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◆93/8/23 第二サティアン
すべては心の働きである

 このサムサーラは、わたしたちがどのように見るかによって、全く別のものに見える。
 実は昨日、TとそれからAが下向した。もともと彼らは、同じ会社に勤め、そして二人は出家したと。わたしは二人の関係については、愛著を根本とした強烈な嫌悪が生じていると、そういう話をした。そして、TがAを誘うかたちで下向となった。もちろん、始めに手を出したのはAだそうだ。
 ----今日のこの講話は、ゴシップの話をするのではなく、その裏に潜む法則の真実というものを君たちに理解していただきたいと思い、まずこの話から入りたいと思う。
 実はこのTの結果については、もう以前からヤソーダラーや、あるいはマンジュシュリー、Gといった弟子たちには話をしていた。この「話をした」というのはわざわざ話をしたのではなく、たまたま、その現象が起きたときそのそばにいた弟子という意味において話をしていた。
 まずTが行なったのは何かというと、嫌悪----権力を背景とした嫌悪であった。これは、まず始めにNに集中した。このときには----、Tの二人が協力するかたちで徹底的にNを叩いた。わたしは、「いよいよ始まったな」という思いがそこに生じた。そして、「もうこれで、Tとは、しばらく法則の話はできないな」と。そこから、わたしはTとは、もう何カ月にも及ぶが、一切法則の話をしていない。なぜならば、もともとわたしの弟子というものは、四つの偉大なる心の覚醒、つまり四無量心を土台として生きなければならないからである。そしてわたしは、このときにこのような話をした。
「Nが、二人の嫌悪によって結果が出たら、次は他の標的に移行するよ」と。----これが権力を土台とした嫌悪の結果である。
 次は、t対Tの対決となったと。そして、Tが勝ったと。結論から言うならば、ここで「勝った」というのは、要するにそれだけ嫌悪が強かったということである。
 その前に、嫌悪の正体を明かさなければならない。嫌悪の正体とは何かというと、まさに自我意識なのである。つまり、「これは我である」「これはわたしの感情である」「わたしの考えはこうである」「したがって、他のものはすべて否定できる」と。そして最終的な結論は、tがそういういろいろなストレスに耐えられなく、要するに、「編集にあった車を私用として使った」と。それを、キーを取り上げるかたちで決着がついた。つまりtの嫌悪における負けである。これはtの方が嫌悪が弱いことを表わしている。
 そして、今回下向に際して、Tは、「私用として車を使ってはいけない」と他に言いながら、自分が最終的に私用として富士まで使っていると。嫌悪とは先程言ったとおり、自我意識の最も最悪のものである。したがって、「自分はいいが他人はいけない」という発想のもとに立つ。結果はそのとおりとなったと。
 そして彼が、彼女が落ちるとき、Aに対して「脱獄しませんか?」とか、「脱獄しましょう」という言葉を使っている。つまり、嫌悪という心の働きが周りを捨断する結果となり、そして、オウム真理教の中が脱獄の対象、つまり牢獄に見えたということになる。これもまさに、心の働きそのままである。
 ここで一つ検討しなければならないことは、じゃなぜ彼女が最終的には脱獄″しなければならなかったのかと。それは、Tがエネルギーを降り注ぎ、嫌悪しても破れない壁があったからである。それはKである。つまり、彼女が下向する直前、彼女の意志は、Kが帰るまでに、ここの空間から脱獄したい″と考えたと。これは当然、その前に破戒し、そして心の中に、Aと二人の空間を作りたい、形成したいという感情があったから、その牢獄の番人としてKが見えたに違いない。
 彼女は、数ヵ月前までは、Aに対して「わたしは、彼を嫌悪しています」とわたしに話していた。しかし、数回の力ずくの抱擁が彼女の心を変えたみたいだ。---- つまり、何を言いたいのか。すべては心の働きによって、この修行の空間は天界の空間へと変わるか、あるいは地獄へと変わるか、ということである。彼女がもともとオウム真理教に入信した動機の一つは、会社の関係にあったと。社内において彼女は、上司との関係・その他について、まさに「会社は牢獄″である」という表現を使っていた。つまり、心の本質----彼女が成就するまでは、謙虚に修行し続け、黙々とカルマを落としてもらっていたと。ところが、「正師」というタイトルを得た瞬間、抑えるものがなくなったと。それと同時に、徐々に徐々に潜在的にあった自我がまた増大し、そして今回の現象が起きた、と考えるべきである。
