TOPorLINKFS4トップ>FS4内容

◆88/11/2 富士山総本部
大乗仏典の批判----智慧の眼によって経典を読め

 今日は、今までの講話の内容と違って、少しね、大乗仏典に触れてみたいと考える。その第一が『維摩経』だ。
 今日は大乗仏典の批判であると。それはおかしいと。麻原は大乗を説きながらなぜ大乗仏典の批判をするんだと。それは大乗仏典が大乗仏典でないから批判するんだと。そしてあなた方がその大乗仏典に対して正しい知識を持つならば、ね、本当の意味の大乗、それからなぜ仏教は廃れたかということも理解できようと。その第一が『維摩経』であると。
 もちろん、いいかな、大乗仏典の中でも素晴らしいお経もある。それについては、それはそれとして評価しなきゃなんない。しかし今日取り上げる『維摩経』については、これは評価の、ね、価値に値しないお経であると。なぜかと。
 まず『維摩経』について簡単に触れるならば、日本の仏教では居士といっている、そしてそうだね、サンスクリットというかインドでは長者というふうに命名されている、維摩詰という人がいたと。で、この人は大変な神通の持ち主で智慧が優れていたと。そして悟りの境地に到達していたということになっている。で、この人がまず、仏の十大弟子に対してね、いろんな説法をし、あるいはそれを超えているということの内容、そこから『維摩経』は展開していくわけだけども、その一つ一つの内容が、要するに机上の空論をこねまわしていると。だから簡単にその墓穴を掘ってるわけだね、わたしの目から見ると。
 例えばサーリプッタについては、サーリプッタが智慧第一であるということに対して、サーリプッタの悟りというものに対して、排撃をしてるわけだ。
 例えば、ね、アヌルッダというのはこれは天眼第一なんだけども、そのアヌルッダの天眼については、その天眼の、ね、背景というものを批判することによってそれを否定してるわけだね。
 では一体なぜ、その『維摩経』が登場しなきゃなんなかったかと。これはね、大きく、ね、仏教の転換期にあったわけだけど、そのときに、在家の信徒をいかに仏教から離れさせなくするかと、そういう配慮を込めて在家信徒の智慧第一で、しかも神通第一の維摩詰というのを登場させて、そして小乗といわれていた、ね、「スッタニパータ」だとか、あるいは「アーガマ」だね、阿含に出てくるような聖者たちを否定すると。することによって、そしてその釈迦牟尼がお説きになった四諦八正道というものをつぶすことによってね、そして空を展開することによって、大乗の優位性、小乗に比べて大乗が優位なんだということを展開するためになされたお経、これが『維摩経』なんだね。
 だからその内容はひどいもんで、今ちょっと、ずっとケイマ大師と、ケイマ大師にそれを読ませて、それに対してわたしのコメントというか、これはここが矛盾しているよと、ここがおかしいよということを今までやってきたわけだけども、もうその一つ一つ、言い方を換えれば一行二行三行のうちに、もうミスが一個二個三個四個と、ね、加わってるようなお経です。
 だからもし皆さんが『維摩経』を読むチャンスがあって読むと。で、そのときには、そういう目を持ってね、つまり仏典だからといって盲信しないと。というのは、釈迦牟尼が入滅なさって二千五百年以上経っている。その二千五百年以上経った中でいろんな、……だって『維摩経』って、『ゆい・ま・きょう』というぐらいだから、「唯・魔境」と。「唯魔境」というぐらいだからね(笑)、これはほんとに魔境の経典なんだよね。いやいや、ほんとに。やっぱ『般若経』は般若、ね、パーラミターじゃないけども、ほんとに智慧の経という感じがするんだけども、ほんとに『ゆい・ま・きょう』というのは唯、唯、魔境の経典というか、そういう内容なんだね。
