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『高弟の詩句(テーラ・ガーター)』 より
聞け、覚者の弟子の真実の声を
(「内外タイムス」掲載1992)
一 わたしの小さな小屋は覆い隠され、楽で無風なので、
愛欲神よ、思いのままに雨を降らせ。
わたしの心は正しくサマディに入り、離解脱し、
わたしは熱心に時を過ごす。愛欲神よ、雨を降らせ。
と、上に述べたようにきっかり、聖者スブーティ 優れた存在)高弟は詩句を唱えた、と。
【解説】 スブーティがラージャガハを訪れたときのこと、ビンビサーラ王は彼に敬意を払い修行場を作ったが、屋根をふくのを忘れた。スブーティの功徳によって、愛欲神は彼が濡れないようにと雨を降らせなかった。そこで、人々が苦しんだため、王は自らの落度を詫び、屋根をふいた。そして、雨がもたらされたという。このように、仏典でも天候を変える神通を証明しているのである。
二 寂静になり、自己を制御し、
聖典を口誦し、うぬぼれず、
悪の法則に関して揺すって振り落とす。
あたかも暴風が立ち木の葉を揺すって振り落とすよう
に。
と、上に述べたようにきっかり、聖者マハーコッティカ(偉大なる貯蔵室)高弟は詩句を唱えた、と。
【解説】
この詩句は、サキャ神賢の時代、どのような修行法を行なっていたかを、わたしたちに示してくれる。心の調御、つまりヨーガの修行と、聖典の口誦、および悪法捨断である。そして、これは解脱や悟りへと至るのである。
三 真理勝者方のこの智慧を見よ。
真夜中に燃やされた火のように、
光を与え、視界をもたらし、
帰着する者たちに不信を除去する方々である。
と、上に述べたようにきっかり、聖者カンカーレーヴァタ(悩みを持つ裕福な家庭の出の者)高弟は詩句を唱えた、
と。
【解説】
この詩句を見てもわかるとおり、供養値魂の一つの条件は、わかりやすく正しい比喩なのである。そして、これを方便と呼ぶのだ。ところで、「嘘も方便」という言葉があるが、これは明らかに誤りであり、方便とは、このような正しい、わかりやすい比喩のことを指すのである。
四 正当な方々であり、賢者方であり、
美徳が実感できる方々とだけ、共に座りなさい。
大きく、深く、
見難く、深遠で、厳密な美徳には、
怠惰でなく、賢明で、
揺るぎない者たちが一緒に習得する。
と、上に述べたようにきっかり、聖者プンナ・マンターニプッタ(優しさに満ちた息子)高弟は詩句を唱えた、と。
【解説】
まさにこの詩句は、悟り・解脱を得るための条件を表わしている。ここでいう「正当な方々であり、賢者方であり、美徳が実感できる方々」というのは、これはグルを指し、もちろんプンナ・マンターニプッタにとってのサキャ神賢であることは間違いがない。そして、ここに書かれている詩歌の条件、これを読者の皆さんがすべてクリアしたときに、供養に値する魂となり、「自分自身がなぜこの世に存在し、そしてどう生きたらいいか」、また「死とは何か、死後の世界とは、来世とは」等のすべての疑問を解決することができるはずである。
五 調御され難く、調御によって調御されたダッバは、
合一し喜び、不信を切り抜けた。
というのは、そのダッバは勝利する者で、忌まわしさ
を離れ去った者であり、
完全煩悩破壊し、真我にとどまったからである。
と、上に述べたようにきっかり、聖者ダッバ(潅木の薪)高弟は詩句を唱えた、と。
【解説】
原始ヨーガと仏教の流れが全く同じであることを、ここでは証明している。この詩句の意味合いは、要するに、真我独存位イコール解脱であり、イコール供養値魂、つまり阿羅漢なのである。この詩からもわかるとおり、最終的にわたしたちを幸福にしてくれる状態とは、真我独存位に到達することなのである。
六 涼しい林に近づくことにより、一人合一し喜び、
サマディに入った真我である向煩悩滅尽多学男は、
勝利する者で、驚嘆を離れ去り、
身体に及んだ記憶修習を守っている不変を有した者で
ある。
と、上に述べたようにきっかり、聖者シータヴァニヤ(涼しい林に住む者)高弟。
【解説】
「保護しましょう」と申し出た守庶民外傷天に、瞑想を終えたシータヴァニヤは「覚者に教えていただいた記憶修習で十分です」と断る。その彼を見た守庶民外傷天は、彼が供養値魂に到達したことを知り、覚者にお伝えする。こんなエピソードが、この詩には伝わっている。
オウム真理教の教えは、絶対自由・絶対幸福・絶対歓喜を説く。そしてそれは、この詩句でその一つが完全に証明されている。この歓喜は、真我と合一したときに生じるものであり、解脱のときに生じるものである。そして、この歓喜は表現不能の喜びなのである。これに到達すると、外的喜びが無意味となる。それはちょうど、大変おいしいものを食べた後、普通のものを食べてもおいしくないと感じるのと同じである。
七 あたかも大氾濫が、
正しく衰弱するアシの堤防を払いのけるように、
死の神の王の軍隊を払いのけた者は、
勝利する者で、忌まわしさを離れ去った者である。
というのは、彼は調御され、完全煩悩破壊し、
真我にとどまったからである。
と、上に述べたようにきっかり、聖者バッリヤ(矢の性質)高弟。
【解説】
このバッリヤの詩からもわかるとおり、仏教の向煩悩滅尽多学男(僧)の修行の目的は、死神に打ち勝ち、死を超越することである。そして、死に打ち勝った者を供養値魂、阿羅漢というのである。
八 調御され難く、調御によって調御された勇者は、
合一し喜び、不信を切り抜けた。
勝利する者で、驚嘆を離れ去ったそのヴィーラは、
完全煩悩破壊し、真我にとどまった。
と、ヴィーラ(勇者)高弟。
【解説】
これは、ダッバの詩と同じく、死の超越イコール真我独存位を表わしている詩である。
九 種々の分類された法則において、
その最上のものに成功した。
失せてなく、悪く熟慮されていない。
と、ヒリンダヴァツチャ(あてにならないものを超えた子牛)高弟。
一〇 この世でもあの世でも配慮に時を過ごし、
祭司の聖典に完全に到達し、
安穏になり、自己を制御した者は、
種々のすべての法則において汚されず、
世界の上向と滅亡とをわかることができる。
と、プンナマーサ(いっぱいの黄金のコイン)高弟。
【解説】
この詩は、成就後の状態の解説をした詩であると考えることができる。そして、その成就後の状態に必ず死生智----つまりどの死はどこへ生まれ、あるいはどの死はどこへ上向したり、あるいは下向することによって滅亡したりするかということがあるのを表わした詩である。そしてこれは、何を実践すればどのように幸福になり、何を実践すればどのように不幸になるかということを表わしたのである。