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◆89/7/15 富土山総本部
成就者と凡夫の違いについて/四つの縁について

 今日はね、まず、成就者と凡夫の違い、そして、縁についてね、話したいと思います。なぜ急に、今日の話をしようと考えたかというと、実は、シッシャだったN君と、それからA大師に、ね、独房で四日間の断食・断水の修行を命じました。んで、N君は一日と数時間でギブアップして脱走と。A大師は四日間平然とこなしたと。もちろん四日間、断水断食というのは、現代の生理学的な見方をするならば、かなり危険な、ね、修行であると。しかし、何の苦痛もなかったと本人は言っています。これが、オウムの大師です。
 そして、ね、スワミ・D君、彼も、まあ、本人はいろいろ揺れてるとか煩悩があるとか以前は言ってたけども、平気で三日間の断水断食の修行をしましたと。つまり、オウムのラージャ・ヨーガというのは、インドで規定されているラージャ・ヨーガのレベルをキープしているということです。ただし、オウム真理教の、ね、システムそのものが、在家とまみえながら、あるいは在家にとけ込みながら修行をしなければならないという大変悪コンディション----ま、わたしはいいコンディションだと思ってるわけだけど----その状態をキープするには、大変悪い状態で修行を続けなければならない。よって、例えばオウムのスワミは、オウム真理教にだけにしか通用しないんだというような悪評を立てられるわけだね。しかし事実はそうではないと。事実は、例えば同じ条件だったならば、同じことはできますよと。しかし、条件が違うから仕方がないんだと。
 そりゃそうだね。例えばここにだよ、馬がいて、この馬に荷物を載せなければ、ね、時速八〇キロで走るとしようと。ところがこの馬に、例えば、千キロの荷物を載せたら走れるかどうか考えてごらんと。わかるね、言ってることは。それが、オウム真理教の今のスワミ、あるいは大師のカルマなんだね。そして、これはこの前も話したとおり、今、オウムのシステムをきちんと実践し、大乗の四つの無量心の、ね、心を持って、修行を続けるならば、どうかな。光音天という、有の世界の中で、アストラルの世界の中で、最高の世界へ入ることができますよと。だったね。これは仏典にも書かれてることだよと。だから、土壇場のときの精神力、ね、これはやはり、スワミはスワミとして尊敬さるべきものがあると。大師は大師として尊敬さるべきものがあると。
 ね。きっと、D君のときには、三日間の断水断食というのはかなりつらかったんじゃないかと。しかし彼はそれをこなしたと。意志の力によってと。A大師のときには、それは平気であったと。ね、これが、ま、スワミと大師の違いであると。逆にN君は、一日でギブアップしたと。これが要するに、まだ修行の進んでいない人のレベルであると。だからわたしは、わたしの認めた者、この人はスワミとしてOKであると、この人は大師としてOKであるという規定があるよね。その人たち以外の霊的体験というものも大したことではないという話をするわけだね。それは最終的には、心の強さというものが原因してるからであると。
 だから君たちも、ね、今のオウムのシステムにのっとって修行を続けていけば、確実にステージは上がっていくんだと。ね、例えばもちろん、スワミ・D君も、ね、四日や五日間の断水断食が平気で、ね、何の苦もなくできるようになったときは、大師として、ね、D大師として誕生するだろうと。だから最後のひと踏ん張りね、修行もそうだけど、絶えず限界を心がけて、みんなが修行するならば、必ずスワミ、あるいは大師として、ね、救済のためにお役に立てるから、今回のA大師の例にならって全力で修行してほしいと。これが今日の一つの話である。
 それからもう一つは縁、今日の本題はこちらにあると。一体、菩薩との縁、ね、これはどのような縁が素晴らしいんだろうかと。ね。縁には、四つあるということだね。
 まず、第一は、順縁の真といわれている縁ですね。順番の「順」に、縁起の「縁」に、真実の「真」と。ね。 この順縁の真とは何かというと、前生からグルに奉仕をし、仕え、そして、ね、グルのために身命を絶えず投げ出していた人が、グルの修行のお手伝いをし、救済のお手伝いをするカルマを持って今生生まれ、そして、そのようになると。ね。これが第一番目であると。
