(1990年)8月28日 阿蘇

(オウム三唱)
 おととい、卵供養という鶏が死んだ。これは不奇語に殺されたそうだ。この卵供養がなぜ死んだかというとヒロヒトに悪い習性を植え付けた。まあ、こう言うとシャモンの中ではヒロヒト、卵供養、不奇語という妙な名前が出てきて、わからないかもしれない。
 この卵供養と、それからヒロヒトというのは鶏である。そして不奇語というのは犬である。じゃあ、卵供養は不奇語(ヒロヒト)にどういう悪い習性を教えたのかと。それまでヒロヒトは丹のかすを食べ、卵を産み、その卵を、まあ、私に供養してたと。そして、2番目に来た鶏、これは、ちゃんと卵が供養できるようにということで、ホーリーネーム、卵供養という名前が与えられたと。ところが卵供養はヒロヒトに卵を割って、食べると、つまり自分で得た卵を自分で食べる習性を教えたと。そして、ヒロヒトはそのために卵は産むがそれを食べるようになったと。もちろん、私自体はカルマの法則を信じているから、卵を鶏から奪うことはしない。よって卵供養からもヒロヒトからも卵は上がってこなくなったと。そして、その悪い習性、つまり、布施、この布施の実践をさせなかった卵供養が不奇語に噛み殺されてしまったと。不奇語は富士の道場の周りをうろついていた、食事も得られないような徳のない犬である。よって、餓鬼のカルマ、動物のカルマという二つのカルマを持っていた訳だね。そして今回、卵供養を殺してしまったという殺生というカルマを積んでしまったと。卵供養は、相手に布施功徳を積ませないという、つまり、今マスコミが行なっているような、あるいは警察が行なっているような悪業を積んだがために、不奇語に殺されてしまったと。
 近頃カルマの返りが、すごく速くなってる。例えば、右翼の幹部が、オウム問題が起きて、オウムに罵倒を浴びせるようになって二人、心筋梗塞で死んだそうだ。カルマというものは必ず返る。そして、人はみんな死ぬ。それまで吠えていても、がなっていても必ず死ぬ。そして、死んだらその報いを受けなきゃなんない。その報いを済度することができるのはグルだけである。これは警察も済度できないし、天皇も済度できないし、国会議員も済度できない。済度できるのはグルだけである。もちろん、グルを超えるステージ、つまり、君たちが阿羅漢に到達し、そして多くの弟子達を出家させ、解脱させるという多くの功徳を積んだならば、現世涅槃するであろう。現世涅槃するならば、当然、君達の本質は空に到達するから、これは済度の必要がない。2番目。マハー・ニルヴァーナから次のニルヴァーナ、つまり、般涅槃、あるいは、中般涅槃という状態、この状態に至れるようなステージに到達したならば、同じように君達はグルの力なく−−そこに到達するまではグルの力は必要だけども−−死後、グルの力なく、空性、絶対自由、絶対幸福、絶対歓喜の状態に至れるから、これも問題無い。つまり、般涅槃、現世涅槃、中般涅槃、この三つのステージについては必要ないということになる。とことがその次のチョイニバルドーに到達する、つまり小般涅槃の状態に入るとどうなるかというと、これは君達の眼前にグルがいろいろな神々の形をとって登場する。よって君たちが、その報身のボディーに溶けこむ、グルの報身の意識状態に溶けこむ状態であるならば済度されるであろう。もし、そうでなければ済度されないであろうと。そして、そのチョイニバルドーで済度されない場合は、最後の色界バルドーに入ると。ここでも、グルは今度は変化身の形をとって君たちを済度するはずである。じゃあ、済度される者と、済度されない者は、どのような差があるのかといったら、例えば、夢に出てくる。あるいはパッと意識できるね、グルを意識できると。こういう人達は必ず済度されるはずである。そうでないものは済度されないはずである。
