ヴァジラティクシュナー正悟師寄稿(※9月17日の第2回シヴァ大神祭の際の説法の一部を文章にしたものです)


●サマナの教学に足りないもの

 新しい教団の精神的改革には、ステージ昇格、戒律の設定、新しい修行システムと並んで、教学・論議があります。論議が智慧の離解脱と関係するという話をしたいと思います。
 前回のシヴァ大神祭の後、財施部を中心として何回か論議をやりました。題材は「カルマの法則」について。なぜ、なしたことが返ってくるのかについて、1対1で、一方が凡夫役、もう一方が導き手側という設定で凡夫に説明します。ところが、その結果大体凡夫側が勝ってしまいました。中には、話すのが得意ではないのか、それとも記憶修習が足りないのかわかりませんが、なかなかうまく話せない人もいました。また、法則を説ける人でも、確信がない話し方をしている。やはりこれは、教義を自分の体験等に当てはめて納得するというプロセスが進んでいないのではないかと感じました。

●論議の必要性

 教団ではシステム的な改革がかなり進みました。例えば光音天という修行場ができ、修行システムも確立しました。また、シヴァ大神祭のように、サマナが一同に会しているわけではありませんが、同じ時間を共有して意識を高めることができる環境が整ってきました。
 環境が整ってきたということは、ある意味で、上向のエネルギーに守られた環境が整ってきつつあると言えるでしょう。
 しかし、この状況が変わった場合どうなるのか。例えば悪いエネルギー状態の所に放り出された場合、どうなるだろうか。そういうときでも、自分自身を確立させるための教学が必要であり、そのための論議は行わなければなりません。

●教義を論理的に納得することの必要性

 人間には、感性と理性があります。理性というのは論理に基づいて考える。感性は雰囲気、あるいはエネルギーで感じて動く。感性の方が人を動かす力があると言えると思います。
 例えば「カルマの法則」はなぜ正しいと言えるのか、ということを考えた場合、理屈や論理で「こうだ」というより、感覚的に「真理の教えだから正しいんだ」と考える人はサマナの中でも少なくないでしょう。
 
 すると、「真理の教えだからカルマの法則は正しい」「真理の教えの中にカルマの法則はある」「カルマの法則は真理だから正しい」という風に論理が循環してしまいます。「あれ、ちょっとおかしいぞ」と思ったとしても、「いや、これは真理の教えだから間違っているはずはない。高弟たちも皆真理の実践をしているんだから、間違いない」と考えてしまいます。真理を実践できる場にいて、上向のエネルギーにある程度守られているなら、こういう考え方でもいいでしょう。
 しかし、危険なのは、真理を否定されるような状況に変わったときです。例えばエネルギーの悪い所に行ったり、真理を否定するデータを大量に入れられたり、あるいはちょっと激しいカルマ落としがあって、卑屈になったり落ち込んだりする。そういう精神状態のとき、それまで考えもしなかったような疑念が出てくることがあります。それによって、下向してしまった例をいくつか知っています。
 アレフ特有の教義に関する循環論理は、教団内にいて周りのエネルギー状態がいいときは通用します。そういう状況では、何も考えないでも済んでいたかもしれません。
 しかし、自分自身の体験に基づいて教義を一つ一つ理解していっているか。それによって自分自身の中での確信があるかどうかは重要なことです。どういう状態であったとしても、例えば、自分のエネルギー状態が低いとき、あるいはエネルギー状態が悪い所でも、自分の体験をもとにして、法則に対する確信を確立させることができるようになるには、教学したものを論理的に自分の中で納得させていく作業が必要です。
 我々が最終的に到達する段階では、エネルギーからも解放されなくてはなりません。その状態に至るまでの段階的な修行として、論議の修行を理解していただきたいと思います。

●論議の修行はマハームドラー成就に必要不可欠

 皆さんが望んでいるマハームドラーの成就。このマハームドラーの段階には、修行の段階として2段階あります。
 一つ目は、個人的に、教義に基づいて日々の生活において八正道を実践していく段階。次の段階で、その人の潜在的なカルマが顕現化させられ、煩悩を根こそぎ抜き取られる段階があります。この1段階目の修行を経ないと成就はしません。
 1段階目の修行とは、教義に基づいて日々の身・口・意の行ないを考えることから始まります。
 例えば、自分は周りに対して優しい言葉遣いをしているのだろうか。悪口を言っていないだろうか。自分自身が日々どういう行動パターンを取っているのかを、教義に照らし合わせて考え、どこが間違っていてどこが正しいかをよくよく考えてみる必要があります。そして、修正すべきだと思ったら、実践する機会において修正していく。そして、教義に基づいて反省して、日々の生活にフィードバックして、また反省して――という、循環をするわけです。それによって、自分に内在するたくさんのけがれを減らしていくことができます。
 こうした準備ができて、ある程度欠点が減った段階で、当人がなかなか気付かない傾向に光が当てられてカルマを落とされる、これがマハームドラーです。
 91年に教学システムができたとき、教学システムをすべて記憶し、完全に理解した者は3日間でマハームドラーの成就が可能となる。だから前段階として、しっかりと教学して、それを日々の実践の中で当てはめていかないといけない、というお話がありました。そのために論議の修行があると言えます。

●自分に経験があって初めて教義を理解できる

 皆さんは、ある意味でたくさんの教義を知っているかもしれません。しかし、本当の意味で理解できているのかと言ったならば、それは別でしょう。
 結局、魂がどのような形である現象を理解するのかと言えば、自分が内的・外的五感の意識によって経験しているものによってしか理解できないわけです。
 ですから、どんなに素晴らしい説法でも、自分にその経験がなければ理解できません。「猫に小判」になってしまう危険性があります。例えば、エネルギーが上昇してサハスラーラ・チァクラが崩壊する寸前になると、三つの中央管が浄化される。その中央管は前面に1本あって、前から3分2に1本あって……というような高度な教えを聴いたとしても、さっぱりわからないという人は多いでしょう。これは経験していないからわからないのであって、経験していればわかるわけです。
 経験していない部分については、今まだ理解できないというのは仕方がありません。それとは別に、皆さんが教学して知っていることを、自分の日常生活に当てはめて考えることができるかどうかが重要です。そのためには、もう一度教学に基づいて日々の生活を検討し、いろいろな局面において法則を当てはめて考えること。そして、自分の体験に基づいて、法則に対する確信を深めること。こういうことを目的として、論議を行なってください。
 そして、論議の修行はマハームドラーの準備の修行だということをしっかり認識して、真剣に頑張ってください。