四如意足と神々の思索
(89/5/8 直弟子用説法 於・富士山総本部)

◎まず、欲に始まる

 今日は、神通力を付けるための四つの根本についてね、話をしたいと思います。この四つの根本、四つの根っこ、四つのベース、これを仏典では四神足、四つの神の足ね、あるいは四如意足――如意というのは意のままにという意味だね――というふうに表現されている。
 で、これは『阿含経』では、その現象としてどういうことが起きるとかいうことよりも、まあ上っ面をサッとしかね、書いてないわけだけども、実際はものすごく修行者にとって大切な内容が、その深い意味合いとしてあるわけだね。
 で、この四つの神足を修習するならば――修習というのは訓練――するならば、確実に神通力を得ることができる。
 さあ、いよいよ神通力の話だね。
 その四つとは何かというとね、「欲」、まず欲に関する神足、ね。そして、「勧」これは進めるという、要するに修行に励むという意味のね、第二番目の神足と。そして「心」、心の神足と。そして第四番目が思索をね、するための神足と。
 なぜこの順番で、ね、如意足が展開されるか、わかるか。簡単に説明するならば、まずその欲というのは、とにかく自分は神通力を身につけたいんだ、身につけたいんだ、身につけたいんだと思う心と、ね。二番目はそれをひたすら修行すると。三番目は、心を安定させると。四番目は、そういう神足について、神通について思索すると。

◎如意足の順、その意味は

 はい。では、S、どうしてだ。どうしてこの順番で並んでるのか。じゃあね、考えて。S、それから、ええ、K、それからV、P、ね、それからTと。この五人に聞こう。だれでも構わないからこうだと思うのを答えてくれ、一人ずつ。ちゃんとマイクを回してね。

(S)えっとまず――やっぱり順番についてはわかりません。
(K)まず何で、欲が先に来るかというと、当然、これは解脱でもそうですけども、とにかく自分はそれを身につけるんだということが根本に来るんではないかと。これは何でもそうですけども、解脱はしたいんだと。それから修行はしたいんだと。そういうものがベースに来ると。
 次に、当然それに対しての習練方法とか修行方法があるわけですから、それにひたすら励むと。しかし、それもある程度限界があるというか。それはなぜかというと、当然心が透明でないと、神通力というのは神の力ですから、自分の中にいろんな煩悩とかそういうものがあると、心が透明じゃないと、いろんな神通力が付いてこないと。だから、当然心を磨かなきゃいけないと。そのためには、いろんなことをジュニアーナ・ヨーガ的な考え方で思索をし、よく考えてそういう煩悩というものを落としていくと。こういう順番になるんではないかと思います。
(V)えっと、Kとほとんど変わらないんですが、考えてみると「起承転結」に近いような気がします。まず欲と。身につけたいと思うという、意志することというのが最初の「起」と。起こるということが来まして、それを受けるものとして修行という実践が来ると。それで、ただ実践しているだけではなかなか結果が出ないと。神通というのはどうして付くかというと、自分が自分の、ある程度煩悩から解き放たれ、透明になった状態になって、そして心が安定して解脱という状態が得られたときに初めて付くものだと。それで、このただ修行していくという受けがあって、それでここで起承転結の「転」になって換わって、心が安定する神通が付くという、一つのレベルがあると。それで最後の思索というのは、ラージャ・ヨーガ、クンダリニー・ヨーガの後のマハー・ムドラー、ジュニアーナ・ヨーガのプロセスを見てもわかるとおり、その後に思索というプロセスが入ると。それで神通はかなり安定する。つまり結末に向かうのではないかという感じがしました。
(P)まず神通というのは、神に通じる道であるということで、以前尊師が説法で言われたように、そこで必要とされるものは、功徳とそして瞑想の修行であるということですから、まずは求道心を背景として修行にひたすら励む。そして、煩悩を落として心を成熟させると。そして、瞑想による深い思索というのが必要とされるというために、このプロセスをたどるんではないかと思います。
(T)まず、神通について思索するためには、心が安定してないとできないと。で、心を安定させるためには、心の修行、これに入るための身の行ないっていうか、行、そういった身体からの修行をする方が、心が安定しやすいだろうと。で、まず、そういう身体の修行をするためには、最初にそういう「する」という意識、意志というか、欲というものがなければならないと。
 ですからその逆にまず、自分自身が神通を身につけたいという強い動機付けというか、そういう気持ち、欲がまずあって、そして修行、いわゆる行動というか、身の行に入って、で、これを通して心が安定してくると。で、心が安定してきて初めて、実際に正確な思惟ができるようになると。思索ができるようになると。そのことによって初めて、神に至る道の神通が付くというふうに思います。

