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◆92/4/11 第二サティアン
二つの信と五根五力----解脱の道と大乗仏典

 自己の解脱の道、それとマハーヤーナの仏典の間には大きな隔たりがある。この、自己の解脱の道とマハーヤーナの仏典の隔たりは何なのか、ということをわたしたちが知ることにより、今わたしたちが歩いている自己の解脱、悟り、そして衆生の済度という道が、いかに正しい教えであるかを君たちは理解することができよう。
 ここにダイヤモンドが一個あったとしよう。このダイヤモンドを紙粘土で包むと。そして、紙粘土が固まったら、次は紐でグルグルにすると。そして、紐でグルグルにしたら、次に皮を巻きつけて縫い上げると。そして、それを土にまみれさしたとしようじゃないか。自己の悟り、解脱の道、これとマハーヤーナの仏典の違い、これは結論からいうと、「あなた方はダイヤモンドである」といきなり指し示す教え、これがマハーヤーナであると。
 そうではなく、「あなた方は土によってけがされているんだ」と、「よって、まず土を洗い落としましょう」と。次に、「あなた方は皮によって覆い隠されているんだ」と、「よってその皮を切り、その皮をはずしましょう」と。次に「あなた方は紐でぐるぐる巻きにされているんだから、その紐を取り払いましょう」と。そして、最後に「あなた方は紙粘土を慎重に取り払うならば、そこにあなた方はダイヤモンドを見い出すことができる」と。これがオウム真理教の教えである。そして、すべての衆生にその教えを浸透させ、個々がダイヤモンドを実際に見ることができるようにすると。これがオウム真理教の教えなのである。そして、これが偉大なる真理勝者、世尊、サキャ神賢、あるいは、ヴィパッシー真理勝者、ディーパンカラ仏等の偉大なるグルが登場したとき、説き示す教えなのである。
 では、大乗の仏典、この大乗の仏典になぜ問題があるんだと。例えば、みんなも知ってのとおり法華経、あるいは、代表的な教えでは阿弥陀経等があるわけだが、これらの教えはすべて、ボールの、あるいは土にまみれた球体の取り払い方、ダイヤモンドに至る道は説かない。「あなた方はダイヤモンドだから確信を持ちなさい」と。「あなた方はいくらけがれていてもダイヤモンドだから確信を持ちなさい」と。
 しかしだよ、どうだ、君たち。ここに二個のボールがあったとして、一個はダイヤモンドの入っていないボール、一個はダイヤモンドの入っているボールがあったとしてだよ、先程の条件で土にまみれた場合、君たちはどちらがどちらだかわかるか、どうだ。つまり、何が真実なのか、何が真実じゃないのかわからないで、しっかり信を持ちなさいと。これが大乗の仏典の特徴なのである。
 もちろん、大乗仏典の特徴なのであると言っている意味合いは、大乗仏典の中にも崇高な教えが存在し、そして、わたしたちを多く利する経典が存在していることは間違いない。しかし、例えば維摩経のように、全くでたらめな経典が存在していることも間違いない。これらの仏典、これらの経典、これらは先程も述べたとおり、正確に現象を認識し、把握し、判断し、検討し、精通するという、そのような智慧ある魂が登場しない限り、全く無意味だということができる。なぜ無意味なのか。それは先程も述べたとおり、その経典の本質的な意味合いというものを理解することができず、実践に即さないからである。
 したがって、この信というものは二つに大別できる。一つは智慧ある信、もう一つは盲目的な信、ということができる。そして智慧ある信は、あくまでも現象をある程度理解できる魂がそこで信を生じさせる信である。盲目的な信とは、智慧なき魂がただこれをやれと言われて、それをやればいいんだと言って盲目的にやっている信であると。
 もともと信の土台には何が必要なのかというと、正しく学ぶことと、そして正しい見解の二つが必要となる。例えば先程述べた例は、正しい見解に属する考え方である。この正しい見解、この正しい見解をもし君たちが具足することができるならば、君たちは正しい信を具足したといえよう。そして、この正しい信は正しい実践、つまり正しい帰依へと移行するのである。では、この正しい帰依は何に対して正しいのかと。それは三宝であり、その三宝の象徴的な修行体系である聖なる十段階の道、これに対して正しい信を持ち、帰依を実践すべきなのである。
