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◆87/11/21 東京
グルが弟子に与える試練

 実はね、今日君たちを呼んだのは、集めたのは、カルマについて話そうと考えた。で、君たちも知ってるとおり、Hは五月の終わりインドに行って、そしてとりあえずインドは……。ところが彼はそれを自己の欲楽のために使った。その期間、期間をね。だからわたしは彼に最後のチャンスを与えた。それは独房にこもって成就するまで出るなと。で、おとといわたしは車に乗るとき、Hに「先生、わたしはもう耐えらないっていうか、港り出しそうな気持ちになってます」と。それはなぜかというと独房の恐怖を知っているからだ。「あ、そうか」と。「じゃ、逃げ出したらいいじゃないか」。で、彼は消えた。おそらく自宅に帰ったんだろう。
 一体彼は何をやったかと。ね。わざわざ会員の大切な金で行ってだよ、女と遊んで、しかも見なくてもいいようなところをたくさん見た。当然のカルマだ、これは。ね。
 わたしが今、君たちに何を言いたいかというと、わたしの君たちがそばに来れば来るほど、わたしは君たちに厳しくなるだろう。それはオウムは宗教、科学、それから他の文化方面において、おそらくこの五年、十年のうちに世界でね、リーダー的な存在になっていくだろう。そのときにそのリーダーがだよ、衆生救済という気持ちがなくて、ね、衆生済度という気持ちがなくて、ね、自己の単に欲なあがきを考えていたら、そのラインというものは全部腐ってしまう。だからわたしのそばに置くということは君たちは、言い方を換えればリーダー候補生なんだよ。救済者にならなきゃなんない立場にあるわけだ。だからどんどん落とすぞ、今回のやり方で。
 だからわたしはね、出ていきなさいとは必ず言わない。どんな人間に対しても。それはわたしを慕って来たわけだから。あるいは法というものを実践するために来たわけだから、ね。わたしはそれはだれにも言わない。しかしおかしければ、お前たちに課題を与えるぞ。「これは耐えられますか」と。ね。ところがわたしは出ていけとは言わない。「これは耐えられますか」と。
 わたしたちが真に真理の法に触れるためには何百生、何百何千何万という生の中の一つの生しかないんだよ。そしてそれを、ね、ここにグルの意思がありシヴァ神の意思があり、その意思を無視して自己の享楽のために使ったならば、もうその生は終わってしまう。その生で修行者のカルマは終わってしまう。だからHにはもう修行者のカルマはないだろう。これはちょうどわたしがS、ね、ラーマ・クリシュナっていう名前を命名したけども、彼にやったときと同じ方法だ。限界まで耐えて課題を与えて、駄目だったらつぶれていくと。それをじっと見てると。
 真に修行というものを愛していたら、そこでトライすればいい。ね。もう一度心を浄化しょうじゃないかとトライすればいい。しかし真理があって、真理に見向きもしないで腐っていった魂というのは救いようがない。だから腐っていく過程で、グルは必ず何らかの手段を講じます。講じたときに気づけるかどうかだ。
 わたしはよくみんなに言うけども。わたしは君たちを必要とはしていないんだよって。君たちが功徳を積むということは君たちのためにやっているんだよって。君たちが衆生済度するということは君たちのためにやってるんだよ。それは、ね、小乗の修行、ヒナヤーナの修行だったら、自己の修行だけを見つめればいい。しかし、ヒナヤーナの上にマハーヤーナというね、今、君たちが実践している大乗の修行があるんだよ。これは小乗を完全にクリアしなきゃなんない、してなきゃなんない。自己の苦しみを喜びとし、他の苦しみを悲しみとしなさいと。
 わたしが今回十一月に、特別イニシエーション四十、それから、ね、空いてるときはシャクティーパットとか連続でやってるのは、わたしが君たちのグルであることができるのかどうかの一つのトライをしてるわけだ。会員も千名以上になって、スタッフももうすぐ六十名近くなろうとしてるね。そのときに、果たしてわたしは君たちのリーダーとして、ね、つまり君たちに尊敬されるような動きができるのかと。
