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◆92/4/13 第二サティアン
「わたしの修行の本質、それはバクティ・ヨーガである」

 君たちは近ごろわたしの態度の変化に気づいているかもしれない。それは君たちのなしていることを称賛するのではなく、否定すると。必ず近ごろそこから講話が始まるからである。
 もともとわたしにとって、称賛をすること、これは最も簡単なことである。なぜならば、ここにいる修行者はそれぞれ類い稀な徳を有し、その徳によって修行していると。ということは、その徳、それをしっかり見つめてあげて称賛すれば、それで済むからである。
 しかし、わたしは君たちのグルであると。グルというものは弟子を成長させなければならないし、成就へ導かなきゃならないし、解脱へと導かなければならないと。そして、わたしは君たちを称賛することによって、君たちの心は豊かに成長すると。これはOKだ。しかし、君たちは日ごろの生活において、自己の欠点を見つめようとしない。自己の欠点を見つめようとしない者に、欠点を指摘する者がなかったら、どうなるのかと。これは単に堕落を招くだけである。したがって、わたしは君たちを称賛することをやめようと考えた。もともとわたしの目から君たちを見ると、君たちの称賛されるべき点、これは当然のことであって、君たちの欠点をいかに改善するか、これが君たちを解脱へ導く最も早道であると。
 わたしの性格というものは作られたものである。作られたものとはどういうことかというと、それは演技によって作られたものである。本質的にはわたしの性格は存在しない。よって、厳しいフォームを形成することもできれば、優しいフォームを形成することもできる。そして君たちに、わたしは今、厳しいフォームで当たろうとし出している。
 なぜならば、君たちが、例えばクンダリニー・ヨーガの成就をすると。この成就をした段階で君たちは慢に陥り、即、落ちてしまうと。このような成就者をいくらつくったとしても、救済には役立たないし、そして、すべての魂をマハー・ニルヴァーナに入れるという偉大なるシヴァ大神の思い、すべての真理勝者方の発願が達成されないからである。大切なことは、いかなる苦境にあろうとも自己を見失うことなく、しつかりと舵をとり、そして、あなた方と縁のある人たちをしっかりとマハー・ボーディ・ニルヴァーナへと導き入れる魂、これをつくり上げていくこと、これがわたしの役割なのである。
 例えば、君たちは煩悩というものを有している。わたしは煩悩を有していないと。これはどういうことか。例えばそこに食があるとして、わたしには食べたいという欲求は生じないと。君たちは食べたいという欲求は生じると。「いや、しかし、わたしは捨断していますよ」と。そのとおりだ。捨断している。しかし、その捨断はあくまでも思念の力によって捨断しているわけであって、その思念がなくなった段階で、その煩悩に対して動かないという保証はどこにもない、----どころではなく、必ず動くと。
 これは今までわたしがいろいろな成就者に対して、いろいろな課題を与え、テストし、そして、どの程度の心の成熟がこの瞑想を行なえば達成できるんだろうかと、どの程度の煩悩に対してこの弟子は動くんだろうかと、見てきた結果だ。結論から言うと、どの弟子も必ず動くと。しかも、それは現世的なものに対して必ず動くというデータが出ている。ということは、そこを指摘し続け、そこに対して完全に厭逆をさせ、そして、無意識のうちに思念がそこに内在し、その煩悩を捨断するような傾向をつくらしてあげない限り、その弟子はわたしの存在がなくなった段階で、今まで積んだ功徳を現世的、煩悩的な方向へと向かい、そして、堕落してしまう。これはマハー・ケイマにしろ、ヤソーダラーにしろ、マイトレーヤにしろ、マンジュシュリーにしろ同じだ。それぞれの引っかかりは、まだ克服していないと。
