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◆89/10/9 富士山総本部
真実と真実ではないものをはっきり見極めること
君たちは、『サンデー毎日』の一回目の記事、二回目の記事、そしてフジテレビ、まあ今日の文化放送も含めて、今マスコミでオウム真理教の問題、あるいはわたしの過去の問題について、まあ、あることはあること、ないことはないこととして、取り上げられている。そしてそれについて、まず修行者としてはどのように考えなければならないか、そして、その背景にある世界観についてね、君たちに今日はお話をしたいと考えます。
昨日の、十一時ぐらいだったかな、信徒さんを対象として、第二回目の『サンデー毎日』の記事について説明をしました。まあ、この内容については、いずれ君たちの耳にはテープとして届くだろうから、ここで説明することは省略させていただく。しかしね、まず考えなければならないことは、すべてはカルマによって生じたんだということだ。そしてこのカルマというのは、良しにしろ悪しにしろカルマによって生じたんだということだ。わたしがもし解脱をしていなければ、今回の問題で大きなダメージを受け、そして、ね、わたしは、すぐぐったりくる方だったから、何日も何日も寝込んでいただろう。しかし、今のわたしにとっていくらマスコミで叩かれようが、あるいは批判を浴びようが、反省しなければならない点は反省するし、でたらめの部分についてはきちんとそれに対して、相手にね、お返しをしなければならないと、そう考えている。
実は先週の金曜日、マイトレーヤ大師とそれからA弁護士が、『サンデー毎日』の、まあそのときちょうど編集長がいなかったそうだけども、その下のデスクと、デスクのサカイさんにあったとき、まあ週刊誌というのはとにかく二割三割本当のことあれば、もうそれでいいんですよというような言い方をしたそうだ。しかし、実際はそうではないよね。読んでる人たちは、それを十として見て読んでしまうと。そして例えば、反撃の内容を書いたとしても、ね、同じ雑誌で同じ人が読むとは限らないわけだから、雑誌社は当然悪業をなしたことになると。そしてそれについては、それの当然報いを受けなければならないと。
そして、第二号の内容については、先程も言ったとおり、テープで詳しくは説明するけども、要するに、わたしの過去においてなした一つの無智から生じる結果と。で、ここで、そのカルマが返ってきたということは、わたしはシヴァ神の愛ではないかと考えている。なぜ愛なんだと。それは今まで、オウム真理教の流れを見て感じることは、必ずこういう問題----こういう問題というのは、オウム真理教にとって不利益な問題が起きたあと、まあ信のない信徒の方あるいは弟子が落ちると。そして、逆に、そのあと大きくなっていくと。
例えばオウム神仙の会から、オウム真理教に移行したときもそうだったね。「いや、自分たちは神仙の会の方がいいんだ」と。ね、そこで落ちていった人たちがいると。「自分たちは、小乗のヨーガを学びたいんだ」と。そこで落ちていった人たちがいると。ところがオウム真理教というのはそうではなくて、小乗のヨーガはもちろんペースにあるわけだけども、当然大乗のヨーガが存在していると。当然救済というものが背景にあると。
そして今回も、一部の信徒、あるいは一部のシッシャの方が落ちるかもしれない。もちろん、第二号に関しては、ね、わたしも因がないわけでもないから、大いに君たちと話し、そして君たちの、ね、納得、得心のいくような道の選定のお手伝いをしたいと考えています。
で、ここで問題なのは、なぜそういう問題が起きたかと。よく考えてみょうね。今から二千五百年前、仏陀釈迦牟尼は、兜率天から生誕なさったと。降誕なさったと。そして、そのときには、ね、スッドーダナ王、そして、マハーマーヤーを父母とする子供としてお降りになったと。カルマというものは面白いもんでね、冷静に見つめればよくわかるわけだけども、仏陀釈迦牟尼の出家までの生活というものは、戯忘天の生活であったと。ね、夏は夏の宮、ね、春は春の宮、ね、そして雨季は雨季の宮と。そこで多くの女性たちが侍り、仏陀釈迦牟尼を楽しませたと。しかし、もともと戯忘天のカルマをお持ちの仏陀釈迦牟尼は、その状況に身を置かれたけども、心はそうではなかったと。そして、どうなられたかというと、出家なさり、ブラフマンの道を歩かれたと。そして、ブラフマンまでの道を修められ、ね、そして、大乗の道を修められ----大乗の道つまり光音天の道を修められた段階で、「わたしは自己の内側の平安だけに身を委ねてていいんだろうか」と。「いやいやよくない」と。ね。「多くの人たちが、やはりこの人間の世界でのたうち回ってる」と。「その人たちを済度しなければならない」と。そして、多くの弟子を、それから持つようになられるわけだ。
釈迦牟尼の教団も初めのうちは、「あいつはインチキだ」と、「あいつはクシャトリヤである」と、「あいつは武士である」と、ね。君たちの知ってるとおり、インドには大きな四つの階級があると。それはブラフマンの階級、これは、ね、バラモンともいわれているけども、要するに宗教的階級と。それから次はクシャトリヤの階級と。これは王族、武士の階級と。そして、ヴァイシャの階級と。これは、商人の階級と。一般市民の階級と。そしてシュードラの階級と。これは、奴隷の階級と。この四つの階級に分かれていると。そして、武士の階級から、ね、真理の法刀を引っ提げて登場なさった仏陀釈迦牟尼、この仏陀釈迦牟尼を当時の宗教界が、よしとして認めるはずがないと。そして仏陀釈迦牟尼は、その人たちに対しで真理の法を説き、必要とあらばいろいろと神通力の実験をお見せになって、そして衆生を済度なさったと。
