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◆93/8/24(AMl:00) 第二サティアン
五つの集まりを意思のもとに調御せよ

 『猫いらず』という食べ物がある。この食べ物は、人間が食べるものではなく、ネズミが食べるものである。なぜ、猫いらず≠ネのかというと、それは、ネズミにとって大変おいしい匂い、およびおいしい味のする毒、これが、猫いらずの正体であり、それを食べたネズミは死んでしまうからである。つまり、ここでは「猫」はネズミを退治するもの、「ネズミ」は退治されるもの、ということになる。この『猫いらず』、これを食べるときのネズミの心境はどうであろうかと考えてみる。ネズミはこのとき喜ぶ。「わたしは今日なんて、素晴らしい食事を見つけることができたんだろう」と。そして、それを、そのネズミのカルマに合っただけ食べ、そして死んでしまう。ところで、このとき、食べたネズミというものは自由な意志によって食べたのだろうか。それとも、ある条件下にコントロールされて食べることとなったのだろうか。----これは、釣り針に付けられたエサに飛びつく魚も、全く同じ内容であると考えることができる。
 今日わたしが、君たちに話したいのは、真に自由に生きるとは何であるかについて、話をしたいのである。
 わたしたちは、「自由をくれ」「自由が欲しい」とよく叫ぶ。しかし、その自由の本質というものを理解しているわけではない。もともと、なぜ自由の本質が理解できないのかというと、それは煩悩あるいは過去のデータによって支配されているからである。そして本当に自由になるためには、その支配から脱却する以外に方法はない。
 では、脱却する道とは何か。わたしは昨日、「意識によってコントロールする」という話をしたが、もっと言語的に調べるならば、これは「意思」、つまり、意に思うという言葉によってすべてをコントロールしたとき、初めて、それは自由であるということができる。しかも、その意思の背景にあるものは、真理の法則にのっとった意思ということになる。なぜならば、真理の法則以外、わたしたちを本当に幸福あるいは歓喜へと導いてくれないからである。
 では、この「意思」、つまり「法則はこのようになっているから、このように生きる」「法則はこのようになっているから、このように考える」「法則はこのようになっているから、このようにしゃべる」「法則はこのようになっているから、このように行動する」というこの意思および実践との関係は、何に対して行なわれるのかについて検討してみよう。
 まず、わたしたちは、この肉体に縛られている。例えば、ある栄養学の本を読む。そうすると、日々健やかに生きるためにはビタミンB群を採らなければいけないとか、あるいは、精神を安定させるためにはカルシウムを探らなければいけないとか、様々の条件が提示される。しかし、これらの西洋文明というものは、生死を超えた段階における示唆をわたしたちに与えてくれるものではないから、結論から言うとこのような栄養学に縛られることそのものがすでに有身謬見なのである。
 もちろん、「鋭い瞑想、思索を行ないたい。それゆえにビタミンが不足している場合、ビタミンを補強した方がいい」と考えるならば、それはそれでもよろしい。それはなぜかというと、そのときの身体に対するとらわれ、つまり有身謬見よりも、瞑想によって得られる結果の方が大きければ、その方が利益が大きいからである。しかし先程も述べたとおり、この現代栄養学は、わたしたちを不老不死にするわけではない。したがって、この栄養学というものは幻影であるということができよう。
 次に、わたしたちが意思の対極に置くものは何であろうかと。それは「感覚の構成」である。例えば、サマナが下向するとき、近ごろでは、食べ物で下向することはほとんどなく、ほとんどが性欲である。これは性器あるいはイメージにおいて感覚のとらわれがあり、そして、それに支配された状態から抜け出すことができず、そして、その感覚のとらわれと、意思、つまり「真理の法則では本来このように生きた方が利益である。そして来世も多くの利益を受けることができるんだ」という、そういう法則から目を離し、そして感覚にとらわれてしまう。つまり、意思がコントロールしなければならないものの第二は、感覚ということになる。