 しかし、君たちは盲目である。当然彼らは君たちより煩悩が弱い。ステージが高い。霊性が高い。君たちはそれに対して尊敬をすると。尊敬をすることによって、彼らのいい要素のエンパワーメント、つまり、いい要素のプリント、これはこれとして達成されるが、悪い要素のエンパワーメント、それも受けると。そして、結局放逸になり、愚鈍になり、修行に対して欲求することなく、現世を修習し、堕落してしまうと。今日わたしが話していること、これはわたしの怒りであって、シヴァ大神の怒りであって、すべての真理勝者方の怒りである。ましていわんや、それよりステージの低い者たち、このステージの低い者たちに心が向かった瞬間、どのような結果を招くか、それは目に見えている。
 では、こういう疑問が出てくるであろう。「そうはいってもマハー・ケイマにしろ、ヤソーダラーにしろ、マイトレーヤにしろ、マンジュシュリーにしろ、それは尊師に思念をしてると。尊師に対して思念をしているからじゃないか」と。つまり、それは尊師のカルマを投影したにすぎないんではないかという疑問である。これについては否である。
 否とは何か。もともとわたしの修行形態の根本は、完全なるdevote、完全なる献身、完全なる奉仕を中心としたバクティ・ヨーガである。バクティ・ヨーガとは何かというと、例えば真理勝者がそこに存在するならば、その真理勝者と合一する。もちろん、その根本であるシヴァ大神と合一する。これがわたしの修行の課題である。
 合一とは何かと。それはわたし個人のデータを完全に止滅し、シヴァ大神や、あるいはすべての真理勝者方と完全に一つになると。そのものになりきると。これがわたしの修行課題である。当然この修行課題は、三千大千世界、つまり十億宇宙のただ一つの魂、この魂の状態に自己を完璧な形でプリントするっていうことが目的になるわけだから、簡単なものではない。そこで生じるものは自己のけがれ、この自己のけがれがあるとき、その対象にプリントすることはできないのである。
 そして、わたしはそれを止滅するための修行として、君たちもよく知っているジュニアーナ・ヨーガを使ったりあるいは、ラージャ・ヨーガを使ったりしているわけだ。つまり、わたしの思念、わたしの止まっている思念はすべて生起させられ、そして、それを完全に滅尽させられると。そして、完全なクリアな形でシヴァ大神、すべての真理勝者方にプリントしていくと。それと同じようにプリントすると。これがわたしの修行である。つまり、わたしの修行の本質、それはバクティ・ヨーガなのである。
 そして、最終的には完全なる空、大いなる空、絶対なる空、これに自己を変えてしまうこと、これがわたしの修行の最後の狙いだ。もちろんわたしは最終解脱をしているが、その段階には到達していない。そして、その段階には到達していないという意味が君たちには、今理解できたであろう。つまり、わたしはまだ肉体を有している。感覚を有している。そして、例えば救済に向かうとき、当然その対象に対して心が向かうと。対象に対して心が向かうことによってけがれが生じると。けがれが生じることによって、そのプリントから遠のくと。このような逆説的矛盾の中に、わたしは身を置いているのである。
 では、なぜそれを行なう必要があるのかと。それは先程も述べた、大いなる完全なる絶対なるシヴァ大神との合一は、自己の内側に完全なるマハーヤーナ、タントラヤーナ、ヴァジラヤーナの三乗を有し、それを包含するテーラヴァーダの体系を有しない限り、合一することは不可能なのである。これは別の言い方をすれば、供養値魂から始まり世尊へと至るという十のプロセスを考えてもらえばよくわかるはずだ。なぜ阿羅漢になって、そこで修行が終わらないんだという質問と同じである、これは。