今、まさにオウム真理教は、一つの大きな過渡期にさしかかってるんではないかと考える。昨日のアーナンダ天人の実験ね、ダルドリー・シッディが果たしてジャンプであるのかジャンプでないのかという実験については、大変肯定的なデータが出ていると。なぜここで肯定的と言ってるかというと、ね、まだ完璧な百パーセントの証明がされてるわけではないから、一応肯定的という言葉を使っておきましょうと。じゃ、どういうデータだといったら、これをお尻にね、筋電計を当て、そして脳波を測定して、ダルドリー・シッディとジャンプの状態を測ったところ、ダルドリー・シッディは、ダルドリー・シッディ前一秒のときにそのお尻の筋電計、あるいは脳波が動くと。ところがジャンプに関しては、もうその準備をする前、数秒には動き出してる結果が出ていると。しかし、それを測定してらっしゃる、ね、わたしたちと同じ、ま、信徒のSさんは、膝で飛んでるように見えるから、まあひざの筋肉の動き、筋電図の動きを見なければ、はっきりしたことは言えないからと。大変慎重なお言葉だとわたしは考えているね。
そして、このようなかたちで、成就者の呼吸停止、あるいは、ね、ダルドリー・シッディ、あるいは水中サマディを深めたいろんな実験を通して、今、この無智の世界に没入し、この世しか存在しないんだという哀れな人々に、真理の法を展開する、これがわたしの役目であり、そしてあなた方の役目であると、わたしは考えています。そしてもう一つ、そのような修行環境を充実させるためにも、そして、今生まれてきている子供たちに正しい生き方をさせるためにも、なんとしても今回の選挙には勝たなければならない。
最も大切なこと、それは、あるものはある、ないものはない、真実は真実、真実でないものは真実でないということだ。例えば、ここに車があったとしようと。そして、友人がいたと。その友人が急に倒れたと。どうすることもできないと。そのとき、その日の前にあった、ね、車に鍵、キーがかかっていたと。そのキーを使って、その車に友人を乗り込ませ、そして病院まで運んだと。警察は、それを車ごと持っていくだろう。現象的に見たら、黙って人のものを使ったのだから泥棒であると。果たして、そのときの、運んだ人の判断が正しかったか正しくなかったか。点を見たならば正しくないと。なぜならば人のものを盗んだんだからと。しかし現象を見、例えばそこでもし友人が救われるならば、それは正しかったということになろう。
大切なことは点ではなくて、その流れであると。しかし、現代の法律というものはそうではない。あくまでも点である。それマスコミも同じだ。あくまでも点である。その点をとらえてしまう。だから君たちは、あるものはある、ないものはない、真実は真実、真実でないものは真実でない、善は善、悪は悪、それについてよく自分の内側にある、最も信頼できる部分で判断をするようにしなさい。
そして最後に。人間が受胎し、人間の形を形成するまで、単細胞から変化をし、は虫類、そして、ま、魚類・は虫類だね。そしてまあ、人間の形をたどっていくわけだけども、修行者も同じであると。つまり、人間として生まれ、成長の過程で地獄のカルマを切り、餓鬼のカルマを切り、動物のカルマを切り、人間のカルマを切り、阿修羅のカルマを切り、そして戯忘天のカルマを切り、天人のカルマを切りね、そしてブラフマンのカルマを切り、そして最後は救済の世界、光音天の世界に没入すると。そしてその途上において、いろいろな過ちを犯す。
わたしの慈悲の背景になってるもの、それはわたしがよく言ってることだけども、わたしも以前はこうであったんだと。わたしも以前は罪を犯したんだと。だからなんで、今罪を犯してる人に対して、その罪を憎むことができようかと。その人を憎むことができようかと。そしてこの心の働きこそ、わたしは慈悲の悲、悲しみだと考えています。
あなた方が、真理の実践をなさり、地獄のカルマを切るときの肉体的な傷、餓鬼のカルマを切るときの空腹、動物しろ大乗にしろ、ポアの間にしろ選挙にしろ、そんなことはどうでもいいと。要するにそこに救済のかたちがある以上、その救済に自分自体を、自分自身をすべて投げ出そうと考えるならば、その者は金剛乗の道を歩いてると考えていいだろう。
大切なことは、わたしたちが生きているということだ。そして生きている意味合いが、菩薩に裏づけされている者、あるいは修行者として裏づけされている者ということだ。その点をよく考えて、三乗の意味合いをよく考えて、あるいは戒・定・慧の意味合いをよく考えて、あるいは救済の意味合いをよく考えて、全力で修行するようにしなさい。いいね。
(一同)はい。
(尊師)例えば、これだけの人数がいるのに、君たちの声ってのは小さい。それは魂がこもってないからだ。言葉に心が乗っかっていないからだ。自分の行為の、言葉の、心の働きの、一つ一つに心を乗っけるようにしなさい。いいね。