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◆1989/11/8 富士山総本部道場
ジュニアーナ・ヨーガによる欲六界の存在証明

 今まで成就が、最も速いのは、Uじゃないか。それより早い人いたか。Uだよね。ん。ということは、Uがミニマムであると。言い方を換えればUのスピードで成就することはできるということだね。クンダリニー・ヨーガの成就が一番速いのはだれだ。マイトレーヤじゃないか。ほかにいるか、速いのは。だから、----いや、入信して。マイトレーヤが一年ちょっとだよね、確か。じゃあ、君たちに質問があるんだけど、マイトレーヤ、----ん。Aは、あれは、もっと長いよ。二年近くじゃないか。そして、そのわたしが成就をさせようと考えた人たちは、大変な人生を歩かなきゃなんないと。その短い間においてはね。まあそれは今挙げたUにしろ、あるいはマイトレーヤにしろ、その中での仕掛けというのはいろいろあるわけだけど、かなり苦しい思いをしたと思います。だから例えば、わたしのイニシエーションを受けた直後から、いろんな外的変化、心の変化が訪れて、そして例えば屈折したり、あるいは、----そうだね、ひがんだり、あるいは嫉妬心が出たり、あるいは、もうとにかく修行やりたくないという気持ちが出てきたり、いろんな心の状態が出てきたとき、それを自己の内側にある潜在的なものが表面化したんだと考えられるかどうかが、タントラヤーナあるいはヴァジラヤーナを歩くことができるかどうかのポイントだと思います。

 K、お前に質問がある。この世に----まあこれは今日の説法とも関係があるわけだけども----この世の価値観というものは、正当な価値観があると思うか、それとも正当な価値観ではないと思うか。もし、正当な価値観でないとするならば、その論拠を述べろ。正当な価値観であるとするならば、またその論拠を述べよ。
(K大師)この世の価値観というのが、それ一つと考えるんでしょうか。
(尊師)じゃあ、この世を構成している価値観というふうに質問を変える。
(K大師)正当な価値観ではないと思います。というのは、例えばすべて、俗世間における価値観というのが、例えば人間一つの魂の生命を七十年とか八十年とか、限定した上に成り立ってる価値観で、そこに輪廻転生とかカルマの法則といった背景がないからです。
(尊師)質問しよう。じゃあ例えば、限定的な、限定の世界においては、正しい価値観だと思うか正しくない価値観だと思うか。いや、正しいという言葉は合わないね、正当な価値観だと思うか正当じゃない価値観だと思うか。
(K大師)その世界において、支配的な価値観である場合、多くの人がそれを正当と認めるケースは多いと思います。ですからそういう意味でいったら正当かもしれません。ただ、別の世界、あるいはそれ以上の世界から見た場合には、それは正しい、あるいは正しいものとはいえないと思います。
(尊師)じゃあ、質問するけども、もしそうだとするならば、この世しか信じない人に対して説得性はゼロということになるね、当然。それについてはどうだ。
(K大師)はい。
(尊師)よし。じゃ、V、お前反論しろ、今のに。
(V大師)今のK大師に対する、…ですか。
(尊師)そうだ。
(V大師)……。
(尊師)反論できないか。
(V大師)ええ、ちょっと今、思い浮かびません。
(尊師)U、まだか。----じゃあ、わたしの方で反論させてもらおう、K。今例えば、ねえ、美人姉妹といわれているSさんの姉妹がいると。これOKだね。美人はこの世の価値観においては徳であると、これもOKだね。
(K大師)はい。
(尊師)本当にそういえるか。どうだそれは。
(K大師)徳というのは本人にとってということでしょうか。周りの…
(尊師)そうです。本人にとってということです。
(K) で、その徳というのはこの世においての価値観の中ででしょうか。
(尊師)そうです。例えば、美人だから着る物、何を着ても美しく見えると。これはOKだな。確かにその点を見たらそうかもしれないけど、それによって多くの人の目を引くことになるだろうと。そして、例えば、ね、多くの人の目を引くということは、それだけ多くのチャンスに恵まれると。これOKだな。多くのチャンスというのは、いい意味でも悪い意味でもチャンスに恵まれると。どうだこれは。そしていろんな多くの誘惑が生じると。これはどうだ。多くの誘惑が生じることによって、逆に人生の過ちを起こす可能性も高くなると。どうだこれは。もし美人でなければ、そういうもののにぶち当たらない可能性もあると。つまり正当というのは何かというと絶対的なものを指すわけだから、反例が一つでもあれば、それは正当といえなくなるんじゃないか。どうだ。
(K)はい。そのとおりです。
(尊師)今日、今わたしが何をやってるかというと、ちょっと時間があるんで、ね、ジュニアーナ・ヨーガとかマハームドラーとかいわれる内容を君たちに少し説明してるんだよ。これは、グルが弟子に与える討論というか、それをやってるわけだね。どの程度の深い思索ができてるかと、深い智慧があるかということを今試してるわけだね、要するに。
 じゃあ次は、K、金持ちについて検討してみようじゃないかと。この世の価値観において、特に今の人間の価値観において、金は喜びであると。これはどうだ。
(K)はい、金を持ってることによって、様々な煩悩を満たす可能性が広がりますから、それは喜びといえると思います。
(尊師)しかし、金を持ってることによって、これも先程と同じ、今度は狙われる可能性も強くなるよね。どうだそれは。
(K)そうです。
(尊師)ということは、金を持つということは表裏ではないか。
(K)はい。
(尊師)純粋に喜びとは言えないんじゃないか、どうだそれは。
(K)そのとおりです。
(尊師)そのようなかたちで、お前がこの世の価値観イコール正当だと思うものを一つ一つ挙げていってごらん。
(K)すべてにおいて正当だといえる例がすぐには思いつきません。
(尊師)だろ。
(K) はい。
(尊師)ということは、この世に正当な価値観が存在しているかどうか、この世を構成しているものは正当な価値観であるかという質問に対してはどう答えなきゃなんないか。
(K)あらゆるケースを想定して、そのものに楽を与えるというものは存在しないと。
(尊師)よってこの世の価値観は相対的なものであると。そして、本当の意味での、その相対的な上に、どちらかというと正当という価値観はあるけども、完全に正当と言い切れるものはないという結論に到達すると。じゃあ、これは、いつもと同じようにね、討論を始めようじゃないか。まだ時間があるみたいだから。
 uが用意が終わって、一曲終わったら、オウムを三唱して始めるぞ、本題に。
 はい。ではオウム三唱に入りましょう。
(オウム三唱)

 今日は、欲六界の心の形成、心の働きによる形成であることを、君たちと討論しながら証明したいと考えています。
 この欲六界の構成は、君たちも知っているとおり、地獄・餓鬼・動物・人間、そして、阿修羅・天界と、ね、----これは、

(しん)恚天

とか憤怒天とか憤恚天とかまあいろいろあるけども----あるいは戯忘天とかありますけども、要するにこの六つのパートから形成されていると。そしてその上に、自己の自由・幸福を味わうブラフマンの世界と、他を救済する、ま、要するに自己の苦しみを喜びとし他の苦しみを自己の苦しみとするという光音という世界の天界、この、要するに大きく分けて二つだね。要するに自由の世界と、それから自由じゃない世界と。で、その自由じゃない世界には六つあると。ね。そして、この六つの世界の苦の構成要素、どうして苦しいのかということについて検討をしていきたいと思います。いいかな、まずこれについては。
