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◆88/10/19 富士山総本部
四つの極限

 まず、今この空間の話をすると、性欲の空間である。そして、九月の初め、立位礼拝のスタートのとき、そのときは信仰の空間であった。そこには大きな違いがある。
 では一体なぜ、信仰の空間から性欲の空間に変わったのか。これは立位礼拝をやっている上位の人たちが、どんどんどんどん高い修行に入っていったからにほかならない。つまり今君たちはまだ、本当の意味でグルというものを意識できていないし、本当の意味で修行というものの大切さを感じていない。
 ではどのようにしたらいいか。それは、ただひたすら四つの極限を行ずる以外に方法はない。その四つの極限とは何か。それは布施、持戒、そして堪え忍ぶ修行、それから全力で修行することだ。
 では、三つ目の忍辱とは何か。三つ目の忍辱とは? ----それはね、君たちが君たちの壁にぶつかる。そしてその壁にぶつかったとき、そこから退かずに、ね、その苦難に堪え忍び、ただひたすら修行をやり続ける。これが忍辱の修行だ。そうしてもし忍辱の修行ができなければ、その人がたとえ三つ目のマハームドラーの成就、あるいはジュニアーナ・ヨーガの成就が終わったとしてもそれは天界へ至るだろう。いや、天界へ至る道しか残されないだろう。
 そして次の四つ目の精進、これは何か。忍辱のあと出てくる、修行は楽しい、本当に修行は素晴らしいという気持ちが出てくる。その修行が楽しい、修行は素晴らしいという状態、その状態で、ね、君たちの先輩がやっているように、あるいは君たちの、君たちより少しだけ霊的に高い人たちがやっているように、一日二十時間、二十一時間、二十二時間、二十三時間、二十四時間と連続で修行できる状態、ね、これが精進だ。
 凡夫の思考だと例えば、ね、経済の半分布施をしたと。まあ君たちのお小遣いが三万円だ。そうすると、半分布施をしたと、「俺は今月は布施をしたぞ」という気持ちになるかもしれない。しかしそれは極限という点から考えたら、経済的な極限という点から考えたら、それは大した布施ではない。
 極限というのは何か。例えば、ね、本当に必要なら自分の血でも肉でも供養してやると、これが絶えずできるかと。あるいは自分の生命力を供養してやると、ね、布施してやると、これができるかと。そしてできた段階でそれを布施の極限というんだ。自分の肉体すら供養するわけだから財産なんて目ではない。
 第二番目の持戒はどうかと。これは実際にはね、根本十善の、ね、不殺生・不偸盗という十個のものがあるわけだけど、このほかにもっともっと二百も三百も戒というものがある。例えばそれはオウムの中の戒律みたいなものだ、ね。先輩に対して、正しく言葉を使うだとか、あるいは必要のない、ね、あまり修行上のことでも必要のないことは語らないだとか、ね。徹底的に自分を戒める。自分の戒を、ね、自分の内側において戒を徹底的に保つ。そして小さな破戒、ね、本当に小さな破戒でもその戒を破ったことに対して心が苦しむ。これが第二番目のステージの持戒の極限だ。
 そして第三番目の忍辱の極限ていうのは、そこに死というものがあって、死というものと背中合わせになったとしても耐え続ける。これができてこそ、本当の意味での忍辱の極限ということができよう。
 仏陀釈迦牟尼は五年間断食なさったっていう話がある。それが真実であるか否かはどうでもいい問題だ。要はその仏陀釈迦牟尼の断食に対してだ、ね、あなた方がそうだったんだと考えること、彼は死というもの、それを絶えず背中にいだきながら、ね、よっかかりながら、そして修行してらっしゃったんだと、ね、限界の苦悩に耐えてらっしゃったんだと、そう考えるならば、忍辱の極限というものも君たちは修行することができよう。
 あるいは、これはわたしのシャクティーパットも同じだ。死″というものが背中合わせにある。もしわたしが、今後他の面での救済というものを当初から予定に入れていなければだ、おそらくわたしは肉体が滅びるまでエネルギー放出を続けただろう。