 わたしの説法はそれは素晴らしいことを言ってるだろう。しかし、もしわたしの行為が、大乗的な思想に基づいて、大乗の発願によって動いてないとしたならば、それは真理ではない。
 だから十一月というのは、わたしにとっては君たちに対する一つの証明なんだ、ね。これは空を飛ぶとか、あるいは水に潜るとかいうことよりも、わたしは大変なことなんじゃないかと考えている。
 そして君たちは、わたしのそばに来たということは、君たちはいずれ、ね、多くのセクションのリーダーになっていくだろう。多くの人たちを引き連れていかなきゃなんないだろう。そのときリーダーとは何か、リーダーとは何をやらなきゃなんないか考えてほしいんだな。
 わたしの特別イニシエーション、あるいはシャクティーパットの計算をすると、十一月中になんと三百名ぐらいのシャクティーパットをした計算になるんだね。----三百名じゃないなあ、十一月の頭にやってるから三百数十名ぐらいのシャクティーパットの計算になるんだよ。今までにこれは初めての度合いだ。しかし、オウムが来年飛躍するためには、来年大乗としての動きをするためには、これくらいのことでわたしがもし、ね、苦痛だと、苦悩だと、もし考え表現し逃げたとしたならば、わたしは君たちのグルではない。
 わたしはイエス・キリストがカルマをしょったと言ったときにせせら笑った。それは、彼は何の苦痛も味わってない。しかし君たちが成就して、君たちが救済する場合には、シャクティーパット、あるいは特別イニシエーション、あるいはほかの方法でいろんな苦痛を味わっていかなきゃなんない。それが本当の意味でのカルマをしょうことだとわたしは考えている。そしてそれこそが大乗だと考えている。
 わたしは君たちを愛している。だから君たちをわたしは見捨てることはない。しかし君たちに試練を与えるだろう、今後とも。そしてわたしはHがつぶれていくということを計算していた。それはもうすでにインドに行ってある時期が来た段階で、Hはつぶれるだろうと計算していた。そしてつぶすべきだと計算していた。もしそれで彼がはい上がってくるんだったら、それは素晴らしい菩薩になるだろうと考えていた。ね。もちろんオウムで、一般の社会に出ていって使えない人は、オウムっていうのはできるだけ長く引っ張ろうと思う。それはオウムでしか生きていけないわけだから。ね。しかしHは優秀な人間だ。だから世の中に出て嘘八百ついて生きてくだろう。それで今生は終わりだ、もう。
 修行というものは霊性の向上と心の進化という二つのプロセスがあるね。そして小乗の修行というものは霊性の向上だ。そして大乗の修行というのは心の進化だ。
 これもわたしは修行における二つのプロセスだと考えている。そして君たちを見ていると霊性の向上には心が向いているけども、まだ心の進化っていうことにあまり目が向いてないような気がする。それは例えばわたしのいないときに放り出してみればよくわかるね。マイトレーヤもそうだし、そういう意味でいったら。A君もそうだし、ね。Sもそうだったし。
いいか、だからわたしはあまり松原に来なくしたんだよ、そういう例を見てて。離れて見てるのが一番いい。それで君たちの状態を正確に理解して指摘してあげると。
 じゃ、なぜ心の進化っていうのが必要なんだ、心の成熟が必要なんだって考えると、高い世界へ入る----まあ言い方を換えればアストラルとかコーザルへ入った場合だ、心の成熟がなかったら魔にとりつかれるのがおちだ。そうだろ。魔境がその典型だな。ところが心が成熟していて、もし霊性の向上に恵まれなかった人は、いずれ霊性の向上に恵まれる時期が来るだろう。そしてそのときはその人は、本当の意味で高い世界とコンタクトして、幸福になれるだろうね。どちらが大切なんだ?