 まず、君たちがよく知っている動物。そして、人間の世界についての検討から入りましょう、ね。まず動物の世界においてどういう構造がなされているかと。どうだこれは。絶対的な構成要素というのは弱肉強食である。どうだこれは。必ず、強い者が弱い者を食い殺すと。そして、その生存によって動物の世界は形成されていると。じゃあこの動物の世界の心の働きの主たる要素というものは何であろうかと。どうだ。どうですか。教学をしてる者は、即無智だという答えが返ってくるだろう。
 しかし、例えば無智だという答を出すならば、わたしに今日は突っ込まれるからねえ。「なぜ無智なんだ」と。そうすると答えらんないと。答えらんないがゆえに、「沈黙の行」を実践した方がいいと。今日は、その答える場合は確信のある場合、背景にどういうものがあるかという確信のある場合に答えるべきである。なぜかというと、今日はわたしは君たちをちょっといじめてみたいと考えてるから。
 じゃあ、ね、当然、高いヨーガを成就しているマハー・ケイマ大師、マハー・マーヤ大師にまずこの質問を浴びせてみようじゃないか。なぜ動物の世界は無智なんだと。
(マハー・ケイマ大師)わかりません。
 今日は、ね、四大師に焦点を絞ろうじゃないか。マハー・ケイマ大師、マハー・マーヤ大師、それから、U大師、そして、えーS大師、もう一人じゃあA天人を入れようかね、教学の最も進んでいる。
《※編注:このころ、性欲の破戒をしたクンダリニー・ヨーガ成就者には、大師の代わりに天人のタイトルが賦与されていた。》
(マハー・マーヤ大師) マハー・マーヤです。あの、どうして無智なのかということに答えればいいんですか。
(尊師)そうです。どうして無智で、無智の。
(マハー・マーヤ大師)あ、無智だといわれるか。
(尊師)そうです。そして、それがどうして動物の構成要素なのかと。
(マハー・マーヤ大師)……。
(尊師)どうして「無智」だと言い切れるのかという質問の方がいいかもしれないね。
(マハー・マーヤ大師)動物を観察していますと、例えば、猫を例に挙げるならば、お腹が空けば食べる。眠たいときに寝る。あとシーズンになれば交尾する。なんていうかすべて本能のままに生きて、その生を流されて終わってるような気がします。
(尊師)質問します。だとしたら「自由」じゃないか。食べたいときに食べる。寝たいときに寝る。セックスしたいときにセックスすると。こんな自由なことはないじゃないか。
(マハー・マーヤ大師)しかし、動物は、そういうことで過ごして、全然なんていうか、人間のように考えることなく過ごしているために、この弱肉強食という世の中にいるために、もうどうしようもないおびえというものが本性としてあると思います。が、自由だとはいえないと思います。
(尊師)じゃ、「おびえ」があるから自由ではないというわけだね。動物連鎖のおびえがあるから。
(マハー・マーヤ大師)いいえ、あと、おびえだけではなくて、動物は自由でないということはちょっと考えればわかることで、食肉の牛は、今は輸入されてるそうですが、肉を輸入すると高いからということで、子牛のうちに輸入して、大きくして、それで殺されて、食べられてしまうと。そこのどこが動物に自由がみるのかということになりますが。
(尊師)いや、わたしが言いたいのは、食べて、寝て、自由にね、セックスすると。これは「自由」じゃないかと。
(マハー・マーヤ大師)しかし、えー----。
(尊師)その部分は自由じゃないですかと聞いてるんだよ。
(マハー・マーヤ大師)そこの部分は……、しかしですね、食べるというときに、ライオンを例にとるならば、彼らは狩りをしなきゃいけないわけですね。で、例えば、もう弱ってきたライオンていうのは、----例えば、あと重い傷を負ったライオンとか、そういうライオンは、狩りをすることができなくて、死ぬのを待つだけになるんではないかと思います。
(尊師)よって、それも自由じゃないということだね。だとするなら初めの説明の仕方にやっぱ問題があるんだろうね。
(マハー・マーヤ大師)はい。
(尊師)はい。続けてください。
(マハー・マーヤ大師)え。何をどういうふうに…
(尊師)だから要するに、無智であると。
(マハー・マーヤ大師)ああ無智では、そういう不自由な環境から抜け出す術を知らないというところが無智だと思います。
(尊師)はい。わかりました。じゃあ、残りの三大師答えてください。二大師プラス一天人。
(U大師)Uです。前に尊師の説法にもあったとおり、まず弱肉強食の心の働きを見てみると、この、まず空腹感からくるものであると。そして、例えば、ライオンを例にとるとするならば、まず、生き物を殺すということで、殺生のカルマを積んで自分の転生を下げる、自分の下降傾向の要素を強めるということを知らない。そういうカルマの法則を知らないことによって、ただその貪り、あるいは空腹感によって殺生してしまうと。そういう……
(尊師)質問しよう。なぜそれを下降傾向と言い切れるんだ。
(U大師)それは、そうですね、殺すときに、自分の煩悩を満たすことだけを考えて、相手の高い転生を操作することができないということになると思いますけれども。
(尊師)なぜそれを操作することができないといったら、それイコール下降傾向ということが言い切れるんだ。
(U大師)まず殺生をする場合においては、痛みと、あるいは自と他を区別をする心が生じますから、それが即、地獄の要因につながると思うんですけれど。
(尊師)なぜそれが地獄の要因だと言い切れるんだ。
(U大師)そこには相手を思いやる気持ちがなく。
(尊師)じゃなぜ、相手を思いやる気持ちがないと地獄の要因だと言い切れるんだ。
(U大師)え、それは、その苦し、えーと、心の……
(尊師)君たちは真剣に聞きなさいよ。今君たちが、未来においてやっていかなきゃなんないマハームドラーとか、あるいはジュニアーナ・ヨーガの実践をしてるわけだから。
(U大師)つまりそこには、心の余裕がないということが……
(尊師)じゃあ心の余裕がないと地獄に落ちるのか。
(U大師)いえ、そうではなくって、----
(尊師)よし、Aいこう。
(A天人)Aです。一応動物の心の働きとして、無智というのが挙げられます。そして無智というのは智慧がないと。具体的に智慧のない例があるんだろうかというのを考えるならば、あろ条件においては、例えばある動物がいると。その動物は、
(尊師)まずなぜ動物は無智だと言えるんだ。
(A天人)あ、今からそれを言います。
(尊師)いや、でも君の説明だと、無智ということが挙げられると。無智というのは智慧のない状態であると。で、その智慧のない状態を説明するわけだね。
(A天人)はい、そうです。
(尊師)つまり、それは動物イコール無智であるという説明にはならないよね、それは。
(A天人)あ、最後に、その智慧がないと。智慧がないがゆえに、これは無智であると。いう論法なんですけど。
(尊師)ンフフ、ま、いいだろう。はい、いきましょう。
(A天人)いいですか。
(尊師)はい。
(A天人)で、まあそういうこの背景として、ま、ある条件によっては、その動物は動物の喜びを味わうことができると。例えば、ま、ライオンがいたならば、そのライオンの食べる獲物がそこにいて、そしてその獲物を殺すための十分な自分に力があるならば、そこで食欲を満たすことができると。例えばそこで異性がいたならば、自分の性欲を満たすことができると。しかし、動物が味わえる幸福の条件というものも無常であると。例えばその条件が一転すると。例えばその動物が老いると。例えばその動物が、獲物がなくなると。だとしたならば、そこで食欲とか生命欲を満たすことができなくなると。で、これ、また違った例があるんですけど、例えばネズミがいると。そのネズミが山火事とかになって……
