「真理への道筋――帰依、布施、そして持戒」
(八八年五月二十九日 札幌にて語る)

◎帰依――魂を何に委ねるか

 今日の説法は、一応修行のベースとなるような、そして、あなた方に利益をもたらすようなことについて話したいと考えています。
 まず、修行に必要なものは何かといったら、信あるいは帰依ですね。そして、次に三つの布施があると。そして、十の戒めがあると。そして、三つの精神を鍛え上げる訓練があると。そして、三つの修行プロセスがあると。そして、十の瞑想プロセスがあると。そして、最後に真理があると。これが、一般的に大乗の仏教といわれている六つの極限を現代的に言い直した内容です。今日は、この中の帰依、三つの布施そして十戒について話そうかと思います。
 まず、帰依から入りましょう。
 いろいろな世界が、いろいろな条件によって構成されています。例えば、暴力のカルマのある人は、その一群を形成すると。これは地獄だね。例えば、貪りのカルマの強い人、絶えず物を求めている人。これは、餓鬼の世界を形成すると。真理を見つめようとしない生き方をしている生き物達。これは動物の世界を形成すると。そして、情のしがらみに引っ掛かっている生き物達。情の影響を受けないときは、正しく物が見られるんだけども、ひとたび愛情という障害物が目の前に現われたときに、それに影響される一群。これが人間です。そして、ある程度の功徳があり、しかし、まだ完全な状態ではないと。背景に闘争本能のある生き物達の集合体。これが阿修羅だね。だから、阿修羅を嫉妬の塊だと言っているわけだね。そして、一応は徳が満ちて、満足しきった状態ね。徳を使い果たしている状態。これがデーヴァ、天界だね。
 そして、帰依というものは、今の六道でもわかる通り、どの意識の世界に自分の魂を、自己の真我を委ねるのかと。これが帰依なんだよ、ね。

◎清らかな水の中へ――浄化される魂

 例えば、真理に帰依をするとしたら、その六道の背景にある、いや、それよりも高い世界に根差している教えというものに帰依するわけだから、当然帰依を続けていくうちに、真理の実践を続けていくうちに、あなた方の心、魂は浄化されるであろうと。これはちょうどね、水にたとえることができるんだね。ここに濁った水があると、ね。ここに色のついた水があると。ここに藻の生えた水があると、ね。ここに透明な水があると。例えば、この四つの水の存在している湖があるとして、そのどの湖の水をあなた方が飲むかと。あるいは、あなた方がどの湖で泳ぐかということとね、帰依というものとは全く同じであると考えたらよろしい。もちろん、私達人間は、決して魂が清らかだとは言えない。そして、周りを見ると、私達と同じようなカルマの人達がいるわけだから、それと真理とを比較した場合、初めは違和感がある。あるいはつらいことがあるかもしれない、ね。しかし、清らかな水に身を委ね、真理を実践している人達の話を聞き、そして、自分自身も少し実践してみて、自己の汚れというものを知って、もし真理に帰依することができたならば、確かに今まで慣れ親しんできた水、慣れている人間の世界というものは楽だけれども、私達に本当の喜び、本当の幸福を与えてくれるものではないということがわかるはずだ。つまり、帰依というものは、どの世界に没入するか、どの世界の水を飲むか、どの世界の水の中に浸りきるかということの意思表示、ね、そして試みなんだね。

