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尊師寄稿・その他

『マンダラについて』という紙より

 今日の話はマンダラについてだね。まずマンダラとは何か知っているか。マンダラというのは世界だと考えてください。その世界は救済の世界だと考えてください。だから例えば密教のマンダラではいろんな仏様がいろいろな物を持っていらっしゃるわけだ。あなた方もそのマンダラにたとえるなら、一つ一つの菩薩様であるわけだね。
 ここで考えなければならないことがある。ここに会社社長が五人いたとする。その社長は社長の職務はできるが営業はできない。あるいは事務的なことはできなかったとする。その会社は成り立つか。マンダラはそれを表わしてるんだ。マンダラは一つの救済のプロセスを表わしている。そして、どの部署にどの菩薩様が入るかというのは、その人の能力みたいなものである。
 しかし、オウムを見ていると、各セクションにおける嫉妬が出たり、不満が出たり、あるいは愚痴が出たり、いろいろとそういうことが起きる。例えば、営業が五人いて、社長がいなかったら会社は成り立つか、同じだなこれは。じゃあ、営業と社長はどちらが偉いか、これは、単なる役割だね。全員がそう考えるのか、それとも自分のエゴを満足させるために、かっこ良さそうなポジションに目をくらますのか、それによってマンダラのできあがりは違います。
 例えば、ここに一人の仏陀がいた。自分が仏陀の役割をしたいんだという人間がいっぱいいたとしよう。自分は、仏陀以外の、例えば説法以外のことはしたくないと思ったとしよう。これはマンダラとしては不適格だ。そして、真の組織というものは、真の救済の船というものは、その人たちのカルマに合わせて、きちんとセクションを与えてくれる。ところがだ、もう一度繰り返すよ。
 みんなは、自分が行なっていることに対しての満足感というものがないような気がする。ある者は、満足している。ある者は、これは修行であると割り切っている。これは素晴らしいことだ。ある者は、嫉妬、妬み、あるいは愚痴を持っている。昨年から今年にかけて、数名の人がつぶれていった。そして、その背景というものは煩悩だ。エゴだ。
 そして、わたしは、オウム、わたしの弟子というものは、マンダラであってほしいと思う。わたし自体が、これから大乗の発願をし、大乗の救済をしようと考えている以上、小乗的な人は一般会員で成就してもらえば、それで十分だと思う。今からオウムに必要な人は大乗のボーディサットヴァだ。そして、大乗のボーディサットヴァの心がけというものは、絶えず自分に与えられたことにべストを尽くす。
 わたしたちはわたしを含めカルマを持っている。そのカルマを考えないで、高望みをしたら必ずつぶれてしまう。だから、今、与えられた条件、カルマに没頭しよう。そして、そのカルマを変えてしまおうじゃないか。いいかな、上を向いたらきりがないよ。君たちだけで十分オウムは動いていくだろう。またこれから、一人、二人と、素晴らしい菩薩様方が入ってこられるだろう。あるいはいきなり来て、重要な部分をやるかもしれない。ある人はいきなり来て、わたしのそばにつくかもしれない。しかし、それもカルマだ。
 では、カルマとは、一体何だろうね。例えばここに一升の米を持っていたとしよう。この米というのは、籾つきの蒔けば稲になるものだ。この一升の米を精米してしまって食べてしまったら、もうその人はそこで終わりだ。これが功徳と消耗の理論だ。
 ところがこの人が一升のうち五合蒔いて、五合食べて生きたとしよう。そうするとこの人は、その五合が、またこの五合とは功穂だ。功徳を積んで、五合の種が蒔かれることによって、またたくさんの実りを出すわけだ。そうじゃないか、それが、功徳と結果だ。
 そうすると、またたくさんのうちの何パーセントかわからないけど、それを生きる糧として、そしてその残りをばらまいていつたら、その人の功徳というものは、どんどん膨らんでこよう。それがオウムの菩薩道の生き方なんだ。
 ところがそうではなくて、与えられたものが六十キログラムの一俵の米だったとするよ。籾がらつきの米を完全に精米して食べたらどうなるか。もうその人はそれで終わりだな。それを意識してやっているかを、君たちに投げかけたい。
 それは、意識してやるべきだ。功徳というものは簡単に消耗してしまう。いいか、だから、徳というものは、生きるだけで十分だと、あとは、すべて振りまきなさい。そしてその徳が返ってきても、それにこだわらない。またその徳を積むための因としなさい。ところがそうしない人が多い。
 例えば飯を食らうことと、修行することと、飯を食らうことと、奉仕をすることと、修行をすること。例えば、徳を積むことと、お金を儲けること、どちらが大切か考えなさい。わたしたち菩薩にとっては、お金を儲けることよりも、功徳を積むことの方が大切だ。例えば自分のことをするのと、奉仕をすることと、どちらが大切か考えなさい。わたしたち菩薩にとっては、奉仕をすることの方が大切なはずだ。それは今の理論だ。
 わたしたちは少なくとも生きてはいける。しかも心の綺麗な人の中で生活することができる。こんな素晴らしいことはない。そうでない人たちはつぶれていくだろう。それは菩薩の道ではない。聖なる道ではない。それが六波羅蜜のベースとなるものだ。わかるかな。
 昨日の夜からアージュニァー・チァクラにダライ・ラマ法王がずっと見えられている。これは、そろそろ変化が始まるよ、という合図だと思う。これは予言として聞いておいてくれよ、いよいよ変化が始まるぞ。世界的な動きをこれから、一カ月、二カ月おきにずっと追いかけていってくれ、急ピッチに悪化してくるはずだ。だとすればわたしたちが自分のことを考えている時間などほとんどない。
 しかし、みんなは、もう一度繰り返すよ。自分の楽しみを求めたい、楽をしたい、おいしいものを食べたい、愛されたい、こういう欲求はないか。これをわたしは徳をすり減らすものだという。奉仕をしたい、功徳を積みたい、解脱したい、修行したい、みんなを高い世界に入れてあげたい。
 皆さんが、この気持ちを持ったとき、皆さんには、本当の安らぎがくるだろう。それをニルヴァーナといっていい。そして修行が完全に終わったとき、皆さんの魂はマハーヤーナに入っているといっていいよ。
 わたしは、貪りを捨てなさいとは言わないよ。怒りを捨てなさいとは言わないよ。無智を捨てなさいとは言わないよ。わたしは貪りを超えなさいと言う。怒りを超えなさいと言う。無智を超えなさいと言う。この二つの違いをよく考えなさい。捨てるというのは小乗的な発想だ。超えるというのは大乗の発想だ。
 わかるか、そこに怒りはある。そこに苦はある。そこに煩悩がある。しかし、それを乗り越えなければならない。それは、君たちが成就するまでの修行の流れとなろう。一般の会員に説く場合、あなた方は、解脱しなさいと説くだろう。しかし、わたしはわたしのそばに来た以上、そうは説かないよ。あなた方はマンダラの菩薩になりなさいと説く。
 いくら、一般会員の方々が自己の修行だけをしてもニルヴァーナに入ることはできても、マハーヤーナに入ることはできない。しかし、あなた方が、わたしのそばに来て菩薩道を歩み至る世界は、最高究極のマハーヤーナだ。そこのところの認識を改めなさい。
 そして、もし自己の悟りだけをしたい、自己の解脱だけをしたいと思う方は、会員に帰りなさい、構わないから。会員に帰るときは、会員に帰るときで、オウムの手伝えるところはお手伝いしよう。
 じゃあ、菩薩の修行の一つは何か。それはできるだけ、この世で苦しみなさい。そしてそれでいて、わたしは他のためにここに存在しているんだ。そしてわたしがこの苦を乗り越えることによって他を救済できるんだという意識を持ちなさい。

