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◆89/10/10 大阪支部
四無量心のスタート

 ……すべてわたしにとっては些細なことであると。では何が些細なのかと。わたしは悟りを開いていると。だから外的ないかなる刺激に対しても一切反応しないと。そして、その事象を単々と処理すればいいと。
 今から、ね、七年半前、その薬事法の問題が起きたとき。わたしは大変精神的ダメージを受けたと。しかしその前から続けていた修行というものを続行し、そして悟りを開いた今、そういうものが一切魂の本性には何の関わりもないんだと。ただ、なしたことが返ってきた。あるいは相手が因を作り、こちらはその果報を受け、ね、果を受け、そしてまた相手は、その報いを受けなければならないと。単にそれにすぎないと。だからそういうことで乱れること自体意味がないと。ただ単々と処理をしていかなきゃなんないと。
 なぜかというと、ね、わたしはあそこにも書かれているとおり、宗教団体公益法人の長であると。そして公益法人の長である限り、皆さんを逆にね、真理に導き、導かなければならないと。だとするならば当然、ま、例えば先程の再審についても、わたし自体はね、もう面倒だからやりたくないと考えるわけだけど、ま、例えば、ね、大師方を中心として、これはどうしても再審しなきゃならんだろうと。そしてそれは公益法人での長であるあなたの役割でもあるというふうに言われたんで、ま、やらざるを得ないと。
 そして今回ほどわたしは成就の素晴らしさ、解脱の素晴らしさを感じたことはない。普通だったらねえ、これだけマスコミに叩かれれば、ぐたっとくるよね、がっくりくるよね。----なぜならば、自分は一生懸命やってきたわけだし、例えばフジテレビにおいては、オウム真理教イコールインチキ宗教ということになってるからね。
 そして話は飛ぶけども、そのインチキ宗教のオウム真理教の例えばダルドリー・シッディと。これは今八十五パーセントまで証明されているんだけども、ジャンプとそれからダルドリー・シッディの違いというものは、科学的に証明されつつあると。じゃ、どういうことかというと、これは臀部のね、お尻の筋肉の動き、そして脳波の動き、これをね、ジャンプのときとそれからダルドリー・シッディのときと両方とったわけだね。するとダルドリー・シッディのときは一秒前に波形の乱れが生じ、そしてジャンプすると。ところが意志してジャンプした場合は、初めから波形が乱れていると。それから、で、あと問題はその膝の筋計の動きによって、それが、もし全然違うならば完全にダルドリー・シッディと、それから普通のジャンプは違うんだということが証明できると。で、これについては、今、検討を重ねていると。
 ただ先程も言ったとおり、その二つについて全く違うわけだから、おそらく膝の動きについても違うだろうと。で、まあ逆にこうやってオウム叩きをしてくれればくれるほど、わたしとしてはありがたいわけだね。何がありがたいかと言うと、カルマが落ちると。ね、こうやって苦境に追い込まれるということは、そして叩かれるということは、それによって当然わたしたちの悪業が落ちていくわけだから。よってわたしは、大師あるいは選対の者に、逆におれたちのシャンバラ化計画というのは成功するぞと。で、現にね、変わった人がいて、麻原さん応援しますと電話もかかってくるわけだよ。もちろんいたずら電話もたくさんかかってくるわけだけどね。
 でだ、今日の本題。一体、大乗とは何かということだ。そして四つの無量心とは何かということだ。
 もしここに修行者がいて、その修行者は完全なエリートであったと。つまり人生において何の苦しみもない状態、ね、この苦しみのない状態を経験して成長したとしようと。どうだ君たちは。この修行者は他の苦しみが理解できると思うか。できないと思うか。当然、頭ではわかっていても、心では理解できないよね。
