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◆93/8/25 杉並道場
詳説・変容のヨーガ

 今日は、教えの中で最も高度な「変容のヨーガ」についての講話をしよう。もし君たちがこの変容のヨーガを理解することができるならば、例えば在家であったとしても、あるいは出家し、そしてサマナ生活を送りながら極厳修行に入らなかったとしても、成就・解脱し、そしてマハームドラーの達成ができるというヨーガである。このヨーガは非常に単純であるが、その趣旨、つまりどのように観想するかということは非常に難しい。したがって、智慧の必要なヨーガであるということもできる。
 ではそれはどういうヨーガなのであろうかと。例えばここに、あるサマナがいたと。そしてそのサマナが信徒の対応をすると。このときに、このサマナがどう観想するか。例えば「わたしはサマナである。そして、自分の目の前にいる対象は信徒である」と観想した場合、これは、単なるサマナのプライドを増大させるにすぎない。
 しかし、もしそうではなく、例えば信徒の相談を受けるときに、「これは、わたしの過去、生じさせた煩悩である」とか、あるいは、「まだわたしがいまだ経験していない煩悩である」と観想し、そしてその煩悩に対して対応する教えを適用しながら、例えばその法則を聴く信徒の心の状態を観察し、そしてそれから解放されたときに、「あ、これで、未来におけるわたしの煩悩が一つ止滅した」と考えるならば、あるいは「過去存在していたわたしの煩悩が一つ止滅した」と考えるならば、これはまさに変容のヨーガということができる。そしてこのようなかたちで、すべての行為に対して、すべての言葉に対して、すべての心の働きに対して、通常の思考ではなく、まさにヴァジラヤーナの修行者としての変容を試みる。これが「変容のヨーガ」なのである。
 例えばもう少し例を挙げよう。ある者がコースに就くと。そして、座法の組めない、例えば信徒の方がいると。で、この信徒の方にどのように指導するかと。ある者は厳しく指導するかもしれない。ある者は優しく、「できなければできないんでいいんですよ」と指導するかもしれない。これは当然個人差があろう。このときに、この指導する例の心の働きが、例えば、厳しく指導するときに、「オレたちも厳しく指導されたんだから、この人にも厳しく指導してやろう」と考えるとするならば、それは全くもって、その指導する魂そのものが成長をきたさない結果を得るだろう。なぜならば、段階的な進歩というものが魂には存在するからである。
 したがって、まず修行のできない信徒さんを見た場合、座法の組めない信徒さんを見た場合、「あ、この人は、わたしの過去の、この段階の今修行しかできない魂なんだ」と。そして自分の過去を振り返ると。「よし、じゃあこの人に、この人に合った指導をしてあげよう」と考える。そして、その魂が修行しやすいような言葉の使い方と、そして教えを適用すると。もしこれをなすことができるならば、その修行のできない人も短い期間において例えば座法が組めるようになり、そして修行を進めることができるようになるはずである。
 この、修行を進めることができるようになった段階で、もう一度心に自問すると。わたしは過去において、これだけの期間をかけてこの課題を乗り切ることができたと。しかしこの信徒の方は、これだけ早く達成できたと。そしてそれは当然、功徳として、自分自身に還元さるべきであると。それは自分の修行を進める上において、大きな種子となるはずであると観想すると。もしこれを行なうならば、この修行者は、非常に早く高い悟り・解脱へ到達するはずである。なぜならば、心のプロセスにおいて、二度同じ経験をしたことになるからである。つまり一度は、時間をかけ、自分自身が座法を組んで、そしてある集中を得ると。二度目は信徒さんに同じ経験をさせることによって、その経験の功徳というものを自分の心に植えつけることができると。
 ----このようなかたちで、もし君たちが、日々一つずつ、あるいは最終的には二十四時間すべてを成就へ向け、変容することができるならば、マハームドラーの達成だけではなく、君たちが最終完全解脱する道というものは、それほどかからないはずである。
 わたしたちが最も忌むべき対象とは何かというと、知識を多く取り入れることである。知識を多く取り入れることは、非常に危険を有する。特に外部の情報を入れることは危険を有する。
 多く知識を入れることは非常に危険を有する。なぜならば、「知識」というものは相対的な世界の情報にすぎず、それだけではなく、相い対する知識というものが、教えの中にも多く存在してるからである。したがって、自分の得た知識の一つをまず経験的に確定させること、これに没頭する。あるいは、いくつかの知識を同時に経験として獲得する道を選択すると。そして、完全にその経験として知識を獲得できた段階で、次の教えを実践していく。これがまさに、最も早く最終の地点へ到達する道なのである。
 そして、これは瞑想修行を達成すればよくわかることだが、知識そのものは来世へ持っていくことはできない。しかし、瞑想体験によって得た経験というものは、来世のパイロット、つまりガイドとなるんだということをしっかりと理解すべきである。いいね。
(一同)はい!
