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◆93/8/16 清流精舎
完全なる苦楽の超越----認識の固定化からの解放

 すべてのグルに帰依し奉ります。
 君たちは、「解脱」というものを考えたとき、何を連想するだろうか。単純にいうなれば、それは「放棄」であると。では、「放棄」とは何か。それは、わたしたちが過去世から培ってきたあらゆる経験の放棄である、ということができる。
 この「経験の放棄」とは何かというと、例えば例を挙げるならば、ある対象に対してある識別を有すると。例えば例を挙げるならば、Tは賢いと。しかしこの、「Tは賢い」という言葉は、わたしたちに大きな落とし穴を提供する。ではなぜ、落とし穴を提供するのかと。それは、その見方の、つまり対象に対する認識が固定化された段階で、あらゆる身・口・意の現象に対して、そのような色で見るからである。
 例えば悪い例を挙げるならば、「美人は価値があり不美人は価値がない」と考えると。これは、ここにいるサマナ諸君の共有の謬見解であろうと思う。しかし本当に、美人は価値があり不美人は価値がないのか。もちろんわたしは、この「美人は価値があり不美人は価値がない」というのは謬見解であると答える。ではそれは、なぜかと。
 もし、わたしたちが、あらゆる対象に対して認識から解放されるならば、つまり識別から解放されるならば、そのときわたしたちは完全なる苦楽を超越することとなる。では、そこで君たちはこう考えるかもしれない。識別、あるいは認識を放棄する、解放するということは、対象を全く規定しないのかという問題である。そうではない。もともと、もしこのように価値のあるもの・価値のないもの、あるいは、価値のある状態・価値のない状態というものが存在しないとするならば、それは、わたしたちに、何を実践すれば利益になり、何を実践しなければ不利益を被らないのかということを教えてくれないはずである。つまり、瞬間瞬間における認識というものは、肯定されうるが、その認識が固定化されてはいけないといっているのである。そしてもし、この認識の固定化から解放されたとき、わたしたちは最終解脱、そこにはニルヴァーナしか存在しない。
 わたしたちが修行を行なうと、白いバルド・赤いバルド・黒いバルドという三つのバルドを経験する。この三つのバルドを超したとき、わたしたちは、クリアライト、つまりコーザルに完全に没入することとなる。そしてこの白・赤・黒の達成の前に、わたしたちは、クンダリニーの覚醒から始まる多くのイリュージョン、幻影、魔法の状態を経験する。その魔法の状態に入り、そしてこの白・赤そして黒の達成へと至る。この白・赤・黒の達成というものは、だれもが経験する死のプロセスであり、また夢のプロセスであり、またサマディのプロセスであるということができる。つまりわたしたちがサマディへ到達しなくとも、もし鮮明な意識状態で自分自身のこの生きている通常の意識から夢を認識するならば、この白・赤・黒の三つの達成を通過するはずである。
 では、この白・赤・黒という三つの状態の達成、すべての魂が行なっているこの三つの達成を達成したとして、一体何が価値があるのかという問題である。
 すべての魂は、まず一般的には、認識をしない場合がほとんどである。少し強い意志力を有し、鮮明な瞑想の状態を経験する魂は、この白・赤・黒を達成すると。しかし、ここから大きな隔たりののち、多くの努力をなしたのち、わたしたちはこれらのバルドを完全に超越することができるようになる。では何をどのように超越するのかと。
 まず、「白のバルド」というのは、これは愛著のバルドである。この愛著のバルドに対して、わたしたちがもし完壁な平等心と同時に放棄の念を培っならば、それはちょうど自分の愛する者と仇なす者を絶えず観想し、そしてその愛する者と仇なす者が、善行をなすとき称賛し、悪業をなすときにしっかりと叱り救済する、というイメージを定着させる瞑想を行なうならば、この「白のバルド」は、完璧に、次の段階の「赤いバルド」へと変化する。