◎煩悩を落とす――真理に対する帰依、そして布施

 例えば、ここに色の付いた水があって、その人は、その色の付いた水の中で生活していたとしよう。ところが、その人にある日迷いが生じ、そして、ドブ川の中に入ることが幸福なんだという誤った情報を得たとしよう。その人の魂はどうなるかな。色の付いた水というのは、物事を正確に映し出さないだけであるから、そう大した害はない。しかしね、ドブ川の水を飲むとしたら、それには、私達の体を害するものもたくさん入っているだろう。これが、間違った物に対する帰依ということなんだね。
 逆に、ここに広大な湖があったとして、その広大な湖が透明だったとしよう。そして、今まで色の付いた水の中で生活していた人がそこに入って、体を清めていくと。初めは自己の汚れがね、その透明な水に浸透して、自己の周りは若干汚れたように見える。しかし、広大な湖だから、その人の汚れくらいは簡単にぬぐい去ってくれると。そして、いつしか自分自身も、今まで付いていた色が抜けて透明になってしまうと。これが真理に対する帰依なんだ。そして、真理というものには、今私が話した通りね、あなた方の煩悩を一つずつ落としていく、押さえるんじゃないよ、落としていくプロセスが必ず含まれています。これが真理の教えであると。
 そうではなくて、あなた方の煩悩というものをね、一つずつ増やしていく教えがあるとしたら、それはあなた方を濁す、つまりドブ川の教えだということになる。そのどちらをあなた方が選択するか。これをね、釈迦牟尼は択法覚支と言っているんだね。そして、これは真理に到達する偉大な、七つの条件のうちの一つであると言っているわけだ。そして、今あなた方はここに、透明になるための、あなた方の魂を向上させるための機会に恵まれた。このチャンスをね、あなた方がものにできるか、あるいはものにできないかは、あなた方の過去世から現在に至るまで積み上げてきた、善業と悪業の結果であると考えたらよろしい。この帰依というものが完全にできた段階で、いや、正確に言うならば、帰依というものは実践だから、あなた方が最終の解脱をするまで、ね、帰依ができたとは言えないわけだけれども、少なくとも、つらいけども帰依をして、実践をしていこうと考えた段階で、第一ステージのね、布施の極限の修行に入っていくことになる。
 この布施の極限というのは何かというと、三つあるわけだね。まず、物質的な執着を落とすための、あなた方の持っている財産の布施をしなさいと。二つ目に、あなた方の心を柔軟にし、清めるための、他人に優しくする布施をしなさいと。三つ目に、あなた方が今生で、あるいは来世でも真理に巡る合えるように、真理を伝える布施をしなさいと。これが三つの布施だね。そして、この三つはあなた方に何を与えるかというと、真理として、あなた方を解脱に導くための堅固たる土台を与えることになるんだね。そして、この第一ステージが終了した段階で、第二ステージに入る。これは、今日から実践するだけでもあなた方に恩恵を与えるわけだから、この第二ステージの持戒について少し詳しく話したいと思います。

◎十戒――三つのカルマの浄化

 まず、これはヨーガにしろ、仏教にしろそうだけれども、十の戒め、その根本となっているものに、身・口・意の三つのカルマの浄化というものがあります。それは何かというと、まず、身のカルマを浄化するために、生き物を殺してはいけないよと。盗みを働いてはいけないよと。邪淫ね、つまり愛のないセックスをしてはいけないよと。口を浄化するための行為として、ウソをついてはいけないよ。必要のない言葉をしゃべってはいけないよ。悪口を言ってはいけないよ。人を仲たがいさせるような言葉を吐いてはいけないよという、四つの戒め。そして、心を浄化する訓練として、貪りを離れなさいよ。怒りを超越しなさいよ。そして真理を見極めなさい、真理を否定してはいけないよという三つの戒があります。これを合わせて十戒だと言っているんだね。さあ、この十戒は一見なぜ行なうかわからないね。そのように考えるかもしれない。しかし、これには深い深い意味合いがあるんだね。それについて今から話そう。

◎不殺生――与えられる幸福と優しさ

 まず、生き物達を殺すということは、あるいは生き物達をいじめるということは、そのとき心にはどういう働きが生じるだろうか。それは、自己を保存したい、あるいは自己のために他はどうでもいいんだという心が生じるだろう。それともすべての生き物が、あるいはすべての人達が幸福になってほしいという考え方が生じるだろうか。どちらですか。
信徒「前者の方だと思います。」
 そうだね。そして、類は友を呼ぶのたとえがあるけれども、生き物を殺す人達の、生き物を物としてしか考えられない人達の心は、そういう人達を集めます、周りに。それは、生き物を殺している人達を幸福にする行為だと思いますか、不幸にする行為だと思いますか。
信徒「不幸にします。」
 そうですね。つまり、殺生をしてはいけないよというのは、別に周りの生き物の生命を保全しなさいということだけではないね。それは、それを実践する人達を幸福にするという意味合いがあるわけだ。そして、それは優しさ、本当の意味での相手を安らがせる優しさというものを、あなた方に与えることになるだろう。これが第一の持戒。生き物を殺してはならないよという意味合いだ。つまり、生き物を殺すということは、だれを不幸にしているかというと、あなた方自身をね、不幸にしているんだということを理解しなければならない。