 そして第二番目が、逆縁の真というカルマがあると。これは何かというと、前生でグルに対して悪いことをなし、その悪いことをなした、ね、中に、心の反省というものがあり、そして、それを縁として今生生まれ変わり、グルに奉仕をする場合と。ね。これが逆縁の真であると。
 で、三番日にくるのが、順縁の偽というものがあると。これは、要するに、修行以外のことではグルのお手伝いをするんだけども、修行になったら足を引っ張った縁によって今生生まれ、そして、ね、グルに対して、ね、楽しい思いをさせることはできる。例えば物質的とか、例えば経済的とか、ね、楽しい思いを与えることはできるんだけども、修行の邪魔をすると。これが、順縁の偽----ギってのは偽りだね。偽であると。
 そして逆縁の偽というのは、修行の邪魔を前世においてし、そしてそれを喜ぶと。徹底的なけがれたカルマによって、今生生まれ変わり、また今生も同じように、修行の邪魔をし、喜ぶと。これが、逆縁の偽であると。
 この四つのパターンがあると。そして、ね、菩薩とは縁がないよりも、この四つの縁があった方がいいんだと。なぜならば、ね、ま、例えば、宗教法人の問題で、今のH君のお母さんが、オウム真理教に対して多大な迷惑をかけてるけど、わたしは、そのお母さんに対して何の恨みもないし、逆にいいことだなと思っていると。きっとこれは、来世また逆縁の偽によって縁を結び、いずれは逆縁の真、そして順縁の真として、ね、わたしの弟子として修行するんじゃないかなと考えてるからであると。
 例えば、ね、今わたしの奥さんとしているマハー・マーヤ大師、ね。マハー・マーヤ大師は、前生も前生も、かなりの生、わたしの奥さんなわけだけども、この生の中で、何生か、浮気をした生があるんだね。間男を作った生があると。ね。その第一の例がX大師であると。いや笑い事じゃないよ。ね。この生は、とにかく八名の子供をつくったわけだけど、この生はわたしがまだ修行者として未熟な状態というか、かなり心に執着を持っているときの生なんだね。で、やはり山の近くに住んでいて、八人の子供がいて、で、大きい子供たちだけ五名、ね、どうも山の様子がおかしいからと言って、引き連れて、都会に疎開したわけだね。そのあいだを縫って、狙って、間男したのがX大師と。
 で、ところがX大師自体もかなり真面目な性格で、マハー・マーヤ大師に尽くしたわけだけども、最後はやはり、ね、X大師も、もともと飽き性の性分は変わらないから捨てたと(笑)。ただ、その間男をしてるときに、心にやましさがあって、わたしに対していろいろなその思いを生じさしたと。その縁によって今生は成就したと。これは、逆縁の真だね。わかりますか。
 だから今生もX大師は、一生懸命グルを意識して功徳を積むときと、ね、そうじゃなくてちゃらんぽらんにやってるときと両方あると。これはまだその生の、ね、カルマの性質が切れきってないんだね(笑)。
 ね。もう一つは、これは、M大師であると。ね。このときの生は、結構近いと。近いといっても、例えば、一生前とか二生前ではないね。そのときの生は、わたしは王様であったと。そして、マハー・マーヤ大師は、ね、もちろん女王様だったわけだけども、わたしが病に伏したわけだね。で、そのとき、大臣だったM大師が、それにつけ入って、結局(笑)、間男をしたと。
 で、もちろん王様に対する帰依心もあったんだけども、マハー・マーヤに対する愛情の方が勝って、ね、心の後ろめたさと、それから王様に対する愛情と両方が葛藤したときの生なんだね、これは。
 で、まあ、その縁によって、M大師との縁ていうのはずいぶん多いわけだけど、今生、マハー・マーヤ大師が今、総務の中心をやってるときに、総務のお手伝いをするカルマが生じたと。これも逆縁の真のカルマだね。
 もう一つ、逆縁の真のカルマ、これは、A大師の、ね。これはわたしが禅の修行をしてるときの生だけどもね。このときA大師は、わたしの、ね、一番弟子、二番弟子といわれるような弟子であったと。しかし、大変慢の強い性質で、そのときのわたしの教団というものはなかなか大きくて、A大師に対する信望も大きかったわけだね。例えば今のSさんとか、T君とか、もうこの人たちはA大師の大ファンだったと。で、Sさんはそのときの在家の、ね、A大師に帰依してた人で、で、T君は、A大師の弟子であったと。で、弟子を差し向けて、わたしの頭にね、この五寸釘を打ち込んでわたしを殺したと。
