ヴァジラチッタ・ヴァンギーサ正悟師寄稿 第1回

教学の五つのメリットと二正勤二正断の実践


◆教学の五つのメリット1――正学

 今日は教学と二正勤二正断について話をしようと思います。
 まず、教学の五つのメリットということを取り上げたいと思います。
 まず教学の第一のメリット、これは「正学」。つまり「正しく学ぶ」ということです。わたしたちは、真理に巡り合う前、多くの誤謬見解というものを培ってきました。それがゆえに様々な苦しみが生じ、その苦しみの世界に転生する原因をつくってきたと言えます。
 しかし、教学によって、その邪悪見解、誤謬見解を取り払い、正しい見解に持っていくことができます。尊師は説法の中で、正見解に至る前に三つの実践があり、一つは慚愧、一つは正学――正しく学ぶ、それから不放逸、ということをお説きになっています。
 これからもわかるとおり、「正しく学ぶ」という段階がなければ、当然「正見解」には至らない、そして「正見解」に至らなければ、当然「正サマディ」には至らない、ということになります。ですから、この「正学」――正しく学ぶという教学は、わたしたちが真理を実践する上で絶対に欠かせないものである、ということが言えます。
 反対に、今「正見解」と「正サマディ」の話をしましたが、「誤謬見解を培ったならば、誤謬サマディに至る」と『道に関係づけられた経典』には載っています。
 一つ例を挙げるならば、例えば、ある人が「この世はお金である。すべてお金で解決するんだ。だからわたしは何としてでもお金を稼ぎ、そして物質的に豊かになるんだ」というような見解を抱いたとします。そして、その人はその見解を修習し、徹底的にその実践をなした。これは、誤謬見解から誤謬思惟、それから誤謬語、それからずっと続いて最終的には誤謬サマディに至ることになる。そして、自分の思念が――徳があればですが、すぐに現象化するような状態になる。
 しかし、これがなぜ誤謬かといったならば、死んだときにすべてが失われてしまい、自分の持っていた物質というのは、死後何ら持っていくことはできないからです。また、その人はその貪りのカルマゆえに、三悪趣に落ちなければならない。ゆえに、誤謬であると言えます。
 それでは、今の例で言うならば、真理の実践者は何をするのでしょうか。これは、ジャータカに出てくるようにするということになります。
 お父さん、お母さんが一生懸命富を稼いでいた。それで、お父さん、お母さんが亡くなったとき、その財産というのはどっと残っている。そこで到達真智運命魂は思う。「わたしの両親は来世にこの富を持っていくことはできなかった。じゃあ、わたしはこの富を来世に持っていけるようにしよう」と。それで到達真智運命魂は何をするかといったら、布施をするわけです。全部布施をしてしまう。それでその功徳を来世に持っていく、ということになります。
 これが正見解であり、先程の誤謬見解の例と相反する正見解の例と言えます。
 皆さんはこの辺の理論はわかるでしょう、徳の理論はね。これはなぜかといったならば、皆さんが教学をしているからにほかなりません。つまり、教学によって正しく学ぶ、この実践をしたならば、当然正見解が身に付き、その結果として正サマディに至れる、ということになります。
 だからまず、教学の第一のメリットというのは「正学」「正見解」である、と言えます。

◆教学の五つのメリット2――功徳の方向性を決める

 それでは第2番目のメリット。この辺はもう尊師のご説法を読めば出てくるところで、その復習にもなるけれども、「功徳の方向性を決める」ということがあります。
 これは、徳を積んでいる、功徳を積んでいるが、教学をしていない場合、どのような現象が生じるかと。なんとなくいいような状況が周りに生じるということになります。
 例えば、これはわたしの例だけども、わたしがオウム真理教に入信してからすぐのこと、バクティに励んだんですね。そのころは編集に人が必要だったので、そういうバクティに励みました。しかし、当時のわたしは教学ができてません。じゃあ、どういう現象が起きたかと言ったならば、例えば駅に行くと電車がすぐに来る。こういう現象がボンボン起きました。「ああなんかすごいな。絶対に電車を待つことはないな」と。
 しかし、それは要するに、わたしが教学ができてない証拠で、そういうつまらないところに徳を使っている証拠なんですね。別に駅に行って2分、3分待って、その間にマントラ唱えてもいいわけで、電車がすぐに来なくても構わないわけです。
 こういうふうに教学をしなかった場合、徳というのは漏れて、しょうもないところに使われてしまう。だから、しっかりと教学をしているならば、自分の功徳を使う方向が定められるということになります。
 例えば、「わたしは解脱・悟りに至りたいんだ」とするならば、その解脱・悟りの方に徳は使われる。「わたしは今のワークをうまくやりたい。また、それによって功徳を積みたい」ということになるならば、いい方向にワークや現象が回転していくことになります。だが、教学をしていなければ、それはできないということです。
 だから、2番目の教学のメリットというのは、「功徳の方向性を定める」ということになります。