 しかし、弟子たちはほんの一つのヨーガ、あるいは、高々二つのヨーガしか知らない。もちろん、過去世から修行し続けている弟子たちは多い。しかし、それでも一つのヨーガ、あるいは、高々二つのヨーガである。しかも、それは先程述べた、大いなるものとの合一、その準備段階のヨーガである。
 わたしが今日君たちにこの法を説き明かそうと考えた理由は、例えば、O。成就するために一週間の断水断食を敢行すると。このような強い意志を有する弟子が現われ出したからである。強い意志を有する弟子が現われ出したら、グルは何を与えるのか。より高いもの、より崇高なもの、よりピュアなものを与えることとなる。そして、その思念を、その意志の強さをそちらの方向へ向けさせると。
 オウム真理教の修行体系がいかに複雑なものであり、そして、最終地点がいかに速いものであるかということは理解していただけただろう。そして、それと同時に、仏典になぜいろんな阿羅漢が登場し、いろんな各段階のステージがあったのかも理解していただけたはずである。しかし、サキャ神賢の修行はジュニアーナ・ヨーガではなかったのかと君たちは考えるかもしれない。確かにサキャ神賢は弟子にジュニアーナ・ヨーガを説いたと。しかし、そのジュニアーナ・ヨーガを説いた理由はなぜだろうかと。それは最も早く煩悩を破壊することができたからであると。
 では、煩悩を破壊するといっても、それは完全止滅の状態で破壊できたのだろうかと。それは否であると。じゃなぜ否と言えるんだと。例えば、それは大完全煩悩破壊経を見ればわかるじゃないかと。五百の比丘衆の中で、当然その中に阿羅漢もたくさんいたにかかわらず、サキャ神賢の状態を理解できたのはアヌルッダ大聖者だけであると。聖者アヌルッダ向煩悩滅尽多学男だけであると。神の世界を見ることのできたアーナンダも見誤ったと。ましていわんや、他の者たちは見誤ったと。ね。
 実はロシアで、わたしがいろんなロシアの要人と会ってエネルギーが下降し、そして苦戦しているときに、わたしのおなかの上に三人の聖者が登場なさったと。その中心は大聖者ケーマー向煩悩滅尽多学女、そして、向かって左側は大聖者アヌルッダ向煩悩滅尽多学男と、右側は大聖者アーナンダ向煩悩滅尽多学男であった。そのとき、わたしに法則を説いたのはアヌルッダであった。そして、「寂静の修行をなさらないと大変ですよ」と。わたしはそのとき考えた。オウム真理教の修行そのものは善、徳の修行が中心であると。もちろんわたしは寂静へ至る道を知っていると。そして、寂静へ至る道をしっかりと固めないと、今後大きな活動をする上において、シヴァ大神やすべての真理勝者方の祝福が降りてこないんだなと考えた。それからわたしの瞑想の時間は二倍三倍と延びたと。
 わたしは修行の途上、サーリプッタのアドバイスを受けたり、今いったとおり、ケーマー、アヌルッダ、アーナンダ等のアドバイスを受けたり、ま、いろいろなアドバイスを受ける。では、なぜここにいるわたしだけがそれを受けることができるのかと。君たちはどう思うか、それについては。それはわたしが未来仏マイトレーヤとして降誕するとき、----どうだ、君たちは今から二千五百年ちょい前に説かれたサキャ神賢の教えと違うもの、違う法を説くと思うか。当然それを土台とし、そして、その時代の時の長さからいったら、それを根本として百倍ぐらいの教えを説くこととなるだろう。ということは、サキャ神賢の弟子たちはわたしに対して法則を説き明かす必要性があるわけだ。これはわかるか、君たちは。それと同時に、わたしが彼らと対話をするということは、彼らのわたしが仲間であることを意味している。これもわかるか。
 しかし君たちは、君たちのアストラルにグルが何度登場するか。そして、登場して何をなすんだ。つまり、君たちは君たちのアストラルにけがれ多き情報を有する魂は登場しても、グルも登場しないと。あるいは、登場したとしても少ないと。このような状況で高い世界と完全にパイプができたといえるか、どうだ。
