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◆92/8/10 札幌支部
堂々と積極的に真理を実践せよ----札幌支部の信徒へ

 わたしたちが、修行を行なわなければならない理由は、本当の意味での幸福を勝ち取る、ということがその目的である。「本当の意味での幸福」とは、消極的意味合いをなすならば、それは「不幸がない」ということであり、積極的意味合いをとらえるならば、それは「壊れない幸福を得る」ということでもある。これらの、消極的意味合い、および積極的意味合いの二つの点から検討した場合、消極的意味合いはヒナヤーナの修行であり、積極的意味合いはマハーヤーナの修行である、ということができる。そしてこれらのプロセスについての説明、それをここで設計図として例えるならば、ヒナヤーナの船の造り方およびマハーヤーナの船の造り方については、たくさんの教学システムや、あるいはいろいろな出版されている本によってその概要が理解できるはずである。しかしこの札幌支部道場のエネルギー、データを見ると、まだほとんどの信徒がその全体の概要をとらえているわけではない。確かに君たちは現実の生活において、時間に追われ忙しいかもしれない。しかし君たちは死ぬのだ、ということをまず考えなければならない。そしてその死の前に一体何が有効で、何が無効なのかを検討する必要がある。それを検討しない状態で日々を流されて生きること、果たしてこれが真理の実践者と言えるかどうか、という問題がある。
 法則の体系は限りなく広く、そして、立体的で広大であると。この広大な真理の体系の、自分自身が今何を知り、何を知らないのか、しっかり認知するかしないかは、君たちの輪廻転生にとって、そしてグルとの縁にとって、そして最も大切な、君たちの今生の幸福度、という点から考えて大切になってこよう。しかも、この真理の体系のすべてを学んだとしても、それは高々学んだにすぎず、まだ君たちのものになっているとはいえない。
 例えば例を挙げるならば、戒律の中の妄語・綺語・悪口・両舌を捨断する、という四つの言葉の戒律を検討した場合、これを、妄語・綺語・悪口・両舌を捨断するという言葉だけ理解したとしても、実際には妄語を話し、綺語を話し、悪口を話し、両舌を行なうならば、その魂は、妄語・縁語・悪口・両舌ということに対する設計図は理解していたとしても、具体的にその建設作業に入ってないということになる。同じように例えば、六つの極限の中の法施、法の布施は自己にどのような利益が与えられるのかを知ったとしても、それを実践しフィードバックしない限り、その法施の意味合いというものは理解できないことになる。例えば、札幌支部の信徒を見てて感じることは、大変真理に対して消極的である、というのがわたしの印象である。以前の信徒----もちろん以前の信徒といっても今の信徒がほとんどだけど----は少なくとも修行に対して、行に対する積極的姿勢というものがうかがわれた。しかし今は、何となくオウム真理教に属し、そしてその実践の流れに入っているつもりになっていると。しかし例えば、教団側の、いや言い方を換えればわたしの積極的アプローチ、例えばモスクワ放送を使っての一日三時間の、あなた方に対する法の布施をあなた方がどの程度聞こうと実践しているのか。あるいは聞いたことをどの程度実践しているのか、というこの二つの問いに対して、「わたしは完壁にそれをこなしています」、という人は少ないはずである。
 このモスクワ放送の放送は、月に何千万という費用と、それから人数的には十人以上のスタッフがかかりっきりでこの番組を作っている。もちろん君たちも電波に詳しい人ならある程度わかるかもしれないが、この放送は、まあせいぜいが、名古屋止まりと。東京では入りづらいと。一番入りやすいのは北海道である、ということを認識するならば、わずか百数十名のこの札幌支部に対して、わたしが慈愛によってこの放送を開始してるんだということが理解できるはずである。しかし君たちは、その慈愛に対する恩返し、つまりその法則を聞き、実践するという恩返しすらできない信徒であることを認識しなければならない。
 次に。たとえ全体の教えの体系が理解できたとしても、次はそのマニュアル、例えばこの自分自身の問題に対してどの法則を使っていいかというマニュアル、これについての検討および学習がなされてるかが問題となる。例えばヒナヤーナ、マハーヤーナ、タントラヤーナ、ヴァジラヤーナという四つの乗の中で、それぞれ相矛盾する考え方というものが存在する。その相矛盾する考え方の中で----もちろん、一つ一つのヤーナについては、一つの見解しかないわけだが、それはステージの段階等によって当然相矛盾する教えが存在し、そして例えばヴァジラヤーナやタントラヤーナについては、若干見え隠れしながらオウムの教えに浸透している。例えばそれに対して、このときには、「これはマハーヤーナの考え方が適当である」だとか、「このときにはヒナヤーナの考え方が適当である」だとか、それをしっかりと使いこなせるマニュアル----当然これは教団にそのマニュアルは存在しているわけだが----あるいは、そのマニュアルとも呼べるべき師の存在があるわけだが、それを君たちが活用しているかどうか、これは大変疑問である。