◆教学の五つのメリット3――瞑想において雑念を静める

 教学の3番目のメリット。これは「瞑想において雑念を静める」ということがあると思います。
 以前シャンバラで、自分の瞑想体験として、アミターバの体験とか、ヴァジラパーニの体験とかの話をしたと思うんですが、あのときどういう修行をやっていたかと言ったならば、それほど変わった特殊な修行をやっていたわけではありません。ほとんどは決意なんです。
 その決意というのは、「決意」というテープがありまして、内容的には「欲如意足」に近いものです。それがほとんどの時間を占め、あとやっていたのが「喜・軽安覚支」、「性欲を滅する瞑想」、あと『真理相応』を1日1回読むというだけなんですね。もちろん究竟の瞑想はありましたけれど。それで、そうした形状界の体験ができたということなんです。
 実際、わたしたちが瞑想するとき、ものすごい雑念にとらわれることがある。そして、いい瞑想とは何かといったなら、「集中とコントロール」と尊師はおっしゃっています。だから、その雑念によって集中が妨げられる。そうするといい瞑想がなかなかできないということになる。じゃあ、この雑念を静めていく――まさに「静めていく」という感じだと思うけれども――とは何かと言ったならば、「真理のデータ」なんですね。
 だから、わたしたちが例えば煩悩的な方向に走っていったならば、その雑念にとらわれる。雑念で、例えば性欲のヴィジョンが出てきて、それにとらわれる。食欲のヴィジョンが出てきて、それにとらわれるということになります。
 ところが、真理のデータをしっかりと入れていたならば、そうしたものは、「わたしにとって本質的なものではない」という方向に自然と向いてくるんですね。というのは、わたしたちの本質が求めているものは真理であるから、だからそうした雑念にはとらわれなくなってくるわけです。
 よって、その教学のデータ、真理のデータを深く深く根付かせる。これによって雑念を静めることができる、ということです。
 これは、今「教学」と言いましたけれども、例えば「決意」、これは教学のエッセンスですし、「歌」、これも教学といっても過言ではありません。だから、決意とか歌を一生懸命修習することも、もちろん素晴らしいことだと思います。特に――わたしは実を言うと、26曲集はまともに歌詞を憶えていないという恥ずかしい状態にあるわけだけど――、しっかりと歌える人とかいますよね。わたしは、それは素晴らしいなと思います。
 ちょっと話がずれましたが、教学の3番目のメリットとしては「雑念を静める。そしていい瞑想状態に持っていく」ことだと言えます。

◆教学の五つのメリット4――スポットをずらす

 では、教学の4番目のメリット。これは、わたしは「スポットをずらす」という言葉を使うわけですが、「自己の煩悩をコントロールする、制御する」ということができるのではないかと思います。
 これは、一つ自分を例にして挙げるならば、わたしの中で優位なバルドの色というのは、赤、黄、緑です。要するに、赤と黄緑という、まさに阿修羅そのものですね。
 このバルドの特徴はといえば、赤というのは、綺麗な方は智性を表わし、濁ってくると性欲になる。黄色は、透明な方は意志を表わし、濁ってくると貪りになる。緑は、いい意味では調和、濁ってくると妥協――まさに動物のカルマになる、ということです。
 何らかの思念とか煩悩を受けて、例えば性欲が出てくる。そうした場合、例えば意図的に智性の部分にスポットをずらす。妥協的な心が出てきたら、赤い智性の部分にずらす。ただ、赤に集中しすぎると今度はラジャスになるから、今度は意図的に緑の調和の方に持っていく――とか、そういうことをやったりするわけですが、これは皆さんがバルドの色をわかっていなくても、別に問題はありません。
 例えば、「自分は今ちょっと貪りの心が出ているな」と思ったならば、供養の瞑想をしてみるとか、「今わたしはプライドに引っ掛かってるな、慢が出ているな」と思ったら、立位礼拝をしてみるとか。それは、教学によって対処の仕方がわかるわけです。
 だから、教学によって自分の状態を証智し、そしてその対応の仕方を教学によって考え、実践する。そうしたならば、自分の煩悩――もちろん本質的な捨断とか、煩悩からの解放に至るには難しいけれども――、一時的にその煩悩から脱却することはできるはずです。
 だから、わたしはこれを「スポットをずらす」って言っているわけです。スポットをずらすことによって、自分の煩悩的な状況を変えることができます。では、どうやって変えるのかといったら、これは教学をする。教学をして、しっかり真理のデータを根付かせていないと、とんでもないことをやってしまったりする、ということになります。
 だから、教学の4番目のメリットとしては、このようにスポットをずらすことによって煩悩を静めることが可能であるということです。

