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◆89/5/7 富士山総本部
徳について/マハームドラー成就の要件について

 今日は、徳についての話と、それから、マハームドラーの成就の要件についての二つの話をしたいと考えます。
 まず、皆さんは「徳」といったら一体何を考えるだろうか。ね。お金持ちの子女として生まれる、あるいは、素晴らしい才能に恵まれる、あるいは、美しい顔形を持って生まれる、いろいろなことをね、意識するかもしれない。例えば、K大師は、何を考えるか。
(K大師)徳についてですか。
(尊価)徳のある人ということだね。
(K大師)まず、真理に巡り合える人。
(尊師)真理に巡り合える人。うん。
(K大師)そこで修行に打ち込める人。
(尊師)ケイマ大師はどうだ。
(ケイマ大師答える)
(尊師)ウマー・パールヴァティー・アーチャリーはどうだ。どういう人を徳のある人だと思うか。
(ウマー・パールヴァティー・アーチャリー答える)
(尊師)では、Vはどうだ。
(V大師答える)
(尊師)では、ここに二人の者がいたと。一人はね、大金持ちの息子として生まれ、あるいは娘として生まれ、そして顔形もよく成長したと。才能にも恵まれていたと。ね。そして、修行者となったと。もう一つはつんぼであったと。ね。まあ、両方つんほだと問題があるわけだけども、要するに片耳は完全に聞こえず、例えば片耳もどんどんどんどん悪くなるぐらいの、耳がどんどんどんどん悪くなる状態であったと。ね。そして、無常を悟り、同じように修行に入っていったと。果たして、この二人はどちらが徳があるだろうかと。マハー・マーヤ、どちらだと思うか。
(マハー・マーヤ大師答える)
(尊師)どうして後者だと思うか。
(マハー・マーヤ大師答える)
(尊師)でも両方とも修行に入っているぞ。
(マハー・マーヤ大師答える)
(尊師)うん。Pはどうだ。
(P大師答える)
(K大師)いいでしょうか。
(尊師)はい。
(K大師)僕は、前者だと思います。というのは、まあ現世的にも幸福であったと。そこでなおかつ修行の道を選べる人と、それからどうしようもなくて修行の道に入る人、これは当然そういう、いい条件、現世にいてもいい条件なのに、あえて修行の道に入れる人という人の方が徳があると思います。
(尊師)うん。じゃあ、他の大師いこうか。
(S大師答える)
(尊師)ほかにはどうだ。
(V大師)よろしいですか。
(尊師)はい。
(X大師)釈迦牟尼のエピソード考えてみますと、釈迦牟尼は、一応王の息子として生まれますよね。それで周りの人の苦しみを見て、修行の道に入ったと。つまり非常に恵まれていた環境にあったと。それで、だから徳があれば、自然と恵まれた環境ができてくるんじゃないかと思います。だからそれは前者の方が徳があったと思います。
(尊師)うん。ほかにどうだ。編集の三大師、デザインの一大師、それからV大師----ケイマ大師は。
(ケイマ大師答える)
(尊師)Mどうだ。
(M大師答える)
(尊師)うん。だから?
(M大師)で、後者の方が徳が高いと思います。
(尊師)うん。kは。
(k大師答える)
(尊師)うん。RとUはどうだ。
(R大師答える)
(尊師)うん。U。
(U大師答える)
(尊師)よし、わかった。じゃあその全体の意見を踏まえた上で、マハー・マーヤ、それからケイマ、それからK、それからPの四人に聞こう。どうだ。それぞれ大師がいろいろ意見を出したけども、それを踏まえた上で。マハー・マーヤ、先程の順番で答えてくれ。
(マハー・マーヤ大師答える)
(尊師)あー? 解脱に到達した?