 ではなぜ、右翼は心筋梗塞で死んだのだろうかと。真理のエネルギーというものは光である。その光をシャットアウトする暴言を吐いたり、行為を取ったり、心を持ったりするとどうなるであろうかと。当然、その光をシャットアウトするために闇のエネルギーを発散することになる。それはそうだな。どうだ。そうするとまず、周りに発散する前に自分の周りが闇になっていく。どうだそれは。その自分の本質からアストラル、現象界へと降りる時は、自分自身も本質は光じゃないのか。どうだそれは。つまり、地獄へ落ちる者も本性には仏性が存在している。どうだそれは。ということはそれを遮断する訳だね。どうだ。闇のエネルギーによって。どうだ。そうするとコーザルとアストラルがブツ切りになる。なにがおこるか、これは。アストラルと現象界がブツチ切りになる。何が起きるか。どうだ。ショックが起きるような。当然。ショックが起きる事によって心筋梗塞が起きる訳だ。つまり私達の意識の本質は心臓に宿っている訳だから。そうだな。だから心筋梗塞で逝ったということは、彼らの業が結果を出したと。そして、その結果は何を意味しているかと言うと、地獄へ落ちたということになる。だって、地獄の本質は何かというと、闇じゃないのかと。どうだそれは。教典どおりであると。どうだ。
 じゃあ、なぜ右翼がそれだけ早くカルマを積んだのかというと−−被害者の会もカルマを積んでいるはずじゃないかと。何故右翼なのかと言ったら、右翼は、まず直接の利害関係にない。どうだそれは。であるに関わらず、まず上九、清流において暴力事件を起こした。どうだそれは。プラスアルファ、熊本では、いろいろ私達の活動を妨害している。どうだ。で、若干の威し、暴力もあっているみたいだけども。これをトータルすると身・口・意、三つの悪業が重なったことになる。どうだ。じゃ、次にカルマが落ちるのはどこだろうかといったら、これは警察である。どうだ。シャモンを捕まえ、殴る蹴るの暴行を働くと。どうだ。現にもう気の狂い出している警官もいるみたいだ。よだれを垂らして、感情的になって。これも地獄へ落ちるだろう。どうだ。
 結局、カルマの法則は歴然としている。どうだ。そして私達は死ぬんだという前提がある。どうだそれは。その死を避けることはできないと。どうだこれは。死を避けることができなければ、私達はその死に際して対応しなければならない。どうだそれは。死を前にして、例えばだ。これから君たちが針のむしろに十万年間、座り続けなきゃなんないとしようじゃないか。いいか。その前に君たちが異性との交わり、この快楽を十年間、受けることができたとしよう。どうだ君たちは。その後の十万年のことを考えたならば、十年間の快楽というものは楽しめるか、楽しめないか。ところがもし、無智であるならば、どうだ。つまり十万年間の針のむしろがないと考えてるならばどうだ。楽しめるか。楽しめないか。では君たちに聞こう。ここから、まず九州の高速道路へ乗って、次は関門海峡を越え、中国自動車道に乗ると。そして名神に入っていくと。そして東名に入ると。この道を選択して、道を知らない者が、ただひたすら、この道を進んだとしようじゃないか。何処に到達するか。東京へ到達する。しかし、この人は、この道を走りながら、私は到達しない。私は東京へ到達しないんだ。私は絶対に東京に到達しないんだと。私はそういうものをしんじない、と言って走り続けたとしよう。どうだ君たちは、その者は東京へ到達すると思うか到達しないと思うか。どうだ。返事をしろ!なぜ黙っているんだ、みんな。自分たちの答えが言えないような心の弱い状態なのか。どうだ。説法を聞きたくないんだったらやめる。どうするか。いいか。これと死とは同じだ。まず、例えば、九州自動車道を関門海峡に向って走るならば、当然、関門海峡に至るというのは判るだろう。どうだそれは。それが死だ。そののち、中国自動車道、あるいは名神、あるいは東名と乗って行けば、当然、東京に至る。どうだそれは。これと同じように私達が信じようと信じまいと中間状態は存在する。そして、身・口・意の悪業をなすならば必ず地獄に落ちる。身・口・意の善業をなすならば必ず天へ至る。そのうえに心を静める寂止の行、あるいは法の修行−−これは特殊な暝想だね――こういうものを実践していくならば、必ず色界、あるいは無色界に生まれ変る。