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◆88/9/21 富士山総本部
カルマの真実----現象に善悪はない
人にはね、いろんなカルマがある。ある者は達成できないというカルマ、ある者は不幸になっていくというカルマ、ある者は貧乏になるというカルマ、あるいは、ある者は傷つけられるというカルマ、ね。
では一体、こういうカルマというものはどうして生じるんだろうかと。単純に考えるならば、例えば達成できないカルマというものは、過去において、他の達成を妨げたからそうなったんだと、ね。まあ、カルマの法則からいったら、そう考えるかもしれない、ね。しかし、それを証明できるかと言われたら、だれも証明できない。
すべての現象は心の働きによって生じると、こう考えることができる。では、それはなぜだといったら、例えばだよ、ここに知人がいて、その知人が何かを成し遂げようとするとき、一生懸命邪魔をすると、ね。あるいは達成したときに妬むと。嫉みの心を持つと。この心というものは、どうだ、心の中に否定的なデータを持つと思うか、肯定的なデータを持つと思うか。----当然否定的なデータを持つよね。そうすると例えば、自己が----それを何回も繰り返しているとだよ----自己が何かを成し遂げようとするときに、その否定的なデータというものは出てくると思うか? 同じ条件のときに、ね、同じような、当然、状況のときに、その自己の心の働きというのは出てくるわけだよね、これはわかるかな。
例えばあの人は、あの時にこういうかたちで事故に遭ったんだから、すごくその状態に似ているとしたら、ああ、自分も事故に遭うんじゃないかと考えるだろ、考えないか? 例えば友人が寝不足で試験に落ちたとして、自分が寝不足だったら、ああ、自分は寝不足だから試験に落ちるかもしれないと考えるよね、どうだ。同じように、例えば、ね、人の何かを達成する、何かを完成することの邪魔をしたいという心、あるいは嫉みや妬みの心を持っているとしたら、ね、自己が同じように何かを達成しなければならない、成就をしなければならないときに、障害が現われると思わないか、どうだ。
だから例えば、Tさんの場合、ものが達成できないというのは、おそらく前生において、心のけがれがあったんだと考えていい。だとしたならば、今ここで、あなたが耐え、自己の苦しみ、挫折というね、心の苦しみに打ち勝つことは、大きな、人生に利益をもたらすと考えられるんじゃないか。どうだ。どうかな? Tさん、これは。
では、それをどうして証明できるんだといったら、例えば君が真理に導かれようとしたとき、君の両親は君の道を遮断したよね、どうだ? それと、今、君が君の未来について遮断しようとしている行為は同じではないか、どうだ? これは同じカルマの働きであることがわかるか。そうだ、例えば君が成就するかもしれない、あるいは絶対自由・絶対幸福・絶対歓喜を得るかもしれないのに、今の修行というものに挫折してしまう、あるいはニューヨークというものに挫折してしまう、あるいは弁当屋というものに挫折してしまうと。これと、君が真理教に入って、それを両親が邪魔したパターンと同じだと思わないか? つまり君の、ね、上昇のカルマというもの、君がいい方向に向かおうとするカルマを遮断するという、その条件において同じだと思わないか? だとしたら、君の周りの現象は君の心の働きによって生じてるよね、わかるか、どうだ。これが一つの証明の方法だ。
だとするならば、わたしたちが他人のことについて妬んだり、嫉んだり、あるいは、ね、邪魔をしたりすることは、わたしたちに利益をもたらすと思うか、もたらさないと思うか。だからそういう、ね、妬みや、あるいは嫉みの心、あるいは嫉妬する心を持ってはいけないよというふうに、シヴァ神、あるいは釈迦牟尼は言っていらっしゃるわけだ、いいかな、これは。
ではだ、例えば、ね、ものすごい膨大な殺生のカルマがある人がここにいたとしようではないか。この人の心は、不安にかられると思うか、それとも安定した状態であると思うか。どうだ。そうすると、不安にかられるということは自己が不安だから他のもっと安定したものを求めようとするよね? それはどうだ、求めないか? だから、仲間を集める。仲間を求めるわけだ。わかるね、言っていることは。そしてそれは、執着というかたちで表現される。いいかな。つまりどういうことか。自分が安定していないと。そうすると、例えば、他がものすごく安定している、あるいは他と一緒にいると、その不安定の状態を忘れることができると、ね。そうすると、忘れることのできる状態、状況というものを心は喜ぶわけだ。わかるかな、これは。この状態は他に心が向く、そして他で安らぎを求めようとする、そしてその者に執着すると。これが最も強い執着の働きであると。