(マハー・マーヤ大師答える)
(尊師)解脱なんてだれも話してないよね。
(マハー・マーヤ大師答える)
(尊師)はい、ケイマ大師。
(ケイマ大師答える)
(尊師)マイク……
(ケイマ大師)はい、すいません。徳は、現世的な徳と精神的な徳と、両面に、まあ、ていうか現象界における徳とアストラルとかコーザルにおける徳とも言えるのかもしれませんけれども、現象面と、そうではない心の内的な部分と二つあるということを考えると、修行に入ったということがもし、入ったということが同じであれば、そこまでの時点で同じであれば、肉体的な、片方は不自由であって、片方は不自由でないわけですから、わたしは不自由でない方のほうが徳があったんではないかと、その時点まではそう思います。
 で、つまり修行に入ったという精神的なとこがそこで同じだとすればですね、あくまでも、そうすると現世的なとこは片方があったと。ただしその後のことはわかりません。その後、まあ、その後の条件がなかったので、そこまでのことはそう思います。
 そして、先程の苦についてなんですけれども、肉体的に昔を感じて修行に入ったと。そして、片方は入ったと。で、片方は苦を感じていないで入ったとしても、必ずいつかは苦を体験しなければ成就はできないと思うんですね。釈迦牟尼の詰も出ましたけれども、出家するときも当然精神的な、生老病死があるということで苦を感じたと。ただその後、ものすごい苦行をなさっていると。そしてその結果、成就をしたと。ですからどのプロセスに苦が来るかという、人によってきっかけが違うのではないかとそういうふうに思います。
 ですから、結論からいうヒ、そうですね、その時点では、わたしは現世的な徳を持ってた方のが上ではないかと。そしてその後のことは、踏まえた条件があれば、それはわからないと思います。
(尊師)はい。ではK大師。マイク回してあげてね。
(K大師)僕も、最初の意見とは変わりません。で、他の大師の意見を聞いてちょっと気になったことは、S大師の答えなんですけども、先生がおっしゃられた条件の答えとは違う答えをしてると思うんですね。というのは出家した、出家して修行に入ったと。その時点でどっちが徳があるかというふうな先生は聞かれ方をしたと思うんですよ。なのにS大師は、成就とその後の、先程ケイマ大師が言ったこととダブると思いますけども、その後のことに関しては聞いてないと思うんですね。そこで成就したかしないかがわからないから、どちらとも言えないという答えは、まずこれはおかしいと思いますね。
 それと先程の答えに付け加えるわけですけども、例えば、耳が聞こえない人、これはやっぱり苦を感じて修行の道に入ったと。例えばこの人が、条件を置き換えてみるとどうだろうかと。例えばその人が、耳がちゃんと五体満足で生まれてたらどうかなと思うと、これは修行の道に入らなかったかもしれないと。で、逆に、現世的にいろんな裕福な生活とか恵まれた生活をした上でなおかつ修行に入ろうと思える人というのは、当然、例えばその人が耳が聞こえなくなったりだとか、当然苦が多くなってくればそういう条件になっても、どちらにしても入るであろうと。要するに、現世的に何不自由ない人がそういう不自由な体になった場合のことを想定すると、両方とも修行の道に入れるんじゃないかと。条件としては、いずれの道を選ぶにしても入れるんではないかということで、そういういろんな、で、しかも、そういう恵まれた条件の中にいながら釈迦牟尼なんかは苦を感じたということは、そういう自分のレベルではなくて、そういう苦を味わってる人の苦を自分が楽をしながら感じとれるということは、これはすごい徳があったんではないかと。要するに前生、非常に高い徳を積んで修行をしてた人ではないかというふうに先程の答えに付け加えます。
(尊師)はい。わかりました。
(P大師)その修行の道に入るというのは、大きく二つの要因があると思うんですが、一つはその功徳であり、もう一つはその縁ではないかと思うんですね。そうすると、例えば、仮に耳が聞こえなかったという人を考えた場合、何人かの大師の方が言われましたように過去世において例えば菩薩の修行をしていて、あえて例えば、苦を感じるがためにそういった身体的な欠陥を負って生まれてきたというケースも考えられますし、その場合は、当然その功徳を背景としてその修行の道に入ったとはいえるんですけれども、ただ単純に、例えば、過去世の悪業によってそういった身体的な不自由を負った場合、それでも縁があれば修行の道には入れると思うんですね。ですから、まずそれが身体的に不自由な人の場合で、で、豊かな人の場合というのも、例えば現世的なその過去世の功徳によって、現実生活において非常にその願望を成就できるような環境にあったと。で、にもかかわらず、やはりその修行に対する縁というものがあるがためにそこに導かれたというケースもあれば、釈迦牟尼のように実際に功徳を背景にしてその修行の道に入ったという場合も考えられるんではないかと。で、結局、結論としては、どちらとも言えないんじゃないかと思うんですが。
(尊師)(笑)いいかな。シッシャ諸君はどうだ。じゃ、ちょっと三つに分けようね。まず、第一番目のパターン。つまり、第一番目のパターンは、耳が聞こえない、だっけ。