(尊師)ちょっと質問しよう。それ人間も同じじゃないか。例えば金があれば女を買うことはできるし、例えばハンサムなら女性だってついてくると。あるいは、----例えば、そうだね、金があればおいしいもの食べることができると。自由であると、金があれば。同じじゃないか。
(A天人)はい。ただあのう、
(尊師)じゃなぜそれを動物界だけと限定するんだ。
(A天人)例を挙げるならばですね、例えば動物というものは、その自分の与えられた環境で出てくる知識、あと本能的に持っているもので思考して動くことはできますけれども、人間の場合は、そこでいろんな教育とか受けることによって変化することが、
(尊師)ちょっと待ってて。でも、それは環境から出てくる教育は人間も同じじゃないか。
(A天人)環境から出てくる教育。
(尊師)そうです。
(A天人)はい。
(尊師)例えばいい家、学識のあるお父さんお母さんのもとで育ったならば、当然子供たちはその境遇の影響受けるだろうから当然知性は発達すると。ところが学識のないお父さんお母さんのもとで育ったならば、当然その知的影響は受けないと。同じじゃないか。どこが人間と動物の違いがあるんだ。
(A天人)ああ、その、そこで、一つ違う点があるんですけれども、例えば、その人間はその与えられた条件の中で、いろんなものを組み合わすことによって、新たなる知識とか、創造によって知識というものを考え出すことができますけれども、動物の場合はそういうことをするのが少ないと、量が。
(尊師)でも少なかろうが多かろうが同じことをやるわけだよね。じゃ、どの程度をもって多いというんだ。どの程度をもって少ないというんだ。
(A天人)例えば例を挙げるならば、その自分の命というものが生命的に、弱肉強食の世界で危なくなった場合ですね、動物の場合は本能的に逃げるという行為をしますけれども、人間の場合は例えばそこに物があったとしても、動物の場合はその物を取って自分を妨げることはできないと。動物の場合は。人間の場合は、そこで物があればそれを投げることによって、相手をカバーするとかそういう思考的な智慧というのはあると。
(尊師)でもそれは、本能的な働きじゃないか。本能的な働きとは何かというと、要するに自己の生命を防衛したいという本能的な働きによって、その限界でやってるわけじゃないか。例えば人間の場合は、そこに物があって、それで何とか助かろうとすると。動物の場合はそれができないと。
(A天人)はい。本能的になったときに、そこで考えることができない、逃げることができないがゆえに無智であると。人間の場合は、そこでいろんなものをある程度考え出すことができると。
(尊師)でもそれはおかしいんじゃないか。だって人間だって考えらんない人だっているよ。考えられる人だっているけど。
(A天人)はい。でも動物の場合は、考えるのはほとんどいないと。
(尊師)ていうことは、あなたの言う無智というのは、要するに知識がないから無智だと言ってるわけだね。
(A天人)いや知識というものを応用することはできないと。
(尊師)いや、でもそれは知識というものを応用することができないじゃなくて、明らかに知識を指してるじゃないか、それは。
(A天人)あ、知識を利用する
(尊飾)ていうことは、あなたの言う無智というのは、本源的な智慧を指してるんじゃなくて、要するに知識の範疇にあるものを、「智」と言ってるんだね。
(A天人)あ、知識というものを使いこなすことができないがゆえに智慧がないと。
(尊師)そんなことはないよ。使いこなせる人間、生き物だっているよ、それは。
(A天人)例えば。
(尊師)例えばチンパンジーとか。
(A天人)はい、わかりました。はい。
(尊師)じゃ、どうなんだ。それは。
(A天人)……。
(尊師)それから、動物にはきちんと学習能力があるというふうにいわれてるけど。それについてはどうだ。
(A天人)はい。そのとおりだと思います。あ、あと、もう一つちょっとよろしいですか。よろしいですか。
(尊師)あ、どんどん言ってください。構いませんから。
(A天人)はい。例えば、初めに戻るんですけれども、まず動物界とは欲六界から、欲六界の支配を受けてると。そして、動物の場合はどんなに智慧があろう、どんなに動物的な智慧があろうとも、知能があろうとも、知識があろうとも、そのカルマというものから脱却するための思考能力、そして智慧というものを生み出す働きがない……
(尊師)欲六界を証明してほしいんだけど。わたしには人間界と動物界しか見えない。
(A天人)はい、例えば。
(尊師)なぜ、君たちはわたしがこれやってるかわかるか。君たちは、今まで麻原彰晃の説いてきたヨーガ観、あるいは仏教観の中に浸っているわけだ。ところが、近ごろの状態を見ていると、大教団からのいろいろな圧力が加わり出してると。そして、わたしに言わせるならば、大師でも教学が足りないと。本当に、ね、例えばN君みたいに、高々クンダリニーの成就をして、即、天人になり、そして、長期バクティに落ちるバカ者もいると。そんな状態だから本当の救済はできないと。だからわたしは、凡夫ではなく、一般の俗にいうところのインテリジェンスがどのような反応をするのかを、今やってるわけだね。それに対してきちんと相手を納得させるだけの、少なくとも論理的思索力がなければ、マハームドラーの成就はないよと。クンダリニー・ヨーガからジュニアーナ・ヨーガの成就はないよということを、今君たちに知らせたいがためにわざわざやってるんだ。
(A天人)いいですか。
(尊師)だから、かなり高度な話になってるのは事実である。続けて。
(A天人)はい、欲六界というものを普通の人に説明する場合ですね、例えば、ま、わたしたちには、生活において原因と結果というものがあると。それは、人間が努力すればそれなりの結果が出ると。努力しなかった場合はそれなりの結果が出ないと。
(尊師)じゃあ努力しなくて、結果が出てる人もいるし、努力をして結果が出ない人もいるのはなぜだよ。
(A天人)その場合に、欲六界の説明の一つに付け加えられるわけですけども、功徳というものがあると。そして、徳というものは例えばお金に換算するならば、百万円というものがあると。例えば百万円あるうちは仕事しなくても自由に使えると。でもお金がない人は一生懸命貯めて…
(尊師)それはどのようにして証明してくれるんだ。
(A天人)例えば人間、動物を含めて、わたくしたちは喜びというのを求めてると。それは動物・人間の条件によって、その喜びは違いますけれども、例えば、そのなんていうかな、----自分の喜びというものを満たすためのエネルギーというか、その喜び満たすための条件として、今人間界ではお金というものがあると。
(尊師)じゃあ、お金を持ってる人は徳があるってことだね。
(A天人)ま、一般的にはそういうふうにいえます、ある程度ほ。はい。
(尊師)ということは、悪いことをしてもお金を持ってる人は徳があるってことだね。
(A天人)というわけではありません。
(尊師)でもそれはおかしいじゃないか。
(A天人)だから、一般的にはということをさっき付け加えたんですけれども。
(尊師)じゃ、その人はどういうことなんだ。
(A天人)例えば……
(尊師)徳の証明としてお金があると。そしてお金をたくさん持ってると。
