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◆89/6/24 富士山総本部
帰依が与える恩恵

 実は今日ね、大事故が起きた。その事故の内容というのは、まあこの中で知ってる人もいる知らない人もいるだろうけど、わたしが移動に使っていたセンチュリーという車ね、その事が大事故を起したと。理由は、ケイマ大師がシャクティーパット、もう一応千名は終わったわけだけど、ね----まだ申し込み者があるから、あと四、五百名あるのかな----で、かなり体が疲れてるだろうからということで、A大師にそのセンチュリーを安全運転して持っていってあげなさいという話をした。ところが彼は、わたしの許可なくしてP大師、そして、U大師、T君を乗せて、ね、安全運転じゃなくて、高速でぶっ飛ばし、車を大破させてしまったと。で、まだはっきりはしてないんだけども、まあ一応レントゲンの結果からいくとT君の首が折れてると。そして、他の人たちがムチ打ちを起こしたと。
 で、なぜ、わたしがこういう話をしたかというと、今わたしは修行をし出している。自己の修行をし出すということは、そのときには、その世界に没入します。つまり、心の働きが、シッシャ、あるいは大師に対して、わざわざ欠点を修正してやろうだとか、あるいはエネルギーをどんどん注ぎ込んでやろうだとかいう心の働きからだよ、その心の働きを自己に向け、つまりわたし自身に向け、そしてどんどんどんどん修行を進めていくわけだね。それをやっていかなかったならば、今回の水中サマディは成功しないと。ところが、その状態になると、ね、変化が起きるわけだ。
 どのような変化が起きるかというと、ここに大きなプールがあると考えようね。そして、君たちを指導することに専念しているときは、わたしはそのプールの中に水中ポンプを突っ込んで、ホースを出してね、「ああ、あいつがちょっと、水が足りないかな」といってかけてあげると。ね。「こいつがのど乾いてるだろうから」といってその水をあげると。そういうことをやっているわけだ。ところが、修行に入るということは、そういう行為を一切やめ、その中、そのプールの水を増すことだけに集中してるわけだね。すると、きちんと帰依のできている大師は、あるいは帰依のできているシッシャはだよ、自分でわざわざ歩いていってそのプールから水を汲んで飲むんだ。ところが、普段、ね、帰依の訓練をしていないと、その水が断たれてしまう。ということはどうだ、ここにカッパがいて、水を断たれたらどうなるか。どうだ。
(弟子)死んでしまう。
(尊師)死んでしまう。
 ではここに人がいて、水を全く、水の供給を全くストップされたらどうなる?----しかし、プールはそこにあるわけだよね。どうだ。飲みたければ自分の足、両方の足を使って、歩いていけばいいわけだろ、どうだ。
 実は、昨日言ったよね、わたしは。説法をしたくないと、今は、するべきときではないと考えていたと。しかし、限界点に、オウムのエネルギーが限界点に来てるから、落下の一途をたどってるから説法をしたんだよと。ところが、その説法を聞いていたはずの、ね、A大師が、こういうね、不始末をしでかしてしまった。はっきり言ってこれは、大師のなす所行ではない。これは智慧のあるシッシャだったら、おそらくやっぱやらなかっただろう。はっきり言って無智だ。これは魔境だとも言っていい。
 そして、また、いいか。今日のもう一つの話は、君たちがね、わたしから得なければならないものは、物質的な恩恵ではない。それはわかるな。君たちが得なければならないものは精神的な恩恵だな。どうだ。あるいは霊的な恩恵だな、どうだ。だとするならば、例えばグルの専用車を、ケイマ大師のために回したわけだから、それはもちろんケイマ大師、あるいはケイマ大師の関連の人が乗る分には構わないとして、それを単に、富士から東京に帰るための便乗の車として使っていいと思うか君たちは、どうだ? わかるか言ってることわたしが。これは大きな問題なんだよ。
 実はね、こういう話がある。以前わたしは、トヨタのタウンエース、GXLというものに乗っていた。そして、その車に危険を感じだし、車を買い替えなければならないなと、そしてシッシャに預けた。その途端に事故だ。いいか、次にチェイサーだ。そろそろチェイサーも力がなくなってきたと、活動に不向きだなと思って、他の人に使わせた。その途端に事故だ。そしてクラウンも同じだ。次は、センチュリーだ。つまり、わたしの使うもの、あるいはわたしのものに対して君たちが愛着をするならば、それは君たちの霊的ステージを落とすどころか、大変な悪業になるということを意識しなきやならない。それはちょうど、祭壇に上がってるものを盗んで食べるのと同じだ。
 君たちは意識してるかどうかわからないけども、いいか、君たちにとってほんとの祭壇は何だと思うか。ここの、これじゃないんだよ。無智な人はここを祭壇だと考えるだろう。しかし君たちにとっての祭壇とはわたしだ。なぜならば君たちを霊的に進化させることができるのは、ね、この世の中でわたししかいないからだ。