 先程も述べたとおり、教団としては、救済計画のなせるところからなそうとしている。そして例えば先程述べた、モスクワ放送については、まず札幌の信徒を教化する目的、そして、北海道の人たちを救済するべき目的で毎月数千万の金を投入しているわけである。これらの恩恵に対してどのようにしたら報いることができるのか、という問題がある。
 まずその前に、なぜモスクワ放送からこの札幌支部に対して強烈なアプローチ、あるいは北海道に対する強烈なアプローチがあったかというと、それは、北海道の一部の信徒の中で、最も積極的な人たちがい、その人たちは自分自身を顧みることなく、----以前だけどね、これは----全力で救済計画のお手伝いをしてたという事実が存在しているからである。その偉大なる善果によって、果報としてあなた方は、ラジオ放送によってオウム真理教の教えを一日数時間、三時間、聞くことができると。これに英語放送を入れるならば、一日三時間半から四時間、聞くことができるわけである。これらの大いなる功徳を、あなた方はちょうど、大量に入れたお金を水に捨て、そしてそれが溶けてしまい使いものにならないように、聞くことなく、流しているという現状がある。そしていずれこの徳が尽きたら、その放送というものは止めることになるだろう。
 これは法施の仕方について同じことがいえる、ということができる。あなた方が法施を行なうとき、後ろめたい気持ちで法施を行なうはずである。わたしがあなた方に対して、あるいは非信徒に対して話すとき、わたしは堂々と、そして自分自身の得たもの、あるいは自分自身の確信したものをぶつける。そしてその結果は、来世わたしは当然真理と巡り合い、また真理勝者の道を歩くだろうし、あなた方は、今生でその偉大なる善果を積んだ者は、----ここでいう善果とは、つまり、しっかりといかなる縁のある人に対しても救済者としての意識を持ち、そしてアプローチをし、相手が嫌がった場合、「そうか」と、自分自身が例えば来世、無智に陥り、そのときにこのような形で自分自身にアプローチしてくれる人が現われるための実践であるということを認識し、そして、アプローチをできるかどうか、したかどうか、ということになる。
 この善果は、来世あなた方に、あなた方がたとえ無智になろうとも、例えば動物界へ転生しようとも、例えば動物界へ転生した場合、偉大なるグルのペットとして飼われる、あるいは、弟子たちが拾ってきて、そこで食事を与えられ、マントラを聞かされ、説法テープを聞かされるというような、偉大なる果報に巡り合えるかもしれないし、当然、低級霊域へ転生した場合、偉大なるグルの化身、あるいは偉大なるグルの弟子の化身たちと会い、そこで法則を聞くことができるかもしれない。あるいは人間へ転生した場合、自分自身がこの現世の迷妄の喜びにとらわれてるとき、強烈なアプローチを受け、それによって救済される可能性を示唆するという結果になる。
 しかしそれらの大いなる果報の意味合いが理解できず、なんとなくこの人生を送り、そして現世の欲望に四分の三以上まみえながら、四分の一以下、なんとなく尊師が好きだからオウム真理教にいるんだと、うそぶいていると。これがまさにわたしは、君たちではないかと考えている。
 いかにそこに偉大なる法則が存在していようとも、その法則を実践しない限り、それは何の意味もなさない、ということがいえる。例えば先程も述べたモスクワからの放送、このために十数名以上の人間と、それから毎月数千万の投資、これがだれのために行なわれてるのか、そして、だれが一番恩恵を受けるに値する立場にいるのか、ということを検討した場合、あなた方が孤軍奮闘し、あるいは集団で奮闘し、そして救済計画を展開したとしても、それは恩に報いたといえるほどのものでもない、ということがいえる。それらの強い決意によって、それらの強い意志によって、あなた方が自己の人生を見つめ、そして自己の真理を見つめ、そして自己の真理の実践を認められるかどうか、それを真剣に考えるべきである。
 人は死ぬ。必ず死ぬ。絶対死ぬ。死は避けることができない。それに対して何を準備するのか、何を実践するのか、何を学ぶのか、何を修習するのか、しっかり考えなさい。いいね。