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◆88/10/29 富士山総本部
五門を閉じよ
君たちが今の肉体をカルマの終焉によって去るとき、君たちの五門というものは働かなくなる。五門というのは何かというと、目・耳・鼻・口、そして触覚だね。よって君たちが死後の体験をすること、それは大して難しいことではない。なぜならば生きてるときから五門を閉じ、そして内側に一体どういうものがあるかということを理解したならば、それは明らかに死後と同じ経験ということになる。
立位礼拝がそうだね。例えば視覚的なもの、あるいは聴覚的なもの、あるいは嗅覚的なもの、あるいは味覚的なもの、あるいは触覚、これを超越した状態で立位礼拝を続けなければならない。そうすると功徳のある人は内側の喜びがこみ上げてきて心が豊かになる。あるいは物理的に功徳のある人は気持ちがよくなると。ということは輪廻転生において五門を閉じられたとき、その人は高い世界へ生まれ変わるということが約束されよう。
逆に五門を閉じたとき、ね、苦しみしかないと。逃れたいと考えると。これは三悪趣に至る道だと考えた方がよろしいと。
つまり君たちが高い世界へ転生するか、あるいは低い世界へ転生するかは、案外簡単に見分けのつく問題である。
そして日々の生活において、君たちが君たちに注意して、そして五門を閉じようと努力するならば、ね、君たちのカルマというものが自ずと理解でき、そしてそのカルマを清算することによって幸福になれるんだなということが理解できよう。
例えば以前のN君と、六百時間を過ぎてからのN君を見てると全く違うと。それはなぜかというと、おそらく彼の六百時間、七百時間の立位礼拝の苦痛を受けてる段階で、そのカルマが落ちて少しずつ少しずついい状態になってきたんだろうね。これは0君もそうだと。
今苦しんでるのは、別に他人が与えたものではない。君たちの内側にあるものが出てきてるにすぎないということを理解しなければならない。
そしてまずは自己の苦悩を滅さない限り、他の苦しみを取るなんていうのは、それは傲慢極まりないことであると。だからスタッフになって、君たちは君たちの苦悩と闘って、そしてそれを超越して、ね、そして神聖な安らぎのある波動を出して世の中に帰り、救済という、ね、救済者としての役割を演じて、その場の空間を変えていくということは最高であると。
昨日も話したと思うけど、わたしは今、凡夫にあまり興味がない。凡夫はエゴの塊である。それは信徒も大きく分けて二つに分けることができると。一つは完全な凡夫であると。エゴむき出しのためにオウム真理教の実践を行なっている。もう一つは自己を変えるために、自己を変革するために、清らかな意識状態で、ね、オウム真理教の修行を行なっていると。前者は単にエゴを増大させるにすぎない。後者はエゴを滅していくだろうから、いずれは在家であろうと出家であろうと解脱するだろう。そしてわたしは前者にあまり興味かないんだね。
もうそれはオウムだけではなくて他の宗教にも、ね----ほとんどまあ宗教を実践してる人はそうなんだけども----存在しているタイプであって、そういう人たちが精神世界を駄目にしてるわけだから、それには興味を持たないにして、後者の人たちだけをとにかく育み成長きせ、本当のね、精神の世界、宗教というものをこの日本に、あるいは世界に展開しようと考えている。
わたしが日本に登場する以前、幽体離脱というものは不思議な現象であった。しかし今オウムの信徒の中で、幽体離脱をしたといって喜んでる人はあまりいない。それはなぜかというと、当たり前になってきてるからだ。そしてわたしの登場する以前、ダルドリー・シッディ、これも不思議な現象であった。しかし今、例えばオウムでは集団ダルドリー・シッディが起きている。だれもそれに対して興味を持たないと、ね。それから以前、ミラレーパの本の内容にあったトゥモというものが、やはり同じように珍しい状態であったと。しかしそれに対しても今オウムでは興味を持たないと。それは四十・五度、四十一度、四十二度、四十三度という高熱を出して、意識が鮮明な状態で平気で生きている、それがオウムのスタッフであるし、弟子であると。