 しかし、いくら信があり帰依があったとしても、正見解・正思惟・正語・正行為・正生活・正奮闘・正記憶修習・正サマディと、そして正精通・正離解脱というこの十段階の道、これをわたしたちは達成することができない。そこで次にわたしたちが実践しなければならないことは正奮闘、徹底的に今の自分自身の堕落した意識と闘い、煩悩を断滅し、三悪趣から脱却し、人間として固定し、固定された人間の状態から高い世界へとジャンプすると。そして、最後は神々を超越し、絶対自由・絶対幸福・絶対歓喜の境地へ到達する、そのような心を有し、自己を鼓舞した状態、この状態で聖なる十段階の道を実践する、この段階に入っていく。つまり、より帰依を強め、そして、強めた帰依を具体的実践段階に移行すると。これが第二番目のわたしたちの修行過程なのである。
 この第二番目の修行過程、正しい奮闘、正確な奮闘、これをなしたのち、わたしたちは次のことに気づくだろう。「わたしはこれこれの煩悩を有している」と。「わたしはこれこれの善や徳を有している」と。「わたしはこれこれの心の乱れを有している」と。「わたしはこれこれの心の平安の境地を有している」と。「わたしはこれこれの世界について理解しているが、これこれの世界について理解していない」といったような思いが生じるはずである。そして、そのマイナスの面に対して徹底的に厭逆し、それを認めず、「それは自己の本質ではない」と完全に切り落とすと。
 このような意識状態、このような修行者としての心構えを持つことができるようになった段階で、わたしたちは新たな正しい記憶の修習をすべきなのである。それは「正見解とはこうである」「正思惟とはこうである」「正語とはこうである」「正行為とはこうである」「正生活とはこうである」、そして「正奮闘とはこうである」「正記憶修習とはこうである」「正サマディとはこうである」「正精通とはこうである」「正離解脱とはこうである」と。
 この、ひたすらな記憶修習によって、そして、この身が無常であり、無常を根本としているがゆえに苦であり、苦を根本としているがゆえに、それはアッタ、つまり真我ではないと。このような見解に立つ。
 わたしたちの感覚は、本質的には楽、苦を共有していると。したがって、楽を追い求めれば、苦しみも増大すると。なぜならば、この感覚の鋭さというものは同じだからであると。例えば、例を挙げるならば、カルシウムが不足するとわたしたちの感覚は鋭くなると。いろんなものに反応するようになる。それと同時に、喜びと苦しみが平衡状態で増大すると。このように理解すると。よって感覚は苦である。苦なるがゆえにわたしの真我がそこで内在する場所ではないと。このように考える。
 そして、同じような検討を心についても、つまり、以前よき心の人が、今よき心であるとは限らないと。以前悪しき心の人が、今悪しき心であるとは限らないと。以前よき心の人が、今悪しき心であるとは限らないと。以前悪しき心の人が、今よき心であるとは限らないと。何の土台もない、単なる情報から生じる心の無常の状態、この無常の状態は苦であると。このようなものにとらわれることは苦であると。苦しみであると。よって、わたしの真我がこの苦しみの中に存在することは、正しい智慧の立場から考えると意味をなさないと。このように考えると。一切の社会通念、社会的な観念、これも同じように自己を制約するもの、束縛するものであるから苦しみであると。よって、我が本体ではないと。我の本質ではないと考えると。
 このような記憶修習、これを続ける。ひたすら続ける。徹底的に続けると。これをなすうちに、わたしたちは四つの静慮へと移行する。
 そして、これらの基本的なデータの蓄積によって、現象を思索し、熟考吟味し、そして捨断し、サマディへと至ると。これがわたしたちの第四番目に達成しなければならない心構えであると。
 そしてわたしたちは、それによりこの三界を経験すると。その三界の経験という偉大なパンニャによって、偉大な智慧によって、わたしたちはすべての本質というものを理解することができる。
