠けています。もし生成と完成の段階を菩提心なしに修行するとしたら、大乗の蓄積の道の低い段階でさえも到達できません。実際、それでは大乗の修行にさえならないでしょう。
 (道の三原則を土台として)カーラチァクラの修行をするにあたり、あまりにも複雑だとか難しいとか、観想が異なる顔やたくさんの腕などであまりにも錯綜していると感じて勇気を失ってはなりません。勇気をなくして絶望に落ち入り、「ああ、こんなことは絶対にできない!」と思いあきらめてしまってはいけません。修行に慣れればアビリティが増大します。
 始めはブッダの経典の意味を理解することは非常に困難です。何をいっているのか全然わからないと思い意気消沈するのは簡単です。けれども、それでも取り組み続けるなら、しばらくするとわかるようになります。そしてさらに進んでもっと深く見通すならばよくわかるようになるのです。最終的にはすべての障害が取り払われ無限の理解を得ます。これはドムトンパの三人の傑出した弟子のうちの一人であり、マンジュシュリーの化身であるといわれた偉大なるカダンパ・ゲシェ、ポトワが述べたことです。

【1】生成の段階を培う

◆宮殿の瞑想----「依存されるもの(宮殿を生成する)」
 宮殿の性質、寸法、比率について説明できる膨大な量の情報がありますが、これは今のところ負担になりすぎるでしょう。ですから宮殿をただ普通の家のようなものではない非常に壮麗な場所だと思っておくべきでしよう。宮殿には四つの壁があり、四つのいずれかの方角に面した扉がその一枚一枚の壁の中央についています。それぞれの扉の上には金色の法輪があり、そのどちら側かの脇に鹿がいます。
 わたしたちはこの宮殿を石、モルタル、レンガ等で造られたものとしてではなく、ブッダとして考えなければなりません。これはどういう意味でしょうか。これはブッダの智慧の真実の身体が宮殿の形をとって現われるということなのです。別の言い方をすれば、宮殿は実は化身、ブッダの心の顕現であるということなのです。
 宮殿の様々なパートは解脱の様々な相の現われです。例えば東・西・南・北に向かう扉は「四つの専心する配慮(四念処)」、あるいはパーリ語で「四つのサティパッターナ」として一般に知られているものを表わしています。宮殿の他の面は奇跡的な行為の四つの土台(四如意足)や「五つのパワー」(五力)等「三十七の解脱の様相」(三十七道品)を含むものの現われです。
 では早速観想の練習をしてちょっと感触をつかんでみましょう!

◆神に関する瞑想----
「宮殿に頼るもの(自分自身をカーラチァクラとして生成させる)」

 この宮殿のちょうど中央に自分自身をカーラチァクラ神として発生させ、王座に立ちます。カーラチァクラの観想は自分自身の前に創り出すのではありません。自己を神として発生させる観想は「自己生成」と呼ばれます。これはタントラの二つの段階の最初の生成の段階における修行で、これは宮殿を生成させ自己をその宮殿の中にカーラチァクラ神として生成させるために「生成の段階」(Skt.ウトパッティ・クラマ)と呼ばれているのです。
 カーラチァクラは月、太陽、そしてラーフ(とカーラーグニ)の円盤の上に立ちます。カーラチァクラの色は青です。
1.彼は四つの顔を持っています。その一つは前面に、二つは脇に、そしてもう一つは後ろにあります。前面の顔は黒で幾分激怒した凶暴な相なので少し牙が見えています。わたしたちのような普通の人間が本当に怒った場合に顔をしかめて歯を見せたりしますが、イーダムやカーラチァクラの場合はそうではなく、この瞬間慈悲の力がこの表情を出現させるのです。その凶暴さや激怒はいかなる生命体にも向けられていません。むしろそれは「誤った同一性(アイデンティティ)にとらわれることの無知」に対して向けられているのです。
 偉大なるサキャ・パンディタが言ったように、「死の神ヤマは素晴らしいほほ笑みさえ浮かべて生命体を殺しますが、瞑想の神は激怒の様相で現われながら実際には慈悲を表現しているのです。」
 右の顔は赤く、欲望あるいは執着を現わしています。
 後ろ向きの顔はちょうど神が瞑想をしているかのような瞑想的均衡を表現しており、色は黄色です。
 左の顔は白で非常に平安な表情をしています。
 それぞれの顔は三つの目つまり二つの(普通の)目と三つ目の「智慧の目」を持っています。
2.頭の髪の毛は髷に結わえてあり、その上には半月のシンボルのついた色とりどりのヴァジラが乗っています。それに加えて神は頭頂の飾り、ネックレス、耳飾り、手首と足首の飾りのようなたくさんの宝石の飾りで飾られています。そして最後に、神は虎の皮で装っています。
3.腕は二十四本あり、十二本ずつ脇についています。初めの四本の腕は赤、そして最後の四本は白です。
 右の一番初めの黒い腕はコンソートを抱き、手にはヴァジラを持っています。二番目の腕は剣、三番目は三つ又の矛(イーシュヴァラが持っているような)、そして四つ目の腕は長刃の手斧を持っています。
 右の赤い手の第一(または五番目)の手はテキストでは「火の矢」と呼ばれている普通の矢を一本持っています。二番目の赤い手は長い柄のついたヴァジラの三日月形の鎌を持っています。その上の端の片側に半分交差したヴァジラがついており、もう一方の端に鎌(あるいはカギ)がついています。三番目の手はダマル(手太鼓)を持っており、それが太鼓の音を出しています。そして四番目の手はハンマーを持っています。右の白い手の一番初めのものは車輪を持ち、二番目は槍を、三番目は棒を、そして四番目と最後の右の白い手は斧を持っています。
 これがそれぞれの法具を持った十二の右手です。これをしっかりと心にとどめておかなければなりません。
 左の黒い手の第一のものは鈴、二番目は盾を持っています。
 三番目の左の黒い手には神はカトヴァーンガを持っています。これは三つの頭蓋骨と半分交差したヴァジラが突き刺された特殊な物で、チャクラサンヴァラが持っているのと同じタイプのものです。
 四番目の手には神は血で満たされた頭蓋骨の枕(Skt.カパーラ)を持っています。
 では、左の赤い手の方に移りましよう。最初の手は弓を持ち、二番目の手は今日では使われていない輪縄を持っています。昔、チベットでは、二人で闘うとき、輪縄を持ち出して相手を引っかけ、それから「彼から悪魔を叩き出した」ものです。三番目の手は高貴な宝石を持ち、そして四番目の手は白い蓮華を持っています。
 左の一番目の白い手は白い法螺貝を縛ち、二番目は鏡、三番目はヴァジラあるいは鉄の鎖、そして最後の四番目はプラフマ神の首をその髪の毛をつかんで持っています。
4.カーラチァクラの足は二本だけです。右は赤で左は白です。徐々に説明していきますが、これには多くの意味合いがあります。簡単にいえば右足は血に満ちた右のエネルギー管を象徴し、左足は白いボーディチッタで満ちた左のエネルギー管を象徴しています。もっといえることはたくさんあるのですが、とりあえずこの非常に簡単な説明にとどめておきましよう。
5.カーラチァクラのコンソートはナツォク・ユムと呼ばれています。ユムとは「コンソート」(あるいは母)を意味していますから、これはナツォク・コンソートということになります。彼女は黄色い色をしており、やはり四つの顔を持ち、それぞれの顔には三つの目がついています。前のものは黄色、右は白、後ろは青、左が赤い色をしています。
6.彼女の腕は八本で、右に四本、左に四本です。右手の第一のものはその腕でカーラチァクラを抱き締め、肉切り大包丁を握っています。第二の手はヴァジラの鎌(あるいはカギ)を持ち、第三の手はカーラチァクラの持っているような太鼓叩きのダマルを、そして第四の手は数珠を持ちそれを回しながら数えています。
 左の一番初めはその腕でカーラチァクラを抱き締めており、血で満たされた頭蓋骨の椀を握り、左の第二の手は輪縄を持ち、策三の手は白い八つの花弁のついた蓮華を、第四の手は高貴な宝石を持っています。
7.ナツォク・ユムはヴァジラ・サットヴァの性質を持つ冠を着けています。また彼女は五種の飾りで飾られていますが、一方カーラチァクラ自身は六種類の飾りをつけています。コンソートがつけていない飾りは白いボーディチッタを象徴するものです。彼女の左足はカーラチァクラ神と合一しています。
 神とコンソートの性的合一の重要性をはっきりと理解するのは非常に大切なことです。それは大変明示的に方法と智慧の合一を象徴しいます。この場合のカーラチァクラ神は、このタントラの文脈で偉大なる祝福にあたる方法を象徴し、コンソートは空の悟りである智慧を象微しています。彼らの合一は偉大なる祝福と空を理解する智慧の合一を象徴しているのです。
 このさらに深い意味合いは、不可分の祝福と空の智慧なしに完全な解脱の状態に達することは不可能だということです。この理由により方法を象徴しているカーラチァクラと智慧を象徴しているコンソートは合一するのです。これを強くはっきりと心に留めておいてください。
 これが二十四の腕を持つカーラチァクラ神と八つの腕を持つ彼のコンソート、ナツォク・ユムの完全な形です。
 わたしたちは自分自身をブッダとして生成させる、あるいは瞑想することができるこの偉大な素晴らしい幸運を理解しなければなりません。わたしたちはかつて一度もそうやったことがなく、今ブッダであるわけでもありませんが、このような瞭想を行なうことはわたしたちがなっていく神、そしてその結果としてのブッダとの合一を計っているのですから正当なことなのです。最終的にはわたしたちは実際に仏性に達し、カーラチァクラを現証するのです。その目的に向かってわたしたちはそれと同一し、それを現在に引き込んでいるのです。わたしたちはこの同一化をもってわたしたちがなろうとしているブッダ・カーラチァクラという神であることの神聖なプライドを培わなければなりません。ですからこの二つ、観想とプライドはともに起こるのです。わたしたちはこれを瞑想し、最善を尽くさねばなりません。もしこの観想を細かいところまでできないようであれば、自分自身を一つの顔と二つの腕を持ちヴァジラ(右)とベル(左)を持ったシンプルな神の形に発生させてもよいでしょう。コンソートは右手に長刃の手斧を持ち左手に頭蓋骨の椀を持っています。
 それにしても初めは観想がはっきりとしていることを期待するべきではないでしょう。なかなかそうはいかないものです。ですから自分自身をカーラチァクラとして生成、あるいは観想している間に自分自身を総じて黄色なコンソートと合一している全体に青い神として観想してもよいのです。自分の周りにぼんやりと宮殿を想像し、心にそれを保ち、それで満足しましょう。即座に非常に厳密な観想を期待してはいけません。それは訓練をして初めてできることなのです。これは瞑想に対してだけではなく彫刻、絵画等についてもいえることです。最初は荒削りな試みでよしとしなければなりませんが、練習を重ねていくうちに技術力が磨かれてきます。そしてついにはこの瞑想によって、わたしたちはカーラチァクラの誇りと観想の両方の非常にパワフルな経験を得るのです。

【2】生成の段階を発展させる

 まず初めに、正しい菩提心の動機である、すべての生命体のために完全な解脱に達しようと発願する目覚めた心を培わなければなりません。
 この発願をもって教えを実践に移しそれによってカーラチァクラの姿で完全な解脱を得、他の生命体を同じ解脱に導こうという意図をもって教えを聞くようにしましょう。

◆瞑想のやり方
 瞑想の明確な理解を得るのは、特定の法具が何を意味しているのかという煩雑なディテールや宮殿とカーラチァクラのマンダラの多くの細部に入っていくよりもはるかに大切なことです。もし四つの顔と二十四の腕を持つカーラチァクラの完全な姿を瞑想することができれば素晴らしいことですが、これは非常に難しいのです。一方、この修行を自分の(今の)能力を超えたものと見るなら、しばらくは一つの顔と二つの腕を持ったシンプルな形のカーラチァクラとして自分自身を瞑想するべきです。
 普通の観念的なとらわれや通常の見かけを取り払うことに向けられた瞑想の二つの面があります(神の誇りと「明確な現われ」)。

1.神の誇り
 瞑想においてまず強調すべき点は「神の誇り」、つまり自分がなり変わっていく対象であるブッダ・カーラチァクラと同一化するという誇りです。ブッダではないのに「わたしはブッダである」と考えるのは間違っています。しかし、この修行における神の誇りは自分がついにはカーラチァクラとして顕現することにより完全な解脱に達するという事実に基づいています。これは「果実を取り、それを道に用いること」と呼ばれます。すなわち、自分の霊的・精神的な道の果実である完全に解脱した存在としての自己を取って、それを現時点の自分の霊的・精神的な道に用いるのです。このようにして自己がなり変わっていく対象であるブッダと同一化しこれを現在に働かせます。よってこのためにまず第一に誇りを育てそれを心に強く安定させて保持するのです。

2.明確な現われ
 何らかの安定感があれば幾分詳細な観想をして目の暗い部分と白い部分を通りそれから神の様々な部分を通って降りて行き、「はっきりとした現われ」をさらに発展させていくことができます。しかし、何よりもまず始めに、安定を得るようにしなければなりません。また、瞑想の最初、瞑想を始めたばかりで能力もそれほどない場合はただ前面の黒い顔のみに集中するのがベストでしょう。もし前面の顔全体でさえも少し荷が重いようであればすでに神の誇りを育て土台を作っているのですから、ただ一つ智慧の目にのみ集中する方がよいでしょう。
3.寂静の達成に導く修行の相
 瞑想をするときは精神的安定を探し求め「五つの過ち」に用心し、をれをすっかり取り払ってしまわなければなりません。これは「寂静」(Skt.シャマタ)の成就に導く修行の側面である「八つの治療法(または薬、矯正手段)」を使ってなし遂げます。
 このカーラチァクラの修行におけるそのような成就は生成の段階の粗雑な、そして微細なステージを成就することへと導くことになるでしょう。これがタントラの道で寂静を達成する方法です。マイトレーヤは自分のテキスト、「中心と両極端の考察」(Skt.マディヤーンタヴィパーガ)でこの五つの過ちと八つの治療法について教えていますが、これはスートラの道に従う場合でもタントラの道に従う場合でも同じように適用することができます。

◆五つの過ち
1.瞑想修行において出会う五つの過ちの第一は「怠惰」と呼ばれるものです。カーラチァクラの修行においては、これは瞑想に対する、もっとはっきりいえばカーラチァクラとして自分自身を生成させることに対する興味、あるいは欲求の欠如のことです。この種の怠惰が最初の誤りです。
2.二番目の過ちは文字どおりには「本髄の教えを忘れること」と呼ばれています。これはラマから聞いたり受けたりした教えを忘れることをいっているのではなく、むしろ自分をカーラチァクラとして瞑想しようとするとき瞑想の対象を忘れ去ることをいっているのです。心はカーラチァクラとしての自分のイメージや観想にはすでになくどこか他の所をたださまよっているのです。必然的にこれは実際に瞑想の対象を忘れることになります。
3.三番目の過ちには「下降」と「興奮」と呼ばれる二つの相があります。この両方とも一つの標題のもとに来ます。これが瞑想中に出てくる根絶されなければならない二つの主な降誓です。
 「下降」は大変逐語的な翻訳で、その下降の仕方には粗雑と微細の二種類があります。
 心が非常に安定して対象に留まっていながら明晰さを欠いている場合、これが「粗雑な下降」です。粗雑な下降については瞑想にかなり熟達するまで心配する必要はありません。これは安定があるときにのみ起こるものだからです。
 「微細な下降」の性質は安定と明晰さは存在していてい格別なヴァイタリティーと力を伴うヴィヴィッドな明晰さというものがないというものです。これは心の持ち方が少しゆるくだらけているために起こり、瞑想にかなり熟達するようになると起こるものです。実際これは非常に高度なレベルなので、経典の中には何人のチベット人のラマが微細な下降に陥るこの地点に達していながら、それと知ることができなかったかが挙げられているほどなのです。このように、失敗しているにも関わらず彼らは自分がある極めて高いタントラの悟り、あるいはおそらく完成の段階における三昧の状態に達したと思ったのです。
 まとめますと、(微細な下降が起こるとき)明晰さは存在していますが、培われなければならない真にヴィヴィッドな心の明晰さは存在していないということです。これは最終的には認識され、取り除かねなければならない極めて微細な障害です。
 二つのタイプの下降のいずれよりもさらに粗雑なのが「心のくもり」です。これは下降の因となるはるかにわかりやすいものです。心のくもりは単純に心身両方の重さとして現われるので今現在経験することができます。
 この種の瞑想を始めたばかりのうちは当分下降について、ことに微細な下降については心配する必要はありません。その理由は下降は強い精神安定があるとき、すなわち心が対象に留まっているときにのみ起こるからなのです。瞑想の初期の段階には心は勝手気ままで手に負えず、大変動揺しやすいのでこの過ちは起こりません。寂静の成就に向かって向上していくにつれ、九つの心の状態を通っていきますが、五番目の状態を得るまでは微細な下降は起こりません。粗雑な下降でさえもがこの四つの心の状態の四番目あたりでしか起こらないのです。
 それまではあまりにもかき乱されていて微細な下降はまだ全く関与するところではないのです。
 瞑想途上で起こる主要な二つの障害のうちの二つ目は専門的にいえば「興奮」と呼ばれるものです。興奮にも粗雑と微細の二種類があります。
 「粗雑な興奮」は心がかき乱されたりそらされたりして結果的に対象を完全に失ってしまうときに起こります。別の言い方をすれば心が対象に向かうのをやめてどこかに行ってしまい、そのために対象がす「微細な興奮」は対象の保持が雑念の暗流と同時に存在するときに起こります。対象はそこにあるのでしょうか----あるのです。心は対象に焦点を合わせているのでしょうか----合わせているのです。しかしまたある種の雑念も起こっており、例えば「ドライブにでも行きたいなあ」とか「瞑想がすんだらあれをやらなければ」等という思いが浮かぶのです。この微細な興奮は水が川の上に張った氷の下を流れるように瞑想の表面下を流れる雑念なのです。下降と興奮は根絶されなければなりません。それが一掃されなければ本当に素晴らしい三昧に入ることも生成の段階の頂点を極めることもできないのです。
 すでに述べられたように、このタントラの修行の生成の段階の頂点を極めることによってのみ寂静に達するのです。簡単にいえば寂静はこの高度なレベルでのみ得られるものであって、下降と興奮を一掃することなしには得られないものなのです。
4.四番目の過ちは「不適用」です。これは下降か興奮かが生起して、この過ちを正すのに適切な治療法を適用する必要があるにもかかわらず怠ってそうしないという状況下で起こります。このように必要な治療法を適用しないというこの「不適用」が四香目の過ちです。
5.五番目の過ちは「適用」と呼ばれます。この過ちは、すでに下降と興奮を認識し、必要な治療法を適用してその過ちを一掃し、心が解放されているにもかかわらず、いまだに下障と興者の特定の治療法を適用し続けているという状況下で起こります。
 別の言い方をすれば一度こういった過ちから解放されたら、それ以上それを取り除く特定の治療法を遵用するべきではないということです。もしそうするべきでないときにそうしてしまったらこれが自分の心の安定を損なうことになります。この過ちが適用の過ちです。
 これは瞑想中に起こるのや、そのとき認識できなければなりませんから、これははっきりと確認してしっかりと心に留めておくべきです。

