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◆92/4/9 第二サティアン
借金の修行と八正道----自己の内側をマイナスからプラスヘ向ける努力
なぜオウム真理教は、多くの荒波をかいくぐり、しっかりと救済計画を押し進めることができるのだろうかと。この、「しっかりと救済計画を押し進めることができるのだろうか」という内容をもっと具体的に述べるならば、普通だったら、とっくに外的圧力によってつぶされている教団であると。しかし、そのようなものはものともせず、しっかりと着実に救済計画が行なわれていると。ここで、「しっかりと着実に救済計画が行なわれている」と言っている意味合いは、わたしの計画している救済計画が完壁なかたちで行なわれているといっていることではない。まあ一応教団として成立していると。そして、まあ一応は社会的に義務を果たしているという意味をいっているわけである。
この救済計画を果たしている背景には何が存在するのかと。それは神秘力である。神秘力とは何かと。神秘力とは煩悩を証智し、そして捨断することによって生じる偉大なる神の力、神の秘めた力ということができる。では、一体それは、だれの神の秘めた力なのかと。それは紛れもなく、ここにいるわたしのグルの神の秘めた力ということができる。
わたしの思念は、わたしの心は、どこに存在するか。それは、わたしの偉大なるグルであるシヴァ大神、そして、偉大なる教師であるすべての真理勝者方、そのみもとに存在する。そして、その証明としていろいろなかたちでの神秘的な現象が起きていると。
よし、「麻原。お前、超能力者だから、超能力者だというんなら超能力を証明しろ」と、こういうバカな質問をわたしにした人がいる。もともと神通力というものは、心の成熟によって生じる付録的な要素である。しかし、その付録が生じなければ解脱はあり得ない。そしてその付録は、自己を証智、捨断、現証、そして修習させるためのものである。これはあくまでもヒナヤーナ的な発想である。
そして、これがマハーヤーナ的になってくると、この証智は自己だけではなく、周りの者たちの煩悩に対する証智であり、苦悩に対する証智となる。そして、捨断は周りの者の煩悩に対する捨断であり、周りの者の苦しみに対する捨断ということになる。現証とは周りの者たちの心の成熟、そして周りの者たちの霊的進化ということになる。そして修習とは、周りの者たちがいかにその成就をより完成の状態へ向けるのか、そして、その完成された成就をより高い成就へと引き上げるのか、ということになる。
これらの存在が、まさにグルの力によってなされている教団、これはオウム真理教以外存在しない。しかし残念なことに、その要素はただグルにしか存在していない。では、なぜグルにしか存在していないといえるのかと。それはわたしの思念した部分のみが救済計画として結果を出し、思念しない部分は結果が出ないと。本来サマナがこれだけい、そして教えがこれだけ存在しているはずだから、それによって救済計画は確実に広大な光とならなければならない。しかし、そうなれない理由が存在している。そうなれない理由とは何かと。それは、個々の修行者が自己のけがれた煩悩を肯定するという意識状態にある。その自己のけがれた煩悩を肯定するがゆえに、自己を堕落させる煩悩を肯定するがゆえに、それを捨断できないがゆえに、自己の苦しみと葛藤するがゆえに、他を救済することができないと。
しかし、成就のときには体験するじゃないかと。よく考えてみよう。君たちの成就というのはわたしと君たちの心が混ざり合ったときに生じる現象である。つまり、Aという要素、これはプラスアルファの要素と。そして、君たちの要素が混じりあったときに、例えば、成就をゼロとするならば、ゼロというものが生起すると。つまり、数式的に言うならば、AプラスBのプラスかマイナスかわからないと。イコールゼロと。ということは、まだBはマイナスの状態であると考えなければならない。
しかし、この段階で成就者として出、そして、オウム真理教の活動は成就した段階で自由を与えられるから、その段階で自己の煩悩が生起すると。そのとき、グルやシヴァ大神や真理勝者に意識が向かわないと。思念が向かわないと。この状態でどうなるかと。Aプラスの欠落が生じると。Aプラスの欠落が生じた瞬間、Bマイナスの状態のみが存在することになる。