 真理の実践において大切な要素が二つある。その第一は不放逸である。第二は慚愧であると。よく考えてみよう。高々七年、十年で達成できるような教えしか存在しないとするならば、たくさんの成就者が出て当然である。どうだ、これは。そして、慚愧ではなく、不放逸のみでいけるはずである。どうだ、それは。
 慚愧ということは、まず、自分の持っているもの、これをけがれと見、そして、そのけがれを捨断し、クリアにし、そして、そのクリアな状態に君たちが求めているシヴァ大神、あるいは、真理勝者方のプリントをドッとすると。----ではないのか、どうだ。もし君たちがけがれていて、プリントができると思うか、どうだ。プリントされたプリントは必ず別のものとなるだろう。そうだな。
 そして、君たちは今道を歩いてる。道の指し示し方には二つある。一つは称賛だ。一つは批判だ。そして、わたしはこれから君たちを批判したいと考えている。これはわたしの愛である。これはわたしの哀れみである。
 よく、「なぜ哀れみの方が愛より高いんだ」と言われる。君たちの成長を願い、わたしが称賛すると。これはどうだ、愛か哀れみか。これは当然愛だな。しかし、君たちが成長できないとき、どうしようもなく、それに対して悲しみ、そして、その悲しみによって君たちを批判すると。「君たちの今のステージはこうなんだ」と。「君たちがいくら自惚れても、大したまだステージじゃないんだ」と。「もっと上を見なさい」と。これは愛か哀れみか、どっちだ。つまり、哀れみの方がより深いわけだ。そして、わたしは君たちに哀れみを垂れるときが来たと考えている。
 しっかりと自己を確立しなさい。そして、いかなる状況になろうとも、例えばグルのエネルギーがそこに存在しないとしても、外的ものに対して、外的な情報に対して一切影響を受けない、そのような自己を確立しなさい。それを行なうためには不放逸、慚愧、いいね。
(一同)はい。
 そして、多くのヨーガが存在するのは、そのヨーガの一つ一つが意味のあることであるという理解をしなさい。いいね。
(一同)はい。
 その一つのヨーガでは決して達成し得ないんだと理解しなさい。いいね。
(一同)はい。
 君たちが今日この講話を聞いて自己のけがれに気づき、成長することをシヴァ大神、すべての真理勝者方と共に祈りたいと思います。

(尊師)はい、修行者の第一は。
(修行者)喜覚支。
(尊師)第二は。
(修行者)現世捨断。
(尊師)第三は。
(修行者)不放逸。
(尊師)第四は。
(修行者)沈黙の行。
(尊師)第五は。
(修行者)奮闘努力。
(尊師)第六は。
(修行者)‥‥‥。
(尊師)今日、出たよね。慚愧だ。いいね。
(一同)はい。

 いいか、まだ集中が足りない。それはデータにけがれがあるからだ。いいな。だからしっかり集中するようにしなさい。いいね。
 最後に。今修行している、この修行はだれのための修行だ。そして君たちを修行によって、いろんな体験はないと言いながらもいろんな意識を経験し出してるはずだ。どうだ、それは。そして修行者の、修行してるときの意識が、崇高な意識であることは理解できるはずだ。どうだそれは。一般の凡夫の生活の愚鈍さと違うはずだ。どうだ。これは、例えば信徒が、----まあ、ある信徒が邪淫をして、恋人と一カ月間付き合ったわけだけど別れたと。その理由は何かというと単純なことで、その生活のさなか、どんどん愛著と同時に堕落した意識が出てくるのがわかったと。信徒でもそういう経験をしてると。ましていわんや君たちが、日々のワークにおいてそういう経験をしているならば、極厳修行に入ったとき全力でぶつかれるはずだ。そうだな。
 だれのための修行か、それは自己のための修行である。そして修行にはいろいろな形態の修行がある。それは、そのいろいろな形態の修行は、それぞれ一パートを演じるにすぎない。そう考えなさい。いいね。全力で頑張れ。