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◆89/5/1 富士山総本部
愚者の行ないと智者の行ない

 シッシャ諸君は、偉大なる絶対なる力に守護をされている。しかし、その守護を過信してしまうと、結果的には、カルマとしていいカルマを積めなくなる。
 それは、何を意味してるか。ひと月のうちに車が、十台から二十台つぶれている。そして、今日も男性の大師が五人乗っている車が、エンジンまでやられるような大きな事故を起こし、つぶれてしまった。しかし、その中の一人の大師が、少しだけケガをしただけで、少しけがをしただけでね、車は廃車と。しかし残りの四名は、無傷。一人だけが若千の傷を負っただけで終わってしまった。普通だったら相当な、例えば、死ぬまでいかなくとも重傷を負ったんじゃないかと考えられる。そしてそのような事故が日常茶飯事である。そしてその日常茶飯事の事故を起こしているにかかわらず、普通だったら考えられないような、ね、奇跡的な守られ方をしている。
 しかし、ここで菩薩はこのように考えなければならない。一体、そのような結果を、つまり同じ結果を、何回も何回も繰り返していていいんだろうかと。一体、自分は何のための修行をしているんだろうかと。一つの失敗が、ね、次の成功につながるような思索はできないものだろうかと。
 わたしは、しょっちゅう車で遠出をしなければならない。そして、そのとき・・・スピードで突っ走る。しかし、その車を運転している大師が緊張しているから、集中しているから、決して事故は起こらないし、起ころうとしても守られてしまう。
 ところが、近ごろの事故を見ると、大師の乗っている車が、特に事故を起こし、そして、ね、頭に少しずつ傷を受けている。これは、決して吉兆ではない。凶兆である。ではその凶兆には、どのように対処したらいいんだと。
 まず、動物的な行動パターンというものを反省しなければならない。動物的な行動パターンとは一体何だろうと。それは、ワンパターンの行動パターンであると。では一体ワンパターンの行動パターンとは何だろうかと。それはそこに車があれば、ただアクセルを踏みっ放すと。ただスピードを出すといった行動パターンである。
 例えば今回の事故は、雨が降っていて路面が濡れていた。よって、ドライバーは当然、そのことを意識しなければならないはずだ。であるにかかわらず、そのことが意識できなかった。
 ではなぜ意識できなかったんだと。それは普段からそういうことを意識する訓練がなされていないからである。ではなぜ、普段からそういうことが訓練なされていないんだと。それはきちんと瞑想がなされていないからであると。ではなぜ、きちんと瞑想がなされていないんだと。それは、日々の生活において、集中している生き方をしていないからであると。ではなぜ、日々の生活によって集中していないんだと。それは一瞬一瞬に、心の緊張、あるいは心の集中がないからであると。そして、心が外側に向かっているから、そういう過ちを行なうんだと。
 わたしたちは、類い稀な、わたしたちの功徳によって、今、このような修行の道を歩いている。しかしもし、その大切な修行、大切な人生というものを、無意味に、ね、しかも無智のために放り出してしまったら、一体、次の世はどの世界へ生まれ変わるんだろうかと。果たして次の世で真理に巡り合うことができるんだろうかと。そう考えるならば、今の生がいかに大切な生であるか理解できるはずである。
 智者が行動を起こす場合、まずその条件となっているものを徹底的に分析する。そしてその分析の結果、ここまではやってもいい、これ以上はやってはいけないということを判断する。例えば前回の、宗救法人認可の団体交渉についても、都庁で行なったわたしの行動と、文化庁で行なったわたしの行動は、全く違ったはずだ。それは、条件が違ったからである。そして絶えず、条件を見極め、その条件を整理し、ね、そして整理したのち理解すると。そして理解したのちに判断すると。この訓練をなしていれば、修行においても、あるいは人生においても失敗はないだろう。
 例えばここに解脱をしたいという者がいたとしよう。しかし、この解脱をしたいという者は、その人の周りにいる否定的なことを言う人を好むと。なぜ好むかというと、自分もつらいとき、ね、その否定的なことを聞くことによって心がいったん落ち着いたかのように見えるからであると。
 しかし、それをよく考えてみると、単に否定的なデータを大量に取り込んだにすぎないということを理解できてない彼は、当然成就はできないだろう。そして、そのデータを落とすために、人の一・五倍、二倍、三倍といった期間がかかるだろう。これが愚者の行為である。
 では、智者はどのようにするだろうか。例えば、修行をし、否定的なことを言ってる人がいたら、わたしにも同じ思いがあると。そしてわたしは、この思いによっていまだ成就していないんだと考える。そして、否定的想念は、わたしの五蘊の中の、意識の識だ。識に大量の悪いデータを放り込むにすぎないと。わたしは彼に近寄らないようにしようと。あるいはもう一歩進めて、わたしは彼にアドバイスをしてやろうと。今、あなたのなさってることは否定的なデータであって、それはわたしたち修行者にとって大変なマイナスになるんですよと。ね。あるいは、そばで綺語を発してる者がいたら、同じように、綺語はアストラルに対して、あるいはコーザルに対して、多大なる悪い影響を与えると。よって、綺語を発してる者のそばには近寄らないようにしようと考える。あるいは、ね、アドバイスをしてやろうと。綺語は、アストラル、コーザルをけがすものですから、ね、おやめになった方がよろしいですよと。これこそ智者の行ないである。
 そして先程の、車の件も同じだ。例えば、雨が降っていて、路面が滑ると。ね。例えば、車間距離はどの程度であると。今ブレーキを踏んだ場合どうなると。ね。例えば、雪道であると。雪道のときはどうなると。こういうことが、もしきちんと理解され、そして行動するならば失敗はない。
 それは、カルマそのものが大変科学的、あるいは数学的だからであると。ところが、自分たちは守られているんだと。確かにボディは守られている。ね。だから無謀な突っ走りを行なう。そして事故を起こす。
 今日、この瞬間を境に、シッシャは、まず智慧を磨くことを考えなければならない。動物的繰り返し、それはわたしたちに何の恩恵も与えてくれない。例えばここに山火事があって、水を求めてネズミが突っ走る。そして、すべてのネズミが川の中に入って溺れ死んでしまったとしよう。転生したネズミが、ね、また同じようにネズミに生まれ変わったと。そして山火事が起きたと。このときまた川に突っ込んだと。果たしてこのネズミは、この川を越えて山火事から逃れることができるだろうかと。もし、ネズミの特質に泳ぐというね、タレントがなければ、それは不可能であると。
 君たちすべては、智慧を磨くことが必要である。そして動物的な繰り返し、愚者の行ないを捨てることが大切である。ね。今日は、愚者の行ないと智者の行ない、それについてよく考えてみよう。いいね。
(一同)はい!
はい。では、いったん終わりにしよう。