◆八つの処方箋
 最初の四つの処方箋は五つの過ちの第一のものである怠惰を追い払うための特定の矯正法(治療法)です。
1.処方箋の第一は「信」です。ここでいう信とはサマディ、つまり集中の発展における信、あるいは特にこの修行に関してはカーラチァクラの生成の段階に対する信といってもよいでしょう。このような信は生成の段階を培うことによって得る膨大な恩恵を認織し、それに確信を持つことによって生じるものです。
2.第二は「切望(あこがれ)」で、[カーラチァクラの生成の段階における]信の対象に対して実際に熱望を抱くあるいはそれに向かって奮闘努力することがかかわっています。
3.第三の処方箋は「熱心さ」です。
4.第四は「柔軟さ」で、実際この四つのうちで怠惰に対するダイレクトな治療法は柔軟さですが、実際のところ前に述べた三つの面、信・切望・熱心が柔軟さを呼び起こす心の能力であり、それによって呼び起こされた柔軟さが怠惰を駆逐する直接的な治療法として働くのです。
 「柔軟」はここでは非常に限定された意味を持っていますから、肉体的な柔軟さと心の柔軟さは区別する必要があります。
 「身体の柔軟さ」が生じるとき、人は実際に肉体の楽、軽さ、そして身体の調子が良好なときの感覚に似た準備の整っている状態を感じます。身体は行動に適した状態で、自分の思いどおりに使うことができるまさに打ってつけの道具となるのです。
 「精神的柔軟」が起こるとき、心の清澄さ、感想の明晰さが大変強くなります。心は精神的な幸福と喜び、心身の快活さの感覚といったもので満ちています。瞑想をしたいのであっても祈りを唱えたいのであっても、何をしたいと望んでいても心はそこにあり、行動がいつでもとれる用意ができているのです。この柔軟さの特質はサマディと集中の訓練によって達成されます。
5.「不放逸」心が慣れた対象や性質を忘れないで保っているための心の要素あるいは心の能力です。この場合は(カーラチァクラ神の)顔の観想を保持する心の要素です。これが「配慮」の機能あるいは義務なのです。
 配慮は「真髄の教えを忘れること」と呼ばれてきたこと、すなわち瞑想の対象を忘れることに対する直接的な治療法です。これは対象を保持する配慮の力が滅少し心がさまよい出てしまうときに起こります。
 不放逸は瞑想において決定的な要素だと考えられています。----もし不放逸が本当に堅固で安定していたらサマディはかなり簡単に達成することができるのです。
6.処方箋の第六番目は「内省的警戒」です。その機能は心をチェックすることです。これ自体は観想には関わらず、観想している心を観察するのです。
「心は観想に乗っかっているか? そこに集中しているか? それともさまよっているか?」
と。「不放逸」によって心の一部分が対象を保持している間に心そのものをチェックするのが内省的警戒を行なう心の要素なのです。瞑想の間に時として心が実際に町に行ってしまったり、ドライブ等に行ってしまったりしているのを見つけるかもしれません。心がさまよい出ていると知ったときに、この油断なき自己観察が心を連れ戻してまた瞑想に向かわせるのです。
 別の言い方をすれば、内省的警戒は過ちがあることを認識し確認するために、まず必要なものです。内省的警戒をして初めて過ちに対する特定の治療法を適用するという体勢になるのです。では、これはどのようにして働くのでしょうか。自己の主要な注意力が瞑想の対象(ここではカーラチァクラとしての自分自身)に集中している間に文字どおり「心の片隅」や心の力の一部が心が対象に集中しているかそれているかを見極めるために瞑想している心そのものへと向けられるのです。つまり内省的警戒というのは心が正しく瞑想しているかどうかをチェックする「クォリティー・コントロール(品質管理)」なのです。内省的誓戒が瞑想中に過ちが起こったのを見つけたらわたしたちは問題の過ちを追い払う特定の治療法を適用します。
 例えば「下降」が起こったら心を奮い立たせたり高めたりするような特定の治療法を用いる必要があります。内省的警戒は心の一面となっているだけです。それは行って過ちを消してしまおうとしたりせずただひたすら過ちを認識するのです。その後に特定の治療法を適用しなければなりません。不放逸と内省的警戒はその重要性が極めて高いために培われなければならない二つの要素であり、これをなすことによってわたしたちは瞑想において除々により強い安定を得るのです。
 といっても初めはそれほど安定するわけではありません。それでも、過去のブッダたちはこのやり方で心を鍛えて解脱に達したのです。かつては彼らもわたしたちのようだったのです。彼らもまた栄光に満ちた成就とともにスタートしたのマはなく、こういった修行をすることによって目的に達したのです。
7.次の処方箋は「不適用」に対する矯正方法である「適用」の処方です。下降や興奮が起こった場合は「不適用」に陥ることなく必要な治療法を適用する必要があります。
 下降は心の活力が低下しすぎると起こります。その結果、心にもっとエネルギーを与えるために心を高揚させ引き上げ鼓舞する治療法を適用する必要があります。これは例えば自分自身が人間として存在していることのかけがえのなさや、ブッダの教えや菩提心を培う機会に出合うことの偉大なポテンシャル、素晴らしい幸運等に思いを凝らすことによって、またその他様々な方法で心を鼓舞することなどを適用することによってなされます。心が一種の低いエネルギーレベルから持ち上げられて、もっと役に立つ適当なレベルにまで上がったら治療法は取り外して瞑想を進めればよいのです。
 興奮はエネルギーがありすぎ、緊張がありすぎるとき起こります。この場合はエネルギーを低下させ、従わせ、もっと実際に使えるようにする必要があります。例えば無常や下位の存在領域の苦しみ等のテーマを瞑想します。一般的にいってエネルギーがありすぎること、ある意味でいつも喜びすぎているのは誤りです。もし、いつも「満悦しっ放し」でエネルギーをたくさん持っており、絶えず興奮してハッピーであるとするなら、それは瞑想の障凝となります。
8.八つ目の処方箋は「不適用」です。下降と興奮がすでに駆逐された状態で、追い払う必要のないものを追い払うという治療法を適用することは誤っています。この場合の治療法はいかなる治療法も適用法も用いないことであり、サマディの修行そのものをひたすら続行させることです。学校で学年を段階的に連続して通過するように、サマディを除々に発展させることによって寂静に導かれるのです。
 タントラの文脈、そして自分をカーラチァクラの単純な形に生成するという文脈の中での最初の仕事は、心を散らさないようにすること、つまり心を内に引いて対象----カーラチァクラの単純な形としての自己----に集中することです。これによって九つの心の状態の第一、「心の配置(または心を置くこと)」と呼ばれるものが違成されることになります。

◆九つの心の状態
1.瞑想の始めにおいては、第一の心の状態である「心の配置」を培います。この時点では心は非常に安定を欠いており、対象を見つけては瞬く間に失ってしまいます。心はどこか他をさまよい、かくして何度も何度も外に出ては引き戻されるのです。実際、寂静を培うことに専念すると、結局瞑想の結果、以前よりも雑念が増えてしまったと感じるものです。瞑想が心の混乱を増しているように見えるのです。
 この認識が起こったらそれを誤りととらず、むしろ心で起こっていることによりよく気がついているということの好ましいサインとしてとるべきなのです。
2.寂静の成就に先立ちそれに導く九つの心の状態の第二番目は「連続配置」と呼ばれるものです。ここに到達するまでには何度も何度も繰り返し大いに修行をし、続けてさまよい出た心を連れ戻すことになります。しかし、ついには十分な安定が心に生じ、注意が対象に間断なく集中したままで、まあ五分とか六分、七分、いるようになります。このくらいの安定性が得られたら、連続配置と呼ばれる第二の心の状態に達したことになります。
3.第三の心の状態は「継ぎ当てのような配置」です。この第三の状態に達することによって心の安定度は以前よりはるかに増し、例えば十分とか十五分くらい対象に間断なく集中して留まるようになります。
 これは「継ぎ当てのような配置」と呼ばれていますが、基本的にかなり良好な安定度で心が対象に集中してはいるのですが、それでもまだ時々さまよい出ることがあるためです。そのようなときにはそれを認識して連れ戻すのです。三昧に「継ぎを当てる」というわけです。これは僧衣にほころびがあるのに似ています。人はそれに気がついて「あ、ここが破れてる!」と言い、そこに継ぎを当てるのです。
4.第四の心の状態は「間近の配置」と呼ばれます。この第四の状態を成就すると不放逸の力が完成されるので、心が瞑想の対象を失うことはなくなります。これは人が成長するのに似ています。身体を使って行なう仕事でできることと、できないことがありますが、二十歳かそのくらいになって大人になると力が完全なものとなり、必要なことは何でもできるようになります。同しようにして不放逸の力というものも完成されると、心が対象から引き離されてしまうことがなくなるので、対象を失うことがないのです。
5.第五の心の状態は「沈静すあ」と呼ばれます。一つ前の「間近の配置」の心の状態にあるとき、心は非常に内側に向けられており、高度な安定が存在しています。しかしこの達成を土台として、非常に大きな微細な下降の危険性が存在しています。このため極めて鋭い内省的警戒を発展させる必要があります。この微細な下降の過ちは大変微細で認識しづらいものであるため、この警戒は極めて鋭敏でなければなりません。実際過去多くの瞑想者たちが微細な下降が生じる集中状態を大変素晴らしく正しいサマディと取り違えました。彼らは微細な下降の過ちを認識し、損ねることによって自分たちの修行の進展を妨げてしまったのですが、それと知らず、自分たちは目的を達したと思ったのです。
 微細な下降というものは認識されなければならない過ちであるにもかかわらず、非常に簡単に正しい瞑想と間違えられやすいのです。それは極めて正確な内省的警戒によって認識されます。
6.第六の心の状態は「平静」と呼ばれる心の状態です。五つ目の心の状態、「鎮静する」は実際サマディの非常に素晴らしい段階ですが、そこに留まっている間にわたしたちは極めて正確な内省的警戒を養おうとして多くの努力をしたり、注意を払ったりします。その結果として心のエネルギーが大量に増加します。この増加した、そしておそらくは過剰であるエネルギーとともに第六の精神状態に移行するとき、微細な内省的警戒によってそれを認識する必要があります。
7.第七の心の状態は、「完全なる平静」です。この状態では下降と興奮のどちらも起きてくる危険性はあまりありません。たまに少し起き上がってくることはあっても、それを駆逐することは難しいことではなく、熱心さの力によって排除できますが、概してそのどちらもありません。寂静の達成に向かう心の成熟を描いた、曲がりくねった道を象が上っていく絵の中ではこの段階が心がほんの少しだけ下降と興奮に服しているということを象徴して心を表わす象の背にほんのわずかに黒い色がついています。
8.八つ目の心の状態は「一点集中適用」と呼ばれます。この八つ目の心の状態を達成すると下降も興奮ももはや起こることはありません。
 このときには座って瞑想をするとき、最初に本当にごくわずかの努力をすれば心は対象(この場合はカーラチァクラとしての自分)に集中します。そうしたら好きなだけひたすら瞑想に留まることができるのです。瞑想が続いている間、下降も興奮もありません。これは眠りに落ちて八時間完壁に意識がなくなり、いかなる努力をすることもなく全時間を通してぐっすりと眠る人に似ています。同様に、座り始めにほんのちょっと努力しさえすれば下降と興奮が起こることなしに、長時間座ることができるのです。
9.九つ目の心の状態は「むらのない(一様な)配置」です。この状態を達成すると人は完全に修行に慣れます。いかなる努力も全くすることなくひたすら瞑想に入り対象(カーラチァクラとしての自分)に焦点を定め、努力することなくそこに留まるのです。これはオーム・マニ・ペメ・フームを何度も何度もたくさん唱えた人のようなものです。
 あまりにも努力がいらなくなるので、心がいたるところをさまよっていてもオーム・マニ・ペメ・フーム、オーム・マニ・ペメ・フームと口が言っているのです。
 しかし、この時点でも実際の寂静の状態にはまだ達してはいません。これは「欲界の一点集中」と呼ばれます。わたしたちは続けて瞑想しなければなりません。しばらくすると非常に特別な喜びと至福が起こります。それは耐えられないほど非常に強いものです。それは立ち起こり、それから少し減少します。それから後、身体の柔軟さによって喜びが起こり、次に心の柔軟さによって喜びが起こります。実際に「最初の心の安定への接近集中」と呼ばれる寂静の成就を達成するのはこの後です。一度この状態に達すると心は自分の望むいかなる種類の瞑想にとっても極めて優れた道具となります。心はただひたすらそれに巣中できるようになる、というわけです。
 修行しているのがスートラの道であろうとタントラの道であろうと人が徐々にに通っていく九つの状態があります。進歩する方法(集中するのが顔であろうと目だけであろうと)は十分な配慮を持って心の安定に集中して維持し、これを例えば五分から徐々に十分、十五分と延ばし、このようにして安定期間をどんどん延ばしていくことです。
 もしこの種の瞑想に本気で取り組むのなら、それに対してあらゆる巧みな手段で近づくために、自分の知性を総動員させる必要があります。
 座って瞑想に必死で取り組むことも、リラックスすることも必要です。それからまた別のときには功徳を積んで不健全な痕跡と曖昧さを浄化することに力を注ぐ必要もあります。それはなぜでしょうか? 寂静を培う瞑想によって、主に「心の功徳」と呼ばれることもある「智慧の集積」が生じるのに対して、他の修行、例えば七部からなるプージャー等を行なう帰依(あるいは祈り)の修行や布施等を行なうことによって主に「身の功徳」や「徳の集積」が蓄積されます。わたしたちは瞑想によってただ心の功徳だけを積むのです。
 もし一種類の功徳しか積まないと、克服できない障害を生じ得るアンバランスを作り出すことになりかねません。例えば近ごろでは多くの人が可能だと考えているように、もし瞑想だけに専念するとしたら、ただ次から次へと障害を引き起こし得るアンバランスを生じさせます。なぜならば、それは身の功徳の不足によって微細な風の障害や他の障害が生じる可能性があるからなのです。実際瞑想することによって、功徳を減らしているわけではないのですが、主に智慧の集積を蓄積することがあたかも徳を使い果たしていっているかのように見えるのです。この理由は、もしこのタイプの智慧と知性にも大変関係している徳のみに集中し、それに専念すると寿命を短くすることがあるといわれているからです。この種の妨害や障害が起こったら、前に挙げたように供物を供えるなど をする七部からなるプージャー等の補足的修行をやることによってなし遂げられる身の蓄積と不健全な痕跡の浄化にもっと集中する必要があります。
 もし膨大な量の功徳を持っていたら事情は違ってきますが、現代のわたしたちは「堕落の時代」といわれる時に生きています。それゆえ[身の功徳の蓄積のために特に考案された]こういった他の修行で、瞑想のバランスをとったり補ったりしなければなりません。さもなければ障害が次から次へとやってくるので、自分の功徳を使い果たしていっているかのように見えてしまうのです。
 簡単にいうと、瞑想とその補足的な修行を組み合わせてバランスの取れた修行をしなければならないということです。つまり、(自分のゴールに到達するためには)心身両方の功徳を積まなければならないということです。

◆六つの力
1.九つの心の状態を得る手段である「六つの力」の第一のものは「聞く力」です。この瞑想に関する師の教えを聞き保持する力を使って、九つの心の状態の第一を達成します。
2.第二番目は「考える力」または「反省(熟考)する力」です。聞いた教えを考え熱考し、そしてそれを何度も何度も心に呼び起こすこの力によって第二の心の状態の達成へと進みます。
3.第三番目は「不放逸の力」と呼ばれます。第三と第四の心の状態を達成するのはこの力によるのです。
4.第四番目は「内省的警戒の力」です。この特に正確な内省的誓戒の力によってまず微細な下降に陥ることを防ぎ、次に微細な興奮に陥らないよう万全の備えをし、第五と第六の心の状態を成就します。
5.第五番目は「熱心さの力」です。時折起こる下降と興奮を熱心さの力によって追い払うのは、七番目の状態であるということを覚えておきましょう。第八段階になると、座り始めに極わずかの努力をし熱心に力を注げば、邪魔されることをく続けることができます。6.第六番目は「精通の力」です。第九番目の心の状態はこの力によって達成されます。このときまでには修行が習慣となり慣れてしまっているので労せずして瞑想に集中するようになります。
 家や飛行機を造るのに異なる様々な手段を使うように、この六つの力は寂静を構築する道具なのです。実際のところこの修行は、すでにお話しした創造的知識の分野に入れても構いません。この分野の三つの面(身・口・意の創造性)の中でこの修行は心の創造性に含まれます。

◆四種の注意力
 それではこの九つの状態を達する別の手段である四種の「注意力」へと進んでいくことにしましよう。
1.このうちの第一のものは「絞るような注意力、あるいは力を込めた(力づくの)注意力」と呼ばれます。最初の二つの心の状態を達成するのはこの注意力によります。
2.第二の注意力は「妨げられる注意力」と呼ばれます。第三から第四までの心の状態に達するのはこの種の注意力によるのです。それが「妨げられる」と呼ばれるのは、心の育成におけるこの期間において、下降と興奮が起こることによって集中力が妨げられるからです。
3.第三は「妨げられない注意力」です。これは第八の心の状態で起こります。
4.第四は「自然に起こる注意力」です。これは策九段階の心の状態において起こります。
 これが瞑想修行の手段であり教えです。実際にそれを行なうかどうかはその人の個人的な問題ですが、瞑想修行俗行をするしないにかかわらず、ただ教えを聞いてその意味を確認するだけでも自分の心の流れにとって大変利益になる痕跡を残すことになります。
 こういった話はモッガッラーナやサーリプッタの話を含めてスートラの中にたくさん見ることができます。両者ともわたしたちのサキャ神賢の前のブッダ・カッサパのときに非常によく修行をしました。しかし、かなりの修行をしたにも関わらず、そのときはアラハットにはなりませんでした。それゆえ二人とも次のブッダ、サキャ神賢のときにはアラハットの位に達するよう祈願をしました。その生、短期間修行をして彼らは大変大きな悟りを得、非常に早くアラハットになりました。
 同じように、もし瞑想できるならそれは素晴らしいことですが、現代においては皆とても忙しく、瞑想時間をたくさん見つけたりとったりすることはできないかもしれません。それでもできるだけやるようにしましよう。教えを受けるだけでも大変な恩恵があるのです。教えを心に刻み、それによって積んだ功徳によって、将来ごくわずかな努力に二、三の条件がそろっただけで非常に早く三昧に違するかもしれないのです。
 これがカーラチァクラ神として自分を生成させるやり方です。
 サキャ・パンディタが言ったように、
「自分の特別な守護神として自分を生成させこれによって通常の現われと観念化を取り払う。これによって輪廻から甦るのだ。普通の現われと観念化を取り除くことによってブッダと菩薩の膨大な量の祝福に自分を開く。」
のです。わたしたちはなんとしてでもこの優れた師の言葉に従わなければなりません。
 サキャ・パンディタは続けて言います。
「この方法で身体を使うことによって蓄積した不健全な心の痕跡を浄化する。言葉によって蓄積した不健全な心の痕跡を浄化するためには、カーラチァクラのマントラを絶えず唱えるべきである。心の活動によって蓄積した不健全な心の痕跡を浄化するためには、空の悟りと合一した慈悲を培うべきである。このようにして身・口・意で蓄積した不健全な痕跡を浄化すれば、完全なる解脱を得た存在となることは間違いない。」
 さらにラマ・ガンタン・ジャンベイヤンは言います。
「法を開く扉は教えを聞くことと、それを熟考することである。輪廻の、特にこの生が与えてくれるものを離れる人は、法を持する者の特質を持っている。このように、この生だけの楽に背を向け、はるか来世を見ているということが、法の実践者とそうでない人との違いである。そして最後に道の本質は方法と智慧、そして両者の合一である。」九つの状態と四つの注意力に関する教えはアサンガと彼のテキスト「多聞の土台(Skt.スラーヴァカプーミ)」と「菩薩の土台(Skt.ボーディサットヴァプーミ)」から来ています。九つの心の状態を達成する六つの力に関する教えは、聖なるマイトレーヤによって説かれ、大乗経のための装飾(Skt.マハーヤーナスートララムカーラ、アサンガによってツシタ天から持ち帰られたマイトレーヤの五つの作品のうちの一つ)の中に見られます。簡単にいうと、ここで説かれている教えはアサンガと聖マイトレーヤから来ているのです。それは寂静を培う真髄の教えの王者であるといわれています。
 これらの教えに加えて、「多聞の土台」の中でその著者アサンガは、寂静の成就に向かう因となる蓄積である十三の蓄積について描いています。ジェ・ツォンカパは彼の『解脱への道の各段階の提示』の中でこのテキストをこの種の瞑想に従う人々に強く推薦していますから、これを読み、学ぶとよいでしよう。アサンガによって書かれ、聖マイトレーヤのものとされる『大乗経のための装飾』、「中心と極端の考察(Skt.マディャータヴィバーガ)』、「悟りの装飾(Skt.アビサマヤー・ラムカーラ)』その他のテキストを読むと特に利益があります。
 もし瞑想したいなら、ここで説かれた教えは必要不可欠です。教えの源はサキャ神賢御自身と聖マイトレーヤ、そしてアサンガです。このような完全に真の霊的・精神的指導者に従えば、欺かれたり、誤った道に従わせられるような可能性はありません。教えを理解し、それから自分の能力の限りを尽くして瞑想してください。この瞑想修行は生徒だけでなく、教師のためのものでもあります。ですから瞑想するようあなた方を励ますと同時にわたしも同じようにするつもりです。

