TOPorLINKFS4トップ>FS4内容

◆92/4/15 第二サティアン
五蘊の捨断と三界からの出離/四つの体験と十二の条件生起の法

 この世界は、大別して三つのカテゴリーに分けることができる。それは非形状界、形状界、そして愛欲の世界である。そして、この三つのカテゴリーの世界、これを超越すること、これがわたしたちの修行の目的である。では、なぜわたしたちはこの三つの世界に縛られているのだろうか。それは五蘊を有しているからである。
 この五蘊、つまり五つのとらわれの要素、これはまず身体が存在すると。この身体は、みんなも知ってのとおり、愛欲の世界のみに存在する身体であると。これは粗雑な五大エレメント、あるいは、四大エレメントからなっていると。ここでなぜ「あるいは」という言葉がつくのかというと、それは空、つまり、空間を認めるか認めないかの違いである。つまり、固体成分、液体成分、そして熱の成分、それから気体成分という四つの投階に「空間」、これを入れたものを五大エレメントといい、空間の働きはもともと空間なんだから関係ないと、これが四大エレメントの定義であると。この粗雑な、----そうだね、今日は五大エレメントで進めようか----五大エレメント、これがわたしたちのこの愛欲の世界での固定であると。
 では、この愛欲の世界と、愛欲の世界のこの肉体と、それから、イメージや、あるいは経験の構成、経験のとらわれ、あるいは識別とのつながり、これは何かというと、これは感覚であると。つまり、これは感覚がちょうどこの愛欲の世界とわたしたちのより深い意識とをつなぎ合わせているわけである。
 例えば例を挙げよう。わたしたちがこの肉体を有していて、感覚が完全に捨断されたとしようじゃないか。目の見えない状態、耳の聞こえない状態、あるいは、匂いのない状態、味覚のない状態、触覚のない状態と。この状態でわたしたちはこの愛欲の世界に存在しているといえるかと。これは客観的に見るならば、つまり第三者が見るならば、そこに肉体が存在しているわけだから存在しているといえると。しかし、本人の自覚、これはこの愛欲の世界からすでにに解放され、出離していることになると。よって、仏教にしろヨーガにしろ、プラティヤーハーラ、制感、感覚を制すること、これをポイントとしているわけである。
 もちろんこの感覚は肉体次元だけのものではない。これは修行が進んでくると、例えば、断水断食を四日五日六日と行なえば行なうほど、この肉体の感覚が移行し、そして、変化身、あるいは夢の世界での感覚へと移行すると。
 では、この感覚はどこまで存在するのかと。これは形状界まで存在することになると。では、それはどのように証明できるんだと。それは条件生起の法を考えればわかるじゃないかと。非神秘力ありて経験の構成ありと。経験の構成ありて識別ありと。で、この次ね、識別ありて形状・容姿と心の働きありと。このときすでにわたしたちは感覚を有していると。よって、感覚の根っこ、これは形状界、そして本質は欲界に出ているわけである。それは、形状界を通過すると、その感覚は完全に捨断されるということになる。
 では、次に表象、イメージは、これはどの世界まで影響を与えるんだと。これは当然この人間の世界の、愛欲の世界のものではない。これは形状界に存在しているわたしたちのとらわれの要素と見ることができる。
 では、次は経験の構成はどうであろうかと。経験の構成は、これは形状界、そして愛欲の世界、そして非形状界へと橋渡しをしていると。では、どのような形で橋渡しをするんだと。経験の構成は光の粒である。この光の粒が実際問題としてヴィジョン化する。そして、イメージに還元されたとき、非形状界から形状界へと移行する。そして、それが具体的な経験へと移行する段階でこの愛欲の世界へと移行するわけである。したがって、広義的に見るならば、つまり広く定義するならば、この愛欲の世界は存在し、狭義的に見るならば、つまり、狭く定義するならば、この愛欲の世界はその定義に入れる必要はないということになると。