『漏尽通とエゴ』という紙より

 漏尽通は、相手の煩悩の状態、つまりエゴの状態を見分けるわけだ。そして見る側に煩悩があったならば、それは正確に映し出すことはできない。だから漏尽通というのは、特別な超能力ではないんだ。これは、透明な鏡を持っているかどうかが漏尽通を使えるかどうかの決め手となる。
 もし映し出す人が煩悩を持っていたなら、その煩悩というものは屈折となって相手を映し出すわけだから、当然正確に映し出すことはできない。それと同じように、すべての超能力についていえることだが、ストレートに表現する訓練を、あるいはストレートに映し出す訓練をもし君たちがするならば、当然解脱は早く来よう。あるいは今言った漏尽通も、他の超能力も早くつこう。
 これをヨーガ的な証明をするならば、ラジャス、タマス、サットヴァというダイナミックなエネルギーがあるよね。ラジャスというのは、何かというと動性のエネルギーだ。タマスというのは、隠すエネルギーだ。そして、サットヴァとは、知性だ。
 そしてタマスになると良いことも悪いことも、現象として出てこない。例えばシャクティーパットでタマスが強くなるから、映し出せなくなる。今、少し時期が長くなってきているね。だいたい二十日前後、回復できなくなってきている。それだけタマスが優位になってきている。そうすると、こういうときというのは、それに関連したものというのは、うまく表現できない。超能力も当然表現できないし、漏尽通も当然使えないということになる。
 そしてあなた方が解脱するということは、タマスを完全に撤退させた状態。そして、ラジャスですら撤退させた状態。タマスは黒です。正確な言い方をするならば、グリーンに黒がたくさん混じっている。これがタマスです。そしてラジャスというのは黄金色です。だからよく黄金色が見えましたと、危険、危険。わたしは動性の世界にまた入って、また輪廻を繰り返さなければならないと考えなさい。もし本当の意味での白ではなくて、白銀色の光が見えるなら、その人はサットヴァの智が、つまり解脱するための智が生じてきていることになる。これは喜びなさい。
 例えば、ハタ・ヨーガの修行でプラーナーヤーマとかバンダばっかりやって、天界に行く人は黄金色の身体を持ちます。もちろんバンダとかプラーナーヤーマもするけれど功徳に充実していて、そして、知性にあふれている人は、白銀の身体を持っている。アストラル界に入った場合に、当然、白銀色の身体の方が生命は長い。
 さあ、もとに戻すよ。ということはだ、まずエゴというものが、煩悩というものが、わたしたちの解脱の障害でありますよ。悟りの障害でありますよ。しかし麻原は、バクティだバクティだといって修行の時間はないよというかもしれない。そうではないね。君たちのやっていることは、すべて修行だ。
 いや、そうではない。だって外で働いている人もいるじゃないか、それも修行といえるのかと。これも修行だといえるのかと。それは修行とはいえない。なぜ、同じことをやっていて、一方は修行で、一方は修行じゃないんだ。それは、一方は出世をするために、お金を稼ぐために、あるいは絵を措くことによって、プログラムすることによって、あるいは翻訳することによって、本を書くことによって、名誉を得るために、つまり、エゴを満足するために、行為しているわけだ。一方はただグルがやりなさいと言うからやっている。同じ行為をやっていても当然結果は変わってくる。一方はエゴを満足させるために、一方はエゴとは関係なくワークをやっている。
 では、ただ黙々とワークをすればいいのかと。じゃあ、だれでも解脱しそうじゃないか、ということになってくるよね。しかし、それもそうではない。エゴが強ければ、わたしがサインを出したことに、当然逆らうだろう。俺はこうしたい。わたしはこうしたい。これがエゴだね。
 しかし、ひょっとしたらこうしたいと思っているエゴの方が正しいかもしれない。でも解脱というもの自体が正でも悪でもないわけだ。つまりエゴを崩壊させることが解脱といっている以上、ここで正しいとか正しくないという理論もまた通じなくなってくる。非常にそういう意味ではやりづらい。そしてこの方便をわたしが使う以上だ、君たちは僕に服従しなきゃなんない。こりや最悪だな。
 しかしそうではないね。エゴを崩壊させることを目標として、君たちがそれをやる限り、君たちのためにやっていることにもなるね。だからそこで出てくるのは、解脱に対する強い強い思いだ。それから自分がボーディサットヴァであるということ、修行者であると思うこと。強く強く思うこと。これを毎日十回百回思わなければ、解脱はしないだろうね。わたしはこう考えるよ。
