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◆93/12/4 亀戸道場(ブロック長会議)
四無量心の実践における脳波の状態

 今日の講話の内容というものは、皆さん理解できましたか。
 つまり、減尽に向かう方向というものは、思考が停止し、言葉が停止し、そして行動が停止していくんだということ。逆に、行動原理において、その段階において、四つの偉大なる心の覚醒を少しずつ培う場合、その方向の、今度は行動、そして言葉、心の働きが動き出すんだと。この四無量心、四つの偉大なる心の覚醒とね、貪・瞋・癡というものは、つまり愛著・邪悪心・迷妄というものは同格なんだよ。したがって、四つの偉大なる心の覚醒を土台として活動してるときは、逆に、迷妄・邪悪心・愛著というものは動かないと。逆に、愛著・邪悪心・迷妄が動いているときは、聖慈愛・聖哀れみ・聖称賛・聖無頓着というものは動かないと。
 この原理に気づくと、このようなことが理解できるようになる。「そうか」と。「ということはできるだけ早く、四つの偉大なる心の覚醒を土台として、行動を拡大していけばいいんだ」と。つまり、自分の人生において、その行動拡大の部分、例えば、一日において二十四時間のうち、初めは煩悩的な思考が二十三時間五十九分だったのを徐々に徐々に長くしていけばいいんだと。そして、最終的には四つの偉大なる心の覚醒以外のとき、心は自然と止滅する方向に持っていき、完全に止滅してしまえば、その魂は確実にニルヴァーナを超えた世界、マハー・ニルヴァーナ、マハー・ボーディ・ニルヴァーナへと到達するんだよ。これが、あなた方が目指す最終地点であると。したがって、あなた方が、例えば、マハー・ボーディ・ニルヴァーナに到達したときに、何が残るんだといったら、全思考が残ると。あるいは、全言葉が残ると。あるいは、全行動が残ると。しかし、その行動原理が四つの偉大なる心の覚醒なんだよ、ていうことなんだよね。
 逆に、ニルヴァーナとは何かというと、そのときには完全なる静止だから、完全なる心の停止、完全なる言葉の停止、完全なる行動の停止が生じるんだよ。つまり、ニルヴァーナとマハー・ボーディ・ニルヴァーナの間には、これだけ大きな違いがあるんだよ、ということになると。なぜならば、救済者がだよ、しゃベれなくて救済できるだろうかと。救済者が偉大なる心の働きをしなくて救済できるだろうかと。救済者が行動を起こさなくて救済できるだろうかと。つまり、四つの偉大なる心の覚醒が現象化したときにはどうなるんだと。
 例えば、聖慈愛という言葉、これを見た場合、一人一人の幸福を喜ぶと。一人一人が三悪趣へ行かないことを喜ぶと。そういう道を実践することを喜ぶ心の働きだよね。だとするなら、当然そうしようとする人に対するサポートの心の働きが出てくるだろうと。これが聖慈愛の行動だよね。あるいは、そうしている人を励ますだろう。これが聖慈愛の言葉だよね。そして、絶えず心配りをし、自分の縁のある魂、いろんな人に対して「この人は真理の実践をしているかな。素晴らしいなあ」と考えると。これが憲愛の心の働きだよね。だとするならば、絶えず心はいろいろな人のために動いているはずだよね。
 次に、聖哀れみはどうかというと、これは徳のない魂に対して、あるいは善行を行なっていない魂に対して、その魂が真理を実践できないと。あるいは嘘や綺語のカルマによって間違った情報に左右されて、真理と縁の遠い魂がいると。これらの魂に対して、哀れみの心を持つ。「ああ、あの人たちは本当に哀れなんだ」と。「必ずや、地獄へ落ちるだろう」と。「必ずや動物へ行くだろう」と。「必ずや低級霊域へ行くだろう」と考えること、これが聖哀れみだよね。「なんて悲しいんだ」と。「なんて哀れなんだ」と。つまり、「なんて悲しいんだ」と考えるから大悲なんだよ。そして、そういう世界へ至る心に対して、「あの人たちはなんて、哀れなんだ」と考えるから、聖哀れみなんだ。なぜ聖なのかというと、それは神聖なものであるから。正しい哀れみであるからなんだ。だとするならばだよ、この聖哀れみの言葉はどうなるだろうかと。当然厳しいものになるだろう。
 例えば、『ミラレーパの生涯』において、多くの在家信徒に説く言葉、その言葉の厳しさといったら、それは他の成就者の比ではなかったと。それは彼が偉大なる覚醒をなし、そして、今自分と縁のある魂のすべてが三悪趣へ落ちるんだということを理解していたからなんだよ。当然理解したならば、甘やかしい言葉じゃなく、「あなた方はもうどうせ真理と縁がないんだから、地獄へ行くしかないんだよ」という法則を説くしかないと。まあ実際それを説いてます。わかるかな。そうすると言葉は当然厳しくなる。じゃ、行動はどうかというと、行動も当然、真理の流れに入れるためにはガティーカーラのように厳しい行動になると。これが聖哀れみの心であり、聖哀れみの言葉であり、そして、聖哀れみの行動だよね。
