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◆88/9/14 富士山総本部
六道の転生のプロセス
今日はね、少し六道のことについて、もう少し具体的に話そうかと考えている。というのは、わたしの六道の転生のプロセスが、まだちょっと曖昧になっているんだね。それをあなた方にもっと正確に話したいと考えている。
では、それはどうしてそういうことが言えるかというと、わたしの瞑想体験、そして、今ここにいる方々が、ある人は地獄のカルマを持っていると。ある人は餅鬼のカルマを持っていると。そして、ある人は動物のカルマを持っていると。ある人は人間のカルマを持っていると。ある人は阿修羅のカルマを持っていると。そしてある人は天界のカルマを持っていると。で、この六つの世界のカルマを持っているわけだけども、これだけ人が集まるとね、その、だいたい分類分けがはっきりとしてくるわけだ。で、特に今まで曖昧だった、動物、それから人間、天界、ね、この三つ、これをよりはっきりしたかたちで、あなた方に表わすことができるので、それについて話したいと考えます。
まず、いいか。魂が地獄に転生するとき、その背景となるものは嫌悪、そして嫌悪からくる逃避だね。例えば、苦悩があると、そこから逃げ出したいと思って、AからBに移行したとき、そのBが地獄であると。だから、中間状態に入ったとき、例えば、ある人がものすごい、ね、その、寒さに襲われると。その寒さを嫌悪して、そこから逃げ出したいと考えて、ね、逃げ出そうとするとき、心はそこにね、あったかい空間を作るんだね。あったかいヴィジョンの世界を作り上げるわけだ。そして、そこに飛び込んだら、そこが熱地獄であると。あるいは逆に、ものすごく熱いと。そうすると、心は、ね、冷たい場所に逃れようとするわけだ。で、逃れた先が寒冷地獄であるというわけだ。
では麻原、ね、なぜ地獄の住人はそういう世界に生まれ変わるのかと。よく考えてごらん。地獄というものは、極端な世界だよね。つまり、極端な嫌悪、それから極端な苦悩からの逃避、ね、これが背景となって、ね、わたしたちを地獄に導くわけだ。だとしたならば、例えば、極端な嫌悪はあるけども、その嫌悪から逃げない、強い心の状態が働いて、働き出したら、わたしたちは地獄から解放されることとなると。あるいは、極端な嫌悪というものを持たなければ、わたしたちは地獄から解放されることとなると。そして、極端な嫌悪、ね、これを取り除く技術がジュニアーナ・ヨーガの道、あるいはマハームドラーであると、ね。
例えば、同じ強さの苦痛をA、B、Cという三人の人に与えたとして、三人の対応の仕方はそれぞれ違う。その苦痛から逃れたいと考えた人は、必ず地獄に落ちよう、ね。あるいは、その苦痛は逃れたいけどもカルマであると考えてる人は、地獄に落ちないですむ。あるいは、ね、それは苦悩だと、そしてそれは自己のなしたカルマの結果であると考えてる人は、地獄に落ちないと。
実はね、わたしの小さいときからの特徴は、例えばまあ、家は畳屋さんをやっていたわけだけども、親に叱られてもね、それは、わたしは逃げない。逃げないと、定規といってね、長さ一・二、三メーターくらいかな----の角棒みたいなのがあって、それでバシッとやられるわけだね。でも、逃けないと。あるいは、母親が追いかけてきて、ほうきを持って追いかけてくるんだけど、それも逃げないと。で、ほうきの柄で同じようにバシッとやっても逃げない。で、今考えてみると、なぜ逃げなかったのか、それはやはり前生からの修行者だったからだね。そこで苦悩を受けること、それは----いいか、わたしたちのカルマによって生起したわけだから受けなければならない。
そしてね、中間状態というのは、いろんな変化が生じるからいいけどだよ、いったん現象界に降りてきたならば、そこで苦悩を回避することは難しい。例えば、地獄の世界に落っこったならば、その地獄の世界から脱却するということは大変難しいということになるね。そこをあなた方は考えなければならない。だから、心の働きを強く持とう。強く待ったならば、あなた方は六道の地獄から解放できますよと。
