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◆87/8/30 東京
真のボーディサットヴァとなれ
今日は----いいか。今日は大乗と小乗について話したいと考えている。で、なぜ大乗と小乗について今から話すか、ね。それはわたし自体が小乗というものを必要としていないからだ。では一体、大乗のボーディサットヴァとは何か。まあサットヴァというのはラジャス・タマス・サットヴァのサットヴァと同じだけども、ね。大乗のボーディサットヴァとは何かと、ね。あるいは小乗の修行者とは何かと。あるいは小乗のサットヴァとは何かということについて、今から話したいと思う。で、このことが君たちの頭の中に完全にたたき込まれていないとだ、君たちは真実の世界に行くことができない。いいか。
例えば、ここに二つのタイプの船があるとしよう。一つは、木でも何でもいいからとにかく一人乗りの船だ。ね。この一人乗りの船というものは、マハーヤーナに向かうことができる。もう一つは豪華な大きな船だ。ね。何万人何十万人と乗せることのできる大きな船だ。いいか。この二つの船に対してだ、ね、この二つの船に対して、一定の抵抗を、ね、与えたとするよ。あるいは一定の障害、衝撃を与えたとしよう。いいか。どちらの船が早く沈没すると思うか。0、どう思うか。
(0)あ、小さい方です。
(尊師)だから小乗で成就した場合、緊張がずーっと解脱するまで続く。そして解脱したのちも、ね、マハーヤーナに入るまでずっと緊張が続くんだよ。だから一見、非常に強いように見える。外からは。それは、デリケートだからだ。ぶっ壊れてしまうからだ、すぐ。いいか。
ところがここに大乗の船があると。それは何千人何万人と乗せて運ぶことができる。あるいは何十万かもしれないし何百万かもしれないと。船が大きくなればなるほど、端から見たら柔らかくなる、ね。なぜ柔らかくなるか考えてごらん。ちょっとやそっとの刺激を受けたってびくともしないんだよ、その船は。そして確実にマハーヤーナに向かう。ね。スピードだってそうだ。スピードだって、一見スピードがないように見えるんだよ。ね。しかし実際はそうではない。そしてその大きな船を造るためには、何が必要だと思うか。村井君。
(村井)そうですね。周り、他人も一緒に進めていくといいますか、そういう大乗の思想。
(尊師)他人も一緒に進めていくという大乗の思想----ちょっとくい足りないなあ。外れてはいないが。Eは?
(E)船の基本となるもの。
(尊師)船の基本となるなんだ? 暖味なタマスは駄目だ。もっとはっきり言え。
(E)土台となる人材が必要だと思います。
(尊師)土台となる人材、それも真実だがくい足りないなあ。ほかには。いないか?
----それは、愛だ。いいか。四つの無量心が必要となる。
例えばここに表面的な同情で、ね、例えば会員同士が接し合う、あるいはスタッフが会員に接するとしようじゃないか。そんなのはだれも必要としてない。というのは、その人たちの周りの人も表面的な同情ぐらいできるはずだ。そうじゃないか。
ところがいいか。真に相手のことを思い、真に相手の進化を考えたならば、ね、本当に相手に同情できるはずだ。本当に相手の苦しみがわかるはずだ、ね。本当に相手の苦しみがわかるということは、相手の苦しみに巻き込まれるということはない。その原因を冷静に見つめてあげて、そして苦しみを一緒にしょってあげる。あるいは取ってあげる、ね。ところが、わたしが今の東京のボーディサットヴァの会あるいはスタッフを見る限り、それが非常に薄い。ね。
じゃあその相手に対して愛し、慈しみ、ね、そして誉め、誉め称えだよ、ね、相手の悲しみを取り、苦しみを取り除き、ね、相手と一緒になってあげる、それは一体どういう力になるんだ?----村井君、どういう力だと思うかそれは。それはねえ、原子と原子の強いつながりだ。言い方換えれば安定だ。ね。人材なんかどうでもいい、なぜどうでもいいかというと、それがきちんとできてくれば、それは真実だから人材も集まってこよう、ね。
なぜならば大きな≠たしたちの目標がある。それは人類を救済するという大きな目標だ。しかしそのベースになるものは、今傷ついてる人、今悩んでる人、今悲しんでる人の、ね、その苦しみを取り除いてあげなければならない。
そして、その人材といわれる人たちもだ、自己の苦しみを乗り越えたとき、あるいは自己の苦しみに耐えることができるようになったとき、本当にオウムの真理というものに対してね、目覚めるだろうし、つながりができてくるんじゃないか。どうだそれは。
ところが君たちは、そういう目でボーディサットヴァの会を見ているか。そういう目でボーディサットヴァとしてのつながりを考えてるか? どうだ。
ここに輪廻に苦しむ魂があると、ね。この輪廻に苦しむ魂は、いいか、迷妄の中にいるからこそ、タマスやラジャスあるいはサットヴァの中にいるからこそ、苦しいわけだ。
---それは軽重があるよ。ラジャスの苦しみ、タマスの苦しみ、サットヴァの苦しみという、ね、グレードはどんどん上がっていく。しかし苦しみを持っているわけだ。いいか。そして、その人が少なくとも自己の苦しみに対して正面きって立ち向かえるようになったとき、オウム真理教の真理というものを絶賛するだろう。そしてそこで、本当の意味でオウムとつながることができるわけだ。ここにオウム真理教の核がある、そしてその核から核を中心として、大きな、ね、マハーヤーナに至る船を造るとしたならばだ、いいか、それは君たち一人一人が、本当の意味での大乗のボーディサットヴァになるしかないんだよ、ね。
