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◆92/4/12 第二サティアン
聖と悪魔の大別----煩悩の修習は動物に任せておけ----
ここに二つの種があると。一つの種はよく肥えた土地にまかれ、そして適当な雨が降ると。この種は当然芽を出し、そして花や木々に変化していくであろう。逆に、ここに種があり、その種はコンクリートの上に置かれ、そして日干しにされていると。この種はある段階までは種としての機能を持つが、それを過ぎると種の性質を完全に失ってしまうだろう。これが因と条件である。そして、結果である。
わたしたちが毒々しい三悪趣の五つの愛欲のとらわれから離脱し、聖なる魂へと移行する、この段階にも当然、因があり、条件があり、結果があると。いくら囚を内在していたとしても、----例えば、この因というのは、前生からのわたしとの深い縁であったり、あるいは、類い稀な、もともと奮闘努力をする素質であったり、このような因が存在していたとしても、条件に恵まれなければ、決して結果を得ることはないのである。
では、その条件とは何かと。それは聖と、そして、悪魔との大別をしっかり行なうことである。この聖と悪魔との大別を行なう者は、必ず二極のどちらかに自分を置こうとする。例えば、「この現世が好きなのよ」と。「煩悩が好きなのよ」と。「感覚の喜びが好きなのよ」という人は、悪魔の側に立つことになるだろうし、あるいは、「そのようなものは無常である」と。「苦である」と。「よって、通常の煩悩的な思考、煩悩的な会話、あるいは煩悩的な思考をするような法友あるいは法の先輩、このような者はすべてわたしにとっての天敵である。わたしが解脱をし、悟るための天敵である」という認識を持つことのできる者は、その因と条件によって、高い成就、高い悟りという果報を与えられるであろう。
わたしが敬愛申し上げている大聖者サーリプッタの言葉に、このような言葉がある。「心というものは無常であると。以前どのようなよき心を持っている人でも、今そのよき心を持っているかどうかわからないと。だから、決して心にとらわれてはならないんだ」と。
しかし、君たちは教学ができてないがゆえに、瞑想ができてないがゆえに、対象をしっかりと把握する力がないがゆえに、そのような迷妄に引きずり込まれてしまう。それは君たちの心が弱いからであり、君たちの心がけがれているからである。このけがれを肯定しようとも、あるいは放っとこうとも、そのけがれは必ずや増大する。
では、そのけがれを減少する方法はあるのだろうかと。当然それは存在していると。では、それは何だと。それは日々三宝を根本とし、自己を確立するようにすることであると。そして、言葉についても、----これは自己の言葉、他人の言葉についてもそうだけどね----絶えず神経を集中し、精神を集中し、そして、この言葉が自己のどの部分に反応しているのか、例えば、それは現世的な部分を増大させようとしているのか、あるいは、聖なる部分を増大させようとしているのかをしっかりと認識すべきである。このような認識に立ったならば、そして、このような見解に立ったならば、必ずその魂は自己に不利益なことから遠離し、離貪し、そして解脱へ向かうのである。
しかし、もし例えば、現世的な甘さ、現世的な欲望が寸分でもあり、その寸分の欲望を刺激されて喜ぶ、つまり、喜貪する心が存在するとするならば、その魂は決して悪趣からの流転、これを避けることはできない。
偉大なる真理勝者であり、偉大なる世尊であられたサキャ神賢のお説きになった六つの神通力が存在している。それは君たちも知っているとおり、変化身・天耳・他心・宿命・死生智・漏尽という六つだ。しかし、この六つの神通力を君たちはまだ確立していない。少しの神通力、少しの超能力は有しているかもしれない。しかし、そのようなものは自在に使えるわけではないわけだから、ほとんど役に立たない。
では、なぜ役に立たないような神通力しか有することができないのかと。それは、先程も述べたとおり、煩悩に対して喜貪しているからである。悪魔に対して喜貪しているからである。対象を認識することに対して価値を見いだしていないからである。
これは内側に存在し、外側に存在している。内側の存在とは何か。それは君たちの価値観であると。外側の存在とは何か。それは君たちの友である。
この内側の存在、これはわたしを喜ばせてくれるものである。これはわたしを楽しませてくれるものである。過去において、これはわたしを楽しませてくれた。過去において、これはわたしを幸せにしてくれた。このような思いが君たちに生じ、それを追い求める限り、君たちの本質、君たちの本質は決して悪魔から解放されないのである。
この友人は、この先輩は形状−容姿がいい。あの人は美しい。あの人はハンサムである。あの人は頭がいい。あの人は賢い。あの人は権力がある。あの人は魅力的である。このような思い、この友に対する思いが君たちにある限り、君たちは決して解脱をしない。