 で、それをやっぱり知ることによってね、例えば他の宗教団体の人が『維摩経』を背景としていたら、それを完全に論破できると。あるいは『法華経』を背景としたら、それを完全に論破できると、ね。あるいは『アーガマ』の一部を論拠としていたら完全に論破できると。あるいは『般若経』を曲解してとらえていたら、それを完全に論破できるぐらいのレベルになってほしいと、ね。
 例えば、彼はこう言っているわけだ。いいかな。ラーフラがね、金持ちの息子を集めて出家の素晴らしさを説いてたと。そこにどういうわけか維摩が現われると。ね、これはいつも出しゃばりなんだよね。そして自分の方が偉いんだという論争を仕かけるという。この自分は智慧があるんだという、そういう感じの論争を仕かけてくるわけだけど、本当の智慧がある者から見たら、ほんと無智の回答してるわけだけどね。まあそれはいいとして。そしてこう答えるわけだよ。「あなたは出家のよさというものを説いてはいけない」と。「その出家に際しては、徳を必要としているわけでもないし、それは善行でもない」と言ってるわけだ。ところが仏陀釈迦牟尼はそうではなくて、出家というのは最高の善行であると、最高の功徳の現われであると言ってるわけだね。そして、それについては答えないでこう言ってるわけだ。「もう自宅にいて出家しようと思った瞬間から出家行者なんだ」と。
 それはおかしいよねと。わたしがケイマ大師になしたコメントはこうだ。
 例えばここに飛行機が飛んでいるとしようね。で、飛行機の中で、おれはこっから飛び降りても地上には落下しないと考えた人がいたとしよう。こっから飛び降りてもわたしは死なないと考えている人がいたとしようと。あるいはこっから飛び降りてもわたしは苦痛がないと考えていた人がいたとしようじゃないか。どうだ君たち。この人は飛行機の中でそう考えていたとして、それは現象化するかしないか。どうだ。……しないね。当然一万メーターの所から飛び降りたら、当然、ね、空気摩擦によって燃えるときに痛いだろうし、苦しいだろうし、あるいは死ぬだろうし、あるいは絶対に引力の法則で落下するよね、どうだ。
 ところがその『維摩経』のね、論法というのはそうじゃないんだよ。いっさいは自在であると、ね。だから、例えばもう心に思った瞬間そのときはもうそれでいいんだと、そして空というものを空しいと説いているよね。これどうだったかな、空は空しかったかな。真の空というものは空しいではなくて、わたしたちのアストラルの現われであるとか、あるいはコーザルの現われだったよね。どうだった? だから空というのはいきなりその世界が現出するから、生じるわけでもないし滅するわけでもないという、そういうことだったよね。どうだ。
 しかしこの現象界は生起し滅するんだったよね、どうだったかな? この粗雑な世界のすべてのものに、生起して滅しないものがあるかと、どうだ。ないよね。つまり偏った見解を説いている、その空だけを説いてるんだね。しかもその空をでたらめに説いている。これが『維摩経』だ。
 そしてそれを一時期仏教の主流として信奉したんだよ。どうだ君たちは。仏陀釈迦牟尼がお泣きになるのわかるよね。五百年間は正法が続くという意味もわかるよね。五百年経ってしっちゃかめっちゃかになるという意味もわかるよな、どうだ。予言どおりじゃないかと。
 そしてそれをベースとしてというか、それを超えるためのお経として『法華経』が登場したり、ね、あるいは 『般若経』が登場したりしてるわけでしょ。つまりいったん仏陀釈迦牟尼によって最高の教えが説かれたにかかわらず、そのあとアホな弟子が、ね、エゴのために低級の法を説いたと、ね。
 それは例えば、よく考えてごらん。大師だっていろんなレベルがあるわけだよ。高いレベルもいれば低いレベルもいると。そうすると例えば、その時代に低いレベルの大師しかいなかったならば、それはわたしの教えのすべてを理解することは当然できないよね。どうかなそれは。あるいは大師すらいない時代だったらどうだ。そして論理だけをこねまわす人間が多かったらどうなる?