ではだ。このような借金経営の状態でゼロに至った君たちが、本来周りに対して大いなる祝福を与え、そして真理の道に導き入れ、少なくとも天の世界へと在家の者たちを導き入れる。あるいは、在家の者たちを出家へと導き入れなきゃならない。それだけ強大なエネルギーを君たちは使いこなすことができると思うか、どうだ。
ところが今まで、わたしがこの法を今日説くまで、だれもそれに気づかないと。これが現状である。もし、その法則に気づくならば、謙虚になるべきだし、そして日々、三宝に対する帰依、そして、三宝に対する帰依だけではなく、自己の内側をマイナスからプラスに向ける努力、これを瞬間瞬間において行なうはずである。
では、なぜ初めにAプラスという条件を与えるのかと。与えなければ、その人は自力で達成できるはずじゃないかという考え方が生じてくる。しかし、どうだ、君たち。ゼロの状態に導き入れられるときに大いなる借金をして、その状態から、またズルズルとマイナスに至る、そういう経済を有している企業家がいたとして、この状態にマイナス状態で生活しなさいと言った場合、ゼロに持ってきたり、あるいは、プラスに至ったりすることができるだろうか。どうだ----。
ここで大切なのは、君たちが、今ここの修行は借金の修行であると。そして、ここでゼロに持っていき、そしてできるだけプラスの方向で成就し、蓄え、逆の言い方をするならば、Aプラスという要素を決して放さないと。Aプラスという要素を決して自己の内側から放さないように思念し続け、それだけは絶対に忘れないぞ、と、こう考えるなら君たちの要素はどうなるだろうかと。当然君たちは出て、そしてゼロの状態から教学をし、そして信徒と相談に乗り、そして徐々にプラスに向かえるはずである。
しかし、どのサマナも、どの師も、高々ちょっと相談に乗ったぐらいで「受けた」と言って、一カ月、二カ月の間にエネルギーが落下すると。ね。しかし、そのとき彼らは何を意識しているのかと。これは極厳修行のとき培ったグルではない。あるいは極厳修行のとき培った真理相応ではない。極厳修行のとき培ったツァンダリーや大乗のイニシエーションではない。では、何を修習しているんだと。楽を求める心、あるいは食べ物、あるいは異性といった、凡夫と全く変わらないものを日々、五分、一〇分、三〇分、一時間、二時間という時をかけて記憶修習するわけだ。そして、ゼロからマイナス〇・〇〇一と、マイナス〇・〇一と、マイナス〇・一と、マイナス一と、マイナス一〇と、このような状況になるわけである。そしてそのとき、先程いったとおり、グルに対する思念が全くなされないから、そして三宝に対する思念がなされないから、そこからはい上がることはできないと。
では、なぜそうなるのかと。それは先程述べたとおり、証智というものをしっかりと日々行なわないからである。自己の要素はどういうものがあるんだろうかと。自己はどういうものに弱く、どういうものに強いんだろうかと。自己の心の状態はどういうものであろうかと。その心の状態は何を条件として生起するのかと。----このようなことを絶えず思念し続けていれば、「おやおや、おかしいぞ。自分の中に三宝と違うものが存在してきていると。これは以前成就する前にあったわたしの感情である」とかね、例えば。あるいは、「これは、極端な言い方をすれば、悪魔である」と。
わたしはよく神と対話をしたり、あるいは悪魔と対話をしたり、あるいは自分自身と対話をしたりする。なぜわたしは神、あるいは悪魔、自分自身と対話をするのかと。それは絶えず、神にとっての自己の存在、悪魔と自分との関係、そして、今の自分自身の意識の問題、これに対して最も興味を持ち、そしてそれを証智し、問題があれば即、それを瞬時に捨断しようと考えているからである。
よく、「ワークが忙しいから修行ができない」、あるいは「瞑想修行を行なっています」と言う人がいる。しかし、本当にワークが忙しいから修行できないんだろうか。あるいは、本当に瞑想修行を行なっているんだろうか。確かにある人は記憶修習を行なっているかもしれない。あるいは、ある人は蓮華座を組んで座っているかもしれない。この記憶修習については、いずれその記憶修習によって、あなた方一人一人の思索の土台となるから問題がないとして、座ってものを考えているふりをしてる人の本当の意識というのは、本当に考えているかどうかということである。わたしに言わせると、ほとんど眠りと同じである。逆の言い方をすれば、瞑想という名目のもと、煩悩の修習をしている人もいる。蓮華座を組めば、煩悩が止滅するわけではない。大切なことは、座し、何を考えるのか。座し、どのように考えるのかということである。