ということはだ、逆に、ね、その不安定な心のカルマを消滅してしまった人がここにいるとしたならば、その人はどうなると思うか。周りに何かを必要とすると思うか? わかるね、言っていることは。だからわたしたちがもし、極端な、人間に対しての執着、その執着も安定するための執着を持つとしたならば、それは自己の心に不安定の要因があるんだと考えた方がよろしい。そして、その不安定の要因というものを、ね、止滅すること、止めて滅すること、それこそがわたしたちにとって、未来において最高の、ね、宝物を得ることなんだと考えなさい。
ではなぜ、未来において宝物を得ることなんだと考えられるかわかるか?----精神の安定した状態では、本当に必要な人としか付き合いはしないよね、どうだそれは。しかし不安定だとどうだ。安定するために、いや、安定するためではないね、その不安定の要素を隠すために何でもいいからすがりたいと考えてしまう。どうだ。わかるか、これは。一般的な楽しみもそうだよね、自己の中に喜びがあるとしたら外に楽しみを求めると思うか、どうだ。よって、わたしたちは自己の内面の安定、あるいは、ね、自己の内面のカルマを見て、そして止滅すること、ね。この修行をすることが最もいいんだということがわかるよね、どうだ。わかるか?----返事がないということは、わからないということだな。----わかるか? うん。
では、次にだ。自己が満足しきった状態、ね、ほんのりと心地よい快感の中に浸っている状態、この状態をいい状態だと思うか? 何も生じていない状態で快感に浸っているわけだから、いい状態ということはできるよね。しかしこのとき、わたしたちは功徳を消耗しているプロセスに入ると思うか、それとも、功徳を生じさせているプロセスに入ると思うか、どうだ?----ん? 消滅させているプロセスに入るよね。もし、心がこれにとらわれずだ、そして、わたしは今、ね、空というものを体験していると。なぜ空と言えるんだといったら、そこにわたしは何の行も生じさせていないと、何の働きも生じさせていないと、であるにかかわらず、これだけ心地のいい状態にあると、ね。ということは、すべては心の働きによって、あるいは功徳の働きによって、こういう状態が起きているんだと、ね。そしてこの状態は、自分が功徳を積むことによって、あるいは修行することによって、心を浄化することによって、もっともっと強くなるんだということを知った人がいたとしよう。その人にとっては、この、ね、悦というものは、プラスに働くと思うか、マイナスに働くと思うか、どうだ? プラスに働くわけだよね。
では、わたしが今、何を言いたいか。現象というものを、ね、プラスの方向に、ね、活用する人もある。つまり自己を高い世界へ向上させるために活用させる人もいる。逆にそれを利用できない人もいる。例えば今、Tさんが自己のカルマに負けているのもそのマイナスの一つの典型だ。わかるか、Tさん。それはなぜかというと、今までの例えば現象を一つ一つ見ると、すべてが挫折のプロセスだし、すべて成就を妨げるプロセスなんだね。今起きているカルマの現象というのは。わかるか。だとしたならば、自己が前生において他の修行の邪魔をしたと考えた方がよろしい。だとしたら今、この苦しみを乗り越えない限り、永遠に、あなたが、ね、絶対自由・絶対幸福・絶対歓喜を得ることはできないと考えた方がよろしい。わかるか。だとしたならば今、ここで堪え忍ぶこと、ね、全力で修行することは君にメリットがあると思うか、ないと思うか。それに打ち勝たなければならない。いいね。
Nの、例えば、今のその悦の状態も同じだ。それを利用して、活用して、そして霊性の向上に向けることもよかろう。あるいはその中に没入してデーヴァになりカルマを消耗し、ね、いい意味でのカルマ≠消耗し、そして、また元の状態、あるいは低い世界へ落ちていくこともよかろう、それは、おまえ次第だってことだな。
すべての現象というものは、善も悪もない。これは真理だ。そしてそれを、もし高い世界に没入するために、あるいは解脱・悟りに使うならば、それはすべて善ということができる、ね。あるいはここに現象があって、ね、善も悪もない現象に対してだ、それを自己を下降させる方向に、煩悩を増大させる方向に使ったならば、それは悪ということができる。いいかな。例えばここに宗教がある。ね。そしてその宗教は火によって自己の煩悩をどんどんどんどん増大させたとしよう。そして、仏舎利尊を拝ませたと、いいか。これは、悪業をなしていると思うか、善業をなしていると思うか。----そしてこの中に没入し、入り、そこで喜んでいる人たちは、間違いなく三悪趣に生まれ変わるだろう。