 例えばここにお寺がある。日本は出家というものを、生やさしく使っている。禅寺に入れば、それは出家であるといっている。しかし実際は出家ではない。なぜ出家ではないか。そこでは三食与えられている。あるいは二食与えられている。寝るところもある。これは職業だ。ビジネスだ。そして、そこで単に瞑想をやってればいい。そしてわたしは離貪しましたといって、所有しなければいい。しかし、本当は所有しているわけだ。寝るところは所有しているし、食べるものも所有している。だからそういう意味でいったら不所有の本当の出家はできない。出家できないから八正道はできない。
 じゃあどうしたらいいかというと、もう一つの道・六つの極限的修行しかないわけだ。これは、なぜできるかというと、これは、現実生活をしながら、最高のニルヴァーナ、マハーヤーナに入るための方法だからね。
 もう一度いうよ、日々心がけなさいよ、エゴを滅するにはどうしたらいいか。そのためには自分の意思ではなくてグルは何を意思しているか、あるいはシヴァ神は何を意思しているか。
 それはなぜかというと、自分の意思はエゴを増大させるよ、ところがシヴァ神の意思、わたしの意思というものは、エゴとは全く関係のない世界だ。エゴが強ければ、当然、この二つはぶつかりあいます。そこでつぶれていく人が多い。君たちはそれぞれ素晴らしい素質を持っているから、わたしはこう考えるね。エゴをできるだけ、できるだけ、弱めておいて、意識をチェンジしなさいよ。
 それからもう一つだ。今、みんな、真面目な性格の人が集まっているから、いい見本で友を見ればいい。逆にいえば、だらだらだらだら友がしていたら、そのとき君たちは自己を改めなさい。あ、何々さんは、だらだらしていると。これはわたしのエゴの喜ぶものであると。わたしのエゴも喜ぶことであるから、わたしはなすのはよそうと。これはなしてはならないと。そして自分を利しなさい。君たちがそれをすればどんどん心が透明になるだろう。
 例えば、ある人が権力トリップしたと。そのとき、じっとそれを見つめ、あっ、それはわたしの心にも存在するものである。だからわたしはこの道に入ってはいけないと。そして自分を静めなさい。その人を諌めるのはわたしがやる。自分を諌めなさい。まずは、いかに自分を諌めることができるようになるか、これから始めよう。
 まとめるよ。まず、功徳というものはエネルギーであると。それは今生での利益として使うことができると。憎しみ、嫉妬のエネルギーとして使うことができるよと。あるいは解脱のためのエネルギーとして使うこともできると。そして、君たちは解脱のためのエネルギーとして使いなさいよ。
 第二点目はエゴを完全に滅しきれば、漏尽通がつきますよと。つまり相手の煩悩を正確に映し出すわけだから漏尽通がつきますよ。
 第三点、友がいい行為を行なっているときは模範としなさい。悪しき行為を行なっているときは、自己の内側に存在している魔を粉砕するための材料としなさい。そしてこの実践がきちんと行なえば、速やかに悟るだろう。そして解脱するだろう。
 では、実例を挙げてくれと。過去にも、そういう人はいたのかと。これは仏典にも載っている。草履取りをしながら、自己を悟った人もいるんだよ。その人はこの草履はどこのだれの人の草履だろうか、すり減り具合とか見るわけだ。そこで、いろいろジュニアーナ・ヨーガするわけだ。そしてこの草履をわたしが番することによって、片づけることによって、その人が喜んでくれたらいいなと、カルマ・ヨーガするわけだ。これだけで悟った人もいるわけだ。もちろん解脱はしなかったけれど。だから、案外悟りというものは、簡単にくる。それは、あなた方が一つ一つを正確にこなしていたならば。では、どういうタイプが悟れないと思うか。まずチャランポランなタイプは悟れない。情に流される人間は悟れない。エゴに振り回きれている人間は悟れない。
 チャランポランというのは、集中できない。この人はものを追っかけていく力がないから悟れない。分析的なものの考え方ができない人間も悟れない。数学的な才能のあるということとよく似ているんだけど、これは訓練次第でいくらでも伸びる。情があると、偏ったものの見方をするから悟れない。エゴは執着によって悟れない。そういうことを考えながら----ワークしているときは考える必要はない----ふと我に返ったときそういうことを考えて、今日、わたしはこれができただろうか。今日反省する材料はないだろうかといつも考える。これはものすごく大変な修行になるよ。それを毎日毎日チェックしていってごらん。毎日毎日心が浄化される。そして、速やかに君たちを悟らせてくれるだろう。

