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◆87/4/29 和田平の河原での撮影会にて
無と空について

 じゃ、始めるぞ。せっかくね、こうやってこの撮影会が始まったんだから、この時間を無駄にするのはもったいない。ね。それで、上祐が質問した無と空について話そうか。
 まず、無と空の根本的な違いは何かと。絶対的否定が無だ。そして、空というものは相対的否定ということができる。で、その絶対的否定と相対的否定の遠いというのはどこから出てくるのかと。よく考えてみよう。
 無というのは、まず、器は残っているわけだ。器はね。そしてその中が空っぽである。これは上祐も言ったとおり、そのとおりだ。ではその器とは何かというと、なんだと思うか上祐?----これはわたしたちのアストラル体であり、コーザル体のことをいっている。で、このアストラル体・コーザル体が空っぽになったとき----いや、言い方を換えようか。ね、色つきの水がなくなったとき、つまり外から見たら空っぽに見えるわけだ。透明だ。水は光の入り具合によって屈折して、水がそこに存在するというのはわかる。ところがわたしたちのアストラル・エネルギーとか、エーテル・エネルギーとか、あるいはコーザル・エネルギーというものは、そういう屈折すらも認めないぐらい純粋透明なものだ。ね。
 だから、わたしたちのアストラル体、コーザル体が本当に純粋・透明で、空っぽになったとき、それを空という、ね。
 じゃあ、無とはなんだということになってくるよ。無というのはそのアストラル体もない、コーザル体もない。ね、いいか。ところがわたしたちは解脱したって生きてるだろうが。今までに例えば仏陀釈迦牟尼が悟りを開かれて、解脱なさって、智慧解脱・真解脱なさってだよ、肉体はあったかなかったか考えてごらん。ちゃんと存在しているよ。つまり、この粗雑な肉体すら残っているわけだ。ましていわんや、アストラル世界ね、あるいはコーザル世界も残っているわけだ。その意味じゃ無ということはできるか。どうだ上祐。わかるだろう。それが無と空の違いだ。
 で、ヨーガ経典にはこう書かれているよね----よくわたしが例えを出す言葉だけども----ここに水瓶がある。この水瓶ってわたしたちのコーザル体であり、あるいはアストラル体だ。ね。この水瓶はアストラル・ワールド、コーザル・ワールドの一部である。そして、それは内側の水と外側の水は何ら変わらないんだと、ね。解脱してもこれは残るんだと、ね。
 じゃ、解脱とは何かといったら今言ったとおり、そのアストラル、コーザル、これが完全に清められたとき解脱が起きる。ね、わかるか。
 はい、質問があったら質問、聞く。
 ね。インドの仏教徒あるいはチベットの仏教徒は無と空の違いについて、無を否定する、あるいは無を認証する何ものかが残っているんだから無ではないと言っているけども、実際はそういうことはどうでもいいことだ、わたしに言わせれば。それはつまり定義上の問題だ。
……沸騰している水であるがゆえに、あるいは苔の生えた水であるがゆえに、わたしたちはそのアストラルの誘惑----言い方を換えるよ----潜在意識の誘惑に動かされてるわけだ。ところがそれが完璧に浄化されたならば、すべてのものの実相というもの、実際の姿というものを正確に映し出す。ね。そのときに、苦はなくなるんだよ。そうだろ。
 ねえ。苦があるわけなかろうが。なぜかというと、真実を映し出すということは、ポイントを映し出しているわけではない。過去・現在・未来を映し出しているわけだ。例えばわたしとRがお付き合いをするとしよう。そうすると見えてなければ、そのときのRの美しさ、優しさ、ね、あるいは妖艶さにひかれて溺れてしまうかもしれない。ところが成就して透明に見れば、例えばRの年とった姿、それからひょっとしたらほかの人を好きになるかもしれない、そこでの苦しみ、ね、あるいは逆にそういうことをく て、二人が戯れたとき、ね、それにうつつを抜かして、経済的ピンチによって互いが険悪の仲になると、そういう未来のヴィジョンが見えてくるわけだ例えば。あるいはいいヴィジョンかもしれないよ。仲睦まじく歩いてそして最後は死ぬと。ところが、その死ぬときの今度はものすごい苦しさがヴィジョンとして見えてくる。どっちか起きるわけだからな。この世で苦しむか、あるいは別れ際に苦しむかのどちらかは必ず起きるわけだから。そうだろ、上祐。
 これが、透明に相手を照らした場合、すべてを照らした場合の結果だ。ところがそうじゃなくてブロックしていれば、ね、先程言った苔でブロックしている、色つきの水でブロックしている、沸騰した水の状態でブロックしている、こういう状態であれば真実は見えない。そのとき″しか見えない。だからわたしたちはアストラル体を浄化しなさいと、コーザル体を浄化しなさいと、浄化する必要性があるんだっていうのはそこにあるわけだ。そうするとそれは逆にいえば苦を取り除くんだよ。わかるか。
 ところが例えば、ね---今度は、ちょっとテンポを変えるぞ----人と人との関係っていうのはキャッチボールだ。ね。例えばTがそのボールを欲しいと思わなければ、いいかT、そのボールを欲しいと思わなければ、ね、相手がいくら投げたって受け止めなくて済むわけだよ。そうだろ。例えば相手がボールを投げた。よければいい。避ければいい。そうだろ。ところがお前がもし、逆にボールが欲しいなと思ってたら、どんなポールでも取っちゃう。ね。これは何を言ってるかというと、例えばお前に性欲があったとしようじゃないか、ね。そうすると、もう性欲があるということはその性的ストレスをどっかで漏らしたいと考えてるわけだ。わかるかT。そうするとちょっとボインの子、あるいはかわいい子がそこに現われたならば、それに飛びつきたくなってくる。わかるか。ところが逆にお前が性欲がないときにその相手を見たら、また違った結果が出てるかもしれないよ。わかるか。これが先程わたしの言った、苔であり、沸したお湯であり、あるいは色つきの水だ。わかるか、ね。