◎心の絶対的平安が決め手

 だいたいいいと思うね。ただその三番から四番目のプロセス、これは特に大切なプロセスであると。なぜだろうか。それはね、神通に対する綜制の時間というのは、先程も言ったとおり、二時間とか初めのうちは三時間とかかかるわけだよ。慣れてきたらそれが当たり前になるわけだけど。いいかな、まず。
 で、その例えば神通の源というのは、いろんな神秘体験なんだね。例えば、光がずっと見え続け、いきなりバッーと目の前が明るくなって、ね、それはものすごく眩い光であると。ところが心はどうなると思うか、それに対して。もし寂静の状態でないと、とらわれたり、あるいは恐怖したりするんだね。特にわたしの経験からいくと、恐怖の方が強いね。とらわれるときというのは、「あっ、来たぞ。これがどうなるんだ」っていう期待感。あるいは恐怖。
 そうすると恐怖するということ、あるいは期待感ということは、心がどうだろうか。乱れた状態だろうか、それとも集中した状態だろうかと。当然、乱れている状態なんだね。
 今から二千五百年前、なぜ釈迦牟尼の教団があれだけの神通力者を有したかと。それは解脱をしていたからであると。では、何の解脱をしていたのかと。それは心解脱、心の解脱をしていたからであると。
 なぜ心の解脱をすると神通が生じるんだと。別に心の解脱をしたから神通が生じるわけではない。心の解脱をすることによって、綜制の技術、例えば思索によって、あるいは集中によって得る神通があるわけだけど、その技術というものを身につけることができるんだ。そしてその技術は完璧であると、ね。
 要するに、最後に落ち着くのは、解脱をしているかどうかなんだよ。最後に落ち着くのは、心が絶対的な平安を得てるかどうかなんだね。その絶対的な平安というのは、いかなる身体に、あるいはいかなる心に、ね、あるいはいかなる感覚に変化が起きたとしても、それに対してじっと集中し続けられると。一切の心の動揺なく集中し続けられると。わかるかな。

◎真理を背景として神通を持つ

 そして、この四つの修習。それからね、あと先ほど言った二番目の瞑想修行の実践の準備として、身・口・意を浄化すると。この三つの修行、これを行なうならば、あなた方は間違いなく神通力者になれよう。
 いいか、みんなよく聞きなさいよ。解脱さえしてしまえばそんなに難しいことではない。だからまず早く解脱をすると。
 そして解脱をした大師は、次に何を修習するかといったら、この四つの神足を修習しなさい。そのためには絶対的な心の平安を得なければならない。集中し続ける時間、心の平安をもとに集中し続ける時間を、できるだけ長く行なう。そして、その修習ができたならば、それをなした人はすべて神通力者となる。
 そして、今わたしが考えている神通力というのは、一般的に夢といわれているような神通力、これをやはりね、少なくとも二年くらいの間には多くの大師方に得てほしいと思います。
 そのためには、日々のワークに集中すると。あとはザンゲに集中すると。あとはツァンダリーに集中すると。そして暇があれば、とにかく瞑想したい、瞑想したいと。高い世界の瞑想をしたいと。大きな瞑想をしたいと、それを思い続ける。でなかったら、わたしたちがだよ、わざわざ現世を捨てて出家した意味がない。
 絶対的な真理を悟り、その真理を背景として絶対的な神通を持ち、その神通の世界で遊ぶ。そして、その神通の世界で遊ぶ、その遊びそのものが救済につながると、ね。そして、それと同時に功徳の一環として現世的な救済を行なう。これがオウム真理教の、そしてシヴァ大神の示唆されている教団なんだから、それを意識してやるようにしよう。

◎速いスピード、神々の思索と経験

 ところでだ、P、神の五十年が、人間の一日に相当すると。そして、それが五百年続く。これは四天王衆天の期間だったよね。これはどういう意味だかわかるか。

(P)人間の世界に比べて、煩悩が、煩悩というか、支配されるカルマがより安定した状態であるということ……。

 はい。一つ君たちに聞きたいんだ。神と――これは今までわたしが経験していたものというよりも、一般的仏教観を覆す見解だから、よく検討してほしいんだけどもね――神と人間の思索のスピード、これはどちらの方が速いと思うか、遅いと思うか。神の方が速い。そのとおりだね。ということは同じ一日の中で、神というものはどうだ、人間の一日と同じ経験をすると思うか、それとももっと多くの経験をすると思うか。