 例えば、ね、若いとき極道をやっていたと、そしてその極道というものが、苦しみの原因であるということを理解し、修行に入ったと。そしてステージを一つずつ上げていった人がここにいるとしようじゃないか。この人が、例えば、他の極道を見たときにどのように考えるであろうかと。どうだ、君たちは。今彼らはまだ迷いの中にいて、真実を理解することができないと。しかし、この人たちもいずれ仏性に目覚め、修行に入り、そして解脱へ向かうだろうと。そして今極道をやってる人に対して、悲、つまり哀れみの心を持つんではないか、どうだ。わかりますか。これが悲のスタートであると。あるいはその極道が、百パーセントの極道が、ね、一割、善を行なうようになったと。あるいは二割、善を行なうようになったときに、その人が次は慈、喜びの心を持つんじゃないか、どうだ。あの人は以前は百パーセント悪いことをやってたと。今は二十パーセントいいことをやってると、ね。この成長は素晴らしいと、そう考えるんじゃないか。どうだ。これが四つの無量心の、ね、スタートなんだと。
 そして、わたしたちの長い生まれ変わりというものを見るならば、いいですか、わたしたちは、過去においてたくさんの悪業をなしていると。そして、その悪業というものは当然清算してきているわけだけども、その中に没入してるときは、今、悪業をなしている人の心の状態であったということを理解しなければならないと。そして、その悪業をなしている人の本性に如来蔵、あるいは仏性と言われる、要するに、最終的には仏になるんだという種子を見いだせるか見いだせないかが、大乗の心を持てるか持てないかの境目なんだということを理解しなければならない。
 どんな状態であろうとも、人を見捨ててはならない。どんな状態であろうとも、こいつは駄目だと決めつけてはいけないんだね。そしてわたしたちが善を行なうか、あるいは悪を行なうかというのはその人の持っているデータによって決まるんだということを理解しなければならない。
 例えば一般の人はだよ、だれかの肩にハエが止まったとしよう。それを叩いて殺したと。ね、Aさんの肩にハエが止まってBさんが叩いて殺したと、これを善だと考えると思うか、悪だと考えると思うか、どうだ。あるいは善でも悪でもないと考えると思うか。そのハエをもし、ね、殺すならばAさんはありがとうという言葉を使うだろう、どうだ。ということは一般的には善だね。言葉の定義から言ったら、ありがとうというのは感謝の言葉だから善だね、どうだ。しかしわたしたちのものの見方からするならば、これは善であろうか、悪であろうか。殺生という悪を積んだことになるよね、どうだ。つまり同じ事象を、表から見る場合と裏から見る場合とでは結果が違うってことなんだよ。
 そして本当に人を幸福にするためには、その人の持っているデータを入れ換えてしまわなければならないと。そしてそのデータの入れ換えこそ、それをポワというんだね。意識を移し替えると。そして高い世界に高い世界のデータがあると。低い世界には低い世界のデータがあると。
 例えば、ここに煩悩を持ってる人がいたとしようと。で、この人が酒池肉林----って君たち知ってますか。酒池肉林。つまり毎日酒を飲み、ねえ、女をたくさん抱くと。これを酒池肉林というと。で、その願望を持ってる人にとって、その世界をのぞいたとき、何てあの人は徳の高い人だろうと、何とあの人は幸福だろうと考えるんじゃないか、どうだ。しかし----ではだよ、今度は修行者の立場から見て、酒を飲み、たくさんの女を抱いてる人がいたとしよう。この人を見てどう考えますか。あの人は何て徳をすり減らしてるんだろうと、ね。あの人の落ちていく先は動物か地獄だと。同じ事象に対して表の見方と裏の見方があるんだということを考えなければならないと。ね。
 そして本当の意味での修行者に、修行者の心になりきったとき、いかに社会的に迫害されようとも、あるいはいかに社会的に称賛されようとも、そういうことは一切意味がないんだと。そういうことは無価値なんだと。大切なことは自己の心を成熟させ、すべての魂の苦悩というもの、あるいは喜びというものを理解することなんだと。そして苦悩を取り除いてあげ、喜びを増大させることが修行の本来のねらいであると。
 すると一部の人がこう言うかもしれない。では麻原と。今、現にここに苦しんでいる両親がいるんだと。この苦しんでいる両親というものは、ほっといていいのか。ちょっと待てよと。本当に苦しんでいる両親を、ね、子供の出家によって苦しんでる両親を、麻原はほっとこうとしてるのかと。ね。----そうではないよね。では、なぜそうではないと言えんだと。なぜ言えるんだと。現に苦しんでる両親が十名にしろ、五名にしろいるじゃないかと。
 まず親子間の関係はどうだったのかと、その前に。ね。今、親が苦しみを持つ状況というものを過去において因をなしていないのかと。例えば、Yの例を挙げるならば、これYというのは、M。YはA・B・C・Dの何、どこだったっけ、あれ。