 これは、もうオウムのね、一部の人、まあケイマさんを含めて数人の人は知っているけど、わたしがインドへSとHを送ったのは、例えばSを送ったとき、わたしは彼がチベット仏教の翻訳ができると本音は、本当の気持ちでは考えていなかった。しかし彼のチベットに対する執着が強すぎたからあえて送ったんだよ。そして予定したとおり彼はカルマを落としてきた、それについては。
 Hに関しては、Hがオウムに来てからどちらかというとアンチ麻原の立場をずっと立ち続けていた。そして彼は完全な行者タイプだった。それはね、「生死を超える」にも書いたけども。ただわたしは前生で、これはMもそうだけど、借りがあるんだよ、Hに。よく尽くしてくれてねえ。今あのだれだ、秀夫君もそうだね、前生でよく尽くしてくれてね。Tもそうだね、よく尽くしてくれてね。だからこういう人にわたしは借りがあるんだよ、借りがあるから彼をインドに行かした。----そして予定したとおりの結果が出てきた。これはわたしは彼に借りを返すことができたんで、ほっとしている。
 魂というものは、ね、永遠の流れっていうのがあるんだよ。だから例えば過去において借りたものは必ず返さなきゃなんない。今名前を挙げなかったけど、この中でわたしがまだ借りてる人たちはたくさんいる。ただその人たちが現世的にその功徳を還元しようとするのか、あるいは自己の霊性の向上に役立てようとするのかによって違ってくるわけだな。もし霊性の向上に役立てようとしたならば、わたしはもっとその人たちに借りをつくるだろう。それはグルに対して、あるいはシヴァ神に対して君たちが功徳を積むことは、先程も言ったとおり君たちのためなんだね、これは。膨大な功徳が必要だ。見てごらん、わたしが言っているとおり、「この人はつぶれるよ」と言ったらつぶれるだろう。何もやっていない。わたしはアストラルで意志して、「こいつつぶれろ」なんて考えないからね。それはわかるんだよ、功徳の量を見れば。
 わたしだって危険だと思うときがあるんだよ。君たちのグルとして不適格だと。そのときはあえてわたしは苦難の選択をする。そこで功徳を積ませていただく。それはわたしがつぶれたら君たち全体に影響があるから。そしてわたしはこれを真理だと考えている。
 わたしの言いたいことは以上だ。質問があったら聞くけども。----質問ないか。今日の話はよくわかったか? mちゃん、ちょっと、わかった人、手を挙げさせてみろ。今日の話わかった人、手を挙げてみてくれるか。
(h)Hさんがつぶれるということがわかってるんだったら、
(尊師)移動しなきゃいけないとか?
(h)そうですねえ……。
(尊師)ねえh、ここに大きな船があって、この大きな船が沈没するとしたらどうするか。残しとくことによって。彼がもしチェンジするんだったら、それにとって重要な役割を演じるだろう、その船にとって。しかしもし残ることによって船が沈没するんだったらどうだ? どちらを選ぶか、お前は。
(h)そうですね、彼の欲望を満たした方がよかったのか‥…
よくわかりません。
(尊師)それはもうhのレベルじゃわからない。うん。それは考えるべきではない。ただね、h。一言言えることは、ここに人がいて経験を否定して進んでいこうとする人と、経験を肯定して進んでいこうという人がいるな。それはどうだわかるか? つまりここに戒があって、この戒というものを守って抑えて修行進めていこうとする人と、そうじゃないんだと、経験したいんだと、経験すれば乗り越えられるだろうと思って進めて、進んでいく人と二通りあるな。どうだそれは。それはわかるか?
(h)んー、戒を経験して乗り越えていくというのは……。
(尊師)いや、戒を守って人生というか修行を乗り越えていこうという人と、戒はあるんだけどもそんなのどうでもいいと。経験して乗り越えていこうとする人と二通りあるだろ。それはわかるか?
(h)うーん、戒をどうでもいいから経験して……ですか?
(尊師)いや、そうじゃない。……うん、どうでもいいから、そう、戒はどうでもいいからだな。で、Hの前生というのはタントラ行者なんだよ。タントラというか、ちょっと違うんだけどね、普通の一般にいわれているタントラとは。要するに一切を肯定したタイプなんだね。だから今生でもそのカルマが出てる。そうすると彼が今後修行者として大成するかどうかというのは、経験させてみるのが一番早いんだよ。それはわかるか?
(h)うーん。
(尊師)前生の流れから、抑え込むことは無理だから。だからわたしは彼とRさんが付き合うことも肯定してたしね。「いいよ」と。わかるか?
(h)うーん。
(尊師)というよりも言い方を換えれば、ここに戒があっても守れないだろうというのが本音だ。そういうカルマがないから。どうだ。
 まあね、このあとの話をすると延々となるから今日はやらないけども、そういう背景があるんだ。だから瞬間的にそこまでのデータが出てきて、どうしようこうしようという判断をしているわけだね。
(h)じゃあ彼がつぶれていくのはどうしようもなかった……。
(尊師)うん。どうしようもないというか、それは彼の選択だね。だから彼が本当に解脱に対する欲求があるんだったら、ね、彼は独房にこもったでしょう。わかるか?