わたしは、三年間のうちに確実に基本的なことは変革してきている。おそらくあと二年三年のうちには、空中浮揚だって水中サマディだって当たり前になるだろう。そしてそれに到達していなければ、逆の言い方をすれば宗教家、真理を説く人とはいわれなくなる時代が来るだろう。そういう時代をわたしはつくりたいと考えている。
そして、それが達成できるかどうかは君たち次第だ。君たちが五門を制御して、ね、そして五蘊を離れ、三明を得、あるいは六通を得ると。そうするならば、この日本の空間、あるいは世界の空間というものは、まるっきり別の意識状態に変わる。意識が転移するだろう。それがわたしがこの日本に生まれてきた理由だ。
君たちは類い稀な徳を持っている。じゃあそれは一体どういう徳だと。真理を実践できる徳だ。今から二千五百年前、仏陀釈迦牟尼は真理を説いた。それが四諦人正道だ。そして今わたしは同じように、レインボー・ステージを説いている、あるいは六つの極限を説いている。これもそれも出どころは同じだ。そして、この二つの教えに共通していることは真理であるということ、そしてそれを教えている者がその真理を体得しているということだ。真理の前においてはいかなる、ね、教えも、あるいはいかなる理論も無意味である。
この二千五百年の間に、この現象界というものはいろんな転変を遂げた。例えば馬車が自動車になり、あるいは飛行機になり、あるいはジェット機になり、あるいは宇宙船になった。ということは当然、天界だって変わってるし、阿修羅の世界だって変わっている。動物だって種族が若干変わったといえよう。しかし今から二千五百年前の人の心も、今の人の心も、あまり変わっていない。それは、動物とそれから阿修羅の中間、そして下から四番日の世界だから当然、若干の天界の要素、あるいは阿修羅の要素を含んでいる。それから最も近い動物の要素、ね、それから若干の餓鬼の世界の要素、そして地獄の世界の要素を含んでいる。これが今わたしたちの人間の世界だ。
わたしたちが人間に生まれたのは、わたしたちの心の働きによって生まれたわけだ。そしてその心の本質を理解するならば、なぜわたしたちが人間なのかということが理解できよう。その本質は情だ。だから立位礼拝をやっていてある段階が来ると、すごく現世が懐かしくなると。すごく親が懐かしくなると。すごく兄弟が懐かしくなると。すごく恋人が懐かしくなると。すごく友人が懐かしくなるという状態が来る。これはどういう状態かというと、わたしたちが人間に生まれている背景が情が中心だからだね。
例えば動物に修行させたとしたら、おそらく無智が中心で楽しみのヴィジョンが中心だろう。餓鬼の世界で修行させたとしたら食い物しか浮いてこないだろう。地獄の世界は闘争、および傷つけること、および傷つけられることしか浮いてこないだろう。
天界はどうかというと、これは君たちが最後に経験するプロセスだけども、悦・喜というね、とにかく肉体的エクスタシー、精神的な平安というものだけが浮いてくるだろう。
そしてわたしたちは人間を超越するために、あるいは六道を超越するために、そのすべてから離れなければならない。
まず五門を閉じなさい。そして君たちの心の中にある三つの毒、貪・瞋・癡といわれてるね、貪り、それから、ね、真理に対して疑いを持つということ、そして嫌悪をする、憎むということ、そして憎しみから怒りを発するということ。この三つの心の状態を早く超しなさい。そうすることによって君たちには素晴らしい、ね、世界が待っている。それがわたしの言う絶対自由・絶対幸福・絶対歓喜だ。
今、仏陀釈迦牟尼が登場して以来、二千五百年を経て、ここの太陽のもとの国、仏陀釈迦牟尼は太陽のみすえと言っている。太陽のもとと言っている。そこに正しい真理の法が展開されている。そしてそれをあなた方は実践し、ね、最高の功徳によって、それを体得しようとしている。その類い稀な自己の功徳、あるいは自己のカルマというものを大切に、全力で修行してほしい。いいね。
よし。では、今日の説法をこれで終わろう。