(A天人)はい。例えば、お金というものがここにあって、そしてお金イコール徳というのはないと。例えば条件によって変わってくると。例えばその条件として、人をだまして、もしもそこで人をだまし人に嘘をついて、お金儲けた場合は、一時的にはそのお金によって喜びを味わうことができるかもしれないけど、嘘をついた結果人をだました結果いすれはだまされることが起きると。
(尊師)なぜそう言い切れるんだ。
(A天人)例えば……
(尊師)わたしは先程、原因と結果を証明しろと言ったね。それについて証明はできないわけだよね。
(A天人)……。
(尊師)よし、OK、わかった。
(A天人)はい。
 だれか大師で、ま、S大師が次あるわけだけど、わたしやってみたいという人いるか。よし、じゃあ次Sいこうか。
(S大師)はい、わたしも、非常にA天人の発想と似てたんで、すべて覆されてしまったので、今となっては論議のしようがないんですけれども、動物の行動を見てみると、例えば同じ動作を繰り返すということが非常に多いと思うんです。例えば、先生の説法では、野球の選手だとかそういうスポーツ選手は、同じことを繰り返す人は無智化していると、動物界に近くなっているというふうに説法されております。それ。
(尊師)じゃあ質問があります。でもヨーガによっては、修習と離欲という二つの修行ポイント挙げてるよね。その中で、修習というのは、同じことを繰り返すんじゃありませんか。
(S大師)ただそれは真理においてということではないでしょうか。
(尊師)何をもって真理としますか。
(S大師)例えば、魂の向上だとか。
(尊師)何をもって魂の向上としますか。
(S大師)……。
(尊師)ということになるわけだね。
(S大師)例えば、人間と動物を比較するならば、どんなに強い動物だとしても、人間には勝てないと思うんです。なぜだといえば、人間というのは智慧を持っているから武器を使えます。
(尊師)武器がなかったら勝てるよ。
(S大師)ただ、武器を使えるということが智慧だと思うんですけど。
(尊師)わたしは武器が使えるということは知能だと思うけどねえ。
(S大師)人間……
(尊師)じゃあ例えば、S大師たちの人生観を世界観を肯定したとしましょう。動物は、強い動物は、例えば殺生しようとしても、例えば原爆一発落として殺生した者に比べたら、そう大した殺生はしないと。よって地獄に落ちる確率は低くなると。これどうですか。(S大師)……。
(尊師)つまり智慧によって、本当に智慧が即、向上というものと結びつくならば、人間の割り出したものは、当然高い世界へ導くはずの道具をいろいろ創り出してるはずであると。しかしそうではなくて、今人間の創り出してる一般的にいう智者というのは、逆に、低い世界へ落ちるためのものじゃないかと。だとするならば、智慧がある方が低い世界へ落ちるんじゃないかってのはどうだ。
(S大師)うーん、そうですね。確かにそのとおりだと思いますけども、…
(尊師)例えば車があると。車はスピードが出て便利になったと。しかし、走ってる間にたくさんの生き物を殺してると。これどうだ。
(S大師)そのとおりだと思います。
(尊師)だとするなら車があることによって、下の世界に落ちる確率はどんどん高くなるんじゃないかと。これはどうだ。
(S大師)ただ、だからといって人間と動物の魂の下降を比べたら、人間の方が全部が全部三悪趣に落ちる可能性の方が強いとは言い切れないと思います。
(尊師)それはなぜだ。
(S大師)動物だって、例えば上にあがれない魂だっていっぱいいますよね。
(尊師)だとしたら同格だったらどうだ。しかも少なくとも動物のやる悪いことってったら高々知れてるけど、人間のやる悪いことったらひどいんじゃないか。
(S大師)んー。ただ人間の中では解脱したりするそういう崇高な魂もいます。修行するような魂もいます。
(尊師)だって、今までいなかったじゃないか。
(S大師)……。
(尊師)もし動物の世界に仏陀が降りたら、動物が解脱するかもしんないじゃないか。
(S大師)あはっ(笑)、ただ動物にはチァクラがないとか尊師がおっしゃったことがありますが(笑)
(尊師)だって例えば、ねえ、わたしの飼ってたマースは天界に行ったよ。
(S大師)ただ、それはその尊師のポワ----あ、そうですね、動物界に仏陀が降りたらというようなことだとしたんなら、そういうことはあると思います。
(尊師)だとしたら、人間界と動物界の差はないじゃないか。逆に、悪いことをやりすぎるからひどいじゃないか、人間界の方が。ということは人間界の方が下と見ることだってできるじゃないかと。
 はい、そろそろみんなが暗くなってきたんで、----というのは君たちの心に、ね、----はい、どうした?----いいか。そろそろみんなの心が暗くなってきたんで、まあ、ね、少し肯定的な話をしましょう。
 今のような追求を自己の中でやり、そして全く矛盾のない状態を作り上げていくことがジュニアーナ・ヨーガです。ということは、わたしが今大師方に発した答えについては、すべてわたしの中で納得ができてるということになると。ね。
 じゃあ、それはどういうことだと。まず、動物界は無智であると。無智であることが前提であると。ね。これについてまず言わなければならないことは、この「無智である」ということは定義ですよと。これが最終的にそうじゃないというふうに結論づけられるとするならば、それは、このオウムで説いている、あるいは仏教で言っている欲六界の構成の心の要素というものは、それは正しくないということになりますと。しかし、それがもし正しいとするならば、きちんと論理的に納得のできるものになるでしょうと。
 では、まず「無智」とは何でしょうかと。それは、「ものの本質を知らない」ということですと。「ものの本質を知らない」とはどういうことかと。ね。それは、先ほど大師も言ったけども、善業をなせば善が返り、悪業をなせば悪が返ると。そして人間は必ず、生まれ、そして老いさらばえ、病んで死んでいくんだと。
 じゃ、ちょっと待てよと。なぜ、善行をなせば善が返り、悪業をなせば悪が返ると言えるんだと。それは、例えば動物の世界にしろ、この人間の世界にしろ、あるいは他の世界にしろ、いいかな、もし、そのような要因がないとするならば、生まれてくる条件は全く同じはずであると。そして、その生まれてくる条件の違いを、善の果報による、あるいは悪の果報によるという説明をしてるのですと。
 じゃあその証明をしろと。ね。その証明については、二つの方法がありますと。第一は何かというと、わたしたちの言っていることを否定する場合、逆の証明が成り立つかどうかを考えましょうと。人が心に喜びを生じさせるとき、これは動物でも同じでしょうけどもと、自己の願望のかなう状態、これを「よし」としますと。そして、その状態を「徳がある」というふうに仮定しますと。しかしもしそうだとするならば、ね、先ほど言った悪業をなしてる人がお金を持つということは矛盾するじゃないかと。ね。
 そこで皆さんに考えてほしいことがありますと。悪業をなして得た金、これはその人に心において喜びを生じさせるでしょうかと。例えば、あなたは盗んだ経験がありますかと。現代人はほとんど盗んだ経験があるから、盗みの経験あるから、そのときにどうですかと。確かに、目的のものを買って満足感はあるかもしれないけども、心に屈折、あるいは見つからなければいいけどといった心の働きはありませんかと。つまり、「堂々と働いて得た金と、そのように悪業をなして得た金とでは、同じ価値観があなたの心に生じますか」という質問しなければならない。