 つまり仏陀釈迦牟尼の教義というものは経験があってこそ、背景に経験があってこそ理解できるんだよね、そうでしょ。ところがもし経験がなかったらどうなるかな。それは、空論としては理解したように見えるけども、実際は一つの観念が生起したにすぎない。そうじゃないかな。そしてそういうかたちで大乗仏典がどんどんどんどん膨れあがっていったんだ。で、その最たるものが『維摩経』と。
 例を挙げたらきりがないね。例えばマイトレーヤに対する質問の仕方もそうだね。「あなたは、ね、仏によって、仏陀釈迦牟尼によって、未来仏となると言われたんだけど、いつの生でそう言われたのか」と。「それは未来なのか過去なのか現在なのか」と聞いてるわけだ。そして彼は「空には未来も現在も過去もないわけだから、予言が生じるのはおかしいだろ」と言ってるわけだ。
 これに対してはどうだ?……そのとおりであるといえるね、それは。つまり空ていうかわたしたちの最終地点、ね、マハーヤーナに対しては、あるいはマハー・ニルヴァーナに対しては、時は消滅してるから、現在・未来・過去がないと言えるよね。どうかな、これは。しかしわたしたちがいったん微細次元に降りてくると、アストラル世界に降りてくると、時のスピードは違うけども未来と過去と現在はあるよね。どうかな、これは。この現象界においても、もっと粗雑になってその時の感覚というのははっきりしてくるよね、どうかな。そして仏陀釈迦牟尼がもしアストラル次元にしろ、あるいは現象界にしろ、その予言をなさったとしたら、当然それは過去ということができる。そうだろ。だから未来仏ということができるよね。ところが、そういうことに関していっさい答を出さないでただ否定して、淡々と空の理論を説いてると。
 するとね、一見、仏教を深く理解していない人間にとっては「あー、そうかもしんないな」となるんだよ。これはちょうどバグワン・シュリ・ラジニーシの説法と似ているね。何言ってるかわかんないと。ただ難しい言葉がタラタラタラタラと並んでると。わかるかな。君たちはそうならないようにしなければならない。そのためにはまず、今君たちが持っている、ね、「マハーヤーナ」から始まって『マハーヤーナ・スートラ』に終わるという経典群を完璧にまず理解することと。そして修行の経験とそれを照らし合わせることと。で、わからないことは君たちより進んでいる大師に聞くことと。その大師で理解できないときには、もっと進んでる大師に聞くことと。で、その大師でも理解できないときにはわたしに聞けばよろしい。そして完璧にそれをいったん理解すると。そして理解した上でもう一回それを修行で追いかけてみると。それが君たちの修行だ。いいね。
 しかし、わたしがやはりこの世を去って、まあわたしがこの世界に輪廻転生を繰り返さない限り、五百年後、千年後にはまた変てこりんな経典ができてるだろうね。
 なぜそう言いきれるかというとね、例えば『アーガマ』、『阿含経』ね、『阿含経』を見たらわかるとおり、公式なんだね、あれはすべて。単にその人間が解脱していくための道しか説かれてないわけだ。ところが『阿含経』も後期に入ってくると、いろんな付け足しが加わってきて、ね、エピソードとかそういうのが中心となってきて、面白い読み物と変わると。ね。そしてそれを超える形で、先程言った維摩経が出てくると。それは簡単だよね、その同じ仏教経でだよ、先駆者たちを否定しきることによって、ね、自分は偉いんだと言えばそれは、すごい経典になるだろう。どうかな? そして理解してなきゃ同じ仏教″というカテゴリーで見るよね、どうかなこれは。見ないか?
 例えば君たちは真言宗、天台宗、ね、臨済宗、ね、曹洞宗、ね、まあこういうのを見てだ、どう思うか、同じ仏教だと見るだろう、見ないか? そしてその中の教えの一部分をとってるんだと見るよね。どうかな。しかもそれはみんな仏陀釈迦牟尼の教えだと考えるよね。凡夫は特にそう考えるよね。そうじゃないかな。しかし実際は仏の教えじゃないのがほとんどだと考えてよろしい。
 そしてもう一つだ。オウム真理教といったら、これは仏教だと見るだろうか周りは。どうだ。----これが狙いなんだね。つまり真実は、オウム真理教は仏陀釈迦牟尼がお説きになった法と少しも変わらないと。しかしそれを復興させるためには、あるいは、それを展開するためにはね、仏教であっちゃいけないんだよ。なぜかというと、もう腐った僧どもが、ね、生きるためにエゴのためにしっちゃかめっちゃかの法を説いてるから。だから全く別のものを現わさなきゃなんない。
 じゃあ……そうじゃない、正確にいうと。別のものを現わしたかたちで、真理を説かなきゃなんないんだね。そして、わたしが君たちに約束したとおり、君たちは間違いなく経典に書かれているステージを一つずつ一つずつ上がってきてる。そして今、ね、幽体離脱から、ダルドリー・シッディが平気で起こる状態まできてると。経典には次何が載ってるかというと、このダルドリー・シッディが一メーター、二メーターと高くなると。そしてそのあと空中浮揚だと載っている。
 いいね。君たちはだから、君たちの学んでいるものをまずベースとして、その教学だけではなくて経験をそれに付加して、ね、そしてそれに完璧に信が持てた段階で、智慧の目によって他の仏典を読むと、すごく面白い結果が出てくるよ。こういうアホな経典にわたしたちは帰依はできないと。そして今日の第一の話が『維摩経』です。
 さあ、全力で頑張ろう。