◆教学の五つのメリット5――サマディに至る

 では教学の5番目のメリット。これは「サマディに至る」。これは伝聞になります。これはマイトレーヤ元正大師から聞いたことです。
 アンダーグラウンド・サマディにマイトレーヤ元正大師が入りました。あのときの修行は何かといったら、教学、経行教学修行でした。経行と教学をやっていました。
 じゃあ「なんで教学でサマディに入れるのか」と聞いたんです。そうしたら、これは「教学に基づいて思索する。思索することによって、今度は思考が停止するんだ」という話でした。思考が停止して、それでサマディにドーッと入っていく。
 つまり、有熟考有吟味――初めに熟考と吟味の段階があって、それで様々な自分の要素について思索し、そうした思索によって、今度は思考が停止し、無熟考無吟味に入る。すなわち、第一静慮から第二静慮に入る。第二静慮になったら、第三静慮、第四静慮は早く進む――と、マイトレーヤ元正大師はおっしゃっていました。
 これは、ジュニアーナ・ヨーガ的というか――、テーラヴァーダ的と言ってもいいのかもしれません。まさに、最も危険性なく、サマディにスムーズに入れる方法だと思います。教学によってこうしたことができるということは、皆さんは覚えておいてもいいんじゃないかと思います。
 もちろん、マイトレーヤ元正大師のステージに至るのは、わたしたちには大変です――「大変です」って言っていいのかな。そういう機根のある方もいらっしゃるかもしれないけども。ただ、何生も何生も真理の実践をしていけば、決してできないことではありません。ですから、「わたしたちが教学、真理のデータを深く根付かせれば、サマディに入ることも可能だ」ということなんですね。
 はい、以上五つ。教学の五つのメリットを挙げてみました。もっと他にもあるかもしれませんが。
 もう一度繰り返しますと、1番目に正学、正しく学ぶ、正見解を培うということ。2番目に功徳の方向性を定める。3番目に煩悩を静める。4番目に自分の煩悩に対処する。まあ、3番目と4番目は近いですね。自分の煩悩に対処する方向を見つける。5番目にサマディに入るということです。これが、教学のメリットと言えます。
 ということで、皆さんの修行を進めるためにも、教学に励んでいただきたいと思います。

◆二正勤二正断は真理の教えのすべて

 次は、二正勤二正断について話をしたいと思います。
 この「二正勤二正断」という言い方がどのようにして生じたのかということは、意外に知られていないのかもしれません。一部の人しか知らない可能性がありましたので、ちょっとそれについて説明しましょう。
 仏教語では「四正勤」「四正断」という二つの言葉が出てきます。実は、どちらの方が原語から見ると正確な訳語なのかというと、「四正勤」の方が正確であると言えます。
 この「勤」というのは、「勤める」「勤め励む」「努力する」という漢字の意味があって、元のパーリ語は「パダーナ」、サンスクリット語は「プラダーナ」と、ホーリーネームで聞いたことのあるような単語が出てくるわけですけど、あれは「努力」という意味です。だから、「四正勤」という訳語の方が正しいと言えます。
 しかし、この「勤」という言葉を見た場合、「努力」「勤め励む」と。内容を見ると、善業について二つ、悪業について二つだから、「悪業についての努力」というと、何か悪業を努力するように感じる――そういう感覚を抱く可能性があるんです。
 だから、尊師はわかりやすくするために「二正勤二正断」と――つまり、善業は「勤」、勤め励んでどんどん進める。そして悪業は「断」つ。だから、二正勤二正断の方がわかりやすいだろう――ということで、そういう訳語になっています。
 だから、これは完全な意訳なんです。しかし、正確な翻訳よりも、意味合いがしっかりと伝わって実践することの方が大事ですから、「二正勤二正断」という意訳は“素晴らしい意訳”であると言えます。もちろん、直訳としては、皆さんもご存じのとおり、「四つの正しい努力」という訳語もあるわけです。
 実は、この「二正勤二正断」というのは、真理のすべての実践を表わしてると言えます。というのは、これを簡単に言うと、「善業をなしなさい、悪業を滅しなさい」ということですね。だから、これが実は真理のすべての体系、教えを含んでいる実践と言うことができます。
 本当かな、と考えてみるならば、例えばわたしたちが知っている真理の実践――、例えば、戒律を守る、布施功徳を積む、六波羅蜜、四預流支、七科三十七道品の実践、タントラの七つのプロセスの実践、四無量心の実践……様々あるわけだけども、これらは善業なのか悪業なのかといったならば、すべて善業と言うことができます。
 その前に、ここで「真理」「善」「悪」という言葉の定義を、まずしておかなければいけないわけですが、「真理」というのは皆さんもご存じのとおり、この苦しみの世界、無常で苦しみの世界から脱却し、高い世界に至る教え、と言うことができます。
 では「善」とは何かと言ったならば、わたしたちの今の意識状態から高い世界に至る行為・言葉・心の働き、このことを「善行」というわけです。
 では逆に「悪行」とは何かと言ったならば、わたしたちの意識を引き下げる行為・言葉・心の働きということになります。
 ですから、先程言った実践、例えば布施功徳、戒律を守ること、それから四預流支、六波羅蜜、七科三十七道品、タントラの七つのプロセス、それから四無量心の実践といったこういう実践は、わたしたちの意識を高い世界に至らせるわけだから、これは善行、徳を積む実践である、と言うことができます。だからこれは、二正勤二正断の「善業をなす」という部分に当たります。
 そして「悪業を滅する」というのは、懺悔をするとか、忍辱の実践といったこと。そういうことというのは、悪業を滅する方に入ります。
 だから、真理の実践というのは、実は単純に言うならば「善業をなしなさい、悪業を滅しなさい」しかない、と言えます。そして、その「善業をなしなさい、悪業を滅しなさい」という部分を、現在の時点と未来の時点に分けたのが二正勤二正断であって、つまり2×2で4になるということです。
 だから「真理」といった場合、わたしたちはそんなに難しく考える必要はありません。わたしたちは何をなせばいいのか、それは簡単であると。功徳を積むこと、悪業を滅すること、これ以外にないと言えます。