(K大師)方が、功徳があると。
(尊師)が、功徳があると。ね。第二番目のパターンは、そうじゃなくて豊かな生活から出家した方が功徳があると。第三番目のパターンはどっちとも言えないと。この三つね。はい、じゃ、第一のパターン手を挙げて。
(K大師)三人ですね。
(尊師)じゃ、第二のパターン。
(K大師答える)
(尊師)たくさんいる。
(K大師)ええ、かなりたくさんいますけど。
(尊師)じゃあ、第三のパターンは。
(K大師)ああ、同じぐらいですね。ちょっと多いかな。
(尊師)第三のパターンの方が多い。
(K大師)ええ、ちょっと多い感じします。
(尊師)どちらとも言えないと。はい、じゃ、答え言いましょう。
 まず、君たちは、サーリプッタ、マハーモッガッラーナを導いたアッサージが肉体的障害を持っていたことを知ってるだろうか。どうだ。
(一同)知りません。
(尊師)そして、釈迦牟尼が、確かに王子ではあったけども、例えば今のウマー・パールヴァティー・アーチャリーだとか、あるいは識華だとかと同じように、絶対的な力の持ち主の息子や娘として生まれてきてないということを知ってるだろうか、どうだ。
(一同)……。
(尊師)次に君たちは、仏陀釈迦牟尼の教えを受けたビンビサーラ王、あるいはパセーナディ王、ね、あるいはルリ王、彼らが出家をしなかったことを知ってるだろうか。どうだ。そして、修行者の最後の段階で、まず初めの段階では、物質的身体的に豊かになり、あるいは、健康になり、あるいは、ね、物質的にも豊かになり、あるいは高位高官にも上るということを知ってるだろうか。そして最後の段階で、物質的なものを捨て、あるいは肉体的なものを供養して修行に入っていくってことを知ってるだろうか。
 今日はね、ここにいる大師方に聞いたのは、わたしも大変参考になった。なぜ参考になったかというと、それぞれがそれぞれの立場で正しいことを話している。そして、それは一方の側から見ればすべて正論である。というのは、わたしはこの説法を今日初めてするわけだから、その途中の段階では、たくさん法を聞いている人、あるいは、最もそばにいて法を聞いてる人、それからそうではなくて、説法、みんなに対する説法で、ね、そういう話を聞いてる人。それによって答のズレが出てきたんだとわたしは考えている。
 そしてね、実は質問の中に答があったんだよ。それはどういうことかというと、耳の聞こえない人の答において、わたしは初めに、ね、耳が全部聞こえない、いや違うと。一方は聞こえなくて一方は少し聞こえない状態でどんどん聞こえなくなっていくと。なぜわたしがその言葉を付け加えたかというと、まず、修行のスタートは苦を感じること。しかし、その前に無常からくる苦を感じなきゃならないわけだよ。そしてね、例えばP、お前に聞きたいんだけども、高い世界から生まれ変わった者にとって、この生の人生の長さっていうものは瞬間に等しいと思うか。それとも、永遠に長いと感じると思うか。
(P大師)瞬間に等しいと思います。
(尊師)仏陀釈迦牟尼が、今生この人間の世界を苦だと感じたのはそこにあるんだよ。ところが例えば犬の寿命に比べて人間の寿命はどうだ。長いと感じると思うか。短いと感じると思うか。
(P大師)犬に比べれば長いと感じると思います。
(尊師)ね。ここに一つのヒントがあったわけだね。
 そしてね、修行に入る前は二つのパターンがあるんだよ。もちろん、Pの言ったとおり縁、それと功徳という考え方が一つと。もう一つはそうではなくて、高い世界を経験してるがゆえに、今生の一見喜びと見えるすべてのものが喜びではないと。例えばトウ利天ぐらいのね、喜びだったら大したことはないけども、ねえ、兜率天、あるいは楽変化、他化自在、あるいは焚天、あるいはヴイシュヌの天界と、あるいはシヴァの天界といった、高い世界の天界を経験してる者にとっては、この世の喜びというのは一切が喜びじゃないんだね。
 それはちょうど、このようなもんだね。例えば、ここに王様がいたとしようじゃないか。ね。そしてその王様が、国を追われて田舎に行ったと。で、田舎の村長さんになったと。ね。その村長さんは、豊かであったと。確かに村一番の豊かさではあったと。どうだ。この村一番の豊かな村長さんと、それから王様とはどちらの方が豪華な生活をしてると思うか。そうすると王様の生活をしてる者にとって、村長の生活をしてる者、してる状態が、果たして楽に見えると思うか、苦に見えると思うか。苦に見えるだろう。これが第一のパターンだ。
 これは要するに、大きな楽を知ってる者が、小楽、小さな楽で満足できなくて修行に入っていくパターンだ。よってこの人の求める世界というものは、大きな楽を求めるようになる。
 では、この大きな楽というものは解脱へ結びつくだろうか、結びつかないだろうか。どうだ。----どうだ。この人の限界点は、修行を続けそして最終的に、無常・苦・無我、そして、解脱といったプロセスを経験しなきゃならない、修行に入ったのち。よってこの人は遅れているといえる。
 ではおかしいじゃないかと。じゃあ、仏陀釈迦牟尼はどうだったんだと。
