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◆89/3/6 富士山総本部
サマナの良識/四つの悲しみ

 はい、今日の話はね、まずちょっと昨日のことの、少し反省をしなければならないと。
 まず昨日ね、これははっきりと名前を言った方がいいと思うんだけども、SYさんが、ちょっとつらくなられてオウムから抜け出されたと。で、それはね、みんな修行者だから、苦しみを内側に持っているから、抜け出すことがあってもいいと思うんだね、わたしは。しかし、それに対する対応の仕方に大変な問題があったんじゃないかと。
 大変な問題とは何かというと、まず朝何時くらいから捜し出したんだ。M、何時くらいから捜し出した。
 夕方の三時半くらいから?----捜し始めたのは何時ぐらいからだ。
 ん、だれが一番に捜し出したのかな。M大師が捜し出したのが三時半と。その前がら捜している人は? 言ってくれるか。S、何時から捜し出した。
(サマナ)十二時半くらいから。
 どうしてS、先程三時半より前に捜し出した人は言ってくれないかなと言ったとき、言わないんだよ。ね、Sより前に捜し出した人はで----だれだ。何時くらいから捜し出した。
 ん……、十一時くらいから捜し出した。で、何時ぐらいまで捜したか? 何時まで捜したか? それで終わった。だれだ、それは。女性のお風呂場? はい、だれだ、風呂場で寝てたのは。名乗りを上げてくれないかな。だれも寝てなかったのかな、それとも。
(サマナ)0さん……。
(尊師)0さん。ん、食堂の奥。お風呂場で寝てた人はだれだ。勇気がないね、みんなね。ん。
 ほう、じゃ、S.Y.さんは? 午前中寝てた。あーそうか。じゃあ、午前中はいたわけだ。何時くらいまでいたんだ。十一時過ぎぐらいまでいた? 十時過ぎ。Yさんが捜したのは?----ということは、もう一人だれか寝てなきゃおかしいな、それは。ね、十一時から捜したんだろ。あ、そうか。わかった。で、Yさんは、一、二時間しか捜さなかったと。S君は? どれぐらい捜したんだ。何時まで捜した。ん、五時、四時。十二時から四時まで捜した。だれと捜した。
 何人くらいCSI動いたんだ。CSIにだれが下ろしたんだ、それは。Aが下ろした。Aから。で、M大師には許可を受けたか。そうだ。なぜ、受けないんだ。んー、っていうことはM大師には話したのは話したのか。で、だれとだれを動かすという話はしたか。一つはっきりしていることは……。