【3】ブッダの三つの身体を道としてとること

 わたしたちはカーラチァクラに関するこれらの教えを、それを受ける機会が持てたという素晴らしい幸運を自覚しながら聞くべきです。また、聞くときには器の三つの欠点があってはいけません。すなわちそれは、
(1)上下が逆さになったポットのような心を持つこと
(2)穴の開いたポットのような心を持つこと
(3)内側が汚れたポットのような心を持つこと
です。そして最後に、ほがらかな心、喜ばしい表情を持ち、同時に三つの態度と六つの認識を持って聞くようにしましょう。

 カーラチァクラの修行においてなすべきことは、普通の死と普通の誕生を浄化し、トランスフォームすることです。グヤサマージャやヴァジラパイラヴァ、ヘーヴァジラといったような他のタントラは、死と中間状態と誕生の浄化とトランスフォーメーションを、解脱への手段として語っています。
 カーラチァクラの根本タントラには中間状態を浄化することに言及した個所がありません。死と誕生の浄化について語っているだけです。しかし、普通の死と普通の誕生の浄化の過程そのものが、普通の中間状態の自動的な浄化となります。いまだ道の途上にあってブッダではないときは、完全な解脱によって得る実際のブッダの三つの身体、真実の身体(Skt.ダルマカーヤ)、喜びの身体(Skt.サンボーガカーヤ)、発散する身体(Skt.ニルマーナカーヤ)の性質を持つブッダの三つの身体をこの手段によってコピーすることができます。
 このタントラの修行には二つの段階があります。すなわち、生成の段階と完成の段階です。生成の段階一般を培うことの役割と仕事は、普通の誕生、死、中間状態を浄化することです。ここで「普通の状態」という言葉が意味しているものは、心の屈折と、心の屈折に動機づけられた行為によって起こる状態のことであり、これが浄化されるべきものなのです。
 完成の段階に先立ち、生成の段階を成就することが必要です。生成の段階を成就していなければ、完成の段階を実現することはできないからです。それは一歩一歩進んでいくようなもので、一歩目を終えていなければ二歩目に進むことは問題外なのです。
 生成の段階の定義を言い換えると次のようになります。
 それはエネルギー、あるいは風(Skt.ヴァーユ)が、まだ瞑想の力によって中央管に入っておらず、留まってもおらず、溶解してもいない神のヨーガです。それは、それが結果として導く完成の段階に向かって成熟させるヨーガです。言い方を換えれば、それは次に続く完成の段階の間で自分の心の連続体を成熟させ、似たような様相を誕生、死、中間状態へともたらすということなのです。
 ごく手短にいえば、実際の死の過程ではエレメントが徐々に崩壊するということが起こります。すなわち地は水に、水は火に、火は風に、そして風は意識に崩壊し、意議それ自体はそれに焼いて起こる死の過程での経験をすることになります。「似たような様相を誕生、死、中間状態へともたらす」というのはどういう意味でしょうか。生成の段階の瞑想の過程ではまだ自分は実際に死んでいるわけではないのですが、自分が行なっている瞑想の過程が、現実の死の過程とそれに統く中間状態と誕生の過程に似ているということなのです。この脱明についてはしばらくはこれで十分としなければなりません。
 生成の段階にとって決定的に重大むのは、ブッダの三つの身体を道としてとることです。これらの(ブッダ)の三つの身体を道としてとる様相を適用することにより生成の段階を発展させるわけですが、これによってわたしたちは恐怖を味わうことなしに死ぬことができる因を育てるのです。実際、もし生成の段階のこの修行に熟達すれば、それに非常に償れ親しむ結果、死のいかなる恐怖も超越するのです。ミラレパはこう言いました。
「わたしを山へと駆り立てたのは死の恐怖だった。そこでわたしは心の不死の性質を瞑想した。今では死はわたしにとって恐怖ではない。」
 わたしたちはいずれ死ぬという事実に疑問の余地はありませんが、こういった修行によって死の恐怖から解放されることもできるのです。もう一度ミラレパの言った言葉から言い換えて引用してみましょう。ミラレパは死の王を山がつくりだす影になそらえています。太陽が沈むにつれ影はどんどん近くなってきます。わたしたちが影から一歩離れると影は一歩わたしたちに近づきます。わたしたちがもう一歩離れると影はもう一歩近づき、影はついにわたしたちを捕らえるまで追いかけ続けます。
 やむことなく近づいてくる死の王も同じです。彼はただそこに立っていて、そして置き去りにできるような単なる他人ではありません。それゆえ、彼は死をこのひたすら進み続ける影になそらえたのです。しかし、ミラレパは言います。
「解脱を得て、わたしはいまやこの危険から解放された。」
と。そして彼はわたしたちにも同じ成就に至る道を行くよう鼓舞します。
こういったミラレパの話は非常に素晴らしいものですが、耳に心地よく響くというだけでなく、同時に深遠な重要さを持っています。
 死に続いて普通非常な恐怖を伴う中間状態が起こります。(ブッダの三つの身体を道としてとる)ような修行は中間状態を恐怖なく通り過ぎ、また苦しみのない転生を可能にします。
 生成の段階に関する修行を書き表わした瞑想のマニュアルは数多くあります。中には非常に短いものもありますが、もしそれがブッダの三つの身体を道としてとる修行を完壁に備えているとしたら、それは完壁な修行です。他の瞑想のマニュアルや手引き書で仮に生成の段階を詳しく長々と扱っていたとしても、ブッダの三つの身体を道としてとる、あるいはそれを道に用いる三つの相のいずれかでも欠けていたら、それは完壁な手引き書ではありません。

◆普通の死に関して、道としてブッダの真実の身体を持つこと
 この三つの第一の道としてブッダの真実の身体(Skt.ダルマカーヤ)を持つことに従うためにまず「三つの基礎」あるいは「基礎の身体」(死・中間状態・誕生)と呼ばれるものを明確に確認する必要があります。「基礎」あるいは「基本」という言葉は人がまだ輪廻の中にいるときを指しています。

◆二十五の粗雑な要素の崩壊
 わたしたちは皆、以下の修行で崩壊する必要のある二十五の粗雑な要因と様相を与えられています。この二十五とは、五つの集積、地元素などの四つの元素、六つの感覚器官、五つの知覚の対象、そして五つの超越的な智慧です。わたしたちは、この二十五の要素を持って生まれ、それは死のプロセスの間に徐々に崩壊します。また五つの集積と、それが五つの超越的な智慧と五種のブッダにつながる関係を認識するのは重要なことです。解脱に達する、とこの五つの集積は五仏の性質を持つようになります。
1.形状・容姿の集積
(1)第一は形の集穏そのものです。
(2)「土台の(基本的な)、鏡のような智慧」というのは、現在の状態の心を指しており、これはちょうど鏡がたくさんのイメージを同時に反射できるように多くの対象を同時に知覚できるものです。(「土台の」あるいは「基礎の」という言葉はまだ人が輪廻の中にいるときを示しています。)
(3)形状の集積に関運する第三の性質は地元素です。
(4)第四の性質は目の(感覚)機能です。

(4)第五の性質は自分の達続体が保持する形状です。
 死のプロセスの間に起こる形状の集積の崩壊には五つの外的なサインがあります。
(1)たとえ身体が普段かなり重たくても、やせてきて老衰し、抵抗力や体力を失います。
(2)土台の鏡のような智慧の崩壊のサインは、視覚がもうろうとしてはっきりとしなくなることです。
(3)地元素の崩壊のサインは身体が非常に重くなり、四肢が非常にたるみ、あたかも地中に埋められたかのように感じることです。
(4)普通まぶたがぴくぴく動きます。目の機能の崩壊のサインは、目が動かなくなってうわぐすりをかけられたようになり生気がなくなったようになっていくことです。簡単にいえば目から生命が消えていくのです。
(5)連続体によって保たれている形状の崩壊のサインは、身体のつやや輝きが滅少し、非常にみすぼらしくなっていくことです。
 これが死の過程で起こる死の外的なサインです。病人の看護をしたり世話をしたりする人たちはこれがわかるでしょう。
 [死のプロセスを通っている間に]本人の主観的経験の中で起こる内側のサインがあります。
 この段階の外的サインに同時に呼応して起こる最初の内側のサインは、心に現われる「蜃気楼のような現われ」です。これは熱い砂の上に太陽が沈むときに砂漠で、例えば水の幻影や蜃気楼を見ることにたとえられ、同様に、この死の過程の段階で蜃気楼のような現われが起こるのです。
2.感覚の集積
感覚の集積(Skt.ヴェダナー)に関連した性質は五つあります。
(1)感覚の集積それ自体。感覚は苦しみ・幸福・無関心(どちらでもない)を経験する心の要素です。
(2)「土台の、偏見のない(平静な)智慧は快・不快・そのどちらでもない状態の三種の感覚を覚えている心、あるいはその認識です。
(3)水元素
(4)耳の(感覚)能力
(5)自分の連続体がとらえる音
 死のプロセスで起こる感覚の集積の崩壊の外的サインは五つあります。
(1)感覚の集積(そのもの)の崩壊のサインは、様々な感覚機能の意識に関連している感覚(フィーリング)が消えること、すなわちそれらがもはや生起しないことです。
(2)本源的な偏見のない智慧の崩壊のサインは、もはや心の認識につながってくる感情に気づかないことです。
(3)水元素の崩壊のサインは、舌が非常に乾いてはっきりとしゃべることができなくなり、非常に不明瞭な音をもぐもぐと口を動かして発することができるだけになることです。また、血、汗、精液などの身体の内部にある液体が乾ききります。
(4)耳の機能が崩壊するのでもはや音は聞こえません。
(5)第五のサインは自分の連続体がとらえる内的な音の崩壊を伴います。普通頭の中で微細なハミンクが聞こえますが、この時点ではこの内側のハミング、あるいはブーン・ブーンという音は止みます。
 これらの外的なサインと同時に呼応して起きる内的なサインは、「煙のような現われ」と呼ばれます。これは火からうねり出る煙のようなものではなく、むしろお香が焚かれるとき部屋に漂う煙のようなもの、煙のもや、と呼べるようなものです。

3.表象の集積
 表象の集積(Skt.サムジュニャーに関連する性質は五つあります。
(1)表象の集積は、この人が父だとか母だとかいうように、人の違いを認識したり見分けたりすることを可能にする精神的能力です。
(2)「基本的識別智」
(3)火元素
(4)鼻の能力(感覚)
(5)自分自身の連続体がとらえる匂い
 死の過程で起こる識別の集積の崩壊の外的なサインは次の五つです。
(1)識別の集積それ自体の崩壊とともに、異なる対象の意味を認識しなくなります。別の言い方をすれば、異なる現実というものを識別あるいは認識できなくなるのです。
(2)基本的識別智の崩壊のサインは、もはや異なる対象や自分の父、母等の人々の名前を思い出せないことです。
(3)火あるいは熱元素の崩壊のサインは、身体の温かさが失われ、身体が冷たくなることです。もし熱が足から上に向かって身体から撤退するとすれば、それはその人が幸運な領域に生まれ変わろうとしていることを示しています。一方もし熱が頭から下に向かって引いていったら、その人は低い領域に生まれ変わろうとしていることを示しています。いずれにせよ、熱は序々に心臓に集まってきます。意識もしばらくの間ここにとどまります。受胎のとき意識はまず心臓の中心にあります。
 同様にして死のプロセスにおいて身体における意識の最後のすみかは心臓にあるのです。これが最終的な熱が存在するところです。
(4)鼻の機能の崩壊のサインは、出息はかなり強く、入息が非常に弱くなることです。
(5)自分の意識体がとらえる匂いの崩壊のサインは、もはやいかなる種類の香も嗅ぐことができなくなるということです。
 内的サインに関する限り、「空のホタル」のような現われが起こります。これを理解するためには草の束に火をつけ、燃やし、それからそれを放り没げ、それぞれの方向に火の粉が飛び散るようなものであると考えたらよいでしょう。これはまた、火にくべた薪を叩いて火の粉が飛び散るのを見ることにたとえてもよいでしょう。
4.経験の構成の集積
 経験の構成の集積(Skt.サムスカーラ)に関して五つの性質があります。
(1)時々「心の形成」は「意志(力)」と訳されることがありますが、これは心の形成の一つです。いずれにせよこの集積はわたしたちに動くことを可能にする心の能力のことです。それは四肢をある場所から別の場所へ動かす意志の面を強調します。
(2)基木的な達成する智慧は様々なタイプの普通の俗世の行為へとわたしたちを駆り立て、そういう行為およびそれに伴う目的を思い起こす心の能力のことです。
(3)風エレメント
(4)舌の機能(感覚)
(5)自己の達続体がとらえる味
心の形成の集積の崩壊の外的サインは五つあります。
(1)集積それ自体の崩壊のサインは、もはや意図的に動けないこと、つまり身体を動かしたり自分の意志力を身体の動きに作用させることができないということです。
(2)基本的になし遂げる智慧の崩壊は、もはや行為もその目的も思い起こさないことです。
(3)風元素の崩壊に伴い、息または呼吸の完全な停止が起こります。
 普通の凡夫であれば「ああ、この人は今や死んでしまった」と考えるでしょう。
(4)舌の機能の崩壊に伴って舌そのものは大変厚くなり、舌の根、ベースの部分が育くなってもはやしゃべることができなくなります。
(5)自分自身の連続体がとらえる味覚の崩壊のサインは、もはや六つの種類の昧(甘い、酸っばい、苦い、ぴりっとした、辛い、塩辛い)のどれも味わうことができないということです。
 このとき触覚の機能、または触覚器官と、自己の連続体がとらえる身体の感覚は崩壊します。このサインはもはやそれが柔らかさであろうと粗さであろうと、いかなる種類の触覚も感じないということです。
 このとき起こる内的なサインは、「バター・ランプ」のような現われと呼ばれます。テキストによっては、これは消えゆくときにパチパチと燃えて、はためくロウソクのような内的ヴィジョン、あるいは現われだと書かれています。わたし自身の先生方は、これはあまり正しくないといわれました。むしろそれは紙のかさに守られたバター・ランプやロウソクのような、かなり静止して、一定した炎の現われのようなもので、非常に静かで動かずまた大変弱々しく、一定の光を発しています。

 かなり骨の折れる描写でしたが、これはおそらく多くの人が聞いたことがあるだろうと思われるプロセスに関連しています。地元素が水元素に崩壊し、あるいは次第に変わっていき、それが火元素に崩壊し、あるいは次第に変わっていき、それが風元素に、そしてそれが意識へと崩壊し、あるいは次第に変わっていくプロセスのことです。先程の描写はこのプロセスに関連しているのですが、ここで専門用語を理解しなければなりません。
 例えば、地元素が水元素に崩壊するというとき、元素が水元素の性質にトランスフォームし、それから火元素の性質にトランスフォームし、云々といっているのではありません。その意味するところを厳密にいうならば、意識の土台として働き、意識を支えている地元素がそれを行なう力を失うということなのです。そして地元素の効力が失われるために水元素がより目立ち、よりはっきりと現われるのです。それはあたかも一方が他方に崩壊(溶解)してしまうかのように見えるのですが、実際はそうではありません。一つのものが次のものの性質になってしまうということではないのです。
5.意識の集積
 先に述べたサインが起こると(この世では)普通死を告げられています。が、実際のところ、その人はまだ死んでいません。実際の死が訪れるまでには、まだ通過しなければならない数々の現われや経験、例えば「青白い光」や「赤みを帯びた(あるいは赤茶けた)光」、そして「暗闇」の経験が来るのです。これは完成の段階の説明でより明確にされます。
 これを理解するためには、まず最初に白いボーディチッタ(父親から来た白い滴)が、普通「偉大なる至福)」のチァクラの中で管(Skt.ナーディー)の中の結節によって支えられ同時に「生命を支える風(Skt.プラーナ)」によっても保持されているということを知る必要があります。普通はそうなっています。
 この修行が進んでいる偉大なヨーギは、管の結節を解いて白いボーディチッタを降ろし、この(崩壊の)段階を瞑想の力によって意識的に通過することができますが、死の過程ではこれが自然に起こります。死のプロセスのこのころになると、生命を支える風はすでにこのあたりから退いて心臓に帰っており、そこに白いボーディチッタを支え持ってはいません。管の中にある結節はほどかれ、白いボーディチッタが下降します。それが下降していくところは「生命が続く間壊れることのない滴」と呼ばれます。大きさはかなり小さく、今現在心臓に位置しています。死のプロセスでは風と意識が心臓のところでこの滴に集まります。この「命の続く間壊れることのない滴」という言葉はタントラのテキストで頻繁に出てきます。しかし、また別の言葉(チベット語でタン・トゥ・ミ・ペー・ティグ・レ)があり、その意味は「永久に壊れることのない滴」といい、生命の続く間壊れることのない滴の内側にある「極度に微細な意識とエネルギー」または「風」のことです。この「永遠に壊れることのない構成要素」はそれがこの人生を通じ、死を通じ、中間期間を通じ、つまり存在のサイクルの中での自己存在の全存続期間を通じ、そして自己の解脱の成就に至るまでずっと、そしてその後解脱した存在となってからも壊れることがないという理由でそのように呼ばれるのです。極度に微細なエネルギーと意識は、この全期間を通じて残るのです。それらは全く壊れることがありません。
・四つの空
(1)これまでに説明した理由によって、死のプロセスのこの段階では白いボーディチッタが「自己の生命が続く間壊れることのない滴」へと下降していき、その上を覆います。この下降の間、地平線の下から昇ったばかりの月が、空に青白い輝きを投げかけているような青白い光の現われ、またはヴィジョンを内的、主観的に経験します。
 この第一段階における内的な心の意識は「現われの心の意識」と呼ばれます。このとき四つの「空」の第一が起こります。それは「現われの空」(あるいは単に「空」)と呼ばれます。
(2)これに続いて現われの心の意熱がそれに伴うエネルギーとともに「増加の心の意識の中に崩壊します。これが起こっている間の内的なサインは赤っぽいような光の現われです。この時点で起こる空は「非常に空」です。これらの名前から意味をくみ取ろうとしてはいけません。その意味は次に述べるようなものです。
 生命を支えるエネルギーは(すでに)身体の上部から撤退しており、白いボーディチッタは下降しています。同様にそれらは心臓から下の部分から撤退し、上昇して心臓の中に引き上げられるのです。この結果として、ヘソに存在している女性の要素である(母からもらった)赤いボーディチッタは、もはや下にとどめられることなく、起き上がって「心臓のところにある壊れることのない滴」へと昇っていきます。
(3)これに続いて増加の心の意識がそれに呼応するエネルギーとともに次の心の意識である「成就間近の心の意」の中に崩壊します。
 この時点で、赤いボーディチッタと白いボーディチッタが幕のように「心臓のところにある壊れることのない滴」を完全に覆うのです。このときの内的経験は星も明かりもない大変暗い夜のように暗いものです。
 この種の認知とともに「偉大なる空」が起こります。
 暗闇の経験が起こる「成就間近の心の意識」の経験には二つの段階があります。初めの段階では暗闇の経験があります。後の段階では意識が全くありません。それが欠けているのです。このときまでにはこの生で培われた特定の意識とエネルギーの停止があります。(4)この完全な意識の欠如の期間に続いて極めて微細な意識とエネルギーが現われ、素晴らしい心の明晰さがある期間が起こってきます。そこには途方もない明晰さがあります。これをたとえるならとても澄み渡った、いかなる汚れも雲もない明るく輝いた空のようなものです。
 この時点ではまだ空は理解されませんが、心が大変な明晰度を与えられているために、理解したと思われるかもしれません。この経験は死のクリアーライトと呼ばれます。これはタントラにおいては頻繁に出合う非常に一般的な単語です。このとき現われるのは、わたしたちが仏性に達するまで、そしてその後もずっと作用し続ける極めて微細な意識とエネルギーの達続体です。これが第四の空である「完全に空」もしくは「すべて空」です。・クリアーライト
 素晴らしく明晰な期間が起こるこの時点では「母親のクリアーライトと呼ばれる極度に微細なエネルギーと意識が現われます。かなり上級のタントラの修行者やヨーギは瞑想によって、つまり死のプロセスの最中にではなく、瞑想をしている間に同じような状態に達することができます。これは「息子のクリアーライト」と呼ばれます。
 実際の死の過程に入って瞑想で培った智慧を自分の死の過程に応用するとき、非常に修行の進んだ修行者は母のクリアーライトと息子のクリアーライトを統合して、二つが結合したものをつくり出します。これが起こるとヨーギやヨーギニーは、死のプロセスの間一年あるいは二年、そうでなければ二、三週間この状態でとどまります。
 ここで「死のクリアーライト」と呼ばれているものはだれにでも起こるものですが、それは実際のクリアーライトではありません。よく間違えられるのですが、これは実際の空ではなく実際のクリアーライトでもないのです。しかし高いレベルのタントラのヨーギやヨーギニーが、母と思子のクリアーライトを結合し現象化させ、死のプロセスで経験するクリアーライトほ実際のクリアーライトです。
 この違いを覚えておき、どんな魂でも死のプロセスのこの地点に達したら、実際のクリアーライトを経験するというのは事実ではないことを理解しなければなりません。
 死のクリアーライトの経験の終わりに、意識は壊れることのない滴から離れ、中間状態での存在が始まります。このサインは、心臓にあって水の性質を持つ白いボーディチッタが下降し、生殖器から現われること、そして一方で火の性質を有する女性のエレメントである赤いボーディチッタが上昇し、小さな血の滴のように鼻から現われることです。こういう外的なサインは死に際してすべての人に起こるというわけではありません。しかし、もし起こった場合には死が起こり、意識はもはや身体にはないので、身体を燃やしても、拾てても構わないのです。
 しかしもし、死のプロセスが完成する前に身体を処分してしまったら、それはとんでもない過ちを犯すことになります。その人はまだ生きているのですから、殺生のカルマを積むことになるのです。