 では、最後の識別、これはどうだと。これは本質的にわたしたちの心のデータにすぎないと。思いにすぎないと。したがって、これは非形状界に属するということができる。
 ということは、である。わたしたちがこの肉体の四大エレメント、あるいは五大エレメントから解放されると、わたしたちはこの愛欲の世界から出離できると。感覚を捨断すると、わたしたらはこの愛欲の世界と、そして形状界から出離できると。もちろん完全ではないよね。イメージがあるから、そのとき。イメージを捨断すると、わたしたちは形状界からも出離できると。経験の構成を捨断すると、非形状界の一部から出離できると。そして、形状界から完全に出離できると。最後に識別を捨断すると、わたしたちは非形状界から出離でき、完全に解脱できると。これが三界と五蘊、五つのとらわれの要素との関係である。
 では、それをシャットアウトするための道はあるのかと。当然その道は存在する。それは十二の条件生起の法を検討することによって、わたしたちはそこから出離できるのである。そして、捨断できるのである。例えば光の経験がない、これはどのように考えればいいのかと。例えば変化身の経験がない、これはどのように考えればいいのかと。例えば神通の経験がない、これはどのように考えればいいのかと。それについてこれから話をしよう。これはテーラヴァーダの、いや、真理の仏教の絶対的奥儀であると。そして、これを日々心に念じながら修行を続けることによって、あなた方は確実に楽々と達成へ至るのである。つまり成就するのである。
 まず、非神秘力ありて経験の構成ありと。これは何を意味しているのかというと、いろいろな観念の枠組み、観念の枠組みがまず規定されると、第一段階に。それによって、その人の思索の範囲というものが限定されることを意味している。そして、経験を最もよしとする考え方に移行すると。これが非神秘力ありて経験の構成ありである。
 そこで、経験の構成、今まで楽しんだ喜び、あるいは苦しみ等をヴィジョン化し、あるいは直観的に考え、経験し、識別の段階に入ると。このときわたしたちの本質、----ここでは真我と定義しよう----真我はヴィヴィッドな意識状態ではあるが、具体的本質的体験をできる状態にはない。「具体的本質的体験ができる状態にはない」とはどういうことかというと、本質そのものが体験するのではなく、ヴィジュアル的な体験をしているということである。この非神秘力から経験の構成へ至る段階で、わたしたちは光の粒からそのヴィジョン、そして世界をヴィジュアル的に経験すると。それによって、「自分自身の求めている世界はこうである」と、「自分自身の行きたい世界はこうである」という決定をなすのである。
 例えば例を挙げるならば、一つの赤紫の粒が見えると。その赤紫の粒は、闘争から自分自身がそこで出世し、そして王様になっていくというヴィジョンを見ると。あるいは、権力者へ至るというヴィジョンを見ると。そうすると、権力にとらわれていれば、「よし、俺はこのようになるんだ」という意識が生じ、ワクワクした意識が生じ、そしてその世界へと飛び込もうという決定、つまり識別が生じるのである。
 例えば、今生でたくさん恋愛漫画のけがれを読んでいる人たちはどうなるかと。これは素敵な男性女性が現われ、そこで手をつないだり、キスをしたり、ま、たまには、セックスもあるかもしれないと。そういういろんなイメージの世界が形成され、そして、そこでその対象に対して強い思いが生じ、そのような身体へと移行するのである。
 あるいは、純粋な性欲に引っかかっている者は、なまめかしい女性がそこへ登場し、そして、気づかないうちにそこに引きずり込まれ、そして、これはワクワクというより、より強い愛著によって、その世界へと引きずり込まれてしまうと。もちろんここで引きずり込まれてしまうというのは、いきなり粗雑な肉体を持つ場合もあるが、一般的には形状・容姿と心の働きを形成すると。