シャモン新聞
「チャンス……進化」


 弟子たちの修行を見ていて、成就における一つの大きなポイントに気づいたので、ここに書かせていただきたいと思う。
 ラージャ・ヨーガにしろ、クンダリニー・ヨーガにしろ、マハームドラーにしろ、その人のカルマの臨界点を超えて生じる破が、その人に解脱をもたらすわけである。そして、徳の高い人(功徳のある人)の破は容易に生じ、徳の低い人の破はなかなか生じない。
 それはちょうど、物質の<エネルギーの凝集および凝縮>→<凝集および凝縮の施界点>→<エネルギーの解放=爆発>というプロセスと同じことのように思われる。
 では、もしこのエネルギーの凝集・凝縮段階で、その圧力容器に穴が開いていたらどうなるであろうか? いくら強烈なエネルギーを注ぎ込んでも、その穴から漏れるだけである。
 ここでいうエネルギーが、もう皆さんもおわかりのとおり、功徳のことである。それでは、この功徳の漏れを引き起こす穴とは何であろう?
 それは、心における嫌悪・貪り・無智・疑念・執着・闘争心・満足・現世的な希望・現世的な退廃感などである。また、言葉においては、嘘・悪口・両舌・曖昧な言葉・綺語などである。そして、身においては、殺生・暴力・偸盗・邪淫・意味のない娯楽などである。
 わたしたちが高い霊性と心の成熟を得るためには、テクニックが必要なのである。そのテクニックが、圧力容器の穴をできるだけ完全にふさぎ、そして凝集・凝縮されたエネルギーを上部から解放するというものなのである。
 そのために、グルは弟子に対して、弟子のエネルギーの解放が理想的な状態で行なわれるようにアドバイスをし、また、最も強烈なエネルギーの凝集・凝縮が行なわれるような修行法を伝授するのである。
 徳が高く縁の深い弟子は、グルの示唆を読み取り、素直にその修行法を受け入れて速やかにステージを上げていくのだが、弟子の中には、このどちらか一方、あるいは両方が欠けていて、せっかくのステージを上げるチャンスを逃してしまう者も多い。
 つまり、日々の修行において、軽いエネルギーの凝集および凝縮はたいていの弟子たちができるのだが、臨界点に達したエネルギーを解放する解脱のチャンスをものにすることのできる弟子は稀なのである。
 そして、このチャンスを使った修行、それがマハームドラーであり、ヴァジラヤーナの道なのである。