君たちが求めなければならないものはただ一つである。それは三宝である。自己をこの苦悩から完全に解放し、五つのとらわれの要素から完全に解放し、下位に結びつける五つのきずなから完全に自己を解放してくれるもの、上位に結びつける五つのきずなから完全に自己を解放してくれるもの、これのみに帰依をすべきである。そして、それを与えることができる者、それはわたししかいない。
しかし、君たちはそこら辺を歩いている野良犬と同じように、動物と同じように、「あの人の形状−容姿はいい。あの人はスタイルがいい。あの人はハンサムである。あの人は面白い」、このような意識を持ち続けている。そのようなものは動物に任しておけばよろしい。あるいは、平凡な魂に任しておけばよろしいのである。
君たちが思念しなければならないものは、いかにして早く解脱をするか、いかにして早くこの身から解放されるか、いかにして早くこの感覚から解放されるか、いかにして早く自己を苦しめる心から解放されるか、そして、自己を縛りつけている観念から解放されるかである。
しかし、君たちはそこら辺を歩いている猫や犬と同じように、あるいは、新宿を徘徊している普通の人と同じように、「あの人の形状・容姿はいい。この人はスタイルがいい。この人は足が長い。あの人は頭がいい。あの人は仕事ができる。あの人は権力を有している」等々の煩悩的思考によって、つまり、悪魔の有する武器の思考によって、自己を見失っているのである。
これは極端な例ではない。これを極厳修行に当てはめてみよう。君たちがワークに戻りたいと考えるとき、それは今の修行がつらいからであると。「一般の仕事だったら俺はできるぞ」という意識が生じる。しかし、このとき「俺は仕事ができるぞ」という意識は、紛れもなく、修行者として叩きのめされた意識が、ワークによってプライドを満足させ、自己を確立したいと考える意識から生じる意識である。
あるいは、「俺は修行する。俺は断食の修行を行なっているんだ」というプライドの反面、心の中は毎日「食いたい、食いたい、食いたい」と修習すると。それによって、ある段階から心の思念が強くなり、そして、例えば、断食をやめ、一気に貪ると。これは昨年の終わりぐらいから、サマナにぽつぽつと出てきている現象だけどね。
例えば、この典型的な二つの例をとってみても、これは明らかに、本質的な教えが内在していないがために、本質的な三宝に対する帰依がないがために生じる苦しみである。もともと修行というものは、君たちの煩悩を減少させるためのもの、そして、止滅するためのものである。ポイントはただそれ一つである。煩悩を鎮め、そして、よりグルとの合一、三宝との合一を行なう、これのみが修行の課題であって、それ以外に修行の課題は存在しない。
しかし、君たちは自己の思いこみの、例えば、修行によって、逆に煩悩を増大させる。あるいは、思いこみの考え方によって、逆に自己を堕落さしてしまうと。それがオウム真理教の実態である。
君たちが解脱をすること、それは決して難しくはない。先程も述べたグルとの合一、三宝に対する完全なる帰依、これを君たちがなすならば、君たちは速やかに解脱の境地へと至り、六つの神通力を有するであろう。
しかし、君たちが形状・容姿にとらわれ、味覚にとらわれ、観念にとらわれ、権力にとらわれ、名誉にとらわれ、そして卑屈を修習する限り、そこに解脱は存在しない。いかにわたしが君たちに多くの加行を与えたとしても、例えば、一日六時間、この修行をしなさいと加行を与えたとしても、君たちが残り十八時間、何を修習しているかによってすべては決まるのである。せっかくここでの極厳修行を達成した者が外へ出ると、神秘性が失われると。それは典型的な例である。この極厳修行で得たものが、なぜワークという功徳を積んでいる君たちの今の状況で、極厳修行で得た状態から落下しなきゃならないのかと考えたら、これは大きな矛盾だ。つまり、君たちは日々修行しているはずである。君たちは日々自己を確定しているはずである。君たちは日々自己の解脱に向かっているはずである。その君たちが、なぜ極厳修行のときのステージをワークに出たときにキープすることができないんだと。それは君たちの意識が、先程も述べたとおり、形状・容姿、知性、味覚、あるいは匂い、観念、あるいは触覚といったようなものにとらわれているからである。これはちょうど条件生起の法における、真我が落下するプロセスとそっくりである。ここで漬したものが落下するのは当然であろう。どうだそれは。
何をなさなければならないのか。それは捨断である。何を修習しなければならないのか。それはグル、三宝である。これ以外のものは全く無価値である。それを心して、今日これから瞬間瞬間、全力で修行しなさい。そして、瞬間瞬間にわいてくるその他の想念はすべて悪魔のささやきであると、そう思念しなさい。いいね。