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◆92/4/27 第二サティアン
真理に基づく修行と潜在意識へ入る修行/言葉について

 君たちは、コンピューターのソフトという言葉を知ってるだろうか。もちろん教学システムの入門を終わった段階で、君たちはコンピューターを扱うわけだから、それについては当然知ってるはずである。そしてこのコンピューターの例えばフロッピーにいくつかのソフトが乗っかっていると。それは一つの場合もあるし、あるいは多くの場合もあるし、あるいは逆にそのコンピューター本体を動かすだけのソフトしか乗っかっておらず、それに自由に書き込める場合もあると。
 ここでわたしたちは、考えなければならないことがある。例えばこのコンピューターに、コンピューターゲームが乗っかっているソフトがあったとしようと。そしてそれを動かす、例えばコンピューター本体だね、ディスプレイとか、あるいはそのコンピューターのハード部分とか、キーボード等があったとしましょうと。そしてこれが君たちであると。
 これが君たちであるとは、どういうことかと。君たちのデータの中には、高い世界へ至る情報が入っていないと。そして、それがコンピューターゲームのように、自分でソフトを開発していくのではなく、与えられたソフトをそのまま使い、そのゲームどおりの人生を送ると。これが君たちである。例えば君たちが言葉として使う、イメージとは、あるいは君たちが言葉で使う、喜びとは、あるいは君たちが言葉で使う、幸福とは、このようなすべての言葉の定義は、それは人生ゲームのキーワードにすぎないと。そしてその中で、その人生ゲームの中で最高のもの、例えば大金持ちになったり、出世したり、名誉を得たりすること、これをもって、勝利者と呼んでると。
 しかしだ。もう一段階別の角度から考えるならば、このコンピューターゲームを作り出した制作者が当然存在するはずである。その制作者は、このコンピューターゲームの意味合いというものを深く理解している。深く理解してるとはどういうことか。それは、このソフトは一部であると。つまりほかに思考のパターンは存在してると。しかしそれを組み入れるためには、より大変になると。何が大変なのかと。それはそこからの発展が大変になると。じゃ何の発展が大変なのかと。それはそのコンピューターのソフトゲームを使う人たちにない情報を大量に放り込まなければならないがゆえに、大変になるんだと。そして一般的には、このコンピューターゲームでみんな満足してると。それでいいんだと。
 そしてここに二つのパートの魂が存在する。その第一のパートの魂は、聖者である。聖者とはこのコンピューターのソフトをまず検討すると。そしてこれが魂の流れ、あるいはわたしたちが時を使うという、その条件から考えると、このソフトのとおりに生きていたのでは意味がないと。このソフトを楽しんでいたのでは意味がないということを考えるグループであると。第二のグループはそうではなく、このソフトをいかにうまく活用し、そしてそのソフトの最高点をあげるというグループに分かれると。
 そしてこれらは両方ともある意味での勝利者になることができる。前者はそのソフトを解析し、そして理解し、それ以上のより大きな、スケールの大きいソフトを、自分の今までの経験に応じて、あるいは自分の今までの知識に応じて作り替えることができると。しかしこの場合、そのコンピューターゲームの、いろいろ組み替える場合にはキーワード等があるわけだが、そのキーワード等を知っていなければ、それをいったん止め、作り替えることは難しいと。
 第二のパターンはいたって簡単で、その一つ一つのプロセスのポイントポイントをしっかり押さえ、そして選択を誤らないと。つまり少ない選択支の中から、より利益になるものを選択して、正しく進むと。しかしこの場合、そのソフトに従って進むイコール、最後は死を意味してると。死とは何かというと、意識の断絶である。したがって後者は短い間、ゲーム中における勝利者とはいえるが、本質的には勝利者とはいえない。