 これらの現象について、わたしは、「いたしかたない」と考えている。ではなぜ「いたしかたない」なのかと。つまり、ポイントは三つあったわけだね、一つはNのこと、一つはtとの対決。わたしはそのたんびに「カルマは必ず返るよ」という話をした。特に、この教団のように真理を背景とした場合、そのカルマの返りは早く、しかも結果は悲惨なものとなる。それは、しかしわたしが作り出した空間だからこそ、今生早い期間に結果が出るのである。一般の場合、これらの心の働きは、蓄えられる、つまり、カルマの蓄積が生じる。そして、その蓄積の蘊、つまり集まりの最終的な段階である嫌悪の扉・地獄へと入ったり、あるいは無智の扉・動物の世界へと入ったり、あるいは貪りの扉・低級霊域へと入ったりするのである。
 したがって、仏教においては「変容する」ことを勧める。変容とは何か。例えば、わたしに言わせるとKは、Tにとって最も良き友ではなかったのかと考える。なぜならば自分のけがれた状態に対して、それをブロックする、つまり壁となるだけの力があったからである。ところがそのような法友が獄卒に見えてしまうと。
 わたしは、この半年ぐらい、『真理』に全く目を通していない。それは、あのような心の働きで作った本というものは、どうせ、内容はたかが知れてると。しかも、信徒のレベルにおいては利益があるかもしれないが、まあ、読むだけ害だと。それは例えば、心の働きというものは、言葉の一字一句にその心の働きが乗っかるからである。そういう害するものは、見ない・開かない・捨断すると。
 ----自己の権力のためにワークをした場合、それは全く自分の功徳にならない。全くグルは喜ばないし、神々は喜ばない。そしてその結果、前生と同じように、悪いカルマによって二人はまたくっつき、落ちなきゃなんない。そしてその結果として、しばらくは愛著が優位だからいいが、数ヵ月もしないうちに強烈な嫌悪が生じ、そして苦しまなければならない。これが、カルマの法則である。
 では、このような状況に陥っている弟子は、どのようにしたら抜けられるのかということについて話す必要がある。そのためには、三つの瞑想を行なうことにより、そこから解放される。まず第一は、すべての現象には実体がないということである。つまり、それは単なる原因・条件・結果の道しか存在しないわけだから、そのもし原因を変容することができるならば、例えば今破戒した弟子がいたとして、「この破戒によってわたしは一つ成長さしていただいたんだ」と。「したがって、破戒の相手に感謝しよう」と。そして、「破戒の相手が修行が進み、早く形状界の世界、ブッダの世界へと生まれ変わることを思念しょう」と考えるなら、その破戒そのもののカルマというものは、半分、四分の一、あるいは思念の力によってはゼロになるはずである。もちろん、そういうことを知っていてわざと破戒するとするならば、それは全く効果がないことだが。
 あるいは結果について。例えば、破戒破壊カルマに入れられると。「よし、わたしは破戒破壊カルマに入れられた」と。「これは願ってもないチャンスである」と。「さあ、これから徹底的に極厳修行を行なおう」と。「そして、修行に入る前の煩悩、これを克服するだけではなく、破戒する前の煩悩までこの期間に一気に浄化してしまえ」と考えるなら、この破戒というものは、その魂にとって大きな利益を与えることとなる。
 ところが、一般的には破戒を行なう場合、すでに心の形成の段階というものは確実に悪業の方向へ向かっている。例えば先程述べたTの例がそれである。まず、権力から徐々に落ち、そしてその権力の志向から嫌悪が増大し、最終的にはこの空間そのものが地獄へと見えるようになったと。その間には、半年ぐらいの時間はあるはずである。
 では、わたし自体全くアドバイスしなかったのかというとそうではない。「嫌悪が強いから、四つの無量心の瞑想をしなさい」というアドバイスはしてあったが、おそらく、先程述べたとおり、もう監視する者がいない、つまり上司がいなくなった段階で、彼女のカルマというものは完全に悪い方向へ解放されたのだろう。
 もう一つの方法は、例えば「自分はまだ危険だ、破戒しそうだ」と思う場合、最も自分の苦手な相手を観想し、それを守護神として観る方法である。これは、「その対象がいる」、よって例えば「怖い」、あるいは「非難されるのが嫌だ」等により、自分を完全にプロテクトする道である。このような変容を行なうことにより、正しい道を自力でできない魂が、歩くことができるようになる。