 例えば、悪口をなせば喉のナーディーが詰まると。例えば、殺生をなせばアパーナ気の力が強まり、足のナーディーが詰まると。例えば、偸盗をなせばサマーナ気の働きが異常となり、そして、身体を焦がし炎症を起こすと。例えば、邪淫という行為はわたしたちのアパーナ気の修習となり、そこに道をつくり、動物の発生へと至らしめると。
 このような智慧を有したとき、わたしたちは完全に、この現象界のすべては苦しみによって構成されていると、形状界のすべては苦しみによって形成されていると、非形状界のすべては苦しみによって形成されているということを理解する。そして、理解するがゆえに、この三界に対する愛著が減少する。つまり減るわけだね。愛著が減少し、最終的に止滅するがゆえに、解脱すると。ここで離解脱が生じるのだということだね。
 これらの五つの修行者としての土台、これをひたすら固め続けることによって、わたしたちは五つの修行者としての力を得ることができるようになる。その力は帰依の力、帰依の土台ができた段階で、帰依の力が生じると。帰依の力が生じた段階で、やっと次に奮闘努力、善の増大、悪の減少という努力へ着手することができると。その努力を培った結果、わたしたちは善の増大による果報を経験すると。そして、よりいっそう崇高な修行へと至り、そこで、わたしたちを正しい智慧へと導いてくれる記憶修習へとわたしたちの修行の段階は入っていくと。そして、その記憶修習の段階が確定し、完全なる記憶が確定した段階で、それが記憶修習の力となり、記憶修習の力はサマディの土台を築き上げると。サマディの土台はサマディの力をわたしたちに与えると。そして、サマディの力はわたしたちに智慧の土台を与えてくれると。智慧の土台はわたしたちに智慧の力を与えてくれると。智慧の力はわたしたちをこの三界から切り離すための、三界に対しての愛著を減少させるための土台となると。そして、愛著が完全に止滅したとき、わたしたちは離解脱するのである。これが、漢訳で五根といわれているもの、五力といわれてるものと、それから八正道との関係である。 したがって、君たちは今日これから決意をすべきである。何の決意をすべきか。それはわたしは、一瞬でも、一時でも早く解脱をするぞと。そして、その解脱はすべての衆生の、----すべての衆生とは君たちが目に入る、耳に聞こえる、匂いによって感じることのできる、味覚によって感じることのできる、触覚によって感じることのできる、意識によって感じることのできるものだけではなく、本質的に存在しているすべての魂のために、自己の解脱は存在するんだと。そして、その自己の解脱はすべての衆生を解脱させるために存在するんだと。すべての魂の苦しみを完全に全滅させるために存在するんだと。そのように決意すると。
 そして、いかなる苦しみがそこに生じようとも、あるいは、いかなる悪魔がそこに君たちに誘惑をしようとも、それに対しては一切目も向けず、ひたすら努力をし続けると。ひたすら奮闘すると。自己にとって不利益なものに対してひたすら奮闘し続けると。これを君たちは自分の内側に形成し発展させなければならない。
 そして、君たちの心の中に一つの強い思いが確定したとき、君たちは成就の一歩手前っていうことになる。例えば、0君やU君が七日間の断水断食に挑戦していると。これは素晴らしい決意であると。そして、それに対して一生懸命奮闘してると。これも素晴らしいと。そして、その思念が「水を飲みたい」という渇愛の思念ではなく、「よし、わたしはこの一週間の断水断食によって、必ず解脱の印を得るんだ」という強い思念が内側に内在し固定されるならば、それは必ず円滑な、そして円満なクンダリニーのヨーガの成就、あるいは悟りの確定へとつながることだろう。
 これが五根五力といわれてるものの実体であり、八正道の実体であり、四如意足の実体である。しつかりと全力で修行に励みなさい。
 そして、最後に、この教えこそが無限カルパの昔から、偉大なる聖者方によって続き明かされ、そして継承され続けてきたマハーヤーナ、大乗の真髄である。これ以外の大乗は存在しない。これ以上の大乗も存在しない。よく認識しなさい。