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◆93/12/4 亀戸道場(参入の儀式の後)
脳波が指し示す小乗と大乗の本質

 皆さんもご存じのとおり、今の日本の経済・政治、この危機的な状況の中で、わたしたちのすがるものといったら何かというと、それは、本質的に自分自身の能力、あるいは、本質的に自分自身の高い世界へ至るためのカルマ、本質的な自分自身の真実の縁、といったようなものしか、これから未来における日本の中での、自分をステーブルにする、つまり安定させるものとしての存在は、それ以外に見いだすことはできないように思われる。しかし、この危機的状況は、逆の言い方をすれば、わたしたちを「さあ、個人へ還りなさい」と、そして、「真実はすべて苦しみである。この苦しみ以外の生存というものは、ボーディサットヴァ以外存在しないんだ」と、そのようにも、話しかけているように思われる。
 「環境」というものをとらえた場合、わたしたちは、絶えずその環境から楽を得たい、あるいはその環境に依存したい、あるいは、その環境の流れによってすがりたい、といったような心の働きが出てくる。つまり、外側の力によって内側を安定させたいと考えることである。しかし、わたしたちは「死」というものを境にしてそれらの環境のすべてから解放され、そして、自己の内側の本質、つまり、わたしたちが「わたしたち」と呼べる本質そのものだけが、バルドを通じ次の生へと転生する。
 この社会が、この世界がけがれであるとするならば、苦しみであるとするならば、何をどう考えなきゃならないのか。それは当然、この社会の苦しみを、あるいは世界から与えられる苦しみをしっかりと受け止め、そしてそれを乗り越える手段、あるいは乗り越えるステージへと到達するとするならば、少なくとも低い世界の一つである人間の世界の低い生命体へ生まれたとき、それらの苦しみというものは、当然もうすでに過去において経験したことであるから、十分に今の生での苦しみというものは、わたしたちに大きな経験としての利益を与えてくれるはずである。
 もともと、多くの魂が存在している。しかしこれらの魂は、過去世から未来にわたる、自分自身の単なる意識の変革の一つである、と気づいたとき、そこに本質的に「空」というものをわたしたちは認識するのである。つまりそれは何かというと、わたしたちの「イメージ」、および一般的に「意識」といわれるものが完全に停止したとき、多くの人の感情というものが、あるいは多くの人の思考というものが自己の内側に投影される。この投影されたとき、「ああ、これらの感情は自己の煩悩である」と錯覚をする。錯覚をするということは、自分自身がもともと所有していた煩悩と、それから他が与える思念によって例えば与える煩悩との差はない、ということはできる。
 またこの原理によって、例えば、木にワラ人形を打ちつけて殺すといったような作業が成立するのである。つまり何を言いたいのか。例えば自分の心臓に、あるいは脳に発生した電位というものは、他人の心臓に、あるいは他人の脳に、同じように電位として発生させることができる、ということである。
 例えば単なる性欲だけではなく、本当に相手を尊敬し、愛著し合ったカップルというものは、脳波が全く同じパターンを取る。この「脳波がまったく同じパターンを取る」とは何かというと、例えば「アルファ波・アルファ波・アルファ波・ベータ波」というような流れであるとするならば、必ずもう一方の異性も、「アルファ波・アルファ波・アルファ波・ベータ波」というような形を取るのである。つまりこのとき、形状-容姿は違っても、二人の形成するアストラルというものは、共有されていることを意味している。よって、「実体がない」ととらえるのが、大乗仏教の空の理論である。
 では、小乗仏教における「無」あるいは「ニルヴァーナ」とは何であろうか。これは、わたしたちが滅尽の瞑想を行なうと、脳波は徐々に振幅の回数を減少し、四〇ヘルツ、三〇ヘルツ、二〇ヘルツ、そして中間速波の例えば一六ヘルツぐらい、そしてアルファ波の一一ヘルツ、九ヘルツといった形になると。そして、普通だったら眠る、眠りに入っているシータ波の、八ヘルツ、七ヘルツ、五ヘルツといった形になると。そしてデルタ波の四ヘルツ、三ヘルツとなると。このときには、もうまさに深い深い眠りの状態であると。そして、最終的には、〇・五ヘルツ、〇・〇五ヘルツ、〇・〇〇五ヘルツ、フラットとなると。さあフラットとなった、これが、ニルヴァーナであると。
 これが小乗仏教の唱えるニルヴァーナの定義であり、そして最終地点である。このときには、一切の思考も生起せず、そして苦しみもないと。ただそこには、心の本質から発されるエネルギーのみが存在すると。この段階は、貪・瞋・癡、つまり、愛著・邪悪心・迷妄といった三つの根本的な、わたしたちの活動原理というものから解放された状態であるということができる。
 したがって、修行者がなぜ眠りに近づき、眠りを超え、深い眠りに入り、深い眠りを超え、そして静止するのかというと、原理的には簡単である。つまりこの現世に対する興味が、愛著----難しいけどよく理解してよ----愛著、そして邪悪心、迷妄というものを根本とした状態から、いいかな、根本とした状態から、解放されるということは、この状態で思考しない、言葉を発さない、行動しないということなはずであると。そうするとどうなるか。思考するスピードは弱まる。行動するスピードは弱まる。しゃべるスピードは弱まる。