じゃあ次に、餓鬼はどうだ。これは食い物のヴィジョンでもそうだし、あるいは他のことでもそうだけど、とにかく独占欲の強い人ね。貪りの強い人の生まれ変わる世界。そこで登場するのは、あなた方の最も欲しいもの、貪りの対象が登場する。それはお金だったり、あるいは物質だったり、あるいは食物だったりする。中心は食物だね。そして、その貪りの世界に、ね、俺の好きなものがたくさんあると、欲しいと思って、それを得ようとした瞬間に餓鬼の世界に生まれ変わる。だから、今あなた方がなしている離欲の行というものは、欲望から離れる、ね、貪りから離れる行というものは、離貪の行ね、というものは、大変素晴らしい。いいね。
では、三番目の動物はどうだと。これはね、まあだいたい、この中の何割かの人は、わたしがこの話をすれば、ああ、麻原はそのデータを集めるために、わたしたちに体験談を聞いていたんだなというのがわかるはずだ。楽しみ、この楽しみを、あなた方が真実でないものに対して楽しみを求めるとき、それは動物界に生まれ変わるきっかけとなる。例えば、ね、サッカーボールを蹴って遊ぶと、ここに一人の少年がいたとしよう。これとだよ、例えば、ね、棒を投げてもらって、それをくわえて持って帰ってきて、また棒を投げてもらって、持って帰ってくる仕草と、あるいは、ね、ボールがあって、そのボールを、ね、両足で、前足でね----まあ、手と言ってもいいかもしれない----玉を取っている猫の状態とどこが違うだろうかと。どうだ。動物界に生まれ変わる要因というものは、真理というものを知らないで、真理でないものに喜びを求め、そしてそれにふけると。そこが要因となる。いいか。
では真理とは何かと。真理でないものは何かと。真理というものは、心を成熟させるもの、霊性を向上させるもの、ね、この前者は特に素晴らしい真理である。後者は、わたしたちにいろんな世界を経験させてくれるために必要な真理の条件である。これがわたしたちの無智を解放する二つの条件だね。心の成熟と、それから霊性の向上。霊性の向上があったとしても、わたしたちを幸福にはしてくれない。心を成熟させようとする場合、霊性の向上は不可欠である。つまり、この霊性の向上と、それから心の成熟、二つが合わさって初めて、わたしたちは、ね、真の意味で真理を理解することができるわけだね。いいか。
そして、ここは大切なところだね、真理でないものに心を集中していると、そこでいらぬ経験をすると。いらぬ経験をすることによって、そこで、ね、無智が生じると、ね。「ああ、あのときあれをやって楽しかったな」「このときこれをやって楽しかったな」ね。で、動物が生まれ変わるのは、セクシャリティ、ね、セックス的な楽しみも含めて、真理でないものの喜びがわっと出てくる。そこへ飛び込んで転生した先が動物であると。だから、もしあなた方が真理でないものの喜びを否定し続けていくなら、あるいは真理でない喜びに対して頓着しない状態で進んでいくならば、あるいは、ね、真理でないものを解析しきって、バラバラに分解して、ね、止滅させるならば、あなた方が動物に生まれ変わることはあり得ない。
つまり、嫌悪、ね、それから逃避、この二つが地獄の条件であるとわたしは言っている。それから、貪り、ね。他に分け与えようとしない心、これが餓鬼の条件であるとわたしは言っている。心を成熟させない、霊性を向上させない、そして意味のないものに心を集中し、そこに喜びを見いだし、幻影を作り、ね、無智の状態を増大させる。これが動物に生まれ変わる条件であると、わたしは言っている、ね。
君たちは、如来というものをどのように考えるだろうか。わたしは今生で、ね、マイトレーヤ如来であるということは言わないだろう。なぜならば、今生が最後の生ではないからだ。しかし、もしわたしが如来だとしたならば、あなた方がまともに修行し、霊性を向上させ、心を成熟させていけばいくほどだ、あなた方のレベルに合った法というものを、ね、あなた方の疑問として残っているものをね、断滅する、完全にバラバラに分解してしまう法というものを展開できるはずだ。しかもそれは、わたしの心の内側に生じたものであって、それは経典に載っているものではない。