(弟子たち)多くの経験。

 そしてすべては心の働きだから、どうなると思うか。神の世界の一日の周期というものは、人間の世界の一日の周期に比べて速いと思うか、遅いと思うか。速い、そのとおりだね。つまりどういうことかというと、四天王衆天において、神の五十年これが人間の一日に当たるんだよ。じゃあ、これはいったいどういう意味だといったら、神々の世界から見ると、人間の世界は止まっているように見えるんだね。
 そして、ポイントはここだよ。これは、神の世界のある段階まで通用する世界であると。というのは、天界には二つあるよね。天界というか上の世界には。一つは、地天。もう一つは空天といわれると。ただこの地天、空天という言葉も実際は正しくなくて、欲天と色天という天界があると。そうすると、欲天というのは人間の一日に対応する五十年間のうちに欲望さえ満足させればいいと、ね。ところが色天というのはどうだ。そこに欲望は存在しているかといったら、生命に対する欲望しかない。

◎幸福を与えない、愚鈍・邪悪なイメージ

 実は、前生のある一生で、これはね、何カルパか前の生なんだけども、わたしは十人の弟子を持ってたことがあるんだよ。それは、今ここにいるTとか、Kとかね、まあ他の大師方の一部を含めて十人の弟子がいたと。そしてその十人の見ている前で、いったんわたしは肉体を離れた経験があるんだね。そしてわたしは、高い世界へと飛翔しようとした。その途端、その周りの空間がストップしたんだよ。なぜストップしたかというと先程言った欲天の、兜率天に生まれ変わるための生だったからだ。そこで、わたしはまた思索した。なぜだと。そうかと。神の思索のスピード、神の知的なスピードね、これと人間の思索のスピードを比較するならば、当然神のスピードの方が速いと。
 例えば、オウム真理教でいろいろ問題が起きたとき、わたしがその中に加わると一気にスピードが出てくるのも同じじゃないかと。時の流れが変わるんだなと。ということはどうだ。行為として愚鈍だということは、これは下の世界を表わしていると思うか、上の世界を表わしていると思うか。

(弟子たち)下の世界。

 というこはタマスそのものは、その人を幸福にすると思うか、しないと思うか。

(弟子たち)幸福にしない。

ということなんだね。
 それからもう一つだ。これは君たちに対する一つのプレゼントだね。ヴィジョンに対する解析の仕方について一つ話をしよう。
 例えば、トイレでセックスをしたらどうだろうかと、こういうことを強く思ってたと。するとだ。ヴィジョンの中で、トイレでセックスをするヴィジョンだとか、あるいはトイレでね、上に舞い上がるヴィジョンだとか見えるわけだね。例えばこういうヴィジョンを見たとき、あなた方は何の生に転生すると考えますか。どうだ。じゃあ、A。形は人間だぞ、一応。

(A)欲の天界。

 ところがそうじゃないんだよ。これはハエなんだよ、ハエ。君たちは理解できないかもしれないけど、ハエは自分たちの形をハエの形としては見ていないんだよ。ハエは、もっと自分たちは綺麗なものだと考えてるんだよ。そして例えば、トイレで交わると。そして空を飛ぶと、どうだ。
 だから、ヴィジョンというものは一つの幻影だから、今見ている人間の世界のレベルのヴィジョンで検討してはいけない。その背景にある内容をね、徹底的に解析しなければならない。
 それからもう一つ。なぜ、わたしがこういう話をしたかというと、思念するだけで未来世の一生を決定付けてしまうわけだね。わたしの場合は、アストラル・ヨーガとか、コーザル・ヨーガが終わってるから、その生を消してしまうことができる。だから、もちろん消したわけだけど、君たちは消せないからね、まだ。
 ということは、君たちが例えばみだらな思念を遊ぶと。例えば君たちがみだらなイメージを遊ぶと。例えば邪悪なイメージを遊ぶとするならば、それが次の生の決定要因になるんだということを強く意識しなきゃならない。
 確かに、煩悩の中で遊ぶことは不幸ではない。現時点においてはだ。しかし今も言ったように、例えばその生がハエの未来生をね、決定する場合だってあるんだよ。あるいはゴキブリの未来生をね、決定する場合だってあるんだよ。だから欲の貪り、あるいは欲の喜びをね、貪りの喜びをね、捨てなさいよと言ってるわけだ。いいかな。
 そりゃ、ハエというのは空飛べるよな、どうだ。それから、ね、ハエとハエの当然交接はあるよね、どうだ。そして、ハエに生まれ変わる背景は、無智だ。いいね。