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◆92/4/28 第二サティアン
観念を捨てよ!

 真理勝者のお説きになる法と、そして他の宗派の法との違いとは何であろうかと。これは単純に考えれば、この経験の構成の中の一つ一つの細かなデータを入れ替える修行、これをお説きになるのが真理勝者の法であり、逆に自分自身の内側、深い内側へ入っていき、そしてより深い意識状態によって、つまり連続した深い意識状態によって現象を動かすというのが一般的な宗教の考え方である。
 この二つの考え方には、大きな隔たりがある。第一のパターンは、完全に自分自身を作り替えるという作業を内在させ、第二のパターンは、自分自身の持っている要素を、いかに最大限に活用するかというところにポイントが置かれている。
 したがって、第一のパターンには、未来も存在しなければ、あるいは固定的なわたしというものが存在しない。しかし第二のパターンにおいては、未来が存在し、固定的なわたしというものが存在すると。
 この意味合いをもう少し深く検討するならば、次のように話すことができる。つまり素材を入れ替える作業、素材を一つ一つ変更し、別のものに作り替えていく作業と。これが真理勝者の法則である。反対に、素材はそのままにしておいて、その素材の周りに対する影響を強める、これが一般的宗教の道である。そして、この前者の代表的なものはテーラヴァーダであり、後者の代表的なものはタントラであると。
 ここでいうタントラというのは何かというと、秘密のマントラのことを意味している。つまり、ある呪文を唱え続けると。そしてそれによって深い意識状態に入り、深い意識状態の潜在的パワーを使うと。それによって現象を動かすわけである。
 ここでわたしたちには、例えば一般的な観念を土台とした生き方、それからそうではなく、より多くの喜びを求めようとする生き方等が存在しているとしよう。この前者は、結論からいうならば無智を背景としている。無智を背景としているがゆえに、一般的に決められた法則に対して、何の吟味も検討もせず、その法則に従うと。例えば、一流の高校、一流の大学を出て一流企業へ就職し、大金持ちになって死ぬと。あるいは名誉を得て死ぬと。これは素晴らしいことであると。
 例えばどのような形にしろ、権力を有し、そして頭角を現わし、社会的に力を持ち、そして死んでいくと。これも素晴らしいことであると。
 この二つについて検討してみよう。この前者、高校から大学、そして大学を卒業して一流企業云々ていうプロセスを歩く場合、確かにこの人はエリートとしての意識を自己の内側に持ち、その意識の修習によってプライドの成就をなすと。そしてこのプライドの成就をなしたがために、この人はそのプライドによって苦しまなきゃならないという現象が出てくると。しかしそこには目を向けないと。
 第二のパターンは一般的には、例えば名もない状態からのし上がっていくわけだから、相当いろいろ悪いことも行なうと。そして金を得たり権力を得たりして、そして金や権力によって社会を圧迫し、権力に対する貪りが生じると。そしてその権力に対する貪りと喜びの修習を繰り返すことによって、権力の喜びと同時に苦しみを経験しなきゃならないと。しかしそこには目を向けないと。
 ちょっと考えただけでも、わたしたちが一般的に、特に普通の人が求めている喜びというものの間には、これだけの考えるべき材料が存在している。しかしそれらの要素を考えず、それらの目的、例えば、エリートコースを歩く、例えば権力者になる等は、称賛さるべき対象であると。素晴らしいことであると考えてしまう。
 この観念は無智なるがゆえに、つまり現象の一つ一つを正確に思考できないがゆえに、検討できないがゆえに、分析できないがゆえに起きる哀れな結果であると。そしてこの無智と観念の両方を備えている魂が、観念に縛られて転生する世界、これが意識堕落天である。したがって大変観念的であると、この世界は。
 わたしは昨日人喰い鬼神について説いたが、人喰い鬼神は逆に徳を積めば喜びが大きいんだと、で、徳は積むと。しかし法則は実際に内在していないから、その徳は喜びとして還元され、結局低級霊域、人間、それから人喰い鬼神の三つを流転し続けることとなると。
 この二つの違いは、観念の領域の違いであるということができる。一方は宗教的要素よりも社会的通念に支配されていると。これが意識堕落天であると。もう一方は宗教的要素の低位の徳の理論に支配されていると。これが人喰い鬼神であると。
 そして、何よりも生命というものが、尊いものであると。この生命に対する、害する心こそ最も問題なんだと考え、それを実践し続ける魂、この魂は当然、今オウムの言葉だと、何だっけ、だれか覚えてないか。
……所有壷形強力生殖器妖精、か。OK、OK。まあ今日は、めんどくさいんでクンバンダですませるけども。このような形にクンバンダとして生まれると。
 では、このクンバンダの背景となっている無智は何かと。これはすべての魂は本質的に無常であると。生命も無常であるという点、ここに立脚していない考え方、これがクンバンダの欠点であるといえると。そしてそれと同時に、この現象界における生命体はすべて相克の因縁を持っていると。つまりある生命体がこの愛欲界で生き延びようとするならば、他の生命体を傷つけ、あるいは殺生することによって生きながらえなければならないという、そのような理法については理解していないと。
 例えば例を挙げるならば、ここでネズミを大切に飼ったとした場合、ネズミは当然自分より小さい生命体を捕らえ、殺してしまうと。逆に猫を大切に飼った場合、その猫は当然、ネズミ等のやっぱり生命体を傷つけ殺してしまうと。こういう動物連鎖についての意識が欠落してると。
