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◆89/8/12 富士山総本部
修行者の三つの生き方

 今日は、ね、久々に、選挙運動じゃなくてきちんとした説法をしなきゃいけないんじゃないかなと考えています。
 まず、わたしたちの生き方には、三つの生き方があると考えたらよろしい。その一つはオウム真理教を利用し、そして、先程Y君の質問じゃないけども、すべてを否定し、ね、四諦八正道の理念に基づいて修行を行ない、苦から離れ、涅槃すると。この場合ポイントになってくるのは、まず、戒をきちんと守り、そして、苦悩を滅尽するための四つの心の、心を集中させる部分にね、綜制を施して、瞑想を行なうと。もちろん、ね、これは何かというと四念処の瞑想だね。これをベースとして瞑想を行なうと。
 そして次に、もちろん戒は守り、自分が生まれてきたことは他の多くの魂のためであると認識し、そして自分がけがれることもやむなしと。けがれたらまた、オウムは大乗だから、その浄化のプロセスに自分を置き、自己を浄化し、またけがれると。これは、わたしも実践してる道であるけども、大乗の道であると。これはかなりの、本当の意味での強い意志の力、そして強いモラル、そして愛が必要であると。これが大乗であると。
 次に、そのけがれる具合、たとえ自分は地獄へ落ちたとしても、他の魂のために自己は存在していると。たとえ犯罪人、犯人にされようとも、非国民にされようとも、ね、たとえ警察を敵にまわそうとも、自己がここに存在する理由とは何かと考えた場合、今の魂の救済であると。そして自分自身を捨て去ることであると。自分自身をね、いけにえにすることであると考え、自己をその中に置き、救済活動に没頭する、これが第三の道、ヴァジラヤーナ、金剛の道であると。この三つのプロセスがあると。それは、個々の特性、個々の発願、ね、ま、仏教用語では「ほつがん」と言ってるみたいだけど、ね、現代では、ありゃ「ほつがん」と読まないか、発願だ。発願し、自分自身が未来際において、本当の意味でタントラの仏陀になるため、もとい、金剛の仏陀になるために、修行すると。
 この三つの生き方があると。そして、小乗の修行者は、もちろん凡夫・外道に比べたら、ずっと心は強いと。大乗の修行者は、もちろん小乗の修行者に比べたら、心はずっと強いと。金剛乗の修行者は、もちろん大乗の修行者に比べたら、ずっとずっと心は強いという順番になると。そして、それを支えるもの、これが教学であり瞑想であると。もし教学をすることがなかったならば、ねえ----わたしはこの前、「9801」を富士通と言ったみたいだけど、あれは実際NECの間違いだね----これはワープロでもそうだし、コンピュータでもそうだけども、あるいはテレビでもそうだけども、そのデータを引き出してくる、そういう要素がなければ、わたしたちは小乗の道にも、大乗の道にも、金剛乗の道にも入れないんだってことを理解しなければならない。そしてそれが教学であると。
 小さいころから、殺生・偸盗・邪淫・妄語・綺語・悪口・両舌、そして、貪り・嫌悪・無智といったような、十の悪に身を置いた者がここにいたとして、一体その十の悪から脱却し、そして果たして、小乗の解脱をするというプロセスに入った場合ね、その十の悪道から脱却するデータなくして脱却できるのかという問題だね。
 例えばわたしたちが、ね、三かける三は九であると、「さざんが九」と覚えているとしようと。ね。ところが、小さいときから、三かける三は十二であると徹底的に教え込まれている者がいたとして、これは三かける三は九であるという、そのように----もしそれを正当とするならばだよ。なぜわたしが「もしそれを正当だとするならば」と言ってるかというと、この「さざんが九」というのも一つの約束だからなんだよね、実際は。例えば「さざんが十二」でも構わないわけです。----もし、「さざんが九」というのを正当だとして、小さいときから「さざんが十二」と教え込まれてるとするならばだ、どうだ君たち。「さざんが九」を知る術があると思うか。
 ところが、わたしは近ごろのシッシャを見て感じることは、それから大師を見て感じることは、そこに気づいていないんじゃないかと思うんだね。ベースにあるものはデータであると。例えば、その要素を分析するにしろ、ね、データあってこそ初めて分析できるんだと。例えばここにお風呂があったとしようと。その湯船の中に半分お湯が入っていたと。そこには四〇度のお湯が入っていたとしようと。ね。これに二〇度のお湯を、あ、水をね、ま、お湯だね。お湯、水どっちかなあ。難しい問題だけども、ま、要するに二〇度の、液体(笑)、水だ。どっちだこれは。マンジュシュリー、(笑)水でいいか。二〇度の水をいっぱいになるまで入れたと。もちろんこぼれないという条件のもとに。半分二〇度の水が入り、半分四〇度のお湯が入っていると。当然これは混ざるわけだね。これは外的条件がなけりゃ三〇度になるんだろ、ちゃんと。そして三〇度になったと。しかしだよ、もし温度という概念がなければ、どうだ君たち、四〇度、二〇度、ね、それから三〇度という結果が出てくるか出てこないか。あるいは熱いという概念、あるいは冷たいという概念がなかったらどうだ、熱いお湯が、ね、冷たい水を入れてぬるくなったという考え方が出てくるかどうかだ。