 それから彼のもう一つは影響力というのがあって、例えばhが少しぐらい悪いことをしたって、まあ周りは「あいつは否定的な人間だからどうこう」と、で終わってしまうと。ところが影響力のある人間ていうのは、つまりリーダーの素質のある人間ていうのは、よっぽど注意して育てていかないと、ていうか選択してその一つ一つを任せていかないと大変なことになる。これはわかるか?
(h)そうですね。
(尊師)そういう意味合いもあるんだよ。もうそれはわたしたちは、ね、君たちに対しての責任もわたしはあるけども、会員に対する責任もあるわけだから。わかるか。そこらへんもすべてひっくるめて考えてる。いいか、それで。
(M)先生、今のh君の質問の中であった否定と肯定ということですね、ラージャ・ヨーガで例えば「苦だ、苦だ」と言って否定していく、それからそうじゃなくて肯定していくというこの間やりました……それとは違うんでしょうか。
(尊師)それとは違うね。修行法がいろいろあるだろ? いろんな生でいろんな修行してて。Hはわたしの弟子だったこともあるし、わたしの弟子じゃなかったこともあるわけだよ。で、わたしの方法というのは、今君たちが体験してるような方法しかとらない、これは。前生もそうだったし、その前の生もそうだったしね、そういう意味でいったら。ところがインドという国は、あるいはチベットもそうだけども、そうじゃない方法をとる一派もあるわけだよ、一切を認めてしまうと。
 認めるというのはどういうことかというと、経典に例えば経験し尽くさなければ終わりませんよ″という一句があるとするね、M君。そうするとそれを字づらを読んでしまったらどうなる?
(M)現象界での経験ていうことに置き換えてしまう。
(尊師)置き換えてしまうね。それをやってる一派もあるわけだよ。そうすると膨大な年数、膨大な生が必要になってくる。だからこの場合は、肯定として入るだろうけども大乗の流れではない。
 『生死を超える』をもう一回引っ張り出して読んでもらったらよくわかるよ。H君とか、あるいは先程言った、だれだったっけあれは。S君とかについてのわたしの評価が出てるから。その総論の部分でね。個人的にはほめ称えてるけど。ねえ、あの二人は小乗でいったらすごいだろうから。ただ今オウム自体がもうマハーヤーナに向かって、ね、要するに大乗の終着点に向かって走っでいるわけだから。
(M)そうすると大乗の修行者が、あるものを苦だとして否定して切るんじゃなくて肯定していくっていうのは、存在を肯定する″っていうことなんですか。
(尊師)存在を肯定するってことだ。すべての存在を。例えばここに苦があるよね----ちょつと抽象的な話になるけども----この苦の存在すら肯定するんだよ。ところがラージャ・ヨーガの場合、ここに苦があるよね、この存在を否定するんだよ。だから例えば先程わたしが、グルとしての役割という話をしたときに、わたしの選択していることというのは、意識的に苦の中に飛び込んでいるでしょ。まあおそらく今からもそれをやるだろう。
 ところが先程、H君の肯定っていうのは、苦の中に飛び込んでいる肯定ではないでしょ。どうだそれは。人生を楽というふうに仮定して、その中に飛び込んでいるよね。しかも彼の理論の中には、彼はカルマを否定してるよね。例えばこういうみんなの善良な気持ちで自分はインドに行って、この期間を与えられたわけだから、自分は何をしなきゃなんないという気持ちが本当は生じなきゃなんないよね、例えば。カルマを理解しているんだったら。どうだそれは。
(M)はい、そうです。
(尊師)ところがカルマを否定してるよね、そこで。ところがわたしはすべてのカルマを肯定してるよね。わたしに、わたしにおいてもカルマというのはあるんだと言っているよね今。わかるよね、言ってることは。つまりわたしは全部肯定しているわけだ、わたしは。彼は必要なところは肯定し、必要でないところは否定したよ、というプロセスだね。いいかなそれで。
(M)はい。