 よく考えてみよう。わたしは仏陀釈迦牟尼の心の現われがね、ここに現われてると思うんだ。それは何かというと、仏陀釈迦牟尼の母親は七日目にね、この世を去ってトウ利天へ生まれたといわれてる。そのあとはマハーパジャーパティーがね、彼の面倒を見ている。そしてだ、わたしは、マハーパジャーパティーに対して、仏陀釈迦牟尼は信頼をあまりおいていなかったと。マハーパジャーパティーは仏陀釈迦牟尼を大変愛していたと。それはなぜだと。
 遠路はるばる、要するにどれぐらいの距離になるんだろうかね、一千キロとも二千キロともいえる道を、今のネパール国の国境から、ね、あれは、ブッダガヤーの近くまでだね、裸足で彼女たちは歩いたわけだ。マハーパジャーパティー、あるいは妻のヤソーダラーね。あるいは他の女官たちが、仏陀釈迦牟尼のもとに行って出家しようと言って。でも、彼はそれを拒んでるんだよ。そして、アーナンダのとりなしによって出家を認めたと。でもそのときに彼はこう言っている。「ああこれで正法の時代は半分に、期間的に減るだろう」と。
 どうだ君たちは。では、信頼をしていない、ここに義理の母親がいたとして、子供というものはいろいろな精神的な悩みというものを持つ。どうだ。ああでもない、こうでもないというものを持つ。持たないか。そして、小国の王であるスッドーダナ。決して大きな国ではない、今の千葉県ぐらいの大きさだからね、仏陀釈迦牟尼の父親の領土といったら。当然、大国に貢ぎものをしなきゃならないし、あるいは、兵隊を出さなきゃなんないしと。ね。
 そしてもう一つだ。仏陀釈迦牟尼の出家後、解脱後、釈迦族は滅びてるんだよ。釈迦国は。ということは、もともと仏陀釈迦牟尼といえども、それほど多くの徳を現世的なものには使っていなかったんじゃないかと考えられるわけだね。わかるかな、言ってることは。もしすべての徳を現世に使ったとしたならば、どうだ。仏陀になり二千五百年を経てもね、真理の灯明というものをこれだけ続けているね、偉大なる魂だから、最高の王国に転生して栄耀栄華を極めたんじゃないかな、どうだ。わかるかな、言ってることは。
(弟子たち)はい。
(尊師)そして、実はね、もう一つ逸話があるんだよ。これはやはり同じようなね、原始経典の一つに載ってる逸話だけども、ある今の人間界の王様が、帝釈天とすごく仲がよかったと。仲がよかったというのは、きっと瞑想してしょっちゅう帝釈天と対話ができるレベルだったんだろうね。しかしその王には子供がいなかったと。で、帝釈天に対してその王様は、子供をなんとか授けてくれと頼んでいたと。で、ちょうどそのころ、ね、トウ利天の一人の天子が、ね----天子というのは神々に仕える者だけど----命終わろうとしていたと。で、帝釈天はそのもとに行ったと。そして、こういう王様がいると。だから、どうだと。その王様のもとに生まれ変わらないかと。
 そしたらその彼はね、こういう言い方をしたと。「いや」と。まず、帝釈天というのはすごく忘れっぽいから----これはわたしが天界は無智であると言っている一つの証明だけど----忘れっぽいから、きっとその人間界へ生まれ変わったあと、わたしの面倒見てくんないだろうと。ではその面倒見てくれないと、一体何を見てくんないだと。いや実は、王というのは地獄へ至るもんなんだと。なぜ地獄へ至るもんかというと、悪政を布いたらとんでもないカルマが返ってくると。ね。これはわかるな。とんでもないカルマが返ってくると。だから自分は王様の息子として生まれたくないんだと。いやいや、必ず約束は守るからと。お前が悪政を布いたならば、必ずわたしはお前にサインを出すからと。
 君たちはどう思うか、この話について。確かに天界から生まれ変わったわけだから、ね、王様の息子として生まれ変わったわけだから徳があるとはいえるよね、どうだ。しかしそれはあくまでも現世的な徳であると。そしてなぜじゃあ釈迦牟尼が、千葉県ほど小さな国の王子として生まれたかというと、一つは不安定な状態を経験するためであると。
 もう一つはなぜマハー・マーヤが一週間で亡くなったかというと、それは心に不安定な状態を経験するためであると。ではなぜ不安定な状態を経験する必要があるのかといったら、それは無常を経験するためであると。なぜ無常を経験することが必要になるかといったら、それは苦を経験するためであると。なぜ苦を経験する必要があるのかといったら、それはその苦しみの本質的な状態というものは自己の本質ではないのだということを経験するためであると。ね。そして仏典では一応、兜牢天から仏陀釈迦牟尼は生まれ変わったということになってる。実際は、仏陀釈迦牟尼は兜率天から生まれ変わったわけではない。まあそれもね、機会があったら話そう。
 そして、ビンビサーラ王は、王の道を歩いたと。仏陀釈迦牟尼は、仏陀の道を歩いたと。よく聞いてよ。ここがポイントだぞ。そしてだ、大国の王であるビンビサーラ王は、仏教に帰依したと。そして大いに功徳を積んだと。ところが、息子に殺されたと。わたしは、これは彼が仏教に帰依したから、功徳を積んで善政を布いたから息子に殺されたんだと考えている。そして、ビンビサーラ王が、そこで菩薩としての発願をしたから殺されたんだと考えてる。ね。