 そしてもし、「いや、同じ価値観が生じる」と、「わたしは盗んでも何しても、自分は幸福だと思ってる。満足なんだ」と言う人もいるかもしれない。そのときには、「そうですか」と。例えば、「では、あなたは夢を見ないでしょう」と。「なぜ俺は夢を見ないんだ」と。「確かに見ない」と。これは必ず「見ない」と言ったらね、そういう人は。「なぜ見ないんだ」と。「よくわかるな」と。「いや、それはそのとおりでございます」と。「なぜかというと、心の働きが夢を作るんですよ」と。そして「あなたは、心と、この現実の表層の意識との間に大きな壁があります」と。「だからわからないだけです」と。「なぜならば、修行に入り、まず経験をするのは何かといったら、夢の変化です」と。「夢を見なかった人が夢を見るようになってくるんですよ」と。「つまり、心の表われが現象化するんですよ」ということになるよね。
 「そして、あなたが夢を見るようになったら、あなたが悪いことをして、例えば盗みを働いて得たものを使うとき、あるいは食べるとき、あなたの心には一種異様の心の働きが生じるでしょう」と。「それは、あなたに苦しみをもたらすでしょう」と。いいですか、ここまでは。
 ここまででもし大師の中で反論があったら反論を聞きます。なければ、進めましょう。はい。

(K大師)そこであの「夢を見ないでしょう」と言われた場合に、「わたしは夢を見ます」と言った場合のことが語られてないんですが。
(尊師)もし、「夢を見ます」と言ったならば、それは、もうすでに仏教の世界観に問題があります。だから、わたしは先程言ったとおり、----どう言ったらいいかな、この間題が証明されなければ、それは仏教の世界観に問題があると言ったわけだよ。
 つまりどういうことかというと、夢を見るということは心の現れが現象化するということだね。
 でね、K大師、もしそれで相手が嘘をついてるようじゃないと、つまりさ完全に無智化した状態であるとしようじゃないか、ね、その場合には、もう一つ付け加えればいい。「あなたは時間は怖くありませんか」と。そして、もし、いいかな、その悪業を今までたくさんなしていて、暗闇が全く怖くないと言う人がいたならばだよ、K大師、それは、仏教観・ヨーガ観がすべて崩壊すると考えていいです。つまり、欲六界がないと。いいですか。
(K大師)その理由がよくわかりません。
(尊師)つまり、この欲六界は、----今日話すメインデーマだけど----心の働きによって形成されてるわけです。これはいいかな。これはわかりますか。どうだ。
(K大師)凡夫に説明する場合には、「なぜそうか」と聞かれると思うんです。
(尊師)何をだ。
(K大師)あの心の働き……
(尊師)だから先程わたしは言ったよね。仏教の世界観というまず規定、これは定義ですという話ををしてるはずだけどどうだそれは。
(K大師)その範囲の中での話ということですね。
(尊師)そういうことだ。
(K大師)はい。わかりました。
(尊師)よって、わたしが何を言いたいかというと、背理法の説明を今しようとしてるわけだね。つまり、否定否定否定否定していって結局否定できないから、その世界があるんだっていう話をしたいと考えてるわけだよ、わたしは。わかるか。その定義が真か偽か、つまり正しいか正しくないかということは証明の仕方がいくつかあるよね。どうだ。その中で、例えばこれをノーとすると。これはないとすると。だとしたら、おかしいおかしいおかしい、よって「ある」というひとつの定義があるわけだね。あるいはこれを「イエス」とすると。AだからBだからCだからDだから、そして、これは全体に対応できるからその世界があるんですよって、この二つしかないだろう。どうだ。
 つまり、否定をどんどんしていってその否定をつぶしていって、そのつぶしている要素、そのつぶしの要素がなくなった段階で、その世界観は存在するという証明の方法だね、今やってるのは。わかるか、言ってることは。
(K大師)はい、わかります。
 いいかな。そして、どこまでいったっけ。----よって欲六界が心の働きによって形成されていると。そして、その人の心が真っ暗闇、つまり悪業によって、真っ暗闇だとするならば、その人は当然、ね、----ここでまだ一つ条件が加わるわけだけど、それは善業をなせば先程いいことが返ってくると、悪業をなせば悪いことが返ってくると。そして善業をなせば高い世界へ生まれ変わると、悪業をなせば低い世界へ生まれ変わると。これはまあOKとして、OKというのはこれも定義として、あとで証明することにして、問題はここだ。
 その経験をすでに過去の生において、わたしたちは行なっているということだね。そして、その経験が心の本質に刻み込まれていると。そして、低い世界は闇であると、高い世界は光であるって定義があると。よってその人の心が乱れていれば、悪業によって染まっていれば、その闇に対する恐怖心があるはずであると。よって、闇の世界を恐怖するはずであるということを言いたいわけだよ、K大師。どうですか。
(K大師)はい。
(尊師)そこまではいいですか。
(K大師)はい。
(V大師)「その闇の世界が低い世界であり、高い世界である」というそれも定義ですか。証明されるものなのですか。光の世界がそれもあとで
(尊師)それはあとで証明されます。
(V大師)ああ、そうですか。わかりました。

 じゃあ次にだ。その闇というのは、ものを照らし出す働きがあるかないかという質問に対してはどう答えるか。当然照らし出すことができないと。よって、例えば、夢を見ないと。あるいは、ね、今夢は見ているんだけども、潜在的に闇に対する恐怖心があると。よってその人の心は、悪業に染まってるということができるんじゃないかと。
 じゃあなぜ、高い世界を光、低い世界を闇ということができるんだろうかということについての証明をしなければならない。まずその人に聞かなきゃならないことは、「今までいいことをしたことがありますか」と。「いいことをしたときに、心がどのような状態になりましたか」と。「熱くなりましたか、それともあったかくなりましたか、それとも、ね、暗くなりましたか」と。これはどうだ、V。

(V大師)まず「いいこと」ということ、言葉自体に問題があると思います。例えばそのときの価値観は……
(尊師)その人にとってだ。
(V大師)ええ、だからその人にとって「いいこと」と思っていても、そのとき、その人の教育とか、そのときその人の環境によっては、真理でないことがいいことと見なされた場合は、その人がいいことと思っていても、それは実際真理にとっては悪いことであったと。
(尊師)ところがそれは、心には光となるんですよ、V大師。
(V大師)……(苦笑)、すいません頭だけで考えて、そこは理解ちょっとしにくいです。
〈尊師)ここに君の両親がいたと。大変貧しくて困ってると。しかし、それは悪業のせいで困ってるとしようじゃないか。そこで君はお金があったと。両親に渡して両親は幸福になると、そのときは。しかしそれによって、例えば餓鬼の世界へ落ちてしまうとしようじゃないか。ね。それを君は、教義的には知ってると。しかしお金を渡したときに、幸福感がありますか、ないですか。それによって両親が満足したら。
(V大師)あ、あります。
(尊師)心は明るくなりますか、暗くなりますか。
(V大師)明るくなります。あ、わかりました。

 ふー。ということは、どうだ君たちは。何によって、その人が幸福を見いだし、何によってその人が暗くなるかということについて理解できたはずである。それは、真理によって瞬間的な幸福を感じたり、あるいは真理によって瞬間的な不幸を感じるということはあり得ないんだね。もちろん毒に到達したならば別だ。いいかな、ここまでは。