 ところで、修行者にも二つのタイプがいる。その一つのタイプは真理に基づいた修行者である。それから第二のタイプは、真理に基づかない修行者である。そして第一のタイプは、最終的に偉大なる大乗の道に入り、タントラヤーナ、ヴァジラヤーナの教えをしっかりと自分の内側に体現し、そしてテーラヴァーダ全体の教えを自分自身が経験し、すべての仏典、すべての教義、すべての真理の教えに完全に精通すると。そしてその教えの実体を世界によって把握し、衆生済度に立ち上がると。このパターンは、この愛欲の世界の王となり、そして愛欲の世界を超え、形状界の王となり、形状界を超え、非形状界の王となると。
 もう一つのパターンがある。このもう一つのパターンは、人喰い鬼神へ転生する道である。この人喰い鬼神の転生のパターンは、大変修行が好きであると。大変行が好きであると。ここでいわれる行というのは、しっかりと定義しておかなければならない。それは潜在意識へ入る、あるいは深い意識へ入る、タントラ的修行であると考えるべきである。しかしここで考えなければならないことは、その行そのものは、わたしたちの深い意識へ到達することができるから、この現象界を動かすことはできると。より偉大なより大きな力を得ることはできると。しかし、真理のデータは根づいてないから、善業にしろ悪業にしろ大きな形で返ってくると。つまり、記憶修習のない状態で深い意識へ到達し、自己の煩悩の増大、これを現象化させると。ま、これは俗にいうところの願望成就をよく行なう人たちのパターンである。
 もちろん修行をやらない、真理のデータを根づかせないという人は論外である。これは、たとえ真理の流れに入ったと言葉では言ってたとしても、三悪趣を流転するであろう。したがってここでわたしたちが考えなければならないことは、何を法則として根づかせるのか、そして、何を法則として思索するのか、そしてその思索は、次にどのような思索の原因となり条件となるのか、ということをしっかり押さえながら行なうべきである。
 例えば。先程Y君の質問、皮膚がぼろぼろにむけて一皮むけた感じがすると。これは地元素の浄化でしょうかと。こういう質問が出たと。ここでわたしは、このように考える。「Y君は、『創世期経』読んでないなと。『創世期経』をしっかりと読むならば、何が理解できるんだろうかと。それはわたしたちの意識の堕落と同時に、わたしたちには粗雑なものが身につくと言われてる」と。実際問題として、煩悩を修習している人たちのそばに行くと、皮膚がかゆくなったり、あるいは、皮庸にできものができたりすると。これはまさに、粗雑なものが身につくという表現とぴったりであると。
 逆に意識が浄化されるとどうなるかというと、当然粗雑な皮等がはがれて当然であると。これによって経典の正当性をわたしたちは体験的に経験することができる。つまり経典を深く普段から読み込んでいるならば、わたしたちは多くのことを知ることができるのである。しかしそれを単に読み物として、あるいは劇として読んでるなら、わたしたちは利益を得ることはできない。
 次に。一番初めの話、コンピューターの話に戻そう。当然そこにはキーとなるワードが存在してると。例えば教学、例えば記憶修習、例えば極厳修行、この三つのワードが、ね、新しいソフト、新しいゲーム、解脱ゲームに登場したとしよう。ここでこう考える。「教学=B教学とは、入門から上級へ至る教えを記憶し、とどめることである」と。ところが、意識レベルの高い者は、教学イコール入門から上級までの教えを記憶する、だけではなく、その記憶したものを土台とし、自分の人生を振り返る材料とするべきものであると。
 この前者と後者はどのように違うんだろうかと。前者は死んだデータを有している、オウム返しの教えしか説けない魂となる。後者は真理の教えをしっかりと理解し、自己の利益にすることのできる魂ということになる。つまりわたしたちが通常何も考えないで、共通語として使ってる教学という意味には、単純に分けてもこの二つのパターンがあるのである。
 第二番目の記憶修習≠ノついて検討してみよう。この記憶修習、これは「ただ単に、読むこと、あるいはただ単に記憶すること、暗記である」と考える人がいるかもしれない。後者はそうじゃなく、「雑念を払いのけ、ひたすらそのデータを入れ続けることである」と考えるかもしれない。もちろん正答は後者である。つまり浮いてくる雑念を無視し、しっかりと声を出し、記憶し続けると。そしてその記憶したものをもとに、思考に反映する、思索に反映させるまで発展させる、これが記憶修習であると。