(M大師)Cです。
(尊師)Cか。例えばCさんの例を上げるならば、大変家にいるときはいい子で、ただちょっと幻想家だったと。しかし実際は一カ月間の監禁状態であったと。そして、ね、小さいときから彼女のなしてきた神秘体験を、「あなたそれ幻想よ」と。もちろん一般の人から見たらそうかもしれないと。しかし彼女はそれによって精神的な圧迫を小さいときから受け続けていたと。ところが親のステージが低いがために、その状態が理解できなかったと。で、----Cじゃない。あ、申し訳ない、Fだね----そのFさんの親というものは少なくとも子どもに悪業をなし続けたわけだね。少しずつ少しずつ、その果が今返ってきてると。だとするならば、ここでいったんカルマを落としてあげなきゃなんないと。
 しかも娘のやったことは、ね、出家をし、真理を実践することによって、ね、その果報というものは親に返るわけだよね。なぜならば、ここに善行をなした子供がいるとするならば、その子供を生んだのはだれかといったら親なんだから。その功徳というものは必ず返るだろうと、ね。で、その功徳が返れば親は安定するはずだと。幸福になるはずだと。ね。
 というのはどういうことかというと、もしここに癌細胞があったとしようと、ね。お腹を切るならば、当然傷がつくから切らない方がいいと考えると。しかしその切らなければ癌はどんどんどんどん、ね、成長していくんだと。で、その人をむしばみ、最後は生命まで落とすようになるだろうと。
 早い時期にその痛細胞切り落とすと。ね、切り落とすときに当然、苦痛が生じるだろうと。しかし切り落とすものは早く切り落とさなきゃなんないんだと。同じように、早くカルマを落としてあげなきゃなんないんだと。しかもそのカルマを落とすもう一つの、ね、メリットというのは、その子供が功徳を積むわけだから、その功徳というものは、当然親に返ってくると。
 そしてこれは少しわかりづらい説明だけど、もう一つの理由があると。それは人というものは、必ず別れなければならない。これは、わたしの最も好きな言葉----仏陀釈牟尼はこれを会者定離と言ってらっしゃると。ね、会う者は必ず別れなければならないと。それは無常であるからであると。例えば、死によって別れるかもしれない。あるいは、ね、生活のかたちが変わってきて別れるかもしれない。必ず別れなければならないんだということ。そしてその別れがカルマによって、早く来るか、あるいは遅く来るかの違いではないかということだね。
 わたしたちの修行は、死というものを背景に行なわれている。もしわたしたちの生命が永遠であるならば、もしわたしたちがこのかたちを保持し、ね、このかたちが全く変化しないと。あるいは五感が全く変化しなければ、しないとするならば、修行する必要はない。今の喜びに没入すればいいと。しかしわたしたちは、必ずトランスフォームするんだよね。必ずわたしたちは死ぬんだ。そして、その死のための準備を絶えずしなければならないんだと。そして、そのとき持っていけるものは何かといったら功徳と、精神集中と、思索をする力であると、ね。
 これは肉体から魂が離脱したとき、ね、あなた方が経験するだろうけども、肉体から離脱すると、そこに残るのは止とか観しか残らないと。止と観というのは一体何かというと、その本性を見ている意識と、それからその集中している本性だけであると。で、もし集中することのできない魂なら、魂は風によって、つまりカルマによって押し流され、次の生が決まってしまうんだということだね。ちょっと難しいかもしれない、これは。つまりそれはどういうことかというと、荒海に漕ぎ出した船と同じなんだと。精神集中、意志の力がなければ、その荒波に飲み込まれてしまうんだと。ところが精神を集中する力を持っていれば、その荒波を乗り越えることができるんだと。
 そしてわたしたちは、そのための修行をやっているんだと。そのときに持っているものは三つしかないと。一つは功徳であると、ね。もう一つは精神集中であると。それから、よりもう一歩進めて思索をする力であると。この三つが深い意識状態まで浸透するような修行を行なうならば、わたしたちに来世は怖くないと。いや正確な言い方をするならば、今生も怖くないと。なぜならば事象の動きがありありとわかるからであると。