 しかしこの生命体を大切にするという心は、当然クンバンダとしての輪廻転生をわたしたちに与えてくれると。そこでは生命の喜び、あるいは成長の喜び、あるいは繁栄の喜びといったようなものが、わたしたちに約束される。そしてこれらの例えば意識堕落天にしろ、あるいは人喰い鬼神にしろ、あるいは、所有壷形強力生殖器妖精は、先程述べたとおり、ある徳を積み、その徳を現象化させることによって、喜びの世界へ転生する。あるいは、この人間の世界において喜ぶということができると。例えば例を挙げるならば、意識堕落天の魂は大変観念的であるがゆえに、その観念の世界におけるいろいろな要素を喜びとして経験できると。例えば典型的な例でいくならば、権力であると。例えば秩序を守るという意味での役割を演じることになる。
 次に人喰い鬼神の場合、これは大いに、まあ人が食べられないようないろいろなおいしいもの等をね、貪り食えるカルマがあると。例えばクンバンダに関していうならば、これは大いに性的快楽を貪り続けることができるという要素があると。そしてもう一つ芸術的要素、この要素と絡んでくる天界がガンダッバであるが、このガンダッバについては、もう少しわたしの中での整理がついてないんで、その段階で話をしたいと思う。
 しかし、これらの第一天界の魂は、この状態で打ち止めであると。打ち止めであるとはどういうことかというと、その徳の限界、あるいは徳を漏らすカルマの限界によって、そこを流転するのである。そしてこれは、ここにいる修行者もそれぞれの要素を見れば、ああ、この人は、例えば意識堕落天から動物の世界を流転してるとか、例えばこの人は地獄から人間の世界を流転してるとか、いうことが一目瞭然となる。そして解脱へ至らない、長く修行しても解脱へ至らない場合、必ずそのどこかで引っかかりを持っているということができる。
 例えば例を挙げるならば、Nの場合、マンガはこうでなければならないと、アニメはこうでなければならないという観念が支配的である場合、その支配的意識によってプラーナは、風のエネルギーは、その引っかかってるセンターで止まり、そこから上へ向かわないと。このプラーナと、経験との関係は、昨日少し話をしたわけだが、例えば喉でエネルギーが引っかかる場合、そのプラーナは喉を通って、左の気道や右の気道や、あるいは中央の気道を昇らないがゆえに、視覚的神通は身につかないということになる。あるいは頭頂から抜け出すことができないから、化身の経験も、例えばマニプーラの変化身の経験をするかもしれないが、例えば本性身や金剛身といったような経験はできないということになる。
 あるいは例えば食い物で引っかかって、このマニプーラで引っかかってる場合、プラーナがマニプーラからアナハタに行かないがゆえに、他人の心を経験できないと。よって他心通の経験ができないということになると。
 このようなかたちで、わたしたちの能力というものは制限されるわけである。そしてこの能力の制限こそは、わたしたちの流転を決定するのである。したがって君たちは、こう証智しなければならない。すべてのわたしたちの経験、観念、考え方、これはわたしたちの最終の解脱にとっての障擬であると。障害物であると。したがってそれを捨断しようと。そして今自分が引っかかってること、例えば先程のU君の例を挙げるならば、若干マニプーラで引っかかってるわけだけど、このマニプーラの障害を解いたら必ずプラーナはアナハタ、ヴィシュッダと上がっていくはずである。より強く上がっていくはずであると。よって、今わたしが引っかかってることを捨断することは、解脱に対して大きな一歩を踏み出すことになると。
 それからTRの質問にあったとおり、それら一つ一つの変化が生じたとき、次のステージへ至ったとき、新しい心の状態が生じてくると。この新しい心の状態に対しては、断固として闘おうと。断固として闘うことによって、わたしたちは次のステージを経験できるんだと。もし断固として闘うことができなければ、わたしたちのステージは、成長しないと。発展しないと。このように考えて、修行を一歩一歩進める者は、必ずや解脱へと到達する。必ずや悟りへと到達する。
 じゃ、それは何によって表現できるんだと。いやそれは、ストレスに対する耐える力によって表現できると。あるいは周りに対する影響力によって表現できると。あるいは集中の時間によって測ることができると。
 面白い例がある。例えばわたしは供物の修法を、一日二時間とか三時間とか行なうわけだが、これは普通の場合ね、大変その供物の修法の時間が長く感じるときがあると。例えば同じことを行なって時間の経過は変わらないのに、意識において大変長く感じると。このような場合自分は集中してると感じてたとしても、その集中の時間は短いと。しかし逆に、時の流れが大変悪く感じる場合があると。このとき途中に雑念がわいてきてるとしても、実際は集中してる時間は長いと。
 これを正確に考えるならば、このような表現をすればね、君たち理解できるはずである。例えば一時間という枠組みがあると。それを意識において、例えば五時間ぐらいの長さに感じたと。その中の例えば五分の一、自分は徹底的集中できたんだと感じたとして、果たしてこれは何分に相当するか、たった十二分であると。しかしこの同じ一時間を、意識の時間においては、十分とか十五分にしか感じなかったと。その中の半分ぐらい集中できたとしたら、それは三十分の集中に当たると。このようなかたちで意識における時間と、現象界の刻まれてる時間との間には大きなズレがある。したがって単純に自己の認識している集中というものが、当てにならないことを認識しなきゃならない。
 はい、今日わたしの言いたかったこと。それはまず第一に、君たちの持っているいろいろな観念を捨てなさいと。そしてその観念を捨て去ることにより、それから自分自身の引っかかってるものと対決することにより、引っかかってる観念と対決することにより、プラーナは確実にもう一段階上に上がりますよと。もう一段階上に上がることによって、君たちは新しい体験をすることができるんだよって。そしてその体験も、できるだけ引っかからないで、早く通過するように努めなさいよと。
 そのためには、ね、今日は話さなかったけども、多くの教学が必要である。そしてあらゆる角度で、絶えず自分の引っかかりについて検討する訓練をするならば、より早く悟り・解脱へと到達するであろう。
 はい、それでは今日の講話終わり。