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◆92/5/15 富士山総本部
(五大エレメントのイニシエーション後)
破戒者に対する対応

 今日の五大エレメントのエンパワーメントをして感じたことは、結論から言うと捨断の瞑想ができてない、解脱に対する喜覚支ができてない、それから、自分たちの心がけがれてることを認識してない、この三つのない=A三ない≠艪ヲに、やっぱりエネルギーが下降してると。で、その、エネルギーを下降してる人の発言が増大する。これはちょうど、動物界に人間が移行するときと同じである。つまり、このサマナの空間もそのようになってきてると。それは、自己を律し、そして聖なる道を指し示す魂がいないゆえにそうなると。
 例えば例を挙げるならば、アニメのT君、あるいはAVのT君等は批判されるべきである。徹底的に周りから非難され、「あのような向煩悩滅尽多学男にわたしたちはなりたくない」というふうに批判されるべきである。
 例えばMさんはその典型的な例で、やはり批判されるべきである。このように批判される魂が存在してはじめて、自分の優位性、そして修行に向かわなきゃなんないという自己の立場の認識というものが生まれてくる。
 それはちょうど、低温、例えば三度とか四度とかという水と、あるいは沸騰寸前の八〇度、八五度、九〇度の水とが混ざり合った場合どうなるかと。例えばその三度の水の量が多ければ、八三度の水が少なければどうなるかというと、温度は平均的に低下すると。まさに今、この富士の道場はそのような空間である。何をなせば解脱し、何をなせば悪趣へ落ちるのか。向煩悩滅尽多学男としてはどのような心構えで修行しなきゃなんないのか。
 そして例えば0君のように、出家してまだ功徳を積んでない状態で教学システムに入れてもらって役に立たない、修行しないようなサマナに対しては、どのような目で、目を向けなきゃなんないのか、等の心構えが大切である。例えば0のような魂に対しては、侮蔑、軽蔑、そして罵倒、このような対応が最も合ってる。このような対応によってのみ彼は、復活することができるであろう。なぜならば、カルマを落とす魂がいない状態で、もともと動物的要素が強いから、どんどん愚鈍になるからである。
 もちろん侮蔑、罵倒といったような態度をとると、心のけがれを向煩悩滅尽多学男が生じさせることは事実である。ではそのためには、そうならないためにはどのようにしたらいいのか。これは無視をするしかない。「もう、あいつは出家してても向煩悩滅尽多学男ではないんだ」と。このように、自分自身の今の状態と彼とは違うと。自分自身は今、マハームドラーの修行に向かって、ひたすらひたむきに歩いている向煩悩滅尽多学男であり、彼らは出家しながら修習してることは悪趣と変わらないと。そのような正確な正見解を持ってこそ初めて解脱は生じるのである。
 そして、自分の周りを見渡したとき、果たして自分の目標とする向煩悩滅尽多学男が、あるいは自分の目標とする先達であるサンガ衆がどれほど存在するのか。
 例えば、事務室の前がちょうど恋愛広場になってるような、この状況に対してどのような、心構えで対応するのか。例えば師が綺語を発したとき、それをどのような目で見るのか。このような瞬間瞬間の判断、これをなしてこそ初めて君たちは、向煩悩滅尽多学男、あるいは向煩悩滅尽多学女として解脱へ向かうことができるのである。
 大別して四つのサマナのタイプがある。その第一のサマナは、修行をよくし、戒律を守り、解脱を志向するというサマナである。これはこの中のわずか一割にも満たない。
 そして第二のタイプは、修行を行なうが、戒律を守らないってタイプである。この場合、その人のアストラル・ボディーは、上と下、両方に引っ張られることになる。
 そして第三のタイプは、修行しない代わり戒律は守ると。この場合、低め安定とか、あるいは今の現状で安定してる状態をそのバルドは形成する。つまり、来世も人間であろうと。
 そして第四のタイプは、修行せず、戒律を守らないと。これはプラーナがそのままスーッと、スヴァディスターナやムーラダーラから抜け出すと。ひたすら下に引っ張られる状況が形成される。
 これら四つのタイプの向煩悩滅尽多学男、向煩悩滅尽多学女が存在するのである。
 そして当然、第一番目の向煩悩滅尽多学男、これは尊敬されるべきである。目標とさるべきである。もちろんここでポイントになってくるのは、その尊敬の対象のパート分けが必要だということである。
 つまり、「この向煩悩滅尽多学男はよく修行すると。戒律を守ってると。しかしまだサマディには入れないと。だからそこまでの人である」と。