 そして特に近ごろの新人シッシャの教学はなってないから、事に臨んで正しい判断ができないと。例えば、ポアの間があったとしようと。ね。ポアの間を恐怖だと考えてるバカ者がある。出家し、真理を学び、そして瞑想し解脱していくというオウムの崇高なプロセスがあると。当然わたしたちが、ね、これは正しい正しくないと判断するのは、真理であると。そしてその真理が、三日にしろ五日にしろ十日にしろ、ね、真理を学ぶだけの時間が与えられると。こういう恵まれた環境を与えられているにかかわらず、「わたしは閉じこめられたんだ」と。では一体、ね、わたしはその者たちに問わなきゃなんない。なぜあなたは出家したんだと。あなたは解脱するために出家したんじゃないのかと。あなたは教学し、ね、菩薩の道を歩くために出家したんじゃないのかと。そして、その教育ができていない大師に対して、わたしはバカ者と言いたい。
 ここに集っている者は、大変優れた、ね、魂の持ち主であると。だから、真理の実践ができる。今この、殺生・偸盗・邪淫・妄語・綺語・悪口・両舌、そして心に貪り・嫌悪・無智といった十悪に染まっている日本の中において、その十の悪道から離れ、真理の実践ができるというこの崇高な魂をわたしは預かっている以上、君たちを、一日も早く、本当の意味での自由・幸福・歓喜を与えなきゃなんない。そのためには、ね、破壊神シヴァのかたちでも、あるいは、慈悲の神ヴイシュヌのかたちでも、あるいは創造の神ブラフマンのかたちでも、あるいは、愛の神カーマデーヴァのかたちでも、あるいはすべてを破壊し尽くすグヤサマジャのかたちでもとろうと考えている。
 それは何のためになされるのか。それは君たちが、ここに望んでシッシャとして来ている以上、わたしは君たちを成就、そして最終的な解脱させなければならないからだ! もし、それがなされないとするならば、わたしがこの世に存在する価値というものはゼロである。もし君たちが君たちを破壊することを恐怖するとするならば、わたしはマイナスである。
 そして、近ごろシッシャを見て感じることは、小乗の道すら歩いてない。自己がここへ来た理由、それは三つの道----小乗を修めるか、大乗を修めるか、あるいは大乗を歩くか、あるいは、金剛乗を歩くかしかないわけだ。そして自分が、それを好き好んで来たということは、その道を歩かなければならない。
 なにゆえに師といえるんだ、なにゆえに弟子といえるんだといったら師というものは、弟子を愛し、弟子がどのようにしたら成長するだろうかと、どのようにしたら教学ができ、どのようにしたら瞑想ができ、どのようにしたら高いステージへ上がることができるんだろうかと、どのようにしたら功徳を積むことができるだろうかということを考え実践する、これが師の役目であると考えてる、わたしは。そして当然、大師もその役目を担わなきゃなんない。
 じゃ、どのようにしたら弟子だろうかと。これは、師の意向を理解し、実践し、そして師に報いると。これが、弟子の役目であると。ここは、井戸端会議の場所でもなければ、駆け込み寺でもない。ここは偉大なる完全なる絶対なるシヴァ神の御許で修行する者のみが集う場所である。そして、今回のポアの間はわたしはね、教学だけではなく、イニシエーションの場であるとも考えている。
 わたしの体は一つしかない。今も三百名以上の弟子たちがいる。どのようにしたら、君たちに、わたしのヴァイブレーション伝えることができるだろうかと、どのようにしたら、君たちを早く教化することができるだろうかと。これがわたしが日々考えていることである。そして、今回の選挙の件も、わたしの大乗の修行の一つの現われであると考えなさい。
 結論からいうならば、通ろうと通るまいとそういうことはどうでもいいと。ね。ただ、オウム真理教の真理というものをどのようなかたちで伝えるか、いかなるかたちをとろうとも、オウム真理教の真理をこの日本全国にばらまかなければならない。
 ポアの間、そして今回の選挙、これはすべて今までの宗教理念というものが、オウム真理教の真理というものを背景として打ち出された内容であると、そのように理解できることができる人がいるとするならば、その人はすでに大乗の道を歩きだしたと考えていいだろう。選挙のことは理解できないが、ポアの間については最高のシステムであると、日々のワークに集中し、自分もポアの間に入り、教学を進め、いいヴァイブレーションを受け、できるだけ高いヴァイブレーションを周りに発そうと、そして早く自己の解脱をしようと考える者がいるならば、それは小乗の道を完全に歩いていると考えていいだろう。あるいは、小乗にしろ大乗にしろ、ポアの間にしろ選挙にしろ、そんなことはどうでもいいと。要するにそこに救済のかたちがある以上、その救済に自分自体を、自分自身をすべて投げ出そうと考えるならば、その者は金剛乗の道を歩いてると考えていいだろう。
 大切なことは、わたしたちが生きているということだ。そして生きている意味合いが、菩薩に裏づけされている者、あるいは修行者として裏づけされている者ということだ。その点をよく考えて、三乗の意味合いをよく考えて、あるいは戒・定・慧の意味合いをよく考えて、あるいは救済の意味合いをよく考えて、全力で修行するようにしなさい。いいね。
(一同)はい。
(尊師)例えば、これだけの人数がいるのに、君たちの声ってのは小さい。それは魂がこもってないからだ。言葉に心が乗っかっていないからだ。自分の行為の、言葉の、心の働きの、一つ一つに心を乗っけるようにしなさい。いいね。