(尊師)もう一度今日の要点を繰り返そう。
 すべてを変容すること、これが一だね。二、多くの知識を入れないこと。いいね。
(一同)はい!
(尊師)その知識というのは、相対的な世界のものであるということが一つと、それから相対する教え、これ教えの中にも、段階によって教えが違うわけだから、相対する教えが存在すると。それによって精神的経験・心の経験がないと、その相対する教えの狭間に自分の身を置き、そこで苦しまなければならない。したがって、一つの教えが伝授されたならば、その教えを徹底的に行ない、納得できるまで修習し、自分のものとすると。そしてその段階で、次の修行に入るようにしなさい。いいね。
(一同)はい!
(尊師)サキャ神賢もそうだし、それからカギュー派のグルたちもそうだが、多くのことを決して実践しない。例えば経典でも、四念処という単純な瞑想法がまず説かれる。なぜ四念処という単純な瞑想法が説かれるのかというと、この単純な瞑想を行なうことによって、まず現世捨断が生じるからである。現世捨断が生じることによって何が起きるのかというと、そこで光が現われる。これは実際に、視覚的に光が生じるのである。光が生じることによって、確信を持つと。そしてこの光というのはいろんな光があるわけだが、それは次の段階の、大乗の修行に移行した段階で、その光の意味合いおよび光の使い方が伝授されると。
 そして光の意味合い・光の使い方が伝授された次の段階において、最終的には光の源の世界へ至る道が伝授されると。そして、このすべてを理解した段階で、この世の中は、苦しみではなく、楽しみの集積であることが理解できるようになると。つまりこれが、サムサーラがニルヴァーナに変容された状態である。しかしもしはじめから多くのものを、例えば、「サムサーラとはこうである」とか、「ニルヴァーナとはこうである」とかいう知識を徹底的に叩き込んでしまうとどうなるかというと、観念的世界を構築してしまい、そのために逆に光が現われないと。つまり、四念処の効果がなくなると。光が現われないがゆえに、次の光の使い方も理解できなくなると。光の使い方が理解できないがゆえに、光の本質であるニルヴァーナ、あるいは空の状態が理解できなくなると。したがって、もう一度確定するが、教え、この教えを知識としてとらえたら、その瞬間それを自分の経験にまで必ず降ろす作業を繰り返しなさい。いいね。
(一同)はい!
(尊師)そのためには、変容するしかないんだ。いいね。
(一同)はい!
(尊師)よし、しっかり頑張ろう。

 今の変容のね、もう少しわかりやすい例があるから、それを最後に一つ付け加えよう。
 例えば、異性がいると。異性を、「あ、この人は女性である」とか、あるいは「男性である」と認識した瞬間に、苦しみは生起し出す。しかしもしその異性を、「この人は、修行者である」とか、あるいは「この人は法友である」とか、あるいは「この人は、自己の法の先達である」とか、あるいは「自己の法の後輩である」とか認識した場合、どうだろうか? 煩悩が生起すると思うか。
(一同)……。
(尊師)だからそこで生起する場合、その生起した段階において、こう考えなさい。
「わたしの対象に対する認識は、凡夫と同じである」と。
「よって変容しよう」と。いいね。
(一同)はい!
(尊師)そしてすべてを変容しなさい。いいね。
(一同)はい!
(尊師)そして君たちが本当にすべてを変容したとき、この世界はニルヴァーナと変わるんだ。いいね。