 しかしもともとわたしの日本を中心としての活動というものは、ね、はじめから三年と決められていたからね。今第二期の、世界に対する救済の準備に入ろうとしている。しかし、高々三年の救済活動の中で何度死″というものに直面したか。肉体を襲ってくる苦痛がどういうものであったか、それは君たちが三つ目のヨーガ、ね、マハームドラーあるいはジュニアーナ・ヨーガを達成したのち、君たちがなさなければならないシャクティーパットの加行、あるいは特別イニシエーションの加行をね、達成し終わったとき、その五分の一、六分の一の体験をすることができるだろう。
 そしてその全体が終わる以前に、例えばシャクティーパット十人、十一人、十二人、二十人となしていくうちにだ、どれほどの、あなた方が大切な時間を使って培ってきた生命エネルギーを、プラーナを相手に与え、そして正しいイメージを、修行上の功徳を相手に与えるか。そしてあなた方に対して、凡夫の持っている煩悩性のデータがどれほど入ってきてどれほどあなた方を苦しめるかという体験がね、始まり、「あー、これは忍辱の修行でもあったんだな」と、そういうことに気づくときがいずれ来るだろう。そしてこの忍辱を達成できた者はだ、次に精進の修行に入っていく。
 第一期、仏陀釈迦牟尼の弟子は五名であった。それは君らも知ってるとおり、アッサージ、コーンダンニャをはじめとするね、五名の比丘衆だ。比丘衆というのは男性の弟子である。そしてこの五名の弟子には、どちらかというと小乗的な教えをお説きになった。というよりも苦から離れる方法をお説きになった。
 そして彼らの努力によって、彼らの力によって、ね、努力・力というのは、彼らはよく仏陀釈迦牟尼の教えを実践し、そしてそれを伝法したから、教団は今のオウムと同じように、少しずつ少しずつ大きくなっていった、ね。そして次の段階で、今の日本と同じように、仏陀釈迦牟尼の偽物が現われだそうとしだした。そのとき仏陀釈迦牟尼は軽くそれを否定なさり、それから周りの要望に答えて少しずつ少しずつ神通らしきものをお見せになり出した。
 そしてそれは一つの転換期でもあった。実際、仏典に現われてくる神通というものは、ね、もちろん修行者に対して神通をお見せになることはあったけども、凡夫に対してはあまりなさらなかった。しかし、中期仏教に入ってくると、仏陀釈迦牟尼をはじめとする高弟たちは数々の神通を見せ、そしてその神通を背景として高い高い説法というものをお説きになった。法というものをお説きになったんだ。そして今オウムも同じように中期の展開に入ろうとしている。
 そして、中期に入ってきた者たちは、ある意味で大変だ。ある意味で楽だ。
 なぜ、ある意味で大変である意味で楽だといえるかというと、ある意味の大変さというのは、もともと修行システムができ上がりつつあって、しかもその修行システムは、古今東西類を見ない激しいものであると。そして君たちの達成は、君たちの内側の心の平安だけではない。それに加えて救済という一つの大きな白い旗が立っている。そしてそれだけではない。それともう一本、君たちは神通も身につけなければならない。そのために君たちがなさなきゃならない修行というのは、それは限りなき激しいものだ。おそらくこの、オウムの状態が三年から五年、あるいは状況によっては十年ぐらい続くだろう。
 じゃあ、なぜ楽だといえるかというと、修行システムが完成してる上、先輩方が、ね、ある程度出てらっしゃる。その先輩方が一通り修行を経験していらっしゃるから、その人たちが君たちの相談役となり、そして君たちを導く。そしてその人たちは特殊なムードを持ち、精神の安定は抜群である。これは仏陀釈迦牟尼の時代も、そして今のオウムも同じだ。
