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◆92/6/1 第二サティアン
 無智と智慧----有限なカルマに対する二つのアプローチ

 人生には二つのタイプの生き方がある。その一つは「無智」を背景とした生き方であり、もう一つは、「智慧」を背景とした生き方である。なぜこのわずか二つのタイプに大別されるのかと。それはこの二つのタイプの生き方こそが、輪廻転生の今生から来世という短いタイムスパンだけではなく、より長い、永遠の結果を招くことになるからである。そしてこれはここにいる、わたしの弟子である向煩悩滅尽多学男や向煩悩滅尽多学女も、その二つに大別されることになる。
 いや、正確に言うならば、サマナに二通りのタイプがあり、その一つのタイプは向煩悩滅尽多学男であり、もう一つのタイプは、まだ非神秘力に支配されている魂ということができる。そして、今日わたしがこれから話す、このポイントさえ、もし君たちが外さなければ、君たちには必ずや今以上の幸福、今以上の安らぎ、そして今以上の自由が与えられるはずである。
 では、この二つとは何かと。それは、すべての諸現象は有限であると見るか見ないかである。この「すべての諸現象は有限である」とは、何を意味するのだろうか。わたしたちは無始の過去から輪廻転生を繰り返している。しかし、その無始の過去とは、この宇宙の創造・維持・破壊が数え切れないほど繰り返される以前から、という意味であって、それは全くの無始、始まりとてない、という意味ではない。
 ここが一つのポイントとなる。なぜ、一つのポイントとをるのだろうか。わたしたちは、無始の過去といわれる有限の、あるスタート地点から輪廻転生を繰り返してきている。それは三グナ、そして真我のダイナミックなぶつかり合い、ダイナミックな経験によってスタートしてるわけだが、そこから一生二生三生と数え切れないほどの輪廻転生を繰り返してきてるわけである。そしてその一生ごとに、わたしたちは新しい経験、つまり新しい善業と悪業を積み続けてきている。そして今ここにいる「わたし」と呼ばれる、身体の構成、感覚の構成、イメージの構成、そしてデータの構成、識別の構成という五つのカテゴリーに分類できる情報の集積としての「わたし」が存在してるわけである。
 そしてこの「わたし」は、けがれが強いがゆえに、生じ、滅すると。この「生じ、滅する」というのは、大きな分類と小さな分類とに分けることができる。その大きな分類とは、要するにこの肉体が、精子と卵子の結合から始まって、出産、そして成長、死、というわかりやすい構成によって形成されていると。では小さな無常とは何かと、小さな構成とは何かというと、ま、君たちもよく知ってのとおり、わたしたちのこの肉体の細胞は約、三年間で入れ替わってしまうと。つまり、三年前のわたしと今のわたしとは、全く別の例えばこの肉体を形成してると。同じように感覚についてもそうだし、あるいはイメージについてもそうだし、あるいは経験についてもそうだし、そして識別についてもそうであると。それは先程わたしが述べた、すべてのものは有限である、という考え方に立脚している。では、この有限であるという発想、有限であるという考え方は、何を示唆するのだろうかと。
 例えば、ここにクンダリニー・ヨーガの成就者がいたと。このクンダリニー・ヨーガの成就者は、今までの修行によって、ある程度のカルマを落とし、ナーディーを浄化し、そして神秘的な力を得たと。しかし彼には、この「カルマが有限である」という発想に立つことができなかったと。この「カルマが有限である」という発想に立つことができないがゆえに、成就後、新しいカルマを積んだと。つまり、「もうわたしは成就したのだから、あとは、惰性によって生きればいいんだ」と。つまり、不放逸を放棄し、ザンキを放棄し、そして聖なる十支の実践を放棄し、十の徹底を放棄したと。ではこの魂はどうなるのだろうかと。この魂は前生までの、ある程度のカルマを捨断することはできたが、そこからまた新しいカルマを一つずつ積み出したと。