◎不偸盗――卑屈さと安定した心

 持戒の第二ステージ。盗みを働いてはいけないよと。これは仏教の流派によってもいろいろあるわけだ。少しくらいの盗みは働いてもいい。あるいは全く盗みを働いてはいけない。これはね、私は後者だと考えている。盗みを働くときの人の心というものは、卑屈さを作ると思いますか、それとも安定を作ると思いますか。
信徒「卑屈な心を作ると思います。」
 そうですね。卑屈さを作る。では、卑屈になった心の働きというものは、物をありのままに映し出すと思いますか、それとも、物をまちがって映し出すと思いますか。
信徒「まちがって映します。」
 そうですね。ということは、この盗みをしてはいけないよというのは、だれのために盗みをしてはいけないんですか。盗まれる人のために盗みをしてはいけないのか、それとも盗みをする人のために盗みをしてはいけないのか。どうですか。
信徒「盗みをする人です。」
 そうだね。盗みをする人のために盗みをしてはいけないよと。これが持戒の第二番目に来る不偸盗の戒、盗みをしてはいけないよという戒の背景にあるものです。

◎不邪淫――二つの意味合い

 では次、第三番目に来る邪淫の戒はどうだろうかと。快楽を貪ることは確かに楽しい。快楽は喜びである。快楽から私達が離れることはなかなか難しい。それはOKだね。しかし、エネルギーを漏らした後と、漏らす前とでは、肉体の状態、あるいは意志の強さ、意志の状態というのは、まるっきり別になるんだね。つまり、邪淫というものは精神を不安定にするものであって、安定させるものではない。本質的にはだよ。ところが、現代は逆のデータが入っているからね。つまり、ストレスがあるんだったら、漏らしてしまった方がいいというデータが入っているから、皆さんはそのデータに翻弄されながら生きている。だから本当はエネルギーを漏らすことによって、意志の力を含めて肉体も弱っているわけだけど、もう一つの正しくないデータによって、「ああ、ストレスから解放されたんだ」という安堵感を得てしまっていますね。
 この邪淫の戒については、出家修行者とそれから在家の修行者とでは、戒の意味合いが違うんだね。もし、出家の修行者で解脱を望む者がいたならば、決してエネルギーを漏らしてはいけない。もちろんタントラの修行だとか、ね、あるいは特別な修行によって、性エネルギーを使う方法はないことはないけれども、しかし、一般的な修行を実践する場合には、そのエネルギーを漏らしてはいけない。そして、在家の修行者の場合は、まあ、エネルギーを漏らすのは仕方がないと。しかし、そのときにね、心に卑屈さを作ってはいけないよと、ね。例えば、愛のないセックスをしたときにだ、そのときに、心というものは喜びに震えるだろうか。それともむなしくなるだろうか。どうですか。
信徒「むなしくなります。」
 むなしくなりますね。だから、在家の修行者は少なくとも愛を背景としたセックスをしなさいよと。これが、在家の邪淫の戒だね。そして、出家修行者の邪淫の戒は、先程言った通り、エネルギーを漏らすことによって、意志の力、肉体的な力が弱るわけだから、当然漏らしてはいけないよということになるわけだ。そして、この三つの戒を守る修行を実践するならば、肉体的なカルマというものは、行為のカルマというものは、徐々に徐々に消滅していきますよということになるわけだね。

