Vol.24 「愚痴」(2000.3.18) 

 どうもっ! 沢木です。
 いやー、3月中旬というのは、去年といい今年といい、いろんな出来事が起きますねー
 まあ去年の「ハシシ復帰」というのは、私、ネットデビューして間もなかったし、彼とそれほど親しくなかったし(というより復帰してから仲良くなったんで)完全解脱(←すでに懐かしのあのグループは今?状態)の乙女達の方に興味があったんで、ショックとか何にもなかったんだけど。
 今年はなんじゃいな? まあ彼とは直に会ったことはないけど、メールで「終末チャット」のログとか送ってもらったり、オフ会が終わった後「どうだった?」とかいうメールをやりとりしたくらいぐらいで・・・・・・
 98年の8月のオフ会で会った人はある程度の人柄とか雰囲気とか知ってると思うから何だけど、コメントのしようがないねー。西村さんは日記でちょこっと触れてたけど。僕の地元の「名古屋タイムス」という新聞にも顔写真入りで記事があったけど、全文紹介するのもあれなんで要点だけ書くと、まず犯行声明文というのがあって、それには
「私の名前は門命半諮堂 私は神です 天帝も支配し神の頂点に立つ。さあ大いなる正義のはじまりです」
 という文と、ダビデの図形が書いてあったらしい。
 で警察は、精神鑑定を実施する方針らしい。

 まあ今はとりあえず捜査が進むのを見ていくしかないですね
 しかし、これでまた「20代・無職」で「パラサイトシングル」で「引きこもり」の男は犯罪者予備軍とかいう記事が巷にあふれそうだなー
 個人的には、「引きこもり」からの回復過程とカルト経験後の心の回復過程との類似点があるんじゃないかなー? とか思っていて、いろんな文献を読んで勉強とかしてたんだけど。

 ところで19日のオフ会、今回は沢木は不参加ですんで、みなさん盛り上がってくだ さい! 掲示板でその時の様子をお聞かせください!
 では! あー今日は集中できん!






Vol.23 「米本和広氏の問題提起について」(2000.3.7) 

 先日、発売された「教祖逮捕」(宝島社)についての感想をここで書いてもらいたいとある人から言われたため書くけど、論点が多すぎるので、今回は「共依存」と「自己責任」について。
 P56で
・みんなが変わることのない「絶対」を求めるから、「絶対者」や「唯一無二の真理を体現した組織」が次々と生まれてくる。「みんな」が「グル」をつくり、グルはみんなの期待に応えてグルらしく振舞う。「みんな」と「グル」は共依存の関係だ。
 と書いてあるけど、これは以前から自分も言っていたことなので・・・・
 オウムの責任は麻原だけじゃなく、それを形成した信徒一人一人の「心の現れ」にもある。
 ただ上田紀行氏や島田裕巳氏のように、「教祖もまた信徒との教団関係の中で、教祖らしく振舞うという意味でマインドコントロールされる」とは思わないけど。
 一連の事件について教祖に気に入られたい「弟子の暴走」とかいう言い方がされるけど、確かに一度決まったこと(ワークなど)に対して、弟子が奮闘する、その過程での暴走というか行き過ぎというかそういうものはあったとして、弟子自らが、極刑に結びつく犯罪を犯そうとは考えないと思うんだが、実際、今、被告席に座っている人ももともとそんな考え・思考なんかとは遠いところにいたと思うし(というかそう信じたい)あるいは「お前もヴァジラヤーナの修行をしろ!」と具体的な行為は示さず、それを弟子が「よしっ」と意気込んで拉致とかそういうことを行ったにしても、弟子は麻原の思惑の中で教義の実践として行ってるわけだから・・
 そういう意味で一連の事件の確信犯は麻原ただ一人でしょう、ただそのことと彼がそこにまで思いをはせる状態にまでしてしまった信徒一人一人の責任というものはまた別の問題であってそれは考えなければならない。