 もっと崇高な道はどうかというと、実際に悦・喜・軽安・楽というプロセスを自分自身で早く体験する。例えば、まあここに入っている瞑想修行者たちがぬ瞑想が進まないのは、集中力がないからである。そして、言われた観想法を徹底的に行なわないからである。例えばわたしの場合、五月から半分ワーク半分修行に入れていただき、そしてもう今では一目数回完全な歓喜の状態に入ると。これは明らかに、プラーナ、ナーディー、そしてボーディチッタ、つまりビンドゥがコントロール下に置かれてきてる証拠である。そして当然グルとの合一の瞑想、あるいはしっかりグルを観想する者は、わたしの経験している喜びというものが経験できるはずである。それによって、現世的な喜びというものが、いかにエネルギー次元としては低いものであるか、つまり、大したことがないかが感じられ、より大きな喜びによって小さな喜びを捨断することはできるはずである。
 このような方法をとることにより、破戒から解放され、そして、この空間がアカニシタ天、超越童子天、あるいは除冷淡天・ツシタ天へと変わるはずである。そして、「自分の周りにいる魂はすべて良き法友であり、そしてそれらの法友が修行を進め、解脱することは自分の解脱よりもうれしいことだ」と感じることができるようになるはずである。そのような心の訓練、心の状態を完成することこそがわたしの弟子であり、そして未来際において、偉大な救済者として生まれ変わる因であることはいうまでもない。
 地獄を見る者は、どこへ行っても地獄を見るのである。そして来世は地獄である。天界を見る者は、どこへ行っても天界である。そして来世は天界である。ブッダの浄土を見る者は、どこにいてもブッダの浄土を見る。そして来世は、ブッダの浄土へと生まれ変わる。自己を救済者として見、そして周りをすべて救済される魂であると見る者は、どこへ行っても救済者である。そして、苦しみ多き世界へ生まれ変わり、その苦しみ多き世界の中ですべての衆生を済度する。これが、変容のヨーガの特徴である。
 ----すべては心の働きである。
 ----わたしたちは、法友T正師と、それから何度も破戒し、立ち上がることのできなかったAに対して、ここでこれから五分間、祈ろうではないか。彼らが地獄へ落ちませんように。そして彼らが、早く目覚め、そして苦しみの世界から脱却しますように。

  ホー、湖面に映る虚像のような様々な幻影に引きずら
   れ
  輸廻の大海を浮沈する生き物たち
  彼らすべてが絶村自由・絶対幸福なるマハー・ニルヴァー
   ナに入るまで
  四無量心込めてタントラ・ヴァジラヤーナの発願をい
   たします。

 わたしたちが、修行を完成する上において、特に取り除かなければならないもの、これは二つある。それは、一つは真理に対するプライドである。「真理に対するプライド」とは何かというと、自分の自我から発生したプライドが真理に打ち勝つこと。つまり、心において打ち勝つことである。これは、最も忌むべき心の働きである。なぜならば、この状態では、教えというものがちょうど蓋をされた器のように、全く入らないだけではなく、拒絶するからである。
 それからもう一つは、悪口である。なぜ悪口が最もいけないのかというと、心においては変容することができる。しかし、そして、行為においては、わたしたちはある程度律によって規定することができる。しかし、言葉というものは、わたしたちの心と関係なく、勝手に動くからである。
 では、どのようにしたら、わたしたちは最高の修行者になれるのかと。それは、通常の心の働きを完全に無視し、そして意識を働かせ、その意識のコントロール下にすべてを置く訓練をすることである。つまり、あらゆる現象に対して、「これは利益かな?」「これは不利益かな?」「これは法則にかなったものかな?」「これは法則にかなっていないものかな?」「これは、帰依の対象かな?」「これは帰依の対象ではないかな?」「この現象はカルマの法則によって、どのように説き明かすことができるだろうか」あるいは、「なぜわたしはこのような心の働きをしてるのか」あるいは「なぜわたしは、このように考えるのか」あるいは「なぜあの人はこのような行動をとったのか」等について、絶えず意識を働かせることである。これを行なうことにより、わたしたちの最も深い部分にある無智というものは取り払われ、そしてわたしたちは、完全なる覚醒へと至るのである。そのための訓練の場、それがこの地球なのである。
 さあ、弟子たちは、弟子として、しっかりと日々の修行を確定させ、そして、今日わたしの説いた内容についてよく吟味し、修行を進めてほしい、いいね。