 こんな絵はだれだって措ける。絵がうまければ。わかるか言ってることは。ということは君たちが祭壇に上がってるもの、つまりわたしの周りのある物に対して愛着するとするならば、それは明らかに祭壇に上がってるものを食べたり飲んだり、盗んだりするってことと同じだ。そしてね、これは仏典にも書かれてることだけども、人が霊的に進化していく場合、いろんな魔の働きがある。例えば、いいか、のどが乾いていたとしよう。そこに水があった、君たちは飲むか飲まないか、どうだ。
 わたしは飲まない。なぜ飲まないか。そこでわたしは発願をする。「この水を飲まないかわりに、霊的にステージを上げてください」と。「限界まで耐えましょう」と。次に、目の前においしい食べ物があったらどうするかと。わたしは食べない。そのかわり発願をする。「わたしはこのおいしい食べ物を食べないかわりに、修行を進めてください」と。わかるか。高い地位が約束されたとしても、「有名」という----例えばわたしには今まで雑誌社からずいぶんと誘いがあったけども断ってきた。それは、わたしにとっては「有名」という言葉が意味がないからだ。その「有名」というものの代わりに、わたしは、わたしの修行、あるいは弟子たちの修行を進めてほしいと考える。そして、その選択を、ね、一つ一つクリアしていきながら、霊的な進化というものはあるんだよということだ。
 おなかがすいている。目の前においしいものがある。それに飛びつく。これでは、霊的な修行は進まないよ。性欲がある。目の前においしいものがある。飛びつく。これでは、霊的な進化は進まないよ。君たちが、すべてが自由になるときというのは、君たちが一つ一つの解脱が終わり、例えば、マハームドラーの成就をし、個人としてはOKであると、あるいは最終解脱をして、個人、あるいは他を救済する上ではすべてがOKであるという状態になったならば、例えば食べ物、飲み物、あるいはセックス、すべてが自由となろう。
 しかし今君たちは、ね、やっと修行が始まったばっかしだ。はっきり言って、大師といっても、クンダリニー・ヨーガの大師といっても、まだまだ修行は始まったばっかしだと考えた方がいい。なぜならば、クンダリニー・ヨーガからマハームドラーに到達するとき、それは、ケイマの言葉を借りるならばね、百倍大変だと言っている。現にクンダリニー・ヨーガの大師は、ねえ、四十名ぐらい出てるわけでしょ。しかし、マハームドラーまだ一人しか出ていない、どうだ。それだけ大変だから出てないんじゃないか、どうだ。そして大乗のヨーガに至っては、一応シャクティーパット千名、特別イニシエーション百名という規定はあるけども、これはあくまでも規定であって、実際は死ぬまで続く修行だ。そうじゃないか。そう考えるならばだ、本当にわたしたちがすべてから解放されるときといったら、ね、それは例えば君たちの場合、今生の終わりの方だろう。まだ君たちの求めてるものが高いから、例えば大学だったならば、三年間、四年間全力で勉強すれば、目的の大学に通ることができるだろう。しかし、君たちの求めてるものは魂としての完成だから、そんなに甘いものではない。わかるか言ってることは。
(一同)はい。
(尊師)例えばケイマの例を挙げるならば、五年間グルについて尽くしたと。五年間尽くしたからこそ、マハームドラーの成就があったと。もちろんその途中においては、君たちと同じように悩んだり苦しんだりしただろう。あるいは、心が揺れたりしただろう。しかし自分の道はこの道しかないんだということで歩いたわけだね。よって今、ね、行に入っていくだろう。ということはだよ、いいか、心がサマディに向かって集中するから、君たちがわたしに対して意識をするならば、絶えず君たちはエネルギーの、ね、あふれ出る泉からの恩恵を得ることができるだろう。しかし君たちがもし意識をしなかったら、君たちの煩悩は増大される。よって今、煩悩の増大してる人は、いいか、帰依どんどん修行しているわたしのエネルギー、いいか、これを彼女は完全に受けてると。だからシャクティーパットが、ね、今月も五百名ぐらいになってるけども----超したかもしれないね----全然疲れないと。そのときは疲れるんだけどすぐ回復すると。
 しかし一方では、信も帰依もない大師は、事故を起こしたと。あるいは、ね、救済を意識しないで、心が浮き上がってると。だって例えば大師といってもだよ、まだわたしに尽くしてる年数が短い! 例えば一年、例えば二年。一体、どこで功徳を積んでたんだ。そして今わたしは修行に入り、これから七月、八月、九月と、どんどんどんどん激しい修ができてないと考えなさい。今逆に、体の調子が良くなり心が軽くなって、ね、ワーク、あるいは、修行に集中できる人は、グルに対して帰依ができてると考えなさい。おそらくこの中の九十パーセント以上は、前者だろう。そしてわたしが、これだけ強い口調で君たちに言ってるということは、これから先のわたしの修行によって、君たちの心の働きはズタズタになるってことだ!