 そして、その人にその人のレベルに応じて、ね、あなたのレベルによって「あなたがいいことをなしたとき、心はどのようになりますか。あったかくなりますか、それとも冷たくなりますか」という話をしたとき、どう答えるか。当然、あったかくなるという答えをするでしょう。どうだそれは。すると、その「あったかくなる」というのは、ね、当然熱元素が心において強くなるわけだから、それによって何が生じる。熱の強化ということは光の強化につながらないか、どうだ。----熱の強化イコール光の強化につながらないかと聞いてるんだわたしは。例えば0度Cのときと、例えば千度のときと比較しようじゃないかと。そのとき発される光の量はどうだ。同じか違うか。ということなんだよ。
 よって善行をどんどんなしていけば、心があったかくなり熱くなると。そして光が強くなると。今度は、どんどんどんどん悪業をなしていけば、----ま、怒るときもそうだね、怒ったあと体が冷えるのわかるよね。カーッとなって怒ったあと、熱を放散してそのあと冷えると。それわかるね、君たちは。他のように、例えば冷たい行為をどんどんどんどんなすと。冷たい言葉を吐いているうちに心はどうだ、冷えるか冷えないか。冷えるということは、光の量は減るか減らないかと。どうだ。例えば絶対零度の世界と、それから例えば十万度、百万度の世界とでは、どちらの方が光が放散してるか。----ということだよね。
 よって善行をなすイコール高い世界と、悪業をなすイコール低い世界と。善行をなすイコール光の世界と、悪業をなすイコール闇の世界と言うことができるんじゃないでしょうかということに対してはどうだ。V。
(V大師)その人の価値観における善行であれば、その光と闇というのはいえると思います。ただ。
(尊師)実際はね、これはあとで説明しなきゃなんないんだけども、表層意識においても、潜在意識においても、超潜在意識においても、その価値観は違うんですよ。そして、わたしたちが認識できるのは、表層意識の価値観でしか認識できないんだよ。だから、言い方を換えるならばね、V。善行、そしてあったかいと思っていると。しかし、例えばそれが真理に反していたら、深い部分では冷えてる場合もあるんだよ。
(V大師)はい。だから、ちょっと納得できなかったのは、その真理とは関係ないという部分がありましたね。いいことというのが。そうした場合、それでいいことをなしたならば、その光の強化、あたたかくなって光の強化が現われると。そうすると、例えばコーザル世界、例えば上位コーザルとかありますけれども、そうした世界というのは、その人の納得できるいいこととなってしまって、その真理の方向と結びつかなくなってくるんではないかとそういう感じがしたんです。
(尊師)ちょっとおかしいんじゃないか。というのは、わたしは今日の話において、欲六界の話をしましょうという話をしてると思うけど。
(V大師)じゃあ欲六界に限って言いますと、やはり天界よりも、天界の方が光があって地獄の方が光がないような……。これは観念かもしれませんがそういう感じが……。
(尊師)そのとおりだよ、それは。
(V大師)はい。そうすると、欲六界に限っても同じことだと思いますが。
(尊師)なぜだ。
(V大師)……あ、そうか
(尊師)なぜだ。
(V大師)あ、そうか、この場合のいいことというのは、欲の範疇であると。
(尊師)だって人間は欲から離れてないわけだから、欲の範疇じゃないか。
(V大師)ええ、欲の範疇に限定して言っているわけですね。
(尊師)だって、そうでしょ。
(V大師)あ、あ、わかりました。はい。
(尊師)よろしいでしょうか。
(V大師)…いや、まだ完全に納得できてない(苦笑)。例えば第二次大戦で特攻隊というのがありました。それで特攻隊に乗った人というのは、自分は納得して「これは完全に善をなしてるんだ」とそう思ってやってました。だけども、例えば第一天界の、尊師の講義によると、第一天界は、そうした正しい国、国が正しければ、その戦士というのは第一天界に行くという高い世界に行くということですが、国が正しい実践をしてない特攻隊というのは、どちらかというと殺生のカルマを積んで下に落ちるということだと思うんですが。
(尊師)特攻隊は正しいと思って突っ込んだと思うか。
(V大師)あの納得してる人もいたと思うんですけど、中には。
(尊師)その中で心は明るかったと思うか。
(V大師)いや、中には明るい人がいたと思うんですけれども。そういう教育をされてましたよね。そういう環境だったですよね。
(尊師)そういう教育をされてたけども、そのときの心の背景は嫌悪じゃなかったか、外国に対する。外国に対する嫌悪なのに、果たして明るい心で突っ込んだと思うか。
(V大師)外国に対する嫌悪は確かにあったと思います。
しかし、あのときは天皇陛下を神と仰いでいましたから、その天皇陛下を思念することによって、すごく心は明るくなったと思いますが。「お国のため、天皇陛下のため」ということで。
(尊師)明るくなるわけないじゃないか、本質が光じゃないんだから。
(V大師)でも、それは自分ではいいことと納得してるわけですよね。
(尊師)じゃ、質問しょう。その特攻隊のときに自分ではいいことと納得していると。納得してるということと、善行をなしてるということは同じ言葉であろうかなかろうか。
(V大師)だから、同じ言葉ではありません。
(尊師)おかしいんじゃないか、わたしは善行を積んだならば、心に豊かさというか、明るさが出てくるという話をしてると思うけど。
(V大師)…あ、善行か。その「いいことをした」ということで幸福になると、「いいこと」というのと「善行」というのは、これ違うことでとらえてるわけですか。
(尊師)じゃあ質問するけども、心に納得をしたということと、いいことをするということとは同義語ですかと聞いてるんだよ。
(V大師)いいことをすれば心は納得するけども、心に納得すればいいことになるということはありません。
(尊師)そうでしょ。
(V大師)はい。
(尊師)それからもう一つ。納得するからいいことだとはいえないでしょ。納得してるからいいことなんだとはいえないと思うけど。
(V大師)ああ、それはいえません。はい。
(尊師)例えば子供が五人いると。その子供の五人に食べさせるために、盗まなければ仕方がないんだと。ね、盗んでその子供に食べさしたと。このとき心は納得してるよね。でもいいことをしてるとは思わないよね。
(V大師)ええ、はい。
(尊師)そして特攻隊の気持ちというのは、そのような心の働きにあったんじゃないかとわたしは思うけどどうだ。
(V大師)ああ。確かに、例えば親の情をそこで切らなければいけないと、友人とも別れなければいけないというのは確かにあったと思います。そのへんのわだかまりという部分というのは。
(尊師)たくさんあったんじゃないか。
(V大師)はい。
(尊師)だとしたら心は暗かっただろうか、明るかっただろうかと。
(V大師)ああ、あ、暗かったです。
(尊師)だよね。
(V大師)ああわかりました、はい。
(尊師)はい。
(V大師)はい。ありがとうございました。
(尊師)Kいいのか。
(K大師)今の例ですけれども、つまり天皇が神であるというような教えを受けてるケースにおいて、それ以外にいいことを求めて、それを論証するのはよく意味がわからないんですけれども。つまり、天皇イコール神でそれに従うのはいいこととなれば、それ以外にいいことはないんじゃないでしょうか。
(尊師)じゃあ、質問をするけども、もし、そういう教育がなされていたら、「死にたくない」と言って突っ込んでいった人、「お母さん」といって突っ込んでった人がなぜいるんだ。
(K大師)それは、教育に対して忠実でなかったということじゃないでしょうか。
(尊師)ということは、K大師は、特攻隊員は天皇を神だと思って、突っ込んでったって言うわけだね。