 はい。じゃあ、今日の話に移ろうね。
 まず担当大師がいると。担当大師というのは、例えばセクションにいるシッシャの皆さんの担当をしてるわけだから、それは担当大師の指示に従わなきゃなんないと。逆の言い方をすれば、担当大師にはそれだけ責任があると。
 それからもう一つは、例えばね、聞きに言った人達は、こういう女性がいなかったかとか、あるいはこういう女性が脱走したんだけどとか、ま、いろいろそういう話をしているみたいだけども、結局、脱走という言葉、あるいはいなくなって血眼になって捜していると。これはどう考えてもおかしいよね。おかしくないか、どうだそれは。君達が一般の人という立場で見た場合だよ、シッシャがここにいて、シッシャがいなくなったと。それを血眼になって捜すと。どうだ。ちょうど監禁をしているように見えないか。どうですか、これは。返事は。
(シッシャ達)はい。
 君たちのセンスね、つまり良識というものに疑いを感じるね、わたしは。少なくとも救済者の立場には立っていないと。それは相手の心の状態がどういう状態であるかを判断して、一つ一つ動かなきゃなんない。
 そしてね、本気になってオウムから去ろうと思ったら、君たちがいくら頑張って捜そうと思っても、あるいは君たちが法友として相手を説得しようと思っても説得できるものではない。またその必要もない。そして、君達にはそういう暇もないはずだ。もともとシッシャがいなくなった場合、----ま、Sが「シッシャがいなくなった。さあ、捜しなさい」と言ったのは、それはそれで良かったと思うけども、その後の捜し方に問題があるとわたしは言っているんだね。
 わたしが捜す場合、必ず周りには気づかれないようにして捜します。なぜならば、一般の人には修行者の心の状態っていうのはわからない。どうだ、これは。修行者というのは、自分たちの心を追い詰めていくわけだよね。そうじゃないか。そうすると、追い詰めていくときどういう衝動が出てくるかわからないよね。どうだ。客観的に見たら、単にある人間が脱走してそれを捕まえに回っているというふうに見えないか。現にそういう情報が入ってきているんだよ、一般の人からね。隣のSさんを通して。
 ね。そうすると一体オウムというのはどういう団体だということになるよね。ならないか。もちろん救済者だから、自己の肉体を犠牲にしなきゃなんないときはあると。あるいは、社会的に悪とされることでも、それがもし真理だとしたならば、関わなきゃなんないこともあるかもしれないと。しかしそういうことと、今回の件とは全然別問題だよね。わかるかな、これは。だから、もう少し一つ一つの動きに対して周りを考えながら、意識しながら動いてほしい。そしてそれは、大乗の修行をしていく上でのね、前提条件であると。
 例えばね、高知に向かった便でP大師をはじめとする五人の大師が向かったわけだけども、結局、P大師が事故を起こしたと。で、その背景というのは何かというと、他に乗ってた四人がね、結局、配慮をしなかったからだ。もし、例えば周りの人たちが気を遣ってくれてたらね、事故は決して起きてなかっただろうとわたしは考えると。
 今回の件も同じだね。ただ単にがむしゃらに、動物的に動いているとかその背景にあるものは何かというと、無智であると。そして、無智というのは、二番目までのヨーガ、クンダリニー・ヨーガまではエネルギーのヨーガだから成就するけども、三番目のマハームドラーに至っては、決してそういう無智を背景とした場合、成就しないだろうと。わかるよね、言っていることは。なぜかというと、思考、つまり心の働きを使って成就していくのが三番目のヨーガだからだ。そして、その準備、その訓練というのは日々行なわなければならない。
 それから大変情けないと、わたしは近ごろシッシャを見て思っている。それは、たかだか自己の小さな煩悩で揺れていると。これで一体、他の煩悩をね、他の人の苦しみを取り去ることができるんだろうかと。もう少しみんな自覚してほしいね。
 ここで君たちにね、プレゼントがあると。それは日々、四つの悲しみについて考えなければならない。
 その悲しみの第一は、大悲と、大きな悲しみと呼ばれている悲しみだ。これは、真理がここに存在しているのに真理に巡り合うことのできない人。ね、この人達を考えながら、絶えず君たちは大悲、大きな悲しみに暮れなければならない、ね。
 次に、中くらいの悲しみというのがあると。その中くらいの悲しみとは何かというと、そこに真理があって真理に巡り合ったんだけども、結局入信できないと。つまり信が持てないと。この人には中くらいの悲しみが、君たちの心の中に生じるようでなければならないと。
 そして、小悲、少ない悲といわれている悲しみがあると。これは、せっかく真理と巡り合い、そして真理の実践を始めたんだけども途中で落ちていってしまうと。
 そして、最も少ない悲しみ、これは、せっかく真理に巡り合って実践しているんだけども、その真理と現世的な煩悩とのぶつかり合いで、まだ煩悩が勝っている状態であると。よって、全力で真理というものが実践できないと。そして、君たちが今日、わたしが今話したこと、これを意識するならば、君たちの法友に対する態度、これはおのずと決まろう。あるいは君たちの肉親に対する、あるいは君たちの現世における友人に対する態度、これはおのずと決まるはずだ。わかるか。
 ということは、今回の問題は何番目の悲に当たるか。小悲ではないよね。なぜかというと、彼女はつぶれてはいないと。ね、微少の悲しみに当たるよね。そして、君たちの周りで心の揺らいでいる人に対してだよ、そういう心で接するならば、シッシャの一人一人の自覚というものがね、もっと変わってくるんじゃないかなと考えます。どうですか、これは。
 君たちは無智だからこう考えるだろう。「あなた方が苦しんでるのは、わたしがもう、今、同じように苦しんでるんだと。だからよくわかるよ」と。そうすると相手はどう考えるか。ね。「わかるでしょうと。こんな苦しいのよ、わたしは」と。そして、口のカルマを積ませ、心のカルマを積ませると。
 わたしはこう答える。「今、あなた方が苦しんでるのは、以前わたしか苦しんでた苦しみであると。しかし、それは幻影であると。そして、その苦しみに支配されてる限り、成就もないし、ただ落ちていくだけだ」と。そして、一人一人のシッシャの心が強くなるならばね、こういう問題は起きないだろう。オウムのシッシャレベルですら、これほど心が弱い。ましていわんや、環世の凡夫の心の弱さといったら、もう話にならないと考えてるね、わたしは。
 ではその証明は、麻原どうするんだといったらこう答えよう。今の政治家を見てごらん。自分の職務における責任というものをとってるか、みんな。どうだ。じゃあ例えば、医者はどうだ。自分の、例えば手術だったら手術のミスを平気でしょえるか。どうだ。じゃあ、学校での生徒に対する立場はどうだ。----すべては自分がかわいいと。ここから発端しているよね。どうだ。だから世の中はこれだけ濁ったんだよ。ね。本当に心が強ければ、このとき自分はどのような態度で生きればいいかと。あるいは、このときどのような処置の方法があるかということはおのずから出てこよう。
 それから今回の件で、Mも一つ反省しなきゃなんないね。それはきちんと指示を出すこと。いつも言ってるとおり、大師は全責任があるわけだ。逆に全権限があるわけだ。だから、自分のなした言葉に対しては責任を持てばいい。そして微少の悲、微少の悲しみを持つ必要があるけども、それよりも君たちは自己のワークというものに専念しなさい。
 今日、これ一つの約束として決めようね。つまり、オウムは無理をして出家の行者を管理してるわけではないと。オウム内のことは決して外に漏らさないと。いいね。そして自己の、自分たちの内側ですべて処理すると。いいね。

 はい、それでは、ね、自分たちの修行者としての功徳、これを喜び、そして真理に目覚めない人に対して四つの悲しみを持ち、生きていこう。頑張ろう。