 しかし、そのときの生のA大師の心というのは、ね、グルに対する、一応愛というものはあったと。しかし憎しみもあったと。その憎しみというのは、グルがいるから自分は上がれないんだというね。その縁によって、今生A大師は成就したと。これも、逆縁の真であると。ね。
 このようにして、逆縁であろうとも、その心の状態によって成就はするんだっていうこと。例えばだよ、だからといって、マハー・マーヤ大師にちょっかいを出せばいいんだとか、あるいは、ねえ、ドゥルガーとかカーリーとかウマー・パールヴァティー・アーチャリーに悪いことをすれば、来世は成就さしてもらえるという、そういう甘いものではない。ね。すべては心の働きであると。その心の中に、若干でも、ね、菩薩に対して、例えば帰依心、愛、あるいは、ね、愛ではなくても愛情でもいいけども、そういうものがあれば必ず来世は成就できるんだよと。もちろんね、A大師は、それまで相当長い間わたしに尽くしたわけだね。しかし、わたしは、その生というのは長生きしたから。これが菩薩と、いいかな、例えば、修行者というか、菩薩の弟子との縁であると。
 じゃあ例えば、どうだろうね、ここに菩薩がいたと。で、いまだ修行に入ってない菩薩に対して、ね、これは男性の菩薩で、その菩薩に、女性が、その菩薩を好きになったと。そして、一生懸命尽くしたと。食べ物、飲み物、セックス、ね、それから住まい。尽くしたと。それによって菩薩は、修行をしなくなったと。この場合の縁は、どういう縁だと思うか、君たちは。順縁の偽だね。だから、この縁よりも、例えば、X大師、M大師、A大師、ね、といった人たちの縁の方を喜ぶと。
 では次に、タントラの菩薩はどういう縁を喜ぶと思うか。----そのとおりだね、逆縁の真を喜ぶんだよ。なぜ逆縁の真を喜ぶかというと、逆縁の弟子たちを救済するのは難しいと。しかし、その苦難の中に身を置いて救済することこそ真の救済者であるという意識が、タントラの菩薩であるんだね。よって、例えば今生でもわたしは人に騙されて----もちろん自分の中にカルマがあるんだけど、ね----何百万も損を被ったりとか、ね、あるいはいろいろ恨み言を言われたり罵られたり、ね、あるいは、バカにされたりしたけども、それに対して何の感情もわかないと。それよりもそのときに発願をすると。来世この人たちが、このカルマによって成就してくださいますようにと。
 というのは、縁ができていれば、その縁を変えることはできるわけでしょ、どうかな。縁ができてなければ、変えることはできないよね。どうかな。例えば、一億一千万人の日本人人口がいるけども、オウム真理教に対して憎しみを持つか、愛情を持っていれば、ね、その人たちと会う機会だって何回か出てくるだろう、どうかな。よって救済のチャンスがあると。しかし、無関心・全く知らない人に対しては救済するチャンスはあるかなないかな。ないよね。
 よって、順縁であろうとも逆縁であろうとも、あるいは、真であろうとも偽であろうとも、ね、いかなる関係であろうともそれをキープし、そして救済すること、これが本当の意味でのタントラの菩薩の修行なんだっていうことだ。
 もちろん、縁があるということは、それだけ----例えばマハー・マーヤ大師は、わたしの何生も何生も奥さんだけども、ね、それだけ深いつながりがあり、そして、それだけステージが高いということもいえないことではない。なぜここで、とりだててね、逆縁の真を挙げたかというのはわかるね。逆縁の真ていうのは大変理解しつらいんじゃないか。どうだ。ほんとだったら、例えば殴りつけられたら、「このやろう」と思うだろう、思わないか。例えばバカにされたら「このやろう」と思うだろう、思わないか。例えば妻を寝取られたら「このやろう」と思うだろう、思わないか。ところが、そうではないんだということ。だから、例えば菩薩との縁において、逆にだよ、今度は、菩薩との縁において、そういうことが生じたとしても、それは喜びとしなければならない。きっと自己の中に、そういうカルマがあるんだと。前生においてなしたカルマを消滅していくこと、これが三つ目までのヨーガの修行だよね。どうかな。