 そして、もう一つ。五体満足でこの世に生まれ、多いに功徳があって、そして高い世界を知って出家する者、これは案外多い。もともと高い世界に行くための道だということを前生から記憶してるからであると。しかし五体が不満足で、この現世もなかなか生きづらいと。その状態で、例えば解脱を求めると。これはおかしいなと、この間題から、どうだ。なぜならば一般的には現世がよくなって修行に入っていくわけだから。だとしたらこの者はもともと菩薩の修行をしていて、もともと徳があって現世的な楽というものをすべて知った上で、それは前生において知った上で修行し、自己のカルマを滅する、あるいは、他のカルマをしょうという修行をしていると。それによって五体が不満足の状態となり、そして修行に入っていってると考える以外に考えらんないんじゃないか、どうだそれは。
 どうですか。現に、仏陀釈迦牟尼の修行の途中で、ね、ものすごい苦痛を味わう修行をなしたり、あるいは、他が仏陀釈迦牟尼を棒で叩いたりね、あるいは、耳の中に棒を突っ込まれたり、いろんな修行の途中の経過があると。なぜだとこれは。
 どうだ。今日の話は理解できたか、まず。沈黙をしてるということは理解しづらいんだな。
 では、もっと言い方を換えよう。人間界の寿命は短いと。そしてある者が、もともと高い徳のお蔭によって出家し、徳を積み、修行し、高い世界へ生まれ変わったと。しかしこの人の心の働きの中には、まだ物質的なものに対する欲求があるから、物質的な世界優位の、高い徳の状態で生まれ変わったわけだよね。どうだこれは。そうするとこの人の行ける世界の寿命というのはどうだ。あるいはこの人の行く世界というのは、欲界の最上位である他化自在天、どうだ。限界まで頑張ったとしてこの世界じゃないか、どうだ。一方は、そういうものに対して求めてはいないと。ね。それよりも、ただひたすら、無常・苦・無我を実践すると。
 経典の中に、「求めてわたしはこれを実践し」ってのがあるんだよ。で、ねえ、言葉のカルマになるから非難はしないけどもだよ、あるインドの修行者がいて如来と名乗っていると。その人はすべてを経験しなさいと言って、煩悩的な経験をどんどんさせてると。しかし、すべてを経験しなさいという経験とは何かというと、無常・苦・無我、無常・苦・非我だね。この経験をすることがすべての経験になる。これは求めなければ経験できないものなんだね。じゃあ、それを求めるために、例えば色は無常なり≠ニ。その色の無常性というものを小さいときから味わってる者と、ね、それを頭で理解しょうとする者と、どちらの方が果たして、求める気持ち、あるいはカルマとしてね、修行者として求める気持ちが強いだろうかと考えたらどうだ。わかるかな、言ってることが。
 じゃあ、K大師の言ってることは間違ってるかと。そうではないと。一般的には先程も言ったとおりプロセスとして徳を積む、そうすると五体がよくなり現世がよくなると。これはわかるな、言ってることは。だからこれも真理なんだよ。ただ、それを乗り越えて大乗の修行、あるいはタントラの菩薩の修行に入っていくわけだね。
 もう一つ、追加の話をしよう。サーリプッタ、マハー・モッガッラーナが修行に入った動機というものは、ある祭があったと。その祭を見ていて無常を感じたと。なぜ人々はこんなことで楽しんでるんだろうかと。無常を感じて、修行者となったと。ほら見てごらん、これはどうだ。高い世界を知っているから、人間がこの世で味わう低い喜びに対して、「なんだ人間の世界の喜びというものはこの程度なんだ」と。よって修行に入るわけだね。どうだ。
 で、今までのは、導入部分であると。わたしが言いたいのはこのあとだ。
 例えばここに修行者がいたと。前生から修行していると。例えばクンダリニー・ヨーガの成就をしたと。ところがその人は、マハームドラー、あるいは大乗のヨーガ、あるいはアラハット・ヨーガといった高い成就をしているとしよう、前生において。この人はクンダリニー・ヨーガの成就をして、ああ、自分はクンダリニー・ヨーガの成就をしたんだと、素晴らしいと、そこで満足が出るだろうか。どうだ。ん?----どっちだ。
 わたしは高々クンダリニー・ヨーガであると。あるいは高々わたしはマハームドラーであると。もっともっと修行しなきゃいけないと。もっともっと自己を磨かなきゃなんないと。ね、もっともっと大いに神通を身につけ、大いに救済をしなきゃなんないと考えないか、どうだ。ところが、ここに、前生動物だったと。それにあるきっかけをもって、縁によって修行し出家し、解脱したと。クンダリニー・ヨーガの解脱をしたと。どうだこの人は。わたしは素晴らしい世界を知ってると。わたしは高い世界を知ってると。これ以上にない素晴らしい世界なんだと言うんじゃないか、どうだ。
 そして、その心の働きをプライドというんだよ。そしてプライドというものは、わたしたちの修行の最高の妨げであると。わかるかな。もし、もっともっと高い世界を知ってるならば、プライドというものは生じないんだ。またプライドが生じないということは、卑屈さが生じると思うか生じないと思うか。----生じないんだ。そしてそれを、謙虚な心というんだよ。
 これが今日の話の締めだ。ね、わかったかな。どういう流れで大乗の修行に入っていくか、どういう功徳の流れがあるかということがわかったかな。わかんないか。
 だって君たち、欲界をぶち抜いて色界に入るんじゃないのか。どうだ。わかってるか!