 つまり今までわたしは、君たちを救済しなければならないと、そのことだけに心を集中していた。つまり、ね、母親の役割をしてたわけだ。しかし今からは、わたしがそれをやるならば、サマディは間違いなく失敗するだろう。例えば昨日の説法にしろそうだし、今日の説法にしろそうだし、今日の事故にしろそうだし、わたしの修行をどんどん遅らしてると考えなさい。
 わたしに言わせると、高々大師だ。これはねえ、今、全支部に、わたしは電話をしている。どういう電話かというと、大師というものは霊的ステージが高くて、心が成熟して初めて大師じゃないかと。だとするなら日々の修行ちゃんとやらなきゃなんないんじゃないかと。一体この中で、何人の大師が真剣にやってるんだ! 日々の修行を。そして、新しくシッシャになった人の中には、大師より徳の高い人もいる。ただ一応、ね、下積みが長ければ長いほど、大師になったあと立派なワークができるから、わたしは見てるけどね、それを。もちろん、昨日も話したとおり、ここを駆け込み寺だと思って、ね、生活してる人もいる。
 世界でただ一つの、本当の意味での真理に到達できるこの空間を君たちが、「守る」のではなくて、「つくり上げ」ていかなければならないということを、もう一度自覚しなさい。そして君たちが、本当の意味で帰依を培わない限り、今回の事故というものは、大きな事故の小さな一つの事故にすぎないだろうということを認識しなければならない。
 わたしは死人が出るんじゃないかと思ってるよ。なぜならば、本来カルマの悪い者を相当引き上げてるからね。そのエネルギーが断たれたら、その人たちは自己のカルマで苦しまなきゃならない。もちろん、カルマのいい人はそういうことはないだろう。----しかし、サマディをやるということは、信徒に対しての約束だから、そして、ね、テレビで放映されるとするならば、多くの人が死後の世界について興味を持つだろうから、これは、たとえ、シッシャの何人かが帰依がなくて事故を起こして死んだとしても、それは仕方がないと考えている。逆の言い方をするならば、すべてのシッシャがきちんと帰依の実践をするならば、わたしは事故が起きないどころではなくて、わたしが手を差し伸べるより、大きな成長をするだろうと考えてるからだ。つまりわたしは今、弟子たちを、千尋の谷に突き落としたようなもんだな。本当に道を求めてる者は、はい上がってきなさい。
 最後に。ここに集ってる者は、少なくとも自己の解脱に対しては欲求しなければならない。そして、大きな欲のある人は、大乗の救済者としての完成を目指す道場としてこの場を活用しなければならない。その二つをよく理解して、今日からの修行に励みなさい。
 魔というものは、君たちの心の中に存在している煩悩なんだということをよく理解しなさい。いいね。
(一同)はい!