 だから、例えば、ね、ケイマ大師が成就する前に、ケイマ大師のいろんな話があって、まあ例えば、ね、m大師がなぜ成就したかと。この話知ってるよね。わたしが阿修羅の生のとき、母親は、ね、ケイマ大師であったと。知ってるね、この話は。で、そのときの弟はTR大師で、ね、そして、ケイマ大師は、わたしを捨てて、わたしたちを捨てて、m大師に、ね、なびいたと。で、もちろんm大師は飽き性だから、最後まで面倒見なかったわけだけども、でも、その縁によって、わたしはその生では阿修羅の王様になり、ね、そして、大変m大師に感謝したんだね。その生のカルマによって、今生は成就したと。
 ね、だから例えばね、また逆の言い方をすればこういうカルマっていうのは大変面白い縁があるんだね。例えば、マハー・マーヤ大師の例をとるならば、X大師とマハー・マーヤ大師っていうのは、二人とも大変コマーシャル能力に長けてると。例えばコピーの才能とか、文才とか、大変特徴的な文章を書くわけだね。ま、みんなも知ってるとおり、『マハーヤーナ』のわたしの原稿のほとんどがマハー・マーヤ大師がやっているようなもんであってね、例えば。で、『マハーヤーナ』の、コマーシャルのコピーっていうのはほとんどX大師がやってると。これは一つの線だよね。
 例えばM大師と、それから、ね、マハー・マーヤ大師の関係を見ると、例えばお互いが大変デザイン的なセンスを持っていると。ね、美的センスを持っていると。こういう共通性があるよね。
 例えば、m大師とケイマ大師の縁を見ると、二人とも大変財運が強いと。ね。まあ、m大師がきっとマハームドラーの成就をしたら、金庫の番をしてるんじゃないかというぐらいに財運が強いと。もちろん、オウムの経済のね、その要というのは、ケイマ大師であると。こういう縁があるんだね。
 だから、必ず類似した項が出てくると。これは、そのときに結ばれたから、それによってカルマの交換が起きて生じているのかもしれないし、あるいは、ね、似たカルマによって引っ張られてるのかもしれない。この二つについては、まだ綜制を加えて検討する余地があるから、はっきりした段階で君たちにお話をしたいと考えています。
 ということはだ、どうだ。この世の中で生じているいろいろな現象は、マーヤにすぎないよね、幻影に。そう思わないか。前生では敵であったと。前生では味方であったと。どうだ。しかし今生では逆転してるかもしれない、どうだ。ということは、そういう関係に心を縛られるのではなくて、そういう関係から心を外して、そしてただひたすら、すべての魂がそういうものから脱却することだけを考えると。ね。
 例えば、今生の例を挙げるならば、わたしの愛車、ね、トヨタのセンチュリー、これまだ一年経ってないんだけど、A大師に完全にめちゃめちゃにされてぶっ壊されてしまったと。しかし、A大師との縁は、それによって深まったわけだよね。わかるかな、言ってることは。つまりグルの愛車を全然反省もなくぶっつぶしたと。ね。これによって来世きっと、A大師はわたしに叩きまくられながら、やはり成就するだろうと。わかるよね、言ってることは。縁が深ければ深いほどいいと。そして、その縁もマーヤなんだと。なぜ、幻影だというかというと、それは変化するからなんだと。だから君たちも、できるだけグルに近づこうと。ね、できるだけグルとの縁を結ほうと。だからといってわたしが歩いてる、例えば階段をだよ、歩いてて後ろからいきなり蹴飛ばすとかね、そういうことをね、やってはいけないけども。
 ね、例えば、今和歌山支部に行っているBさんなんかは、わたしが座ってると、まあ血のイニシエーションを彼女は受けなかったわけだけども、「首に歯を立てて血を吸いたい」と言った人だからね、あれは。こういう人は来世、きっとグルの弟子として生まれ変わるだろうね。だからそれぐらい、どんなかたちにしろいいからグルに対して執着をしなさいと。あるいは菩薩に対して執着をしなさい。ね。それだけのものを、いや逆の言い方をすれば、縁の悪いものをよくしていって成就させていくことこそ、本当の意味でのタントラの仏陀だからね。