 この「赤いバルド」、または「太陽のバルド」は、燃え盛る欲望・煩悩である。この燃え盛る欲望・煩悩は、「希望」という薪のもとに燃える。この「希望」という薪がある限り、この燃え盛る太陽は永遠に燃え続ける。そしてわたしたちの、貪りを増大する。そしてこの「希望」があるがゆえに、「希望」の達成のときの喜びと、あるいは希望が達成できない恐怖、あるいは希望と逆の現象が起こる恐怖というものを経験する。したがってわたしたちが、もし、この「希望」という薪をくべなくなったならば、----つまり、消極的に生きるといういう意味ではなく、自分の言葉で吐いたこと、思考したこと、今思考したことを瞬間的に成就する・達成する訓練を続け、目の前にあることを確実にこなす訓練を続けるならば----この「希望」という太陽は完全に止滅する。つまりこのとき、わたしたちは「貪り」から解放されるのである。
 では、その次に現われる「黒いあらわれ」に対してはどのように対処するのかと。この「黒いあらわれ」に対しては、わたしたちは、次のように対処することにより、それを超越することができる。つまり、一切の現象に対して識別をしない、ということである。この「識別をしない」とは何かというと、例えば、Gは貪りが強いとしよう。すると、Gの声が聞こえると何となく食欲が出てくると。これは霊的に進化した魂であれば、よく「受ける」という言葉で表現される。この「受ける」という現象は、認識をしていなくても、認識をしていても、わたしたちの深い意識状態で確実に対象をとらえ、そして識別を積み上げているのである。
 したがって例えば、Gの声を聞くと、食事がものすごくおいしくなり、たくさん食べられるという現象が出てくると。しかしよく考えてみよう。これらの声に対して、反応してるのは何であろうかと。それは例えば、耳から入り、そして、それが脳へ伝達されると。そして、脳は過去の記憶、G≠ニいう、例えば過去の記憶を追いかけているにすぎないのである。つまり、Gの声そのものには実体がない、ということになる。したがって、わたしたちが過去・過去世からのそのような経験の認識を滅尽することができるならば、わたしたちは完全なかたちで、この「黒いバルド」を超越できる。そして、この黒いバルドが超越された段階で、わたしたちはすべてのものから自由になるのである。
 ではなぜ、すべてのものから自由になるといえるのだろうか。それは、今まで経験したその経験のヴィジョンが現われたとしても、そのヴィジョンにおける苦楽の因というものが完全に止滅するからである。
 この高度な教えについて、この中にいる修行者の中の一部が理解できれば十分であると考えている。それは人間には、知性、あるいは前生からの修行者の機根というものは当然存在し、この教えがもし本当に理解できれば、速やかに完全な覚醒へと至るからである。つまり言い方を変えるならば、理解できなくてもよろしいと。ではなぜわたしがこの法則を説いたかというと、この法則の少しでも理解できれば、小さな悟りへと到達するからである。そして、小さな悟りの積み上げが、今日のこの講話の全体を理解する叡智を君たちに与えてくれることになる。
 次に、タントラの瞑想について少し話をしよう。例えば、カーラチァクラの場合、顔が四つ、そして例えば手は二十四本といったかたちの瞑想となると。なぜ、顔が四つなんだと。なぜ手が二十四本なんだという疑問が生じると。これは、タントラのブッダの状態が、人間のそれぞれの特性の昇華された形、つまり叡智の集合体であることを表わしてると認識するならば、その意味合いがよく理解できる。
 例えば、平和の顔、あるいはサマディの顔、あるいは怒りの顔、あるいは愛著の顔といったような四つの顔の様態があるとしよう。この四つは、わたしたちそれぞれが持ち合わせているわけだが、わたしたちは、その一つとして完全な達成をなしてはいない。例えば、いかなる現象が起きようとも、絶えず平和でいられるか、というとそうではない。例えば「無智」という点を取り上げた場合、この無智に対して、もし周りで恐れるような現象が起きた場合、その無智からくる平和は簡単に崩れ去ってしまう。つまりこの無智というものは、達成されてないのである。