あるいは最終の解脱をし、そしてマハー・ニルヴァーナへと到達する。これは信じようと信じまいと、その世界は存在している。では、なぜそう言えるかといったら、それは、今まで多くの聖者がそこへ到達しているからである。そして、ここにいる私もそれを知っているからである。そして現に、カルマの法則は存在してるじゃないか。それは今日の話の中の卵供養の話もそうだし、あるいは右翼の幹部が二人心筋梗塞で死んだという例も、そうであると。恐らく二人では済まないだろう。右翼の人間はもっと死ぬはずである。それだけではなくて警察官も狂うか死ぬかするはずである。というのは、これは真理に対する違反は狂うこと、あるいは死という形で必ず精算される。そして、真理にいったん闇という形で返した者を三悪取へ落ちたならば、なかなか這い上がってこれない。
 例えば動物班に無知なリーダーがいる。名前は避けよう。これが動物がわざと逃げ、動物が妊娠し、そして、子供が出てくると。それを喜んでると。君たちはどうだ。犬に生まれ変った動物が例えば六匹いたとして、この者が幸せだと思うか。不幸だと思うか。この者たちは真理を実践する事が出来るか。この者たちが出来るのは精々、悪業を積ませられないためにオリに入っているのがおちである。どうだそれは。
 そのようにして、一つ一つを正確に考え、何をなしたらどうなると、何をなさなかったらどうなるということを意識し、実践しなければならない。では君達が三悪趣の道を越え、そして人間、阿修羅、戯忘天界、梵天、光音天、そして無梵天、そして色究ぎょう天、無色界に入り、マハー・ニルヴァーナへ到達するためには、どうのような意識を持たなければならないか。何を実践しなきゃなんないか。どうだこれは。これは四つの聖なる土台、これを実践しなければならない。この四つの聖なる土台は、真理に到達するための絶対的四つの真理、四諦とも共通する、いやそれ以上に大切な実践である。そのまず第一は今、道場にいるステージの高い−−ステージの高いというのはマハー・ムドラー以上の大師を指す。ステージの高い者、あるいはクンダリニーヨーガの成就者でも揺れない、教学をしている大師を指す。大師といっても霊的体験だけで教学をしてないものはステージが高いとは言えない。よって、きちんと教学をなし、暝想がしっかりしている者、揺れない者、徳を積んでいる者、この人達に出来るだけ親しく接すると。そして自分の疑問と思っていることを聞くと。そして問題点を解決すると。これが第一番目、そして第二番目、そして、その聞いた教えによってものを考え、しっかりと自己の煩悩を見つめ、それを落としていくと。これは第三番目。それを実践すると。これは第四番目と。この四つの土台を繰り返し、繰り返し実践する者、これは必ず解脱する。そして、これは必ず苦しみから解放される。これは必ず絶対的自由・幸福・歓喜というものを得られる。そしてこれは必ず天才へと至ると。それは何故であろうかと。天才の条件を考えるならば、それはその人の意識状態が高い世界へいざなわれているからであると。そしてその高い世界の法、データというものは真理なんだということだ。それは例えば、ちょうど、毎日歌謡曲を歌って過ごしているものと、例えば毎日数学の勉強をしている者がいたとしようじゃないか。君たちはどう思うか。この二人が、例えば一年間それを続けたとして、どういう特徴が現れてくるか。一方は歌謡曲の歌詞を覚え、それがいつも出てくるだろう。どうだそれは。もう一方は数学の公式が出てき、数学に対する推察力が出てき、数学の力が増してくるだろう。どうだそれは。これと同じであると。一方は貪・瞋・癡、三つの煩悩の修習をしていると。これは私のものだ。あれも私のものだ。それは私のものと。そして、これを食べたい。あれを食べたい。それを食べたいと。異性と交わりたい。異性を独占したい。うんぬんと。権力が欲しい。云々と。楽したい。云々と。苦しみから逃げたい。云々と。こういう修習を日々行ない、一年、五年、十年、八十年と修習したと。この者が死んだらどうなるか。君たちは。