 ところで、一般的に北伝では、八万四千の煩悩が存在するといわれている。実際のところ、八万四千という限定的な煩悩に分類することができるかどうかは、わたしは疑問であると。つまり時代が変わり、わたしたちの煩悩の細分化が進めば、この八万四千がより大きな数へ変化して当然であると。「いや、そういうんだったらそれは、心の働きという意味で八万四千なんだ」と言うかもしれない。もしそうだとしたら、そこまで八万四千という多くの数を数える必要はなく、例えば百八つ、あるいは極端な言い方をするならば、貪・瞋・癡という三つの煩悩に分類しても、あるいは逆に、五下分結・五上分結という十個の煩悩に分類しても、それは大した問題ではない。つまり何を言いたいのかというと、八万四千以上の細分化された煩悩があると見るべきであると。一つ一つの対象によってわたしたちの心の働きは違うわけだからね。
 ここでだ。わたしが何を言いたいのかと。もし、わたしたちの煩悩を有限だと検討するならば、その煩悩の一つでも二つでも今生減らす、止滅する生き方をなした魂がいるとするならばどうだ君たち、いずれ、この煩悩はゼロになると思わないか。つまり、なぜビック、ビックニーなのかというと、なぜ向煩悩滅尽多学男なのか、あるいはなぜ向煩悩滅尽多学女なのかというと、有限の個数である煩悩に対して絶えずトライし続け、減少、煩悩の減少を試みてるからである。そして、この魂はいずれかの生において、大完全煩悩破壊するであろう。なぜならば先程述べたとおり、煩悩は有限だからである。
 しかし、一般的なヨーガのテクニックによって成就した成就者が、もし煩悩を有限と見ず、煩悩を無限と見る、あるいは、有限でもなく無限でもないと見るならば、その修行者は成就という安定した状態から、また新しいカルマを積むことにより、下向する、落下するであろう。
 ここで、次に考えなければならないことがある。それは、ここに集まっている者たち一人一人のカルマというものは、当然経験の構成によって、識別によって、イメージによって、あるいは感覚の状態によって、あるいは肉体の条件によって違うわけだから、すべて違うのである。すべて違うとは何かというと、もっとわかりやすく言うならば、カルマのいい者もいれば、カルマの悪い者もいる。心が静まり、寂静に近い者もいれば、心が動きまわり、全く寂静に到達してない者もいると。ということは、例えば極厳修行に入った場合、その極厳修行の長さは当然違ってくる。
 しかし、そこで彼はこう考える。「あの人は、三カ月で成就したと。わたしは四カ月入っててまだ成就しない」と。あるいは、「あの人は苦もなく成就したと。わたしは苦しみながらまだ成就していない」と。しかし、これは正しいだろうか。
 つまり、わたしたちは、わたしたちの過去から、あるいは過去世から、今までなしたこと、その総合評価としてこの五蘊を有してるわけである。----そうだね。ということは、個々それぞれのカルマは違うわけである。そうだね。ということは、成就の期間も違うわけである、そうだね。
(一同)はい。
 そこを認識すべきである。そして、早く煩悩を止滅するためには、先程も述べたとおり、煩悩と闘う。そして煩悩と闘ってこそ、初めてわたしたちは勝利するのである。よって真理勝者=A真理によって勝利した者なのである。
 人生は短い。わずか八十年である。しかしこの八十年も、例えば堕胎の人口、その他を考えると、人間の、日本人の平均寿命は、わずか二十数歳にしかならないと。世界の平均的寿命というのは、わずか数歳にしかならないと。こういう試算が、今オウム真理教では出ている。この悪癖の中、非法則の中に、君たちは存在し、そして最後の真理の灯明を灯すべく、わたしと共に輪廻転生してきたわけである。そして、ここから真理の法輪が逆転現象を起こし、そして非法則から法則の時代へと移行するための引き金を、君たちは引かなければならない魂である。
 しかし、このわずかに短い八十年を長いと考える、非神秘力にとらわれた者がいる。つまり、「わたしはクンダリニー・ヨーガの修行によって、三カ月努力したんだ」。あるいは、「わたしはラージャ・ヨーガの修行によって、五カ月努力したんだ」。あるいは、「わたしは、マハームドラーの修行によって、六ヵ月努力したんだ」と、「すでに修行を始め、四年が経過している、五年が経過している、六年が経過してる」と考える者がここにいたとしようと。