(K大師)というのは、神だと思って突っ込んでいったのではないと百パーセント言い切れる理由がないと思うんです。
(尊師)でも、神だと思って突っ込んでいったという理由もないんじゃないか。
(K大師)ただ神だと思っ----
(尊師)だからわたしは、戦後のデータから今例を挙げたわけだよね。
(K大師)はい。
(尊師)ところが、神だと思って突っ込んでいったた例というのはないんじゃないかと聞いてるんだよ。
(K大師)そのデータというのは、ただ、本人に聞いたわけではないですよね。
(尊師)だから、わたしの言いたいのは戦後の資料の話だよね。つまりどちらの立場に立つかということになると思うけども。つまり、Aというものを否定する場合の論証として、確実な論証、確実なその論拠にならないんじゃないかと言ってるわけだけど、どうだ。
(K大師)……。
(尊師)論拠にならないものを引っ張り出してきて、そして否定したとしてもそれは否定にならないんじゃないかと思うんだけどどうだ。
(K大師)つまり、その特攻隊の例自体が、判断材料にならないということですか。
(尊師)そうです。
(K大師)あ、はい、わかりました。
(尊師)いいだろそれで。
(K大師)はい。
(尊師)それは。

どこまで続けたんだっけ、今のは。----ね、今で何分経ったかな、時間的には。始まって。----三十分以上経ってんじゃないかな。
 そして、このような形で思索をどんどんどんどん続けていくわけだね。だから精神集中が、少なくとも二、三時間なければと言ったのはそういう意味なんだよ。で、それはいいとしても、今日ある程度結論を出さなければしょうがないから、ね、あのうちょっと、討論からポイントを早く説法に切り換えます。ていうのは、ほんとあしたの朝までかかってしまうから。で、疑問があったらあとで話そう。いいか。
 そして、先程は、心が明るくなれば高い世界へ生まれ変わると、心が暗くなれば低い世界へ生まれ変わるという話をしたよね。そして心の本質には、その時間を怖がる本質があると。それは、前生において落ちた経験があるからであると。ね、これも異論があるかもしれない。しかしそれについては、こう断言できると私は思うし、闇についての恐怖という経験がなければ、その闇イコール苦悩という経験がなければ、闇に入ったとしても何の恐怖もないはずである」と。どうだこれは。つまり、以前に経験がないものに対しては、恐怖もなければ喜びもないと。どうだ。はい。
(マハー・マーヤ大師)生まれつき目が見えなかったとしたら、その人は当てはまらないんじゃないかと思うんですが。
(尊師)ん、何についてだ。
(マハー・マーヤ大師)え、暗闇を怖がるか怖がらないかという点についてです。
(尊師)暗闇を怖がるか怖がらないか。
(マハー・マーヤ大師)ええ。
(尊師)でもその人は夢はどうだ。その前の段階で夢も見ないと思うけど、わたしは。
(マハー・マーヤ大師)……うん。
(尊師)盲目の人の夢を見る確率は大変低いと思います。
(マハー・マーヤ大師)はい、そう思います(微笑)。
(尊師)どうでしょうか。
(マハー・マーヤ大師)はい。
(尊師)だとすると、前提条件のその前に当てはまってると思うんだけどどうだ。
(マハー・マーヤ大師)あ、はい。はいわかりました。

 はい、続きましょう。それで、結局高い世界が光で、低い世界が闇であると。そしてそれは、自分たちの内側に経験があるからその闇を恐がるんであると。そして、例えば善行をなせば心が豊かになり、悪業をなせば心は暗くなると。ということは、カルマの法則、----つまりカルマというのは心の働きによって生じるわけだから、そのカルマの法則を肯定する材料の一要因になるんじゃないだろうかと。そして次には、その生まれてくる環境、これは動物も人間もそうだけども、ある者はペットとして生まれてくると。そしてそのベットは、例えば、お金持ちのベットであれば、もうきちんとしたお世話がいつも行き届き、食べ物も不自由しないと。そして、遊びながら一生を終わってしまうと。しかし、そのペットですら心の本性の部分には、動物連鎖の死の恐怖がつきまとってると。
 問題はここです。しかし、動物はその死の恐怖に対して、何らとるべき手段を持たないと。つまり、生・老・病・死の、老・病・死、あるいは心の問題について、何らとるべき手段を持たないと。よって無智であると。
 これはもちろんペットじゃない他の生き物も同じであると。例えば、いろんな戯れの中に遊んでいても、敵が来たときものすごくおびえると。じゃ、人間はどうだと。人間も、当然無智であると。だから人間界にいると。しかし、人間の要素というものは、無智よりも情の方が優位なんだと。そして、人間界の上にある阿修羅の世界、嫉妬心、これと無智とがかなりの割合でミックスされてると。
 では、なぜ人間の世界は情が優位なんだと。それは動物の世界と人間の世界を比較してみましょうと。動物の世界は、要するに自己の生存、これにポイントが置かれていると。よって、生まれ、本能的に母親が育てなければならない部分を終わったならば、独立すると。ちょっと待てよと。だとしたらサルの群れはどうだと。いやだから、サルは人間と動物の中間位にあたると。ところが、人間の場合はそうではなく、両親に対する情、あるいlま兄弟に対する情、あるいは友人に対する情といったものが優位になってくると。そして社会を形成すると。
 じゃあ、出家はどうだと。じゃあその情を切ってるから、そして自己本来の生き方をしてるから、無智の世界に入るんじゃないかと。いや、そうではないと。なぜかというと、先程言った動物連鎖における死の恐怖というものに対して立ち向かうために出家をし、修行をしてるわけだから、当然動物の世界の無智ではないと。そして情も切ってると。つまり、動物・人間の世界よりも上か下かはわからないけど、その範疇にはないと。
 じゃあ、ね、なぜ人間の社会は「情」の社会だと言えるんだと。今わたしは、今の人間の社会を情の世界だとは思ってません。今は餓鬼・動物、ね、つまり、貪り、そして無智、そして情、まあ若干の嫉妬が加わってるとそう思ってる。いいですか。そして、動物の社会と人間の社会の形成の仕方を見るならば、明らかに違う。これはどうだ、K、ここはポイントだからな。

(K大師)違うと思います。
(尊師)何によって違うと思うか。
(K大師)動物の社会というのは、言ってみれば「群れ」と考えていいんでしょうか。
(尊師)うん。
(K大師)ええ。で、「群れ」を構成してる要素以上のものが、人間のその社会の要素として存在してると思います。
(尊師)で、その社会の規範、規範ていうか、基礎となってるものは何だと思うか。
(K大師)そうですね、ある場合は「法」であり、ある場合は「経済」であると思います。
(尊師)「法」と「経済」だと思うか。
(K大師)当然「情」もあります。
(尊師)情と法と経済の、----ま、いいや、じゃその経済的なもの、あるいはその法を制約するものがあるとしたら何だと思うかそれは。
(K大師)……。
(尊師)例えば人間社会を形成する場合、ここに三人の優秀な人間がいたとしよう。この優秀な人間の、A・B・Cのどれをとるかといった場合、何を基準として判断しますか。同じ条件だとしてね。条件ていうのは同じ実力だとして。
(K大師)実力は同じで。
(尊師)はいそうです。
(K大師)はい。個人的な、例えば好みですとか、そういった要素じゃないかと。
(尊師)「縁」じゃないか。わたしは「縁」だと思うけどね、それについては。今の人間の社会の規定からいくと。これが例えば君が就職運動をしたとか、そういうときの経験もあるかもしれないけども、どうだ。