だから、例えば、今日話していること、これは経典に載っているものではない。例えば、『チベット死者の書』を見ても、動物界に生まれ変わる要因というものは載っていないはずだ。地獄界に生まれ変わる要因というものも載っていないはずだ。餓鬼道に生まれ変わる要因というものも載っていないはずだ。ここまで詳しくはね。それはわたしが未来において、無上の悟りを開き、そして解脱をし、すべての魂を絶対的な自由・幸福・歓喜の世界に導かなければならない使命というものがあるから。
そして、わたしは第四天界である兜率天で、このような説法をしてきた。そして、兜率天の関係の者たちの一部が今降りて、ここで修行している。その者たちにも、同じようにこのような説法をしている。そして、今生でわたしの弟子となり、一生懸命修行し、無上の悟り、解脱をしようとしている者、この者たちにも、今このように説法している。機根というものは、前生からのものだ。だから例えば、わたしの話していることすべてが理解できない人もいるかもしれない。それは一部でもよろしい。あるいは、半分でもよろしい。それは、今あなた方の心の成熟の度合い、あるいは霊性の、ね、高さの度合いによって、あなた方は理解するだろう。そして、あなた方が全力で修行すればするほど、あなた方はわたしの言っていることの意味合いというものを理解できるようになるだろう。
さあ、次に行こうか。
そして、人間は情だ、ね。情は素晴らしい、人情というものは素晴らしい。しかし、ね、夏目漱石の『草枕』ではないけども、「情に竿させば流される」と。これは何を意味しているかというと、情というものをあまりにも強く持った場合、偏ったものの見方をし、執着を生じ、それによってわたしたちを苦悩の世界に引きずり込むということを表わしている。
仏教の本質というものは、真理の本質というものは、わたしたちを苦悩から解放することが本質だから、偏った情を持ってはいけない。では、何を持てばいいんだと言ったら、愛だね、これは。すべての現象をありのままに見つめ、そこで苦悩している人達を苦悩から解放させてあげようと、心を成熟させようと、霊性を向上させようと、そうする気持ち、これが愛だ。そして、その愛を持つならば、愛の実践をするならば、偏った情というものが止滅していく。
そして、その愛の力というものは、偏った情によって、ね、例えば身内を愛する、例えば弟子を愛する、例えば友人を愛する、ね ----この愛するというのは愛情のことだ----よりも、より一層深い力を持つ。強い力を持つ。それはなぜかというと、愛情では本当の意味でその人達のために死ぬことはできないけども、愛というものは、必要であれば平気で命を投げ出せる。なぜならば、そこにエゴというものが存在していないからだ。だから、相手を打つんだね。はい、第四の条件、人間界。これは情である。執着である、そう考えなさい。
そして、第五の条件、阿修羅の世界。これは、闘争本能。闘争本能というのは何かというと、相手の力は認めていると。しかし、その人に負けたくないと。その人を蹴落としてでも、その人の立場に立ちたいと。そのとき心は、自己の霊性を向上させる、あるいは心を成熟させる方向には向かわない。では一体どういう方向に向かうのか。本来、心を成熟させたり、あるいは自己の霊性を向上させる方向に向かう心の働きが、相手を蹴落とす方向、相手を批判する方向、相手を陥れる方向へと心は向かっている。
では、もしだ、この魂が自己を向上させる、自己の霊性を向上させる、自己の心を成熟させる方向に向かったならば、どういう結果がね、招かれるだろうか。あるいは、相手を蹴落とす、相手を陥れる、相手を批判する方向に向かったならば、どういう結果を招くだろう。前者は、ね、相手からの憎しみを受けることもない。その上にこつこつと努力をしていたら、絶え間なく努力をしていたら、いつの日か相手と同じレベル、あるいは相手を超越する立場に至るだろう。あるいは能力を得るだろう。しかし、後者はね、心を殺伐とさせ、そして相手から憎まれ、ね、そして仮に相手を陥れることができたとしても、そのカルマによっていずれ自分に対してね、その陥れた人に対して闘争心を持っている者に陥れられるという結果が出てこよう。では、この阿修羅のカルマというものは、ね、その阿修羅を幸福にするか。それは、しないね。
