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◆92/4/10 第二サティアン
知性と智慧を向上させる現象の見方、悪魔の時・友・空間

 わたしたちは、小さいときからいろんなデータを入れられて生きてくる。例えば、「この食べ物はおいしいねえ」という母親の言葉や、あるいは「痛かったでしょう」という周りの人の言葉。この「おいしいねえ」、あるいは「おいしかったね」、あるいは「これはおいしいよ」という言葉は、その対象に対しての意味づけを規定することになる。そして、この規定はわたしたちの運命を決定する方向へと向かわせる。
 例えば、ある医者の息子がいたとして、周りの人から「あなたのお父さんは偉いね」と、「あなたのお父さんはお医者さんだから偉いね」と、「あなたもお医者さんになるのよ」、----こう言われると子供はこう考える。「わたしの父親は立派なんだ」と。「称賛をされている」と。「そして、わたしもそのような道を歩くことにより称賛をされ得るのである」と。しかし、これらの言葉と現象との関係の間には等価、つまり、イコールの関係が成立しているわけではないということを認識しなければならない。
 例えば、四四度、四五度という熱いお湯に入ると。ある人はその中に体をつけて全く熱感を感じないと。ある人はある程度の熱感は感じるが、やけどするようにはならないと。ある人はやけどするように熱く感じ、実際にやけどしてしまうと。なぜこれらの三つの現象が起きるのかと。これは感覚に対するとらわれが第一番目、第二番目、第三番目と強くなるからである。そして、感覚のとらわれは、例えばそこに血液を集中させる、血流を増大させることによって、より多くの熱を体の中に吸収し、そして、高熱を発する因となると。
 しかし、客観的に現象を見つめるならば、お湯の温度と、そして皮膚との関係にすぎない。それはAに対しても、Bに対しても、Cに対しても、つまり、前者に対しても、第二番目の者に対しても、そして、それから後者に対しても、同じ条件で成立しているはずである。しかし、実際は成立しないと。つまり、わたしたちが情報に対して、どのような立場をとるのか、例えば情報に対して批判的に見るのか、肯定的に見るのか、あるいは批判も肯定もしないで見るのか、この三つによって、わたしたちは全く別の結果を招くことになるのである。
 まず、絶えず現象に対して批判的に見る人の心の状態を見てみよう。この第一番目の、現象に対して心から批判的に見る人は、いかなる現象に対しても楽しみを見いだすことはできない。楽しみを見いだすことができないがゆえに、心が殺伐とすると。心が殺伐とするがゆえに、よりいっそう現象を批判的に見るようになると。そして、本来利益を与える現象に対してもそれを利益と見ず、不利益と見るようになる。もちろん、不利益に対して不利益と見る、これは等価といえると。
 では、第二番目の、何でもかんでも肯定的に見る人、これはどうだろうかと。ここでいう肯定的とは、対象を正確に分析し、そして、そのいい要素、あるいは反面教師的な、つまり批判の材料としての要素という意味での肯定という意味ではない。無批判に、無批評に、その現象を取り入れるということである。このパターンの人は、一般的にその瞬間その瞬間を楽しむことはできると。しかし、その瞬間その瞬間を楽しむがあまり、完全に無智に陥り、そして大きな落とし穴に陥り、結果的には人生の苦悩を味わわなければならなくなると。そして、その苦悩に没入したとき、その苦悩からはい上がる術を知らないと。
 では、第三者の情報に対して批判もせず、あるいは肯定もしない立場はどうであろうかと。これはクールな現象の見方、あるいはクールな現象に対する対応ということができる。この人は対象に対して愛着もしないかわり、嫌悪もしないと。一見、真理の実践者的に見ることができると。しかし、この人は現象から何も学び得ることがないから、この人の知性は決して発達しない。
 したがって、この第一番目から第三番目の人たちの知性、あるいは智慧というものは決して発達しないのである。
 ここで、なぜわたしが知性、あるいは智慧と言ったかについて、これから検討したい。現象に対して、例えばAという現象が生じたとき、その現象に対して、一般に権威といわれる文献を漁り、そして、その知識をもって判断すると。これはわたしたちの知性を向上させることになる。しかし、決して智慧を向上させることにはならない。
 では第二番目に、その現象に対して思索し、その思索も、例えば無常に基づいて思索をする、あるいは慈愛に基づいて思索をする、あるいは哀れみに基づいて思索する、あるいは称賛に基づいて思索する、あるいは聖無頓着に基づいて思索すると。このような訓練をしている人は、その現象を真理の法にのっとり理解することができるから、そこから現象の本質を理解し、智慧へと到達することができる。
 では、第一番目の知性を磨き上げる人、これはどうなるのかと。これは一般的に、科学者の道を歩くこととなると。第二番目の智慧を磨き上げる人、これはどうなるのかと。これは一般的に、到達真智運命魂、あるいは覚者への道を歩くこととなると。
 しかし、これらの知性の向上、あるいは智慧の発達という立揚で諸現象を見ることはなかなか難しい。なぜならば、わたしたちはすでに情報という悪魔の罠にかかり、絶えずその情報に押し流されているからである。