この者の輪廻転生における意識、超潜在意識はどうなって行くと思うか。当然、食べたい。あるいは、これは私のものだ。あれも私のものだ。それは私のものだと。あるいは異性との交わり、異性の独占、あるいは権力の独占、あるいは、という形ですべてが貪・瞋・癡に結び付く。ではこの者たちの行き着く世界はどこだ。では逆にそうではなくて、まず高い世界を供養すると。そして貪りを離れる修習を行なうと。そして−−今回、F君という子が、まあ、逮捕された訳だけども、彼は非暴力によって逮捕されている。それはマンジュシュリーをかばうために逮捕された訳だが、そういう菩薩の修行を行ない、身を捨てようと絶えず意識してると。もう一人、マーナヴァも同じように、まあ、彼は無智のために警察官をかばおうとして逮捕された訳だけども、このような形でとにかく他のために生きようとしてると。そして、食についても絶えず厭逆を行ない、受ける時には神々を供養すると。そして周りには絶えず優しい言葉を語り、どのようにしたら救済が進むんだろうかと、どのようにしたら全ての魂が幸福になれるんだろうかと、どのようにしたら全ての魂がマハー・ニルヴァーナに到達するんだろうかと、教学し暝想していると、そして実践をしていると。性の交わりについても最終地点に到達し、そしてそれが本当に救済に結び付くまでは一切行なわないと。権力、あるいは地位に至っても同じであると、それが救済に必要ならば得るが、それ以外は必要ないと考え、ひたすら真理の実践を行なっている者がいたとしよう。この者が、一年、まずは一年じゃないね、君達にはつらいから。一日にしよう、いや、一時間にしよう。いや、一分だ。一分、五分、十分、一時間、そして十時間、一年、ちょっと飛びすぎたね。一日、五日、十日、一ヵ月、半年、一年、五年、十年、そして八十年と生き、死んだとしよう。この者の意識はどうなっていると思うか、君達は。どうだ。今のこの人間世界の人間の意識と同じだと思うか、君達は。当然、菩薩の意識になる、そうだな。ということはこの二つの意識、これが輪廻転生という場に置かれたとき、要するにこの肉体がなくなっても意識は残るわけだから、この意識だけになったとき、同じ転生をすると思うか。どうだ。ではだ、君達は今日からだれと交わればいいか。だれと話をすればいいか。まず徳が高くて教学ができてて暝想ステージが高いものとできるだけ話をして聞いていただく。どうだこれは。そして暇があれば説法テープを聴く。どうだそれは。そしてその説法テープにのっとり考える。どうだ。もちろん、この三つのステージにおいて、例えば教学をしてもわからないところが出てくるだろう。それは先程言ったとおり、徳が高く、暝想ステージのしっかりした、一生懸命徳を積んでらっしゃる、そして暝想ステージの高い者に接し、質問するべきである。どうだそれは。そして問題点を解決し、それを実践しようと努力する。どうだ。この四つ、つまり、徳の高い、暝想ステージの高い者と接する。第二番目に説法を聴く。第三番目にそれにのっとり、ものを考える。第四番目にその実践を行なう。この四つを繰り返し、繰り返し、行なうならば必ずや仏陀になるであろう。そして、ではだ、徳のない者と接し、否定的な話をし、諦め、現世も駄目だけども、ここも駄目だと言いながら生活を繰り返しているものが、ここにいたとしよう。この者たちに生じる魔というものは増大するであろうか減少するであろうか。どうだ。つまり、ここに病んでいる者があって、薬はあるにも関わらず、薬を飲まず、その病に最も悪い生活を続けると。この者は最終的には不死に至るであろうか、至らないであろうか。どうだ。同じようにここに真理があるのに真理を実践せず、自分の煩悩に負け、魔の修習を繰り返している者は最終的には真理から離脱するであろうか、しないであろうか、どうだ。よって、君達がなさなければならないことは四つの預流支である。四つの聖なる土台である。この四つの聖なる土台を繰り返し繰り返し実践するならば、必ず君達は五根を達成することが出来るであろう。それは何かというと、第一の帰依根である。帰依根とはこの四つの預流支を指す。