じゃあ、なぜ阿修羅は人間界より上なんだということになる。よく考えてごらん。まず、高いものは高いものとして認めることができると。そして、相手を陥れるだけの知性を備えていると。相手を批判するだけの知性を備えている。人間にそれはないよね。なぜないかというと、人間の中心は情だから。ね、情というものは偏ったものの見方をしているよね。つまり、力のない者をあると見たり、あるいは綺麗でない者を綺麗と見たり、ね、あるいは、才能のない者を才能があると見る。それが情だ。ところが、阿修羅はそうではない。相手は例えば美人である、才能があると、ね、力があると見ているわけだ。つまり、ある程度人間に比べて正しくものを見ることができていると。ただ、自己に対して正しくものが見れない状態にある。だから、阿修羅の世界の方が上なんだ。
そして、最後の天界は、この肉体を離れた後、強烈なエクスタシーに襲われる。体全体がね、今、独房組がやっているツァンダリーのような状態が起きてくると。初めは体が熱くなり、その後体がしびれ、そして、気持ちいい状態が登場するわけだね。で、それを、ああ、気持ちいいなと思った瞬間、天界だ。その度合いによって、そのレベルによって、ある者は最高位の第六天界に生まれ変わると。ある者は最低位の第一天界へ生まれ変わる。しかし、その条件は肉体的な悦である、ね。あるいは、レベルが少し高くなれば喜である。これが天界への条件だ。
そうするとだ、修行中に悦、あるいは喜に入る者は、来世天界へ生まれ変わることが保証されたと言えよう。あるいは、闘争本能のむき出しになって出てきている者は、阿修羅の世界へ生まれ変わることが保証されたと言えよう。あるいは、情だけがただひたすら出てくる者は、人間界に生まれ変わることが保証されたと言えよう。ただ、楽しみだけを追い求める者は、動物界へ生まれ変わることが保証されたと言えよう。
じゃあ、この動物界について、もう少し詳しく言うならば、例えば水の遊び、ね、これが出てくるものは、まず、海や川の生き物に生まれ変わると考えなさい。あるいは、陸の遊び、これが登場する者は、ね、陸の動物に生まれ変わると考えたらよろしい。ね。そして、例えば、水の遊びの場合、ね、戯れる、水の中で戯れるという場合は、そういう性質を持った生き物に生まれ変わると。ただ泳ぐと、これはそういう性質を持ったものに生まれ変わると。陸の遊びも同じだ。自己の欲望のね、楽しみを求める欲望の本質を見極めるならば、あなた方がどういう動物の世界に生まれ変わるか理解できよう。
あるいは単に貪り、ね、食い物、金、あるいは物に対してものすごい執着がどんどん出てきたならば、そのレベルに応じて餓鬼の世界に生まれ変わると考えなさい。あるいは、今のこの、苦しい苦しい苦しい修行から、ね、強く強く逃避したいと、あるいは、ね、修行しながらものすごく憎しみがわいてくると。この人は間違いなく地獄へ生まれ変わると考えたらよろしい。そしてその、今のあなた方の修行をして、それが一つなくなる、あるいは二つなくなる、あるいは三つなくなっていったならば、その世界に生まれ変わる条件をあなた方が放棄したと、乗り越えたと考えてよろしい。
それから、人間というものは、六つの世界の条件を絶えず持っているわけだから、その中の最も強いものが出ているわけだから、ね、例えば地獄のカルマが出て、次は天界のカルマが出て、次は阿修羅のカルマが出て、次は動物のカルマが出て、次は人間のカルマが出て、次は餓鬼のカルマが出るというプロセスをたどるかもしれない。あるいは、餓鬼のカルマが出て、動物のカルマが出て、天界のカルマが出て、阿修羅のカルマが出て、人間のカルマが出て、地獄のカルマが出てというプロセスをたどるかもしれない。それは、あなた方の心がどの程度止滅されたかで決まる。いいね。