(K大師)はい。
(尊師)それがかなりの強いウェイトを占めてるんじゃないか。
(K大師)決定する際にですね。
(尊師)そうだ。例えば「あの人はあの人の息子だから」とか、例えば、「成績ちょっと悪いけども、この人はこの人と縁故だからとろう」とか、そういう形で社会は動いてるんじゃないか、どうだ。
(K大師)はい、あります。
(尊師)これは、最もそのセパレートであるといわれているアメリカの社会においても同じことがいえると。例えば共産主義社会といっても、そうなってるんじゃないか、どうだ。
(K大師)はい。
(尊師)ということは、そのときに出てくる心の働きはどうだ。
(K大師)……。
(尊師)「情」じゃないか。
(K大師)はい。
(尊師)そして、わたしは人間界の主たるものが「情」だと言ってるわけだ。
(K大師)は、わかりました。

 このようなかたちで、----まあ今日はもう時間がないから、地獄・餓鬼、それから阿修羅・天界についての説明はしないけども----今日わたしがこの六つの世界の構成、心の働きとその構成について話したかった理由というのは次の点にあります。もう時間がないからね、ポイントを絞ると。この欲六界は苦しみの世界であると。この欲六界は苦しみだけの世界であると。苦しみ優位の世界である。例えば人を愛したら、その人が例えば自分を振り向いてくれなければ苦しくなると。例えば食べたいと思ってるときに、その食べ物がないと苦しいと。よって、この世は苦しみの世界であると。しかし先程言った、その六つの世界の構成要素を、もし完全に心からシャットアウトしてしまうならば、その人はこの欲六界に生きていながら、もうすでに欲六界に存在してないということになると。
 例えば例を挙げようじゃないかと。恋愛があると。例えば、ね、0さんがV大師を好きであると。ね、これはまあ真実だからいいと。V大師も0さんが好きであると例えばしようと。ね。で、0さんが今度は、そうだね、K大師を好きであると。つまり、0さんはV大師、K大師両方が好きであると。ところがV大師は0さんが好きであると。独占したいと考えたと。そして、0さんがK大師と親しく話すと、あるいは愛し合うことをすごく嫌悪すると。ね、これが、苦しみであるとわたしは言ってるわけだね。このときの心の働きというのは、君たちは愛だと思うか愛じゃないと思うかといったら、当然愛じゃないと言うだろう。愛情だと言うと思う。思うだろう。ね。その、情の入る部分で、V大師は苦しまなければならないと。
 もしV大師が0さんを認めると。そして、K大師とお付き合いすることも認めると。あるいは、V大師が自分と付き合うときも認めると。認めるというのはそれに対して全く心が動かないとしよう。このときにV大師に心に苦が生じると思うか生じないと思うか、どうだ。どうだ。生じない。そして、天界の世界はそういう構成要素でできてるんだよ。その一つ前の阿修羅の世界は、もうメッチャメチャに嫉妬の世界です。つまり独占の世界なわけだね。
 そして君たちが、そういう心の構成要素を一つ一つぶっ壊していくこと、これが君たちの修行の目的なんだよって。つまり君たちが、いろんな条件に自分の身を置いて、心がいろいろ働くと。その心がいろいろ働くとき、その心に翻弄されると、巻き込まれてしまう以上、欲六界にもうすでに存在してるんだと。人間の世界にいながら地獄を経験し、あるいは阿修羅を経験し、あるいは天を経験しているんだよということを認識してほしいなという思いがあって、今日この説法を行なったわけだ。
 例えばここに、情を超えた人がいるとしようじゃないか。そして、A・B・Cの三人がいたと。Cは自分と肉親であると。若干劣ってると。A・Bの方が少し高いと。その場合Cをスポッと捨ててAとBとに対して焦点を絞り、その本質的な発展を望むことができるかどうか、これが人生を成功するポイントであると。
 例えば、食欲というものに支配されていたとしようと。ここに、チャーハンと、それからオウムの聖食と、それからもう一つ、ステーキがあったとしようじゃないか、ね。例えば味覚にとらわれていたら、中国的な味が好きな人はチャーハンを食べたいと思うだろう。あるいは、西洋的な料理が食べたい人はステーキを食べたいと思うだろう。あるいは、菜食主義の人はオウム食を食べるだろうと。ね。しかし、問題は、例えば食から離れていれば、どの食べ物を食べたら本当に健康でいられるのかと、そして、長く生き、修行ができるのかということが意識できるかどうかであると。もし意識できる人は当然Bのオウム食をとるであろうと。わかるかな、言ってることは。
 そして、真実をありのままに見つめること、これは選挙運動にしろそうだし、あるいは救済活動にしろそうだけど、ありのままに見つめることは君たちに大きな恩恵を与えると。そして、そのありのままに見つめさしてくれないのは君たちの心の毒であると。そして、その心の毒がこの欲六界に君たちを生まれ変わらせるための要因であるってことだね。
 だから例えば、ねえ、K君がいて、K君をFさんが好きであると、大変。ほかにも何人かK君がプレーボーイ的に声を掛けて好きになった人がいると。そのときにK君を認められるかどうかだね。「あの人はあの人と好きだけど、わたしにも優しくしてくれると。だからわたしはそれでいいんだ」と、そういう気持ちになればそこで苦は生じないと。ならなければ苦は生じると。ね。
 もう一度、先程のV大師、0さん、K大師の例をとってみようじゃないかと。
 例えば、K大師と0さんが付き合ってると。それから、0さんとV大師が付き合ってるとしようと。ね。この条件というのは、V大師が嫉妬しようがしまいが存在すると思うかしないと思うか、どうだ。そこで苦が生じるのは、V大師の心の働きによって苦が生じるんじゃないか、どうだ。ということは、わたしたちが苦楽を経験してるのは心の働きだけなんいじゃないかと、どうだこれは。ということは、心の働きを完璧に止滅してしまうこと、これこそ最高のヨーガじゃないか、どうだ。個人において最高のヨーガであると。
 そして、それが三つ目のマハームドラーでなきゃならないと。あるいは、ジュニアーナ・ヨーガでなきゃなんないと。ところが、四つ目の大乗のヨーガに入り、シャクティーパットを行なうことによって、その止、止まり滅していた心の働きに、どんどんけがれたデータが入ってきて揺れだすと。ところがこれは自分のデータじゃないから、簡単そうに見えると。しかし、大量のデータであるからそれに翻弄されてしまうと。それを止まって、一つずつ考えればそれも全部止まってしまうと。ということは、他人のデータの中には止滅するデータが入り、自分にはけがれたデータが入ると。よってこれが大乗の修行であると。どうだ。
 今日はね、ちょっとりとめのない話になったけども、わたしが何を言いたかったかというのは、最後に言った結論だ。そして、そういう結論に到達するため、教理を、単に教義をね、記憶するだけじゃなくて、その背景にあるものを自分の中で長く考える訓練をしなさいと。一つの課題について二時間三時間と思索する訓練、精神集中ができなければ、本当のヨーガには到達しませんよということが言いたいわけだ。そして、それができる人、ね、その人は、もうマハームドラーの直前、あるいはジュニアーナ・ヨーガの直前ということになる。いいですか。
 そして、そこまでたくさんの人が到達するならば、オウム真理教の真理というものは、その法輪というものはどんどん大きくなるだろう。しかし、ね、そこまで到達しないで、安易に単に記憶していれば、相手を納得させることができないんじゃないかと思います。
 はい、それでは今日の講話を終わりにします。