◎四つの口の戒――微細な世界への影響

 口の戒には四つあると言ったね、私は。ウソをつくな。必要のない言葉をしゃべるな。そして、仲たがいをさせる言葉をしゃべるな。悪口を言うなと。この口の戒というものはね、一つはあなた方が生活している上において、周りがあなた方に正しい言葉を話しかけてくれる条件となる。もう一つは、これはね、ちょっと難しい話だけれども、この世というものは、この現象界、それから微細な世界、そして原因の世界という三つの世界ででき上がっているわけだけれども、その微細な世界の中に入り、その微細な世界を正確に理解することのできる条件を作ってくれるわけだ。
 この宇宙は三つのエネルギーで構成されています。それはラジャスというエネルギー、ね、ラジャス・プラーナだね。そしてタマスというエネルギー、タマス・プラーナだね。そしてサットヴァというエネルギー、サット・プラーナだね。この三つのエネルギーから成り立っています。そして、ラジャスは私達の煩悩を背景として、あるいは熱エネルギーを背景としているエネルギーであると。タマスはね、一見美しく見えるけども、愚鈍なエネルギーであると。それでサットヴァは、透明な光で、それはすべてをありのままに照らすエネルギーであると。この三つのエネルギーから構成されている。そして、私達のカルマというものは、この三つのエネルギーによってね、その果報を受けることができるわけだ。

◎不妄語――混沌からの脱出

 ウソをつくということは、ウソをつく背景にはね、自己を美しく見せたいと、あるいは自己をかばいたいという、そういう心の働きがあるわけだから、当然タマスのエネルギーが優位になる。そうすると、あなた方の周りはタマス優位の世界ができ上がる。これは混沌とした状態だから、あなた方の行為そのものが遅れるという結果を招く。
 はい、もう一つ。ウソをつくということはだよ、あなた方の周りに一枚磨りガラスを入れたような状態になるわけだから、周りから見てあなた方は美しく見えるかもしれない。しかし、中に入っているあなた方は、周りを正しく見ることができると思うか。どうですか。できないね。これが、ウソをつくカルマの恐怖だね。つまりウソによって固められた人の人生というものは、物事をありのままに見ることができないから、いずれ他人のウソによって、あるいは正しくない判断によって、人生を狂わせますよと、ね。これが、ウソをついてはいけないという戒の意味合いだ。

◎不綺語――エネルギーのロスを防ぐ

 では次に、なぜ綺語を発してはいけないか。なぜ必要のない言葉を発してはいけないか。インドの経典を見ると、聖者が何年間沈黙の行に入ったという記述がよくあります。私達は、行為によってエネルギーをロスしているわけだね。私達はしゃべることによって、エネルギーをロスしているわけだ。あるいは私達は心を動かすことによって、煩悩をかきたてることによってエネルギーをロスしているわけだ。もし、この三つの行が停止して、そして、エネルギーを保全することができたならばだ、私達は最もエネルギッシュな状態を作り上げることができる。しかし、必要のない、たわいのない言葉を発し続けるがために、私達はエネルギーをどんどんどんどん漏らしていく。そして、普通だったら当たり前であるはずの、正しく夢を見る、あるいは正しく未来を見る力ね、こういうものを失なっているんだね。
 はい、では一つ質問をしよう。先程、私は言葉というものと、それから微細な世界、オウムではアストラル世界と言っているけど、そのアストラル世界というものとが密接な関係があると言った。もし一つの言葉によって、一つの微細な世界が形成され、それが現象界に影響を与えたとしよう。その人が、例えばだよ、絶えず必要のない話をしていたとしたならば、その人のアストラル世界は、必要のあるもの、あるいは必要のないものどちらが優位に立つか、どうだ?
信徒「必要のないもの。」
 そうだね。そうすると、必要のないものが優位に立つということは、それは現象界に降りたとき、それは必要のあるものがあなたの周りにそろうか、それとも必要のないものがそろうか。
信徒「必要のないもの。」
 そうだね。これが綺語を発してはいけないよ、という真の意味合いだ。