 もちろん、この感覚は性欲だけではなく、先程述べた、まあ一応今供物でみんな満足をしているが、味覚あるいは嗅覚・触覚・聴覚・視覚といったようなものの捨断を当然行なう必要がある。その捨断をしたり超越したりすることのできるわたしたちの精神活動、これが、「法則にかなった意思」なのである。
 次にわたしたちがコントロールしなければならないものは、「過去において入れたイメージ」ということになる。このイメージというものは、あらぬ方向へわたしたちを向かわせる結果となる。例えば、「美しい女性は、心が綺麗である」という謬見解や、あるいは「賢い人は善人である」という謬見解等がそれに当たろう。これらは全く、善人あるいは徳のある魂と関係がない。
 これは信徒の東大に通っているU君がわたしに昨日話した話だが、U君の友人である東大生が、外国に海水浴に行き、そこで日光浴をしすぎ、そして電車の中で死んだという話を聞いた。これはまさに、この日本の最高学府である東京大学へ行く魂も、炎熱地獄へ落ちるんだということの証明である。しかしわたしたちは、例えば頭のいい人イコール徳が高い、とか、あるいは、最高学府であれば賢いといったようなイメージを持ちやすい。しかし、これらはすべて先程述べた意思によってコントロールされなければならないのである。
 次にわたしたちがコントロールしなければならないもの、それはわたしたちの「識別」である。「識別」とは、法則にかなっていない識別のことを表わす。これは先程のイメージとも関係があるが、それをより具体的に決定を下す機関としで識別を考えるべきである。つまり、例えば、「あの人は、師であるから言っていることは正しい」、例えば「あの人はサマナであるから、法則を実践している」「したがって、彼らの言うことを実践しておけば間違いない」といった過ちである。ここで検討しなければならないことは、師であろうと正悟師であろうと、正大師であろうと、例えばそれが実際どの法則に起因しているのか、あるいは逆にどの程度悟りを開いているのかについてしっかりと吟味し、そして、自分が受け入られるもの・受け入られないものをはっきりと考え、受け入られない場合、その受け入れられない理由をしっかり述べるだけの姿勢が必要ということになる。
 この「意思」と、それから「識別」の関係についてしっかり理解することができるなら、わたしたちが人生を誤ることはない。
 そしてわたしたちが、もう一つ対処しなければならないこと、それは「経験の構成」、これは密教では「アーラヤ識」と呼ばれているわけだが、この経験の構成である。この「経験の構成」には、本来、苦・楽、善・悪といったようなものは一切存在しない。そこにはただ経験だけが存在している。しかし、わたしたちはそれに、いろいろと味つけを行なう。味つけを行なうことにより、「これは喜びである」「これは不快である」「これは楽しみである」「これは苦しみである」といったような思いを生じさせる。したがって、これらから完全に解放する実践をあなた方が、今日これからひたすら行なうならば、あなた方は確実に覚者の境地と、そして覚者の神通力を得るであろう。
 ここで一つ、考えなければならないことがある。それは、「覚者」とは何であるか、ということである。
 「覚者」とは、すべてをその状態に残し、そしてそれを超越した意思を持っている存在を表わす。では「阿羅漢」とは何か。それは、先程述べた五つの構成要素をすべてシャットアウトし、そしてシャットアウトされた段階において意思を遂行することのできる魂を表わす。つまり、覚者は、その五つの誓そのままにし----「そのままにし」とは、例えば、身体に対して、感覚に対して、イメージに対して、あるいは経験の構成に対して、識別に対して、それを単純に放棄した状態で、そして、完全なる意思、法則に従った意思の実行のできる状態を表わすのである。
 では、この「意思の実行」に対して、妨げられた状態はどういう状態であろうか。例えば心に喜びが生じる。このときわたしたちは、ウキウキとした気分になる。このときわたしたちの意思は、このウキウキした気分を抑え込んでいない状態となる。これを「興奮」と呼ぶ。また、わたしたちは例えばイメージにおいて、あるいは識別において、あることを考えたくないと考える。そうするとそれによって意識が愚鈍になり、そして眠りへ入ると。これもまた、意思によってコントロールされていない状態を表わす。そしてこれらは、わたしたちの過去の、あるいは過去世の経験の構成のけがれ、つまり別の言い方をすれば悪業の現象化であると理解するならば、このような条件下における瞑想そのものは、わたしたちに覚者の境地を与えないことが理解できるであろう。