◆死のプロセスに対応する瞑想修行
 このプロセスに関連する修行は「真実の身体(ダルマカーヤ)を道としてとること」と呼ばれます。これは生成の段階における瞑想修行で、修行中に浄化されるべき土台は普通の死です。この修行を行なうときは、今説明した死のプロセスに対応する一連の瞑想に従います。
 わたしたちはカーラチァクラとして自己を生成させ、あらゆる方向に赤い光の光線を放射し、それが周りの環境とその環境の中にいる生命体を打ちます。素晴らしき至福の性質を持った光にトランスフォームした後、光は自分自身の身体の中へ溶解して戻っていきます。このとき蜃気楼のような現われ(P.178参照)の経験が起こると想像します。
 瞑想の次の段階ではあなたの全身(頭頂から足の裏まで、前も後ろも)が光に変わります。そして光が心臓のところでフームという音節に溶解します。この観想はチベット文字でやった方がうまくいきます。この時点では煙のような現われの経験を想像します。これを十分に瞑想し、このプロセスをはっきりと観想しなければなりません。
 瞑想の次のステージでは母音ユーがその上の文字の一部に溶解します。この時点で「空」のホタルの現われが現われた(P.184参照)と想像します。それからハーの頭の線が三日月の表面へと徐々に変わっていきます。この時点で青白い光(P.190 1参照)の現われが出てくると想像します。
 次に三日月のシンボルが滴へと序々に変わっていきます。この時点では太陽の光のような赤みがかった光が現われると想像します(P.190 2参照)。
 これに続くステージは滴がナーダへと徐々に変わっていくときで、ここでは濃い暗闇(P.192 3参照)の現われが現われると想像します。
 その後ナーダが空に溶解すると観想し、いかなるものにも汚染されず、しみもついていない夜明けの空のように極めて透明な空が現われとして起こると想像します(P.192 4参照)。
 この時点で結果として生じる自己のダルマカーヤと一体化し、それを誇りに思うようにします。この経験において三つの特質がなければなりません。
(1)現われ:明晰な空
(2)確かめること:生来的に備わった存在というものがないこと
(3)経験:経験は素晴らしい至福の性質を備えています。これは心の経験のことです。この時点では心は素晴らしい至福の性質を持っております。つまり心は素晴らしい至福を経験しているということです。
 わたしたちはこのようにして死のプロセスに平行する一連の瞑想を行ないます。
 この瞑想修行を、以前説明したように行なってそれに慣れることは、死に際して恐怖を感じないでいられるようにする手だてとなります。もしこの瞑想を真に修行するならば、徐々に生成の段階を発展させて、その頂点に達し、完成の段階へと移行するのです。
 また、土台、すなわち普通の死が、クリアーライトと実際のクリアーライトの複写によって浄化される完成の段階で「真実の身体を道としてとる」修行もあります。簡単にいうと、「クリアーライトの複写」とは空を理解はするのですが、その理解が観念的、包括的なイメージと混同されている、そういう心のことなのです。一方「実際のクリアーライト」というのは直に非観念的に空を理解する心のことです。
 まとめますと、生成の段階と完成の段階の両方で浄化されるべき土台は、普通の死だということです。もし完成の段階においてクリアーライトの複写を得るなら、普通の死というものを経験することは全くないでしょう。普通の死から完全に自由になるのです。けれどもこれを達成するのは非常に難しいことです。この生でわたしたちがこれを達成することは、あまりありそうにないことです。
 それでも、この非常に高い悟りに達する達しないにかかわらず、この修行をひたすら行なえば、死に際して恐怖を一掃する手段として働きます。わたしたち自身の死というものは確実にやってきます。この死のプロセスの各段階の修行を行なうことにより、それに慣れることができます。それに慣れれば、実際の死が来てそれを経験することになったとき、恐れることなくできるのです。予期すべきことを知っているので、それに慣れてしまうのです。すでに前もって瞑想で慣れているので、恐れる代わりに、自分の霊的指導者と瞑想上の神を思い出します。もし死に際してこのことを心に留めているならば、すぐ次の生で低い存在領域に生まれ変わることはありません。
 死を迎えたら唯一霊的・精神的修行のみが真実で現実的な恩恵を与えるものとなるのです。

◆普通の中間状態に関連して、ブッダの喜びの身体を道としてとること
 この教えを受けるにあたって、わたしたちはこの場所をカーラチァクラの宮殿だと想像し、この通常の外観と観念化を捨てなければなりません。さらに自分自身(と他者)を顔が一つ、腕が二つのカーラチァクラとして生成させることによってその通常の現われと観念化を一掃しなければなりません。グルもカーラチァクラと見なされなければなりません。それからすべての魂のために、最も高い解脱を得たいという発願を動機とし、この教えを聞くようにしましょう。
 カーラチァクラ・タントラでは、中間状態に関して、道として喜びの身体(Skt.サンボーガカーヤ)をとる修行はないということを知っておくのは大変重要です。その理由は、もし普通の死と普通の誕生を浄化するなら、まさにその力によって普通の中間状態を自然に浄化することになるからです。ですから、当然他の修行は必要ないのです。
 カーラチァクラ・タントラとその教えには、他のタントラの教え、例えばヴァジラバイラヴァ、グヤサマージャ、チァクラサンヴァラ、ヘーヴァジラに見られるような教えと共通しない、数多くのポイントがあります。これらの教えには、この生、またはすぐ次の生でのみならず中間期間においても解脱を得る可能性があるのです。またこれらのタントラでは中間状態に関達して、道としてサンボーガカーヤをとる修行があるのに比べて、カーラチァクラでは、この生で完全な解脱に達するか、その後の生で達するかであって中間期間の間で達することはありません。(中間状態に関連して、ブッダの喜びの身体を道としてとるという)瞑想の、この相を理解するためには、中間期間のプロセスを知る必要があります(そしてこのプロセスをよりよく理解するために、これに対比するものをいくつか見てみましょう)。
 わたしたちが今の状態で眠りに落ち、意識が序々に溶けていく、あるいは遠のいていくとき、非常に微細なサインが現われます。それは蜃気楼のようなサイン、煙のようなサイン、スパークまたはホタルに似たサイン、そして静止したロウソクの炎のようなサインです。これらのサインが現われた後「眠りのクリアーライト」と呼ばれるものが生じます。これは単なる心の意識、つまり、いかなる感覚的な意識も含まない心の意識である、夢の意識につけられた名前です。
 夢の意識が現われるとき、わたしたちは様々なタイプの活動に従事します。夢を見ている間、わたしたちは様々な活動を展開する夢の身体を持っています。眠りの終わりには、エネルギーがちょうど鍵の上に吐いたもやが、中央に向かって徐々に引いていくように心臓に向かって集まります。そしてその後に起き上がって、様々な種類の活動に従事するのです。
 この[全体のプロセス]は四つのサインと意識が、エネルギーとともに心臓に集まる経験をする死の状態に似ています。非常に微細な意識と非常に微細なエネルギー(すなわち永遠に壊れない滴)が(九つの抜け口のどれかを通って)身体を離れ、肉と骨でできている粗雑な身体が捨てられるとき、中間期間での存在が始まるのです。ここには類似があります。

◆中間期間
 中間の存在者としての誕生は「自動的な」または、より文字どおりには「奇跡的な」と呼ばれますが、それは自動的(自発的)で突然であることを意味しています。中間期間(Skt.アンタラーパーラ)の身体の突然の誕生とともに、五感のすべて、大小の四肢(小は指等)が突然、同時に起こります(胎内から生まれる場合は、それと違い、感覚と四肢は非常にゆっくりと形成されます)。このような存在者は匂いを食べて生きるので「匂いを食するもの」と呼ばれます。それはまた「再生を探し求めるもの」とも呼ばれます。
 この期間、身体は意識とエネルギーのみからつくられた、大変微細なものです。身体は自分の思考が向けられるところならどこへでも自動的に行きます。つまり場所を思うと身体が即座にそこに存在するのです。ある場所に心が向く、あるいは心が注がれるだけで、努力せずして身体が動くのです。
 中間の存在というのは大変変わった存在です。自分が最終的に入っていくことになる母親の子宮を除けば、自己の身体はビルディングや固い構造を持ったものなど、どんな固いものにも遮られることがありません。第二の特徴はカルマの力によって、一定の超常的な力を持つことです。第三は、ある程度の自然な透視(遠視)能力があること、あるいは意識(自覚)が高まっていることです。
 中間の存在者(と中間存在それ自体)は「土台のサンボーガカーヤ」と呼ばれます。「土台という単語を現在の時を示すものとして明確に心に留めておきましょう。土台のサンボーガカーヤに加え「道のサンボーガカーヤ」と「究極のサンボーガカーヤ」というものがあります。土台と道のサンボーガカーヤは、実際のサンボーガカーヤではありません。
 究極のものだけが実際のサンボーガカーヤなのです。他のものは単に名前としてつけられているだけなのです。
 中間存在のこの身体が、なぜ土台のサンボーガカーヤと呼ばれるのか理解するためには、ブッダの実際のサンボーガカーヤの性質を見てみる必要があります。実際のサンボーガカーヤは、肉や血のような粗雑な物質ではできておらず、ただ意識とエネルギーからできています。これがブッダの大小の印がついている微細な身体なのです。同様に中間期間中の身体も、意識とエネルギーからなっています。中間存在の身体が「土台のサンボーガカーヤ」と呼ばれているのはこの類似によるのです。
 土台のサンボーガカーヤに関する瞑想のポイントは、心の屈折と、心の屈折によって動機づけられた行為の力によって訪れる、普通の中間期間を浄化することです。道のサンボーガカーヤの間に、実際のサンボーガカーヤが生起する因を作ります。そして最後に結果が出るとき、サンボーガカーヤが生起します。これは実際の、究極のサンボーガカーヤであり、霊的・精神的修行の頂点です。
 もし今、中間期間に関連して、喜びの身体を道としてとる修行の段階を瞑想したとしたら、普通中間状態の期間に起こる多くの恐怖を一掃します。

◆普通の誕生に関連して、道としてブッダの現われの身体をとること
 ブッダの喜びの身体は非常に微細な形をとりますので、大乗の聖者にのみ近づくことができます。より多くの魂に直接益を与え、近づくことができるためには喜びの身体は、より粗雑な現われの身体(Skt.ニルマーナカーヤ)で現われます。この(サンボーガカーヤのニルマーナカーヤへのトランスフォーメーション)に対応するものは、中間存在者が両親の結合した再生物質に入り生まれることです。
 「誕生に関連して、道として現われの身体をとる」ことについて論じるためには、まず初めに受胎と誕生のプロセスの性質を理解する必要があります。これを十分に理解するならば、前生の其実を知ることができます。前生と来生の誕生が確実にあることに疑問の余地はありません。もし来生が存在しないものだとすると、ダルマの修行はポイントがズレています。もしダルマの修行が的外れのものであるとするなら、死の時にはすべてが終わると知って、この生のエネルギーをただ楽しい時を過ごすことに注いでもよいでしょう。しかし受胎と誕生のプロセスと性質を非常に明確に理解するなら、それは前生と来生の存在を示す、決定的な証拠を明るみに出すのです。

◆受胎
 これから始める教えはスートラ、特に「胎内に入ることに関するスートラ」からのものです。意識が胎内に入り、受胎が起こるためには、三つの要因の存在があると同時に、三つの欠点が存在しないことが必要です。
 この三つの促す、あるいは決定的な要因の第一は、母親の胎内に異常がなく、生理が周期的にあるということです。
 第二番目に絶対に必要な要因は、中間の存在者がそばにいて、入りやすくなっていることです。受胎が起こるためには、未来の両親の近くに中間存在者がいなければならないということは、非常に明確にされなければなりません。
 第三の要因は男性と女性が性的交わりを持つということです。
 受胎が起こるのにあってはならない三つの欠点の第一は、母親の胎内に欠陥があってはならないということです。風、胆汁、粘液のいわゆる三つの「体液」のアンバランスによって、あるいはその他の何らかの異常によって胎内に障害が生じ、受胎が起こることが不可能となることがあります(「母親の胎内にはその中央が大麦の種、アリの腰、ラクダの口のようであるという欠陥があってはなりません)。
 起こってはならない第二の欠点は、男性、またほ女性のどちらかの再生させる液体が下降しないことです。男性のものでも女性のものでも、再生させる液体は時を違えて落ちてきてはいけません。つまり一方は早くて他方は遅く落ちてはならないということです。また、たとえ同時に下降したとしても男性の(女性も同様に)再生させる液体が(腐っていたり)あるいは効力のないものであったりしてはなりません。
 第三の欠点はカルマの欠点です。中間存在者の側に、この二人の人を両親とするカルマが欠けていてはなりません。そして同様に両親の側からは、この中間存在者を自分たちの子供として持つというカルマを欠いていてはなりません。
 まとめますと、三つの促す要因とは
・三つの欠点が皆無であること
・中間の存在者が付近にいること
・男性と女性がセックス(性的交接)をしなければならないこと。
 このうちの一つでも欠けていたら受胎は起こりません。三つの欠点とは、
・子宮の欠陥
・種の欠陥
・そしてカルマの欠陥です。
 この欠陥のうちの一つでも存在していれば受胎は起こりません。未来の両親が交わっている間、中間の存在者は彼らの性器だけを見ているのですが、それは唇気楼や幻影のようなイメージ、ヴィジョンといったかたちで見るのです。この光景を見ると、同時に存在者自身の欲望が起こってきます。もしこの存在者が女の子になるのであれば父親に対する欲望・執着があり、母親への嫌悪があります。もし男の子となるのであれば母親に対して欲望・執着があり、父親に対して嫌悪があります。とはいえ、(……中間の存在者が欲する相手を抱こうとすると、以前の行為の力によって性器に怒りが生じますが、性器を除いては身体のいかなる部分も感知することはありません)。この怒りと「欲望が……死の因として働き……」、中間期間に終止符を打ち(つまり中間存在が死ぬのである)、そして意識が胎内に入るのです。
 交っている間は性器の動きが「下向きに追い払う」風を動かし、波立たせ、実際のトゥモではない普通の「心的な熱」が起こります。そしてそのためにボーディチッタが溶け、下降し、最後に濃い再生液が生じます(その後この構液と血液の滴が確かに男性と女性から現われ)(母親の胎内の中に下降して混じり合い、ミルクを沸騰させたとき上にできる、薄皮のような粘り気のある混じりものを形成します。母親の胎内の混合物に意識が入って胎児が育ち始めるのはこの時点です。

◆七万二千本の管の形成
 胎内での懐妊期間中、七万二千本の管(Skt.ナーディー)が、心蔵のところに除々に形成され始めます。その主要なものは身体の中を中央軸のように走っている「中央管」(Skt.アヴァドゥーティ)と呼ばれるものです。右側の管はロマ(Skt.ラサナー)と呼ばれ、左側にある管はキャンクマ(Skt.ララナー)と呼ばれます。これらは胎児がまだ胎内にいる間に、心臓のところに形成されます。初めに心臓のところに形成される他の管は、東(前)にスムコルマ管(以下英語名=チベット名)、南(右)にドマ管、中央管のすぐとなりのドゥドレルマ管(他の管を締めつけてエネルギーが自由に派れるのを阻む、大変悪い管です)。西(後ろ)にキマ管、そして北(左)にトゥモ管です。
 まずはじめに五つの管、ウマ、ロマ、キャンクマ、東のスムコルマ、南のドマが同時に形成されます。その後ドゥドラルマ、キマ、そしてトゥモ管が同時に起こります。これらは心臓にある八つの初期の管と呼ばれます。
 四つの(主要な)方向にある管は、その中間の四つの方向、つまり南北、北東などの管に分けられます。こうして最初の四つと中間の四つで八つになります。そしてこの一つ一つが三つに分かれ、全部で二十四に分かれます。身体のマンダラ修行でより高い瞑想段階に進む場合には、瞑想でこの二十四を使います。この二十四は同じようにそれそれが三つに分けられて、七十二となります。七十二の管の一つ一つは一千に分けられるので七万二千となります。
 これが懐妊の期間に、管が形成される方法です。もし二十四覚えておけばかなりうまくやれるでしょう。二十四覚えられなくても、三つの中央の管、ウマ、ロマ、キャンクマを忘れないでください。これは覚えておかなければなりません。