つまり、徳の高い、暝想ステージの高い、教学のできた者と接する。そして、説法を多く聴き、その説法に基づき人生を考え、苦しみについて考え、そして、その実践を行なうという、この四つだ。そして、それを土台として、何をなせば幸福になるのか。逆に何をなせば不幸になるのか。そして未来において何をなせば幸福になるのか。何をなせば不幸になるのかを考え、その二つを遮断し、二つを努力すると。これが二正勤二正断であると。そして法の記憶を繰り返し繰り返し行なう。例えば煩悩の根本は七つであると。その七つの随眠について考え、それが例えば自分の身・口・意にどのような形で現れているかの分析を行なう。あるいは五つの蓋、あるいは五つの毒、あるいは三つの慢、このようなものについて検討し、日々、自己の言葉、行為、心をチェックする。そのためには繰り返し繰り返し記憶し、そして実践する。記憶し実践する。これを繰り返すと。これが念根である。そして暝想のとき、それに基づいて座り、そしてまず、思索すると。熟考すると。そして、それに対して検討すると。これを繰り返し煩悩を落として行くと。そして最終的には、大いなる空を体得し、空から識無辺、そして、有処無処、非想非非想、滅想受定という形のマハー・ニルヴァーナへと至る暝想ステージを上げて行くと。そして、そこで到達した絶対的な真理、パンニャ、智恵に基づきものを考え、そして、この生き方、これを確定すると。ではなぜ確定できるのかと。それは、例えば一流企業に就職すれば、あるいは一流の職業に就けば豊な生活が得られる。どうだこれは。それと同じように正しいものの考え方に立脚し、その法を学び、実践すれば、まず少なくとも高い世界に生まれ変る。どうだそれは。その高い世界に生まれ変るメリットと、一流の企業、あるいは一流の職業に就くメリットとではどちらが大きいと思うか君達は。それはなぜであるか。そこで受ける楽と期間とが問題にならないからである。そうだな。そして最終的には、そこから落ちたら終わりであるから、それに対しても無常と考え、そこを越え、そしてマハー・ニルヴァーナへと到達すると。実はその先があるんだけどもね。その先は何かというと菩薩というものは、そこへ到達できるのに到達しないで、全ての衆生を絶対自由、絶対幸福、絶対歓喜へと至らせるために輪廻転生を繰り返すと。しかし、まずは君たちは君たちの天秤で何をなしたら楽になるか、何をなしたら苦しみになるかを考え、まず楽になる方向に向かい、そして、そこへ到達すると。そののちに本当の意味での菩薩の発願をし、菩薩の修行を行なうと。これがすべての宗教のすべてである。つまり、キリスト教も、あるいはユダヤ教も、あるいはイスラム教も、あるいはヒナヤーナの仏教も、マハーヤーナの仏教も、タントラヴァジラヤーナの仏教も、あるいは神々を信仰する仏教も、他のものを信仰する仏教も、あ、宗教も、すべてこの中に包含するということだ。よってこれ以上の法は存在せず、これ以上の広大な法は存在しない。
 そして君達は、その法を今、実践できる類い稀なチャンスを得ている。このチャンスを得て、しっかりと努力精進しなさい。そして、揺れている者がいたら、徳のない者は決して話さない。なぜかというと、徳のない者のヴァイブレーションは、その揺れてる者の意識をいっそう揺らす。だからまず、徳のない者は、それを上に上げ、あの人が揺れていますから、どうぞ、フォローしてあげて下さいと、それが菩薩の修行である。いいね。なぜならば、例えば、ここに九割現世的な煩悩が混ざってて一割修行者のデータの入っている者が話をしたとするならば、どうだ君たち。九割は現世的な話だと思わないか。逆に九割修行者のデータが入っていて一割現世的なデータが入っている者が話したとしたら、どうだ君たち、九割は修行の話だと思わないか。この二人が話すのは当然結果が違ってくる。そうだな。はい、ではしっかりと修行しよう。
 いったん、ここでオウム三唱で締めくくり、こののち、あの、どうしても聞きたい質問があればそれを受け、そして終わりにしましょう。
(オウム三唱)