 しかし、この愛著・邪悪心・迷妄という三つの流れからの解放は、わたしたちを本質的に、貪・瞋・癡を土台とした地獄・動物・低級霊域をはじめとする、この欲界からの解放につながることは言うまでもない。また、欲界の投影の源であるアストラルから、形状界から解放されることも言うまでもない。これが、ニルヴァーナの本質であり、そして小乗仏教、ヒナヤーナ仏教の最後であるということができる。
 ところが、いいかな。もう一つ、じゃあこの愛著・邪悪心・迷妄ではなく、「さあ、すべての魂を慈しむぞ」あるいは「すべての魂の慈しみを喜ぶぞ」という心の本質、それから、「カルマが悪いがゆえに、すべての魂は苦しんでいるんだ」と。「このカルマの悪い魂を、すべて力ずくで引き上げるぞ」と。「そして真理の流れに入れ、先程述べた愛著・邪悪心・迷妄を捨断させ、地獄・動物・低級霊域をはじめとする煩悩多き世界から救済するぞ」という聖哀れみ、そして、「自分よりも聖慈愛や聖哀れみの進んでいる魂に対して称賛の念を持つぞ」と考える聖称賛、それから、「この世の中は、先程述べた、完全に思考の停止、完全にフラットな脳波になるための世界を形成するためには、カルマ落としが必要である。そしてそのカルマ落としに対しては、頓着しないようにしよう」とする聖無頓着、この四つを土台として、この魂が成長を始めたならばどうなるだろうかと。
 はじめは、聖慈愛とは何であるか。よくわからない。したがって、少ししか思考しないと。聖哀れみとは何であるかよくわからない。したがって、少ししか思考しないと。聖称賛とは何であるかよくわからない。したがって少ししか言葉をしゃべらない。あるいは聖無頓着とは何であるかわからないと。これも、それに対して少ししか心の働きが生ぜず、言葉が出ず、行動できないと。この状態の魂が成長するんだったら今度は逆に、心が動き出し、そして言葉をしゃべり、そして行動するようになると。これが、到達真智運命魂、ボーディサットヴァなのである。
 したがって、ボーディサットヴァの場合、ステージが高ければ高いほど、心は動きます。とはいっても、例えばこのニルヴァーナの最終地点からボーディサットヴァに入った魂であるとするならば、煩悩的思考のときには心が動かず、つまりフラットであり、しかし例えば救済、聖慈愛・聖哀れみ・聖称賛というような四無量心を土台としたときに、脳波の働きがバーッと動き出すと。つまりこれは先程言った四無量心を土台とした魂であるから、もうこの魂は救済以外ないんだと。生まれ変わるには。
 ところが、もう一つこちらの愛著・邪悪心・迷妄の魂は、これは、思考すること・しゃべること・行動することは三悪趣へ至ることだから、停止しなければならない。わかりますか、言いたいことは。これが太乗のボーディサットヴァと、それからヒナヤーナの阿羅漢、ニルヴァーナに到達した者の段階であるということができると。
 そして、さあ、この四無量心を土台とした魂がだよ、停止、それから心の働きの動き、言葉の働きの動き、それからもう一つ、行動、これどんどん増大するわけ。で、その活動舞台はどこかというと同じようにこの欲界である。同じように形状界であると。そしてこのボーディサットヴァ成長するとどうなるかというと、思念が強まり、これは、雪だるまと同じだから、この現象の世界において達成できないものは何もなくなってくると。これが、今まで仏典で説かれてた、「大乗?----わかんない」「小乗?----わかんない」という、真のわからなかった部分の、真の意味なんだよ。
 いいですか。この本質を、科学的に皆さんに表わすことできるのは、この地上においてわたししかいません。これが真の意味なんだよ。そして、この段階の最終地点へ至るまで、四アサンキャ十万カルパかかりますよといってるわけだ。
 はい。したがって、皆さんが変革する段階においては、まず阿羅漢に至る。そして次は、完全なるボーディサットヴァの土台のデータが打ち込まれると。そしでそれが記憶修習されて、思考のパターンがまるっきり変わってしまうと。ね。これは、はっきりと脳波計によって知ることができますよ。それから、自分自身もそれを体験することができます。そして、この道が完全に完成するならば、わたしが目標としていた三万人の成就者、これでも、これもわたしは夢ではない、と考えています。
 実は、面白いことに気づいたんだね。それは何かというと、例えばエネルギーを循環させる瞑想とか、あるいは滅尽の瞑想、その瞑想している脳波をぶち込んだ場合、どうなるかというと脳波はどんどんフラットになると。しかし、例えば、先程述べた四無量心の瞑想、これを行なうと、その脳波を打ち込むと、逆にわたしの内側に思考がバーッと出てくるんだ。つまりこれは、先程述べた、わたし自体がボーディサットヴァである、ということの現われであると。その前にすでに滅尽は終わってると。
 さあ、皆さんもね、とにかく、まず阿羅漢を目指し、そして、偉大なるボーディサットヴァとして自分自身を現わし、ね、今生人間として生まれた意味合い、これを最高のものにしましょう。いいね。