◆主要なエネルギーと副次的エネルギーの形成
 わたしたちは「エネルギー」と「風エネルギー」(Skt.ヴァーユ)がサムサーラとニルヴァーナの両方の根本にあるということを知らなければなりません。解放と完全な解脱に赴くか、存在の低い領域に向かうかは、エネルギーのあり方次第です。例えばいかなる対象の理解もエネルギーと関運して行なわれます。執着や怒りのような心の屈折もエネルギーとの関達で生じるのです。エネルギーと意識の状態は、大変密接に関連しています。
 他のヴァジラパイラヴァ、グヤサマージャ、チァクラサンヴァラなどのタントラでは、「五つの主要なエネルギー」と「五つの副次的なエネルギー」の(両方で)十のエネルギーの記述があります。カーラチァクラ・タントラではこの特定の用語は使われませんが、それでも十のエネルギーの説明はあります。
1.エネルギーが形成される様子の説明は、まず「生命を支える風」(Skt.プラーナ・ヴァーユ)と呼ばれるものから始まります。このエネルギーには微細なものと粗雑なものの二段階あります。死のプロセスの間、あらゆるエネルギーが除々に微細な生命を支えるエネルギーに溶解していきます。身体と心の関係を維持し、それをつなげる輪として働くのは粗雑な生命を支える風です。これは生命を支えるものなのです。(死の過程で)粗雑な生命を支えるエネルギーはすでに崩壊し、微細な生命を支えるエネルギーだけが(死の)クリアーライトの経験の間残っています。この微細なエネルギーはいつもわたしたちとともにあり、わたしたちから離せないものであり、次の生へ移行するものです。受胎に続く最初の月の間、微細な生命を支えるエネルギーが、粗雑な生命を支えるエネルギーを放ちます。このとき胎児の形は魚のようです。
2.2カ月目、「下向きの綺麗にするエネルギー」(Skt.アパーナ)が起こります。胎児の形は頭になる小さなこぶを除いては、際立った特徴が亀のように見えます。
3.3カ月目に起こるエネルギーは、このとき胎児は野ブタの形をしているのですが、「火を伴うエネルギー」(Skt.サマーナ)と呼ばれます。
4.4カ月目には、「上向きに動くエネルギー」(Skt.ウダーナ)が起こります。このとき胎児の胴は上部の方が大きく、ライオンに似た形になります。
5.5カ月目には「行き渡るエネルギー」(Skt.ヴャーナ)が起こります。このとき胎児は大変小さい人で、確実に人間の形をしてはいるのですが背丈は大変短いのです。
6.6カ月目になると特に視覚的機能、目の器官に関係した「動くエネルギー」と呼ばれるエネルギーが生じます。このとき地元素が起こります。
7.7カ月目には聴覚の機能、耳の器官に特に関係した「十分に動くエネルギー」と呼ばれる別のエネルギーが起こります。このとき水元素が生じます。
8.8カ月目には喚覚機能に関係を持つ「完全に動くエネルギー」が起こります。このとき火元素が生じます。
9.9カ月目には「とても動くエネルギー」が起こります。これは味覚器官(舌)と風エレメントに関連しています。
10.10カ月目には「確実に動くエネルギー」が起こります。これは触覚機能、触れる器官または触覚に関係しています。これとともに空エレメントが起こります。しかしこれは胎児が生まれて出るのに10カ月かかるという意味ではありません。チベットの仏教の伝統によれば妊娠期間は9カ月と10日かかりますから、誕生は9カ月目から10カ月目にかけて起こることになります。
 これが様々なエネルギーの起こり方であり、どうやってそれらが懐妊中に胎内に除々に現われるかという様子です。とはいえその(エネルギーの)どれも胎児が、まだ胎内にいる間は鼻孔を通りません。これらのエネルギーが循環し、実際に呼吸が起こり始めるのは(胎内から)誕生した後に限ります。この普通の身体を持って生まれることは、土台のニルマーナカーヤと呼ばれます。土台のニルマーナカーヤが受胎・懐妊・誕生、つまり身体の形成に関わる様子(やり方)を知ることは、生成の段階を十分に理解して修行するために必要なことです。

◆滴の形成
 滴(Skt.ビンドゥ)の形成の性質を理解するためには、心臓にある壊れることのない滴についての説明(P.188参照)を思い出さなければなりません。父の白いボーディチッタと母の赤いボーディチッタがあります。この両方の滴が心臓のところで白いボーディチッタが上、赤いボーディチッタが下になるように結合して、壊れることのない滴が形成されます。それはだいたい胡麻の大きさで「極めて微細な意識」と「極めて微細なエネルギー」とが混ざっています。
 懐妊期間中に心臓にある(壊れない滴)の白い面の一部が中央管を通って上昇し、登頂のセンターに休みにきて留まります。この頭頂のセンターのところにある白いボーディチッタを「ハム」と呼びます。これは身体の中に白いボーディチッタが増える源です。心臓のところにある壊れない滴の赤い面の一部がヘソのセンターへ下降していって、そこに留まります。これは「心的な熱の炎」(Skt.チャンダリー)と呼ばれます。このヘソのところにある赤い滴は、直に身体の中に赤い要索を増やします。
 すべての「エネルギーセンター」またはチァクラの中に、この滴が少しづつあるのですが、白い要素/ボーディチッタの拡大する主要な場所は「素晴らしい至福」の登頂のセンター」であり、赤い要素/ボーディチッタの増加する主なところはヘソ(発散するセンター)に位置しています。心臓(ダルマの心臓のセンター)にある壊れざる滴は両方の要素からなっており、赤と白のボーディチッタを均等に増やします。

◆幻影の身体
 「幻影の身体」(Skt.マーヤーデーハ)には不純なものと、純粋なものの二つのタイプがあります。
 「不純な幻影の身体」は解放(Skt.クレシャーヴァラナ)の曖昧さを、より正確にいえば心の屈折の暖味さを捨て去っていない幻影の身体です。
 「純粋な幻影の身体」とは、解放に対して、暖昧さ(無智)を捨て去った幻影の身体です。
 この両方の幻影の身体は、このタントラの修行中に得られます。わたしたちのような普通の人間は、幻影の身体に出会うことも見ることもできないでしょう。これは血と肉でできたわたしたちの粗雑な身体とは連い、それとは別に生じるものです。瞑想のそのステージに達した上級の瞑想家は、ブッダの大小の印がついた幻影の身体を生じさせます。このような人は様々な浄土へ行き、教えを受けたり供着をしたりすることができます。この幻影の身体には生き物は近づくことも出会うこともできないので、彼らの役に立つために感覚に合一し、粗雑な身体へと戻っていくのです。このような瞑想家は、この状態でダルマを教え、様々な方法で奉仕するのです。これは完成の段階の間に行なわれます。それゆえ胎児の受胎と成長のプロセスを、生成の段階との関係でだけでなく、完成の段階との関連においても理解することは純・不純の幻影の身体を得るために必要なことなのです。
 身体の外に出た幻影の身体が、粗雑な身体に合一して帰っていくプロセスは、受胎のとき粗雑な身体を得て、胎児が成長していくプロセスに対応しています。

◆死・中間期間・誕生に関して、道としてブッダの三つの身体をとる瞑想修行
 今度は死・中間期間・誕生の三つの段階に対応する(瞑想のプロセス)を非常に明確にしておかなければなりません。死に際して様々な要素の崩壊が起こり、クリアーライトを経験します。これに中間状態、そして誕生と受胎が続きます。
 各段階は以下の瞑想修行に対応させることができます。
1.瞑想においてわたしたちは様々な要素を次々、続けて崩壊し、空の経験と、すでに述べた三つの性質を持つダルマカーヤとの合一の経験します。
2.それから、ダルマカーヤとしては、他のブッダを除いてはだれにも近づけないと知って、サンボーガカーヤとして現われる動機が起こります。これが起こるために、月の円盤が乗った八枚花弁の蓮華が現われます。それからダルマカーヤ、ブッダの心そのものが、約一キュー一ビックの長さ(肘から中指の先まで)の青い光の柱として現われます。これはブッダの心の性質を持ち、サンボーガカーヤを現わしています。
3.しかし(今度は)サンボーガカーヤとしては、多くの生き物に近づくことができないと知って、もっと粗雑な形に現われようとする動機を生じさせます。サンボーガカーヤをニルマーナカーヤにトランスフォームする過程でこの青い光の柱は(それはまだ八枚花弁と月の円盤の上に立っています)蓮華と月の座に溶け、自分自身はカーラチァクラ、ニルマーナカーヤとして立ち現われます。この対応を理解するのは重要です。
 まとめますと、これらの瞑想修行で浄化される対象は、土台の(基礎の)死、中間状態、そして誕生です。この三つを浄化するものは、同じ順で、死に関連して道においてダルマカーヤをとること、中間状態に関連してサンボーガカーヤを、誕生に関してニルマーナカーヤをとることです。これらの浄化は、浄化されるものに似た面を持つ修行を使って行なわれます。これを認識するのは大切です。
 他の種類の修行においては、浄化される対象と矛盾する浄化を培います。例えば個人のアイデンティティの把握の思い違いを取り払うためには、その無智に準ぜず、無智を見通し、無智と矛盾しそれゆえ無智を駆逐する智慧が培われ、適用されます。
 タントラにおいては、矛盾する、あるいは相反する矯正方法によって浄化がなし遂げられるのではなく、むしろ浄化されるものに似通った面を持つ、矯正方法を用いることによって浄化がなされます。浄化されるものと浄化するものは、同じような面を持っています。それゆえ、普通の死、中間状態、誕生の浄化に際してブッダの三つの身体を得るのです。先程述べた死と関連して道としてダルマカーヤをとること、中間状態との関連で道としてサンボーガカーヤをとること、そして誕生と関連して道としてニルマーナカーヤをとることの三つの修行が、普通の死・中間期間・誕生を抑え込むように働く、生成の道における矯正法であり、浄化するものです。しかし、それらがこの三つの普通の出来事を完全に除去するわけではありません。
 死・中間状態・誕生を本当に完全に浄化し除去する実際の救済は、「クリアーライトを複写すること」そして「実験のクリアーライト」(P.194頁参照)によって完成のステージで起こるのです。
 クリアーライトの複写というのは空の観念的な理解のことです(「観念的な」というのは、理解が一般的、または観念的なイメージと混ぎり合っているということです)。
 実際のクリアーライトは、いかなる観念的なイメージも入ってない空の悟りのことで、これは完全に直接的で非観念的な悟りです。
 スートラの道から倒を引用しましょう。わたしたちは「我」に関する思い違いのようなとらわれを、抑えつけたり、滅少したりするように働く、無常や苦などについてのいろいろな種類の瞑想を行ないますが、こういう瞑想は実際にそれを一掃するのではなく、ただひたすらそれを押さえつけるのです。それは実際にそういったかたちの無智を一掃、または根絶する、同一性の不在を理解する智慧です。このようにここにも対応するものがあります。
 こういう瞑想をいつか修行することもあるかもしれません。そのために管・エネルギー・滴が立ち起こる様子を明確に理解しておかなければなりません。また、この理解が完成の段階の修行の土台として働きます。このためにそれが必要なのです。

【4】完成の段階を培う

 ではいつものように目覚めた心を培い、すべての生命体のために、最高の完全な解脱を熱望することから始めましょう。この動機によってカーラチァクラの解脱を得、すべての生命体をその同じレベルの悟りにいざなうために、この教えを聞き、修行しましょう。

《準備段階の教え》

◆金剛の身体のさらに詳しい特徴
 前にもご説明しましたが、完成の段階の修行をするためには管、エネルギー、そして滴がどのようにして生じるのかを理解することが必要です。この説明の中でぜひとも三つの主要な管、つまり中央管のウマ、その左右の管のロマ、キャンクマ、それそれを明確に把握していただきたいと思います。
 完成の段階の説明においては、粗雑・微細・極度に微細という三つの身体が出てきます。同じように粗雑・微細・極度に微細な心についても語ることができます。
「死後の生なんてないよ。あるのはこの生だけさ。」
と多くの人々が口にする今日では、この極めて微細な心の性質を理解することは特に重要です。先程のような主張は、微細な心はない、という仮定の上に成り立っています。
 確かに粗雑な心は、この生の後に持ち越されることはありません。しかしわたしたちには微細な心というものもあるのです。もし極めて微細な心と極めて微細なエネルギー----それは生命を支えるエネルギーの非常に微細な形なのですが----とその機能をきちんと把握するなら、それが無始の過去からわたしたちとともにあり、終わることなく続いていくものである、ということがわかるでしょう。これを理解することによって、過去と末来の両方の生があると断言するための論理的な土台がわかります。もし未来生というものが存在しないとすれば、ダルマを修行するいかなる理由も全く存在しません。そうであれば、ただ快楽主義的な人生を送ることもできるのです。

◆エネルギーセンター
 エネルギーセンター(Skt.チァクラ)には異なる提示の仕方があります。四つのものについて語られる場合は、以下のものを指しています。
1.頭頂に位置する「偉大なる至福のセンター」(Skt.マハースカー・チァクラ)
2.喉にある「喜びのセンター」(Skt.サンボーガ・チァクラ)
3.心臓にある「ダルマのセンター」(Skt.ダルマ・チァクラ)
4.ヘソにある発散のセンター(Skt.ニルマーナ・チァクラ)
 五つのエネルギーセンターが提示されるときは、この四つにもう一つ加わります。
5.生殖器に位置する「至福を守るセンター」
 六つのエネルギーセンターが示されることもあります。
1.偉大なる(素晴らしい)至福のセンター
 頭頂にある偉大なる至福のセンターは、頭蓋骨のてっぺんの下、脳のすぐ上にあたっています。センターの帽は約8分の1インチ(3mm)くらい、日本の線香ほどです。それは白、緑、赤、黒と多数に彩られておりその中は三角形です。現在中央管、ウマは二つの側にある管、ロマとキャンクマによって締めつけられて結節をつくっています。
 これらの管は四つに分かれ、そして八つに分かれ等々続き、ついには偉大なる至福のセンターから合計三十二の副次的な、あるいは枝分かれた管が出ています。見かけ上は、このセンターは空中にかかげられた開いた傘に似ています。
2.喜びのセンター
 このセンターはちょうど喉仏のところにあります。色は赤で、チァクラの真ん中は丸くなっています。前に述べましたように、中央管は両サイドの二つの管によって締めつけられ結節をつくっています。喜びのセンターは、十六の支管を持ち引っくり返した傘のように枝分かれしています。前に出てきました頭頂のセンターは、右側が上がった傘のようであり、この喉のセンターは逆さになった傘に似ているということをしっかりと心に留めておいてください。さあ、目に思い浮かべてみてください。
3.ダルマのセンター
 ダルマのセンターは胸の部分の二つの乳房の間、心臓のところに位置しています。色は白で、このチァクラのセンターは三角形の形をしており、三回締めつけられています。つまり脇に平行に伸びた管によってつくられた三つの結節があるということです。それは右が上になった傘のように枝分かれした支管、あるいは副次的な管がわずかに四つついているだけです。
 これを注意深く繰り返し考えてみてください。説明したように観想できるようそれを心の中で明確に理解しましょう。
4.発散のセンター
このセンターはヘソと同じ高さに位置しています。頭頂のセンターと同じく、この発散のセンターも彩り豊かです。その中心は丸く、六十四の副次的な管は逆さになった傘のようになって広がっています。
 このヘソの位置の傘のようなセンターは、ちょうど頭頂と喉のセンターのように互いに向き合っています。
5.至福を守るセンター
 このセンターほ生殖器の辺り、もっと詳しくいえば、生殖器のちょうどベース、またはつけ根のところに位置しています。その中心は三角形で赤い色をしており、三十二の副次的な管を持っています。エネルギーセンターそのものは、右が上になった傘のようなものです。

◆エネルギーセンターの名前の言語的由来
 この五つのセンターが、なぜそれそれの名前で呼ばれているのかを知ることも役に立つでしょう。
1.至福の土台(ファウンデーション)である白いボーディチッタが主に頭頂にとまっているため、このセンターは「偉大なる至福のセンター」と呼ばれます。
2.喉にある喜びのセンターは、酸っぱい・甘い・苦い・塩辛い・渋い・ぴりっとする、という六種類の味を味わう場所なので、こう呼ばれます。
3.ダルマを修行する主な手段、主な道具は心です。そしてその主なすみかは心臓、とりわけ自分の両親から来ている壊れることのない滴にあります。心臓のセンターが「ダルマのセンター」と呼ばれるのはこのためです。
4.偉大なる至福の発散の土台は内的な熱、トゥモの炎であり、それは主にヘソのところにとどまっています。それゆえこのヘソのセンターは発散のセンター」と呼ばれるのです。
5.生殖器のところの至福を守るセンターは、ボーディチッタの前向きと、逆向きの順序の動きを含む四つのタイプの喜び(P.30参照)と非常に密接に関係しています。特にボーディチッタがちょうど生殖器の先に到達すると自然にわき上がる喜びを経験します。それがこれら様々な種類の喜びに大変役立つ、欠くことのできないものであるため、このセンターは「至福を守るセンター」と呼ばれます。
 様々なタイプのエネルギー、風、滴について前に行なった説明だけでなく、五つのセンターの名前の語源的意味をよく理解しておくことは、これを瞑想に使うので重要なことです。特に五つの主要なエネルギーを覚えておいてください。つまり生命を支えるエネルギー、下向きの浄化するエネルギー、火を伴うエネルギー、上向きに動くエネルギー、そして(全体に)行き渡るエネルギーです。

◆五つの主要なエネルギーと五つの副次的なエネルギーの位置
 これらのエネルギーの起こり方だけでなく、その位置も知っておかなければなりません。
1.生命を支えるエネルギーほ心臓のところにとまっており、その機能は生命と身体の間を結びつけるきずなを形成することです。
2.下向きの浄化するエネルギーは生殖器の辺りに位置しています。その機能は尿と糞便だけでなく白と赤のボーディチッタの両方を必要なときに下方へ送り、追い散らすこと、あるいは保持しキープすることです。このタイプのエネルギーは、例えば下痢などの悪い作用を起こすこともあります。
3.火を伴うエネルギーは、ヘソのところにあります。ここで使われている「火」という言葉は胃の火のことです。火を伴うエネルギーの機能は食物や飲物の栄養素を残りカスと分けほたは異なる段階の栄着素を異なる段階の老廃物から分けて)、栄養素を身体の様々な部分を維持するために送り、残りカスを様々な老廃物の中に入っていくようにすることです。
4.上向きに動くエネルギーは喉のところに留まっています。食物や飲物をそしゃくするだけではなく、声のすべての活動がこのエネルギーの繊能によって起こります。死の過程でこのエネルギーが崩壊すると、しゃべることもそしゃくすることもできなくなります。食物や飲物を口の中に入れてもすぐに戻ってきてしまうだけです。
5.行きわたるエネルギーは全身に広がっています。歩く、身をかがめる、身を反らす等の様々な身体の動きは、すべて行き涯るエネルギーの機能によるもので、このエネルギーが衰えると動く力を失います。
 また、五つの副次的なエネルギーのことも考慮しなければなりません。
1.動くエネルギーは目のところにあり、形を感知します。
2.十分に動くエネルギーは耳のところにあり、音を感知します。
3.完全に動くエネルギーは鼻のところにあり、匂いを経験します。
4.よく動くエネルギーは舌のところにあり味を知覚します。
5.確かに動くエネルギーは触覚機能の中にあり、触れる対象と、いろいろな種類の感情や感覚を知覚します。
 異なる種類のエネルギー、管等の明確な理解は、この様々なエネルギーをすべて中央管へと運び、それから心臓にある壊れざる滴へと運ぶ、完成の段階の瞑想のために必要なものです。エネルギーがまず中央管へと運ばれることなくして、完成の段階の成就が得られることはありません。完成の段階を瞑想しているいないに関わらず、死の時にはエネルギーの中央管への、それから心臓への撤退が起こります。これが死の過程で自然に努力することなく起こるように、それを意識的に瞑想の中で複製するわけです。
 様々な種類の完成の段階と瞑想の中に、「ヴァジラ復唱」と「壷のような瞑想」があります。これらの修行をするときの目的は、エネルギーを中央管とそれから心臓のところの壊れることのない滴へと引き込むことです。