 そして、そのすべてが理解できたとき、完全に解放されます。何から解放されるのかというと、自己の苦悩から解放される。ではなぜ自己の苦悩かち解放されるんだ?----先程も言ったとおり、縁というものがマーヤである以上、因も果もマーヤであると。わかるね、言ってることは。そうでしょ。今生じている苦悩というものは、自己の前生の、あるいは今生で積んだカルマにすぎないと。それがわかった段階で、何を今さら、ね、動揺する必要があろうかと。ね。すべてはカルマであると。ね。
 S大師は大変嫌がるんだけど、ね、例えば、S大師の、蛇の生わたしは思い出すよね。この話知ってるかな? みんな知らないか。S大師は知ってるよね。別の生の話知ってるか? S大師が白龍に生まれたことがあるんだね。白い龍。白い龍、龍というのは、これはインド・中国を経て日本に渡ってきてるわけだけど、実際には大蛇と考えてください。ものすごく大きな蛇であると。これは真っ白い蛇だったわけだね。で、S大師の食物は、ね、人間であったと。ね。そのときわたしはS大師をポワさせているんだね。わたしとS大師の関係は、何回も何回もポワさしてるんだね、わたしは。この、その生のカルマによって、わたしとS大師の縁ていうのは強い結びつきがあると。
 もちろん、いい意味での順縁のときもあったんだけどもね。今日の話は、逆縁の話をしてるわけだから。ところが、殺された方の蛇としてはどうだ、これは殺されたわけだから逆縁だよね。どうだ。わかるかな言ってることは。死ぬときに苦しみがあるわけでしょ。どうだ。ということは、その逆縁、つまり殺されたときの苦しみは苦しみとして、その昔しみを与えたのが菩薩であればどうなる? 真に変わるよね。わかるかな、言ってることは。つまり菩薩が相手を導く場合には、ただ一つしかないわけだね。相手に返すことといったら、相手をマハー・ニルヴァーナに向かっての道しるべを示すことになるわけだね。
 だから例えば、今生、逆縁の真といったら、マイトレーヤ大師が挙げられるね。マイトレーヤ大師はなかなか才能があって、ね、一般の社会的な生き方をすれば、いい人生を歩いて、そして一生を終わると。しかもU大師という大変綺麗な奥さんをもらってということになったと。ところが、出家というカルマによって、結局U大師も出家したというカルマによって、その縁を切られてしまったと。ね。マイトレーヤ大師にとっては、大変強い執着の対象が切られてしまったと。ね。ということは、マイトレーヤ大師の心の中に、ね、否定的な想念が生じたかもしれない。あるいはグルに対する憎しみが生じたかもしれないと。これは、逆縁であると。しかし、それを起爆剤として、マイトレーヤ大師は修行をし、おそらく、早い時期にマハームドラーの成就をするだろうと。
 そしてね、今日、マハー・マーヤ大師、ケイマ大師、あるいはS大師、ね、まあ、これはケイマ大師が動物の生、あるいはマハー・マーヤ大師の動物の生、あるいは、ね、マイトレーヤ大師の動物の生を挙げて、そのときの話をすることもできないことはないんだけど、今日は違ったかたちの四つのパターンを今、挙げたわけだけども、いいかな、この人たちが、自分とグルとの縁というものを、もしちゃんと意識し、そして、もしきちんと理解し、そのカルマの消滅に努めようとするならば、ね、いち早くマハームドラーの成就が起きるだろうと考えなさい。
 縁というものは、いいかな、単純なものではないんだね。縁というものは、ね、真理を実際に、すべて理解した人以外はわからないことなんだ。いいかな。今日はしんとしてるね。理解できましたか。よく理解できましたか。なかなか難しいですか。
 この理論がね、順縁・逆縁の真・偽の理論が、あっさり理解できるようだったならば、しかも、すべてのケースに当てはめて納得し、理解できるようだったならば、もうマハームドラーの成就は近いと考えなさい。しかし、考えなければ、まだよく理解できないようだったならば、マハームドラーの成就は、もう少し時間かかるよと考えなさい。
 ということは、わたしが例えばだよ、弟子たちに苦しみを与えるとするならば、それは、どうかな、縁としては強くなることか、弱くなることかと。当然強くなることだね。そして、一つ一つはきちんと思索されて、行動していると。グルの行動において、あるいは菩薩の行動において、思索なき行動はないんだと理解しましょう。いいね。