では、なぜそういえるのかと。例えば、ある人は正見解を具足していないと。正見解を具足していないで、蓮華座を組んで思索をしているんだと言うと。では、正見解を具足しないで何の思索をするんだろうか、とわたしは疑問を生じる。つまり熟考という言葉は、あくまでも正見解にのっとって実行すべきである。
では、それらの人々一人一人の状況を、なぜこれだけわたしが批判的に述べているのか。それは、もしサマナ生活、出家修行者生活を正しく行なっているとするならば、必ず正見解により正思惟が生じるはずである。例えば、先程出てきたDは南伝大蔵経を翻訳していると。パーリ三蔵を翻訳していると。だとするならば、仏典に何が書かれているか、ある程度理解できているはずである。であるにかかわらず、なぜ現世の記憶修習ができるんだという疑問がわたしの中へ出てくると。それは法則が内側に根づいていないからである。
あるいは、ステージの高い人たちの中で、平然とした綺語が話されると。なぜこの人たちは綺語を話せるんだろうかと疑問を持つ、わたしは。この人たちは正思惟がなされていれば、正語の実践によって綺語が捨断されるはずである。捨断されるはずなら、なぜこの人は綺語を許すんだろうと。あるいは、悪口を話す人もいると。なぜこの人は悪口を話すんだろうと。正思惟ができていれば正語は実践できるはずである。
あるいは、ある人はグルに対して反発をすると。なぜグルに対して反発するんだろうと。正思惟ができていれば、当然正語はできるはずである。あるいは、法則にのっとらない行動をなす人がいる。あるいは、日々の生活のサイクルにおいて、何を根本として生きなければならないのか、つまり、出家修行者として根本として生きなければならない立場を認識しないで生きている人がいると。
この人は不放逸の土台が崩れているんだと。この人は正学、正しく学ぶということが崩れているんだと。この人は正見解が崩れているんだと。この人は正思惟が崩れているんだと。この人は正語が崩れているんだと。この人は正行為が崩れているんだと。よって、この人は正生活が崩れているんだと。そして、この人に正奮闘努力、これをしろと言ったとして、当然できるわけがない。なぜならば、正生活が崩れているわけだから、正奮闘努力はできないのである。正奮闘努力ができない状態で----さあ、先程の問題へ戻るよ----正記憶修習ができるかという問題が出てくる。つまり、先程、わたしは瞑想修行を行なっていますと言う人の正記憶修習、これが本当の正記憶修習なのかというのは、その前の正奮闘努力、正生活、正行為、正語、正思惟、正見解、そして、正しく学ぶということ、不放逸に正しく学ぶということ、これをなされてなければ、無意味に等しいということができる。
では、このような状態でサマディに入れるんだろうか。当然それは入ることができない。それは邪なるサマディに入ると。そこで大変苦しい思いを経験しなければならない。あるいは、いくら修行してもサマディに入れないということになると。「じゃあ、わたしは不放逸もできないし、正学もできないし、正見解もできないし、正思惟もできないし、正語もできないし、正行為もできないし、正生活もできないし、正奮闘努力もできないし、正記憶修習もできないし、サマディは無理ね」と結論づける人がいるとしよう。また、このようなタイプのサマナも多いと。しかし、これはまさに無智である。
この法則の順番が指し示している内容は何かというと、もしできなければ自分のできている部分から実践しなさいと。それはまず不放逸、そして自己を絶えず見つめる目、これをしっかり持つと。その持つ目は、慚愧の念を持って、必ず持たなければならないと。この不放逸と慚愧を根本とし、正しく学ぶ。
正しく学んだら、その正しく学んだものを自己の内側に見解として具足すると。そしてわたしは今日から、今までのわたしではなく、わたしの行動パターンは、あるいは言葉のパターンは、心の持ち方は、この正学によってなそうと。これによって正見解が成立すると。そして正見解にのっとり、現象を観察すると。これにのっとり正思惟が成立する。そしてこの正思惟により、日々の言葉の使い方をどのように検討したらいいか、徹底的に検討し、正語、正行為、正生活という三つが付随してくると。
そして、これら三つを達成したならば、次の段階で、わたしたちは自分の弱い部分について目を向けなければならない。自分の今までできてない部分について目を向けなければならない。そして、弱い部分、できてない部分について対決すると。これが正奮闘努力である。