 では「貪り」はどうかと。これも同じである。その愛著・貪りを達成するということは、いかなる前の現象があろうともその目的を手に入れる、という意味がある。しかしわたしたちは、その前に大きな苦難が立ちはだかった場合、それを達成できない。
 では「怒り」はどうかと。自分より弱い者に対しては怒ることができる。しかし、自分より徹底的に強い場合、恐怖し、その怒りは消えてしまう。あるいは、自分の愛する者と会ったとき、つまり、えこひいきの心により怒ることはできない。したがってわたしたちは、この「怒り」というものを完全なかたちで達成していないのである。
 では、サマディの状態はどうかと。もちろんわたしたちは、なかなかサマディへ入ることはできないわけだから、これも達成してないということができる。つまりこの、例えばタントラの四つの顔というものは、完全なる無智・完全なる愛著・完全なる怒り・完全なるサマディという達成がなされているということは、覚者以外に存在しないのである。つまり、その背景には、不動の心の達成が存在しているということになる。
 この二十四本の手については何かというと、わたしたちは、手二本をやっと使い、仕事をするわけだが、例えばカーラチァクラの場合、二十四本の手先を自由に使えるという特徴がある。つまり、少なくともわたしたちより十二倍速く意識が動いているということになる。実際には十二倍ではなく、無限にわたしたちよりも覚者の意識のスピードというものは速い。それを表わしているのである。
 君たちは、瞑想・悟り・解脱というものを、ただ生起の瞑想、形のある瞑想を行ない、究竟のボーッとした瞑想を行なうことにより達成できると考えるかもしれない。しかし、実際はそうではない。つまりこの達成については、智慧の増大、プラーナのコントロール、そして、プラーナと一緒に動いている意識の浄化という三つを行なうことにより、わたしたちが偉大な生命体、つまりマハーサットヴァに到達したとき、初めてわたしたちは、覚者の入り口の一歩手前まで来たということになる。
 わたしはよく、今から十年以上前、いろいろな大乗仏典のボーディサットヴァの項目、あるいは独覚の項目、あるいは声聞の、つまり多聞の項目を----今は「多学」といってるのかな----見ながら、自分はどの段階まで到達したんだろうかというチェックを行なっていた。そしてその経典どおり最終解脱をなし、まあそののち、あまりにも多くの人に直接のエンパワーメントを行ないすぎたがために、いったん意識に濁りが生じた。で、それについては、今エネルギーを回復する段階において、過去のわたしの悟りの状態が一つ一つまた確定されてきている。そして、そのときわたしが考えたのは、やはり「智慧」というものと、それから「解脱」というものは、切っても切り離せない不可分のものであると。そして智慧が発達しない限り、そして、プラーナのコントロールができない限り達成しないんだ、と考えた。
 ではこの「智慧」の発達については、瞑想を行ない、そして日々のワークに集中することによって達成できるわけだが、「プラーナ」はどのようにしてコントロールできるんだろうか、という問題がある。
 これについては、二つのポイントがある。一つは、徹底した戒律の連守である。この徹底した戒律の遵守、特に糞・尿・精液の放出といったアパーナ気の降下、これを完全にシャットアウトできるかどうかが、一つのポイントとなる。なぜならば、わたしたちはアパーナ気・サマーナ気・プラーナ気・ウダーナ気・ヴィヤーナ気という基本的な五つの気、あと内的な三つの気、つまりイダー、ピンガラー、スシュムナー、まあララナー、ラサナー、アヴァドゥーティーというね、この三つの気道を通る風の働き、計八つの風の働きの力によって輸廻が決定されている。
