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◆89/10/24 富士山総本部
尊師による激励会

 まず、君たちに一つ、わたしは文句がある。何の文句だと。それは、先程マハー・マーヤのお祝いの言葉でも述べたとおり、君たちは、一体何をやってるんだと。何をやってるんだとは、どういうことだと。たかだか三流の週刊誌がデッチ上げの記事を、ね、四回連載しただけで、もう自分たちは罪人の心になってしまっていると。しかし、今からオウムが対面していかなければならない社会情勢というのはこんなものではない。もし、これぐらいの内容でわたしはもうつらいと、ギブアップだと考えるならば、さっさとシッシャをやめる、あるいは長期バクティをやめて帰んなさい。
 なぜだと。なぜ麻原はそこまで言いきれるんだと。そんなのは当然じゃないかと。わたしたちが選挙に出るとき、すでにこのことは予想されていたはずである。すでにこういう事態がくることはわかっていたはずである。そして、わたしたちの作戦が的中すればするほど、相手は強い反撃を加えてくる。これも当然の理であると。であるにかかわらず、君たちと一緒にわたしは、今回の選挙は出るという話し合いをしたよね。そして、結局、最終的には満場一致でオウム真理教はこれから選挙に出るんだという決定を下した。であるならば、いかなる苦難があろうとも、その道を進まなければならない。そして、それがわたしたちの考えているシャンバラ化計画というものを実現する、必要かつ十分な条件----必要十分条件だね----であるとするならば、どんな苦難があろうともこの道を進まなければならない。
 そして、例えば国家権力の警察が実際に動いて、ね、例えばオウムの幹部を逮捕する、あるいはわたしを逮捕するというようなかたちで、選挙運動がストップされたわけではない。たかだか一つの雑誌が騒ぎ立てたと。それに乗っかって、テレビ局あるいはラジオ局が動いたと。ただそれだけじゃないかと。そして、そのテレビ、ラジオについては、わたしたちの正当な反撃によって、それをストップすることができたと。
 「サンデー毎日」は創価学会との癒着もあるし、それから自民党との癒着もあるから、当然やめてはこないだろう。しかし、そんなので、君たちがそんなのを読んで、その情報を入れて、自分の心の中にね、罪人としての心を持つならば、あるいは、後ろめたさを持つとするならば、救済が進むわけないじゃないか。君たちは、貴重な人生のとき、生きるということを、ね、今、この選挙運動、そして、救済活動に懸けているわけだよね。この救済活動に懸けていながら、一体何を考えているんだと。四区は十三人の立候補者が出るそうだ。しかしだよ、三百人近い人間が動いている選対などない、どこにも。これはわたしたちの陣営だけだ。ところが、君たちの心は五人で一人前、十人で一人前の本当に弱い心の働きをしていると。
 もう、例えば電話かけも、麻原彰晃というのはすでに悪名高い、そういう印象を相手は思っているんじゃないかと思って、電話をかけてると。宅訪も、テレビに出てましたねと。あ、もう相手は悪い印象を持ってるんだと思って、「いやー」、そこでもう逃げてしまうと。それは、君たちのカルマが悪いから、そう考えるんではないか。君たちの心の働きが弱いから、そう考えるんではないか。君たちは今、修行をしてるんではないか。心を強くするための修行をしているはずじゃないか。相手のペースでものを考える訓練をしてるのか、それとも、真理、法というものを背景にものを考える訓練をしてんのか、どっちだ!