 したがって、君たちが今日これから、五つの集まりについてしっかりと考え、そして、法則によっていかに調御するか----この「意思による調御」イコール「ヨーガ」と呼ばれるわけだけどね----ヨーガを実践するかによって君たちが、どれくらい早く最終完全解脱ができるかどうか決まるということができる。そして最終的には、わたしたちのカルマによって生じたこの五つの構成要素、つまり、身体・感覚・イメージ、そして経験の構成と識別から解放され、法則プラス意思、そして実践というこの三つのプロセスが確定するならば、確実に君たちは覚者の状態へと至ることができるはずである。つまり、この意思とは、法則の記憶修習されたもの、あるいは、法則が実際的に心において断行された状態、つまり、強力に他の心の働きを抑え込んだ状態であると考えてほしい、いいね。
 理解できるか? ----はい、では、オウム三唱しましょう。
 今日の講話の内容は、成就者たちは理解できたのかな? ----つまり、別の言い方をすれば、「自分たちは成就した」ということは、そのときは意思が、五つの蘊にある程度打ち勝った状態であると。しかし、今度は五つの蘊に負けた状態が生じたらもうそれは成就じゃない。----簡単だ、だから。
 だから最終的には心の中には、例えばツァンダリーの瞑想しか残らないし、例えばグルヨーガ・マイトレーヤの瞑想しか残らないし、大乗のツァンダリーの瞑想しか残らないし、例えばグルヨーガの瞑想しか残らないといったようなかたちになる。つまり何を言いたいのかというと、心の中で、残るものはまさに覚者の世界へ至る法則しか残らなくなる。これが、最終完全解脱の前の状態だ。
 そのときには、心の働きによってこの五つの蘊も当然変化することはできると。例えば、「無」という禅の状態があるが、この無という禅の状態は、明らかに、左の気道、つまり白いボーディチッタが完全に止滅したときに生じる現象である。このとき空間は暗くなる。まあ、タントラの経典では、赤いボーディチッタと白いボーディチッタが完全に心臓に入り、そして白・赤の現われが終わったのちに闇、つまり無の状態に入るのですが、まあわたしの経験では、左の気道が完全に通過した、つまり風の流れが静止した段階で、闇の状態に入る。で、これを禅でいっている無といってるんだと、思う。なぜならそこには何もないからだ。
 しかし、そののち、今度は右の気道の動きが始まると、よりいっそう鮮明な光の空間、太陽のまばゆい光の空間が現われる。しかしこの、「太陽の光のまばゆい空間」というのは、これは今度はパイロット・ババが言ってた、エンライトメント、解脱であると言っているが、これもまた一段階にすぎない。つまり、何を言いたいのかというと、インドの成就者たちが、本来最終完全解脱をすると得るはずの神通力が得られないのは、そのステージへ到達していないからだ。しかしこれもまだ途上である。
 この次に、自性と三つのグナが立ち現われるが、この三つのグナと自性、これを消すことは今のわたしではまだできない。これはまあ間もなく、消えるだろうが。その段階において、意思とそれから五つの構成要素の関係は、徐々に徐々にバランスが逆転してくる。----そしてこの三つのグナが完全に撤退した段階、これが、おそらく一度経験がある最終解脱ではないか、と思う。
 そして、それが自由にというか、いかなるエンパワーメントを含めて、ナーディーのけがれを含めてそうだが、それを行なったとしても、変化の全くない状態が、最終完全解脱ではないかと思う。この段階で、あらゆる聖者は、必ず隔離の状態、つまり、ね、人々から離れる状態をつくるわけだが、わたしもそうしなければならないのかどうかは、これはシヴァ大神およびすべての真理勝者方、タントラ・ヴァジラヤーナの神々の祝福によって決まるだろうと思っている。
 したがって、まだその状態を経験していない弟子たちは、その状態を早く経験し、そして先程言った五つの構成要素と意思の関係についてしっかりと理解を深めるようにしなさい。いいね。
(一同)はい。
(尊師)そしてその得た経験こそ、君たちにとって今生だけではなく、来世だけではなく、未来際において、あるいは久遠の世界において利益を与えるんだと考えなさい。いいね。