そして、心が絶対的な集中、長い時間の雑念なき集中状態へ到達したとき、わたしたちは正記憶修習を行なうことになる。この正記憶修習の基本的な考え方は、まず、四つの念処ということになる。この四つの念処の一、身についてはどういう見解を持つのかと。これは身体に対する嫌悪の修習をするわけではない。よく、「我が身これ不浄なり。不浄なるものは苦である。苦なるものは我が本体ではない」という瞑想、これはまあ基本的な瞑想といわれてるものですね。しかし、この瞑想の、この書き方が存在するがために、だれも仏教徒が解脱しなくなったというのがわたしの見解である。
では、どうしたらいいのかと。我が身を観察すると。我が身には何が存在するだろうかと。そうかと。まず一番上には髪の毛が存在しているんだと。そして、頭皮が存在しているんだと。そして、この間には多くの血管が縦横に走っていると。ね。そして頭蓋があると。このようなかたちで上から順に自分自体の身体を正確に観察する。この正確な観察によって、わたしたちは、わたしたちが喜びであるという身体が実際はそうではなく、単なる五蘊によって形成された、生理機能をわたしたちと無関係に営んでいる物質であることに気づくのである。これが四念処の我が身≠ノ対する観察である。
そして、この我が身は髪の毛にしろ、あるいは頭皮にしろ、あるいは血管にしろ、頭蓋にしろ、あるいは脳味噌にしろそうだが、すべて無常を根本としている。そして、わたしたちがこれを永遠の身体として保持したいと考えたとしても、それは不可能なんだという見解に次は到達するのである。だとするならば、次の法則が成立してぐる。この法則とは何かと。わたしたちがこの身体に愛着するならば、そして、この身体が抜群にわたしたちを楽しませてくれるものだとするならば、どうだ君たち、これからの離脱は苦しみであるか楽しみであるか。「苦しみである」ということになるのである。あるいは、この身体が、例えばわたしのように目が見えないというような状態が成立するとするならば、これまたこの身体は苦しみであるか悲しみであるかと。あるいは喜びであるかと考えたらどうだ----という見解に到達する。よって次は、この身体は苦しみであるという見解に到達するのである。
そして、この身体は苦しみなるがゆえに我所ではないと。つまり、わたしの本質ではないという見解に到達する。なぜわたしの本質ではないのかと。わたしの本質とは絶対的な自由であり、幸福であり、歓喜であるという定義が、インド仏教の底辺にずっと流れ続けている、インド宗教の底辺にずっと流れ続けている考え方だからである。そして、その絶対的な自由・幸福・歓喜を求めるために、修行者は修行するのである。
このような観察、これを同じように感覚に対して、そして心に対して、あるいは、わたしたちが今まで培ってきた観念に対して行ない続けること、これが七番目の正記憶修習ということになる。
では、この要素を達成したら、次は何を行なうんだと。この要素を達成したら、次の段階では、わたしたちがこの愛欲の世界へと転生する要素である五つの下位に結びつけるきずな、これについて日々のわたしたちの身・口・意の、行為、言葉、心の働きと対比しながら検討する。そして、上位に結びつける五つのきずな、これを検討し、捨断することにより、わたしたちは真我の独存位へと到達するのである。これが正記憶修習である。
そして、正記憶修習によってわたしたちはサマディへと至る。そして、サマディヘと至れば次は何が生じるのかと。当然それは、地獄・動物・低級霊域・人間、そして愛欲の神々、神聖世界の神々、そして非形状界の神々を経験し、マハー・ニルヴァーナへと至るのである。これらのすべての経験、これを正精通というと。
そして、マハー・ニルヴァーナこそ不死であり、マハー・ニルヴァーナこそ絶対自由であり、マハー・ニルヴァーナこそ絶対幸福である。そして、マハー・ニルヴァーナこそ絶対歓喜である、ということがわたしたちにはっきりと理解できたとき、わたしたちはこの現世のいかなる迷いの誘惑に対しても、堂々とそれを捨断することができる。そして、やっとこの状態になったとき、あなた方一人一人がグルなしに、シヴァ大神なしに、すべての真理勝者方なしに、ゼロの点へ到達したことになるのである。
わたしは君たちに今日、真理の法則のすべての概要を明かした。しっかり努力しなさい。