(一同)はい。
(尊師)だとしたら、欲界の頂点を極めたのち色界に入っていくんだろ、どうだ。ということは欲界の極まりって現世的最高の状態じゃないか、どうだ。しかし次は、色界の楽を求めようと思ったら欲界の徳はどうなるか。減退するかしないか。するだろう。今日の話のポイントは、一つはそこなんだと。ね。
 それからもう一つは、金持ちの豊かな修行者が修行に入っていくプロセスと。しかし、それはそれでまた限界にぶちあたるだろうと。そして必ず、無常・苦、ね、無我の、プロセスを歩かなきゃなんないんだよ、ということだ。いいね。
(一同)はい。
(尊師)わたしはね、もっともっと君たちに真理の話、ね、君たちのレベルからいったら難しい話をしたいと考えているけど、君たちは教学もせんし、頭も使わんし、ボーッとして、無智の状態で喜んでるからなあ。例えば、今日の話というのは、少なくともクンダリニー・ヨーガ、あるいはマハームドラーの初級の話だ、これは。出そうと思っても出せないじゃないか。君たちが無智のために。どうだ。
(一同)……。
(尊師)はい。では次。マハー・ムドラーの話をすると言ったよね。マハームドラ一には、二つの条件があると。その一つは、帰依であると。もう一つは、思索する能力であると。もちろん功徳というものはあるわけだけど、もうここで功徳は入れないよ。というのは、クンダリニー・ヨーガが、そのものが功徳のヨーガだったよね、どうだ。だから当然クンダリニー・ヨーガを成就してるということは、功徳はあるということで考えるから。
 じゃあ次だ。今日大師は、何人いるのかな。先程質問されなかった大師は。よし。四名だね。kは今日いないんだね。はい、ではこの四人に聞こう。まあBとはちょっと先程ね、話し合ってたからわかるかもしれないけど。一体この帰依とはなんだと。だって修行に入ったとき、すでに帰依はスタートしてるじゃないかと。どうだ。マハームドラーを成就する際の帰依とは、どういう帰依だと。B。マイク使ったらいいよ、マイク。聞こえないから。じゃあその四人に聞こう。Lと、それから、Aと、それからKDと、ね。一人ずつさっと答えてくれ。
(B大師)はい。先程伺っていますので、確かに伺ってそうだと思いましたからお答えします。まずいくら帰依だと言われてもわかることはわかりますが、最終的に自分の命までをなげうっての帰依というのは、できてるかどうかが問題なんですね。で、ここでいう帰依というのは、本当に本能的な帰依だとさっきおっしゃいましたけれども、わたし自身が、今持ってる帰依とは全くレベルの違う状態であると思います。自分のすべてですね、それを引き換えにしてでもいいからグルのために帰依するという気持ちを持たなければいけないと。
(尊師)うん。よし。あとはAと、Lと、どんどん答えろ。
(L大師)あ、Lです。ちょっと、難しくてわかりません。
(尊師)難しくてわかんない
(L大師)はい。
(尊師)はい。
(KD大師)KDです。やはり、マハームドラーまでの帰依というのは、自分のエゴを背景としたグルへの帰依だと思います。
(尊師)(笑)エゴを背景とした帰依だな。
(KD師)はい。
(尊師)おお、そうか。
(A大師)Aです。まあ、先生がマハームドラーをおかけになるとき、当然自分のエゴが嫌がりますけども、その段階で、自分のエゴをとらずに先生の意思を実践することが帰依だと思います。
(尊師)はい。
(A大師)以上です。
(尊師)どうだ、大師、ほかの大師。これぞ帰依だというのはいるか。じやあ、ケイマ大師。よし、じゃあ、ケイマ大師と、それから、X大師、それから、K大師、ね、それから、P大師、そしてS大師いこうか。あとマハー・マーヤ大師と。はい、さっきといくぞ。
(ケイマ大師)うーん、あ、抽象的になってしまいますね、自分のすべてを、うーん、明け渡すことと。
(尊師)自分のすべてを明け渡すこと。はい。
(v大師)あ、vです。はっきりとちょっと言葉で表わしにくいんですが、まず、クンダリニー・ヨーガでも帰依というのはあると思います。その帰依の段階というのは、ある程度肉体次元、それからあとアストラルのイメージの次元、そこまでの帰依だと思います。ただ、マハームドラーというのはもっとコーザルの心の次元までの帰依ができる段階ではないかと思います。ちょっと具体的にかたちとしては表わしにくいですけど。
(尊師)はい、はい、わかりました。
(K大師)Kです。今までのクンダリニー・ヨーガまでの帰依というのは、まあ基本的にグルがこうしろということに関して、例えば実現、ちゃんと実行できると。例えばワークにしたりもそうだし、修行にしてもそうであると。ところが、マハームドラーになってくると、そういう我々の人智の知れないことをグルは知ってらっしゃるわけだから、こないだ先生が説法の中で無智を修行に使う方法という場合で例えば、自分は理解できないんだけども、グルがこうやれと言うからそれに無智になってとにかく従うと。例えば、崖から飛び降りろと言ったら、何も考えずに飛び降りると。これがマハームドラー以上の帰依の条件だと思います。