 そして今君たちは、選択をする時期に差しかかっているのかもしれない。では一体、何の選択だと。それはこの人間の世界における常識というもの。ね。わたしはオウムに反社会性があるという文字を読んだとき、なるほどなと思ったよ。なるほどというのは、確かにオウムは反社会ということはできるだろうと。では、なぜ反社会ということができるんだと。出家というのは、現行の法律からいったならば反社会だからね。そしてオウムの例えば十戒というものも、今の社会制度には合わないと。そういう意味でいったならば反社会だろうと。例えば、ゴキブリがどんどんどんどん増えてくると。しかしオウムではそれを殺さないと。これは反社会であると。ね。そして今麻原彰晃叩き、オウム真理教叩きが、どんどんどんどん展開されてきてると。
 もちろん先程も言ったとおり、今週ぐらいから少しずつ少しずつ逆風が吹きだすだろう。今までの風の向きとね、違った逆の方からの風が吹きだすだろう。もうそれはシヴァ神のお力があるから、ね。瞑想によってそのようになることがもう約束されているから、そうなるであろう。少しずつ少しずつ、ね、風向きが変わってくるだろう。しかし君たちの周りというものは、なかなか変わらないかもしれないね。それはなぜならば、もともと日本の、日本人の中には、反宗教という考え方を潜在的に植え付けれらているからである。
 しかし、本来これもおかしな話だ。なぜおかしいかと。それは盆のときは、当然盆休みがあると。この盆というのは完全に仏教観にのっとったものであると。そうだね。それから葬式は、当然仏教の方式で行なわれると。ね、あるいは三回忌。ま、一回忌、三回忌、あと十回忌と四十九だったっけ?----回忌か。というふうに、ね、決められた年に先祖供養を行なっていると。で、ありながら宗教はダメだと言っていると。つまり自分たちは、自分たちの観念によって宗教を行ないながら、宗教は駄目だと言っていると。そして、ね、意味のない生臭のお坊さんに、修行してないお坊さんに、ね、例えば墓、ね、戒名料と言って何十万とか、何万円とか、ね。あるいは墓を一つ作って何百万とか、何十万とか使ってるわけだ。ところが、これがこと新しく起きてきた宗教だと、宗教にね、対しては、逆に金儲け教団であると。ね。しかもインチキ宗教であると必ずこのレッテル張られると。
 最後にね、わたしは君たちに予言とも言える、あるいは約束とも言えることをしたはずである。それは何かと。オウム真理教はいずれ社会的な叩かれ方をするだろうと。あるいは麻原彰晃も同じように叩かれるだろうと、ね。そしてそのときこそ、オウム真理教が飛躍する年であるし、オウム真理教が発展する時期なんだよと。これは約束しましょう。必ずオウム真理教は、今の中堅の宗教から大型宗教へと発展していくだろう。
 実はね、わたしは、お誉めの言葉を雑誌社の方から、あるいはテレビ局の方からいただいてるんだね。雑誌社は、ま、『フライデー』の取材の方々だけど、「麻原さん」と。「大きくなっていく教団というものはこういうものですよ」と。「これは有名料だと考えたらいいですね」と。「必ず叩かれますよ」と。「今まで叩かれてない教団はいませんよ」と。確かにそうだ。立正佼成会は昭和三十年代の前半に国家質問受けてると、ね。創価学会は昭和二十年代に、二十年代以降だねえ、大変有名な、ねえ、マスコミの餌食になっていると。今、中堅より少し上の阿含宗しかりと。あるいは真如苑しかりと。そしていよいよオウム真理教もその仲間入りができたと、できたかと考えると。何と考えていいかわからないと。
 それからもう一つ、これはね、フジテレビのアナウンサーの言ったことだけど、「麻原さん」と、「大変論理的で納得できるものでした」と。ま、だから、血のイニシエーションのとこしか撮らなかったわけだけどね。彼らオウムを叩くつもりで、ね、オウムを叩くつもりで番組を作ったわけだから。
 そしてもう一つお誉めの言葉、ね、麻原彰晃というのは、もうまさに新興宗教の教祖と。つまりそれだけのカリスマ性があると。ね。わたし自体はあまりカリスマ性というのはないと自分では思ってるんだけども、カリスマ性があると。タントラの道、ヴァジラヤーナの道といった、ま、オウムには最高峰の教えがあるわけだけど、少しずつ少しずつ、ヴァジラヤーナの教え、あるいはタントラヤーナの教えも含めて説いていきたいと考えますから、ね、自分の心の終局、ね、完成を目指して修行に励んでほしいと思います。それではこれで今日の説法終わります。