 そして、いくら一生懸命功徳を積もうと思っても、下からエネルギーが漏れていたとしたら、智慧へどのようにしてプラーナが還元されるんだろうか。スヴァディスターナ・チャクラに蓄えられたボーディチッタが上昇し、わたしたちの大脳を振動させ、そして養分とならない限り、どのように智慧が発達するのだろうかと。こう考えたならば、ボーディサットヴァとして生きる上において、ボーディチッタを漏らすということは、最も恐怖である。もし、自分自身で漏れる、漏らす、とするならば、それはちょん切ったほうがいい。それぐらいの強い決意をもって捨断すべきだ。
 そして、最終的には、捨断ではなく、全く対象に対して認識、----例えば異性としての認識・性的な欲望の生起というものが止滅する。しかし、この性的欲望の止滅が生じたとしても、それは「解脱」ではない。それはある段階の悟りであるし、また修行をどんどん進めることになるから、それはある段階の修行の状態であって、最終段階でないことを、わたしはここで付け加えておきたい。
 わたし自体最終解脱する前、完全に異性というものに対して、----というより、この現象の世界すべてが「別世界」という印象を、そうだね、約二年半持ち続けた。それはどういうことかというと、例えば異性がいたとしても、それを異性と認識できない。認識できないというのは、欲望の対象としてのデータが全く出てこない状態になった。そのときわたしは、よく肉体から抜け出し、いろいろな経験をしたが、だよ、わたしはそのときよくこう考えた。「なんてわたしは、霊的経験の少ない魂なんだろう」と。というのは日本には、多くの『クンダリニー・ヨーガ』などの嘘の本が出回っていたから、「わたしはクンダリニーも覚醒させてるし、そして、化身によっていろいろな世界も経験したし、しかし全く、例えば天眼、つまり透視をする力だとか、あるいは他人の心を目で見る力だとか、つかないと。過去世も思い出せないと。わたしはなんて徳のない魂だろう」と考えたものである。この状態が、先程述べた、最終解脱する二年半前の状態である。
 つまり、もうすでにこの状態において、煩悩から完壁に切り離されていた、ということができる。
 そして、そののちの激しいムドラー、あるいはサマディの瞑想によって、まあ俗にいう仏典の経験は終わったと。しかし、今わたしはまた、修行に入りながら、次の段階を目指そうとしている。それは、完璧な最終完全解脱である。このためには、プラーナをもう一度完全に復活させ、そして今まで受けたいろいろなけがれ、これを止滅する悟りの瞑想を深めなければならないと考えている。
 ここで一つ問題がある。「自己の修行を進める」ということは素晴らしいことである。そしてもし、わたしだけが特別な魂であるとするならば、それでいいと思う。しかしそうではなく、例えば今現世へ存在するすべての魂が、その心に本当に真理勝者に至る其我というものを有するとするならば、放っておくわけにはいかない。すべての魂をポワする必要があるのである。なぜならば、ここでせっかく縁のある、七十億とも八十億ともいわれるこの地上の魂を、もしわたしたちが放棄するとするならば、その衆生は、これからこのカルパが終わるまで、三つの悪趣を流転し続けなければならないからである。そのためには、ヴァジラヤーナの教え、マハーヤーナの教え、ヒナヤーナの教え、そしてタントラの教え、テーラヴァーダの教えを駆使し、救済する必要がある。
 この偉大な、わたしの大願、これが達成できるかどうかは、わたしのプラーナ、心、そして智慧、そして弟子たちがそこへ到達しようとする努力と、それから日々の救済活動に対する思念ですべてが決まるんだ、ということを認識してほしい。
 最後に。----「病」「死」というものは、わたしたちにカルマを解放するきっかけを与えてくれる。例えば、十年間長く生きたとしても、その十年間の間にただ単に立案を積み続けるならば、その十年間の生命というものは、その魂にとって最も忌むべき十年の生存ということになるはずである。逆に、わたしたちが病に遭ったり、あるいは死に還ったりするとき、それをカルマの解放と見、そして解脱のきっかけと見るならば、それは素晴らしい贈り物を受けたことになるはずである。したがって君たちの思考の中にある現世的思考の超越、これを、今日のね、君たちの修行の大きな目標としてもらいたいと思う。いいね。