(P大師)Pです。クンダリニー・ヨーガまでの帰依というのは、一応自己が理解して納得できる範囲の帰依であると思うんですが、マハームドラーで求められる帰依というのはそれ以上の帰依で、‥‥従順に実践できるというレベルの帰依ではないかと思います。
(S大師)先程、本能的な帰依という話がありましたけれども、まさに、確かに理屈で考えてどうのこうというレベルを超えた、本当にもう思考する以前の状態で、グルの言葉に従えるであるとか。あともしくは別の方面からいえば、まあ自分、自分を愛するということはありますけれども、これはちょっと言葉の表現は非常に難しいと思うんですが、自分とグルを、自分よりグルを考えられるようになる状態であるとか、そういうことだと思います。
(マハー・マーヤ大師)マハー・マーヤです。先程、v大師がおっしゃったことと大変似てると思うんですけれど、コーザルレベルでの帰依ということが必要になってくるんじゃないかと思います。で、それで具体的にそれがどういうことかというと、わたしの見解で間違いがあるかもしれませんが、一応述べさせていただきますと、グルの意思というものを、もう、なんていうのかしら、深い心の状態から感知するということ。で、感知するというときには、自分でそれが納得できるとかできないとか先程も出ましたけれど、常識にあってるとかあってないとか自分の持っている常識では理解できないことでも、グルの意思に沿って、それをもう深いところから、それがコーザル、深いところから感知して、そのとおりに自分のすべてを出して動こうとする、自分のすべてを出して修行しょうとする、それがマハームドラーで必要な帰依ではないかと、確かではないんですけれどそういう気がします。以上です。
(尊師)以上かな。だいたいみんな同じことを述べてると思うんだけど、だいたい帰依についての考え方、これはいいと思うね。一つ逸話があるんだ。君たちは、わたしの敬愛申し上げているサーリプッタ尊者は、マハームドラーの成就をしていたと思うかしていなかったと思うか。どうだ。当然智慧第一といわれるわけだから、マハームドラーの成就はしていたよね。どうだ。
(一同)はい。
(尊師)で、こういう逸話がある。これはね、実話であるかないかというのはすごく問題だ。だからあくまでも今日の話は、マハームドラーの一つの、ね、例題として考えてほしい。いいね。
(一同)はい。
(尊師)実は、仏陀釈迦牟尼が、そうだね----もう、かなりお年のころ、デーヴァダッタという者がいた。彼は、仏陀釈迦牟尼の弟ともいわれてるし、あるいは従兄弟ともいわれている。まあそれは、どちらでもいい。わたしは、弟としての見解をとっている。そしてこのわたしの見解からいくとこの逸話はでたらめだと思う。考えてるね。でも、マハームドラーのいい例題だから話すと。
 実はその当時、仏陀釈迦牟尼の教団はずいぶん荒れていたと。というのはどういうことかというと、釈迦牟尼の心の中には、僧がこれだけ多くなってくれば山での修行が不可能であろうという、ね、如来の見解があったと。よって在家からの供養を受けるようになり、在家と近くなった僧たちの心はすさんできていたと。よって、そこでね、デーヴァダッタは提案をしたと。ま、そのときには五百人以上の比丘がいて、その中にはアーナンダがいたという話なんだけどもね。で、その提案というのは、もっと修行が厳しくあるべきじやないかと。よって、ね、まあ例えば、菜食以外食べないとか、あるいは、ね、一日一食きちんと一食を食べないとか、そういう提案をしたわけだね。で、それに賛成した比丘が五百人いて。でも、その五百人が賛成したんですよということで、仏陀釈迦牟尼のもとにデーヴァダッタは言いに行ったと。ところが、釈迦牟尼は、「いや、そんなものは認めらんない」と。その話を聞いて、デーヴァダッタと五百の比丘は、「では、わたしたちは、真理を実践しよう」と言って山に上がったと。
 で、その当時、サーリプッタ、マハー・モッガッラーナは、そこにはいなかったわけだけど、ね、何かの用事で釈迦牟尼のもとに会いに行ったと。そしてそのときに、その釈迦牟尼からその話を聞いて、即デーヴァダッタのもとへ行ったと。で、デーヴァダッタは、五百の比丘にね、素晴らしい説法をいろいろしていたと。で、サーリプッタ、マハー・モッガッラーナの姿を見て、「あー、ね、あの偉大な仏弟子二人も、わたしの話を聞きに来るんだ」と、「来たんだ」という話をしたと。で、サーリプッタ、マハー・モッガッラーナは、デーヴァダッタの横に座り、そのデーヴァダッタの話を聞いたと。