 しかし、わたしの感覚からいくと、八十年ですら瞬間である。とするならばこの三年、四年、六年といわれる期間は、果たして長いんだろうか、短いんだろうか、どうだ。その中で君たちが極厳修行に入って、数カ月間、あるいは、まあ一年間でもいいよ、修行したとして、それは長い期間修行したといえるだろうか、どうだ。
 わたしの言いたいことはわかるよね。じゃなぜ、ある者は長いと見、ある者は短いと見るのだろうか。----ここで考えなければならないことは、その人の精神的レベルである。そして、ヨーガや仏教では、その精神的レベルを、意識の継続、精神集中の長さで測る。ということは、短い意識状態でパッパと意識が変わる人、この人の精神レベルは高いといえるか低いといえるか、どうだ。つまり意識レベルが低ければ、修行を続けることができず、そして低い世界へと、----低いラルム(realm)へとね、輪廻転生を繰り返すことになると。ところが意識レベルが高いという条件、つまり、精神集中の長さが高いとするならば、その人はその条件を持っても、高い世界へ転生する可能性が非常に高くなると。よって、自分を測る一つのバロメーターとして、この精神集中の長さというものを、測りに使ったらよろしい。
 ところで、グルヨーガ・イニシエーションや、あるいはシャクティーパット、五大エレメント等のエンパワーメントをしたあと、意識の集中が途切れる。これは確かに、低い世界のデータを入れると精神集中の時間が短くなるんだ、ということを表わしてる一つの証明ではないかと、わたし自身考えています。わたし、そしてそこで見る、あるいはそこで行く変化身の世界は、低級霊域であったり、動物の世界であったり、地獄の世界であったりすると。これを考えると、先程述べた、時に対する人間の認識、これは最も大きな輪廻転生を測る一つのバロメーターになるとそう考えます。
 ではもう一つ。その論証に対する付け足し、補足をしよう。動物の世界、それから意識堕落天の世界、人間の世界、あるいは愛欲神の世界、神聖世界の世界を検討した場合、どうだ君たち。そこでの一つのポイントは、寿命というものがポイントになるよね、世界を測る場合。当然高い世界へ至れば、寿命は長くなる、どうかな。じゃあ、長い寿命における、例えば八十年と、まあ、そうだね、例えば、十億年という寿命における八十年と、それから、十年しか生きない場合の、八十年とではどうだ。その重きは。当然十億年における八十年は、大変短い期間であるだろうと考えるだろうし、八十年の間に、十回も転生するような生き物に輪廻転生をし続けた場合、当然それは長い期間であると考えるだろう、どうかな、それは。そして、高い世界の経験をしてる者は、時に対する頓着がないと。低い世界の経験をしてる者は、「あーわたしはこれだけ、努力したのに、これだけの期間頑張ったのに」という意識が出てくると。わかるかな。
(一同)……。
 これからもわかるとおり、時に対する認識が短いものであるとするならば、その魂の精神的質、これは大変低いものであるといえる。
 すべては無常である。しかし、この無常というのは、逆手に取るならば、すべては無常なるがゆえにわたしたちは高い世界へ転生する、あるいは解脱をする可能性があるのであると。つまりもし、すべてが常であるとするならば、わたしたちが努力をしたとして、わたしたちのこの五つのとらわれは変化しないはずである。とするならば、ここで努力することは意味がない。しかし、すべては無常なるがゆえに、わたしたちの努力したことはすべて報いられるのである。わかるかな、言ってることは。
 君たちが、今日この講話を聴いて、修行者としての自覚を持ち、そして瞬間瞬間の奮闘努力が、だれに利益をもたらすのかと。それは、自分自身に利益をもたらすんだということを意識し、そして自己の五蘊を神々へと変え、真理勝者へと変えていくことを期待し、今日の講話を終わりたいと思います。