『シャモン新聞』シャモンの果報
飽くなき欲求を越えて


 今月は、『マハーヤーナ』No.32で取り上げられる『ラッタパーラ経』の中で、特に君たちに深く理解していただきたい内容があったので、ここに書きたいと思う。
 諸君も知ってのとおり、オウムの修行の土台はヒナヤーナである。そして、ヒナヤーナの利益をきちんと理解していないと、出家後シャモン生活を営むにおいて、心に揺れが生じてしまう。よって今回のこのヒナヤーナの内容について、諸君が何度も何度も読み、暗唱できるようになるまでになっていただきたいと思う。
 ヒナヤーナの目的は、完全なる苦悩からの出離である。ここで言う苦悩という言葉の裏は、心の動揺=不安ということになるだろう。ヒナヤーナの修行によって今ある苦悩を取り除き、未来に生じる苦悩の因を取り除くことができるのである。
 では、この苦悩の因とは何であろうか?
 まず第一に挙げられる因は無常である。これはどういうことかというと、すべての現象は必ず変化し、崩壊してしまうということである。
 わたしたちの魂にとって最も身近なものとして自己の身体を観察するだけでも、母の胎内での受精から出生、乳児、幼児、少年、成人、そして壮年、老年、死という無常の典型的なプロセスをたどるのは避けられないことがわかる。そして、これはどの魂も同じなのである。
 第二の苦悩の因は、この世の所有すべてが無我であるということである。いくら美しい妻と結婚し貪り合ったとしても、生の終わる瞬間別れなければならない。いくら高位・高官になったとしても、死の瞬間にそれを退かねばならない。また、いくら多くの金銭や財物を蓄えたとしても、死の瞬間、それを離さなければならない。そして、死後、わたしたちについてくるもの----それは生前に行なった、わたしたちの善悪の業である。
 第三番目の苦悩の因は、わたしたちのカルマを肩代りしてくれるものが、現世にはいないということである。つまり、交通事故にあって足がもぎ取られるとき、その苦痛を肩代りしてくれる人はいないし、また、出産のときの胎児自身の苦痛、母親の苦痛を肩代りしてくれる人もいない。
 そして、第四の苦悩の因は、飽くなき欲求の心の働きから、現世にいる限り解放されないということである。
 例えば、少しでも美しくなりたいと思い化粧品を買いあさり、おいしいものを食べるために遠出をする。例えば、より美しい人を求め、より高い地位を求め、より多くの財を求める。しかも、それらはいくら得たとしても、心はそれに満足しないのである。
 しかし、諸君は出家し、シャモン生活を営んでいる。このシャモン生活は、前に述べた四つの苦悩の因を完全に取り去ってくれるのである。
 では、その一つずつを解説しよう。
 第一の根本的な無常感からの出離は、三つ目のヨーガの成就、すなわちマハームドラーの成就によって乗り越えることができる。このとき心は光の中に没入し、生じもしない、滅しもしない世界と合一する。
 もちろん、このステージに到達すると、救済する側に回るわけだから、他人の無常感をヴァイブレーションとして感じることがある。しかし、それは念正知の瞑想(正しいデータをもとに集中して思索し続けること)によって、簡単に取り除くことができる。そして、その気になれば、いつでも自己本来の光の世界に真我を固定することができるのだ。
 第二番目の無我なるものからの出離は、不所有の実践、そして、その状態で心が充実しきった状態を作る修行によって達成することができる。
 もちろん、オウムのシャモンの生活は不所有である。そして、いろいろな修行によって心を充実させることができる。よって、これは日々の生活において不所有の戒律をきちんと守り、教学し瞑想すれば簡単に出離できるはずである。
 しかし、わたしの見ている限りでは、シャモン生活を楽しんでいる人がいるようである。それは業財によって、自己の物質的欲求を満足させている人たちのことである。こういう人たちは、なかなか第二の苦悩から解放されないし、ステージも上がらない。もっと自覚を持つべきである。あなたはどうだろうか?
 第三の苦悩からの出離は、帰依の状態で決まるといえるだろう。これは諸君もよく知ってのとおり、帰依がきちんと培われていれば修行目的が達成されるまで、大事故にあったとしても、大病になったとしても、シヴァ大神、もろもろの仏陀、そしてわたしの祝福によって、苦痛が軽減したり、あるいは消滅したりするのである。
 では、なぜその現象が起きるのかというと、すべてはヴァイブレーションだからなのである。苦痛のヴァイブレーションを変えてあげるだけで、その人はその苦痛から解放されるのだ。諸君の心に強い帰依が培われたとき、諸君もこの奇跡を体験することができるだろう。
 四番目の苦悩からの出離----これは一つ一つ確実に、諸君の目標となっている成就の段階を上げていくことである。なぜなら、欲求や煩悩というものは、否定することによって乗り越えることができるし、また、その煩悩をエネルギーとして上昇させることによって乗り越えることもできるからである。最も高度なヨーガ技法としては、念正知を行なうことによって乗り越えることができる。
 諸君が基礎からきちんと教学をし、功徳を積み、瞑想し、欲如意足(修行の達成を強く願うこと)を行なうならば、必ずや薄皮がはがれるようにして、この四つの苦悩から解放されることであろう。
 わたしの歩いてきた道----その道を今、諸君が歩いているのだということを喜びとしてほしい。
 これによってシャモンの心の揺れが消滅しますように。