 では、第三のパターンの極厳修行≠ニは何であろうかと。ある人はこう考える。「極厳修行とは、ワークをやめ、そして座って、苦しいことを行なう修行である」と。ある人は、「極厳修行とは、とにかく記憶修習を中心とした、瞑想に没頭すると。そして、今自分が達成できる集中力をできるだけ長く維持し、いかに自分自身のポテンシャルを増大させ、それを現象化させるかの修行である」と。
 例えば例を挙げるならば、グルがこの第二サティアンにいるときは、一日六時間修行できると。しかしいなくなると途端に三時間、二時間と落ちていくと。この落ちていくプロセスをいかに止め、この三時間から四時間、五時間、六時間と増大させていくプロセスを経験できるかどうか、それを行なう修行こそが極厳修行であると。そして最終的には、二十四時間フルに記憶修習し、そして究竟によってその記憶修習したデータを、わたしたちが経験すると。そこまで達成して、初めてこの極厳修行の意味があるんだと考えると。
 このような意識の持ち主は、いかなる悪条件であろうと、必ず精神の集中力を増大させ、そして思考の幅を広げ、自分自身の器を広げるということになる。
 例えば仏教に天眼、死生智という言葉がある。この死生智は、各チァクラの引っかかりを見るという意味ではない。天眼といわれてるとおり、イダー、ピンガラのプラーナが、完全にアージュニァー・チァクラに集中すると。そしてスシュムナーのエネルギーがアージュニァー・チァクラに集中し崩壊すると。この段階でプラーナは、右の気道、左の気道両方を通り、そして、これはおそらくこの形をなせば、いかなる立体映像も見えるんじゃないかとわたしは考えてるわけだけど、中央のスシュムナー気道と三つが重なりあって、そしてヴィジョンを形成化すると。このヴィジョンの形成化、これこそが天耳(※天眼)であると。これ以外のものは天耳といわないと。死生智と呼ばないと。
 で、このときにはどのようなパターンで起きるのかというと、まず固定的な色の世界から、その色の世界がドットヘ変わると。そしてそのドットは、一つ一つのヴィジュアルな世界へ変わると。つまり光の粒のヴィジュアルな世界へ変わると。そしてそのヴィジュアルな粒の光の世界、その世界そのものが拡大し、そして展開を始めると。
 例えば例を挙げるならば、この死生智の段階に入ると、三六〇度、至るところにいろんなドットが見えるようになる。そのドットの色というのはそれぞれの世界を表わしてると。そして例えば、わたしたちの意識の目というのは、三六〇度、日本の仏教でもエンカクといってるわけだけどね、三六〇度のすべてを瞬間に理解する力を持っている。その理解する力によって、その一つ一つの色の変化ではなく、色がドットへ変化し、ドットがヴィジョンへ変化し、そのヴィジョンが世界を形成し、その世界が何を意味してるか、わたしたちにどのような幸と不幸を与えるか、ということを理解すると。
 では、例えばわたしがこのような体験を実際してるということは、わたしはそれを求めていたんだろうかと。例えば「わたしは死生智が欲しい!」「わたしは天眼が欲しい」と求めていたんだろうかと。そうではない。ではわたしは何を求めていたんだろうかと。わたしは三宝に対する帰依、そして衆生のすべての魂が、その三宝に対して縁を持ち、実際に救済されるべきであると、これをひたすら思念し、そしてその広がりを持たせることに尽力してるだけであると。
 よって、あるパートにおいては、それはわたしの瞑想へとつながっていくと。ではなぜかと。例えば煩悩的データが出て、ね、わたしの場合はまあ潜在意識へ即入ることできるわけだが、煩悩的データが出てそれに頼り回されてると。この状態で三宝に対して帰依したといえるのかと。そう考えると。ね。いや、これは帰依でも何でもないと。単なるわたしの煩悩であると。わたしの我見であると。だとしたら何をしなきゃなんないんだと。いや、それは当然、捨断と記憶修習であると。
 例えば疲労すると。ね。無気力になると。このとき何を考えるんだと。この疲労、あるいは無気力というものは、過去の悪業なるがゆえに今自分自身にエネルギーがないんだと。で、それをザンゲすると。ね。つまり、三宝に完全に合一してるならば、疲労が存在するはずがないと。