◆五つのブッダの家族に関する五つの主要なエネルギーと五つの副次的なエネルギー
 五つの主要なエネルギーはまた、五仏に相当します。すなわち、生命を支えるエネルギーはアクショブヤのエネルギー、下向きの浄化するエネルギーはラトナサンバヴァ、火が伴うエネルギーはアモガシッディのエネルギー、上向きに動くエネルギーはアミターバのエネルギー、そして最後に行き渡るエネルギーはヴァイローチャナのものです。
 五つの副次的なエネルギーも五仏に関係しています。つまり、動くエネルギーはヴァイローチャナのエネルギー、十分に動くエネルギーほラトナサンバヴァのエネルギー、完全に動くエネルギーはアミターバのエネルギー、よく動くエネルギーはアモガシッディのエネルギー、そして確実に動くエネルギーはアクショブヤのエネルギーです。

◆五大エレメントに関する五つの主要なエネルギーと、五つの副次的なエネルギー
 また、これらのエネルギーと、様々な元素の間にも関係があります。
 つまり、生命を支えるエネルギーは水元素に関係しており、下向きの浄化するエネルギーは地元素に、火を伴うエネルギーは風または空エレメントに関係しており、上向きに動くエネルギーは火元素に、そして行き渡るエネルギーは空元素に関係しています。
 同じように五つの副次的なエネルギーにも関係があります。すなわち、動くエネルギーは地元素に関係し、十分に動くエネルギーは水元素に、完全に動くエネルギーは火元素に、よく動くエネルギーは風元素に、そして確実に動くエネルギーは空元素に関係しているのです。

◆各エネルギーと色
 この様々なエネルギーには色の区別があります。生命を支えるエネルギーは白、地元素に関係している下向きの浄化するエネルギーは黄色、火を伴うエネルギーは暗い緑、上向きに動くエネルギーは火元素に関係し、赤い色をしており、行き渡るエネルギーは青です。
 同じようにこの五つの色は副次的なエネルギーにも関係しており、動くエネルギーは赤、十分に動くエネルギーは青、完全に動くエネルギーは黄色、よく動くエネルギーは白、そして確かに動くエネルギーは緑です。

◆力ーラチァクラの体系における十のエネルギー
 すでに述べたことですが、覚えておかなければならない非常に重要な点が一つあります。タントラの一般的な提示においては、五つの主要なエネルギーとマイナーな、あるいは副次的なエネルギーの説明があります。カーラチァクラにおける相違は「五つの主要な」と「五つの副次的な」という言葉が使われないということです。とはいえ、十の提示はすべてそろっています(そして最初の五つのエネルギーの名前は両方の提示で同じです)。
1.生命を支えるエネルギー(Skt.プラーナヴァーユ)
2.下向きの浄化するエネルギー(Skt.アパーナ)
3.火を伴うエネルギー(Skt.サマーナ)
4.上向きに動くエネルギー(Skt.ウダーナ)
5.行き渡るエネルギー(Skt.ヴャーナ)
 次の五つのエネルギーはサンスクリット、または英語で名前がつけられています。
6.ナーガのエネルギー(Skt.ナーガ)は管を通って北西に向かいます。
7.心臓のところにある「カメ」のエネルギー(Skt.クールマ)は南東の副次的な管を流れます。
8.カメレオンのエネルギー(Skt.クリカラ)は南西の副次的な管を流れ、火の性質を持っています。
9.デーヴァダッタ(Skt.デーヴァダッタ)は北西を通って流れ、水元素の性質を持っています。
10.ダナンジャヤ(Skt.ダナンジャヤ)はナーガのエネルギーのように北西を流れ地元素の性質を有しています。
 これがカーラチァクラ独自の伝統に沿った、十のエネルギーの(位置並びに)名前です。いくつか違っているものもあります。ジェ・ツォンカパはカーラチァクラの伝統が他のタントラと違っていると述べ、それを非常に高く評価しています。もしカーラチァクラの完全な理解を得ているとしたら、この理解は容易に他のタントラに適用され得るといわれています。これは非常に大切なタントラです。
 スートラの文脈で重要視されている点があります。すなわち、存在のサイクルの根本は自分自身(セルフ)を思い違える無智である、と述べられていることです。タントラの文脈では、エネルギーが存在のサイクルと、解放の両方の根本である、と述べられています。有害な面では八十の概念があり、それぞれが各々に対応する種類のエネルギーに関係しています。これがわたしたちを存在のサイクルにつなぎとめ、低い存在の状態をあたえているのです。この意味でエネルギーは、存在のサイクルの根本として働いています。同様にエネルギーは解脱の根本にもあります。それはクリアーライト等に密接にかかわるエネルギーがあるからです。様々な心の状態には、解脱に向かって向上するにつれて、それに呼応するエネルギーが存在しているのです。

◆カーラチァクラの体系における四つの滴
 カーラチァクラの体系によると四種類の滴があります(Skt.ビンドゥ)。
1.「深い眠りの生起の滴」は主にエネルギーであり、心臓と生殖器の先にあります。身体の上部、頭、胸等にあるエネルギーが心臓に凝縮し、身体の下部にあるエネルギーが生殖器のあたりに凝縮して人は深い眠りに落ちるのです。深い眠りの生起の滴はまた「心滴」とも呼ばれます。
2.「夢の生起の滴」もまた生殖器のところに留まっています。身体上部のエネルギーが喉のところに集中し、身体下部のエネルギーが生殖器の付近に集中したとき、夢を見ます。これが夢が生起するときです。
 すべての現象は真に存在することはなく、それは皆夢のようなものであるという表現をよく耳にします。
 ここで自分が憧れている人の子供を生んだ夢を見る若い女性の場合を取ってみましょう。彼女は子供に魅いられ、子供を大変愛します。
 子供が死にます。彼女は信じ難いほど悲嘆にくれ、涙を流し、泣き叫び拷問の苦しみを負います。そして目を覚まします。子供などだれもいません。子供の死などどこにむなかったのです。彼女は苦しみから解放されます。同様に現象は真に存在してはいないのですが、それでも行為とその結果、すなわち苦しみと幸福のカルマの法則は、一般に行なわれているものとして(あるいは協定的にconventionally)存在しているのです。この夢の生起の滴はまた、「話し言葉の滴」と呼ばれます。
3.「目覚めの滴」は主にヘソのところにあります。身体の上部のエネルギーが額に集中し身体の下部のエネルギーがヘソのところに集中するとき、眠りから目を覚まします。これがシアトルで毎朝七時から八時ごろ起こっていることです。この目覚めの滴は「身体の滴」と呼ばれます。
4.「第四番目の機会の渦」は頭頂と生殖器のところに留まっています。
「第四番目の機会の滴」という言葉は、男女間でのセックスの間に経験される性的な至福の機会のことをいっています。その間身体の上部のエネルギーは頭頂に集まり、身体の下部のエネルギーは生殖器に集まります。ボーディチッタが降りると同時に、至福が体験されます。
 この第四の機会の滴は、また「超越した智慧の滴」とも呼ばれます。

 これらの異なる滴は深い眠り、夢、そして目覚めた状態の中で、わたしたちが行なう修行の種類を暗示していますので、これを知ることは重要です。この各段階に対応して従うべき修行があります。

◆グルヨーガにポイントを置いた四つの準備段階
 これはすべて完成の段階の実際の修行のための準備です。この修行のために必要とするものは;
1.帰依に関すること、つまりいかにして誤った道や、過激主義的な教師に帰依したり、頼ったりすることを避けるか(言い方を換えると純粋な帰依を持たなければならない)ということに関する正しい教え
2.菩提心に関する教え。これは多聞と独覚の道よりも優れています。
3.不健全な心の痕跡と暖昧さの浄化のためのヴァジラ・サットヴァに関する教え
4.速やかに祝福を受け取るためのグルヨーガに関する教え
この四つの主題の中でも、グルヨーガに関するものはとりわけ重要てす。偉大なるサキャ・パンディタはブッダの祝福を太陽の光線にたとえています。くべる薪を持っていても、どれほど強く太陽が照っていても薪は燃え上がりません。実際に炎をつけるためには虫眼鏡がなくてはなりません。同様に、ブッダ方が大変力を持っており、素晴らしい祝福を与えられるとしても、グルなくしてそれを受け取ることはできません。
 グルとグルに対する関係は欠かせないのです。
 たとえとして、翻訳者マルパがグル、ナローパと共に住んでいたころのお話を一ついたしましょう。ある日ナローパはヘーヴァジラ・マンダラを神とともに現わしました。それから彼は弟子のマルパに大声で呼びかけてこう言いました。
「息子よ。チョキ・ロドロよ(これはマルパの個人名でした)。起きろ、起きろ! ヘーヴァジラのヴィジョンだそ!」マルパは起きて畏敬の念に打たれました。ナローパはマルパに聞きました。
「どちらを礼拝する? ヘーヴァジラを礼拝するか、それともお前のグルであるわたしを礼拝するか?」
 マルパは考えました。
「さて、これは非常に特別な出来事だそ。ここにイーダムがいる。瞑想の神自身が現われているんだ。これは尋常でないことだ。わたしのグルにはいつでも礼拝できる。グルはいつもここにいるんだ。わたしはイーダムに礼拝しよう。」
 そして彼はそのようにしたのです。ナローパはこれに対し、イーダムはグルの化身であるという意昧の詞章で応えました。そして彼がこの詞章を唱えて指をパチンと鳴らすと、ヘーヴァジラは全マンダラとともにナローパの心臓の中に溶けてしまいました。ナローパはマルパに言いました。
「これはまずかったな。間達いを犯したぞ。この結果としてお前の家系は短くなるだろう!」
 そして実際そうなったのです。マルパは九人の息子がいましたが彼の世襲は途絶えました。それと対象的に、例えばサキャの系譜では世襲の系譜は現在に至るまで保たれています。しかし一方カギュ派においては、ダルマの系譜は非常によく保たれ、非常に活発で繁栄しているにも関わらず、マルパからの世襲の系譜はずっと以前に終わりを告げています。
 もとの話に戻りましょう。マルパはこれを大変妙に感じました。あまりにも納得できないと感じて、彼は非常に惨めな気持ちになり、悩みました。「なぜわたしはあの状況でああしてしまったんだろう?」これはずっと昔に犯したカルマのなごりが熟したものに違いありません。彼は以前に多くのヘーウァジラのヴィジョンを見ており、グルをイーダム・ヘーヴァジラよりも優れたものとする修行を行なっていたのです。「わたしに何が起きているんだ?」と彼は非常に心配し、いぶかりました。この内的な驚愕の結果、彼は病に落ちてしまいました。
 ある日ナローパとマルパは池に水浴に出かけました。彼らがそこにいる間に、カラスがマルパからお守りの指輪を取って空に飛び去りました。
 ナローパは大変特殊な「威嚇するムドラー」をやり、カラスを打ち落としました。カラスがパタパタと落ちて来たとき、ナローパはお守りの指輪を取って、マルパに返してこう言いました。
「さあ、もうお前はこの問題から解放されるそ。マーラから自由になるぞ。」
まるでそれはマーラが彼の心を占めて、彼に影響を与えていたかのようでした。マルパは自分はどうするべきかを尋ね、そしてただひたすら瞑想することにしました。
 この威嚇するムドラーは、もし完成の段階において高い成就をした人が使うと、非常にパワフルなものになります。例えばこのような修行者はここに座り、このムドラーを遠く離れた果物の木に向けて、果物をその木から彼自身のいるところへ引き寄せることもできます。また、彼はこのすべてのプロセスを逆にして、果物をそれそれもとの枝に返すこともできます。こういうタントラの修行で可能な、超自然的なことは大変面白いものです。
 今ご紹介したのはタントラの修行でできる、たくさんの離れ技のうちの一つにすぎません。
 ブッダと菩薩の超常的力というのは、普通の人間の観念の領域を超えています。普通の人間にとって、カルマの法則が関わって起こる様々な行為と関係の熟し方も、やはり驚嘆させられるものです。倒えば、生まれつき口のない人々や、片方の足がずっと後ろに曲がっているといったような人々の奇形の場合にもその一つ一つに大変深遠なカルマが働いており、普通の人間には理解できないものです。
 また別の折、ミラレパがグルを離れて瞑想するためにリトリートに向かおうとしていたときのことです。マルパは別れの挨拶をするために自分の通常の姿を捨てて、チァクラサンヴァラの姿をとって現われました。
 それが消えると、ヘーヴァジラの姿をとりました。そしてそれも消えるとグヤサマージャの姿をとりました。それが消えると今度はアーリとカーリの形をとりました。これが消えるとマルパはミラレパを大声で呼んでこう言いました。
「息子よ、見たか?」
 ミラレパは言いました。
「はい、見ました。信じます。わたしも尊師がなされたような、素晴らしいことをなし遂げられますように。」
 そして彼はリトリートをするために出ていき、そしてよく知られているようにグル、マルパと同じ解脱を得、空を飛ぶなどの超常的な離れ技を数多く見せることができたのです。ミラレパがマルパに抱いたのと同じような畏敬を持ってわたしたちも修行し、自分自身のグルを仰ぎ見なければなりません。
 サキャ・ゲルツェンという名前の、あるラマの弟子であった一人の女の子がいました。彼女も修行をして空を飛ぶ等の奇跡的な驚異を見せることができました。賛嘆の詞章の中で、彼女もまた偉大なるヨーギ・ミラレパと、彼の力のことに触れています。
 以前ダクチェン・リンポチェだったゴンマ・チョクラン・リンポチェがランナ・ゴンパという名前の(文字どおりには象の胴体の僧院という意味)サキャ派の僧院がある東チベットの地方に来たときのことです。
 リンポチェはその地域に、すさまじい地震がたくさん起こることをその時点で知っていましたので、自分の周りの人々に言いました。
「もしわたしと一緒にいたければこの部屋に入りなさい。もしいたくなければ外にいなさい。」
と。そして彼は一人一人に祝福のひもを与えました。そのときです。地震が山の尾根に沿った地点まで起こりました。地震は多くの家々を潰しましたが、リンポチェの住んでいる家には何の被害もありませんでした。その後彼はこの家で亡くなりました。多くの信者が、彼が後に残したものをサキャに持って帰りたがったのですが、人々は言いました。
「だめだ。それは正しくない。リンポチェはここでこの世を去る明確な理由があったのだから、彼の残したものはここに保存されるべきだ。」
そして、人々は形見を保存しておく金のストゥーパを建て、これを真珠の傘で飾りましたが、ここは大変貴重で神聖な場所となりました。たくさんの病に苦しむチベット人が、金のストゥーパの回りを回るためにそこにやってきて、そのうちのかなりの数に上る人々が癒されたのです。
 これは非常に神聖な土地だと考えられました。毎年このストゥーパは少しずつ大きくなりました。そしてそのときからその谷には決して地震が起こらなかったといいます。地震の起こる他の場所では人々は自然とゴンマ・チョクラン・リンポチェを呼び、彼の助けを求めて祈るのです。
 これが偉大なラマが持つ祝福というものです。
 マンジュシュリーの化身であったサキャ・パンディタによる詞章を言い換えてご紹介しましょう。
「指をパチンと鳴らす間に、グルに対してなした奉仕と献身によって積み上げられた功徳は、六波羅蜜を何千カルパも修行して積んだ功徳よりも輝いている。」
この功徳には自分の身体、頭、腕などを儀牲にすることが含まれます。
 ですからわたしたちは大いに歓喜し、喜んでグルへの献身と奉仕に専心しなければなりません。
図


【5】完成の段階の瞑想修行

 言うまでもないことですが、わたしたちが今非常によい動機を育て、この動機をもって聞き、そして教えを実行に移すとしたら、これは大変素晴らしいことです。たとえそれほど修行をしていなくても、ただよい動機を持って聞いているだけで、大変恩恵のある痕跡がわたしたち自身の心の流れに刻まれ、未来際においてダルマの非常に深遠な理解を得やすくすることになります。
 完成の段階を修行するためには自分が取り組んでいる土台を理解する必要があります。そしてこれに先立ち、少なくとも生成の段階の基本的な理解を得ていなければなりません。管と様々なエネルギーセンターの説明はすでに行なったとおりです。すなわち、頭頂の三十二の支管を持つセンター、喉のところにある十六の支管を持つセンター、心臓にある八つの支管を持つセンター、ヘソの六十四、そして生殖器にある三十二の支管を持つセンターです。また、三つの管、四つの主要なエネルギーセンター、滴と幻影の身体についても基本的な理解をしておく必要があります。