 ヴァジラ・チッタ・ナマ・マハーブッダ・シヴァ・サティヤン

シャモン新聞 一九九〇・六(第一〇号)

◎S・T (CMI)
【質問】心の寂静を目指して、動いている心に気がついたら戒めるようにし、また、感動、喜び、満足等も同様にしているのですが、そうすると心の明るさもなくなるような気がします。この心がけのベクトル方向は正しいのでしょうか。良きアドバイスをお願いします。
【回答】君の実践方法に加えて、徳をもっともっと積もうとする二正勤の実践をするならば、心は寂静になるはずです。頑張ってください。

◎V・S(ビデオ)
【質問】直弟子は毎日数時間を瞑想修行に充てるものです。教育システム以前には、立位礼拝に励む者が多かったのですが、近頃ではザンゲの詞章を行ずる者が大勢を占め、立位礼拝を行なう者は、富士ではまず見かけません。
 わたしもザンゲの詞章を主に行じていますが、立位礼拝やツァンダリーも行ずるべきではないかと不安になります。かといって、時間的制約があり、三種の修行をすべて毎日行ずることはできません。
 そこで質問ですが、この三種の修行法にはそれぞれどのような効果の違いがあるのでしょうか。また、クンダリニー・ヨーガの成就を当面の目標とした場合、毎日二、三時間行なう修行法としては三種のうちどの修行が一番適切でしょうか。
【回答】修行の土台は帰依です。そして、帰依を培うために、帰依マントラ、あるいは立位礼拝があります。
 その段階が終了したなら、次は供養法の瞑想を徹底的に行ない、功徳を積む土台を培う修行に入ります。供養法の瞑想はツァンダリーの瞑想に含まれています。
 そして、この帰依、功徳の段階を終了したものが、次のステップとして、戒律と自己の生活とを照らし合わせながらザンゲの瞑想に入ることができるのです。長時間集中してザンゲの詞章を唱え続ける修行などは、このザンゲの瞑想に含まれます。
 そして、日々のワークにおける極限の忍耐、生活即修行の過程を通過したならば、あなたの目標としているクンダリニー・ヨーガの成就も達成できるでしょう。
 自分の現在の修行レベルがわからなかったら、グルまたはマハームドラー以上の大師のアドバイスを受け、自分に適した修行をしてください。

◎D・D(横浜支部)
【質問】シャモン新聞9号の尊師説法の中に、寂静とは心を止めることとありましたが、心を止めるということはデータに左右されない心の状態を作ることだと解釈しました。寂静に至るための最も素晴らしい方法というのがヴァジラヤーナのザンゲの詞章ということですが、ヴァジラヤーナのザンゲを唱えることによって、どのようなプロセスの上に寂静が訪れるのでしょうか。
 また、データが消滅するとはどのようなことなのでしょうか。データは常に存在していると思うのですが……。
【回答】基本的な教学をもっと行ないなさい。また、あなたの質問に対する答えは、シャモン新聞今月号の「シャモンの果報」(飽くなき欲求を越えて)の中に存在しているはずです。

シャモン新聞 一九九〇・七 (第一一号)