 でもこう言うと自虐的な現役信徒が「いや尊師は弟子を欲しているわけじゃない、ただ救済のためにわざわざ人間界にいるのだ」と言うかもしれんけど、カルマの悪い、魔境の(おっと僕も自虐的)元信徒が見ると

 とかいう物語に沿っいる信徒と、この両者の「共依存」としか言いようがないね、まあ上祐は「サンキュー アンド グッドバイ」と言ったけどどうだか。

 で、その「依存」の問題で

P68で
依存度が高まるとそれに反比例して思考力(批判力)が低下するからまやかしに気づかない。
 とあるが、その問題と同時に、教義の中に批判力を低下させるシステムがあることにも着目しなくてはならない(これはオウムや他のカルトだけじゃなく「宗教」そのものが内在している問題だが)批判力というのは、「疑問」から生まれると思うのだが、オウムというのは「疑念」というのはスヴァディスターナの詰まり、動物のカルマということでそれだけで「信仰」にとっては邪魔な対象ということでダー‐――メ!
 そういう思考をした自分が修行不足、真理のデータが足りない! と自己検閲する。また「決意」の中にも、「宗教論争をしないぞ!」「私は苦しみ、苦しみの生起、苦しみの滅尽、苦しみの滅尽に至る道をひたすら実践するんだ!」みたいなものもありましたからね。
 こう言うと西村さんが「信仰ってやっぱ馬鹿になることなのね」とか言われそうだけど、それには「我々は観念じゃなく智慧を磨く修行をしている」とかいうプライドをくすぐる言説が用意されてるんですね。
 で、そのプライドと批判力の喪失というのも関係あるのかもしれないですね、例えば現役の在家時代、在家だから中村 元さんや増谷文雄さんの本とか読めるんだけど(ホントはいかんかもしれんけど)当時はそれらの本もオウムを補完するような意味合いで読んでたし(今読み返せばこれが違うんだな)統一教会の桜田淳子騒動の時に、スティーブン・ハッサンの「マインドコントロールの恐怖」とかも読んで、ワイドショーの統一教会報道見てても「自分たちは違うな」とか思ってたし、オウム批判本にしても、江川さんの「救世主の野望」しか出てなかったし、それも教義中心でなかったからわりと簡単に流した記憶がありますね。

 ということで、僕の場合、マインドコントロールを否定すると、「じゃあ自覚的にだまされてた馬鹿」で話しは終わっちゃうですがね、まあかっこつけて「自由から逃走してた」とか言い訳できるんだけど、これについてはまた別の機会に。

 なんか話しが逸れてないか? で米本さんの本に話しを戻すと

P278の
・二元論の罠にいかにはまろうが、一つの道を選んだことには自己責任がある。その責任を考えれば、<なぜ入信を決断したか、あのときはどういうことに悩み、何を求めていたのか、なぜ私は周囲の批判に耳を傾けなかったのか、彼らはいかなる手を使って誘いこんだのか、被害者にどうやって責任を取ればいいのか、組織の責任と私の責任との関係についてはどう考えればいいのか、失った友達との信頼を回復するにはどうすればいいのか、など今後の人生を豊かにする教訓が生まれてくるだろう
 という意見には賛成というかそうしているつもりなんで(あくまでつもりなんでつっこまないでね)。

 でも、ちょっと弁護させてもらえば、「マインドコントロールされた! 騙された!」と言ってる人も別に上記のことを考えてないわけじゃないと思いますよ、ただ「マインドコントロール理論」を確立された科学的なものと信奉しすぎてないか? とは思うけど。あっ、でも光言社からマインドコントロール理論の批判本を出した人が、統一教会の裁判の証言に出てこないみたいだけどナンで? 西田さんは出てるのに 自信ないのかな?

最後に
・自分の意見と違うから排除する、異論の排除
・自分に不利なデータは否定する、情報の統制
とかするなら反カルトもやっぱカルト的なものを持ってるんじゃねーか?

 ということで、「宗教と依存心」「マインドコントロール」「大脳生理学」についても触れたかったのにできませんでした! 今回はこれまで。



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