 例えばサーリプッタ、マハーモッガッラーナが、釈迦牟尼の教団にね、入信なさったときだ。アッサージという、先程の五比丘の一人の法をお聞きになりね、法というのは今のオウムと同じように釈迦牟尼の言葉を正しくリピートする。「あなたの法とはなんぞや」と。「滅法でござる」と。「滅法。所行は無常にして」と、ね、「生起するものは、ね、苦にして」と、「必ず滅する」と、ね。その短い言葉の中に、もともと聖者であったサーリブッタあるいはマハーモッガッラーナという偉大なる聖者たちはだ、自分たちの弟子、五百ずつを率いてね、弟子入りしたわけだ。
 今からオウムの修行というものはよりいっそう激しく、あるいは厳しいものになっていくだろう。それは、もしわたしがこの肉体を捨てなければの話だ。しかし、例えば今のこの道場の、この空間の、性欲に満ち溢れた、ね----イメージの世界が性欲に満ち溢れているという意味だ----弟子の成長を見ないような、もしわたしがそのまま君たちの成長を促すことができなければだ、わたしはあっさりと肉体を捨てるだろう。それはわたしの存在そのものが猫に小判だからだ。
 未開の国に持っていって、ね、未開の国にジェット機を持っていったとして、だれがそれを乗り、利用することができようか。それと同じように三毒を本当に浄化しようと思わない者、この者たちに、わたしの法というものは全く何の役にも立たない。未開のジェット機のようなもんだ。
 君たちがもっともっと自己を意識し、自己の霊性の向上を信じ、自己の心の成熟を信じ、自己の心の変革を信じ、神通を信じ、高い世界を信じ、グルを信じ、シヴァ神を信じ、修行に没頭するなら、君たちに素晴らしい魂の昇華、魂の変革があるだろう。そうではなくて現世的な、君たちが今まで得た情報を信じ、死後の世界を信ぜず、霊性の向上を信じず、心の成熟というものを信じなかったならば、君たちには単に地獄へ至る道、あるいは三つの下位の世界へ至る道、これが待っているだろう。
 君たちにとって、毎日毎日努力すること、耐えること、持戒を守ること、そしてお布施をする気持ち、あるいは奉仕をする気持ち、これが大切だ。そしてそれは素晴らしい修行だし、素晴らしい、君たちに瞑想を与えてくれるだろう。
 今の瞬間を境に、昨日の、一日一生ではなく、瞬間瞬間が一生である、瞬間瞬間が全力であるということ、それと今日の第二の、四つの極限こそ君たちの生き方であるということ、これを心に明記して修行に励みなさい。
 ではどうしたらそれができるかと。それはね、まず自己の煩悩が浮いてきたとき、その煩悩について考察を加えなさい。これはどういうことか。この煩悩は以前わたしにあっただろうかと。当然以前あったはずだ。この煩悩の経験は済んだだろうかと。当然済んでいるはずだ。この煩悩を満足させたとき、わたしは心の平静を得ることができるだろうか、当然そのとき----いいか、ここがポイントだ----一瞬はできるだろう。しかしまた次に同じ煩悩の渦が、その煩悩のエネルギーが強まったときに、ね、生起してくるだろう。だからそのときに一瞬は、できるような幻影を抱くだろうと考える。そしてそれは次に新たな苦の原因ともつながると。だとするならば、わたしはこの煩悩の実践をすることによって、心の絶対的な自由を得るだろうかと、当然得ないだろうと。それを一日一回、二回、五回、十回、百回、千回、一万回とやってごらんなさい、ね。
 そして次にだ、わたしは今日は徹底的に修行しただろうかと。いやー、修行したような気持ちがあると。しかし上には上がいるからなと。じゃあ、上には上のいる人と比較して、徹底的に修行しただろうかと。いや、それは修行してないと。よし、ではこれ以上にない修行しようと。今日よりあしたは、ね、あしたよりあさっては、あさってよりその次の日は、自分が納得できる修行しようじゃないかと。それを心に言い聞かせなさい。
 そして、この初めの瞑想のやり方が欲如意足であると。そして二番目のやり方が精進如意足であると、ね。これより上の二つの瞑想の手助けはだ、忍辱極厳精進修行に入ったとき、また説明することになる。そしてこの二つを実践するならば、現世がいかに苦界であるか、今君たちのなしてることがいかに素晴らしいことであるか、君たちの内側に根づいてくるだろう。
 はい。それではこれで、今日の説法終わる。