そして、心が最も成熟した者、あるいは、ね、グルに対して徹底的に帰依した者は来世またわたしと会い、このような法を聴き、歓喜し、浄化し、よりいっそうの心の成熟を遂げるだろう。その道を選ぶことができるかどうかは、すべてはあなた方次第だ。
はい、では三つだけ質問を取って終わりにしよう。大きな声で。
ないか。じゃあ、大師に聞いてみようか、自分は何の世界に生まれ変わるか、ちょっとね。参考に。じゃあ、まずアニャー夕・ケイマ、それから、タングリニーのM大師、B大師、それからラージャ・ヨーガのA大師、それからL大師、R大師、これだけだよな、今来ているのは。他にいたっけ。
(弟子)いません。
(尊師)いないね。
(弟子)はい。それだけです。
(尊師)じゃあ、その順番で。自分の要素の何が一番強いか。ケイマ大師から。
(ケイマ大師)……結果、得られたんですけども、心の、心が下降傾向に向かうと楽しみを求めるようになりますから、これは動物界に転生する因だと思います。それから、執着ですね、執着が出てくると、……
(尊師)あと、体の調子が……だね。
(ケイマ大師)そうですね。
(尊師)それは天界だね。
(ケイマ大師答える)
(尊師)じゃあ、だいたい四つか。下から、上から。阿修羅か。……じゃあ、三つだね。要素はね。ところが無智のカルマが、天界か動物か二者択一問題みたいなもんだな、これは。Mは。
(M大師)はい。地獄のカルマの----修行をやっていまして、腰が特に痛いということと、……がよく上がるということと。地獄のカルマだなあということを一番……
(尊師)地獄のカルマか。
(M大師)はい。二番目が阿修羅のカルマで、喉が痛いというのと、あと耳のここらへんが腫れ出して、……この二つが今一番出ているみたいです。
(尊師)阿修羅と。そうだね、例えば、火のイニシエーションなんかのときに、ケイマ大師が何かいうと、「それは、しかし、こうでしょう」というときは阿修羅だな、やっぱりな。その二つ。火元素だね。じゃあ、次はBどうだ。
(B大師答える)
(尊師)じゃあ、やっぱり、M大師と似ているんだね、熱元素優位という感じだね。次はAだっけ。
(A大師答える)
(尊師)じゃあ、動物、人間、阿修羅という三つの要素だな。次はRか。
(R大師答える)
(尊師)じゃあ、Rは、いっぺん動物に転生している、プロセスだな、これはな。
(R大師答える)
(尊師)あと人間か。
(R大師答える)
(尊師)動物と。
Lはどうだ。
(L大師)わたしは、動物です。
(尊師)動物か。
(L大師)ええ。あの、無智で。
(尊師)で、もとはというと、ラージャ・ヨーガは動物という規定もできるような気がするけども。うーん、そうか。
しかし、オウムの大師はすごいよね、普通だとプライドがあるから、いや、自分は気持ちがいいから天界だと言うけども、まあ、例えば、Mが気持ち良くなったりとか、Lが気持ち良くなったりとか聞いたこともあるわけだけどね。この立位礼拝中に。それもわざわざ動物だの、その、言っているあたりが、大したものだとわたしは思うね。まあ、これはプライドが止滅してきている証拠ではないかと。
で、みんな、わたしが何を言いたいかというと、ね、大師ですら生きている以上、そして救済をする以上、あなた方と接し、いろんな要素を取り入れ、消化し、ね、止滅と生起と両方を繰り返すわけだね。生起というのは苦悩の生起と。だから、あなた方が今、修行中にいろんな思いを持つ。苦しみを持つことは、別に、ね、特別なことではない。あなた方が落ちこぼれているわけではないということを認識させるために、今大師方に聞いたわけだ、わたしは。そして、わたしの要望に答えてくれた大師方は、いい要素をあまり言わないで、あなた方と同じように、ね、要素として残っている自分の欠点の部分を出してくれた。これは、最高の素晴らしい答えではなかったかと思います。
さあ、ね、また今日からよりいっそう励み、六道のカルマを止滅しよう。いいね。全力でやれよ。
(弟子たち)はい。
よし、じゃあ、挨拶しよう。
よし、では、全力で修行しましょう。はい、頑張って。ご苦労さまでした。