 それで空というものは、それがすべて静まり返って透明になった状態。いいか。で、空の定義をもう一回言い換えるならば、その内側の水を全部出してしまうんではない。ね。まず色を取り払いなさいと。そして苔を払いなさいと。もし水が沸騰してるんだったら、お湯となっているんだったら、それを冷やしなさいと。ね。それが完全にできたならばそのときは成就だ。
 そしてそれは悟りということができるね。で、解脱とは何かといったら先程言った、ね、先程わたしがよく言っている、----例えばお前たちがアストラルに飛ぶ、コーザルに飛ぶね。そして色つきの水とはどういうもんだよと、苔の生えた水の状態とはどういうもんだよと、沸騰した水とはどういうもんだよと、これが解脱です。それを理解し知ることだ。悟りってのはそうじゃなくて----はい、わたしは完全に沸騰した水、ねえ、これを完全に普通の状態に戻すと。苔をとっぱらうと。色つきの水をなくしてしまうと。これが悟りだ。いいか。
 だから、繰り返すならば無なんていうのはありえないよ。そうだろ。だってわたしたちが無になったって、この身体、この粗雑な肉体ですら残ってるんだぞ。残っているのにどうして無だということができるか。そうじゃないか。例えば、Tが瞑想中に無になったとしようじゃないか。わたしから見たらTは見えてるよ。Tわかるか? 無じゃないだろうよ。ね。空だということはできるだろう。この身体を器だと考えてごらん。あるいはアストラル・ボディーを器だと考えてごらん。ね、コーザル・ボディーを器だと考えてごらん。見えるのは見えるさ、器が見えてるんだから。そうじゃないか。
 どうだ、わかるか。
(弟子質問する)
(尊師)暗性三昧。お前たちの言ってるのは、「虚空三昧に入った。わたしは無だ」と思うわけだ。それは無でも何でもないさ、苔らが生えているわけだっだからそこで何もないだろう。あるか? 真っ暗で。
(弟子答える)
(尊師)そうです。そうです。ね。そこには何にもない。ないよ、あるわけないよ、真っ暗だもん。じやなぜわざわざ、この世ですら暗いのにあの世に行ってまで暗い世界に入んなきやなんないんだ。だからそこで、ね、インド仏教ではこう言ってるよ。「無に陥った者は無間地獄に落ちる」。それは今の定義なんだ。
(S)暗性の三昧の人がそのままもし死んじゃったら、その無間地獄に…
(尊師)それを知らなければね。これはいい世界じゃないと知らなければ。
(S)要するにはじめからその……、
(尊師)そらそうだろう、その世界に飛びこんじゃうだろう。例えば死後、意識が鮮明になったとしよう。もう、パーッと黒ーい光が入ってきたと。そこで飛び込んだと。周りは真っ暗で、「これがわたしの求めていた無だ」と----気づいたときは地獄に落ちてる。ね。S、わかるか。
 だからわたしが、例えば瞑想中に気持ちよくなっても駄目なんだよと。それは途中のステージだと。まず光が見えるようになんなさいと言うでしょう。いや次は光じゃ駄目なんだよと。次はそういう世界に飛び込めるようになんなさいと、ね。もう光に慣れてたら、死後はだいたい保証できるよ。例えば白銀とか白色とか、ね、そういう色に飛び込めばまず間違いないから。あるいは黄金色とか。ね。もうこれでだいたいお前たちの人生は、人生っていうかこれから先の転生は保証できるよ。
(N質問する)
(尊師)いや、だって熟達してたらそれはあるだろうけど、そうでなきゃないよ。
(N答える)
(尊師)まだNは意識してないけど、もう少ししたらもっともっとそれがわかるよ、どういうときに起きるか。
(N答える)
(尊師)それも瞑想だよ、本当にできたら。それから、ステージが上がってくればくるほどね、グルの重要性っていうのがわかってきます。グルのそばに来れば光が見えるから。わかるか。もっとNが激しい体験を分析してごらん。わたしのそばにいるときはどんどん起きている。
 だから解脱するためには一種の取引が必要だな。取引ってのは、まずこの世のものは一応は要りませんと。一回捨てる。そして成就したらまた全部取り返せばいい。なぜかというと、じゃあなぜこの世のものはみんないらないかというと、ね、それが先程言った苔であり、沸騰したお湯であり、ね、水であり、ね、そして、色つきの水なんだよ。わかるだろ。それが執着なんだよ。
 じゃ、もっと言い方を換えるならば、ピンガラ気道が詰まると、ね、沸騰した水、つまりお湯だね、お湯と同じような状態だ。イダー気道が働かないと苔が生える。スシュムナ一気道が詰まると色つきの水になる。
 いいかな、だいたい。
(N質問する)
(尊師)それは悟りの条件は整ってる。知ってるから。逆に悟った人も解脱の条件は整っている。なぜかというと修行に対して真剣になるから。
(N答える)
(尊師)それはそうだよ。例えば、「わたしはもう悟った」と、無智な人間はそこで終わっちゃうじゃないか。それじゃしょうがないわけだ。
(N)満足……。
(尊師)満足したら終わりだ。それは悟りとはいわないよ。もう満足したら終わりだ。
(N答える)
(尊師)ありますね、それはね。ありますよ。そこしか知らなかったら。この世には悟りしかないと、もしその人がそう思ったらそこで満足するよ。逆にこの世に解脱しかないと、そう思ってたらその人はそこで満足するよ。