 揺れには二つある。一つは、一生懸命ワークをやりながら煩悩と闘ってる揺れだ。これはわたしは素晴らしい揺れだと考えている。これはわたしの歩いてきた道だ。つまり現世的には煩悩がある。それは成就するまで続くだろう。しかしそれと、それとぶつかりながら一生懸命自分の霊性を向上させようとする。
 もう一つ揺れがあると。それは現世へ帰りたいと。ワークはしたくないと、ね。この後者の人は、現世へ帰るべきである。そして、煩悩を満足させ、功徳を積んで、少なくとも来世人間に生まれ変わる土台をつくればいい。だからポイントは、ワークができるかどうかだな。
 例えば、p大師は、わたしの血のイニシエーションを受けた。そして、かなり揺れた。ね、特にE君のマハームドラーにかかって、相当に揺れたと。何度も何度も帰りたい、つぶれると。しかしそう言いながら、ミスをしながら、怒鳴られながら、彼はワークは続けたよ。そして、あれは半年か一年だったかな、限界点に来たなとわたしは感じたとき、N君を修行に放り込んだ。そして、彼は、ね、ただ一人クンダリニー・ヨーガを成就をしたと。
 ところが、ワークのできない人は、成就もしないんだよ、本質的には。なぜならば、怠け心があるからだ。例えば君たちに聞こう。ここに、ね、百キロの道があるとしようじゃないか。ね、ある人はつらいな、つらいなと思いながら一生懸命走っていると。そして一日に一キロ歩くと。一日に一キロ走ったと。ある人は、「つらいからわたしは走りたくないよ」と言って動かなかったと。どうだ、前者と後者は。前者は、百日後には必ず到達するよな、どうだ。だからわたしはこの人は素晴らしいと思う。後者はどうだ。永遠に同じとこでとどまってるよね。どうだ。
 じゃあ次は、これがベルトコンベアーの道だったらどうするか。わたしたちの修行とはそういうもんだよ。しかも、反対側に流れるベルトコンベアーだ。ここに、ものすごく長いルームランナーがあると思いなさい。じっとしてれば後ろに下がっていくと。つらいなつらいなと言いながら一日一キロずつ進んでいった人がいたとしよう。「俺はつらいんだ」と、ね、しかし走らなきゃなんないと。でも走るのはつらいと。この人は到達するかしないか? するよね。じゃ、もう一人、「わたしは、つらいのは嫌だから走りたくないよ」と言った人がいる。どうだ。これが一日一キロ後ろに下がるベルトコンベアーだったら百日後には、百キロ後ろに下がってるよね。
 そしてワークをしないで、修行もしないで、べちゃくちゃべちゃくちゃしゃべってる人は、その後者だ。それはシッシャとしての資格はない。はっきり言って。そしてそういう人は、ね、事故を起こす可能性だってある。当然グルからのエネルギーも受けらんない。これはいくらイニシエーションを受けていてもだ。
 しかしそうではなくて先程言ったとおり、つらいと。しかしワークをなんとかやってると。ね、実力は百あると。しかしその煩悩のために五十しかできないと。でも一カ月後には五十五できると。三カ月後には七十できると。一年後には百できると。この人は必ず成就する。そして成就したのち、ね、次のマハームドラーに向かっての準備もできてるといえると。なぜならばその人は、自己の心に打ち勝った人だからだ。
 オウムの修行体系は、初めは優しい。だれでも入れる。しかしクンダリニー・ヨーガ、マハームドラー、大乗のヨーガと入っていくと、どんどんどんどんつらくなる。それは君たちが、日々それを意識できるかどうかだけだ。よく考えてみなさい、もう一回。

 最後に。今回の事故を見てわかるとおり、なしたことしか返ってこない。徳がなければ、徳がないなりの結果が返ってくる。徳があれば、徳があるなりの結果が返ってくる。例えば例とするならば、まずAは帰依がなく徳がなかったから大事故を起こしたと。そして、Tは帰依がなかったからムチ打ちで首を骨折したと。Pは、Tに比べれば帰依があったけども、やはり帰依がなかったから、ムチ打ちをして顔面を叩きつけたと。Uは、二人に比べて帰依があったから、ほとんどどうもなかったと。わかるな、言ってる意味は。
(一同)はい。
(尊師)つまり、君たちは君たちのレベルで、功徳、あるいは帰依、これがこれからきちんと働いていくだろう。わたしは、そういう空間が好きだ。なぜならば、あくまでも十足す十は二十でなければならない。十かける十は百でなければならない。これはわたしの考え方だ。そしてそれが、はっきりとなしたことが返ってくる空間、これがオウム真理教が真理である証拠だと考えている。しっかりと修行に励みなさい。
(一同)はい。
(オウム三唱)
(尊師)今日から、君たち自身が仏陀になるための修行を一生懸命やんなさいよ。いいね。