◆心によって決まる形状-容姿

 実は今日、動物園に行ってきました。というのは、近くに無料の小さな動物園があったので、ちょっと見てきたんです。そうしたら、いきなり衝撃を受けましてね。
 マントヒヒがいました。何をやってるかといったら、追っかけっこをしていて、檻の中をグルグルグルグル回っている。ただ回ってるんです。何匹かでね。それで、「これは何の意味があるんだろうか」と考えると、はっきり言って何の意味もない。「うーん、これは無智である」と。「やっぱり動物というのは、こういうのが楽しいんだろうか」と思って見ていたわけです。
 もっと考えさせられたのは、カメなんですね。そのカメは甲羅が厚いんです。甲羅が厚くて半円球の甲羅をしている。そのカメがひっくり返ってたんです。バタバタしてまして、元に戻るのに苦労していた。それでしばらく他のところを見てきたら、起き上がっていました。起き上がるところを見たかったんですが……。
 このカメは、なんでそんな甲羅を持っているかと言ったならば、すべては心の現われによって形状-容姿が決まるわけですから、つまり自己保全の心、嫌悪によってああいう甲羅ができるわけです。
 その自己保全、嫌悪の心が強ければ強いほど、大きな甲羅ができ、重い甲羅ができ、頑丈な甲羅ができる。しかし、この甲羅ゆえに、いったんひっくり返ったら苦しみを味わわなければいけない。そこで元に戻れなかったら死ぬこともあるわけですよね。だから、カメというのは、自己保全の心あるがゆえに苦しんでいるんだな、ということを考えたわけです。
 実を言うと、これは人ごとではありません。自と他の区別はないわけですから。つまり、わたしたちは過去世において、このカメだった可能性があります。そしてもちろん、今のわたしたちも真理の実践をしていなかったら――先程言った二正勤二正断の実践をしてなかったら――来世カメになる可能性もあるわけです。
 そして、このカメ自身はどうかと言ったならば、実際は心の中にはわたしたちと同じ如来蔵、つまり仏陀・覚者となる種子が備わっているはずなんです。無智なるがゆえに、そういうカメの形状-容姿を取っているけども、実際はそうではない。だから、これは決して人ごととは思えない――と言えます。
 だから、特にカメの場合、自己保全の心、無智や嫌悪等の心が、そうした形状をつくり出したものだと思いますが、そういう悪業をなした結果、そういうものに転生することもあるんだということです。
 しかし、逆にわたしたちが二正勤二正断の実践をし、しっかりと真理の実践――例えば最初に挙げた一つの例として、教学の実践と瞑想の実践をしているならば、わたしたちは高い世界に至ることができます。そして、皆さんがしっかりとサマディに入り、高い世界、特に形状界等の経験をしたならば、皆さんは自分の心に「ああ、こんなに綺麗な心があったんだ」ということに気付くはずです。
 そして、その綺麗な心、美しい心というのはかけがえもない。それは皆さんの内側にあるんです。そのときの状況、周りの光景というのは、光に満ち、音に満ち、非常に綺麗です。それはすべて皆さんの心の中にあり、その心が反映した世界なんです。
 そうした高い世界が、そして高い美しい心の状態が皆さんの内側にもある――ということを確信して、今後しっかりと修行とワークに頑張っていきましょう。