◎T.T(東京本部)
【質問】叩くことなどによってカルマを落としてあげることと、シャクティーパットによるカルマ交換では、相手に苦痛を与える、与えないの違いがあると思うのですが、する側、される側への効果として、この二つにはどのような違いがあるのでしょうか。
【回答】本質的に、相手を叩いてはいけない。なぜならば、叩くときには心に瞋の想が生じ、言葉が荒々しくなり、行為として相手を破壊するという動きが出るからである。これは言うまでもなく、身・口・意の悪業となる。
 瞋の想についてもう少し詳しく説明しよう。これは「自分が相手よりステージが上である」とか「自分は相手より正しい」「相手は間違っている」「相手は劣っている」などという思いの生じている状態である。そして、これは慢を背景とした嫌悪と言うことができる。
 だが、いったん阿羅漢の位に到達した者の場合、話は別である。この成就者は、何が苦しみの原因であり、何が苦しみを滅するのかということを経験し、理解している。そして、嫌悪という想念もない。叩くという行為もない。
 したがって、もし、この成就者がだれかを叩くという行為に及んだとき、その背景には必ず四無量心が存在しているのである。このとき、叩いた成就者はカルマの交換を受けるとともに、身の業としてのカルマを積んだことになり、カルマが返ってくることになる。
 それでは、シャクティーパットと、この叩くということの効果を比べてみたらどうなるだろうか? 長く接していた方が、エネルギー交換が大きいということを考えると、叩くという瞬間的行為より、シャクティーパットという連続的行為の方が効果が高いと言えるだろう。
 ただ、あまりにも悪業を積んでいる人に対しては、叩くしかない。なぜなら、シャクティーパットは相手のコーザル・アストラルを中心に影響を与えるのであるが、相手のカルマが悪過ぎると、大量の濁り水の中に、少量の透明な水を注ぐようなもので、目立った効果が見られないからである。このときには、叩くことによってせめて相手の肉体次元のカルマを落としてあげる(これは叩いた方にカルマが移るということであるが)必要があるのである。

◎K・B(CSI)
【質問】身体のエネルギー状態が高まると、すぐに夢の中で精を漏らしてしまうので悩んでいます。現象界レベルでの性欲はコントロールできるのですが、それがアストラルレベルになるとどうも手がつけられません。漏らした後は、グルの貴重なエネルギーを無駄にしてしまった、何とも言えない申し訳のなさと情けなさで落ち込み、そのときの心の苦しみ、体の不調と性欲を結び付けて、性欲の本質は苦なのだという情報を頭にインプットするのですが、なかなか乗り越えられません。この状態を乗り越えるには、一体どうすればよいでしょうか。グルのエネルギーを無駄にしてしまったことをザンゲしつつ、ここに質問いたします。
【回答】まず、K・Bの質問に答える前に、瞑想の意味合いについて押さえておく必要があろう。瞑想というと、とかくわたしたちのためになるという思いがあるが、必ずしもためになる瞑想ばかりではない。人を上昇させる瞑想がある反面、下降させる瞑想もあるのである。よって、瞑想イコール善であるという観念は捨てるべきである。そして、下降の瞑想の中に、わたしがこれから書こうとしている性欲の瞑想が含まれている。
 それでは一体、性欲の瞑想とは何であろうか? また、K・Bは今生において、どの程度の瞑想の修習を行ない、その結果、それが成就してしまったのだろうか?
 例えば、十年の間、一日に三時間性欲のデータを入れ、それをイメージし、また、それに付け加えてオナニーという実践を行なったとしよう。すると、身におけるオナニーという修習と感覚におけるオナニーという修習、また、視覚・聴覚から入ってくる性欲の修習、それがイメージヘと根付き、イメージでの修習、あるいは、性欲のデータを入れるんだという意志とそれを実行する修習、そして、性欲はわたしに快楽を与えてくれるという希望を持つ修習、データを入れている最中の「これが快楽なんだ」という性欲を肯定する修習、データを入れ終わった後、もっと強いデータが欲しいと思う修習----このように様々なかたちで性欲の瞑想の修習が繰り返されるのである。
 こういう修習が、三時間×三百六十五日×十年=一万九百五十時間という膨大な瞑想時間となったわけであるから、当然成就していることだろう。そして、これは多くの人の場合に当てはまるのだ。今まさにK・Bの変化身は、その成就を楽しんでいるわけで、性欲に繋縛されている状態と言えよう。
 シャモン諸君はどう考えるだろうか? これだけの瞑想で得たものを、ちょっとしたザンゲと後悔で打ち消すことができるだろうか? もちろん、ザンゲや後悔をしないでいる人よりも、なした人の方がその状態は少しずつ弱まってこよう。しかし、それだけでは駄目である。これまでに修習してしまった性欲の瞑想を止滅する瞑想を行なわなければならない。そして、そのための瞑想が、不浄の瞑想、性欲を滅する瞑想なのである。
 この瞑想法については、すでに体系化され、わたしが吹き込んだテープと教本があるので、K・Bの指導正悟師であるマンジュシュリーに申し出て授かりなさい。それを修習するならば、君の苦しみは止滅するはずである。