 例えば仕事が進まないと、ワークが進まないとしようと。そのときわたしこう考えると。「これワークが進まないのは、徳がないからだけではないと。もちろん徳がないからというのは第一条件にあると。それだけではなく、ワークに対する今のわたし自体の見解、これにけがれがあるからであると。つまり、対象に対する認識ができていないがゆえに、その検討、これができていないと。検討ができていないがゆえに精通ができていない」と。こう考えザンゲすると。そして実際に対象を理解するように努め、そして検討し、それを完全に、その世界に対して精通すると。
 例えば経済的に行きづまると。ね。これは明らかにわたしの不徳のいたすところであると。今、わたし自体がオウム真理教の活動を行なわせてるときに、必要でないことを多く行なわせてるんじゃないかと。あるいはもう一つ考えられることは、供養に値しない魂の集合体にオウム真理教はなってるんじゃないかと。オウム真理教の出家修行者がね。このように考え検討すると。
 つまり、この土台となってるものは何かというと、シヴァ大神、シヴァ大神の投影である三宝と、いかに合一するかと。いかに、三宝の実践を行なうかということがポイントになる。
 そしてこれが帰依である。これ以上の帰依は存在しない。これ以外の帰依も存在しない。これがわたしの帰依の定義である。そしてこの帰依が、わたしに六神通を与え、わたしのナーディーを浄化し、そして君たちに法則を説くことのできる立場を提供してると。
 したがってもう一度君たちは、日々使っている言葉の意味合い、これを自分自身で検討する必要がある。例えばワーク≠ニは何か。ね。ワークとは、グルに対する帰依の投影であると。つまり、ある人は目の役割を演じ、ある人は耳の役割を演じ、ある人は嗅覚の役割を演じ、ある人は舌の役割を演じ、ある人は手の役割を演じ、あるいはある人は意識の一部分を担当すると。そしてそれによってすべての衆生が、真に世界を理解するようになるために、あるいはすべての魂が、真に苦悩から解放されるための一助として、自分自身はそのワンパートを務めてるんだと。このように考えることができるならば、それはワークという言葉の定義において、正しいといえよう。
 例えば修行=Bこの修行とは、先程も述べたとおり極厳修行をもっとミニマムにしたようなね状態、つまり自己の身・口・意、この身・口・意のデータをいかに聖なるものに変えるかと、あるいはけがれが出た場合それをいかに捨断するかということ、これがなされるかどうか、なされてるかどうか、そしてそれを実際なすこと、これが修行であると。
 例えば出家修行者″。出家修行者とは、いかにデータを入れ替え、そして聖なる者へ移行するのかと。いかに自分自身を高い世界へ移行するのかと。それを目指している者、これが出家修行者であると。
 弟子=B弟子とは何かと。これは弟、子供と書くように、父親であり、あるいは兄であるグルに対してしっかりと帰依を培い、そして自己の最終の目標である解脱へと到達する道を歩く者ということになる。
 今日は君たちにわたしは、言葉について話をした。そしてその言葉が、理解されているかされていないかによって、君たちの人生にとって大きな違いが出てくると。そしてこの人生にとっての大きな違いは、君たちを大きく二つのパターンに分けると。それは、偉大なる聖者、偉大なる救世主の道を歩くのか、あるいは人喰い鬼神の道を歩くのかであると。ではなぜ人喰い鬼神と偉大なる聖者の通が対比されるのかと、修行者において。これは大変面白いところである。
 よく考えてみょう。人喰い鬼神は、自己の煩悩あるがゆえに、その徳を使い果たしてしまうわけだよね、どうだ。もちろんその人喰い鬼神は徳を積むわけだよね、どうだ。しかしこれは、エネルギーを考えたらわかるとおり、投下したエネルギーと、それから使ったエネルギーとが、ね、投下したエネルギーが多い場合は人喰い鬼神になり、投下したエネルギーが少ない場合は低級霊域へ突っ込むと。これはわかるよな。なぜならば、人喰い鬼神の、人喰い鬼神といってるぐらいだから、その本質は貧りであると。どうだ?