 例えば、食い物にとらわれている人間は、あるいは、食い物にとらわれている魂は、その状態でいろんな食い物、それが登場し、それに飛びつき、それを食らい、満足すると。もちろんここで食らい、満足するという状態というのは、まだ、実際に真我が形状・容姿を形成しているわけではないから、そのような思いが生じるのである。しかも、それは強い強い思念が生じるのである。その強い強い思念は経験によって生じるのである。よって、非神秘力ありて経験の構成ありなのである。
 そして、その強い強い思いは、「そこへ行きたい」という識別が生じる。「今の状態ではなくてそこへ行きたい」と。
 で、次の段階で何が起きるのかと。次の段階でわたしたちは幻影の身体、つまり、形状界での身体を有すると。これは四大エレメントでできているわけではない。ここでは経験は、経験をするわけだが、実体がないと。しかし、心の働きとこの身体は大変ヴィヴィッドである。大変純粋である。リアリティーであるといわれている。実際問題、断食を五日六日七日と行なったならば、必ずあなた方はこう経験するだろう。この世で食べているいろんな食べ物より、その形状界で経験している、あるいは、夢で経験している体験の方がヴィヴィツドであるという意識を持つはずである。そのような意識状態が生じ、心の要素が生じ、そして身体を有すると。そしてこのとき、わたしたちの第六感はより鋭いものとなる。なぜなら、もともと感覚器官というものはこの粗雑な世界のものではなく、もう一次元深い、つまり形状界にその本質がある要素だからである。
 そして、ここでわたしたちは、先程述べた経験の構成によるとらわれによって、そして識別によって、その対象をしっかりととらえると。しつかりととらえるとき、何を根本としてとらえるのかと。それは目、耳、鼻、舌、触覚、そして意識、の六つであると。この六つでしっかり対象をとらえ、とらえた段階で次どうなるのかと。そこで感覚が生じると。そして、このときの感覚は経験の構成のときの感覚と違い、思いと違い、具体的であると。本当にそれは自分自身が追い求めていた、自分自身が探し求めていた、「これこそわたしの求めていたものなんだ」という感覚が生じる、まず、そこで。この感覚はあなた方が、----そうだねえ、深い瞑想に人らない限り味わうことのできない感覚である。
 そして、あなた方はこの世に生まれてね、その感覚を追い求めるわけだけど、追い求めても追い求めても、その感覚には到達できないのであると。もちろん意識が深く、----例えば、解脱をした者たちと接する機会があるとするならば、それはそれと同じ感覚を経験することはできるが、それ以外はできないということである。つまり、心の本質が、----ま、これは真我でもいいわけだけども----その本質がどこに存在するかによって相手に与える、あるいは自分が感じとる感覚は違うのである。より深い部分にグサッと刺されるわけだね、要するに。
 で、この状態では、深い部分にもともといるから、そして、皮が一枚ないだけ、粗雑な肉体がないだけ、わたしたちの感覚は鋭いのであると。それによって、わたしたちは喜びと、それから、苦しみの両方を経験する。もちろんこのとき苦しみを経験したら即、そこから離れるという習性がある。瞬間的にね、消えてしまう、それは。なぜならば、このとき空間の移動は自由である。そして、追い求めているものはそこに存在すると。そして、それを経験することによって、わたしたちは渇愛が生じると。つまり、「もっと経験したい、もっと経験したい」という欲求が出てくるわけである。欲求が出ることによってとらわれが生じると。そして、「具体的な、より具体的な経験をしたい」という意識によって、この三界へと生存するわけである。
 ではだ。なぜこの教えを今日わたしが説いて、これがあなた方に利益になると言っているのかと。よく考えてみよう。
 例えばあなた方が、「光の体験をしたいと。この光はどこに存在するんだ」。上位形状界、あるいはコーザルに存在しますと。「だとするならばどうしたらいいんだ」と。まず、この肉体に対するとらわれ、これを捨断すべきですと。肉体が何であるか、しつかりと認識し捨断すべきですと。この肉体そのものは幻影であるということを認識すべきですと。その修習を行なうことによって光の体験は当然起きるはずであると。