 もし、真理というものが背景になかったならば、日々の活動は何の意味もなさないではないか。どうだ、それは。心に迷いが出てきたときこそ、例えば『イニシエーション』、例えば『マハーヤーナ・スートラ』、例えば 『マハーヤーナ』、こういうオウムの、ね、教えをもう一度ひも解いて見るべきなんではないか。それを君たちはやっているのか。
 わたしは、君たちのエネルギーが低下したとき、即瞑想に入る。何をやるかというと、供養の瞑想に入る。なぜ供養の瞑想をやるんだと。それは、三界----欲界・色界・無色界のすべての魂がマハー・ニルヴァーナに入るための供養の瞑想に入る。なぜだと。それは、わたしの日々の一挙手一投足が、あるいは瞬間瞬間の心の働きが、果たして、それに照らし合わせて正しい働きをしているかどうか、そのチェックをするためだ。そして、わたしはそれこそ修行だと考えている。もし、その原則から離れてしまったならば、今回の選挙は何の意味もなさない。あるいは、君たちに法を説くことそのものが意味をなさない。つまり、大切なのは動機だ。そして、その動機が揺るがなければ、その動機が絶対的なものであるならば、いかなる責め苦に遭おうとも、それについて心が乱れることはない。
 わたしたちは、類い稀な功徳を持って、今修行の道に入っている。じゃ、なぜ類い稀な功徳なんだと。例えば、編集の人がペンを執るとしようと。このペンを執るとき、自分の書いた文章によって一人でも多くの人が真理に結びつきますようにと、そう思念して書ける、そういうシチュエーションに自分の身を置くことができる。これは功徳以外の何ものでもない。一般の雑誌は何かというと、売るために書かなければならない。この原稿が売れますようにと。自分の名前が売れますようにと。お金が儲かりますようにと。大きな違いがある。
 君たちは、自分をかばいすぎてはいないか。自分のカルマを破壊していくことが修行であるということを忘れてはいないか。君たちは、君たちのなす最終の目的は、ね、完全なる自己破壊であると、自己のカルマの破壊であるということを忘れてはいないか。そして、本当はその破壊された後、最も素晴らしい自分、それが出てくるんだよ。マハー・マーヤの言葉、あるいはマンジュシュリーの言葉にもあったとおり、そのときこそ現世におけるマハームドラーの成就が起きるんだよ。なぜだというと、普段これが自分だと思っている自分、それは単なるカルマによって形成されている自分にすぎないからなんだ。そして、それを破壊するための選挙運動であるし、それを破壊するための救済運動でなければならない。そのとき初めて、大乗の修行と小乗の修行が合一するんだね。つまり、個における成就、そしてそれは救済につながると。
 ところが、自分をかばっていると、せっかく功徳が積めるチャンスにあるにかかわらず、チャンスを逃してしまう。そして一回、二回、三回と功徳を逃してしまうとどうなるかと。大きな功徳を逃すうちに小さな功徳まで積めなくなると。そして落ちてしまうと。
 もう一度、今日この瞬間を境に、自己を見つめるということをね、考えてみようじゃないか。そして、自己形成にとって何が必要なんだと。それは心を強くすることであると。
 いいチャンスじゃないか。これだけ叩かれてるんだから、もうこれ以上の叩きようがないだろう。そして、自分たちのなしていることにもっと確信を持とうじゃないか、ね。
 もう一度、マハー・マーヤのときの手紙を引用させてもらう。わたしたちは、殺生を一般の人に比べたらずっとしていない。盗みもしていない。邪淫もしていない。嘘もついていない。必要のない言葉を話していない。悪口も話していない。他人を仲たがいさせるような言葉も話していない。そして、心に貪り、嫌悪、ね、これを持っていないと。そして、真理を心から欲していると。
 本当に君たちがその実践をしているならば、なぜ惑う必要があるんだ。なぜ確信を持つことができないんだ。今こそ、言い方を換えるならば、最高のチャンスではないか、自分を痛めつける。そしてカルマを落とすチャンスではないか。そして、カルマの落ちた後は本当に、ね、綺麗な自分が登場する。それは、ちょうどけがれた車があるとしようじゃないか。それを洗車するとき一生懸命こするだろう。そしてあか落としをする。あか落としして、洗車した後ピカピカに光る車があると。それと同じだ。もしその努力をしなかったならば、永遠にけがれたままだ。
 もう一度考えよう。原則に立ち返ろう。わたしたちは真理の実践をしてるんだと。わたしたちの背景にあるものは法であると。そして救済であると。魔性に取り入られたけがれた心の働きによって、オウムをいかに攻めようとしても、そんなので揺るぐわけはない。そして、もしこういう状況で心が乱れ、落ちていくとするならば、それはそれだけのカルマしかなかったんだと、そう考えるべきだ。
 わたしは、今の状況を大変楽しんでいる。わたしの愛する弟子たちがこの苦境をどう乗り越えるかなと。そして、どう法輪を展開していくかなと。どのように智慧を使うかなと、ね。しかし、君たちの働きを見ていると、今のところ法輪の展開に対する意識がないと。救済に対する意識がないと。そして、智慧を使うということに対する意識が向いていないと。
 もう一度考え直そう。逆境になればなるほど、わたしたちは智慧の修行ができるんだと、極限の修行ができるんだということを意識して、今日この瞬間を境に、全力でやろう。それでは、これで話を終わる。