 「この向煩悩滅尽多学男は、修行し、戒律を守ってると。それだけではなく、サマディに入れると。しかし神通がないと。それだけの魂であると。そこまでは称賛されるべきである」と。
 「この向煩悩滅尽多学男は戒律を守り、修行をよくし、サマディに入り、神通を有してると。しかし四無量心のカケラもないと。しかし神通までは称賛されるべきである」と。
 「この向煩悩滅尽多学男は、修行をし、戒律を守り、サマディに入り、神通を有し、四無量心を有してると。しかし、最終の解脱には到達していないと。しかしそこまでは称賛されるべきである」と。
 「この向煩悩滅尽多学男は戒律を守り、修行をし、サマディに入り、神通を有し、四無量心を具足してると。そして最終の解脱をし、絶えず寂静の境地を現出してると。これは本当に尊敬されるべきである」と。
 このようなかたちで君たちの志向、----つまり、「志が向かう」と書くわけだけど----この志向をしっかりとターゲットに向けると。ターゲットに向けることによって、自分の意識もその方向に変更していくと。
 しかし君たちはそうではない。戒律を守らず、修行をしない魂が吠えると。これは「ほえる」というのは二つ字がある。一つは口へんに犬という字である。この犬の遠吠えのような「吠える」。その言葉の数に、情報の量に圧倒され、流されてしまうと。このような魂は、一のパターンから二に落ち、二のパターンから三に落ち、三のパターンから四に落ちていく。
 もう一つ、「ほえる」というのは、口へんに孔という字を書く。獅子吼の吼である。これは、グルのみがそれをなすことができる。
 君たちは、解脱に向かわなければならない。なぜならば、解脱に向かったとき、君たちはすべてのものを得るからである。
 君たちは侮蔑しなければならない。君たちは罵倒しなければならない。君たちは非難しなければならない。それは何か。それは破壊者に対して、侮蔑・罵倒・非難をしなければならないのである。しかしそれより、もう一段階ステージを上げ、「あのような魂に自分はなりたくないな」と、四無量心の心を持ち、聖哀れみの心を修習するならば、それはより大きな修行と、修行の効果を生むであろう。
 わたしが君たちにこのようにエンパワーメントをなすのは、グルの、哀れな弟子に対する哀れみである。弟子はグルに対してどのような心でそれに対応しなきゃならないのか。それは解脱へ向かい、そしてすべての衆生のために生きようと。そして今自分が落下したらどういう世界へ転生する、あるいはどういう生き方をするのかを考えようと。それをしっかり思索すべきである。いいね。
(一同)はい!
 例えば、ここにFがいる。ただ、自分の今の徳の状態もわきまえず、瞑想ステージもわきまえず、智性もわきまえず、プライドだけを有し、心にけがれをどんどん作っていく。例えば、このような魂に対しては、非難すべきである。侮蔑すべきである。そして罵倒すべきである。それができなければ無視する。それよりもより高度な対応は、四無量心の聖慈愛・聖哀れみを持つべきである。特に聖哀れみを持つべきである。彼は自分の本質を知らないがゆえに、傲慢になっていると。彼は自分の本質を知らないがゆえに、心がけがれているのに、自分は優れた者と勘違いをしていると。いいね。
(一同)……。
 このように、正見解を具足しなさい。
 ではこれは、何を意味するのかと。例えば、「わたしたちの肉体は無常である」。これは事実だ、どうだ。
(一同)はい。
 しかし、「わたしたちの肉体は喜びの対象である」と説いた者がいたとしよう。「確かに瞬間においては喜びの対象である。しかしそれは無常の上に立脚しているんだ」という法則を説く者と、そうではなくて「喜びの集積であって、結論から言うと瞬間瞬間楽しめばいいんだ」という教えを説いた者、この二人がいた場合、君たちはどちらかにつくかというのは、君たちの識別において正確にどちらかの立場に立つという判断をする必要がある。どうだ、それは?
(一部)はい。
 つまり一方を否定し、一方を肯定する必要がある。どうだ。
(一部)はい。
 それと同じである。つまり、君たちが解脱へ向かう、上流へ向かう意識を肯定するのか、あるいは三悪趣へ至る下向≠肯定するのか、それは君たちの日々瞬間瞬間の活動で決まるわけである、いいね。
(一同)はい。
 この中で下向を完全に捨断している者はほとんどいない。下向とは、単純に現世に落ちることだけではない。それは先程述べた第一のパターンから第四のパターンへと落ちていくプロセスを下向の道だと言っているんだ。わかるな?
(一同)はい。
 その第四のパターンから、次は信徒、そして凡夫、そして悪趣ということになる。いいね。
(一同)はい。
 はい、それではしっかり修行しよう。