 では、その悪魔とは、一体どこへ存在するのかと。一体いつ存在するのかと。一体それはだれなのかということになる。その悪魔とは、紛れもなく君たちの法友である。その悪魔とは、紛れもなく、君たちの今まで修習してきた煩悩である。そして、その悪魔とは、紛れもなく、君たちがワークをしている空間なのである。
「尊師、それはおかしいですね」と。----なぜおかしいのかと----。「わたしは悪魔の罠から逃れるために、悪魔から解放されるために、出家したはずです」。----本当にそうなのかと----−。君たちは一人一人が、わたしは向煩悩滅尽多学男であると、あるいは、わたしは向煩悩滅尽多学女であるという自覚を持って出家しているのかと。瞬間瞬間、一時一時、自分自身が向煩悩滅尽多学男であり、あるいは向煩悩滅尽多学女であるという自覚を持って出家しているのかと。おそらくここに集っている者たちのすべては「NO!」と言うだろう。
 いや、例えば、今極厳修行に入っている者も一日のうち何時間詞章に集中しているんだと。それ以外何を考えているんだと。ということは、それ以外のときは悪魔に支配されているわけである。では、君たちが法友という対象とまみえたとき、何を話すんだと。いや、まさに煩悩の話であると。だとするならば、それは法友ではなくて煩友ではないかと。では、君たちの空間、一人一人が生活してる空間、この一人一人の生活してる空間に向煩悩滅尽多学男としての、あるいは向煩悩滅尽多学女としての緊迫感、集中はあるのかと。神の道を歩く、神を超える道を歩く、そのような緊張感があるのかと。当然それはあり得ないと。
 つまり、君たちの時、友、空間、すべてが悪魔なのである。そして、悪魔に支配されているがゆえに、君たちは解脱を経験できないし、君たちは悟りを経験できないし、君たちは神通を経験できないし、智慧の発達がないし、知性の発達がないのである。
 では、何をもって時とすればいいんだと。何をもって友とすればいいんだと。そして、何をもって空間とすればいいんだと。
 まず、第一の段階において、二十四時間のうち何時間、実際に真理の法則の意識状態にあるのかをチェックすべきである。そして、自分自身の意識が何パーセント真理の法則にのっとり、何パーセント悪魔の支配下にあるのかを証智すべきである。そして、証智できない時間帯については慚愧の念を持ち、しっかりとザンゲすべきである。この訓練をなすならば、君たちは悪魔の時から解放されることができる。
 そして、絶えずグルを観想し、絶えずグルと共にあると。自己の目的、自己の到達点はグルであると。そのような意識によって瞬間瞬間を全力で生きるならば、そのときは、君たちは良き友を有したこととなり、そして、その良き友は君たちの解脱、悟り、智慧の発達、知性の発達を約束するであろう。
 空間においては、どうだと。空間においては、この畳のしいてある道場という観想はやめるべきである。ここは正当な神々の住む空間であると。そして、シヴァ大神、すべての真理勝者方が絶えず存在していらっしゃる空間であると。それは自分のワークの場についても同じである。よって、決してけがしてはいけない空間であると。そして、自分自身も絶えずその空間に存在することのできる魂になるように努めようと。そう観想し、空間を絶えず清める訓練をし続けるべきである。その段階で君たちは初めて、向煩悩滅尽多学男としての、あるいは向煩悩滅尽多学女としての空間に存在することとなる。
 諸現象の見方は大変複雑である。例えば、ここにある女がいて、その女が妊娠をしたとしよう。妊娠の行為そのものは、出産というアパーナ気を使い、下の方向へ風を向ける、要するに煩悩的な、そして忌み嫌われるべき内容である。しかし、例えば子を宿した者がそこで真剣に修行し、おなかにいる魂の心の成熟を祈り、そして瞑想によってそれを引き上げることができるならば、その行為は大乗の到達真智運命魂としての行為ということになる。しかしである。この現象、妊娠という行為は客観的に見るならば、凡夫の妊娠と到達真智運命魂の妊娠とは同じであろうかと。どうだ、君たち。当然これは同じだね。しかし、その魂がどのような心の持ち方によって、そして、どのような意識によって、その妊娠をとらえるかによって全く現象が変わってくると。
 同じことがいえる。例えば、ここにある男がいたと。このある男は法友といわれる対象を殴ったと。もし法友という対象を殴らないで、その法友が悪業をなすとするならば、その殴った行為そのものは肯定されるかのように一般的には考えられている。しかしである。もしその殴って止めた背景に少しの憎しみ、あるいは少しの愛著でも存在しているならば、その行為は善の果報と悪の果報の両方を生むことになると。
 結果的に、わたしたちはこの瞬間瞬間をいかに身・口・意の動きに注意しながら、先程述べた時、法友、空間、この三つを意識して善を積み、徳を積み、寂静の法則に従い、真理の法則に従い生きるかにかかっているのである。
 すべては悪魔である。そしてより高い修行、マハーヤーナ、タントラヤーナ、ヴァジラヤーナの修行は、そのすべての悪魔を真理に導き、仏陀に変えていく作業なのである。しかし、君たちは今、まだヒナヤーナの段階である。一部マハーヤーナの修行が取り入れられているとはいえ、ヒナヤーナの段階なのである。そこをよく自覚し、そして君たちがニルヴァーナへと導く、ただ一人の友であるグル、これをしっかりと観想し、生きなさい。いいね。