つながりの弱い者たちが集まって一つのグループを作ったって、それが大きくなれば必ず核分裂を起こす。いいか。しかし、互いが手を出し足を出し、がっちりと連携した状態で、ね、一つの集団、一つの塊ができたならば、それはつぶれることがない。そして、そのつながりとは何かを考えるならば、それは菩提心だ。ボーディチッタだ。四つの無量心だ。そして個々がそれをね、日々意識し実践するならば、必ずや真理は魔性に勝つだろう。
しかし自己の世界、小さな世界の中で、もし安住するならば、わたしたちに未来はない。それは君たち一人一人が、真の菩薩として、真のボーディサットヴァとして意識できるかどうかだけだ。
例えばわたしがよく聞く話で「あの人は邪気だ」とか、「会員の中で邪気がいる」とか、「あの人は真実がわかってない」とか、よくそういう言葉を聞く。わたしはその言葉を聞くときいつも離れる、そこから。なぜ離れるかというと、それを言っている者そのものが邪気だからだ。
グレードというものはどんどん上がっていくよ、修行していったら。しかしね、絶対に自由になった者、絶対に幸福になった者から見たらすべては邪気だ、そういう意味でいったら。そして器の大きい者から見たら、器の小さい成就者、これも邪気だ。
それに気づいたときに、本当のボーディサットヴァになることができる。「わたしもかつてけがれていた」と。「今わたしは少し清らかである」いいか、「だから、かつてけがれていたわたしと同じ人に対して、わたしが愛を持つことは当たり前である」と。ところがそうではなくて、「わたしは今けがれていない」と。ね。「修行してないボンクラどもは、けがれを持ったどもは邪気である。わたしの対象ではない」----もしそういう気持ちを持つならば、その人の歩く道は小乗しかない。それはその人は自己の内側、過去に比べて今というものは綺麗であるという自己の内側は理解している。しかし全体から見たならば、自分がまだ邪気であることに気づいていない、ね。あるいは心のけがれた人を見て、自己は清らかである、他はけがれてるという意識を持つならば、その人は小乗としては正しい。しかし大乗のボーディサットヴァという点からいったらそれは正しくない。
よく考えてみろ。過去において修行する前の自分と今と比較したら、少なくとも少しは清らかになっているはずだ、だとしたならば過去の自分は濁ってたわけだ。
いいか。だから君たちが今から実践していかなきゃならないのは、どんなにけがれた人、ね、どんなに邪気を持っている人がいたとしても、その人たちに対して決して自己を過大に評価してはいけない、あるいほ他人を卑下してはいけない。すべて全体の大きな@ャれから考えたならば、それは大した問題ではないからね。
そして他を自己と対比して自分は正義であると感じたならば、そのときその人の修行は終わる。それはそうだ。わたしたちにとって最も必要な向上心≠ニいうものがそこでなくなるからね。
いいか。今からもたくさんの人が苦しみを持って来るだろう、ね。そのときにもし愛≠ニいうものを相手に与えられなかったならば、慈悲喜捨、四つの無量心というものを相手に投げかけることができなかったら、お前たち失格だ。
それは、四つの無量心を持っている者がここにいる、その人は今は成就していない。一方ではグルの力によって成就した人間がいる。どちらが偉大だと思うか。わたしにとっては四つの無量心を持ち、ね、自己も苦しみの中にいる、しかし、他の苦しみをほうっておけない、そして自己はまだ悟り得ていないが真実はこれだと思い、ね、オウムが今からやろうとしてることを手助けし実践し、ね、救済の側に立つ人、この人をわたしは大変偉大な人だと思う。
わたしのよく使う引用でね、ある如来が登場なさったとき、釈迦女・尼はまだ菩薩であったと。そのとき釈迦牟尼は如来を供養するために、自己の髪の毛を地べたに、泥の地べたに投げ出したと。そのときその如来が弟子たちに言ったことは、ね----この弟子の中には独覚とか声聞といわれている小乗の成就者がずいぶんいたわけだ----「汝らはこの菩薩の髪の毛を踏んではいけない」と。「汝らの器ではないと、彼は」。そう言っている。つまり釈迦牟尼もこちらに四つの無量心を持ち、今生でたとえ成就できなくとも大乗の船の一つの機能を果たしている人。それと、ね、小乗で成就した人との比較をして、この四つの無量心を持った人がいかに偉大であるかを説いてらっしゃる。
これはわたしも同じだ。そして、いまだまだオウムのメンバーの中にスタッフの中に、大乗の本当の意味での芽生えを持ってる人はわずか六、七名だ。この大乗の芽生えが十名になり、二十名になり、百名になり、千名になり、一万名になったときに本当の意味での救済活動は成功するだろう。そしてそのとき、わたしの言った真の救済、ね、真実を展開する、これが可能となるだろう。
今日の内容はかなり難しい。もし質問があったら受けるし、質問がなければ終わりにするが。
お前たちん中にスタッフだっていうことで、ね、傲慢さエゴがあるようにわたしには近ごろ映る。これはわたしの錯覚かもしれない。しかしわたしにはそう映るよ。本当の菩薩というものは絶えず謙虚でなければならない。そして絶えず向上心を持たなければならない。絶えず四つの無量心を展開しなければならない。