 じゃあ、聖称賛はどうなんだという問題が出てくる。聖称賛は要するに自分自身の流れが完全に上流、つまり上の世界へ至る流れに身を委ねているわけだから、その実践を行なっている人に対する称賛を惜しみなく行なうと。つまり、その人と闘争はしないと。その人にすべて身を委ね、称賛すると。ね。こういう心の働きになるよね。例えば、善行を称賛をし、徳の達成をなす人に対して称賛し、そうすると、この魂はどうなるかというと、放っておいてもその方向をよしとし行動すると。このときも心は止まっていないよね。この人は称賛に値するんだろうか、しないんだろうか。ああ、この人は自分よりも----つまりいいかな、自分よりも上の人は称賛の対象であると。自分よりも下で自分と同じ努力をしている人は聖慈愛の対象であると。ね。慈しみの対象であると。そして、自分より下で下へ落下していってる魂に対しては聖哀れみの対象であると。あるいは、自分より上でも落下していってる魂に対しては聖哀れみの対象であるということになるよね。
 したがって、心はそういう意味においては、停止してないではなく、どんどん善の振幅、いや、偉大なる四つの覚醒のための振幅を繰り返すことになるわけだ。したがって、この言葉はどうかというと、自分よりもステージが高く、なお真理を実践している人に対して、当然、称賛の言葉が繰り返されるだろう。そして、それだけではなく、自分より上の徳の高い魂、善行をなしている魂、寂静の修行をなしている魂、あるいは、法則の実践をなしている魂に対して、当然称賛だけではなく、一緒に行動しよう、そして、多くのことを学ぼうとする行動の姿勢が現われてくるだろう。これが、だから、第三番目の聖称賛の実践だよね。
 そして、最後の四つ目、聖無頓着。この聖無頓着のときにどうなるんだという問題があると。今度は、聖無頓着のときには今度は逆に心が停止します。この停止の状態というのはニルヴァーナと違い----ニルヴァーナは完全に離れた状態での停止であるが、そうではなくて、この聖無頓着の停止は現象の中にあって、一切のカルマ落としに対して、一切の苦しみに対して、全く心が動かない訓練をすることなんだ。したがって、その意味においては、四番目に来て初めて停止の実践が行なわれると。しかし、この聖無頓着の実践を行ないながら三つの慈愛・哀れみ・称賛の実践を行なっているわけだから、苦しみに対しては停止し、そして、他を救済することに対しては動いているんだってことを認識する必要があると。これがマハー・ボーディ・ニルヴァーナとニルヴァーナの違いなんだよと。
 はい。じゃあ、言葉はどうなるんだろうかと。言葉は普通の人と逆の言葉が出るよね。苦しみに向かったとき「苦しい」と。そのときに、苦しみじゃなくて「ああ、ありがとうございます。カルマ落としができて」ということになると。例えば、行動をより苦しいところに自分の身を置き、その苦しみの中で何も現われない状態をつくると。つまり、無頓着の状態をつくると。わかるかな。
 これが四つの偉大なる心の覚醒と呼ばれるものなんだ。したがって、ニルヴァーナとマハー・ボーディ・ニルヴァーナはベクトルの向きは全く逆なんだ。つまり、ニルヴァーナは苦しみから離脱の方向への矢印、マハー・ボーディ・ニルヴァーナは苦しみの中に突っ込む。より苦しい苦しみの中に突っ込み、その中で寂静を作り上げていくと。そして、このブロック長になられる方々は、その偉大なる覚醒----とはいってもだよ、この現世でニルヴァーナを体現することはヒマラヤ……富士じゃダメだよ。なぜかというと、富士だと電波が飛ぶから「ああ、寂しくなった。ラジオを聞きたい」ということになってしまう。「テレビを見たい」となってしまうから、富士ではダメだ。ヒマラヤとか、あるいは、アンデスとかに行き、そして、庵を囲って食料だけを持ち込み、そして、人と決して接さないと。
 昔は托鉢というのがあったが、今その托鉢をすることによって情報の交換が起き、必ずニルヴァーナに到達することができないだろう。したがって、わたしたちに残された道、このカーリー・ユガのときにおいては、マハー・ボーディ・ニルヴァーナの道しかないんだ。そう考えるならば、ブロック長として真理の実践をフルに行なうことのできるあなた方は大変素晴らしい魂であるということができます。
 今日、わたしは四無量心の瞑想を三〇分ずつ、計二時間行なってきました。とはいっても、これはわたしの脳波を三〇分×四、聖慈愛・聖哀れみ・聖称賛・聖無頓着の四つを三〇分ずつぶち込んだと。そして、その結果としてあなた方に、このボーディサットヴァの偉大な道、それがどのようにヒナヤーナと違うのかについて、はっきりと説き明かすことができたと。ね、しっかり頑張ろう。