パソコン通信の草の根ホスト局における一般人の
質問に対して、尊師が答えられたもの


 わたしの説法に対していろいろな疑問や質問が寄せられていたが、それらはすべて的を射ていないものであった。その理由は、自己の意見を述べる場合、前提となる定義をしっかりとしていないと、単なるフィーリングとフィーリングのぶつかり合いになってしまうというのに、それがなされていなかったからである。
 個々のフィーリングについては、個々のカルマを投影したそれぞれの世界であるから、わたしは肯定する気持ちも否定する気持ちもない。ただ、質問や疑問や意見があるとするならば、わたしとしては、しっかりとした前提条件に基づいたものを望むし、またそれらは大いに価値あるものと思われる。
 ここで、わたしが言いたかったことを定義としてまとめておこう。

1.音楽は心の働きの投影である。したがって、救済者として自負する以上、その音楽はそれを聴いた人の心を微細にし、しかもエネルギーを高め、慈愛を根本とした四つの偉大な心の覚醒へと導かねばならない。
 わたしと音楽の関係はこの関係以外のなにものでもない。したがって、この定義に合致する音楽をわたしはよしと考え、それ以外のものを悪しと考えているのである。

2.意識の連続イコール途切れない世界イコール途切れないメロディー、エネルギーの強さイコール高音域の音階、四つの偉大な心の覚醒との関係イコール心を安らがせ明るくするメロディー、微細な意識状態、正確に計算された旋律・和音・対位旋律等をあげることができる。したがってわたしの音楽そのものが、相手の心を打ち、至福に満たし、勇気を与え、神々との調和といったものが得られなければ、この定義そのものが間違っていることとなる。しかし、わたしは長年の作曲活動において、これらのものに確信をもっているのである。

 以上、改めてわたしの音楽について述べたが、実際に一度でもこの音楽を聴いていただけたなら、わたしの言葉を理解してもらえるものと考えている。

『徳について』という紙より

 なぜ、オウムが奉仕と布施を中心に話しているかというと、去年から今年で、潰れていっている人は、これが大嫌いで潰れていっている人が多い。そして、わたしの経験からいっても功徳がなければ修行ができない。
 ではできあがった功徳を何に使うかというと、修行に使うんだ。もし、あなたがエゴが強ければエゴを満足する方向で功徳が動く。例えば、性欲が強ければ、異性にもてるとか。例えば、寂しけれぼ、友達ができるとか。例えばお金が欲しければ、お金持ちになれるとか。そういう形で功徳は動くから気をつけなさいよ。
 もし、あなた方が解脱を目指しているのだったら、できるだけ心の喜びを捨てなければならない。その背景には、心の喜びを満足させるために功徳が働くということだ。これは非常にまずいことだね。そして功徳というものは厄介なもので、恨みがある場合も、憎しみがある場合も、その方向の功徳が使われる。そういうときは、その人に悪いことが起こります。これも功徳の働きだ。否定的な生き方をすると功徳はどんどんどんどん使われます。
 だからどれだけ功徳を積んでいても、ざるで水をすくうようなものだ。気をつけなさい。麻原は功徳を積んでいないと思うかもしれない。しかしわたしは、人を害するような気持ちを持ったことがないんだ。昔から、アホといわれた性格でね、自分に悪いことをされても、全く気にしない。これは徳の消耗を防ぐわけだな。これは大切なところだよ。
 無力指向に働いても、恨みの想念を持っていても嫉妬心をもっていても功徳は消耗されます。それを満足させるために。だから修行を成就させるためには、修行を進めるためには、そういう心を排斥させなさい。意識しなさい。意志しなさい。
 いいか、功徳というものは、善の方向で働いた場合その人を完成させるように働く。否定的に働く場合には、その人の狙っている通りの人が潰されてしまいます。徳のある人が、ちょっと怒りの想念をもっただけで、その方向に使われ、すり減ってしまいます。これほど微妙なものだ。そしてわたしたちが解脱するためには大変な徳が必要なんだ。そういう馬鹿げたことにエネルギーを使っていたら、修行は完成しないと思いなさい。
 そしてもう一度いうよ、たくさんの徳を積んだつもりでも、それは、擦り減っていると思ったらいい。そうするとだ、神の意思なんだなと、わたしはあなた方を酷使している。これは一見君たちは損をしているように見える。しかし、そうではないよ。その時、全力でやっていれば、徳だけ積んでいてしかもそれはグルの意思だから、修行に対してプラスに働くだろう。
 しかし、例えば一つ一つの行為を行なうのにエゴというものを中心として働いていたならば、それは同じ行為をやっていても、プラスには働かないだろう。だから意思しなさいよ。グルが何を意思しているか、意思しなさい。何度も何度も確認しなさいよ。潰れていくか、潰れていかないか。成就するかしないか。絶対自由になるかなれないかは、今、自分が持っている功徳というものに過信しない。そんなものは微々たるものだと思いなさい。徳は積み続けるものである。しかも積極的に積み続けなさい。そして心に害心を持ってはいけない。他人を害する気持ちを持ってはいけないよ。