◎不悪口・不両舌――恨み、反目を生まないために

 じゃあ、次だ。これは簡単だね。これは小学生並みの問題だ。
 悪口を言われて、「ああ、私は悪口を言われた。気分がいい」という人はここにいるか。もう、これはね、現世果報として、即返ってくるね。人の悪口を言ったら、必ず悪口を言い返されると、ね。これが悪口を言ってはいけない意味合いだ。もちろんアストラル、現象界という別の意味合いもあるけども、これは、もう悪口を言わないというのは、あなた方も当たり前のこととして受けとめてくれるだろう。
 じゃあ、次だ。ここに、あなた方の友人のAさんとBさんがいたとしようね。そして、AさんにはBさんの悪口を言い、BさんにはAさんの悪口を言ったと、ね。「Aさんが何々と言っていましたよ」と、Bさんに悪口を言う。Aさんには、「Bさんが何々と言っていましたよ」と悪口を言うと。もしこれをなしたならばだ、この二人は仲たがいをしてしまうだろう。しかしね、もしこれが発覚したとき、あなた方は、AさんとBさんに恨まれるだろうか。それとも感謝されるだろうか。
信徒「恨まれます。」
 そうだね。これが不両舌だね。仲たがいをさせる言葉を発してはいけないよという意味合いだ。
 じゃあ、もう一つだ。ここにAさんとBさんがいたとして、もともとは仲が良かったんだけども、ちょっとお互いがね、まだ未熟なるが故に仲たがいをしてしまったと。そして、例えばあなた方がだよ、Aさんに対して、「Bさんはあなたのことをこうこうこういうふうにして誉めていましたよ」と。あるいはAさんに対して、「Bさんはあなたをこうこうこういうふうにして誉めていましたよ」ということでね、仲を取り持ってあげたとしようじゃないか、ね。このとき、もしAさんとBさんが、あなた方の力によって自分達は仲直りできたんだということを知ったとき、そのときあなた方に対してね、恨みを持つだろうか、あるいは感謝するだろうか。
信徒「感謝する。」
 感謝するだろうね。これが不両舌の裏側にあるものだ。
◎心の三つの戒――貪・瞋・癡を超える

 そして最後に、心の戒については三つあります。まず、貪りが多ければ多いほど、私達は苦悩するだろうか。それとも貪りが多ければ多いほど、私達は楽な生き方ができるだろうか。どうですか。
信徒「苦悩する。」
 そうですね。これが貪りを離れなければならないゆえんです。
 では、真に怒り狂うと、このとき私達はエネルギーを消費するか、それともエネルギーを蓄えている状態であるか。どうですか。
信徒「蓄えている状態。」
 怒り狂った状態がですよ、暴れ回って。
信徒「蓄えていない状態です。」
 蓄えていないでしょう。これをね、瞋恚というんだね。瞋恚というのは、普通のカーッとくる状態じゃないんだよ。怒り狂うという状態なんだね。この不瞋恚は、怒りを越えなさいよという意味合いなんだね。
 じゃあ、先程のウソと関係があるけれども、ね、これは一番初めに話した帰依と関係があるけれども、ここに真理というものがあって、もし私達がその真理というものを否定し、正しくないものに、一時的な結果のために帰依したとしたら、それは私達の輪廻転生をね、あるいは私達の今後の人生をだ、狂わせると思うか、それとも狂わせないと思うか。
信徒「輪廻転生を狂わせます。」
 そうだね。私達の輪廻転生を狂わせるわけだ。ということは、この十個の戒めというものは、私達に恩恵を与えるものであって、決して害を与えるものではない。どうだ、それは。つまり、私達はこの十個の戒めを実践することによって、恩恵こそ得ることができるけども、損失は何一つとしてないわけだ。
 さあ、今日、この話を聞いたあなた方も、この十個の戒めの実践をやってほしい、ね。これはオウム真理教に帰依をする、あるいは私に帰依をする、しないということとは関係がない。これはあなた方に大きな恩恵を与えてくれるだろう。そして、オウム真理教の諸君は、その段階ができた次のステップとして、意志の強化、ね、三つ目の意志の強化ね。そして、三つの精進。そして十の瞑想プロセス。そして解脱というプロセスを歩いていくことになるだろう。はい、ではここで、質疑応答に入ります。