 ここでいう貪りとは愛著を意味してると。わかるね。ところがそうではなく、そのような自己の欲求の本質から解放され、そして衆生の済度のために立ち上がる魂、これが偉大な聖者である。いいな。

 はい、では修行者の、心構えをもう一度いくよ。一、
(修行者)喜覚支
 この意味合いは? 心に喜覚支を行なうことにより、自分自身を喜びの身体に変えていくと。そして、修行そのものに、ね、加速度をつけるということだね。いいね。
二、
(修行者)現世捨断。
 現世捨断。この意味合いは? これは何を捨断するんだ? 食。そして、眠り。そして、怠惰。ここで一つ質問しよう。現世捨断という言葉があって、例えば食に対する煩悩が出てきたと。さあどうするか。どう考えるべきだ、それについては。単純だよね。つまり煩悩が出てきたということは、現世捨断なされていないと。現世捨断なされていないということは、まずその食事、そのものを食べないぞという決意が足りないんだと考えなさい。決意が足りたら、つまり対等になったらそのあと思索をすることができる。いいね。よってここで、決意如意足を提唱する。眠りについても同じだ、これは。いいな。はい次。
三、
(修行者)不放逸。
 この不放逸とは、とにかくひたすら努力をし続けること。浮いてきた雑念をシャットアウトすること。いいね。はい次。
(修行者)沈黙の行。
 この沈黙の行は、今このような極厳修行に入ってるとき、漏らすとするならば、喉から漏れるしかないから。しかもその喉から漏れて、例えば会話とかいろいろ行なうことによって、データの入れ替えその他が起きるから、決してしゃべってはいけない、沈黙の行、いいね。はい次。
 それから、もう一つだけつけ加えておこう。この沈黙の行のメリットは、プラーナがヴィシュッダ・チァクラを通過し、アージュニァー・チァクラへと入っていくと。これによって天眼が生じるんだね。つまり仏教的な見地からいくならば、天眼が生じないと経験できない神通というのがたくさんあるわけだよ。例えば光が見えない、ヴィジョンが見えない、変化身が抜け出さないというのは、だいたい、ね、喉で詰まってるかアナハタで詰まってるか、あるいはマニプーラで詰まってるか、まあ現在ではよく、チャンドラ、スーリヤで詰まってるかと。あるいはスヴァディスターナで詰まってるかと。
 で、だいたい君たちはスヴァディスターナは通過するけど、このマニプーラから上の通過が弱いというのはそれを使ってる証拠である。そこを記憶修習するがゆえに、そこに詰まりが出てきて、プラーナが流れないと。プラーナが流れないがゆえに、光から上の体験ができないという現象が起きている。いいね。はい次。
五、
(修行者)奮闘努力。
 これについては、今日の話にもあったとおり、二正勤二正断の実践、いいね。はい次。
(修行者)……。
 ん? 聞こえない。
(修行者)ザンキ。
 うん。これは、必ず修行していろんな体験が生じる。ね。そしてそのときに、決して慢に陥らない。いいね。慢に陥らないで、絶えず下座の精進、一歩下がった心の状態で、上を欲求することにより、高い意識状態を経験できるんだと。いいね。はい。次は?
(修行者)証智・捨断・現証・修習。
 うん。これはもう、説明する必要はないね。はい次。
(修行者)四つの静慮、十七形状界。
 これは、君たちが解脱する上における、三界とそれから五蘊との関係だったよね。はい次は。ん? 次は?
(質問者)正学。
 そうだな。とにかく解脱に対する強い欲求、これを持つということ。いいね。
 さあ、意識を暗くしないで、自分たちは神々に至る道を歩いてるんだと、そして神々を超える道を歩いてるんだと、このような類い稀な徳の魂はいないと、そのように記憶修習し、しっかり頑張んなさい。いいね。