 「じゃあ、化身はどうだ」と。これはもっと簡単ですと。つまり、この肉体から完全に意識が分離するならば、この肉体が我でないということを悟り得るならば、その記憶修習をし納得するならば、変化身は簡単に抜け出すはずですと。「じゃ、何が邪魔しているんだ」と。「邪魔しているもの、そうですねえ」と考えると。今日の話で、まず、肉体、感覚、この二つをまず捨断してみましょうと。イメージが残ると。このイメージは夢をわたしたちに経験させると。で、このイメージを捨断したら、「そうか、変化身が出てくるんだ」と。ね。「待てよ。わたしは変化身の体験がないが、わたしは小さいときから今までたくさんイメージの修習をしたんじゃないかな」。あるいは、「感覚の喜び、おいしいもの、甘いもの、あるいは、性的な快楽等にとらわれ、それを喜ぶ心があったんじゃないかな。それによって、わたしの感覚というものは鋭くなり、つまり、成算と本質とがくっつき、それを我だと思ったんじゃないかな。それによって、わたしは感覚を捨断できないんじゃないかな」等の思いが出てくるはずである。
 「じゃ、意識の連続。これはどうだ」と。いや、これはいたって簡単であると。要するに経験が幻影であり、それは自己の小さな器内で起きる経験であるということを理解できれば、つまり、この肉体、感覚、イメージ、そして経験の構成、これを捨断できれば、わたしは識別のみの世界に入ることができると。そして、この識別の思念の長さが思念不変連続師のポイントになるわけだから、もうあとはこの中で思念をし続ければ、わたしは第四段階の到達、つまり正師になれるんだと。案外簡単だなと。つまり、一つ一つをしっかりと見つめ、その対象を捨断することに心がければ、簡単に達成できるじゃないかと。
 「では、自分はどこで引っかかっているんだ」と。それは、第一段階の証智をすればいいわけだなと。例えば、食い物で引っかかっているかどうか、断水断食をやりながら修行してみると。引っかかっていれば当然そこで苦しむだろうと。あるいは、出てきたヴィジョンを見れば、何に自分が引っかかっているかよくわかるはずであると。あるいは、自分の雑念を検討すると。自分自身の心の揺らぎを検討すると。これによって自分自身が何に引っかかっているかよく理解できるはずであると。
 「じゃ次は、それを捨断すればいいんだ」と。その捨断ていうのは五つのとらわれの要素を五蘊にのっとって捨断すればいいんだと。まず身体について捨断してみようと。感覚について捨断してみようと。イメージについて捨断してみようと。経験のとらわれについて捨断してみょうと。そして、非神秘力、自己の観念の枠組みについて捨断してみようじゃないかと。これを行なえば簡単てに解脱が生じるっていうことになるよね。
 「じゃあ捨断しているか、捨断できたかどうかはどうしてわかるんだ」と。それは簡単であると。それは神通力が現われたり、あるいは、実際にそのヴィジョンが出てこなくなると。あるいは、そういう思いが出てこなくなると。つまり、解脱、部分的解脱が生じるはずであると。その部分的解脱が生じたならば、あるいは神秘的なものが生じたならば、この捨断は成功しているんだと。あるいは部分的解脱ができない、あるいはイメージや感覚等が出てくるならば、捨断はできてないんだということになるよね。
 そして、達成したものをより確定させる。これを行なうことによって、自己の修行というものが円満になるんだと。これが短期間に解脱する道であり、解脱から落ちない道であり、高い解脱をする道であり、そして、最終的にあなた方が最終解脱をする道である。しっかりと今日の教えを記憶修習しなさい。

 よし。はい最後に。一、
(修行者)喜覚支。
二、
(修行者)現世捨断。
三、
(修行者)不放逸。
四、
(修行者)沈黙の行
五、
(修行者)奮闘努力
六、
(修行者)ザンキ
 いいね。しっかり頑張るぞ。そして今日は、七として、証智・捨断・現象・修習を入れようね。で、その証智は、五蘊についての証智である。いいね。五蘊を証智することによって、捨断に行き、そして、現証でき、修習できるんだと考えましょう。いいね。
(一同)はい。
 しっかり頑張れ!