同じように火を拝み、その火は単純に、その火は純粋に、神々を供養するものであると。そして、すべての人たちが煩悩を消滅し、絶対的な自由・幸福・歓喜に没入してほしいと願う、ね、そういう修行をしている一派があったとしよう。これはどうだ、善業をなしていると思うか、悪業をなしていると思うか。----しかし、現象を見てごらん、同じように火を使っているよね。わかるね、言っていることは。しかし、出てくる結果というものは全く逆だ。
ではだ。例えばここに人がいて、ね、お金が欲しいがためにある人を殺したとしよう、ね。そしてそのお金によって、ね、快楽を貪り、ね、あるいはうまいものを食べ、ね、博打にふけり、使い果たしてしまったと。この人の殺生というものは善業になると思うか、亜葉になると思うか。----ではここに人がいて、ね、ものすごい、ね、極悪非道の人がいて、その人は真理をねじ曲げ、しかもたくさんの人を苦しめ、たくさんの人を殺すと、ね。もちろん殺される人にもカルマがあるわけだけども、ね、その殺されることによって、死んでいった人たちはカルマを消滅して高い世界に行くわけではないと。まだカルマの消滅をすることができず、三悪趣に生まれ変わるかもしれないと。
……現象には善も悪もないということが言えるんだ。その行為がなされたとき、その行為の背景にある心、あるいはイメージが、ね、あるいは行為が、ね、いかなるものと結びついたか。つまり、煩悩を増大させる方向に結びついたのか、あるいは浄化させる方向に結びついたのかによって、そのなされた行為というものは決定されるんだ。いいかな。
よって、君たちが、いろんな神秘的な体験をすることも、それは善でもなければ悪でもない。君たちが心の苦悩を感じること、これも善でもなければ悪でもない。その苦悩をいかに利用するか、いかに活用するか、あるいは修行の体験というものをいかに活用するかによって、それは君たちの心を成熟させる、ね、煩悩から解放させる方向に向かう場合もあるし、あるいは逆に、ね、三つの煩悩に没入させる、煩悩を増大させる、下降させるという意味合いの方向に向かう場合もあるわけだ。よって、現象というものには何の意味もないと。これが釈迦牟尼の教えだ。だから釈迦牟尼は、このことをね、中と言っていらっしやる。中道と言っていらっしゃる。そして、それはすべて条件によって決定されるんだと言っていらっしゃる。その条件というのは何かというと、カルマの法則だ。そのカルマの法則とは何かといったら十二の縁起の法則だ。
八月から説法を聞いている者は、もうわかっていると思う。わたしが、少しずつ少しずつ、あなた方に難しい法を説きだしている。この法というものは、わたしは今生でだれに学んだわけでもない。本を読んだわけでもない。すべては、これは、わたしの前生の土産だ。そしてこの中の二十人、三十人と、ね、わたしの前生の高弟たちは修行を続けていくうちに、いろんな「気づき」にめぐり合うだろう。そして、それは、君たちの前生の宝だ。
今日のポイントは何かというと、すべての現象というものは、善でもなければ悪でもないということだ。それは、それを使いこなす、活用する人の心の働きによってすべては決定するということだ、ね。
最後にもう一つ例を挙げておこう。ここにお金持ちがいた。そのお金持ちが貧しい人にどんどんどんどんお金せ与えた。そしてお金持ちは、功徳を積んだつもりになったとしよう。ところが、その貧しい人は、その貧しいがためにまじめに働いていたものを、お金をもらうがゆえに働かなくなり、快楽にふけり、ね、うまいものを食らい、そして博打に走り堕落したと。これは善業か、悪業か、どうだ。しかし、布施をしたということは、どうだ、善業に見えるよな、一見。どうだ。だからここのところ、ね、それは受ける人の心の働き、あるいは与える人の心の働き、この二つが条件であって、なされている行為というものは、単なる現象にすぎないんだということをよく理解しなさい、いいね。
それが今日のわたしたちのあなた方に対するプレゼントだ。だとしたならば、わたしたちが例えばだ、両親に特別な愛着を持つことが、果たして利益があるだろうかと、ね。例えば知人に対して特別な愛着を持つことが利益があるだろうかと、ね。本当の意味での両親に対しての愛、あるいは知人に対しての愛というものは、相手を本当の意味で理解してあげて、相手の霊性を向上させ、そして一緒に高い世界へ行く、あるいは一緒に成就する、あるいは一緒に解脱する、あるいは一緒に仏陀として、ね、救済する、これが本当の愛ではないかとわたしは考えている。そしてそれこそが最高の善であるとわたしは考えている。
よし。今日は変わった内容だったけどもとにかく自己の----もう一度だよ、状態を再チェックしなさい。そしてすべての現象は善でもなければ、悪でもないんだということを、もう一度、考えるように。いいね。
よし。全力で修行しょう。