◆修行の六つの段階
 カーラチァクラの完成の段階へ進むために、「修行の六つの部門」というものがあることを知っておかなければなりません。わたしたちは自分自身のために完全な解脱という目標に向けて着手しました。それをなし遂げるためにはわたしたちが達成しようとしているのは何か、ということを知る必要があります。それはブッダの身体、言葉、心です。これは、それが何であれ、「達成」にかかわるすべてのことにいえることです。もし、インドに行きたいと思えば、まず目的地の性質を知るべきですし、チベットに行こうとしているなら自分がどこに向かっているかを知らなければなりません。
 わたしたちは仏性を目指しているのですから、ここで求められているのはブッダの身体・言葉・心です。この目的を達成する方法は次に挙げる修行の六つの部門に従うことです。
1.修行の(あるいはカーラチァクラ・ヨーガの)六つの部門の第一は「個的集中(Skt.プラティヤーハラ)です。これは五つの感覚的意識のそれそれのエネルギーを、心臓に向けて一緒に引っ張り込むようにつくられています。
 すでにご説明しましたように、今このとき、意識とエネルギーの間には大変密接な関係があります。対象を感知(把握)するのは意識なのですが、エネルギーの力によってのみ対象のところへ行けるのです。
 意識が知覚された対象と接触できるようにするのはエネルギーなのです。このように、二つはともに働きます。
2.修行の第二の部門は「個的安定」(Skt.ディアーナ)と呼ばれます。
 この二つの修行、個的集中と個的安定は「空の形の身体」(P.13参照)を達成する手段です。もしこの身体が前もって成就されていなければ、新たに得られます。そしてもしこれがすでに成就されていればそれは増加されます。この二つほブッダの身体であるニルマーナカーヤを得るための手段として働きます。
3.修行の第三部門は「生命の努力」(Skt.プラーナーヤーマ)と呼ばれます。その役割は心の意識のエネルギーを中央管に引き入れることです。五つの感覚的意識のエネルギーは、その前の修行ですでに引き入れられています。この合成語の最初の音節、ロクは文字どおりには「生命」または「生命力」を意味し、エネルギーのことを指しています。第二音節(ツォ)は両サイドにある管、ロマとキャンクマを閉じることと、エネルギーの中央管への撤退を意味しています。それは中央管を通るエネルギーの動きを暗示しています。このエネルギーが、右側の管、ロマを流れている限り、憎しみが起こり、エネルギーが左側の管のキャンクマを流れている限り、執着が起こります。この二つの心の屈折の停止をもたらすために、活動的なエネルギーがこの両側の管を流れることを許さないようにして中央管に引き入れるのです。
4.修行の第四番目の部門は「保持(維持)」(Skt.ダーラナー)と呼ばれます。その役割は「心の意識の活動エネルギー」と呼ばれる心の意識のエネルギーを中央管に保持することです。
 このように心の意識の活動エネルギーが中央管に引き込まれるのは、生命の努力の修行(プラーナーヤーマ)によるもので、保持の修行によって、それがそこに保持されるのです。このようにしてわたしたちは「エネルギーの統御」と呼ばれるもの、特に話し言葉の根源であるエネルギーの統御をなし遂げます。これゆえこれらの修行は、ブッダの言葉、サンボーガカーヤを得る因として働くのです。
 サンボーガカーヤの説明には、スートラとタントラで違いがあります。スートラがサンボーガカーヤを五つの「一定の」あるいは「限定的な」面として説明しているのに対し、タントラにおいてはサンボーガカーヤをブッダの言葉に対応させています。
5.第五番目の部門は「回想(追憶)」(Skt.アヌスムリティ)と呼ばれます。この修行では心的な(非物資的な)熱の火であるトゥモが燃え上がり、白いボーディチッタを溶かします。次にそれは生殖器の先(「宝石」と呼ばれる)に流れ落ち、そこで保持されます(つまり外に出すことが許されないということです)。そしてこの時点で自然にわき上がる喜びが経験されるのです。この喜びを回想すること、あるいは心にもたらすことがこの修行の五番目に来るものです。
6.第六番目の部門の修行は「集中」あるいは「サマディ」(Skt.サマーディ)と訳されます。それは非二元的至福と空の瞑想的均衡のことを指しています。「至福と空」として言及されているのは次のようなものです。
 すなわち神の身体とコンソートの身体は「空」と呼ばれる空の形の身体であり、そして至福は、最高不変の至福です。それゆえ六番目の修行の成就は非二元的至福と空、特にこの文脈では、これはそれそれ、最高不変の至福と神とコンソートの二つの身体を指しているのですが、そのサマディなのです。
 「空の身体」という言葉は何を意味しているのでしょうか。空の形の身体を成就するためにわたしたちは自分の身体の物質的な要素を使い尽くす、あるいは消耗してそれから神とコンソートの形を生成しなければなりません。彼らの身体は(粗雑な)物質から成るのではなく、ただエネルギーと意識のみから成っています。より明確に言えば、それは偉大なる至福と空の智慧を培うことから生じてきます。この二つの面から、つまりこの二つの要素の神聖なる形象化において、非二元的至福と、空の智慧である空の形の身体とその身体の(口語ではセムと呼ばれ、丁寧な言葉を使えばサッグにあたる)とが生じます。
 このように、この最後の二つの部門の修行によってなし遂げられるべきものは、非二元的至福と空のこの心あるいは智慧なのです。
 この世界の中で類比するものを挙げてみましょう。芽はそれ自身に似た因から、つまり種から生じなければなりません。それが全く似ていない因から生じることはできません。同様にしてこの修行の結果は、神とコンソートの身体の成就ですから、この結果を生じさせるためには同じような因、つまりその結果に類似した因を育てる、あるいは培う必要があります。
 次に修行の六部門の説明が逆の順序で続きます。
6.神とコンソートの身体を成就するためには、まず初めに非二元的至福と空の合一の瞑想的均衡(サマディ)に達しなければなりません。
 これが修行の集中部門に関係しているものです。
5.これに先立ち回想の修行の段階を成就しなければなりません。
4.回想(追憶)の段階が起こるためには、それに先立つ成就、つまりこの修行の部門の第四番目の「保持」の成就がなければなりません。
この修行によって、エネルギーを中央管の心臓のところで揺らぐことなく保持します。これが行なわれたときに初めて、トゥモの炎が燃え上がり、白いボーディチッタを溶かし下降させることができるようになるのです。
3.保持の段階を成就する前には、修行の第三の部門、生命の努力が先立って成就されなくてはなりません。エネルギーが両サイドの管を通るのを妨げることなくして、そしてそれを中央管に引き入れることなしには、エネルギーを保持することはできないのは明らかです。
2.&1. 最終的にこのエネルギーを中央管に引き入れるために、この修行の最初の二つの段階、すなわち個的集中と個的安定がなければりません。これらの目的は、このプロセスを可能にするためにエネルギーを調整することです。このように修行の最初の二つの部門の機能は、このエネルギーを行動に合わせた形にすること、つまり使いものになるようにすることです。もし瞑想修行によってエネルギーが実際に使えるような状態にならなければ、中央管に運び込むのは不可能なのです。
 この修行の最初の部門、「個的集中」の貴初の仕事は、五つの感覚的意識に結びついた活動エネルギーを中央管に引き入れることです。これがなされたときに初めてエネルギーを中央管に引き込み、それが両サイドの管を通るのを防ぐことができるのです。このすべては連続して行なわれなければなりません。
 五つの知覚的意識のエネルギーが中央管に入ったことを示す、十一のサインがありますが、これはあとで説明しましょう。また、エネルギーを中央管に運び込むプロセスには三つの主な段階があります。
・「入ること」(Skt.プラヴェーシャ)
 中央管にエネルギーが入ったというサインは、両鼻孔を通る息の勢いが同じ強さになることです。普通は息は左、または右鼻孔のどちらかをより強く通っているものです。
・とどまること。(Skt.アーラヤ)
 中央管にエネルギーがとどまっているというサインは、両鼻孔を通る息の流れが完全に止まり、腹部の動きがそれ以上起こらないこと、すなわち呼吸が止まることです。
・「溶解すること」(Skt.ウッターナ、ティム)
 エネルギーが中央管に溶解したサインには煙のような現われから始まって、クリアーライトに至るまでの一連のサインが含まれます。前に説明したこれらのサインは、それぞれの順序にしたがって現われます。
 次に来るのは、本釆の順序にしたがった修行の、六つの部門の非常に簡明な説明です。1.&2.初めの二つ、個的集中と個的安定は、ブッダの身体を得るようにつくられたものです。これがエネルギーを、中央管に引き込むためにエネルギーを訓練し調整するのです。
3.生命の努力(プラーナーヤーマ)の修行は、心の意識のエネルギーが両サイドの管に流れるのを防ぎ、それを中央管に引き入れるようにできています。
4.保持する修行は、中央管に引き入れたエネルギーが(管を)出たり入ったりして、揺れ動かないようにして保持するようにつくられています。
5.すでに成就した保持の修行をベースにして「回想(追憶)」の修行を行ない、そこで三種類のムドラーのいずれかと合一します。この修行はボーディチッタを溶かす、心的な熱の炎を燃え上がらせるようにつくられています。これが生殖器の先に降りることによって、自然にわき起こる喜びの経験を引き起こします。
6.修行の第六の部門、「集中」によってなし遂げられるのは「偉大なる合一」です。これは神とコンソートの空の形の身体と、最高不変の至福の成就と、それに続く合一によって行なわれます。修行の結果は偉大なる合一の成就です。

夜のヨーガと昼のヨーガとして知られている二種類のヨーガがあります。

◆夜のヨーガ
1.修行の場所
 夜のヨーガの修行を瞑想する場所は、暗くなければなりません。これは空の形の身体の生成に多くの利点があります。昔はこの修行をやっていたラマたちは、ほんのわずかな光でさえ差し込まない部屋に座る、という点について大変気を配ったものです。彼らがいる部屋には髪の毛の太さほどの割れ目さえなく、完全に真っ暗でした。このような修行はとりあえず行なうには非現実的に思われるかもしれませんが、それでもやはり、それに耳を傾け、これを心に刻むことは大切です。
2.座法
 この瞑想の間は一定の決まった姿勢をとります。左足を右のももに乗せ、右足をももに乗せ蓮華座を組みます。手はサマディのムドラーを組みます。つまり、左手を右手の下にして親指をつけ手のひらを上に向けて、ヘソから指幅四本分だけ下の位置に置きます。
 もう一つ別のやり方は、両手の親指を(それぞれの)手のひらにつけてそれそれギュッと握りしめて拳をつくり、それをももの上に置くやり方です。これは感覚的意識に結びついたエネルギーを、中央管に引き入れることに力点を置いているので、特に個的集中の修行に使われます。
3.実際の修行
 この時点では、実際の瞑想に関してかなり多様な伝統があります。
例えば、ある伝統においては心を空に向けよ、といいます。しかし一方では、ゲルツァプ・ジェはこの修行のポイントは、エネルギーを中央管に引き入れることなのだからこれはバカげている、と述べています。心を空に向けることによって、心を外に向けるのは明らかに何の益もないことです。
 わたしたちはこの瞑想を中央管の観想によって始めます。それから心を一点に集中させて空っぼの中央管、特に額の眉の間の点(Tib.ミン・ツァム)に焦点を合わせます。この点もやはり空に観想します。すでに触れたことですが、ミンツァムは眠りから覚めるときに滴がある場所であったことを添えておきましょう。

◆向上の十のサイン
 この修行に正しく励むならば、ある特定のサインが現われてきます。このサインには四つの夜のサインと六つの昼のサインがあります。
 四つの夜のサインはすでに説明されていますが、エネルギーを中央管に引き入れるときに起こります。
1.煙のようなサイン
2.蜃気楼のようなサイン
3.ホタルのようなサイン
4.バター・ランプのようなサイン
昼に起こる六つのサインは
1.火のサイン
2.月のようなサイン
3.太陽のようなサイン
4.ラーフのサイン。これは暗閤や薄暗さのようなもの。
5.稲妻のサイン
6.青い滴
 もし非常にうまく瞑想すればこういうサインが起こるのです。
 次の段階では、大変小さな黒い滴を中央管の眉の間の空間に観想します。その非常に小さな滴の中にコンソートを抱き「五つの確かさ」を備えた、カーラチァクラのサンボーガカーヤのような形をできる限りはっきりと観想する、あるいは想像します。しかしながらこの時点では、実際にブッダのサンボーガカーヤに出会うことはできないのですから、自分の想像の場で見られる姿は、実際のサンボーガカーヤではないことをはっきりと理解しなくてはなりません。それでもやはり、コンソートを抱いた神を、サンボーガカーヤのような形で観想するか、創り出すかするのです。

◆サンボーガカーヤのような形の五つの確かさ
 五つの確かさの第一は「時の確かさ」です。夜の四つのサインと昼の六つのサインが現われた後、[神とコンソートの]サンボーガカーヤのような形が観想され、見られることになります。別の言い方をすれば、サンボーガカーヤのような形の時は、十のサインすべてが径験された後の時なのです。
 五つの確かさの第二は「住まいの確かさ」で、神とコンソートが中央管に現われることを暗示しています。
 三つ目は「性質の確かさ」で、これは神とコンソートが粒子の集合体から成るのではなく、むしろ自分の心の現われであることの確かさなのです。
 四つ目の「身体の確かさ」は、生じる現われの確かさです。神とコンソートは、ヴァジラ・サットヴプ(ヴァジラダーラと同じものとしてのヴァジラ・サ・ノトヴァ)なのです。
 五つ目の「相の確かさ」は、神とコンソートが合一して抱き合って現われる確かさです。これが中央管の中に見られるべき神々の形なのです。

◆修行の六つの部門の役割
1.先程挙げた十のサインを経験し、それから十一番目、つまりたった今説明したばかりの神とコンソートの合ーのサインを成就するのは、修行の六つの部門の第一、「個的集中」のときです。つまり第一の部門の役割は、十一のサインのすべてを得ることということになります。
2.修行の第二の部門の「個的安定」は、六つの部門の第一によって達成されたものを安定させることです。最初の二つ、個的集中と個的安定という方法によって、このエネルギーを幾分使えるように、つまり行動に合わせて、実際に役に立つようにします。その結果としてエネルギーは自然に中央管に入るのです。
3.次の部門、「生命の努力」を修行し始めるようになるのはこの時点です。この言葉は字義どおりの訳であることを心に留めておいてください。すなわち「生命」はこの文脈においてはエネルギーを指しており、「努力」は両サイドの管をブロックすることだけでなく、エネルギーを中央管へ引き込むことも指しています。わたしたちが生命の努力と呼ばれるこの段階の修行に入り、すでに触れたヴァジラの復唱と壷のような瞑想という二つの修行を行なうのは、このエネルギーが実際に役に立つようになってからのことです。

(A)ヴァジラ復唱
 (すでに何度も触れましたが)完成の段階の修行の仕事は、十のエネルギー全部を中央管に引き入れ、それから心臓にある壊れることのない滴の中へ入れることです。この目的を実現するために、「ヴァジラ復唱」(Skt.ヴァジラジャーパ)と呼ばれる一種の瞑想、内的な状態があります。わたしたちはこの種の修行については多くの生の間聞いていません。
 このタントラの瞑想だけで、五つの主要なエネルギーのうちの四つまでは心臓に運ぶことができます。すなわち、「生命を支える」エネルギー、「下向きの浄化する」エネルギー、「火を伴う」エネルギー、そして「上向き」に動くエネルギーと、そして五つの副次的エネルギーです。主要なエネルギーの第五番目、行き渡るエネルギーは、心臓に引き入九るのが大変難しいものです。そうするためにはヨーギは、実際のコンソート、あるいはダーキニーと合一して瞑想しなければなりません。言い方を換えるならば、なぜ実際にこういう修行を行なう必要があるのかということの本当の理由は、その最後の「行き渡るエネルギー」を心臓に運ぶためなのです。
 ヴァジラ復唱のためには、音節、オーム・アー・フームの重要性を認識しなければなりません。このマントラに含まれていないマントラは一つもありません。これはすべてのマントラの王です。音節フームはヴァジラの身体の種であり、アーはヴァジラの声の種であり、フームはヴァジラの心の種です。実際の修行においては、エネルギーとマントラを離すことのできないもの、不可分のものとして観想します。
・入息して息あるいはエネルギーが入って来るとき、それをオームの性質として想像してください。すなわちオームが、息のエネルギー、もしくは風のエネルギーとともに引っ張り込まれるかのように想像するのです。
・入息の後に続くのは、息を保持する段階で、音節フームを運びます。
・出息は音節アーを運びます。
 以上が特にカーラチァクラの体系に従った、ヴァジラ復唱のごく短いプレゼンテーションであり、それはグヤサマージャのプレゼンテーションと幾分異なっています。このタントラの修行について聞き、そういった心の痕跡を得る、あるいはその簡単な理解を得るだけでも非常に益があります。

(B)壷のような瞑想
 壷のような瞑想の目的は、生命を支えるエネルギーと、下向きの浄化するエネルギーをともに心臓のセンターに引き込むことです。普通の人の場合は、生命を支えるエネルギーが鼻孔を通るように、下向きの浄化するエネルギーにも下方に同じような通路があります。この二つは一緒に動きますが、壷のような瞑想においては二つのエネルギーを一緒に(互いに向き合った二つのお椀が合わさるように)中央管に引き込み、そして中央管を通って心臓のセンターの中へ引き込むのです。
1.準備段階の修行
 では中央管を観想してください。(Skt.アヴァドゥーティ)中央管は生殖器の先から、軸のように身体の中央を通って走っています。(その色は外側が白、内側が赤です)。それは身体の内側にあり、少し前でなく後ろに寄っています。また中央を真っ直ぐに通って喉まで上がり、喉を貫き、頭頂に上がった後降りてきて、目の間に現われます。
 これがあなた方が瞑想において上の端を観想するやり方です。下の端はほんの少しヘソより下のところへ降りていくと想像します。
 右の管(Skt.ラサナー)は赤い色をしています。(P.60参照)その上の端は右鼻孔から現われ、中央管の下の端よりも約指一本分だけ低いところを走っています。
 この三つをできるだけはっきり観想してください。しばらくの間このようにして瞑想しましょう。
 さあ、次に観想の力で右の管を取り、ちょうど片方の袖をもう片方の袖に突っ込むように、左の管に挿入してください。この一方の管を他方に挿入するのは、ちょうどヘソの下で行なわれます。それから左手の薬指で左鼻孔をふさぎ、右鼻孔から入息します。そうしている間グル、ブッダ方、すべての菩薩の祝福を受けていると想像します。このようなやり方で入息しながら、祝福が右の管を通り、それに連れて右の管のいかなる欠点も浄化すると想像します。次にエネルギーは、下方のヘソの側にある小さなカーブに沿って左の管に送られます。十分に息を吸った後、できるだけ長く息を止め、肉体的にわずかでも不快感が起こる前に出息します。決して強く無理強いしないでください。
 もし実際に不快感を感じるくらいに息を止めてしまうと益になる代わりに健康を害することになります。ですから、繰り返しますが、息は快適に止められる間だけ止めるようにしましょう。
 次に右手の薬指で右鼻孔をふさぎます。そしてすべての怒りと憎しみを取り除いていると観想しながら、左の鼻孔から出息します。この過程を三回繰り返します。
 次に左の管が右の管に挿入されるところを観想します。それから、左鼻孔で入息します。エネルギーはキャンクマを通ってロマに入ります。息を右の管、ロマにできるだけ長く、ただし快適にできる間だけ保ちます。入息するときは前のようにグル、ブッダ方、そしてすべての菩薩方の祝福を受けていると想像します。それから右鼻孔を通って右の管を上がってくるエネルギーを出息します。そうしている間、あなたが持っているすべての執着と渇望が吐き出されると想像してください。左からの入息と右鼻孔からの出息、これも三回やらなければなりません。
 この瞑想の第三段階では、ロマとキャンクマの両方の先が、中央管の底の穴に挿入されると観想します。両鼻孔から入息して、次の過ちがないようにしなければなりません。
・音の過ち
 空気が通るのが聞こえないように、非常に穏やかに息をしなければなりません。
・非常に強く(無理に)息をする過ち
・散漫に息をする過ち
 入息が出息よりも長い、またはその逆の場合のことです。長さは均等にするべきです。