 その前に一つ君たちに話しとかなきゃなんないことは、デーヴァダッタというのは、サーリプッタが最も称賛した修行者の一人なんだよ。これを聞くと「えっ」と思うんじゃないか、どうだ。神通においても、修行の激しさにおいても、そしてもう一つ、智慧の素晴らしさにおいてもね。
 そして、デーヴァダッタは釈迦牟尼と同じように、「疲れたからわたしは休む」と、ね、「このあとは、サーリプッタとマハー・モッガッラーナが講話をしてくれるだろう」と言って休んだと。ところが、サーリプッタとマハー・モッガッラーナは、ね、きちんと講話をし----マハー・モッガッラーナは神通を見せながら講話をし、そして、「さあ、あなた方のグルは仏陀釈迦牟尼なんだから、仏陀のもとへ帰ろう」と言って五百の比丘を連れて帰ったと。しかもそれは、デーヴァダッタが休んでるときに連れて帰ったんだね。
 どうだ君たちはこれは。道徳的なものの見方をするならば、正しいことを行なったと思うか行なわなかったと思うか。おかしいよね、これ道徳的には。どうだ。デーヴァダッ夕は堂々と釈迦牟尼に言って五百の比丘を連れていったと。どうだ。ところがサーリプッタとマハー・モッガッラーナは、デーヴァダッタが休んでるときに、釈迦牟尼教団にその五百の比丘を引き迎えさせたと。どうだ。どちらの道理が通ってると思うか。これが堂々と阿含経典に載ってるんだね。
 もう一つだ。デーヴァダッタの名前は、ね、そのころ、祇園精舎のある都にものすごく有名になっていたと。いいか。そして、釈迦牟尼教団でそれが噂になり、ね、どうしようものかという話し合いが始まったと。この経典もわたしはでたらめだと考えている。しかし、サーリプッタの帰依という意味においては素晴らしいお経だと考えてるね。
 そこで仏陀釈迦牟尼は、「サーリプッタ、お前、町へ行ってね、デーヴァダッタは、ね、悪人であると言ってこい」と。そこでサーリプッタは、「如来よ」と。「わたしは、今までサーヴァッティのね、人たちに、『デーヴァダッタは、神通は優れ、智慧優れ、そして厳しい修行者である』と言ってきました」と。「そのわたしが、そういうことを言えるでしょうか」と。仏陀釈迦牟尼は、「だからこそお前が言ってくるんだ」と。ずいぶんここで出てくる仏陀釈迦牟尼はキタナイねえ、これねえ。フフッ。実際、仏陀釈迦牟尼がそういうことをお話しになったとは考えづらいけども。
 サーリプッタは、「わかりました」と言って、その座を立ち、そして、サーヴァッティの都に行き、ね、「デーヴァダッタとはこういう人です」と、「だから、決して信頼してはいけません」と。で、「僧団を追放された人なんですよ」と。
 ここでもしサーリプッタがプライドがあるとするならば、どうだ君たちは。この話を受けたと思うか受けなかったと思うか。この話によって、サーリプッタの信用というものは落ちたと思うか落ちなかったと思うか。そして、彼らは命を落とすことそのものを苦と感じていたと思うか、思わなかったと思うか。どうだ。----思わない。ところが彼はどうだ、修行者としての信用というものは、命に比べてどちらの方が大切だと考えたと思うか。どうだ。----修行者としての信用そのもの、それが例えば、托鉢の、ねえ、糧ともつながるし、それから、説法をするときの相手にどれくらい受け入れられるかということともつながってくるよね。わかるかな。
 つまり、自分の命より大切な信用というものを、彼は仏陀釈迦牟尼に布施したことになってるんだよ、この経典では。ね。この程自体はでたらめだけど、実際これと似たケースで、サーリプッタがこのような役割を演じてたっていうのはあったんだろうね。
 そして、マハームドラーの成就というものは、自己の最も大切なもの、それはプライド、ね、それは例えば、生きるということ、最も大切なもの、これが捨てられるかと。グルのために捨てられるかということが、マハームドラーの成就をする際の帰依の条件なんだよ。ね。
 そして思索する力というのは、例えば辟支の説法を聞き思素すると。ね。あるいは、その他の一般的な説法を聞き、思索すると。そしてものを深く考え、正しく考えられるようになると。これが思索する力なんだね。そしてこの二つの力が本当に身についたとき、マハームドラーの成就をなす条件が整ったといえるんだ。
 どうだ。今日の話は、いいか、上級の修行者にとっての初級の話です。だから、新人シッシャはかなり難しかったと思うけど、それはね、そばにいる大師方にどんどん質問を浴びせて、わからないところは解決してください。いいね。
(一同)はい。
(尊師)はい、では、終わりにしましょう。