 両鼻孔から入息するときは、右鼻孔から入った息のエネルギーは右の管に行き、それと同時に左から入った息のエネルギーは左の管に入って行くと想像します。エネルギーは管を通ってヘソのところまで降りていき、中央管に入ってそれを満たします。前にやったように入息しながらグルとすべての菩薩方の祝福を受けていると想像します。同じようにできる限り保息します。そして両鼻孔から息を出しながら、エネルギーが中央管を通ってスポットライトが光線を空に送るように盾間から放出されると想像します。
 両鼻孔からの入息と保息、両鼻孔からの出息、これも三回行ないます。実際、両サイドの管(ロマとキャンクマ)による中央管の締めつけが多いために、エネルギーは中央管を通らないということを知っておかねぼなりません。もし中央管を通ることがあるとすれば、それは非常に大きな徳の力がということなのですが、普通の人にはそれが起こることはなく、観想の力によってそれが起こっていると想像します。
2.実際の修行
 壷のような瞑想の第一歩は、自分自身をカーラチァクラとして、非常にはっきりと観想することです。
 壷のような瞑想をするには二通りのやり方があります。一つは壷をヘソのセンターに関係させて観想するやり方で、もう一つは壷を心臓のセンターに関係させて観想するやり方です。そのどちらも正しいやり方ですが、もし心臓のところに壷を据えて瞑想できればそれが一番理想的なやり方です。といっても、初心者が壷のような瞑想を心臓のところで行なえば、生命を支える風がうまく働かないで、悟りを得る代わりに実際にエネルギーの混乱を引き起こす大変な危険性があります。ですから初心者にとっては、この瞑想をヘソのセンターに焦点を併せて行なう方が、より実際的で危険が少ないのです。それによって危険を避けるのです。
 この修行の次の段階は、音節ハムをヘソの位置に観想することです。
 この音節は自分自身の心の性質、自分自身の心の現われです。壷のような瞑想の役割は、身体上部からエネルギーを取って押さえつけ、身体の下部からエネルギーを取って引き上げることです。それは二つの椀が壷のように合わさったようなものです。
 実際の瞑想では、身体の上部からエネルギーを引き下げることによってこれを行ないます。これは非常に優しくスムーズにゆっくりとやらなければなりません。さもなければ、肩などの身体上部にエネルギーの乱れを生じる危険があります。
 低いエネルギーを引き上げるには、低いところにある穴をふさぎます。それからこのエネルギーを非常に優しくヘソのところまで引き上げます。ここでまた強く強調しなければなりませんが、これも穏やかにやらなければなりません。力ずくでエネルギーを頭頂から引き降ろすと、身体上部のエネルギーの流れを混乱させてしまい、きちんと放尿したり排便したりすることができなくなってしまいます。下部のシステム全体を乱してしまうのです。ですから優しくやらなければなりません。
 上の方のエネルギーを下に、下の方のエネルギーを上に一緒に引っ張ったら、吹にそれをヘソのセンターの回りに集中させて息をできるだけ長く、ここでもまた不快さを生じさせない限りにおいて保持します。
 初めのうちは息をそれほど長く保持することはできませんから、この修行をほんの短い間だけ行なって出息します。除々に保息の力は増してきます。そしてついには身体のあらゆるエネルギーがまず中央管に入り、そこにとどまり、そして最後に溶解します。これが修行の三段階です。(P.268 3参照)
 このレベルに達したら、病にかかって肉体的な不快感を経験することがあったとしても、この(中央管にエネルギーが入り、留まり、溶解する)プロセスを行なうことによって、簡単に自分でそれを取り除くことができます。
 カダムパのゲシェに、ゲシェ・ゴムパワという人がおりました。彼が(あるとき)壷のような瞑想をしておりますと、様々な徴候が現われました。もちろん彼の呼吸も完全に止まってしまいました。これを見た彼の弟子たちは大変悲しみました。「ああ、ラマが死んでしまった!」と思い、彼らは涙を流し、嘆き悲しみ始めました。そのときゲシェ・ゴムパワはどっと笑いながら瞑想から出てきて尋ねました。
「どうかしたのか?」
彼らは言いました。
「ええ、わたしたちはあなたが死んだと思ったんです!」
彼は答えました。
「連うんだよ。身体がちょっと気持ち悪く感じただけなんだよ…… 身体があまりいい感じがしなかったんで溶かしてしまったんだ!」
 以上が完成の段階で行なわれる壷のような瞑想の簡単な説明です。
この修行が少しでもできればそれは大変素晴らしいことです。しかし生成の段階の真の理解(悟り)を得るまでは、実際に完成の段階の理解を得ることは不可能です。それでもやはりほんの少しでも行なうならば、それはわたしたちの心の流れに有益な痕跡を刻むのでよいことなのです。
 完成の段階の、この二つのタントラの瞑想の目的と役割は、エネルギーを中央管に引き入れて、それを通して心臓のセンターへと引き込むことです。一度このエネルギーが中央管に引き入れられたならば、生命の努力の部門(プラーナーヤーマ)の役割は果たされたことになります。(P.276 3参照)
4.エネルギーを確固として中央管にとどまらせるようにすることは、修行の第三部門の役割ではありません。これはむしろ保持と呼ばれる次の段階の修行の目的です。エネルギーが確固として中央管にとどまる段階に達したら、次の段階への準備ができるのです。
5.修行の第五の部門は「回想(追憶)」と呼ばれます。この二つの段階は、長い間修行する必要があります。一つのことを一日だけ修行し、次の日には次の修行へと進む、ということはしません。この第五番目の修行の部門の性質は、トゥモの炎、あるいは火を起こす心的な熱のヨーガ、トゥモのヨーガです。
 あるとき、ガンポパがミラレパのところにやってきたときのことです。ミラレパはガンポパに何の瞑想をやっているのかと尋ねたので、ガンポパは説明しました。これに対してミラレパはこうコメントしました。
「ひと握りの砂を絞ってもバターは得られない。だから心の性質を理解したければ、わたしの修行、トゥモのヨーガの円錐の修行をやった方がいいぞ。このやり方なら、おまえは心の性質を理解するだろう。」
 トゥモの火を起こすこの修行を行なうと、頭頂にある白いボーディチッタが溶けて、中央管をずっと生殖器の先まで降りていき、そこで保持されます。完成の段階にかなり塾達していれば、白いボーディチッタを決して放出させることはありません(P.64 5参照)。生殖器の最先端にそれが降りてきたら、揺らがせず、いかなるものも放出することなく保持します。最初の不変の至福を経験し、身体の物質的な構成要素と様々な活動エネルギーが消耗され始めるのはこの時点なのです。
 この過程が始まると、瞑想の後の段階に進むまで続きます。
6.修行の最初の五つの部門という手段を使って、第六番目の、集中と呼ばれる部門が達成されます。[カーラチァクラ・ヨーガの第五と第六の部門に関するより詳しい説明は87頁35で行なわれます。]
 このプレゼンテーションは、ヴァジラパイラヴァ、グヤサマージャ、チァクラサンヴァラ、ヘーヴァジラ・タントラに見られるような一般的なアヌッタラヨーガ・タントラのプレゼンテーションとは違う、カーラチァクラ独自の体系です。こういった修行においてはこの身体はそのまま残り、この身体とは別の幻影の身体がヘーヴァジラあるいは考えられるだれでもよいのですが、そのものとして生じるのです。それから、この現在の集合体(蘊)とははっきりと別に生じる特別な幻影の身体として、解脱を成就するのです。一方カーラチァクラの体系においては、この物質的な身体は、活動エネルギーとともに除々に消耗されていくのです。

◆六つのエネルギーセンターおよび身体の物質的構成要素、活動エネルギー、白と赤のボーディチッタの滴が消耗され、菩薩の土台が得られるプロセス
 前にも触れましたが、サムサーラの根はエネルギーでありそれを消滅させることによって、カルマの根を消滅させるのです。また、前に述べたように、意識それ自体は対象と接触することはできません。意識が対象を把握し、それに関係づけられるのは、エネルギーとの結合という方法によってなのです。
 自分の身体の物質的構成要素等の消耗のゆるやかなプロセスの理解をさらに進めるために、エネルギーセンター、チァクラに戻りましょう:生殖器のセンター、ヘソのセンター、熱のセンター、喉のセンター、額のセンター、そしてウシュニーサまたは頭頂のセンターでしたね。次に続く瞑想の段階では、赤と白のボーディチッタをこれらのセンターを通して引くことになります。最終的には修行が進むにつれて、十の菩薩の土台を次々と成就していきます。といっても、カーラチァクラの体系においては菩薩の土台はあと二つあります。
 これらのエネルギーには、それぞれ三千六百の白い要素、白いボーディチッタがあります。この三千六百の滴の一つ一つに、三千六百の不変の至福が対応します。そしてこの三千六百の滴の一つ一つに身体の三千六百の物質的構成要素と消耗される、三千六百の活動エネルギーがついています。
1.この不変の至福に導く白いボーディチッタの滴は、まず一番低い生殖器のセンターに集まり、あるいはまとまり、それから除々に次に続くセンターに集まります。その集まる様子は凝乳をゆっくりとグラスの中に注ぎ入れるのに似ています。(何であれいかなる放出もなしに)三千六百の白いボーディチッタの滴を生殖器のセンターに保持すると、その結果として呼応する三千六百の不変の至福が起こり、身体の三千六百の物質的構成要素と三千六百の活動エネルギーの消耗を引き起こす解毒剤として働きます。これをなし遂げることによって、「とても喜びにあふれたもの」と「けがれなきもの」と呼ばれる菩薩の第一と第二の土台を得ることになります。
2.次に三千六百の白いボーディチッタの滴がヘソのセンターにまとまる、あるいは集まります。そしてその結果として再び三千六百の不変の至福が起こります。そしてこれがヘソのところで起こるとき、「光輝く者」と「光を放つ者」と呼ばれる第三と第四の菩薩の土台を成就します。
3.次に三千六百の白いボーディチッタの滴を心臓のセンターに集めます。前と同じように身体の三千六百の物質的構成要素と三千六百の活動エネルギーの解毒剤として働く三千六百の不変の至福が起こります
そしてこの手段によって「征服し難い者」と「現われる者」と呼ばれる、第五と第六の菩薩の土台を成就します。
4.「遠くに行った者」と「動かない者」と呼ばれる第七と第八の菩薩の土台は、このプロセスが喉のセンターで起こるときに達成されます。 5.「優れた知性」と「ダルマの雲」と呼ばれる第九と第十の菩薩の土台を達成する前に、額のところで同じようなプロセスが起こらなければなりません。
6.第十一と第十二の菩薩の土台は、頭頂のセンターでこのプロセスが完成された後に達成されます。
 全部で二万一千六百の白いボーディチッタ、二万一千六百の身体の物質的構成要素、そして二万一千六百の活動エネルギー(6センター×3600=21600)があります。
 この一番下から始まって上向きに上がりながら、センターに次々と白いボーディチッタを集めていくプロセスと同時に、この同じエネルギーセンターを通って生殖器に向かって次々と頭頂から降りてくる赤いボーディチッタの補足的な動きがあります。このとき三千六百セット[の赤い滴]が様々なエネルギーセンターを通って降りていきます。この上昇と下降のプロセスの結末は、これもやはり赤いボーディチッタを放出させなければ、最高不変の至福の経験となり、これと同時に二万一千六百の身体の物質的構成要素が消耗されます。白と赤のボーディチッタも身体の物質的な面ですから、これもこの時点で消えてしまいます。
 この時点で身体の物質的構成要素が完全に消耗されて、エネルギーと意議だけからなるカーラチァクラとコンソートを実現し「虹の身体」を得る隈り、このプロセスがポットや壷をミルクで満たすようなものだと考えることは誤りでしょう。
 さて、もう苦しみの土台として働いている物質的な身体を消滅するためには何をなさなければならないか、おわかりですね。もしこの物質的な身体を消耗し、あるいは消滅させたとしたら当然病の土台もなくなります。
 生成の段階の悟りをすでに得ていなければ、完成の段階の悟りは生じない、というのは真実です。前に述べました瞑想の様々な段階に関する説明は、明らかに完成の段階に関するものです。わたしたちはまだそれを修行するにはふさわしくありませんが、その段階を熟考し、異なる菩薩の土台を知っておくことはやはり益になるでしょう。わたしたちが仏性に向かって進むときの土台は、わたしたちが通過する各段階となります。これは自分が現在その途上にある旅の道しるべだと考えることができます。
 今自分が置かれている状況にいつまでもいるわけではないのです。もし修行を続けるなら、ついには菩薩となって、真っ直ぐにブッダへと向かうのです。ブッダやそのイメージを祭壇の上に見上げ、自分たちはこんな低いところにいるが、彼らははるか上の解脱とともにある存在であると見なして、つまりあたかもこの二者の間には何の関係もない、あるいは自分たちを隔てている大きな深遠があるかのように考えるのは間達いです。これは全く事実に反しています。わたしたちはブッダにつながっているのです。わたしたちは同じ道を歩んでいるのですから、自分の修行の頂点を極めたときには、わたしたちも上方にあるダルマの玉座に座っているでしょう。自分自身の修行によって仏性に到達することは確かに可能なことなのです。
 わたしたちは全員が修行するためにここにいます。この中で最も熱心に、最も忍耐を持って修行する人は、一番最初に完全な解脱を得るでしょう。そしてわたしたちのうち取り残されるものは取り残されるのです。
 解脱は熱心な忍耐によってなし遂げられるものだ、ということを理解しなければなりません。これについてよく考え、修行に対する勇気を鼓舞しなければなりません。
 もしあなたがタントラの「一日修行」をするなら、そのほとんどの時間を生成の段階の修行にあてた方がよいでしょう。そして一日の終わりに、完成の段階のためにいくらか時間を取りましょう。このようにすれば、心に大変重要な痕跡を刻む、洗練され完成されたタントラの修行をすることができるのです。

◆昼のヨーガ
 わたしたちに現在できる修行が何であれ、精いっぱい精進しましょう。
 今修行できないものも単に無視するのではなく、むしろこの生のうちに、もしくはいずれかの未来生で修行できるように祈りを捧げるべきです
 この熱望を抱いているうちに心をさらに浄化し、徳を積むように意図されている修行に専念しましょう。
 菩薩、シャーンティデーヴァは決して欺くことなく、非常に正直に直接的に教えを説くサキャ神賢を引用してこう言っています。
「虫でさえ仏性を有しており、それゆえ完全な解脱に達する能力を持っている。」
 もしこれが虫に関して真実であるなら、同様に仏性を与えられており、加えて害のあるものを認識して避け、恩恵のあるものに専心する能力を持っている人間が解脱に達する能力を確実に持っているのは言うまでもないことです。解脱は、わたしたちが修行において熱意と忍耐をひたすら持ち続けるなら、到達できる範囲にあるのです。
 シャーンティデーヴァはさらに、もし猟師、大工、きこりなど、ごく昔通の仕事をしている人が、この人生の比較的マイナーな目的のためにあれほどまでに努力を払い、熱と寒さの大きな苦難に耐えるのなら、完全な解脱を目指して奮閥しているわたしたちが、修行に伴う困難を背負うことなど間違いなくできるはずである、と述べています。そしてシャーンティデーヴァは修辞的な質問をします。
「なぜすべての魂を利するために完全な解脱を求めている君たちが、この苦難に耐えられないんだ?」と。
 夜のヨーガの簡単な説明は、すでに申し上げましたので、今度は昼のヨーガの説明に入りましょう。
1.修行の場所
 まず初めにわたしたちは、壁に囲まれているけれども屋根がなく、上が開いている所で瞑想します。太陽を背にして雪山や水の集まっている所が目に入らないようにし、そして風が顔に吹きつけないような方向に向かいます。
2.姿勢
 瞑想中に(自分がとる)身体の姿勢はヴァジラのポーズです。手はサマディのムドラーをつくって置くか、親指を内に入れて拳をぎゅっと握ります。姿勢の全外観は、前に夜のヨーガのために描写したのと同じです。(P.270参照)
3.実際の修行
 瞑想も夜のヨーガのために説明したのと同じものです。中央管の眉間のところに、神とコンソートの空の形の身体を観想します。
 瞑想の六つの部門もあります。今言った観想は、最初の段階「個的集中」(プラティアハラ)の段階で行なわれます。そして第二段階の「個的安定」(ディアーナ)の間に修行の第一部門で達成したものを安定させます。達成した第一部門の後に続く修行の五部門は、すべてただひたすらこの第一部門をさらに発展させ、増加させるためのものです。
4.全六部門の役割
 これから挙げていくものはすでにお教えして、皆さんにとってなじみ深くなったものですが、繰り返して聞いて(わたしたちの達続体に)心の痕跡を刻むことは役に立ちます。
1.&2.「個的集中」は、まず初めに額の開口部が位置している中央管に、空の身体を現わす修行であり、「個的安定」は強固(確固)と安定を生み出します。この修行の初めの二つの部門は、様々な活動エネルギーを実際に使えるようにします。
3.修行の第三段階、(生命の努力)は、両サイドの管、ロマとキャンクマをブロックし、エネルギーを中央管に留まらせる因を生じさせます。このようにヨーガの生命の努力の部門の主な修行は「下向きの浄化するエネルギー」と「生命を維持するエネルギー」を一緒に引っ張るようにつくられています。
 この修行は、オーム・アー・フームのマントラのヴァジラ復唱と、壷のような瞑想です。両方ともすでにご説明しました。
4.次の段階「保持」は、エネルギーを中央菅に引っ張り込んで、ある程度留まらせることができるようになってから起こります。保持部門の役割は、エネルギーの保持を中央管のちょうど真ん中で安定させること、そこに確固としてとどまるようにすることです。
5.「回想(追憶)」の部門では、三つのタイプのコンソート、文字どおりには「ムドラー」と呼ばれるもののうちの一つとの合一に入ります。
 行為のムドラー(アクション・ムドラー)は、実際の人間で、カルマによって自分のところにもたらされたコンソートです。智慧のムドラーは、瞑想者の心の中に観想された姿で、彼女との合一は観想の間に起こります。偉大なるムドラーはカーラチァクラのコンソート、ナツォク・ユムです。彼女の身体は空の形の身体です。あまり能力のない修行者は、行為のムドラーで合一に入り、中程度の能力を持った人は、智慧のムドラーで合一に入り、そして最も優れた能力を有する修行者は、偉大なるムドラー、ナツォク・ユムと合一に入ります。修行のこの段階でこの三つのタイプのコンソートのいずれかと合一している間に、白いボーディチッタが溶けて頭頂のセンターから生殖器の先まで降りて行き、そこで保持され、そしてこのようにして不変の至福を経験するのです。
 しかし智慧のムドラーでなく、行為のムドラーで合一に入る修行を行なうためには、いくつかの資格を持っていなければなりません。その資格とは、
(1)普通の道で心が訓練されていること
(2)エンパワーメントを完全に受けていること
(3)戒と誓約を守り続けていること
(4)男女の修行者が同レベルの悟りを得ていること。一方の悟りが他方よりも高いということがあってはなりません。例えば男性修行者のヨーギが「心の解放」と呼ばれる完成の段階のレベルを連成しているなら、彼のコンソートも同じレベルの悟りを得ていなければなりません。両者が同じ悟りに達している場合にこの修行をすると、男性修行者は女性修行者の悟りを増し、女性は男性の理解を増大させます。そして両者ともすぐに解脱に達します。
 この種の瞑想、つまり男性と女性が合一して修行する瞑想の目的を理解することは大変重要です。これはヴァジラダーラから来た大変深遠な修行です。ミラレパはこの決定的な点に関してこう言っています。
「修行するときは、管とエネルギーと滴を使って瞑想する。そしてしかるべきときに行為のムドラーで修行をしなければならない。
 しかしこれは完全に条件を満たした上で行なわれるべきものである。もしそうしないで早まってこの修行をすれば、地獄への転生へと導かれる。またそのような悪い行為の結果として空間が続く限り地獄にとどまるといわれている。」
 修行の回想部分については、説明されなければならないことが多くあります。それはあまりに広範に及んでいるので、実際これを説明するだけで何日もかけることもできます。この修行の一つの面はカーラチァクラのコンソート、ナツォク・ユムをじっと見つめることで、(これによって)自然にわき上がってくる至福とトゥモの炎が起こるのを経験します。これによって頭頂にある白いボーディチッタが溶け、今度はそれがエネルギーセンターを通って降りていきそこで四つの喜びを経験します。すなわち喜び、最高の喜び、途方もない喜び、そして自然にわき上がる喜びのことです。
 先行するのは修行の初めの五部門で、これを手段としてカーラチァクラ・ヨーガの第六部門、「集中」を達成することになります。
6.すべての現象の空(性)とその空を理解する心が一点に集中する合一が[カーラチァクラ・ヨーガの]第六部門を構成します。
 この修行部門を理解する第二の方法は、次のようになります。それは智慧という性質を持つコンソート、ナツォク・ユムという神聖なる形で現われるすべての現象の空と、カーラチァクラという神聖な形で現われる最高不変の至福との合一です。このように、コンソートに象徴される空を実現する智慧と、カーラチァクラ神に体現される最高不変の至福の心との合一もまた、このカーラチァクラのヨーガの「集中」部門と呼ばれます。
 神とコンソートの合一は、世俗のセックスのようなものではない、ということを心に留めておくべきです。これは方法と智慧の合一を象徴しており、カーラチァクラ神が教えの方法を、コンソート、ナツォク・ユムが教えの智慧の相を具現化しているのです。行為のムドラー、智慧のムドラー、偉大なるムドラーという三種類のコンソートのいずれかとの合一に入る結果、不変の至福が生じそしてそれはさらに増加されていきます。
 このカーラチァクラのヨーガの六部門の短い説明をもって、瞑想の様々な段階の提示を終わります。次に説明される主題はこのカーラチァクラの修行における完全な解脱の成就です。